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第386回 ライン同盟はなぜ崩壊したのか/ナポレオン戦争とドイツ連邦など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第383回 中世におけるバイエルン/バイエルン王国の誕生とライン同盟

前回の記事では、ナポレオン戦争の勃発と第三次対仏大同盟戦争。

第三次対仏大同盟戦争が勃発したとき、ナポレオンと同盟関係にあったバイエルンが、第三次対仏大同盟戦争に於いてナポレオン軍に敗北したオーストリア帝国が、ナポレオンと締結した「プレスブルクの和約」によって選帝侯領から王国に昇格する過程。

その結果を受けて神聖ローマ帝国内で開催された「帝国代表者会議主要決議」において戦争から生き残った小国の多くが領土を拡大し、大国であるプロイセンやオーストリアとも対抗できる実力をつけてしまったこと。

その結果、「中規模領邦」となった多くの国々が連携してプロイセンやオーストリアに対抗する存在となり、神聖ローマ帝国が形骸化してしまった様子を記事にしました。

その後「中規模領邦」がナポレオンの後押しを受ける形で結成されたのが「ライン同盟」です。


今回の記事では、フランスと同盟関係にあったライン同盟が、いったいどのような経緯でフランスと離反し、ナポレオンが敗戦を喫するに至ったのか。更にライン同盟が解消され、その後「ドイツ連邦」が結成されるに至った経緯を記事にしたいと思います。


ライン同盟とナポレオン戦争

ナポレオン戦争が勃発したのが1803年。ライン同盟が結成されたのが1806年ですから、ライン同盟はナポレオン戦争の最中に結成されたことがわかります。

で、ライン同盟に参加しているドイツ諸侯とナポレオンとは同盟関係にあるわけですが、ではこの間ライン同盟に参加しなかった「プロイセン」と「オーストリア」はどのような歴史を刻んだのでしょうか。


プロイセン対ナポレオン帝国


プロイセン国旗

ライン同盟が結成された当時、プロイセンはナポレオン軍に対して中立的な立場を取っていました。

ですが、ナポレオンの後押しを受けて、ドイツ中腹に「ライン同盟」が結成されたことを受け、プロイセンは、

・ロシア帝国
・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)
・ザクセン王国
・スウェーデン王国

との間で「第四次対仏大同盟」を結成し、フランスに宣戦布告を行います。

結果的にプロイセンはフランスに敗北し、1807年7月7日-9日、ロシアとともにフランスとの間で「ティルジットの和約」という講和条約を結び、両国は第四次対仏大同盟から離脱。結果的に「第四次対仏大同盟」は崩壊します。

プロイセンはフランスに対してプロイセン西部を割譲させられ、ナポレオンはこの地域に「ヴェストファーレン王国」を設立。自分の弟をこの国の国王に据えます。

また、「ティルジットの和約」において、「ポーランド分割」により領土を失っていたポーランドが、「ワルシャワ公国」として復活します。「ポーランド分割」に関しては 第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生 をご参照ください。

改めて振り返ってみますと、「ポーランド」を分割したのは1795年、「プロイセン」、「オーストリア」、そして「ロシア」の間で分割されたんですね。

「ロシア帝国」が誕生したのも1721年10月22日の事ですから、この当時であったことがわかります。

また一つネックとなるのは、プロイセンとの戦いにおいて、ナポレオン軍がベルリンにおいて「大陸封鎖令」を発令したこと。

この当時、いわゆる「産業革命」によってイギリスが工業発展を遂げている最中でした。ナポレオンは、この「イギリス」と自分が支配するヨーロッパ各地との間での貿易を禁止したんですね。

ナポレオンとするとイギリスを経済的に孤立させることを目的としていたのですが、このことが却って「ナポレオン帝国」の国民たちを物資不足に陥らせ、疲弊させてしまうことになります。


オーストリア対ナポレオン帝国

オーストリア帝国国旗

プロイセンとの戦いの後ナポレオンは、今度はスペインの国内で起きていた内部抗争に介入します。

スペイン国内で対立する構造にあった国王カルロス4世とその子フェルナンド7世を共に幽閉し、自分の兄をスペイン王として擁立します。

このことにスペイン国民が反発し、武装蜂起が勃発します。

これにイギリスがスペインを支援する形で参戦し、スペインを舞台にナポレオン軍とイギリス軍は交戦状態に陥ります。

ナポレオン軍はイギリス軍をいったんは打ち破るわけですが、その後もスペイン国民が繰り広げるゲリラ戦に苦しめられ、フランス軍はスペインに張り付け状態となってしまいます。

この様子を見たオーストリア帝国は、イギリスとの間で1809年4月9日、「第五次対仏大同盟」を結成します。

オーストリアは 前回の記事 でもお示ししました様に、「第三次対仏大同盟戦争」に敗北し、1805年12月4日、同戦争の講和条約である「プレスブルクの和約」をフランスとの間で締結し、フランスとの間では和解した状態にありました。

スペイン戦においてナポレオン軍が苦戦しているとみて、講和条約を破り、再び交戦状態に入ったわけですね。

ところが、オーストリア軍はこの戦いにおいてもナポレオン軍に敗北します。オーストリアはナポレオン帝国との間で「シェーンブルンの和約」(1809年10月14日)を締結し、領土を割譲させられることになります。

1811年3月20日にはオーストリア皇女との間で生まれた自身の子がローマ教皇になるなど、ナポレオン帝国はまさしく絶頂の一時代を築きます。


ロシア遠征と第六次対仏大同盟

ナポレオンの嫡男であるナポレオン2世がローマ教皇となった年、大陸封鎖令の影響を受けて経済的に困窮したロシアはイギリスとの間で貿易を再開させます。

これを見てナポレオンはロシアへの遠征を決意します。

ナポレオンにとって失敗だったのはこの「ロシア遠征」。ロシアがとった作戦は、まるで戦国時代の中国を彷彿させます。軍閥時代以降、対日開戦後の中国も同じような手段を用いていましたね。

ロシアがとった戦術は、自国都市の住民をすべて避難させた状態でフランス軍を都市に招き入れ、火を放って食糧や建物を焼失させる「焦土作戦」。ロシアがこの作戦を立て続けに実行したことで、フランス軍は占領したはずの都市なのに、食糧も住居も失われ、撤退を余儀なくされてしまいます。

そして撤退を始めたフランス軍にロシアのコサック騎兵や農民が襲い掛かり、更にロシアの寒波にも見舞われて、37万が死亡、20万人が捕虜となったのだそうです。

60万も派遣された軍隊が、最終的にはたった5000人しか生き残ることが出来なかったのだそうです。

このことが、ナポレオン軍にとっては完全な「転換点」となってしまいました。

ロシア遠征

ナポレオン軍のロシア遠征を受けて、ロシアとイギリスは「第六次対仏大同盟」を結成。1213年にはこれにプロイセンが参入。7月にはスウェーデンが、8月にはついにオーストリアが、そして10月にはフランスにとって長年の同盟関係にあった「バイエルン王国」までもが離反し、第六次対仏大同盟に参加しました。

このことで、ついに「ドイツ」はフランスの支配から「解放」されることとなりました。

最終的にナポレオンが敗北し、離島に追放された後、フランスには亡命していたブルボン家のルイ18世が即位し「王政復古」がなされました。


ウィーン会議とドイツ連邦

ナポレオン戦争の終結後、オーストリアの首都である「ウィーン」において開催されたのが「ウィーン会議」。

ナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパをどのようにして回復していくのか、これを決めるために行われた会議だったのですが、参加各国の利害が一致せず、議会内容は一向に進展しなかったのだそうです。このことから生まれた言葉が「議会は躍る。されど進まず」という言葉です。

会議の結果、ドイツには「オーストリア帝国」を盟主とする「ドイツ連邦」が成立しました。

ドイツ連邦の加盟国を見てみますと、

・オーストリア帝国
・プロイセン王国
・ザクセン王国
・バイエルン王国
・ハノーファー王国
・ヴュルテンベルク王国

のほか、合計で39の国や地域が参加したのだそうですよ。

ただし、世界の窓 によりますと、

そもそもハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主同盟に近いのである。

と記されているように、「ドイツ連邦」はあくまでも数多くの主権を持った国が集まってできた「連邦」にすぎません。

例えば、ウィーン会議の決定事項には、同じ「ドイツ連邦」の加盟国であるはずの「プロイセン」に関する記述が別にあり、

・ザクセン王国の北半分、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得する。
・ワルシャワ公国の一部をポズナン大公国プロイセン王が大公を兼ねる。
・スウェーデンから西ポンメルンを獲得する。

と記されています。

またオーストリアについても

イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国とする

との記述があり、プロイセンやオーストリアはドイツ連邦以外にも領土を有していることがわかります。

何より、同じ加盟国の中に「プロイセン」と「オーストリア」という二大強国が同時に含まれている体制。果たしてこのままうまくいくのでしょうか?

一方、「バイエルン王国」は元々オーストリアと対立関係にあったことから、ウィーン会議でも調整がうまくいかず、バイエルンとオーストリアはウィーン会議後、個別に交渉しました。

「ドイツ連邦」が結成されたのは1814年の事ですが、バイエルンの加盟は1年伸びて1815年。更にバイエルンの領土が確定したのはその翌年、1816年の事だったのだそうです。

両国はオーストリア皇后マリア・ルドヴィカの死をきっかけにこれまでの対立関係を解消し、1816年4月、「ミュンヘン条約」を締結します。

11月にはオーストリア皇帝フランツ1世とバイエルン王であるマクシミリアン1世の娘カロリーネ・アウグステが結婚します。


さて。次回記事では改めて、「ドイツ連邦」結成後のドイツについて更に深めてみてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第387回 ドイツ連邦結成と普墺戦争/普墺戦争はなぜ起きたのか(前編)
このシリーズの前の記事
>> 第383回 中世におけるバイエルン/バイエルン王国の誕生とライン同盟

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このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


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