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第406回 統一ドイツ誕生までの歴史を復習①~「ドイツ」とは何なのか?など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第392回 プロイセンV.S.オーストリア/オルミュッツ協定締結までの動き

前回の記事を記したのが1月9日で、本日(この文字を入力している時点)での日にちが6月3日ですから、実に5か月近くこのシリーズ を放置していたことになりますね。

私の生活も大分安定してきましたので、少しずつこのシリーズも再開し、進めてみたいと思います。

期間がずいぶん開いたこともありますので、前回の記事 までの流れを追いかける形で、改めてく今回のシリーズ が対象としている「ドイツ」という国の成り立ちをざっくりと復習しながら話題を進めてみたいと思います。

改めて記しますと、

・「ドイツ」という国名は、元々「東フランク王国」という国が存在していた地域の住民を指す言葉であった。

・東フランク王国とは、もともと「ルートヴィヒ1世」が統治していたフランクのうち、3男である「ルートヴィヒ2世」に割譲された領土である。

・フランク王国のうち、東フランク王国に当る土地は、元からフランク王国であったわけではなく、ルートヴィヒ1世の先代の王であるカール大帝が、東に攻めて拡大した領土に当る土地であった。

・東フランク王国以外のフランク王国は、元から「フランク人」によって統治されていた土地であったが、東フランク王国は民族も風習も違う異民族によって統治されていた土地であった。

・東フランク王としては第3代に当るルートヴィヒ4世には、跡取りが誕生しなかったことから、ルートヴィヒ4世の死去に伴って王族にフランク王国の血筋は耐え、またこの地域に居住していたフランク人は、東フランク王国に元から住んでいた「ゲルマン人」たちとの間で同化が進み、事実上東フランク王国のフランク人は消滅してしまった。

フランク王国分割
考えてみれば、東フランク王国誕生当時のドイツには、「プロイセン」は存在しなかったんですね・・・。改めて考えると、意外な思いがします。

また、ここまで復習してみたんですが、一つ見えてきたことがあります。

そもそも、「ドイツ」という言葉のルーツをたどりますと、フランク王国にてラテン系の言語ではなく、「ゲルマン系の言語」を話す人(ゲルマン人)たちのことを「ドイツ」と呼称しており、「ドイツ」という言葉そのものには「民衆」や「大衆」といった意味があったのだそうです。

つまり、フランク人はフランク王国において、ゲルマン系の言語を話す人たちのことを「ドイツ」と呼んでいたんですね。

「復習」を少し進めます。

・ルートヴィヒ4世の死後、「東フランク王国」に居住していた「ゲルマン人」たちの合議によって、「フランケン公コンラート1世」が王として選ばれる

これをもって「ドイツ王国の誕生」とされているわけですが、これは、つまりもともと「東フランク王国」であった場所で、 「『フランク人』より『ドイツと呼ばれていたゲルマン人』」たちの合議によって、「フランケン公コンラート1世が即位した」ことを意図しているわけですが、コンラート1世にはまだフランク人の血が流れていました。

彼の後を継いだザクセン大公ハインリヒ1世の代になって初めてドイツ人による国家が誕生することになったんですね。

やはり期間をおいて調べなおしてみると見えてくることってありますね。


オーストリアのルーツ

また、加えて 第377回の記事第380回の記事 で「東フランク王カールマン」をご紹介しているのですが、ここは私の中で情報が混乱していますね、明らかに。

先述しました、ルートヴィヒ2世が割譲された「東フランク王国」は、「東フランク王カールマン」が統治していた東フランクとはまた別の領土。

カールマンはカール1世(のちのカール大帝)の弟で、カール1世とカールマンは、父親であるピピン3世より、フランク王国の西側をカール1世が、東側をカールマンが譲渡されています。

この時のカール大帝が統治していたエリアを「西フランク王国」、東側を「東フランク王国」と呼称していましたので、この時代の「東フランク」とルートヴィヒ2世が継承した「東フランク」とはまた別ものですね。

カールマンの方がカール1世より早く亡くなりますので、カール1世は東フランク王国を継承し、フランク王国全土を継承しました。

後にカール1世はローマ教皇より戴冠され、「カール大帝」となります。

カール大帝の時代に、「東方辺境」であったオストマルク(のちのオーストリア)よりマジャール人(のちのハンガリー人)を撃退。マジャール人対策のため、カール大帝はこの地域へのバイエルン人の移住を促進し、バイエルン貴族であるヴィルヘルム家に「オストマルク東方辺境伯」の爵位を授けました。

カール大帝の死後、ルートヴィヒ1世がフランク王国全土を継承します。ちなみに、「ルートヴィヒ」って、フランス語では「ルイ」と発音するんですね。「ルートヴィヒ1世」は「ルイ1世」ってことらしいです。

ルートヴィヒ1世の死後、彼の3人の息子の間で領土争いが勃発。「ウェルダン条約」が結ばれ、3人の息子のうち、東フランク王国を継承したのがルートヴィヒ2世(ルイ2世)。もちろんこの「東フランク王国」とはカールマンが統治していた「東フランク王国」とは基本的に別ものです。

ややこしいですね。

さて。ルートヴィヒ1世の死後、3つに分割された領土の一つである「東フランク王国」。その一部として存在した「オーストリア」はのちに公国→大公国へと昇格し、やがて「ハプスブルグ家」が大公を世襲するようになります。


プロイセンのルーツ

また、もう一方のドイツ統一の主役である「プロイセン」ですが、第375回の記事 に非常に詳しく書いてましたね。

元々プロイセンは、「ドイツ」とは全く関係のないエリア。

東プロイセン
↑この位置(濃いえんじ色の位置)にありました。同エリア、西隣のエリアが「ポーランド」で、そのさらに西側に連なるエリアが「ブランデンブルク辺境伯領」。

濃いえんじ色のエリアが元々「プルーセン」と呼ばれる地域で、ここに「プルーセン人」と呼ばれる、キリスト教徒ではない「異教徒」が居住していました。

教皇の命を受けて「ドイツ騎士団」が派遣され、この地域にもともと居住していたプルーセン人を降伏させ、やがてドイツ騎士団とプルーセン人は同化し、プルーセン人は事実上消滅。プルーセン人が居住していた地域、「プロイセン」が後のプロイセン王国のルーツとなっています。

こののちドイツ騎士団はプロイセンだけでなくポーランドに対しても支配をもくろむようになるのですが、ドイツ騎士団はポーランドに敗北。

ドイツ騎士団割譲
↑上図のうち水色・ピンク・緑・黄色の地域をポーランドに譲渡します。

この結果、プロイセン(ドイツ騎士団領)は元々プルーセン人が居住していたエリアのみとなり、さらにポーランドの「属国」として存続することになります。

さらに1525年、ドイツ騎士団の総長であるアルプレヒト・フォン・ブランデンブルクが、ドイツ騎士団をプロイセンから放逐し、プロイセンはポーランド王の下で「プロイセン公国」となります。

1618年に男系の血筋が途絶えるとブランデンブルク選帝侯が公位を継承し、「ブランデンブルク=プロイセン」となるわけですが、ブランデンブルク選帝侯領そのものが「プロイセン」とみなされるようになります。

「プルーセン人」も「ドイツ騎士団」も、さらにフランケン地方よりプロイセンに移住して農作を営んだフランケン人すらもいない「プロイセン」がここに出来上がってしまいます。

プロイセン・ブランデンブルク

領土からするとこんな感じです。ピンク色が神聖ローマ帝国ですから、そのピンク色とグレーの部分を除くエリアが「プロイセン」となりました。

ちなみに、この中で「神聖ローマ帝国」に属しているのはブランデンブルク選帝侯領のみで、同じプロイセン王国でありながら、それ以外の地域は神聖ローマ帝国ではなかったんですね・・・。ビックリです。


「神聖ローマ帝国」の行く末

そんな「神聖ローマ帝国」ですが、「フランス革命」の勃発で大きく動揺することになります。

革命当時、フランス国王であったのがルイ16世。ルイ16世の妃はあの「マリーアントワネット」。オーストリア大公のマリア=テレサを母に持つ女性です。

マリーアントワネットは、兄であるローマ皇帝レオポルト2世に助けを求めます。この後、オーストリアとプロイセンが同盟を結び、さらにフランス革命の影響下にあるフランスを、王制時代に戻そうとする「ライプニッツ宣言」を発表したところ、革命政府が激怒。フランス革命戦争が勃発することとなります。

さらに、のちに誕生した「ナポレオン政権」の働きかけを受けて神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は帝国を離脱し、フランス帝国と「ライン同盟」を結ぶことになります。

この時点で、「神聖ローマ帝国」は存在しなくなりますから、プロイセン全土が神聖ローマ帝国に属していたか否かはその重要性を失いますね?

そしてその後、ナポレオンの敗退を受けて行われた「ウィーン会議」。ここで承認された「ウィーン議定書」によりドイツ連邦が成立します。

ですが、この「ドイツ連邦」はあくまでもそれぞれが別々の行政機能を果たす独立した「国家」の集合体であり、「ドイツ連邦」がそのまま「国家」としての機能を果たすわけではありません。

ドイツ連邦に所属する国々は、もともと別々の民族であり、「ドイツ人」として一つにまとまろう、などという意識を持った集合体ではないわけです。

ですが、そんなドイツ人たちが、なぜ一つにまとまる必要性を感じるようになったのか。ここに大きく関与するのが「ビスマルク」という人物の登場でした。


統一ドイツへの布石

ビスマルクはプロイセンの宰相の名です。

ナポレオン戦争後、「ウィーン議定書」によってプロイセンが獲得した地域の中に、ドイツの交通の要所である「ラインラント」が含まれていました。ですが、プロイセンの本土とこの「ラインラント」とは飛び地になっており、プロイセン本土からラインラントに物資を輸送するためには、プロイセン本土とラインラントとの間に位置する国に対して「関税」を支払う必要がありました。

プロイセン
↑上図、16番がラインラントです。

プロイセンは、「統一ドイツ」を作ることでこの障害を取り除こうとしたのです。そして、そのキャッチコピーとして利用されたのが「統一ドイツ」という謳い文句。

先に述べた通り、「ドイツ人」とは、ドイツがフランク王国の一部であった時代にフランク人たちより「ゲルマン語を話す人たち」という意味で「ドイツ」と呼ばれていたことがそのルーツとなっています。

この当時、オーストリアは「フランス二月革命」の影響を受け、「チェコ」「ハンガリー」「北イタリア」という異民族による独立運動という問題を抱えていましたから、統一ドイツを果たそうとするビスマルクにとって、「オーストリア」という存在は邪魔だったんですね。

オーストリアがこれらの民族の独立運動の鎮圧にてこずっている中、プロイセンは先んじて「統一ドイツ」結成に向けて動き始めていたのです。

これに対してオーストリアは自国内の独立運動を鎮圧した後、オーストリアを外して統一ドイツの実現に向けて動き出したプロイセンの行動を「ウィーン議定書の規約に反する」とし、プロイセンのこの動きはいったん白紙に戻されるわけですが・・・

そのあとの動きを第392回の記事 で記事にしています。

ということで、続きは第392回の記事 をご覧ください。

当シリーズ次回記事では、改めて第392回の記事 の続編。普墺戦争勃発に向けたドイツ連邦内の動きを記事にしてみたいと思います。


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

はじめまして。
以前から密かに注目しておりましたページに初めてコメントさせて頂きます。
いつも詳細なデータ分析と説得力のあるご意見、歴史に対する見解・考察に感服しております。
今回たまたま私が最近興味を持ち始めたプロイセンの記事でしたこともあり、改めて過去記事含めてゆっくり読ませて頂いております。
取り上げるトピックが私の興味分野とかなり近い気がして、また自分自身の勉強というか好奇心を育む上でも、とても頼りになると思っています。
なので、これからの活動も楽しみにしていますし、応援しています。

この機会なので、厚かましいお願いかもしれませんが、宜しければ情報交換と言いますか、わからないこと、気になったことについて伺ったりしても良いでしょうか?
もちろんご都合もあると思いますので、お時間がある時で結構ですので、お付き合いいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
もとひろ at 2018/06/17(日) 02:01 | URL

もとひろ様

とてもうれしいコメント、ありがとうございます(*^^)v

念のため最初に記しておきますと、私自身が作成した記事でありながら、私自身が作成した記事の内容に関してはほぼ「無知」の状態からすべてをスタートしています。

政経関連は、そうは言っても大分詳しくなったとは思うのですが、こと、「歴史」、特に現在記している「ドイツ」に関しましては、まだまだ「無知」に近く、だからこそ一つ一つの記事を作成するのに時間がかかっている・・・というのがまずは現状です。

ですので、もし私になにがしかの質問をしていただいた場合、ひょっとすると私よりもとひろさんの方がよほどご存知であるような内容もあるのではないか、と思います。

ですので、それを前提の上で、であればぜひお申し出をお受けさせていただきたいと思います。

こちらこそ、よろしくお願いいたします(*^^)v
nonkinonki at 2018/06/17(日) 19:04 | URL

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