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第407回 オルミュッツ協定後のドイツ~オーストリアとプロイセンの駆け引き~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第406回 統一ドイツ誕生までの歴史を復習①~「ドイツ」とは何なのか?

第392回の記事 におきまして、スラブ人(チェコ人)やマジャール人(ハンガリー人)の反乱を鎮圧した後、完全に出遅れた感じとなったオーストリアが、自国が身動きが取れない間に、自国以外の国々の間で締結された「ドイツ関税同盟」に対し、さらにオーストリアを含む大きな枠組みでの「関税同盟」を提案した理由として、「ドイツ関税同盟の更新年」が12年であったことをご紹介しました。

オルミュッツ協定が締結されたのは、1850年11月29日のこと。ドイツ関税同盟の更新年は翌1851年です。

プロイセンは、1851年11月11日現行の条件下でのドイツ関税同盟の更新は行わないことを表明し、更に52年4月に新たなる条件での関税同盟を更新するための協議を「ベルリン」で行う用意があることをほのめかします。

一方、オーストリアは11月25日、プロイセンに先駆けて52年1月に、自国も含めた新たな枠組みでの関税問題を話し合うための会議を「ウィーン」にて開催することを表明し、すべてのドイツ諸国に招待状を送りました。

「ドイツ関税同盟」においてプロイセンが主導権を握るのか、オーストリアが主導権を握るのか、その鍔迫り合いが始まったんですね。


新たなる「関税同盟」の形

プロイセンは、関税同盟の新しい形として、「ドイツ関税同盟」と「オーストリア」が「自由貿易協定」を結ぶ形を求めていました。

つまり、ドイツ関税同盟に対する主導権はあくまでプロイセンが握り、これとオーストリアが対等な形で貿易を行うスタイルですね。

オーストリアは招待状に、このプロイセンが求めている形式ともう一つ、オーストリアがドイツ関税同盟そのものに参加する二つの案を添えて発送しました。

そしてさらに、この両案が決裂した場合に備えて、バイエルン、ウュルテンベルク、バーデン、ザクセン、ヘッセン・ダルム、シュタット、ヘッセン・カッセルの6か国にのみ、オーストリアとこの6か国が新たなる関税同盟を締結する第三案がさらに添えられていました。


一方のプロイセンは、もしこのような会議に参加するのであれば、それは新たなるドイツ関税同盟が更新された後であり、更新もされていないのにこのような会議に参加するつもりはない、とウィーン会議への参加を拒否します。

さらにプロイセンとの関係の深い北ドイツの諸国もウィーン会議への参加を見送りました。

そしてプロイセンは、ウィーン会議が開催されている中、現行のドイツ関税同盟に加えて、ハノーファー、オンデンブルクの2か国に対して「ベルリン会議」への招待状を送ります。

プロイセン

ハノーファーは上地図の4番。オンデンブルクは10番です。ハノーファー・・・大きいですね。

ハノーファーは、プロイセンにとって、自国の経済圏を確立する上でも要所であったことがわかりますね。16番がラインラント地方で、ライン川を利用する上での交通の要所。こことプロイセンの自国領土を陸続きにすることを目指していたわけですから。

プロイセンが招待状を送付した送付先の意味するところは、つまりドイツ関税同盟の次の枠組みとして「ハノーファー」と「オンデンブルク」は追加しますが、「オーストリア」はドイツ関税同盟には入れませんよ、という意思表明が行われたに等しいわけです。

ですが、そもそもウィーン会議で話し合っている内容は、オーストリアを関税同盟に含める案と、同盟には含めず、自由貿易協定を締結する案との2択が議題として挙げられているわけですので、もしベルリン会議が成立してしまえば、ウィーン会議を行うことそのものが意味のないものとなってしまいます。

既に述べていますように、ドイツ関税同盟の更新年は12年。ベルリン会議において新しい枠組みでのドイツ関税同盟が更新されてしまえば、オーストリアがこれに加わるまで、少なくとも12年は待たなければならないわけです。


「第3案」をめぐる駆け引き

プロイセンが事実上、オーストリアからの提案を事実上無視した形となったことから、第2案の成立はとん挫し、一方でオーストリアは第2案の成立を望んでいるわけですから、第1案の成立も望み薄です。

となると、にわかに脚光を浴びることとなったのが「第3案」。

しかもこの第3案は極秘で、オーストリアに近い立場をとる南ドイツの6か国にしか提案されていませんので、この6か国が非常に苦しむこととなります。

もう一度同じ地図を出します。

プロイセン

バイエルンは言うまでもなく3番。オーストリアの隣です。
ウュルンテンベルク(ヴュルッテンベルク)は17番。
バーデンは2番。
ザクセンは13番(黄色)。
ヘッセン・ダルムシュタットは5番
ヘッセン・カッセルは6番の右半分。

このうち、「ザクセン」はプロイセンと国境を接する位置にあり、オーストリアよりもプロイセンに近い位置にありますから、第三案に乗った場合、下手をすると孤立してしまう恐れがあります。ザクセンとすると、ドイツ関税同盟にオーストリアを加える「大ドイツ主義」の立場をとるものの、現行のドイツ関税同盟から外れてしまうことはザクセンの思惑とは異なるわけです。

この問題を話し合う為、ザクセンはまずバイエルンに会談を呼びかけます。これを知ったヴィッテンベルクはバイエルンに対し、自分たちも協議に加えるよう呼びかけます。

三者は仮に第三案に署名するのであれば、3国がともに参加することを条件としました。

この時点で、ザクセンが参加を拒んでいるわけですので、この3国が第三案に署名する可能性は極めて薄くなります。

3国は、第三案を提案された6か国に、6番の左半分、「ヘッセン・ナッサウ」を加えた7カ国で継続審議を行うことを呼びかけ、その開催地をダルムシュタットとすることとしました。

ところが、このダルムシュタット会議において、オーストリア案を中心に7カ国が協議を進めていくことが決定され、ベルリン会議においても7カ国はプロイセンに対し、オーストリア案をベースとしてオーストリアと協議に入ることが提案されます。(この時点では、提案がオーストリアから正式になされたものではない、としてプロイセンはこれを拒否します)


さて。ここまでドイツは、ドイツ領内における覇権争いに終始していたわけですが、この段階でにわかに国際情勢がきな臭くなってまいります。

そもそもドイツで「民族主義」の傾向が高まってきた最大の理由として、1848年のフランスで勃発した「フランス二月革命」がありました。

この、フランス二月革命によって王制が崩壊し、フランスは再び共和制へと移行するわけですが、その後大統領となったルイ・ナポレオン(ナポレオン1世の孫)が、1851年12月にクーデターを起こし、翌年12月には皇帝ナポレオン3世となり、帝政が復活。

一方、オーストリア南方に位置するクリミア半島ではロシアとオスマントルコとの武力衝突の危険性が増すなど、ドイツ領内での覇権争いよりも、オーストリアとプロイセン共通の危機に対処する必要が生まれてきたのです。

このことから、オーストリアとプロイセンは、オーストリアの提案を成立させるべく7カ国が奔走する中で、なんと2か国間で通商条約を締結することとなりました。

そのままドイツ関税同盟も成立してしまいましたので、つまりオーストリアの第1案がそのまま受け入れられる形で協議が成立してしまったのです。


「譜墺戦争」までは時間がかかりそうですが・・・。

なかなかシリーズナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? を進められずにいますので、本日の記事はここまで。

続きは次回以降の記事をお楽しみに!


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