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第415回 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とビスマルクのプロイセンなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第414回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をドイツ関税同盟と比較してみる
前回の記事では、「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について記事にしてみました。

ポイントを押さえますと、

・この時点ではまだビスマルクは首相の座にはついていない

・オーストリアはこの戦争には参加していない

・同戦争は「フランス二月革命」の影響を受けて、革命の2か月後に勃発した戦争である

・フランス二月革命が影響を与えたのはデンマークだけでなく、同年プロイセン・オーストリアでも革命が起きている

・同戦争が終盤に向かったころ、プロイセンはオーストリアとの間でも開戦寸前の危機に直面しており、プロイセンはオーストリアに妥協する形で屈辱の「オルミュッツ協定」を締結している。

・ドイツ関税同盟をめぐる流れはオーストリアに有利な形で進んでいた

というところでしょうか。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争においても、結果プロイセンはデンマークに対してもロンドン議定書を交わし、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国は改選前の状況のまま、デンマーク領とし、その代わりデンマークで新たに施行された6月憲法の適用はしない、という形で妥結を余儀なくされたのです。


第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争勃発に向けた経過

ただ、これはデンマークにとっても、両国を自国に統合しようと考えていたわけですから、デンマークにとっても「妥結」させられた形となっています。形式上はプロイセンの敗北です。

この時交わされた「ロンドン議定書」では、シュレースヴィヒとホルシュタインが不可分のものであるとしてデンマークへの帰属が確認され、また後継者のいなかったデンマーク王フレデリク7世が崩御したのちには、フレデリク7世の出身であるオルデンブルク家の流れをくむグリュックスブルク家より、クリスチャン(後のクリスチャン9世)がデンマーク王に即位することまで確認されていました。

ところが、1863年1月にポーランドで勃発した武装蜂起が、勃発し、これに触発されてデンマーク王フレデリク7世はシュレースービヒの自国への併合を推進するようになり、ドイツ連邦との間で再び対立を深めていくことになります。

フレデリク7世は自身が急死する直前にシュレースヴィヒ=ホルシュタインまで含めた領土をクリスチャン9世が継承することを定めた新憲法「11月憲法」を公布します。

しかし、両公国に居住するドイツ人はこれを認めず、アウグステンブルク公世子フリードリヒが独立を求めて蜂起します。(1863年11月)


第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でなぜビスマルクはオーストリアと連携したのか

ドイツ連邦諸国をはじめ、当然プロイセンもこれを支持するわけですが、この時首相であったビスマルクは、実は両公国(および同じくデンマーク統治下にあったラウエンブルク公国)の独立を望んではいませんでした。

ビスマルクが登場するまでのプロイセンは、フランスやイギリスがそうであるように、「自由主義」や「民族主義」、「ナショナリズム」を求める傾向が強かったのですが、ビスマルクはどちらかというと現実主義者で、そいうった理想主義的な考え方を嫌う傾向にありました。

ビスマルクが考えていたのは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの独立ではなく、自国プロイセンへの併合。

これは考えてみれば当然のことで、プロイセンがこれまで関税同盟をめぐって大変な思いをしてきたのは所属する国々の統治主体が異なっていたから。プロイセンに併合してしまえば、そのことで大変な思いをすることはなくなります。

デンマークも同じ課題で苦しんだわけですから。

ですが、ビスマルクは自国国王も含めて様々な対立を避けるため、このことを表に出すことはせず、デンマークの対応が、「ロンドン議定書に違反する」ことを理由として、デンマークにこの議定書に従うことを求めます。

ロンドン議定書では、当然蜂起したアウグステンブルクの名前は記されておらず、ドイツ連邦諸国からは反発を受けますが、この議定書には、実はあの「オーストリア」の名前が記されており、つまりビスマルクはオーストリアと連携することで、連邦諸国の反発を抑え込んだわけです。

だいぶ風通しがよくなりましたね。

ビスマルクは元々シュレースビヒ=ホルシュタインを自国に併合することを目的としていたが、これを公然と訴えれば自国国王を含めた他国からの痛烈な批判にさらされる。

これを防ぐため、公平な取り決めである「ロンドン議定書」を利用し、持論を正当化した上で、強国であるオーストリアを巻き込むことに成功した

ということですね。

1863年12月7日に行われたドイツ連邦議会では連邦加盟国であるホルシュタインに強制執行を行うことが可決し、12月24日、ザクセン軍、およびハノーファー軍がホルシュタインに進駐することとなります。

つまり、この時点では対デンマークではなく、「武装蜂起を起こしたアウグステンブルク公世子フリードリヒ」が対象とされていたわけですね。

普墺連合艦隊


対デンマーク戦勃発

第一次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争の事実上の講和条約である「ロンドン議定書」に署名したのは「英」「仏」「露」「丁(デンマーク)」「普」「墺」の6カ国で、実はプロイセンとオーストリア以外のドイツ連邦諸国は、このロンドン議定書には署名しませんでした。

その上で、普墺が押し切る形で連邦加盟国のホルシュタインに対する武力行使が可決され、ザクセンとハノーファーがホルシュタイン進駐を行いました。

ですが、他のドイツ諸国はアウグステンブルク公を支持しており、ロンドン議定書に基づく普墺の主張は批判を浴びることになります。

1864年1月、普墺はさらに連邦議会に対し、「ロンドン議定書に従わず、シュレースビヒ=ホルシュタインを併合しようとするデンマーク」に対する開戦案を提出するのですが、これはさすがに否決されます。

これを受け、プロイセン、オーストリア両国は、連邦議会の議決には頼らず、「自分たちの責任で行動する」とし、普墺二国で対デンマーク戦をスタートしてしまいます。

オーストリアはもうすでに引くに引けない状況にまで巻き込まれてしまっていますね。

ドイツ連邦とすれば、自分たちはロンドン議定書にサインしたわけではありませんから、口のはさみようがありません。

ビスマルクの目的はこの時点で既に「シュレースビヒ」「ホルシュタイン」「ラウエンブルク」の三公国を自国に併合することにあります。

1864年1月16日、プロイセンはオーストリアとの間で協定を締結し、デンマークに最後通牒を出したうえで、これに応じない場合、シュレースビヒにまで軍を進めること、及び占領後の同地域における取り決めを約定します。

そして同2月1日、両国はシュレースビヒ侵攻を開始し、ここに「第二次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争開戦」と相成ります。


調停をめぐる駆け引き

デンマークがロンドン議定書を守ろうとしないことを理由に両国は同議定書を事実上破棄し、シュレースビヒからさらにデンマーク領にまで進軍を開始します。

これを受け、普墺両国の増長を好ましく思わないイギリスは、露仏の支持を取り付けたうえで、普墺丁3国に調停を申し出ます。

デンマークとすれば、当事者以外の各国がデンマークに好意的であったことから、普墺両国に対しても強気な態度で臨み、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両国をデンマークに統合することを頑なに主張します。

これに対し、オーストリアはロンドン議定書を遂行させようとしているわけですから、両公国の独立を意図していたわけで、デンマークの態度に当然好感を抱くことはありません。

ですが、一方のプスマルクはデンマークの主張するデンマークへの統合でも、オーストリアの考える両国の独立でもなく、自国、プロイセンへの統合を画策していました。

デンマークのこの頑なな態度を引き合いに出し、ビスマルクはオーストリアに対し、「両公国を独立させるか、(両公国と国境を接する)プロイセンへの併合のどちらかしか選択肢はない」という悪魔の囁きを行います。ここにきて、ビスマルクはついにオーストリアに自信の本音をにじませるのです。

そのうえでビスマルクは独立させるための条件として、「保守的な統治を行う保証」が必要であることを示します。

この時、ビスマルクは両公国の統治者として、アウグステンブルク公の名をあげます。そう。「ロンドン議定書」を理由に自身が反対し、進駐まで行って食い止めたはずのアウグステンブルク公の名を。(1864年5月末)


第二次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争の結末

ビスマルクからの「囁き」を受け、オーストリアはイギリスが主催したロンドン会議にアウグステンブルク公を統治者とする両公国の独立を提案し、ビスマルクはこれを支持。

プロイセン側は、実は2月26日の段階でアウグステンブルク公に対する要求内容が取りまとめられており、アウグステンブルク公に対して要求済みでした。

6月1日、ビスマルクはアウグステンブルク公をベルリンに招いた上で、同草案に「保守的な統治」という文言を加えた上で、改めて同条件を飲むことを要求します。

しかし、アウグステンブルク公を支持しているのはビスマルクとは真逆のナショナリストたち。(この場合の「ナショナリズム」とは、プロイセンだとかホルシュタインだとかいう枠を超えて、「ドイツ」としての統一を考えている人たちのことを指すものと考えられます)

アウグステンブルク公はビスマルクの要求を拒否。アウグステンブルク公とビスマルクとの会談は決裂します。

ロンドン会議では北シュレースビヒをデンマークが併合し、残りを独立公国とすることが提案されますが、デンマークがこれを拒否。

ビスマルクも当然この案には賛成できませんから、この時フランスが提案した別の案に賛成し、結果ロンドン会議は何も決まることがないまま、決裂することとなりました。


最終的に、普墺軍が武力によってデンマークを攻略し、デンマーク政府は事実上の降伏。「シュレースビヒ」「ホルシュタイン」、そして「ラウエンブルク」の3公国に関する権利がデンマークより普墺両国に譲渡されることとなります。

譲渡された3公国の取り扱いに関して、1865年8月14日に締結されたバート・ガスタイン協定では、
・プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治する。

・プロイセンはオーストリアに賠償金を支払い、ザクセン=ラウエンブルクを統治する。

・キール港をドイツ連邦の所有とし、プロイセンはその軍政・警察事務を管理する。

・レンデスブルク城はドイツ連邦の所有としプロイセンおよびオーストリアが守備兵を置くこと。

が決められました。

次回記事では、改めてさらにここからどのようにして「普墺戦争」へと結びつくのか。その過程を記事にしてみたいと思います。


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