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第416回 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で連合した普墺が分裂した経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第415回 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とビスマルクのプロイセン
前回の記事では、前々回の記事 に引き続き、第389回の記事 で話題にした「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」を掘り下げる形で記事にしました。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は2度あり、この2度の戦争は、「ビスマルク」という人物が存在するのかしないのかという、たった一つの理由で、全く異なる性格の戦争となりました。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争はプロイセンがオーストリア以外のドイツ連邦と組んでデンマークに挑んだ戦争だったのですが、結果的にオーストリアを含む第三国の介入を受け、「現状維持」を確約させられ、プロイセンは事実上デンマークに敗北することとなりました。

ところが、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、プロイセンは逆にドイツ連邦諸国とは協力せず、オーストリアとの2国間で連携し、またプロイセン=外交力によってデンマークに勝利したのです。


「自由主義」と「ナショナリズム」

余談になりますが、この頃のドイツのことを調べていると、「自由主義」という言葉をよく目にします。。

ここでいう「自由」とは、英語で考えると「フリーダム」のことではなく、「リバティ」のこと。

「フリーダム」と「リバティ」の、ではどこが違うのかと申しますと、「フリーダム」とは一般的な、広義での「自由」のこと。一方の「リバティ」とは、「様々な戦いや運動を通じて勝ち取った自由」のことです。

第60回の記事 におきまして、「ナポレオンが果たした役割」として、「自由主義」と「ナショナリズム(国民主義)」をヨーロッパ全土に拡大したことをあげました。

ここでいう「自由主義」とは、すなわち「フランス」という国に住む人たちが、「フランス革命」という革命で、あまりにも残酷な方法で大量の人の命を犠牲にして手に入れた「自由」のことです。「リバティ主義」=「リベラル」のことです。

ところが、ここ(すなわちビスマルクが登場した当時のドイツの時代)にきて、どうもそれぞれ、「自由主義」と「ナショナリズム」の意味が、当初の意味とは変質しているように思います。


「ナショナリズム」の変質

「ナショナリズム」とは、すでに388回の記事 でも記しましたが、「国民主義」ではなく、「民族主義」に。

つまり、ヨーロッパ各国の「国」とは、実際には異民族によって支配されているケースがほとんどで、そこに住む「国民」も、必ずしも同一民族を意味するものではありません。

ですが、1848年のフランス第二革命を通じてドイツに広がった「民族主義」とは、ドイツ人がゲルマン語を話す民族としてまとまり、「支配民族」からドイツという国を取り戻す。こういった意味合いに変質してしまっています。

さらにオーストリア(ウィーン)においては、ドイツ民族よりもむしろ「マジャール人(ハンガリー人)」や「スラブ人(チェコ人)」という、オーストリア国内に内在する異民族が、支配民族であるハプスブルク家に対してクーデターを起こしているわけです。

一方のデンマークでは、「汎スカンジナビア主義」の下、デンマーク人を統合しようとし、その結果勃発したのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」。ここでは両国に居住するドイツ人が、両国の統合と独立を求めて武装蜂起を行ったわけです。

この時の「ナショナリズム」とは、すでに「国民主義」という一つの国に居住する「市民」が、「貴族」に対して独立を求める運動ではなく、「市民」などというざっくりとした何かではなく、「〇〇人」という、「言語」や「血筋」を根拠とした「民族」がまとまって独立をしたり、統合を目指したりする動きへと変質しています。


「自由主義」の変質

さて。すでに述べていますように、もともと「自由主義(リベラル)」とは、「フランス革命」を通じて、「第三身分」に位置付けられていた「市民」が、「貴族」から大量の犠牲を出して手に入れたものです。

ですが、この時の「市民」の中に、「労働者」や「資本家」といった区別はありませんでしたね?

実はこれ、シリーズ、「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。 ドイツにおける「自由主義」 を通じて私が結局たどり着けなかった答えでもあるのです。

では、「フランス革命」当時と、ビスマルクが登場当時の「ドイツ」とで、一体何が違うのでしょうか?

これを明確に示すキーワードが「産業革命」です。


「産業革命」とは何か?


参考元としては、こちらのブログ

MONEY PLUS なぜ産業革命はイギリスから始まったのか
↑がとても分かりやすかったし、納得できる内容でしたので、こちらを参考にしながら記事を進めてみます。

「産業革命」はイギリスで最も早く発生しました。では、「産業革命」とはそもそも一体何なのでしょうか?


産業革命が起きるまでの経過

まず前提条件として、イギリスでは、どうも「市民」とやらが権力者から「権利」を手に入れるまでに、フランスで起きたような凄惨な「革命」は起きていないようです。

この記事はそもそもイギリスの内情を深堀することを目的としていませんので、ざっくりとした結論だけ記しますと、

・イギリスでは、貴族や土地の所有者、小作人の関係性が他国ほど悪くなく、お互いが連携して生産性を求める仕組み作りを行う下地が無理なく出来上がった。

というところでしょうか。ですので、他国と比較しても小作人の生活は裕福で、下っ端であるはずの小作人が、「消費者」となりえたのです。

産業革命も、結果的にこのように、労働に対してその「生産性」と「効率化」を求めるイギリス人の国民性が巻き起こしたものでした。


産業革命とフランス二月革命

ところが、フランスではもともとイギリスのような国民気質がありませんから、イギリスから流入した産業革命の影響が、いわゆる「一般国民」たちの賃金に反映されることはありませんでした。

その恩恵にあずかることができたのは「富裕層」に限られており、ここで富裕層と一般国民との間に「貧富の差」=「格差」が生まれ、これがフランス第二革命へとつながりました。

フランス第二革命とは、フランスの一般国民が、フランス政府に対してこの「格差解消」を求めて起こしたクーデターだったわけです。

共産主義の祖ともいえる「カール=マルクス」が登場し、「共産党宣言」を発表するのも、まさしくフランス二月革命が勃発した1848年。まさにその年ですね。


「産業革命」と「自由主義」

話題をドイツに戻します。

ここでいう「自由主義」という言葉に対して、ビスマルクは以下のような演説を行っています。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。

バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。

プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。

ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される

ビスマルク

これは、ビスマルクが首相となる直前に行った演説で、彼が「鉄血宰相」と呼ばれる所以ともなった演説です。

この演説の中で、ビスマルクはプロイセンの国境問題は武力によって解決すべきだ、演説しているわけですが、実はこの演説、プロイセンの言葉をそのまま額面通りに受け取るべきではないのではないかと考えています。

例えば、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題 に関して、ビスマルクは最終的に「武力」を用いてデンマークを制圧しているわけですが、それ以外の局面においては「武力」をちらつかせ、半ば脅しにも利用しながらも、局面全体は「外交」によって解決しています。

演説の中でビスマルクは「バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン」、つまりオーストリアよりの「大ドイツ主義」をとる南西ドイツの面々を名指しし、諸国の政策を「自由主義政策」として「揶揄」しています。

演説そのものはプロイセン国内の「自由主義者」たちを威圧するために行われたものですが、様々なネット上の記述を見ていると、ビスマルクが最後に述べている「現在の問題」について、「統一ドイツ問題」と記しているサイトをよく見かけます。

ですが、どうもビスマルクの動き方を見ていると、彼は必ずしも「統一ドイツ」という考え方に前向きではなかったのではないか、思うのです。

というのも、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争において、ビスマルクがオーストリアと連携した際、オーストリア側の中心人物であった外相ベルンハルト・フォン・レヒベルク。

関税同盟をめぐる駆け引きにおいては対立し、最終的にビスマルクはバイエルンやウュルテンベルク、ダルムシュタット、ナッサオをも諦めさせ、オーストリアを除くドイツ諸国の「関税同盟」を更新するわけですが、「国境問題」に関しては近い考え方を持っていました。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題で振り返ってみると、ビスマルクは両国を独立させることではなく、自国に統合することを考えていました。

理由は、両国を独立させると、他の関税同盟諸国がそうであるように、プロイセンの政策に対して異を唱え、自国の考え方にプロイセンを譲歩させようと動き出すことを嫌ったからです。

つまり、「自由主義」的な政策をとらせたくなかったからです。彼が考えていた「自由主義的な政策」とは、まさしく彼が演説で述べているように、「演説や多数決によって」決める政策のことを言っています。


ドイツの抱える特有の問題

ドイツには、他のヨーロッパ諸国であるフランスも、イギリスも、デンマークですら抱えていない問題があります。

それは、「ドイツ連邦」という領土の中に、統治機構が全く異なる多数の国々が、同等の「権利」を有しながら、同時に存在していながら、それぞれの国が単に同じ系統の言葉を話すというあやふやな「民族意識」で連携し、一つの国であるかのようにふるまっているという問題です。

では、プロイセンにとっての「ナショナリズム」とは、「プロイセン人」としての民族意識なのでしょうか。それとも「ドイツ人」としての民族意識なのでしょうか?

ビスマルクにとっての「民族意識」とは、間違いなく前者です。彼にとって、自分がドイツ人であるかどうかなどどうでもよく、要は「プロイセン人」の国家である「プロイセン」に、他の領邦国家が従うのか従わないのか。ただそれだけであったのではないでしょうか。

ですから、ビスマルクはドイツ領邦を、「ドイツ」として統一させるのではなく、おそらく「プロイセン」に統合させる形で統一を進めようとしていたのではないか・・・と私は思うのです。

そういった意味でオーストリア外相であるレヒベルクはとても考え方が近く、だからこそシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に関してお互いに連合して戦争に臨むことができたのではないでしょうか。

ですから、1864年の関税同盟の更新において、ビスマルクはレヒベルクが失脚することがないよう、できるだけレヒベルクに歩み寄った交渉を進めようと画策したのですが、他の経済学者たちによってこれは阻止され、オーストリアに一切譲歩する形のないまま関税同盟は更新されました。

ここからは私の推測ですが、もし仮に、レヒベルクが失脚することなく、そのまま外相であり続けたのであれば、ビスマルクはドイツを「ドイツ人国家」として統合することは考えなかったでしょうし、この後に勃発する「普墺戦争」も起きなかったのではないでしょうか?

現時点で私はこの後のドイツがどのような道を進むのか、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第350回の記事、及び第351回の記事 で記した以上の内容は知りません。

次回記事では、いよいよ普墺戦争勃発に向けて記事を進めてみたいと思います。

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