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第380回 オーストリアとハプスブルグ家など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第377回 バイエルン人と「オストマルク」~オーストリアの誕生~

少し地図上のイメージがゴチャゴチャしてきましたので、まずはそれぞれの国や領土の位置関係から整理してみたいと思います。

【ドイツ】
ドイツ

【オーストリア】
オーストリア

少し小さくて分かりにくいかもしれませんが、現在のドイツとオーストリアの位置関係はこんな感じです。

この、ドイツとオーストリアを連結させて地図化してくれているサイトがあったので、そこから画像を拝借してみます。

【ドイツ&オーストリア】
ドイツ&オーストリア
米国日通旅行者様サイト より拝借いたしました)

そして「バイエルン」はこちら。

【バイエルン】
バイエルン州

ちょうどこの「バイエルン」と「オーストリア」が国境をまたいで連続した領地であることがわかりますね。

前回の記事では、東フランク王(ドイツ皇帝)オットー2世に、彼の従弟であるバイエルン公ハインリヒ2世が反乱を起こし、ハインリヒ2世はオットー2世に敗北、代わりにまた別の従弟である「シュヴァーヴェン公オットー1世」がバイエルン公として即位。

「シュヴァーヴェン公オットー1世」がもともと治めていた「シュヴァーヴェン」という領土がこちら。

【シュヴァーヴェン】
シュヴァーヴェン

バイエルンの西隣の領土ですね。そして、この時「バイエルン」の領土の一部が「オストマルク辺境伯」と「ケルンテルン公」によって分割されるわけですが、「オストマルク」はこの時正式に「オーストリア」と名称が改められます。

そしてもう一つ、「ケルンテルン」という領地がこちら。

ケルンテルン

現在のオーストリアの最南端に、現在はオーストリアの一「州」として位置しています。

オーストリアの他の州を挟んでバイエルンに面しているわけですが、おそらく当時はバイエルンと地続きだったものと思われます。

そして、オーストリアに攻め込んで更にバイエルンにまで侵入してきた「アヴァール人」の居住エリア、「ハンガリー」はこちら。

【ハンガリー】
ハンガリー

地理的には、オーストリアと地続きの南東側にあたります。

この状況をイメージしながら中世のドイツ・オーストリア史を見てみると、イメージしやすいかと思います。


オーストリア公国の誕生

カール大帝より、初代オストマルク辺境伯としての地位を与えられたヴィルヘルム家がもともとオストマルク領を統治していたわけですが、西暦894年、5代目エンゲルシャルク2世の時代にヴィルヘルム家はオストマルク伯としての座を明け渡しています。

少し明確ではなく、推測になるのですが、ヴィルヘルム家の後、オストマルク伯に任じられたのは前回の記事 で東フランク王カールマンの側近を務めたバイエルン人としてご紹介したルイトポルト。

前回の記事 では「バイエルン辺境区であるケルンテン辺境伯」としてご紹介しましたが、どうも彼が伯爵領として報封じられたのはバイエルン辺境区全てであるようです。(明確な証左を発見しているわけではないので、推測だと思ってください)

ルイトポルトは辺境伯として封じられた後、辺境区だけでなく、バイエルン全体の統治を任せられるようになります。

ところが、907年、オストマルク辺境伯領にマジャール人(ハンガリー公アールパード)が攻め込んできます。ルイトポルトは彼との戦いに敗れ、戦死。オストマルク辺境伯領をマジャール人に奪われてしまいます。

ルイトポルトが戦死した後、息子であるアルヌルフがルイトポルトの後を引き継ぎ、同年「バイエルン公」となります。

955年、レヒフェルトの戦いでオットー大帝がマジャール人を撃破したことにより、バイエルン公アルヌルフはバイエルン公領としてオストマルク辺境伯領を回復。

オットー大帝の息子、オットー2世の時代になるとバイエルン公を継承したハインリヒ2世がオットー2世と対立。オットー2世はハインリヒ2世を破った後、従弟である「シュヴァーヴェン公オットー1世」をバイエルン公として封じ、オストマルク辺境伯にはフランケン地方バンベルクより「バーベンベルク家」の「ドネガウ伯レオポルト1世」を封じることとしました。

レオポルト1世はフランケン地方バンベルクの出身です。

現在のチェコ国、「北ボヘミア」に相当する地域だそうです。

【チェコ】
チェコ
【ボヘミア】
ボヘミア

ボヘミアは第374回の記事 で「ボイイ族(バイエルン人)の故郷」という意味であるとしてご紹介しましたね。ただ、だからと言ってドネガウ伯レオポルト1世がバイエルン人だ、というわけでは残念ながら、ありません。

バーベンベルク家はオーストリア辺境伯として1156年まで、以降は「オーストリア公」として、としての発展を遂げることになります。

バーデンベルク家は1246年、フリードリヒ2世の時代に男系が途絶え、オーストリア公バーベンベルク家としては断絶します。

断絶後のオーストリア公領は諸侯の争いの的となるのですが、最終的に1278年8月26日、マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世を撃破した神聖ローマ帝国ルドルフ1世(ハプスブルグ家)がオタカル2世よりオーストリアを没収し、オーストリア公となります。

この時オーストリア公ハプスブルグ家が誕生しました。

オーストリア公ハプスブルグ家として初代となるルドルフ1世、その息子アルブレヒト1世がそうであったように、ハプスブルグ家はその後、「ローマ皇帝」を続々と輩出していくことになります。

1438年、アルブレヒト2世が皇帝となると、それ以降ハプスブルグ家がローマ皇帝の座をほぼ世襲するようになります。

後にフランス王ルイ16世の妃となるマリーアントワネットもまたハプスブルク家の出身ですね。

バイエルン人が自分たちを「ドイツ人」として認識するようになった一つの理由として、オーストリアに拠点を構えたハプスブルグ家の発展により、南ドイツが発展したこと。

そして何より、「オーストリア」を作ったのは自分たちバイエルン人であるということ。こういった理由が挙げられるようです。

さて。この後、ハプスブルグ家が歴代の皇帝を輩出した「神聖ローマ帝国」が崩壊し、ドイツは「プロイセン王国」と「オーストリア帝国」の2大勢力に分かれていくこととなります。

次回記事では、この「神聖ローマ帝国」が崩壊していく過程について追いかけていければ、と思います。



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