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第372回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(後編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第357回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(前半)

前回の記事では、レーニンやトロツキー、スターリンらのパーソナリティに焦点を当て、特にスターリンのトロツキーに対する印象が良くなく、その考え方の違いからたびたび対立する構造にあったことをお伝えしました。

一方でレーニンが自身の考え方をスムーズに連邦全体の共産党にいきわたらせることの困難さを覚えたこと、これを解消するため、各地域の党委員会を指導する「責任書記」の取りまとめを行う、「書記長」という役職を新設したこと、そしてその「書記長」として、「初代」の役割についた人物こそスターリンであったことをお伝えしました。


グルジア問題

さて、そのスターリンですが、彼が名を馳せる原因となったのはスターリンの出身地である「グルジア」に関連した問題です。

グルジア

簡単に説明すると、帝政ロシア時代からロシアやヨーロッパ諸国の支配下にあったグルジアは1918年5月26日、第一次世界大戦の最中、「グルジア民主共和国」として独立するものの、ロシア内戦後、国内の情勢が悪化し、最終的にスターリン率いるロシア赤軍の進行を受け、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」といて再生されます。

「グルジア問題」とは、この「グルジア・ソビエト社会主義共和国」の扱い方を巡って、ロシアボリシェビキ党内で勃発した政治紛争の事です。

ロシア革命に成功したロシア・ボリシェビキでは、レーニンらが自分たちの革命を模範として世界各国において共産党が主導する形で武装蜂起を起こし、革命を成立させることを目的としていました。



ソビエト化する前のグルジアに対して、トロツキーは

 「グルジア内で武装蜂起が起こせる体制を準備し、ロシアはその武装蜂起を起こすための支援を行う」

ことを主張したわけですが、スターリンは

 「自分たちボリシェビキが主導して早急にグルジアをソビエト化する」

ことを主張します。レーニンは両者の主張に対して曖昧な態度を示すわけですが、最終的にスターリンの主張するグルジアに対しる介入を承認しました。

これは、ロシアやグルジアだけではなく、グルジアを取り囲む世界各国の情勢を危惧してのことです。



スターリンはグルジア侵攻後、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」を発足させるわけですが、この「グルジア・ソビエト社会主義共和国」の取り扱いを巡って、ついにスターリンとレーニンが対立することとなります。

「グルジア・ソビエト社会主義共和国」が設立されたのは1921年2月の事。

スターリンが書記局長に任じられたのは1922年4月3日の事です。



レーニンは1918年8月に受けた暗殺未遂の後遺症で、このころから脳の障害とみられる症状が出始めていました。
スターリンが書記局長に任じられた翌月、レーニンは脳卒中による半身麻痺の症状に襲われます。

同年8月、スターリンはグルジアの扱いに関連して、グルジアだけでなく、すべてのソビエト共和国が「自治共和国」として「ロシア連邦共和国」に加入することを主張した「自治化」案を作成しました。

ですが、レーニンはこれを「大ロシア主義排外主義である」として批判し、ロシア連邦共和国は、他の共和国と対等な立場で「ソビエト同盟」に加盟する代案を示しました。

スターリンはこれを「「民族自由主義」」であるとして不満を示しますが、結果的にこのレーニンの案をベースにグルジアは「ソヴィエト同盟」に加盟することとなりました。

ただ、グルジアは独立国家として加盟したわけではなく、アゼルバイジャン、アルメニアとともに、「ザカフカース連邦」として同盟に加盟することとなっていたため、グルジア共産党はこれを拒否し、中央委員会が辞職することとなります。

レーニンとスターリン

その後、スターリンの親友で、共にグルジア侵攻に加わったグリゴリー・オルジョニキーゼという人物が独立派のグルジア共産党員を殴りつけたことから、レーニンはオルジョニキーゼだけでなくスターリンをも批判し、スターリンとレーニンの関係は悪化。

1923年1月4日、病床からレーニンは「大会への手紙(レーニンの遺書)」という覚書によって、「スターリンの不作法な態度、度を越した権力、野心、そして政治を批判」した上で、スターリンを書記長職から解任することを提案しています。

ですが、この時点でスターリンはレーニンへの面会を監督する役職を買って出ており、つまりスターリン政権が終焉を迎えるまでレーニンのこの覚書が表に出ることはありませんでした。


レーニンの死去

1924年1月21日、レーニンは命を閉じました。

考えると、病床に伏した後のレーニンはスターリンがトロツキーから「後継者」の座を奪うために利用され、スターリンを抑える役目であったスターリンがいなくなってしまったことでスターリンはその本性を見せ始めた・・・ととらえることが出来るのではないでしょうか?

レーニンはスターリンだけでなく、その遺書の中でトロツキーに対しても以下のような批判文を掲載してます。

「能力が卓抜しているだけではない。彼個人は多分、中央委の中で最も有能である。しかし余りにも自信過剰だし、文事を余りにも行政的に処理しすぎる」

レーニンが批判した「スターリン」は、少数民族であるグルジア人を力で押さえつけ、「ロシア」という強国の下、支配しようとした、そんな「スターリン」でした。

第62回の記事 でお示ししたように、「共産主義」とはもともと

 『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』=『完全なる平等社会』

です。

ですが、スターリンのやり方はこれと全く逆行するやり方であったことは明らかですね。

一方のレーニンは、革命を起こす当初こそ「暴力(武装蜂起)」という方法を用いるわけですが、そのあとに出来上がった社会に対しては上下の区別をつけず、同じ立場として対等の関係を築こうとする様子がうかがえます。

そしてトロツキーは、そんなレーニンが目指す社会を実現するうえで、最短の距離で進むことが出来る方法を選択してきた人物である様に思えます。

トロツキーはスターリンの多数派工作によって徐々に政権の中枢から追いやられ、やがてソビエト連邦からも追放されてしまいます。

トロツキーやレーニンが、「世界で共産主義革命を起こすことが必要だ(世界革命論)」としたの対し、スターリンは「そんなものは世界中で実現しようとせずとも、ロシア一国だけで実現することが出来る(一国社会主義論)」という主張を行いました。

スターリンはこの後「大粛清」と言って、スターリンの考え方に反対する人を一般人まで含めて70万規模で処刑します。
処刑された人物の中にはレーニンが作った中央委員会に在籍していたカーネメフの名も含まれてますね。

トロツキーや彼の親族もまた逃亡先において暗殺されるなど、何となく現在の金正恩政権を彷彿させますね。

そして、ソ連と中国が結びつきを深めるのもちょうどこの当時です。もしソ連の指導者がレーニンのままであったとしたら、中国はあの様に変わり果ててしまうことがあったのでしょうか?

シベリア出兵などで内戦当時のロシアと日本もまた対立関係にはあったわけですが、もしレーニンが病没せず、健在であったとしたら、その後、特に9カ国条約 が結ばれた後の日本とロシア(ソ連)との関係は一体どのようになっていたのでしょう。

既に過去の話ですから、検証することすらできない話ではありますが・・・関心のある話ではありますね。


さて。シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯

この話題はいったんここで終結し、「近代史」のターゲットは、次はあの「ドイツ」へと移してみたいと思います。

シリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか」。こちらもお時間はかかると思いますが、少しずつ話題を進めてみたいと思います。



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