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第392回 プロイセンV.S.オーストリア/オルミュッツ協定締結までの動きなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第390回 ドイツはなぜ統一したのか/ドイツ関税同盟とプロイセン

前回の記事 では、ドイツの「民族統一への動き」が生まれた理由として、ウィーン会議後にプロイセンが獲得した領土が飛び地になっていたことがそもそもの発端であることを記事にしました。

経済的な交易の要所である「ラインラント」を獲得したプロセインは、飛び地となっているこの「ラインラント」と自国が行き来する際の「関税」の障壁をなくすことを目指し、その「障壁」となる国々との間で「関税同盟」を結ぼうとしたわけです。

ですが、プロイセンのこの動きは南ドイツのバイエルンを始めとする他の国々に警戒感を抱かせ、ドイツは3つの「関税同盟」が分立する状態となり(この状態で、プロイセンはまだラインラントと飛び地の状態)、プロイセンは更にこの3つの関税同盟を統一する必要性に駆られ、バイエルンを中心とする「南ドイツ関税同盟」との間で「通商条約」を結び、続いてラインラントとプロイセンとを陸続きにさせるための要所となる「ヘッセン=カッセル選帝侯国」を北ドイツ関税同盟へと引き入れることに成功。

その後「ドイツ関税同盟」として3つの関税同盟を統一することに成功しました。

プロイセンのこの動きがドイツ国民の「民族意識」を高揚させ、更にフランスで起きた「二月革命」の影響を受け、ウィーンで勃発したのが「三月革命」でした。三月革命はウィーンだけでなく、ベルリンでも起きています。


この時点で見えてきたのは、そもそも「ドイツ人」とは、かつて「東フランク王国に所属していた国々」の「寄せ集め」だということ。ドイツ人には、「これがドイツ人だ」という明確な定義づけなどそもそも存在しなかった・・・という結論ですね。

経済的な発展を求めたプロイセンの動きがドイツの「民族主義」を高めたわけですが、ウィーン三月革命で考える限り、ここで「民族主義」がテーマになるのは革命後におきた「チェコ(ベーメン)」「ハンガリー」「北イタリア」のそれぞれの「独立運動」で、このような問題を国内に抱える「オーストリア」はプロイセン主導で始まった「関税同盟」の動きに加わるることはできませんでした。


オーストリアの対案

第387回の記事 におきまして、フランス二月革命後、各地で勃発した革命の影響を受け、揺らいだ「ウィーン体制」の修復が図られた「オルミュッツ協定」の事を記事にしました。

記事中では、

度重なる暴動に対し、メッテルニヒの追放、皇帝の避難や逃亡など、皇帝によるウィーンを支配する体制が揺るがされる状況が繰り返し続きましたが、最終的に革命軍や反乱軍を鎮圧し、一時は存続が危ぶまれたドイツ連邦も、1850年にプロイセン、オーストリア、ロシアの三国間で結ばれた「オルミュッツ協定」によってふたたびその存続が確認されました。

と記しました。

ですが、これももう少し詳細な状況がわかりましたので、少し掘り下げて記事にしてみたいと思います。

オーストリアはまずウィーン国内におけるスラブ人(チェコ人)やマジャール人(ハンガリー人)の独立運動をどうも独力で収束させているようです。

オーストリア国内の騒動の鎮圧に先立って、プロイセンは、オーストリアを除くバイエルン、ウュルテンベルク、ハノーファー、ザクセン、プロイセンの5カ国の間でドイツ統一に向けた「代表者会議」を開催します。

その後、更にハノーファ、ザクセンとの間では「三王同盟」を結成します。これが1848年5月の事。オーストリアが国内の騒動を鎮圧するのはこの後になります。

国内の騒動を鎮圧させたオーストリアは、プロイセンのこのような動きがウィーン会議によって定められた「連邦規約に反する」という主張を行ったところ、これをバイエルンやヴュルテンベルクが支持し、ハノーファ、ザクセン両国は三王同盟から離脱することになりました。

ですが、この時確かに、ハノーファ、ザクセン両国は三王同盟を離脱しましたが、プロイセンはそれ以外の北ドイツ諸国と同盟会議を開催し、ここで「エアフルト同盟憲法」なるものを採択しています。ただ、この時点では単に「「エアフルト同盟憲法」を中心に話を進めていきましょう、といった感じで、まだ参加国で合意を取り付けていたわけではないようです。


また、オーストリアとしては、「ドイツ関税同盟」を中心として、プロイセンがドイツ連邦における影響力を拡大させているわけで、これに対抗するため、「ハンガリー」や「北イタリア」を領土に持つ自国と「ドイツ関税同盟」がさらに大きな「関税同盟」を形成することを連邦政府に対して提案します。

ドイツ連邦
ライン川

上が「ドイツ連邦」の地図、下が「ライン川」の地図です。オレンジや黄色の光沢で縁取りされている川が「ライン川」です。

「ライン川」はドイツの西側から南側を広く流れる川なんですね。ここを抑えているのが「プロイセン」。

これに対抗するため、オーストリアは自国領土を他のドイツ連邦諸国に開放し、ライン川側の「北海」

北海

からオーストリアが領土に含む「北イタリア」側の「アドリア海」

アドリア海

までを抜ける一大経済圏を築くことをオーストリアは連邦に対して提案したわけです。


オーストリアがこの提案に対する議決を急いだ理由として、「ドイツ関税同盟の更新年」が12年とされていたことにありました。

オーストリアがこの提案を行ったのが1848年。ドイツ関税同盟が「更新年」を迎えるのは1951年でしたので、ここで取り残されると、更にオーストリアの発展は遅れることを危惧したんですね。


ヘッセン=カッセル選帝侯国内部での武力衝突

プロイセンは逆にこのまま自国主導で「ドイツ統一」を推し進めたいわけですから、オーストリアのこの提案を流そうとします。

そして、そんな「オーストリア」と「プロイセン」は、「ヘッセン=カッセル選帝侯国内」においてついに「武力衝突」することとなります。

ただ、実際には武力衝突する寸前にまでは到達せず、寸前でプロイセンが軍を引く形になったのではないかと思われます。(詳細な記述はまだ見つかっていません)

原因はヘッセン=カッセル選帝侯国内で起きた君主と議会との対立で、最終的に議会が君主を押し切る形で議会側が提出した「憲法」が採択されたことにあります。

ウィーン三月革命でも宰相であるメッテルニヒが辞任後亡命しており、この当時のドイツでは君主が敗北すると命を狙われるような状況が当たり前の様にしてあったんでしょうね。

議会に敗北した君主はドイツ連邦に対して、1819年にドイツ連邦を構成する主要10ヶ国が集まって行った「カールスバート決議」に基づいて軍隊の派遣を要請します。

これを受けてオーストリアを中心とする連邦軍がヘッセン=カッセル選帝侯国に派遣されました。

ですが、連邦軍が対峙するはずの「議会」は、実はプロイセンが中心となって結成しているのエアフルト同盟の「のエアフルト同盟憲法」を支持しており、プロイセンはこの「連邦軍」の「侵攻」に対して異議を唱えます。

そしてプロイセンはヘッセン=カッセル選帝侯国に軍を派遣するのですが、プロイセンと連邦軍の兵力の差は圧倒的で、プロイセンはヘッセン=カッセル選帝侯国からの撤退を余儀なくさせられます。

こうして、1850年11月にオーストリアとプロイセンの間に、ロシアを交える形で締結されたのが「オルミュッツ協定」。

結果、エアフルト同盟は解体され、プロイセンは再び「ドイツ連邦」へと復活することになりました。


ですが、確かにプロイセンが北ドイツの小国との間で締結した「エアフルト同盟」は解消されることとなりましたが、だからと言って「ドイツ関税同盟」が解体されたわけではありません。

第387回の記事第389回の記事 で記しました様に、この後プロイセンとオーストリアは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」を経て、「普墺戦争」に向けて突き進むこととなります。

次回記事では、「普墺戦争」までのドイツを、「ドイツ関税同盟」側からさらに深めてみたいと思います。



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