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第375回 バイエルン人とプロイセン人~プロイセン人編~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第374回 バイエルン人とプロイセン人~バイエルン人編(初期)~

ナチスドイツが誕生した地である「バイエルン」。

同じドイツ人の中でも、ここに居住する人たちのことを「バイエルン人」と呼ぶわけですが、前回の記事ではこのバイエルン人のルーツについて深堀してみました。

今回の記事では、同じドイツ人でありながら、そのルーツをバイエルン人とは異にするもう一つの民族、「プロイセン人」について記事にしてみたいと思います。


プロイセン人とは?

プロイセン州

前回の記事でも用いましたが、こちらは第一次世界大戦当時の「プロイセン」です。

バイエルンが後にこの地へ入植したバイエルン人の名前に由来していることとは違って、プロイセンは先住民族である「プルーセン人」にその名前が由来しているようです。

第292回の記事 の中で、ちょうど私はこの「プルーセン人」に関連した記事を作成していますね?

せっかくなので、その部分を抜粋してみます。

さて。一方で「ドイツ騎士団」ですが・・・。

モンゴル

地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

これは、「プロセイン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

もう少し拡大しますと、「ドイツ騎士団領」とは、この位置。

東プロイセン

後に「東プロイセン」と呼称される地域です。

「プロイセン」とはすなわち、もともとプルーセン人の居住地であった土地に、プルーセン人をキリスト教化することを目的として派遣されたドイツ騎士団が、プルーセン人を征服し建設した「ドイツ騎士団領」が発祥である、ということになりますね。

ですが、実際の「プロイセン」は最大で地図の薄いクリーム色の領土にまで広がるわけで、当時のプロイセンとは比較にならない大きさにまで成長することがわかります。

Wikiに記されている言葉を信用するとすると、

騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会し人材は豊富となり、フランケン地方からドイツ農民を入植させた。

とありますので、ここにドイツ騎士団の血は入らなかったが、フランケン地方から入植させられたドイツ農民と元々のプルーセン人との同化が進められた・・・ということでしょうか。

「フランケン地方」とは、現在のバイエルン州の北部に相当する地域なのだそうです。

バイエルン州

ウンターフランケン
ウンタ―フランケン
ミッテルフランケン
ミッテルフランケン
オーバーフランケン
オーバーフランケン

元々はバイエルン州ではなく、1800年代にバイエルン州に吸収されたのだそうです。

「ドイツ騎士団」が形成した「ドイツ騎士団国」は、

ドイツ騎士団国

最終的にここまで領土を広げます。

「Kingdom of Poland」と記されている部分はの上に、「Pomerelia(ポメレリア)」と記されているエリアがあり、ここが薄いエンジのラインで囲まれています。左上の枠の中で「until 1466 ceded to Poland-Lithuania」と記されており、1466年までの13年間、ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団との間で行われた戦争の結果、この地域がポーランド=リトアニアに譲渡されたことを示しています。

この地図だけだとイメージしにくいと思いますので、改めてプロイセンの地図を重ねてみます。

プロイセン州

上図の濃い青と青に挟まれた、グレーの部分がドイツ騎士団国の「Kingdom of Poland」と記されている部分。つまりポーランド領です。

ポーランド領以西には「Holly Roman Empire」と記されていますので、つまり「神聖ローマ帝国」になります。

第292回の記事 でドイツ騎士団とポーランドとのかかわりに少し触れているわけですが、同記事に記している様に、ローマ教皇の命を受けて東プロセインにまで進出してきたドイツ騎士団は、ポーランドにまで手を広げたわけですが、最終的にポーランド=リトアニア連合に敗戦し、ポメレリアの他クルマーラント、エルビング、マリーエンブルク、ヴァルミアをそれぞれポーランドに譲渡することとなります。

ドイツ騎士団割譲

上図、水色、緑、ピンク、黄色のエリアです。これらのエリアが「西プロイセン」になります。(黄色のエリアは除く)

これらの地域は「ポーランド領プロシア」と呼ばれるようになります。残された東プロイセンはドイツ騎士団領として継続しますが、ポーランドの事実上の属国となりました。この時点は「プロセイン人」と「ドイツ騎士団」とが同義で用いられていますね。

1525年にはカトリック教会公認のドイツ騎士団。その総長であるアルプレヒト・フォン・ブランデンブルクがドイツ騎士団をプロイセンから放逐した上でプロテスタント(ルター派)へと改宗し、ポーランド王の下で「プロセイン公爵」となり、プロイセンは「プロイセン公国」となりました。

1618年には男系の血筋が途絶えたため、ブランデンブルク選帝侯(ブランデンブルクは現ドイツの一部)が公位を継承し、「ブランデンブルク=プロイセン」となります。

1660年、ポーランド・リトアニア共和国より独立。父親であるフリードリヒ・ヴィルヘルムよりブランデンブルク選帝侯と同時にプロイセン公を引き継いだフリードリヒ3世は、「スペイン継承戦争」でハプスブルク家に味方することを約束した代償として、神聖ローマ皇帝より「プロセイン王」としての称号を与えられます。

「プロイセン王フリードリヒ1世」となり、プロイセンだけでなく「ブランデンブルク=プロイセン」全体が「プロイセン王の領土である」とみなされるようになります。

第296回の記事 でも話題にしましたが、ポーランドは後に分割されてしまい、「国家」としては事実上消滅してしまうわけですが、1772年、第一次ポーランド分割の折、ドイツ騎士団国からポーランドへ譲渡された「ポーランド領プロシア」は「プロイセン王国」へと併合されます。

結果、「ポーランド領プロシア」は「西プロイセン州」に、ドイツ騎士団がプルーセン人から奪った、もともとの「プロイセン(プロイセン公国に該当する地域)」は「東プロイセン州」となります。

1815年には「ブランデンブルク選帝侯領」であった地域は「プロイセン王国ブランデンブルク州」となり、元々

東プロイセン

こんなちっぽけな領土であったはずの「プロイセン」が、最終的には

プロイセン王国

ここまで大きな領土へと拡大してしまいます。

もはや「プロイセン公国」時代の領土などへのツッパリにもなりません。

もうお気づきだと思いますが、既にこの「プロイセン」はプロイセンであってプロイセンではありません。

元々の「プルーセン人」は完全に同化されて見る影すらありませんし、そもそもプロセインを「国」としてまとめ上げたドイツ騎士団はプロイセン公国が誕生する以前にプロイセン(東プロイセン)から追い払われてしまっています。

また、その「ドイツ騎士団」総長で、ドイツ騎士団を追い出して「プロイセン公国」を作った「アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク」の血統は途中で途絶えており、「プロイセン王国」の初代王となったのはブランデンブルク選帝侯である「プロイセン王フリードリヒ1世」。

もはや度の血筋を「プロセイン人」と呼べば良いのかすら全くわからない状態です。

この時点でプロセイン人とはすなわち「プロイセンに住む人」以外の意味を持たなくなっていますね。

そしてこの騒動は「神聖ローマ帝国」の皇帝の下で起きた騒動です。

次回記事では、再び話題を「バイエルン人」へと戻し、バイエルンに定住した後のバイエルン人の動向を深堀してみたいと思います。



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