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第414回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をドイツ関税同盟と比較してみるなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第413回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争再検証~成立ちの歴史から検証する今回の記事を作成する目的は、改めてになりますが、第389回の記事 で私が記した内容に、一部事実と異なる部分があったようですので、ここを検証しなおすことが一つの目的です。

記事としては、私が
シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したとき、プロイセンで宰相を務めていたのが「オットー・フォン・ビスマルク」という人物。

と記した後で、さらに
そんなビスマルクが「ホルシュタイン」を支援する形で始まったのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」。

戦争は第一次、第二次と行われ、「ドイツ民族を統一する」という意識がまだ薄かった当時に行われた第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではプロイセンはデンマークに敗北するわけですが、引き続いて行われた第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、プロイセンはオーストリアを味方につけ、デンマークを撃破します。

そして、この時にシュレースヴィヒ、ホルシュタインの両公国をの支配権をデンマークから獲得し、シュレースヴィヒはプロイセン、ホルシュタインはオーストリアが管理することなりました。

と記したのですが、第一次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは1848年のことで、この時はまだビスマルクは首相に就任していません。

一方で第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは1864年1月のこと。ビスマルクが首相になったのは1862年10月ですから、第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争はビスマルク指揮下で行われたことになります。

で、そもそも第一次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発した理由ですが、これはどの記述を信用してよいのか、少し自信がない部分はあるのですが、「民族意識」の部分で、まずデンマーク人は「シューレスヴィヒ公国」に関しては「デンマークの一部」であると考えていました。

考えていたことは事実だと思うのですが、どうも当時のデンマークに存在した政党である国民自由党が、「アイダーまでのデンマーク」というスローガンを掲げ、どうもこれをデンマーク国民の世論を盛り上げるために利用していた節が見えます。

「アイダー」というのは、前回の記事 でもご紹介した通り、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の国境に一縷する「アイダー川」のことで、つまり、国民自由党は「シュレースヴィヒ公国をデンマークに併合しよう!」と訴えていたのです。

以下のリンク先レポート
↑を参考にしますと、これの考え方を主導したのはデンマークの政治家である「オルラ・レーマン」という人物で、アイダー川を分岐点にシュレースヴィヒはデンマーク、ホルシュタインはドイツの土地であると明確に訴えています。

1846年7月8日にはデンマーク国王クリスチャン8世がシュレースヴィヒはデンマーク王家のものであることを明確に宣言する、などし、シュレースヴィヒとホルシュタインを分離させる動きを見せます。

ところが、両地域に住むドイツ人はこれとは逆にシュレースヴィヒとホルシュタインは一体である、という考え方を持っており、クリスチャン8世のこの動きに反発する声がドイツ人側から一斉に巻き起こります。

クリスチャン8世は1848年1月20日に死去。続いてフレデリック7世がデンマーク王となり、彼はさらにシュレースヴィヒだけでなく、ホルシュタインまで含めた国土をデンマークに統合することを宣言します。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン

濃いえんじ色がデンマーク、赤色が「北シュレースヴィヒ」、黄土色が「南シュレースヴィヒ」、黄色が「ホルシュタイン」です。
「シュレースヴィヒ」も「南シュレースヴィヒ」にはデンマーク人よりもドイツ人が多く居住していました。


第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
このことは、一気に両公国に居住するドイツ人の反乱へとつながり、ドイツ人はホルシュタインに臨時政府を設立。デンマーク王国からの独立を宣言します。一応、シュレースヴィヒ=ホルシュタインとして独立を宣言したようですが、シュレースヴィヒ人の半分はデンマーク人であり、彼らはデンマークへの残留を望んでいました。

そして、独立を画策する臨時政府を支援したのがプロイセン王国でした。

シュレースヴィヒもホルシュタインも、ともにデンマークより「封土」された土地で、デンマークの「属国」に当たるわけですが、形上はこの両国がデンマークに対してクーデターを起こすわけです。

クーデターを鎮圧する必要がありますから、当然デンマークは隣接するシュレースヴィヒに対して軍を派遣します。

一方でホルシュタインは「ドイツ連邦」に所属していますから、ドイツ連邦としてはデンマークの「侵攻」を食い止める必要があります。1848年4月、プロイセンとドイツ連邦シュレースヴィヒ=ホルシュタインに向けて進撃。ここに「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」が開戦します。(ただし、この時にはオーストリアは参戦していません)


第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争当時のドイツ

では、改めてこの当時のドイツはどのような状況にあったのでしょうか?

同戦争が勃発したのは1848年4月のこと。この年は、ドイツにとって一体どのような時だったでしょうか?

第378回の記事 などで記述しましたが、1848年2月、フランスで「フランス二月革命」が勃発します。

フランス二月革命によってフランスの王政が再び崩壊し、共和制へと移行したフランスのこの「二月革命」の影響はフランスだけでなくドイツにも波及し、同年3月、オーストリアで「ウィーン三月革命」が、プロイセンでは「ベルリン三月革命」が勃発し、ナポレオン戦争後に取り決められたヨーロッパにおける「ウィーン体制」は崩壊の危機を迎えたわけです。

「ウィーン体制」とは、すなわちヨーロッパにおける「王政」の復活、および自由主義運動を抑圧することにあったわけですが、民衆によりこれらがすべて否定された形です。


「ドイツ関税同盟」側から見ると・・・

一方で、「ドイツ関税同盟」側から見ると、1834年に南北のドイツ関税同盟が統合される形で「ドイツ関税同盟」が成立。

自国内に「チェコ」や「ハンガリー」、「北ドイツ」の問題を抱えるオーストリアはこれに加わることができずにいる状態で勃発したのが前記したウィーンとベルリンにおける「三月革命」です。

プロイセンは同年5月、ザクセン・ハノーファーとの間で、将来の統一ドイツを見据えた「三王同盟」を結成。

一方でオーストリアで起きた「ウィーン三月革命」は単にウィーン市民のみの活動にはとどまっておらず、「マジャール人(ハンガリー)」や「スラブ人(チェコ)」、そして北イタリアの「独立運動」としての側面もあったため、オーストリアはプロイセンに対して一歩で遅れた形になりました。

プロイセンによる三王同盟の結成後、オーストリアは自国領土の問題を終結させると、プロイセンの動きに対して、「ウィーン会議で定められた(ドイツ)連邦規約に反する」とし、これを南ドイツ諸国が支持。これを受けてザクセンやハノーファーは同盟から離脱することになりました。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは、ちょうどそんな時期であったということです

この時のドイツ連邦諸国の動きを見ていると、どちらかというとオーストリアが優勢であるように見えますね。

ちなみに1850年11月には、ヘッセン=カッセル選帝侯国においてプロイセンとオーストリアは一触即発、武力衝突の危機を迎えるわけですが、この時ヘッセン=カッセルに派遣されたドイツ連邦軍は「カールバースト決議」に基づいた、「オーストリア中心の連邦軍」であり、方やシュレースヴィヒ=ホルシュタインに派遣された軍隊は「プロイセンを中心とする連邦軍」。

こう考えると、とてもいびつな状態にあったわけですね。

結論から申しますと、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を終結させたのはイギリス、フランス、ロシア、オーストリアなどの「外交干渉」によるもの。

デンマーク王フレデリック7世が、1949年に国民の要請に答える形で発布した「6月憲法」。これは、デンマークの絶対君主制を廃止し、「立憲君主制」とするもの。これまで国王の権力で動かされてきたデンマークを、議会によって運用することとしたものです。

デンマークとしては、シュレースヴィヒ=ホルシュタインをデンマークに統合し、両国にも同憲法を適用させようとしたのですが、スウェーデンの提案によって両国にはこれが適用されませんでした。

プロイセンを中心とするドイツ連邦軍は両国から撤退したものの、ドイツ連邦に参加するデンマーク領ホルシュタイン公国と、両国のドイツ人が統一の維持を望むシュレースヴィヒ公国。この問題が何も解決されないまま、この戦争は一時的に終結を迎えたのです。

1852年5月8日のことです。ヘッセン=カッセル選帝侯国における小競り合いでは、1850年11月、「オルミュッツ協定」によってオーストリアへの譲歩を認めさせられた後、プロセイン軍は2度目の撤退を余儀なくされたわけですから、プロイセンとしては屈辱的な「妥結」であったと思います。

1951年、11月末に、オーストリアよりドイツ連邦各国に対して、「第一案」及び「第二案」そして南西ドイツに対して「第三案」が提示され、オーストリアとプロイセンとの間で「ドイツ関税同盟」をめぐる駆け引きが行われる、まさにその中での出来事でした。


話題が少し長くなりましたので、「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と「ドイツ関税同盟」の比較は次回記事に譲り、今回はここで終結いたします。


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