FC2ブログ
第383回 中世におけるバイエルン/バイエルン王国の誕生とライン同盟など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第381回 神聖ローマ帝国崩壊に至る経緯

それにしてもややこしい。。。

登場する国や人物が複雑すぎて、全体像を理解するのがなかなか難しいです。

前回は「ライン同盟」を中心として記事を作成することをお約束したのですが、今回の記事では「ライン同盟」とともに、今回のテーマの本題である「バイエルン」という地域に関しても深めてみたいと思います。


ライン同盟はなぜ結成されたのか?

「ライン同盟」は、Wikiによりますと、

1806年7月12日、フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は名目だけ存続していた帝国を離脱してフランス帝国と同盟し、ライン同盟が成立した。

とあります。

ただ、どうしても疑問だったのは、いくら圧力を受けたとは言えドイツ諸侯がそう簡単にフランスの軍門に下るものなのか、ということでした。

で、深めていきますと、そもそもこの「ライン同盟」が結成されるきっかけとなったのはライン同盟が結成される前、ヨーロッパ諸侯が結成していた「第三次対仏大同盟」。これが崩壊する過程にヒントがあることがわかってきました。

「第三次対仏大同盟」を結成していたのは

・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)
・オーストリア帝国(神聖ローマ帝国)
・ロシア帝国
・ナポリ王国
・スウェーデン王国

の5カ国なのだそうです。


バイエルン選帝侯V.S.ハプスブルク家

前回の記事で、フランス革命当時のドイツの状況に関して、

対フランス革命政府という大義に於いてオーストリア(ハプスブルグ家)とプロイセンは同盟関係を結べる関係にはあった、ということです。とはいえ、ハプスブルク家=バイエルン人というわけではありませんから、バイエルン人とプロイセン人が友好的であった、ということにはならないでしょう

と記しました。

ハプスブルク家とバイエルン人の関係においてわずかに触れているわけですが、この時私が抱いていた疑問に対する答えが「第三次対仏大同盟」当時のドイツの状況から見えてきました。

同じ「ドイツ(神聖ローマ帝国)」という国の中に、「オーストリア帝国」と「バイエルン選帝侯領」という二つの「国」が存在しました。

「オーストリア皇帝」であったのは言わずと知れたハプスブルク家ですが、「バイエルン選帝侯」であったのは「ヴィッテルスバッハ家」。バイエルン地方を発祥とする生粋のバイエルン人です。

ヴィッテルスバッハ家とハプスブルグ家は同じドイツの中でも対立構造にあり、神聖ローマ帝国皇帝の座を互いに争うような関係にあったのだそうですよ。

1180年に「バイエルン公オットー1世」(第377回の記事 に登場するバイエルン公オットー1世とは別人)がヴィッテルスバッハ家として初めてバイエルン公に即位して以来、第350回の記事 で登場した「バイエルン王ルートヴィヒ3世」が退位するまで、「バイエルン公国」「バイエルン選帝侯領」「バイエルン王国」と3つの時代に渡ってヴィッテルスバッハ家は「バイエルン君主」の座に君臨し続けます。

直系のバイエルン系ヴィッテルスバッハ家は1777年、マクシミリアン3世ヨーゼフの死去によって断絶するのですが、遠縁にあたるプファルツ選帝侯カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承し、カール・テオドールの出身であるプファルツ=ズルツバッハ家はヴィッテルスバッハ家に統合されます。

ところが、この「カール・テオドール」という人物があまり政権に対する執着心がない人物で、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(ハプスブルグ家)がカールにバイエルン選帝侯領の割譲を求めます。

これに異を唱えたのがプロイセン大王フリードリヒ。バイエルン領を巡ってプロセイン軍とオーストリア軍の中で継承戦争が勃発します。(1778年7月5日:実際には和議が結ばれ、武力を用いた戦争には発展しませんでした)

その後、1789年にはフランス革命が、1792年にはフランス革命戦争が勃発。カール・テオドールは、1799年脳卒中のため、死亡。

カール・テオドールにも子どもがいなかったため、今度は「ヴィッテルスバッハ家プファルツ系傍系ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家」の出身である「ツヴァイブリュッケン公」マクシミリアン4世ヨーゼフがバイエルン選帝侯となります。

彼の時代に勃発したのが「第三次対仏大同盟戦争」。第三次対仏大同盟とフランス(ナポレオン軍)との戦争です。


ナポレオンとマクシミリアン4世

バイエルン選帝侯マクシミリアン4世の時代、フランス革命軍はドイツにまで押し寄せてきていて、マクシミリアン4世の拠点であるツヴァイブリュッケン公領を制圧。更にバイエルン王国の首都であるミュンヘンまでも陥落します。(この時バイエルン選帝侯領はオーストリア軍として対フランス革命軍に参戦していました)

その後、軍人としてのナポレオンが台頭する中、1800年6月14日、マレンゴの戦い、12月のホーエンリンデンの戦いにおいてオーストリアはフランス軍に敗北。

翌年2月にフランスとオーストリアの間で「リュネヴィルの和約」が結ばれたことによりフランス軍はバイエルンから撤退し、マクシミリアン4世は亡命先からバイエルンに帰国することが出来ました。

マクシミリアン4世はここから更にナポレオンに急接近し、1801年8月にナポレオンとの間で友好条約を結びます。

1803年にはフランスとイギリスとの間でのフランス革命戦争の講和条約である「アミアン講和条約」が破られ、イギリスはフランスに再び宣戦布告。「ナポレオン戦争」が勃発します。

1804年5月、ナポレオンが皇帝として戴冠すると、これに対抗して結成されたのが前述した「第三次対仏大同盟」。

第三次対仏大同盟はナポレオンに敗れ、1805年12月4日、第三次対仏大同盟戦争に対する講和条約である「プレスブルクの和約」が締結されます。

この時フランスの同盟国であったバイエルンは「選帝侯領」から「王国」へと昇格し、オーストリアはバイエルンに対し自国領の一部を割譲させられます。

そしてその後、1806年7月12日に締結されたのが「ライン同盟」。

ライン同盟

ライン同盟以前からフランスと同盟関係にあったのはバイエルン以外にヴュルテンベルク(選帝侯領→王国)、バーデン(選帝侯領→大公国)も同盟関係にありました。


ライン同盟結成に至った理由

オーストリアとフランスの間で「リュネヴィルの和約」が締結された後、フランスはドイツから撤退するわけですが、神聖ローマ帝国に所属していた国の多くはフランスに領土を奪われ、神聖ローマ帝国はそのドイツ諸侯からその補償を求められることになります。

当時のドイツでは「プロイセン」と「オーストリア」の2強状態にあったわけですが、「リュネヴィルの和約」締結後に神聖ローマ帝国で行われた「帝国代表者会議主要決議」により、フランス戦から生き残ることが出来た国々に多くの領土が分け与えられ、多くの「多くの中規模領邦」が誕生することとなりました。

これらの国々がまとまることで、プロイセンやオーストリアに「対抗しよう」とする意識が生まれたのだそうです。

この時点で「神聖ローマ帝国」そのものは実質形骸化してしまいました。

フランスが更にこれをサポートして締結されたのが当時の神聖ローマ帝国で「プロイセン」と「オーストリア」以外の国々で結成された「ライン同盟」。ライン同盟の結成により、神聖ローマ帝国は崩壊することとなったわけです。


長かったですが、大分整理できました。

こうやって成立した「ライン同盟」ですが、1813年、ライプツィヒの戦いにおいてナポレオンが敗退すると、ライン同盟は崩壊し、その後行われたナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議を経て、「ドイツ連邦」が誕生することとなります。

次回の記事は、新しく誕生したこの「ドイツ連邦」を中心に記事を進めてみます。



このシリーズの次の記事
>> 第386回 ライン同盟はなぜ崩壊したのか/ナポレオン戦争とドイツ連邦
このシリーズの前の記事
>> 第381回 神聖ローマ帝国崩壊に至る経緯

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]