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第376回 バイエルン人とフランク王国〜ドイツ人の誕生など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>
第375回 バイエルン人とプロイセン人~プロイセン人編~

今シリーズ では、親シリーズである「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」において冒頭に作成したシリーズ「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」を作成する中で、大切だとは思うけれども追及できないままになっていた「ロシア(ソ連)」に関連するシリーズ と共に、「ドイツ」と日本の歴史とのかかわりを追及することを目的として作成しています。

特に、日本が「第二次世界大戦」に参戦する理由となった「日独伊三国同盟」。

日本とドイツとが同盟関係を成立させたことが、特に日米の関係を硬化させる一つの理由となったわけですが、私が今回の記事に託したミッションは、「なぜ日本とドイツが同盟関係を成立させたことが結果的に日本の第二次世界大戦への参戦へとつながったのか」という、その理由を探ることになります。

これを日本側ではなく、ドイツ側から探っていくことを目的としています。

そんな中、特に大きくなるのが「ナチスドイツ」の存在。

「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」。これをまずは最大の命題として今シリーズは作成しています。

「ナチスドイツ」が誕生した瞬間にフォーカスしましと、まず見えてきたのは、同じ「ドイツ人」の中でも「バイエルン人」と「プロイセン人」との間での対立。特にバイエルン人のプロイセン人に対する「反発心」です。

そして「ナチス」が誕生したのは「バイエルン」。

そこで、まずは「バイエルン人」が誕生するに至った経緯を 第374回の記事 で、一方の「プロイセン人」の誕生とその国家が拡大する敬意を 第375回の記事 にて検証いたしました。

現段階で見てて来たのは、「バイエルン人」は確かにいくつかの民族の間で混血が進んでこそいるものの、バイエルン人が「バイエルン」に移住し、ここで定住を始めて以降は多民族を排斥し、自分たちの血統を守るかのようなふるまいを行っていたこと。

また「プロイセン人」はその名前の由来となった「プルーセン人」はドイツ人に「同化」され、初期のプロイセンに国家を築いた「ドイツ騎士団総長」の血統ですら途中で途絶え、代わりにプロイセンを統治した「ブランデンブルク選帝侯」がプロイセンの王となり、最終的に「ブランデンブルク」と「プロイセンは」「西プロイセン」を吸収して陸続きとなったこと。

ブランデンブルクはプロイセン王国の一領土となり、この時点で既にその血統を守り続けたバイエルン人と違って、「プロイセン人」をあらわすのはその血統ではなく、「プロイセンという土地に住む人」以外の意味を持たなくなってしまったということがわかりました。

今回の記事では、プロイセン人から再び対象をバイエルン人へと移し、今度はバイエルンに定住した後の「バイエルン人」の動向を追いかけてみたいと思います。


「フランク王国」と「バイエルン人」

ドイツ騎士団がプルーセン人の居住区を征服し、ここにドイツ人国家を築いたのは1230年のことです。

元々ここに居住していたプルーセン人はその後、ドイツ騎士団やフランケン地方から移住してきたドイツ農民たちに同化され、この後、事実上消滅してしまいます。

ですので、ナチスドイツが誕生した「バイエルン」に居住していたバイエルン人が対立していた「プロイセン人」は、少なくともそのルーツをたどろうとしても、この1230年の出来事までしかたどることはできません。

ですが、バイエルン人は、6世紀の段階では既に「国家」を建設しており、史実としてバイエルン国家が初めて歴史に登場するのは、西暦591年に生涯を閉じることとなるガリバルト1世の時代です。

バイエルン部族公であった人物ですね。

この当時、ヨーロッパはフランク人国家である、「フランク王国」によって席巻されており、ガリバルト1世時代のバイエルンもまた、この「フランク王国」の脅威にさらされていました。

フランク王国561

これはガリバルト1世時代のフランク王国。分割されている様に見えますが、4名のリーダーが統括するエリアはすべて「フランク王国」に所属しています。

フランク王国があった地域は、もともと「西ローマ帝国」と呼ばれていた地域で、西ローマ帝国は486年、メロヴィング朝フランク王国によって消滅させられてしまいます。

バイエルンン公国もまたフランク王国より圧力をかけられ、788年、バイエルン公であったタシロ3世はバイエルンから追放され、カロリング朝フランク王国(カール大帝)に併合されてしまいます。

ただ、併合され、別のフランク貴族にバイエルンは与えられるのですが、実際にはこの土地の自治権がバイエルン人に認められ、バイエルン人には政治的独立が保証されることになります。

そしてフランク王国内においてバイエルン人は東方へと進出し、「オストマルク」という地域まで領土を広げます。「オストマルク」とは後のオーストリア地方。オーストリアとバイエルン人との関係はこの時から始まったんですね。

カール大帝はバイエルン貴族であるヴィルヘルム家に「オストマルク東方辺境伯」としての爵位を与えます。

同じカロリング朝時代にフランク王国はカロリング朝を築いたカール大帝の三男で、カール大帝の後を継いだルートヴィヒ1世の下で領土が3人の息子に、3分割して相続されることが決められるわけですが、ルートヴィヒの下にもう一人子供が生まれたことで、相続争いが勃発。最終的に戦争にまで至った後、「ウェルダン条約」によってフランク王国は「西フランク王国」「中フランク王国」「東フランク王国」の3つに分割されます。

フランク王国分割

赤が西フランク、緑が中フランク、黄が東フランク。

この後、中フランクは更に分割され、その一部が後の「イタリア」に、西フランクが「フランス」に、「東フランク」が「ドイツ」の基盤となります。(イタリアを除く部分は西フランクと東フランクで分割される)

そして「バイエルン」が割り当てられたのは当然「東フランク」。

面白いのは、この時「東フランク」に割り当てられた地域で、もともと「フランク王国」であった場所は地図中「フランケン」の中に一地域にすぎず、「ザクセン」はザクセン人の、「バイエルン」はバイエルン人が元々統治していた地域であり、統治者であるルートヴィヒ2世にとって見れば「異民族」であったわけです。

元々「フランク人」とは、「ローマ帝国」に急襲した「ゲルマン人」の総称。どこか特定の民族を差す名称ではありません。

ローマ人が、ライン川中流域に居住するゲルマン人の事を総称して「フランク人」と呼んでいたようです。

西ローマを滅ぼし、カロリング朝の王であるカール大帝は「ローマ皇帝」としての位を獲得するわけですが、その支配者層にはバイエルン人を含む様々な民族出身の貴族が加わっており、フランク王国は「多民族共生を基調」としていた、とのことで、フランク王国の支配下にありながら、バイエルン人に自治権が認められていた理由の一つではないかと考えられます。


「東フランク王国」とバイエルン人


さて。そんな「東フランク王国」ですが、その首都がおかれたのが「レーゲンスブルク」という都市で、バイエルンにある都市。そんなことで、バイエルンは東フランク王国の中心地として大いに栄えることとなります。

東フランク王国を引き継いだルートヴィヒ4世ですが、彼には嗣子(しし:跡取り)がおらず、まずここで東フランク王国から「カロリング朝」の血筋は途絶えます。

既に記しましたように、「東フランク王国」は生粋のフランク人が作り上げた地域ではありません。バイエルン、ザクセン、フランケンなど、「異民族」が統治していた地域を吸収する形で出来上がった地域です。

一方でフランク人たちはフランク王国の再建に固執し、外征を繰り返したことから肝心の東フランク王国の統治はないがしろにされ、更にこの地域からフランク王朝の血筋が途絶えてしまいました。

数少ないフランク人の血筋は異民族と同化され、東フランク王国から「フランク人」は消滅してしまいます。

ルートヴィヒ4世没後、東フランク王国は元々この地域に居住していたゲルマン人たちの合議によって運営されることとなり、次に選ばれた王はフランケン公コンラート1世(ドイツ王国の誕生)。

彼にも嗣子がいませんでしたので、生前に彼が指名したザクセン公ハインリヒ1世が王位を継承します。ハインリヒ1世はコンラート1世と対立状態にあり、他の地域との折り合いもつかず、内戦状態にありました。王国を分裂させないための苦肉の策だったんですね。

そして、選ばれた王はバイエルン人ではありませんでした。

929年、ハインリヒ1世は次男のオットーを後継者に指名し、937年7月に病没。その後、東フランク王(ドイツ王)オットー1世が誕生します。この後、バイエルン人は冷遇されていくこととなります。

彼は自分の娘婿をフランケン大公・ロードリンゲン大公に、弟のハインリヒをバイエルン大公に据えます。(ロードリンゲン大公は後にはく奪されます)

951年、自身は更に「イタリア王」を名乗り、後に親族の活躍もあって異民族を撃退、またイタリアの統治を委せていたベレンガーリオとアダルベルトの父子の反乱からローマ教皇を救ったことなどから、オットー1世は恐慌の信頼を得、ローマ教皇より皇帝の冠を授けられることになります。(960年:神聖ローマ帝国の誕生)

ちなみに、「ザクセン公」の「ザクセン」とは、英語では「サクソン人」。4世紀後半~5世紀にかけて、サクソン人の一部は「アングル人」や「ジュート人」とともにブリテン島、現在のイギリスにわたり、「アングロ・サクソン人」となります。

さて。この後、しばらく「バイエルン人」は歴史の表舞台から姿を消すのですが、この後、バイエルン人が東進・植民し、その基礎を築いた「オストマルク」。後の「オーストリア」に、ついに「ハプスブルク家」が登場します。

次回のきじでは、この「ハプスブルク家」が登場する時代にまで時間を進めて、「バイエルン人」と「プロイセン人」がなぜ対立するに至ったのか。このあたりの内容を記事にしてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
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