FC2ブログ
第412回 英仏通商条約(コブデン条約)をめぐるドイツ領内における駆け引きなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第407回 オルミュッツ協定後のドイツ~オーストリアとプロイセンの駆け引き~

さて。前回の記事 におきまして、プロイセンとオーストリア、他のドイツ諸国が、オーストリアを含めずに従来のドイツ関税同盟を継続する「小ドイツ主義」とオーストリアを含めて関税同盟を統合する「大ドイツ主義」をめぐって画策を繰り広げる中、オーストリアの考え方に近い南ドイツ7か国がオーストリアの案を含めて協議するようプロイセンに働きかける様子を記事にしました。

結果として、オーストリアを含めたドイツ領内の駆け引きよりも、フランスやロシア、トルコなどの動きに対応する必要が出てきたため、オーストリアがプロイセンの要求を飲む形でオーストリアをドイツ関税同盟には含めず、オーストリアとプロイセンが2国間で通商条約を結ぶこととなりました。

合意が行われたのは時に1853年2月13日のこと。(署名は2月17日)

その合意内容は
・相互に関税を優遇すること、関税同盟有効期限を十二年間とすること
・1860年に将来的な関税同盟統合について協議すること

の2つ。

ここからさらにプロイセンは、イギリスやフランスとも同様の通商条約締結に向けて動き始めます。


英仏通商条約とプロイセン

プロイセンがイギリスやフランスに対してもオーストリアと同様に「通商条約」を結ぶ必要性にかられたのは、サブタイトルにあるように、イギリスとフランスがお互いに締結した「英仏通商条約」が原因です。

このシリーズがそもそもドイツの歴史を追いかけることを目的としていますので、イギリスやフランスの事情まで掘り下げることはしませんが、少なくともこの時点でのイギリスが、欧州各国に対して「自由貿易圏」を築くことを目的としていたということ。このことが前提にあります。

イギリスはこれをすべての国との間で成立させようとしていたのですが、フランス(ナポレオン3世)はクーデターにより帝政を復活させたばかり。対外的には「保護主義」の政策をとっていましたので、今回のイギリスとの条約も対象はイギリスのみ。2国間における通商条約を締結しました。

「自由貿易」とは簡単に言えば、国家間での関税を大幅に引き下げて貿易を自由にできるようにしましょう、ということ。「保護主義」とは逆に他国からの輸入品には高関税をかけ、もしくは輸入そのものを禁止にして自国内での生産者を有利にするための仕組みです。

この記事はドイツの歴史を探るためのものであって、経済に関する記事ではありませんから、これ以上は話題を広げないようにします。

思い出してみてください。そもそもプロイセンがドイツ領内における国家間の「関税同盟」を締結しようとした理由はどのような理由だったでしょう? 「民族主義(ナショナリズム)」という思想によってドイツ民族(ゲルマン語を話す民族)が居住する地域を「ドイツ」として統一させる必要性にかられた・・・わけではありませんでしたね。

ナポレオン戦争後、「ウィーン議定書」によって自国が獲得した領土「ラインラント」。せっかくドイツ領内における流通の要所を手に入れたのに、ラインラントとプロイセン本土は飛び地になっていて、ラインラントからプロイセンに物資を輸送するために他国に対して「関税」を支払わなければならなかったから。

これを解消するため、プロイセン主導で進められたのが「ドイツ関税同盟」でしたよね?

ところが、プロイセンがドイツ領内におけるイニシアティブを獲得するために様々なことを画策している間に、ドイツ領外ではフランスがイギリスと2国間での「自由貿易協定」を締結してしまったわけです。

イギリスは2国間ではなく、多国間での自由貿易協定の締結を目指していましたが、フランスは保護主義をとっていましたので、経済圏としてのフランスを、プロイセンとしてはイギリスに奪われてしまう。そんな危機感が生まれました。

フランス内でイギリスの生産物は安く流通しますが、プロイセンの生産物は高く流通する、という状況です。

英仏通商条約が締結されたのは1860年1月21日。第407回の記事 でご紹介した通り、プロイセンがオーストリアとの間で二国間の通商条約を締結したのが1853年2月21日ですから、その約7年後の出来事です。


プロイセンは、オーストリアとの間で締結した条約において、「1860年に将来的な関税同盟統合について協議すること」という約束をしています。

フランスがイギリスとの間で通商条約を締結したのはまさにその1860年のことでした。

そして、フランスとの二国の「通商条約」の締結は、実はプロイセン側からではなく、フランス側から提案されたものでした。

プロイセンとしては、オーストリアとの協議があるため、最初はフランスのこの提案に対して躊躇していたのです。

ところが、同年(1860年)、フランス国王であるナポレオン三世と、プロイセン国王であるヴィルヘルム一世との間で行われた会合をきっかけとして、プロイセンはフランスとの間で通商条約の交渉に応じることとなりました。

この交渉は、「ドイツ関税同盟」の盟主であるプロイセンにフランスより持ち掛けられた交渉ですから、もともとドイツ関税同盟に加入していないオーストリアはこの交渉から除外されることになります。

このことから、もともとオーストリアに近い立場である南西ドイツの面々は、この交渉に対して距離を置くようになりました。

もちろんオーストリア側からもプロイセンに対し、オーストリアとドイツ関税同盟の統合をはじめとする様々な働きかけが行われたのですが、プロイセンはフランスとの交渉を強引に推し進め、1862年8月2日、通商条約にプロイセン政府は署名することになります。

そしてこの後、10月8日にプロイセンの首相となったのがあのビスマルクです。ビスマルクはさらに1863年3月28日、ベルギーとの通商条約にも同様に署名しました。

ドイツ関税同盟は、完全に浮足立つ形となってしまいます。中でもバイエルンはプロイセンに対して、オーストリアとの間で約束した「二月協定」に基づく関税同盟の更新を主張するわけですが、ビスマルクはこれを拒否。

そして1863年12月31日、なんとビスマルクはドイツ関税同盟諸国に対して、プロイセンのドイツ関税同盟からの離脱を通告するのです。そしてもし同盟を更新したいのなら、フランスとの通商条約を承認することをを条件として突き付けるわけです。

これは、ドイツ関税同盟がどれほどプロイセンに依存した同盟であったのかということを象徴する出来事ですね。


プロイセン離脱をめぐるドイツ領各国の駆け引き

ここからは、再び様々な国名が登場してわけがわからなくなるので、再び下地図を用いて記事を進めていきます。

プロイセン

プロイセン側からの要求(半ば脅しですね)を巡ってまず1864年5月、ベルリンで開催された会議には

 3番 バイエルン
 5番 ヘッセン・ダルムシュタット
 6番の左半分 ヘッセン・ナッサウ
 17番 ウュルンテンベルク(ヴュルッテンベルク)

の4か国が欠席します。一方で

 13番 ザクセン

がプロイセンとの間での新しい関税同盟に署名。続いて

 2番 バーテン

が署名すると、参加した各国は次々と同同盟へ署名を行います。

そして9月末にベルリンにおいて改めて開催された会議には前回の会議で欠席した4か国も参加し、ついに関税同盟は更新されることとなります。つまり、オーストリアを除くすべての国がフランスとプロイセンとの間における通商条約を承認したということです。

私は今回のドイツ関税同盟をめぐる一連の記事を、

 早稲田大学リポジトリ ドイツ統一国家形成と関税同盟
 ↑こちらの記事

を参考に作成しました。同サイトには、この時のバイエルンの苦悩が、バイエルン国王の言葉として、以下のような形で記されています。
関税同盟更新交渉の経緯には心を痛めている。

閣議の報告書は自分の確信を裏打ちするものであり、バイエルンにとって、ウュルテンベルクが加わるかもしれないが、バイエルンのみの関税圏を形成するか、対仏関税・通商条約無条件受諾というプロイセンの要求に従うかであり、これ以外の選択の余地はない。

プロイセンの覇権を少なくとも通商政策に限定するということで、この選択に同意せざるをえないであろう。バーデンとウュルテンベルクの関税圏を他のドイツから分離するということは自然なことではない

「プロイセンの覇権」という言葉が言及されており、引用先の記事にもあるように、この時点はすでにバイエルンとしても関税同盟のことを考える以外に選択肢がなく、オーストリアのことを考える余裕すらなくなっていることがわかります。


一方、プロイセンとドイツ関税同盟をめぐるこの一連の駆け引きが行われる中で勃発したのが、第389回の記事 でもご紹介した、あのシューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争です。

改めて振り返ってみますと、第389回の記事 は必ずしも正確ではない様ですので、次回記事では改めてこの「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について掘り進めて見たいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]