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第373回 ナチスドイツが誕生するまでのドイツなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


今シリーズは、シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 の冒頭、第291回の記事 においてお示しした、命題を回収することを目的として作成するものです。

シリーズとしては、なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか の子シリーズとして作成するもので、最終的な目的としては親シリーズタイトルにございます通り、日本が第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こすに至った理由を調査することを目的としています。

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 のシリーズを作成する以前に、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 のシリーズを作成していたわけですが、記事の中で、意図的にその具体的な調査を行っていないのが「ロシア(ソ連)」と「ドイツ」の2カ国。

疑問には思いつつも、そこを深堀してしまうと本来知りたい「日中戦争はなぜ起きたのか」というテーマから離れてしまいそうな気がしていましたので、あえて触れずに来たテーマです。

ロシア(ソ連)については ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 である程度回収はできたものの、現時点の感覚としては「ソビエト連邦誕生に至る経緯」と同時に、スターリン政権誕生後のソビエトを調査することですべてを補完することが出来るかな、と感じていますので、まだ道半ばではあります。

ただ、「レーニン」や「トロツキー」という2名の人物の存在にまで深堀出来たことでひと段落はついたかと思いましたので、今度はもう一つのテーマ、「ドイツ」へと移行することとした次第です。


中国の近代史を調べていく中で、どうしても疑問がぬぐえなかったのは、中国人の(一部だとは思いますが)その『残虐性』にあります。

その代表的な事例が1927年の「南京事件」 あり、1928年の「済南事件」、そして1937年の「通州事件」でした。

ですが、同じようなことを中国人たちだけでなく、ロシア人たちもまた、行っていたわけです。(アムール川事件尼港事件

ロシアを調査した理由の中に、その原因を探ることも含まれてはいたわけですが、これが原因である、という明確な理由はつかめていません。

ただ、一通りロシアの近代史についてはおさらいすることもできましたので、今回からスタートするドイツの近代史、そしてその後深めてみたいと考えているソ連スターリン政権についても調査する中で、年代を比較しながら考えてみたいと思います。


前置きが長くなりました。それではいよいよテーマを「ドイツ」へと移してみます。

テーマの深め方として、どのような方法が良いのか、いろいろ考えていたのですが、まずチェックしてみたいのは、シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第351回の記事。ロシアの近代史を追いかける中で、ロシア革命後のロシア(ソ連)とドイツとが接触するまでの様子を記事にしたものです。

この記事の中で、「ナチスドイツ」が誕生した瞬間について記事にしています。

ナチスドイツが誕生したのは、ドイツの中でも特に保守的な市民が多かった「バイエルン」という都市。

ここで「独立社会民主党」が「多数派社会民主党」に武装蜂起を仕掛け、バイエルン・レーテ共和国が成立。さらにロシア出身の共産党員オイゲン・レヴィーネらがこの独立社会民主党が成立させたレーテ共和国に武装蜂起を仕掛け、さらに新しい「レーテ共和国」を発足させます。

ですが、実際にはこのレーテ共和国は1か月しか持たず、ベルリン中央政府より派遣されたワイマール共和国軍らによって占領させられ、この際に共産党員らは自分たちが捕虜としてとらえていた人々を虐殺する、などしています。

このような流れの中で誕生したのが右派政党である国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスです。

さて。このような中、情報として登場したのが「バイエルン人」と「プロセイン人」との対立のお話です。

では、「バイエルン人」とは何で、「プロイセン人」とはいったいどんな民族なのでしょうか?

「ドイツ人」のルーツについては第292回の記事 で触れたことがあります。
神聖ローマ帝国とは、もともと「東フランク王国」と呼ばれていた地域で、「ドイツ人」とは、一般的にこの「東フランク王国」の出身者たちのことを差していたようです。

「プロイセン人」についても触れている部分がございますのです、少し引用してみます。

第292回の記事 より】
地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

モンゴル

これは、「プロイセン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

バイエルン人は田舎者で、プロイセン人は都会人。

バイエルン人はプロセイン人を嫌っていて、第一次世界大戦は「プロイセン人が勝手に起こした戦争」で、そのせいで後の不景気にバイエルン人も「巻き込まれた」という意識もあるようです。

次回以降の記事ではまず、この「プロセイン人」と「バイエルン人」の違いについて、歴史を振り返りながら深めていくことでまず「ドイツ」の歴史について深めてみたいと思います。



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