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第390回 ドイツはなぜ統一したのか/ドイツ関税同盟とプロイセンなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第389回 シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/普墺戦争はなぜ起きたのか(後編)

前回の記事では、『オーストリアがプロセインに敗北した後の「ドイツ連邦」』を記事にする、とお伝えしたのですが、その前に少しタイトルにある、「ドイツはなぜ統一したのか」というテーマで記事にしたいと思います。

正確には、「なぜドイツは統一の必要性にかられたのか」というテーマです。

ドイツ統一は「ドイツ帝国」の誕生を待つ必要があるのですが、ドイツ帝国はプロイセンのビスマルク主導で行われました。

ドイツ統一は前回の記事で、

前回の記事(第387回の記事)でドイツが「フランス二月革命」の影響を受けて「民族統一の風潮が生まれた」と記しましたが、二月革命が起きる以前より、イギリスに端を発した「産業革命」がドイツにも押し寄せており、特に資本家たちの間で「ドイツ」という領土の統一が必要だと考えられるようになっていました。

と記しました。

今回、『オーストリアがプロセインに敗北した後の「ドイツ連邦」』の事を調べる中で、ドイツが統一に迫られた理由として、上記内容よりも更に詳細な理由に突き当たりましたので、今回はまずそのことから記事にしたいと思います。


ドイツ関税同盟

ドイツ統一へ向けた動きは、まず「プロイセン」からスタートします。

ウィーン議定書 によって、プロイセンは「ラインラント」という地域を手にしました。

【ラインラント】
ラインラント

プロイセンはこちら。
プロイセン

青いエリアが元々のプロイセンで、緑色の領土がウィーン会議によってプロイセン領土となったエリア。

このうち、12番が「ラインラント」です。

ご覧いただくとわかると思うのですが、ウィーン会議によって領土が広がった後の領土はラインラントに対して飛び地になっていることがわかると思います。

この「ラインラント」。「地下資源が豊富でライン川などを利用した物流の要所」であったのだそうです。

プロイセンにとってラインラントは産業を発展させるための肝ともなる領土です。そんな「ラインラント」をせっかく手に入れたわけですが、このように飛び地になっていては、プロイセンとしては非常に便利が悪いわけです。

プロイセン本土とラインラントの間で物流を行う場合、まず障壁となるのは「関税」の問題です。ですので、プロセインの宰相であるビスマルクはまず、他のドイツ各国と「関税協定」を結ぶことを考えました。

プロイセンがまず協定を結んだのは「ヘッセン=ダルムシュタット大公国」

ヘッセン=ダルムシュタット大公国

先ほどのプロイセンの地図ですと5番のエリア。プロイセンはヘッセン=ダルムシュタット大公国との間で「北ドイツ関税同盟」を結成します。(1828年)

ただし、これでもまだプロイセンはラインラントとは飛び地になっています。

ですが、プロイセンのこの動きは、ドイツ連邦南部のバイエルン王国とヴュルテンベルク王国にプロイセンに経済的な主導権を握られることを恐れを抱かせ、両国はこれに対抗して「南ドイツ関税同盟」を結成します。

バイエルンが3番、ヴュルテンベルクが17番です。

更に13番のザクセンと4番のハノーファーは「中部ドイツ通商同盟」を結成。この中部ドイツ通商同盟にはザクセンとハノーファー以外にも参加し、ザクセン・ハノーファーを併せて合計で17の国や地域が参加しました。

このことで、同じドイツの中に3つの経済圏が成立し、ドイツ連邦内での物流が滞ってしまう状況が起こりました。そして、ドイツ連邦内の資本家たちは、「このままではドイツが産業革命の流れから取り残されてしまう」と考えたわけですね。

この状況を打開するため、プロイセンは関税同盟を結成していた他の連邦内の国家との間で交渉を行い、3つの経済圏を統合し、「ドイツ関税同盟」を結成したわけです。


プロイセンを中心として結成された「北ドイツ関税同盟」はまず「南ドイツ連邦」との間で交渉に臨み、1829年、南ドイツ連邦との間で「通商条約」を成立させます。

更に1831年、ヘッセン=カッセル選帝侯国を北ドイツ関税同盟へと引き込みます。プロイセンの地図で言えば6番のエリアです。

このことで、プロイセンはラインラントとの間で陸続きとなり、「中部ドイツ通商同盟」は切り崩されることになります。

また更に1833年には13番の「ザクセン」、更に13番、6番、3番に囲まれた「テューリゲン諸邦」が組み入れられ、「中部ドイツ通商同盟」は崩壊。

こうして南北のドイツ関税同盟は統合され、1834年1月1日に「ドイツ関税同盟」が成立します。

ドイツ関税同盟の成立後、1935年にはバーデン・ナッサウ(詳細な位置はよくわかりません)、1836年にフランクフルト(5番の中にある都市国家)が加盟します。

そして、このような状況の中でフランス二月革命の影響を受けて起きたのが「ウィーン三月革命」です。

オーストリアV.S.プロイセン

さて。この「ドイツ関税同盟」に含まれていない地域がありますね?

それが「ドイツ連邦」の中で異質な状態にある「オーストリア帝国」です。

要は、オーストリアはプロイセン主導でスタートした「ドイツ関税同盟」の流れに乗り遅れたわけです。

三月革命は民衆が中心となって起こした革命ですが、同年(1848年5月)に開催された「フランクフルト国民会議」では、この王なプロイセンが中心となって結成した「ドイツ関税同盟」の発想が根底にありました。

ドイツ関税同盟の結成によって「ドイツ」統一の必要性をドイツ民衆が感じるようになったわけで、フランクフルト国民会議は「ドイツ人あるいは、ドイツ系の居住地を含めた統一国家の建設」を議論するために集められたものでした。

ですが、この中で「オーストリア」は自国の中で「スラブ人(チェコ人)」や「マジャール人(ハンガリー人)」を抱える国家です。

特に三月革命の影響を受け、オーストリア内では「マジャール人」がハンガリーの独立を目指した「ハンガリー独立運動」をスラブ人が「チェコ(ベーメン)」の独立を目指した独立運動を、また北イタリアも同領土に抱えていたため、北イタリアでも武装蜂起が起きるなどしており、「ドイツ統一国家」へ参加することは、このような独立運動を更に活性化させる要素を含んでいたわけです。

このような事情から、オーストリアにとって、「統一ドイツ」に参加することはあり得ない選択肢でした。ですが、統一ドイツへの参加を拒否するということは、オーストリアを除くドイツ連邦での「統一ドイツ」の結成を意味します。

このようなオーストリアが抱える「ジレンマ」はドイツ関税同盟に対しても姿を現します。


民衆は「統一ドイツ」の結成を望むわけですが、連邦に所属しているオーストリアの事情でこれがかなわないことから、プロイセンはオーストリアを除いた形でのドイツ統一を目指すようになります。

第387回の記事 にも同様の内容を記していますが、同記事で、

プロイセンはドイツ北部の「ハノーファー王国」や「ザクセン王国」との間で同盟関係を築くことに成功します。

ところが、このことに対して今度はドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ、動揺した「ハノーファー王国」と「ザクセン王国」はプロイセンから距離を置く姿勢を見せます。

このことで、プロイセンはドイツ連邦内で孤立することになってしまったんですね。

と記しました。「ドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ」たと記していますが、この時の「オーストリアの姿勢」とは、オーストリアがプロイセンの動きに対して示した「見解」に対するものです。


記事が少し長くなりましたので、今回はここで終了し、記事内容は次回へとゆだねたいと思います。

次回記事では、「ドイツ統一」への動きへ向けたオーストリアとプロイセンとの駆け引きを巡る記事を作成したいと思います。




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