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第411回 「差別」と「逆差別」~杉田水脈議員の新潮45寄稿文に思う事~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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ご存知の方がどの程度いらっしゃるかはわかりませんが、このところ、ツイッター上で自民党の衆議院議員である、杉田水脈氏が「新潮45」に寄稿した、「LGBT」に関する記事が話題になっています。



この記事のおけるLGBTに関する記述が、とても差別的なのではないか、とされ、27日にはLGBT団体等が参加し、自民党本部前で、主催者発表によると総勢5000名に上る抗議活動が行われたのだそうです。


記事の何が問題とされたのか

よく言われますように、記事の一部分だけを切り取ってあげてしまうことはよくありません。
ちょうどこの全文を転載したサイトがございますので、記事へのリンクを掲載しておきます。

杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』を全文書き起こす(転載歓迎)

私の記事ではあえて全文をのせることはしません。(先に記事を作成なされた方への敬意を示すものです)

記事中で、特に問題とされているのは、
子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。

しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。

の部分。

ネット上では特に「左寄りの主張をする人たち」が、この「『生産性』がない」の部分を曲解して、「LGBTには価値がない」と記載したかのように言い換え、杉田議員があたかも差別主義者であるかの様に喧伝しています。


「右寄り」や「左寄り」

私自身はあまり「右」や「左」といった表現方法はあまり好きではありません。

シリーズ、「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。 でもご紹介したように、特に日本ではこのように「右」や「左」でカテゴライズすることに、あまり意味はありません。

フランス革命当時、『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』(完全なる平等社会)を目指した連中が定義づけた「共産主義」。当時のフランスにおける身分制度、「アンシャン・レジーム」において、「第三身分(平民)」とされた人たちがその中心となっていました。

革命勃発後、憲法を制定するために開かれた議会で対立軸となったのが「国王の拒否権」と「貴族院の開設」。

これに反対したのが「第三身分(平民)」。彼らが座っていたのが議会の左側、つまり「左翼」でした。

このことが現在の「左翼」の語源とされているわけですが、第二次世界大戦前の日本では、この「共産主義」に傾倒した軍人(皇道派)たちが起こした「2.26事件」。そしてその後の日本の内閣に影響力を及ぼした軍人、「統制派」。

現在、日本で「右翼」と呼ばれているのは、この当時の内閣の在り方を意図したものです。

現在の日本の共産党は、現在の安倍内閣が、この時の日本に回帰させようとしているという「前提」で政権批判を行っているわけです。

稲田さんや、今回の杉田水脈さんがここまで徹底的にたたかれるのはなぜか。そう考えると、少し見えてくるものがありますよね。


改めて検証する杉田議員の寄稿

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冒頭のこの文章を比較する前にまず、杉田さんが、引用先記事の冒頭部分で記している記述を見てみます。

 朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。

 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。

 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。

前半で杉田さんが批判しているのは、「リベラルなメディア」が、「LGBTの権利」を認めた上で、彼らを支援する動きを報道する姿勢 にあるようです。

また最近の報道の傾向として、「LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方」があることを掲載しています。

その上で、杉田さんは暗に、「LGBTは世間で騒がれるほど差別されていないのではないか」と読者に対して投げかけていますね。

上記の文章から読み取れることとして、この後の文章に掲載されている内容から見ても、杉田さんは

もともと日本では、LGBTに対する差別はなく、その生き方は認められていた

ことに言及しているわけです。そして、そこに海外の同性愛に対して寛容ではない宗教国の文化が入ってきたために、あたかも同性愛者に対する差別が、もともと日本にもあったのではないか、と国民が思い込んでいるのではないでしょうかと、そう記載しているわけです。

杉田さんが批判している内容をが、如実に表現されている投稿が、杉田さんの記事が掲載された後のツイッターの杉田さんに否定的なサイドからの投稿にあります。

LGBT記載

現立憲民主党の参議院議員である有田芳生氏の投稿ですが、ここに以下のような記載がありますね。

特定の人間を「生産性がない」と切り捨てる杉田水脈議員の浅薄な「思想」もどきの人権攻撃を無視できないのは、それがナチズムの優性思想による抹殺の歴史に通底しているからだ。実際に7万人の障害者が殺害され、10万人以上の同性愛者が逮捕された。

ナチス統治下のドイツにおいて、10万人以上の同性愛者が逮捕された、つまり「迫害されていた」ことを杉田議員を批判する事例として挙げているのですが、実際に同性愛者が差別されていたのは当時のドイツであり、日本ではありません。

そして杉田さんは、日本にはもともとそういった差別は「なかった」といっているのです。

同性愛者を差別する文化は海外から入ってきたものであり、もともと差別される対象でなかったはずの同性愛者をわざわざ「LGBT」とカテゴライズし、ここに対してわざわざ特別な「権利」を与え、支援を行っているのが今の日本のメディア報道や行政の在り方なのではないか、いうことを杉田さんは訴えていらっしゃるのではないでしょうか?

では、この考え方の下で、改めて私の記事の冒頭に掲載した引用部分を見てみます。
子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。

しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。

前後の文章を追加して、少し肉付けしてみます。

 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。

 それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。

「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。


 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。

 しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。

 にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

いかがでしょう? ずいぶん印象が変わってくるのではないでしょうか。

この件(くだり)で、杉田さんが訴えているのは、

「生きづらさを抱えているのはLGBTだけでなく、多くの方が同じように生きづらさをかけている」こと。そして、その上で「生きづらさを解消する(正確には生きづらさを解消する方法を身に着けさせる)のは行政の役割ではなく、『教育』の役割である」と言っているのです。

同じ生きづらさでも、これが子育て支援やカップルへの不妊治療であれば、ここに税金を投入することで、当事者が抱えている根本的な問題を解消し、本人たちの生きづらさを解消することができるかもしれません。

ですが、同じ税金をLGBT問題に悩む当事者ではなく、「LGBTカップル」に対して投入することに、いったいどんな「生産性」があるのでしょうか? 本人たちが抱えている根本的な問題は何も解消せず(むしろ本人たちが問題を解決する機会を奪ってしまい)、却って当事者たちがより深い「生きづらさ」を抱えることになってしまうのではないでしょうか。

彼ら、彼女らが、育てる親のいない子供たちを引き受け、自分たちの子供として育てるということを「生産性がある」事例として引き合いに出す方もいらっしゃいますが、そのことがかえってその子供が学校でいじめられる原因になったり、あるいは(あえて言いますが)「正常な」家族観を持つ大人に育つことを阻害する要因にはならないのでしょうか?

そしてそれを本当に「生産性がある」といえるのでしょうか?


「差別」と「逆差別」

私が、福祉分野の活動にかかわるようになったのは、今から13年ほど前。特に「死にたい」という気持ちを常に抱き続ける人達に対するサポートを行う活動が最初でした。この活動は現在も続いています。

そして、その後に「障害を持った人」に関連した活動に関わる様になりました。

このころによく耳にするようになったのは、「逆差別」という言葉です。


私自身、障害者手帳を有する「3級障害者」です。私には左脚がありません。

ですが、そのことを以て私は私の人生を悲観したことはありませんし、障害があることが私の人生における選択肢の数を減少させていたことは事実ですが、私自身は自分が選択できる選択肢を選び続け、その中で精いっぱい生きづづけてきました。

子どものころであれば、障害者である私が頑張っていれば、みんな手を差し伸べてくれますし、間違えても私自身を差別するような人はいません。

ですが、大人になるとそうはいきません。

人より体力はありませんし、取り分けて頭が良いわけでもありません。整理整頓は苦手ですし、スケジュールを把握することもまた苦手。努力することそのものが苦手ですし、記す文字も汚く、とても人に見せられたものではありません。

計算も苦手で、時に二桁×一桁の簡単な計算さえ間違えてしまいます。

そう。今考察するとよくわかるのですが、私はおそらく軽度の「発達障害」なんでしょうね。

軽度の発達障害と3級の障害を抱えた私です。会社に入っても周りとコミュニケーションを作ることがうまくいきませんし、上司との関係性ばかりを気にして、雇う側から考えれば、早く切り捨ててしまいたい「社員」だったのではないでしょうか。

そう。そして私はそんな自分を悲観し(決して障害を原因としたものではありません)、周囲に対する「愚痴」を言い続けていました。

では、そんな私に「手を差し伸べたい」と考える人がいるでしょうか?

仕事上のコミュニケーションを築くことは苦手でしたが、それでも仲良くしてくれる友人は社内にもたくさんいましたから、仕事から離れればいたのかもしれません。ですが、仕事上では「皆無」です。

「かわいそうな奴だな」と端から見ている人はいたかもしれませんが、では私に手を差し伸べてくれるかといえば、決してそんなことはありません。頑張っていないやつを助けようとする人なんて通常の社会にはいないんです。その人が障害を持っているのかいないのか、なんて関係ないんです。


「逆差別」とは?

当時の私が自分自身を悲観していたのは、障害の有無ではなく、私自身の人間としての「能力」の問題です。

「会社の中で苦しい思いをしたまま、私はいつまで生きていかなければならないのだろうか」と、その思いがずっと頭の中を駆け巡り、自分自身に能力がないことが原因であることがわかっていながら、私はすべてを「周りのせい」にしていました。

ただ一つ言えるのは、私がこれを「障害のせい」にしたことだけはなかったということです。

では、もし仮に私がこれを障害のせいにし、「私に能力がないのは障害のせいだ」と周りに当たり散らしていたとしたらどうでしょう?

 「障害者である私をなぜあなたたちは助けないんだ。あなたたちは人間じゃない」

と。実は誰も私のことを「差別」なんてしていないんですよね。実は、障害を持った自分を差別しているのは「自分自身」。

「逆差別」とはすなわちこのような状況のことを言います。

コンプレックスを抱く要素なんて、社会にはうんざりとするほどあります。その一つ一つに反応して、自分の力ではどうしようもないことに腹を立て、「これもすべて社会が悪いんだ!!」なんていったってなにも解決しません。


私が参加した福祉的活動の多くには、所謂「左翼的思想」の持ち主がかかわっていました。

実際その多くの支援団体のグループはその問題を解決しようと一生懸命ですし、みんなでグループワークなどを繰り返し、自分たちが「差別される立場にある人たち」を支援するためにはどうすればよいのかと必死にアイデアを出し合っていました。

そんな活動の中の一つに、政府から受託され、給料を受け取る形で全国的に取り組むこととなった活動があります。

私ももちろん給料を受け取っていましたし、団体として参加した部分に関しては団体に対して寄附をして、これを団体の運営費として活用もしていました。

ですが、中にこの活動を「悪用」する人が出てくるわけです。本来であれば弱者のために必死に活動し、中にはこの国の法制度の網を変革させ、大きなくくりでいえば「自殺者の数を大幅に減らす」ことに貢献した活動まで行った人が、ここにお金が絡んだ瞬間から別人のようになってしまうんです。

大学教授や、地域の多くの(福祉関連の)活動家まで巻き込み、下手をすれば全国的なトップニュースとなってもおかしくはないほどに泥沼化しました。


「左翼的活動」って、その多くが社会的な弱者を救済するための活動です。元々は権力や体制への怒りが根源となっていますから、非常に相性がいいんでしょうね。

ですが、だからこそ金銭欲にかられた人たちの「ビジネス」に利用されやすい性格も有しています。

社会的弱者が、弱者自身に対して行う「逆差別」は、『似非』左翼たちのビジネスに悪用されやすいのだと思います。逆差別を行う張本人からすれば非常に心地が良いですから、彼ら、彼女らもまた似非左翼ビジネスに巻き込まれていきます。

そしてそこで徹底的に「反体制」「反権力」を刷り込まれますから、霞が関前などで行われている、ああいった大きなデモ活動に繋がりやすいのだと思います。

ですが、本来社会的弱者を支援する人たちが行わなければならないのは、社会的弱者を不必要に甘えさせ、自立する力を奪うことではないはずです。

杉田さんが記事に記されていますように、社会的弱者となる要素を持った人物が、将来本当に社会的弱者となってしまわない様、自立する力を身に着けることこそ本当の「教育」の在り方なのだと思います。


もし私に「LGBTに対する差別意識はないのか」と聞かれれば、私は絶対にYesとは答えられません。私の中にも確かにあるのです。自分と違う価値観を持った人たちに対する「差別意識」が。

ですが、それはごく当たり前のことなのではないでしょうか。そういった「差別意識」が自分自身の中にもあることを認めたうえで、自分とは違う価値観がそこにあることを受け入れていくことこそ、本当の社会の「あるべき姿」なのではないかと思います。

杉田水脈さんの言葉を拝借すれば、

 「『普通』であることを恐れない社会」

こそ、本当の意味での「差別」をなくしていくために必要なことなのではないでしょうか?



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