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第413回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争再検証~成立ちの歴史から検証するなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第412回 英仏通商条約(コブデン条約)をめぐるドイツ領内における駆け引き

普墺戦争までの前振りとして、第389回の記事 におきまして、一度「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について記事にしたのですが、その後、「ドイツ関税同盟」をめぐる記事を通じて、ナポレオン戦争後のドイツ領内の国家間の駆け引きを見ていくと、第389回の記事 における「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」についての記述が、必ずしも正確ではないな、と感じました。

今回の記事では、シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争をめぐるデンマーク国内の動きを、ドイツ領内の動きと比較しながら記事にしてみたいと思います。


「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン」とは何か?

地理的なおさらいです。「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」は、現在ではドイツの一部として、「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン州」となっていますが、この「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン問題」が勃発した段階では、ともにデンマークの支配下にある地域でした。

Wikiで見ますと、「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の位置関係が意外とわかりやすく図解されてましたので、それぞれのページから画像を持ってきてみます。

Sleeswijk1848.png

こちらが「シューレスヴィヒ」。

Holstein.png

こちらが「ホルシュタイン」です。

地図のサイズが思いっきり違うので、ぱっと見は戸惑うかもしれませんが、よく見て比較すると、そもそも両方の国がヨーロッパでどの位置にあるのかというところまで含めて理解しやすいと思います。

ざっくりとした歴史をひも解くと、元々この地域はデンマークとドイツ(正確にはドイツではなく、西ローマ帝国、東フランク王国、神聖ローマ帝国を経て「プロイセン」と名称を変える)の国境に位置する地域であり、両国間で紛争が繰り返されていました。

西ローマ帝国の時代、「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の間にある「アイダー川(ネタみたいですけど)」を両国間の国境であると取り決められるものの、その後も紛争はやまず、最終的に神聖ローマ帝国の時代、1027年、「コンラート2世」の時代に改めてこの「アイダー川」が国境であると取り決められます。

その後、1115年に時のデンマーク王クヌーズ4世より、彼の弟であるオーロフ1世に与えられた土地がのちの「シューレスヴィヒ公国」。

一方、もともと神聖ローマ帝国諸侯の一人であるザクセン公より、同じく神聖ローマ帝国諸侯の一人であったシャウエンブルク家に分け与えられた土地がのちの「ホルシュタイン公国」です。

要は、もともと「シューレスヴィヒ」とはデンマーク領であり、「ホルシュタイン」はドイツ領であったということですね。


「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の変遷

14世紀末(詳細やその経緯は出てこないです)、デンマーク王はホルシュタイン伯であったアドルフ8世に、シューレスヴィヒ公としての地位を承認します。この時点で、「ドイツ人」であるシャウエンブルク家が、デンマーク領であるシューレスヴィヒを継承するといういびつな状態が出来上がってしまいます。

ところが、今度は1459年、アドルフ8世が亡くなると、アドルフ8世には後継ぎがいなかったため、デンマーク領であるシューレスヴィヒはデンマーク王クリスチャン1世(オルデンブルク家)に返還されます。ですが、この時点ではドイツ領であるホルシュタインの継承者はいません。

そして、クリスチャン1世は自分の母がアドルフ8世の姉であることを理由にドイツ領であるホルシュタインの継承も宣言してしまいます。

神聖ローマ帝国はホルシュタインの爵位を「伯爵」から「公爵」へ引き下げた上でこれを承認。今度はドイツ領であるホルシュタインをデンマーク王が領有する状態となります。


1544年、シューレスヴィヒ=ホルシュタインが3分割される

クリスチャン1世より、フレゼリク1世を経て王位を継承したクリスチャン3世は、シューレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国を3分割し、自身の出身であるオルデンブルク家と分家であるゴットルプ家との共同統治とします。

当初、この共同統治はうまくいっていたものの、ゴットルプ家はやがてデンマークだけでなくスウェーデンやロシアとも結びつきを深めていきます。


ポーランド王家とゴットルプ家との対立

第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生 のところで少し触れていますが、フレゼリク3世(ゴットルプ家)の時代に海外で勃発した「北方戦争」。

引用記事中では「ロシア=ポーランド戦争」として紹介していますが、この戦争にスウェーデンがちょっかいをかける形で拡大したのが「北方戦争(1655年)」です。

元々スウェーデンと対立関係にあったデンマークは、ロシアがスウェーデンに宣戦布告を行ったのを見て、この北方戦争に参戦します。

この時、スウェーデン王カール10世と婚姻関係にあったゴットルプ家は、自国領のスウェーデンの通過を認めるなどし、ゴットルプ家はデンマーク王家との対立を深めていくことになります。

この戦争(第一次デンマーク戦争)において、デンマークは一時的に敗北するものの、1658年、停戦条約を一方的にスウェーデンが破って攻めてきたことをきっかけとして勃発した第二次デンマーク戦争では逆にデンマークが勝利し、フレゼリク3世の子、クリスチャン・アルブレクトは領土から追放されることになります。


大北方戦争とゴットルプ家

1667年、和平を結ぶ目的でクリスチャン・アルブレクトはデンマーク王フレゼリク3世の娘であるフレゼリゲ・アメーリエと婚姻関係を結ぶわけですが、1694年にクリスチャン・アルブレクトは死去。彼の息子らはデンマークに対して強硬な態度をとります。

1700年、スウェーデン軍(ポーランド・リトアニア共和国、オスマン帝国、 ヘーチマン国家、グレートブリテン王国)と反スウェーデン軍(ロシア・ツァーリ国、デンマーク=ノルウェー、ザクセン選帝侯領、ポーランド=リトアニア)との間で戦争がはじまると、デンマークはスウェーデンとの同盟国であるシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ侵攻。

デンマークはまた再びスウェーデンに敗北するものの、1709年、スウェーデンがロシアに大敗を喫したことを受け、デンマークは再び参戦し、1713年、ゴットルプ家のシューレスヴィヒ領を占領し、ゴットルプ家のから宗主としての権限をはく奪します。


ホルシュタイン=ゴットルプ家

一方で、ゴットルプ家領のうち、神聖ローマ帝国領であるホルシュタイン公国ではデンマーク王家とゴットルプ家との共同統治体制は継続し、同領地は「ホルシュタイン=ゴットルプ公国」と名称を改められます。この時のゴットルプ公はカール・フリードリヒ。

しかし、すごい複雑ですね・・・

この地域の人達はある意味とても寛容なのでしょうか? ただ、このゴットルプ家はあくまでもポーランド人であり、神聖ローマ帝国内にありながら、ホルシュタイ=ゴットルプ公国の帰属はポーランドにあります。


ポーランドからロシアへ

1739年、カール・フリードリヒから爵位は彼の子供であるカール・ペーター・ウルリヒへと移るのですが、彼は彼のおばであるロシア女帝エリザヴェータより後継者としての指名を受け、1762年にはなんとロシア皇帝になってしまいます。

ですが、彼の息子であるパーヴェル・ペトロヴィチが同領地を再びデンマーク王へと譲り、同領地は再びデンマーク王の下で統一されることとなります。

で、ややこしいついでなのですが、この時パーヴェル・ペトロヴィチは、デンマーク王より神聖ローマ帝国領内のオルデンブルク公国を代わりに譲り受けます・・・って、つまるところデンマーク王は神聖ローマ帝国領内にあるオルデンブルクの出身・・・つまり、元々はドイツ人だったってことですね。

ややこしすぎます。


ドイツ連邦ホルシュタイン公国

さて。ようやく時代がドイツ連邦にまで戻ってきました。

神聖ローマ帝国が解体された後、ホルシュタイン公国はホルシュタイン公国として主権を回復することになります。もちろんその宗主はデンマーク王であるオルデンブルク家。

そしてオルデンブルク家が宗主であるホルシュタイン公国は、ナポレオン戦争後に執り行われたウィーン会議の後、「ドイツ連邦」に参加することとなります。

さて。記事が少し長くなりましたので、「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」に関する再検証は次回にゆだねることとして、今回はここまでで締めくくりたいと思います。


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