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第418回 普墺戦争勃発に至る経緯~ガスタイン協定後のプロイセンとオーストリアなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第417回 ベルリン三月革命から見るオットー・フォン・ビスマルクとヴィルヘルム1世

第413回の記事 より数回にわたりまして、第389回の記事 で一度テーマとしたしました、「シュレースビヒ=ホルシュタイン問題」について再度深めるための記事を作成いたしました。

第389回の記事 を作成した段階では、プロイセン(ビスマルク)が第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争にオーストリアを参戦させた段階で、オーストリアにホルシュタインをいったん獲得させた上で、オーストリアになにがしかの理由をつけて対オーストリア戦を行い、シュレースビヒ及びホルシュタイン両国を領土として取得することをあらかじめ想定していたのではないか・・・という予測を私は立てていました。

ですが、第413回の記事 以降の記事を作成した段階で、この考え方は少し変化しました。

つまり、ビスマルクはもともと領土拡大そのものを意図していたわけではなく、シュレースビヒ=ホルシュタイン両国を独立させるのであれば、自国に併合した方が後々新たなる紛争の火種とはなりにくい、と考えて同戦争に参戦したこと。

そしてプロイセンの首相であるビスマルクは、オーストリア外相であるベルンハルト・フォン・レヒベルクと考え方が近く、両者は「話し合い」を優先して政策を進めていくやり方に危機感を覚えており、それよりもまず、「プロイセン」や「オーストリア」という「独立国」がそもそもどうあるべきなのか。これを最優先に政策を進めていくべきだ、と考えていたようです。

両国以外の国々は、「プロイセン」や「オーストリア」という「虎の威」を借りることに必死になっており、プロイセンに依存したほうが有利な北ドイツと、オーストリアとも関係を持ち続けたいと考えていた南西ドイツが「小ドイツ主義」や「大ドイツ主義」といった一種の「イデオロギー」で両国を振り回していた、という感じだったのではないでしょうか。

ですから、ビスマルクも第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争以後、もしレヒベルクが外相として中心になって外交を進めていくのなら、プロイセンはプロイセンとして、オーストリアはオーストリアとして、それぞれの「国家」を維持することを中心に政策を進めていたのではないか、と私は考えています。

ですが、残念ながら第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の講和条約が締結される直前に、「ドイツ関税同盟」が原因でレヒベルクは罷免され、以降オーストリアも他のドイツ連邦諸国同様、「自由主義政策(大ドイツ主義)」を中心に政策を進めていくことになります。

ですが、この時点で既にオーストリア以外のドイツ連邦諸国はビスマルクにより、、プロイセンに依存する経済政策の在り方を赤裸々にされてしまい、結果、プロイセンと経済関係を続ける以外の選択肢をとることができずに「ドイツ関税同盟」の更新へと歩みを進めることになりました。

後にドイツは経済だけでなく、国家として統一されるわけですが、この段階でオーストリアの進むべき道は凡そ、決められていたのではないかと思われます。


普墺戦争への歩み

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結したのは1864年7月の事。レヒベルクが失脚したのは同年10月。

オーストリアにとって、両地域は自国から遠く離れており、ここを自国領土として保有しておくことにあまりメリットがありませんでした。ですが、単純に両国を手放したのではプロセンのドイツ連邦内での発言力がますます高まってしまいますので、これを防ぐ手段として、シュレースヴィヒ=ホルシュタインを「アウグステンブルク公」を盟主として独立させようとする方向に動きます。

そう。第415回の記事 におきまして、図らずもビスマルクよりオーストリアに提示された案としてアウグステンブルク公の独立案を記事にしていますね?

オーストリアにとっては、この時と同じ考え方だと思います。

また、プロイセン国内においても皇太子をはじめとしてアウグステンブルク公を支持する声は大きかったのですが、ビスマルクの本心は両国の「独立」ではなく、プロイセンへの併合にあります。

1864年6月の段階で、ビスマルクはアウグステンブルク公に対して「保守的な統治」を行うことを独立の条件として示しています。

ビスマルクは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインにおいて、ウィーン・ベルリン革命のような「民族主義革命(←民主主義ではないことに着目)」を起こし、ましてアウグステンブルク公が旗振り役となってこれを実現していくような統治体制が起こることを嫌っていたのだと思います。

これにあおられてプロイセン国内でも再び革命の機運が醸造され、武力を用いなければならないような状況に陥ったのではたまったものではありません。何せ、シュレースビヒ=ホルシュタインはプロイセンにとっての「隣国」となる可能性があるわけですから。

そして同時にこれが難しい選択だということも理解していて、だからこそ自国に併合し、同じ「統治システム」の中で両国を管理しようとしたのでしょう。


レヒベルク失脚後のビスマルク ~バート・ガスタイン協定はなぜ締結されたのか?~

第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終わった後に起きたアウグステンブルク公独立の風潮に対しても、ビスマルクは同様の態度を示します。

ビスマルク(1862年)

1865年2月にビスマルクが行った「2月宣言」。

Wikiベースになり(というより、ビスマルクについて詳細に研究しているサイトが見つからない)申し訳ないのですが、この「2月宣言」は

「形式的にアウグステンブルク公の独立公国を認めつつ、実質的にはプロイセンに併合されるも同然の軍事的支配下に置く内容」

であったのだそうです。


当然アウグステンブルク公はこれに反発しますし、オーストリアも同様にこの条件に反発します。

ポイントとして、この時点で「シュレースビヒ=ホルシュタイン両公国」はまだデンマークが主権を放棄し、プロイセン・オーストリア両国が取得した、という状況にあり、この後どのような扱い方をするのかということがまだ決まってはいません。

レヒベルク外相時代のオーストリアとしてはこの「シュレースビヒ=ホルシュタイン」が自国にメリットがあるとは感じておらず、早く手放してプロイセンに渡してしまいたい、と考えていたのです。(代わりに相応の代償地を獲得したいと考えていました)

レヒベルク失脚後、そうではなく同地を「アウグステンブルク公国」として独立させようとする方向に変わっていくのです。(プロイセンの中にもこれに賛同する声が少なくはありませんでした)

これに対抗する形でビスマルクは同地を独立させる代わりにプロイセンの軍事的支配下に置く、という宣言を行います。

そしてこれにオーストリアは反発します。この時のオーストリアは「自由主義者」たちがイニシアチブを握っていました。


モーリッツ・エステルハーツィ伯政権の誕生

ところが、1865年7月、オーストリアにおいてこれまで政権の座に就いてきた自由主義者、「シュメルリンク」が退陣。理由は、「ハンガリー問題」なのだそうです。

このあたりのオーストリアの事情を現時点で調査しようとは考えていませんが、もともと「ウィーン三月革命」がハンガリー(マジャール人)とチェコ(スラブ人)がオーストリアからの独立を求めて起こした革命であったことを考えると、それほど抵抗のある出来事ではありません。

そして、その後シュメルリンクの後を継いで誕生したのが「エステルハーツィ伯政権」。

エステルハーツィ伯とは、なんとハンガリーの大貴族なのだそうです。これについて、Wikiの記事では以下のように記されています。
エステルハーツィは封建主義的・教権主義的な保守派であり、シュメルリンクが推し進めていたドイツ人中心の中央集権化政策や大ドイツ主義政策に反対し、プロイセンとの保守的連帯を熱望していた

バート・ガスタイン協定が締結されるのは1865年8月14日。エステルハーツ政権が誕生した翌月の事です。

ただし、この時点で既に「ビスマルク」の考え方は、レヒベルクが外相であった当時の考え方とは違ってきている様子が見て取れます。

改めて「バート・ガスタイン協定」の内容を見てみます。
・プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治する。

・プロイセンはオーストリアに賠償金を支払い、ザクセン=ラウエンブルクを統治する。

・キール港をドイツ連邦の所有とし、プロイセンはその軍政・警察事務を管理する。

・レンデスブルク城はドイツ連邦の所有としプロイセンおよびオーストリアが守備兵を置くこと。

同協定締結後、ビスマルクはフランス(ナポレオン三世)と連携しようとするのですが、この時ナポレオン三世と行った会見の中で、
・バート・ガスタイン協定は暫定的なものにすぎない

・その証拠に、同協定の内容は意識的にあいまいな表現になっている

・近いうちに必ずや普墺対立が再燃することを確約する

ことに言及しています。

もちろん、これは外交交渉の上での内容なので、これがどこまでビスマルクの本心であるのかを慮ることは難しいのではないかと思います。

ですが、これを推察する上で、過去にビスマルクが行っている一つの発言を参考にすることができます。

それは、ビスマルクが行った「2月宣言」に対するオーストリアの対応を受けて、同年(1865年)5月27日にヴィルヘルム1世が行った、

 「両公国の併合は国民が求めている」

という宣言。

これを受けて、ビスマルクは「普墺戦争勃発の場合、露仏は好意的中立の立場を取るだろう」という見通しを発表しています。

もちろん、これはオーストリアに対する「威嚇」であり、どこまでが本心であるのかはまたわからないわけですが、ガスタイン条約締結後、フランス(ナポレオン三世)との協議を急いだ理由は、ヴィルヘルム1世宣言を受けて自身が行った見通しに対する「整合性」をつけるためであったのではないか、と考えられるのです。

ちなみにロシアは1853年10月16日に勃発した「クリミア戦争」において、オーストリアからの裏切りにあっており、ビスマルク発言の論拠はここにあるのではないかと、現時点では想像しています。


ビスマルクは、すなわちレヒベルクが失脚した時点で、既に対オーストリア戦争が選択肢の中にあり(もしくはその予測を行っており)、ガスタイン協定を締結したときに、もうすでにレヒベルク外相当時ほどエステルハーツィ政権のことも信用してはいなかったのではないでしょうか?


普墺戦争勃発に向けた経緯を考察する

シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 において、日本が米国との間における「開戦」を選択肢、もしくは「最悪の想定」の中に入れながらも同時に米国との間で「日米諒解案」修正交渉を行い続けたことを記事にしました。

「開戦」を将来に向けた選択肢の中に加えていることと、実際に「開戦」を行うこととは必ずしもイコールではありません。

ですが、「最悪の事態」が発生した時のために備えをしておくこともまた、国家を運営するリーダーの役割の一つだと思います。

この後、実際にオーストリアはガスタイン協定を締結しているにも関わらず、プロイセンではなく、プロイセン以外のドイツ連邦諸国と近づこうとし始めます。

そして、1866年1月23日、ホルシュタイン公国内にあるアルトナで、『オーストリア政府の許可を受けて』アウグステンブルク公派の集会が開催されました。

これは、オーストリアがアウグステンブルク公の下でホルシュタイン公国を独立させようとする動きだと、ビスマルクの目には映ったことと思います。そもそもビスマルクがレヒベルクと協定しようと考えていたのは、「反革命連合」の結成です。

そう。このような独立に向けた機運が醸造されることを封じることを目的としていたわけです。

ですから、このようなオーストリアの行為はビスマルクにとってはオーストリアからの「裏切り」であり、ビスマルクはこれを「ガスタイン協定を撤回させようとする運動へのオーストリア当局の加担」だと批判しました。

そしてさらに 「オーストリアがそれを止めないなら『あらゆる政策』を辞さない旨」をオーストリア側に伝達します。

オーストリアはこれに対し、『皇帝出席の下に開催された閣議』 において 『プロイセンに一切の譲歩を行わないこと』 を決定してしまいます。

第389回の記事 では、普墺開戦に向けた動きを、

オーストリアが管理するホルシュタインでオーストリアとプロイセンの分割統治に反対する集会が開催されたことを、ビスマルクは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン領」の分割統治を普墺間で取り決めた「ガスタイン条約」に違反しているとし、一方的にホルシュタインの統治権をプロセインに譲渡するようオーストリアに対して迫った、ということです。

と、このように記しましたが、ここに記した

 『一方的にホルシュタインの統治権をプロセインに譲渡するようオーストリアに対して迫った』

という記述は、どうも、必ずしも「正しい」とは言えないようです。

オーストリアは、同集会を 『バート・ガスタイン協定に違反している』 ことを認識した上で、あえて開催した、という表現のほうが正しいのではないでしょうか。

そして、尚且つこれに対するプロイセンからのクレームを一方的に拒否。つまり、プロイセンに対し、普墺開戦となるようけしかけたのはプロイセンではなく、オーストリアであったと考えることができます。

ただ、オーストリア側からしてみれば、ガスタイン協定締結後、フランスとの連携を急ぎ、かつ会見にて「近いうちに必ずや普墺対立が再燃することを確約する」とまでビスマルクが発言しているわけですから、「先にけしかけたのはプロイセンだ」と主張するでしょうけれども。

ただし、この時点でビスマルクのこのような発言が実際にオーストリアに対して、どこまで伝わっていたのかは現在の私にはまだわかりません。ビスマルクほどの人物が、そのような会見において、わざわざオーストリアをけしかけるような発言を、オーストリアにも届くような形で行うことは考えにくいため、この部分は資料さえ整うのなら、改めて調査してみたい部分です。


この後、プロイセンにおいてヴィルヘルム1世の御前で行われた会議において、「対墺開戦不可避」との認識が、皇太子を除く参加者全員から示されることとなります。

この後、同会議において、ビスマルクは以下のように語ったのだそうです。
プロイセンこそが旧ドイツ帝国の廃墟の中から生まれ出た唯一の生存能力を持った政治的創造物である。プロイセンがドイツの頂点に立つ権利を有しているのはそのためである。

しかるにオーストリアはプロイセンに嫉妬し、プロイセンの努力を昔から妨害してきた。指導能力などないくせにドイツ指導権をプロイセンに渡すまいとしてきた。

ドイツ連邦はフランスからドイツ国土を防衛するために結成されたにすぎない存在だった。真に民族的な意味を持ったことなど一度もなかった。

連邦をそうした方向へ向かわせようとするプロイセンの試みは全てオーストリアによって潰されてきた。

1848年はプロイセンにとってチャンスの年であった。もし当時プロイセンが演説ではなく剣でもって運動を指導していたならば恐らくはもっと良い結果が達成できていただろう。

さて。ここでいう「そうした方向」とは、すなわち「真に民族的な意味を持つ方向」のことを言っているものと思われます。

そう。ビスマルクはここにきて初めて「打倒オーストリア」と「ドイツ民族の統一」について言及するのです。

ここに記している内容の中に、私がこのブログにて記してきた内容と一部異なると感じられる部分があるようにも感じられますが、これはあくまでも会議への参加者を納得させるための演説であり、記されている内容が、すべてそのままビスマルクの本心であるとそっくり受け止める必要はないと思います。

少なくともビスマルクはレヒベルクが失脚する前と後とで考え方を変えていますし(正確には自身の中にあるいくつかの選択肢のうち、異なる選択を行った)、彼自身は1848年当初より「ドイツ民族の統一」にはこだわっていなかったと思います。

後、「ドイツ関税同盟」という手段によって「ドイツ」を統合させようとする動きをことごとくオーストリアに邪魔されてきたことを「根に持って」きたのはビスマルクも同様でしょうし、オーストリアに翻弄されて右往左往する他のドイツ連邦諸国のことも苦々しく思ってきたと思います。

何よりも、プロイセンのこれまでの動きから推測するに、ビスマルクの頭にあったのは民族としての統合よりもむしろ「経済的な統合」を早く行いたかったのではないか、と。確かにオーストリアさえいなければ、これはとっくの昔に出来上がっているはずなんですよね。

最終的にはオーストリアを武力によって叩き潰す以外に方法はない、とも思っていたのではないかと。

そして、1848年のベルリン革命が、民衆によって起こされたものではなく、武力を威嚇する手段として利用しながらも、政府が主導して行われていたのだとすれば、もっと異なる形が生まれていたのではないか、と。ただし、これはビスマルクにとっても「結果論」でしかないのでしょうけれども。


例えるなら、蒋介石北伐時代の中国において、南京の日本軍居留区に赤化された一部の中国国民党軍(第19軍)が押し寄せ、50名を超える日本人(以外にも欧州人も多数)が非常に凄惨な方法で殺害され、30名を超える女性が少女に至るまで凌辱されても政府が全く動かず(南京事件(1929年)、結果として被害者こそ日本人12名、凌辱2名と南京事件ほどではないにせよ、南京事件以上に凄惨な方法で日本人が殺害された済南事件 を引き起こし、いい加減政府に対する鬱憤がたまりにたまりまくっていた陸軍が政府の意向を全く無視して気持ちいいくらい国民党軍を叩き潰した 満州事変 の様な感じでしょうか。

ビスマルクの動き方って、結構第二次世界大戦開戦前の日本軍の動きを思い起こさせるんですよね。もちろんいい意味で。

このシリーズ を書き始めた当初は、プロイセンに対して私、決して良い印象は抱いていなかったんですが。

さて。次回はいよいよ「普墺戦争」そのものの経緯とその後のドイツへ向けて記事を進めていく予定です。

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