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第387回 ドイツ連邦結成と普墺戦争/普墺戦争はなぜ起きたのか(前編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第386回 ライン同盟はなぜ崩壊したのか/ナポレオン戦争とドイツ連邦

前回の記事では、ナポレオン戦争の経過を経て行われた「ウィーン会議」。結果誕生した「ドイツ連邦」。

そしてドイツ連邦結成の過程で対立関係にあったオーストリアとバイエルンが和解し、オーストリア皇帝とバイエルン国王の娘が婚姻関係を結んだことまでを記事にしました。

オーストリアは元々バイエルン人であるヴィルヘルム家が拓いた地域地域なのですが、ヴィルヘルム家が断絶したのち、オーストリアを支配下に置いたボヘミア王オタカル2世を神聖ローマ帝国皇帝であったルドルフ1世(ハプスブルグ家)が撃破し、ボヘミアよりオーストリアを没収したところからオーストリアのハプスブルグ家による支配がはじまります。

ハプスブルグ家は元々現在のスイス地域を出自とするドイツ人ではありますが、バイエルン人ではありません。ですが、オーストリアに居住する住民は大半がバイエルン人ですから、支配層が和議さえ図れば、国民同士の親和はそう難しいものではないのではないかと思います。

ところが、ドイツ連邦にはもう一カ国、バイエルンとは元々異なる民族によって構成されている「プロイセン」という国が含まれています。

また、そもそも「ウィーン会議」自体が参加国間の利害が対立し、全く先に進まなかった会議で、ナポレオンが追放先であるエルバ島を脱出した、という噂が持ち上がったため、慌てて結論が形成された「妥協の産物」です。

そんな中で生まれた「ドイツ会議」が果たして本当にうまくいくのか。これを突き止めるのが今回の記事を作成する最大の目的です。


「ドイツ連邦」の崩壊と「普墺戦争」

サブタイトルが既にネタバレの様になっていますが、「ドイツ連邦」がいつまで続いたのかと申しますと、発足した1815年から1866年におきた「普墺戦争」。結果、プロイセン王国が勝利し、ドイツ連邦は解消されることとなりました。


普墺戦争はなぜ起きたのか?

ドイツ連邦

こちらが当時の「ドイツ連邦」の地図。赤いラインで囲まれた地域です。

ドイツ&オーストリア

中央の空色の部分が「バイエルン」で、その南端が現在のドイツの最南端ですから、当時の「オーストリア」という国の領土の広さがよくわかると思います。

現在の「チェコ」も当時のオーストリアの領土に含まれていますね。


フランス二月革命の影響

オーストリアとプロイセンが対立するに至る背景として、最初に挙げられるのが「フランス二月革命」の勃発です。

ざっくりとまとめますと、ウィーン体制後にフランス国王として復活したルイ18世。彼がフランス革命が勃発する以前の、聖職者や貴族(アンシャンレジーム で言う第一身分、第二身分)を優遇する政策をとったことで、市民。特にブルジョワジーの不満が蓄積。彼の後を継いだシャルル10世の時代に自由主義者(つまりブルジョワジー)が大きな勢力を持つ議会を解散させ、大幅な選挙戦の縮小を命じる勅令を発したことで、学生、労働者を中心にしたパリの民衆らによる「7月革命」が勃発します。(1830年7月)

ギロチンを恐れたシャルル10世は退位し、代わって国民の声に押される形でルイ・フィリップが国王として擁立され、首相にラファイエット将軍が立つ「立憲民主制」へとフランスは移行します。

ところが、擁立されたルイ・フィリップですが、彼が代表したのは「ブルジョワ」の声。「ブルジョワ」、つまり資産階級の事です。

そして、彼が選挙権を拡大したのは銀行家などのいわゆる「資産階級」に対して選挙権を拡大したため、革命を起こす中心となったプロレタリアート(労働者階級)の不満が鬱積し、1848年2月に勃発したのが「二月革命」です。

二月革命は普通選挙制度を求めた労働者たちが起こしたもので、ルイ・フィリップはイギリスへ逃亡し、7月革命によって誕生した「7月王政」は崩壊。フランスは再び共和政へと移行します。


そもそも、「ウィーン会議」で取り決められたヨーロッパの「ウィーン体制」とは、「フランス革命以前の状態」にヨーロッパを戻すことにあり、自由主義・国民主義運動を抑圧することにありました。

日本にいると違和感を覚えますが、この当時のヨーロッパでは、「支配する側(国王・皇帝)」は必ずしも支配する民族を代表する人物ではありませんでしたから、「国民主義運動」の弾圧とは、異民族である国王に対する抵抗勢力を抑圧する効果があった、ということですね。

ですが、フランスで二月革命が成功したことから、オーストリアにもまたその影響が及ぶこととなりました。

オーストリア国民が、宰相であるメッテルニヒに対して、「通商の自由、出版の自由、言論の自由など、比較的緩やかな自由主義的改革要求」などの請願がなされ、ウィーン市内でも学生らによる暴動が拡大することとなりました。(ウィーン三月革命:1848年3月13日)


「オルミュッツ協定」によるプロイセンの孤立

度重なる暴動に対し、メッテルニヒの追放、皇帝の避難や逃亡など、皇帝によるウィーンを支配する体制が揺るがされる状況が繰り返し続きましたが、最終的に革命軍や反乱軍を鎮圧し、一時は存続が危ぶまれたドイツ連邦も、1850年にプロイセン、オーストリア、ロシアの三国間で結ばれた「オルミュッツ協定」によってふたたびその存続が確認されました。

この間にオーストリア皇帝はフェルディナント1世からフランツ・ヨーゼフ1世へと譲位されています。

フランス二月革命の影響を受けて、ドイツでもまたドイツ民族による「民族統一」の風潮が生まれ、「オルミュッツ協定」が確認される前、1848年から1849年にかけてフランクフルトでは選挙によってえらばれたドイツ連邦の成人男性によって「フランクフルト国民議会」が開催されました。

この国民会議ではドイツ連邦で憲法を制定し、自由主義的なドイツ統一を図ることが目的とされましたが、結果的にはオーストリアやプロイセンなどの支持を得られず、とん挫することになりました。

この時、オーストリアがフランクフルト国民会議に対して敵対する姿勢を見せたのは、オーストリアにはバイエルン人を始めとするドイツ人以外にも、「スラブ人(つまりはチェコ人の事ですね)」や「マジャール人(つまりハンガリー人の事です)」を支配下に抱えており、つまりドイツ人による統一国家の建設が前向きに進むこととなると、オーストリアはその枠から外されてしまうことになりかねません。

オーストリアはこのことを恐れたんですね。

一方のプロイセンは、ウィーン会議によって築かれた「ドイツ連邦」が「オーストリア帝国を盟主として」築かれたものでしたから、1848年革命によるドイツ連邦の動揺は、自国が主導権を発揮して「ドイツ民族」を結集し、ドイツ統一国家を築くための足掛かりになる、と考えました。

このことから、プロイセンはドイツ北部の「ハノーファー王国」や「ザクセン王国」との間で同盟関係を築くことに成功します。

ところが、このことに対して今度はドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ、動揺した「ハノーファー王国」と「ザクセン王国」はプロイセンから距離を置く姿勢を見せます。

このことで、プロイセンはドイツ連邦内で孤立することになってしまったんですね。

一方ウィーン会議後に結成された「神聖同盟(露・墺・普、後にイギリス国王、ローマ教皇、オスマン帝国を除くすべての欧州君主国が参加)」では、大国であったロシアがオーストリアを支持する姿勢を示し、ここでもプロイセンは孤立することになります。


プロイセン・オーストリアと「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」

そして、そんな中で勃発したのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」。当時、デンマーク王国が継承権を有していた「シュレースヴィヒ公国」と「ホルシュタイン公国」のデンマークからの独立をめぐる争いです。

この戦争のお話、少し長くなりそうなので、今回の記事はここまでとし、次回記事へ託したいと思います。


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