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第357回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(前半)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第355回 ブレスト=リトフスク条約締結~第一次世界大戦終結後のロシア

前回の記事では、主にロシア内戦の様子を中心に、トロツキーやレーニンが内戦中に行使した「戦時共産主義」について記事にしました。

この後、レーニンは急速に健康を害し、1924年1月21日、レーニンはその人生を閉じるわけですが、これまでの功績やレーニンとの信頼関係を考えると、レーニンの後を継ぐのはやはりトロツキーであるべきだと考えられるわけです。

ですが、レーニンの後を継いだのはトロツキーではなく、ヨシフ・スターリンであったわけです。

今回の記事では、なぜレーニンの後を継いだのがトロツキーではなくスターリンであったのか。この謎に迫る形で記事を作成したいと思います。


スターリンという人物

スターリン

現時点で記事を作成している目的は、レーニンの作った「コミンテルン」という組織が世界に与えた影響を調査することを一つの目的としているわけですが、「コミンテルン」そのものを追いかけようとすると、やはりその中心人物であるレーニン、そしてレーニンの後を引き継いだ「スターリン」の両名を追いかける必要があると考えています。

前回の記事では、コミンテルンを結成した後のレーニンについて追いかけたわけですが、彼は1924年1月にはその生涯を閉じてしまうこととなります。

こうなると、問題となるのはロシア共産党やコミンテルンがレーニンからスターリンに引き継がれていく過程を追いかけることで見えてくるものがあるのかな、と思っています。

既に記載しています通り、レーニンの事を一番理解していた人物はトロツキーであり、レーニンが最も信頼を置いていた人物はトロツキーでした。トロツキーは実際に有能でしたし、仮にロシア共産党の党首として選ばれたとしても、非常に全くそん色のない人物であったと考えられます。

ですが、なぜかレーニンの後を引き継いだのはトロツキーではなくスターリンであった。
これまでレーニンやトロツキーについてはたびたび記事に掲載していますので、まずは「スターリン」という人物の為人や経歴等を追いかけてみます。

ただ、スターリンの情報に関しては、彼がロシア共産党書記長となって以降の情報がほとんどで、レーニン体制下のスターリンに関する情報はあまり出て来ません。特に客観性のある情報の乏しいのが難点です。

まず間違いのない情報として、スターリンは「ロシア帝国占領下のグルジアで生まれたグルジア人」であるということ。

レーニンは学者の息子で、トロツキーは地主の息子と、比較的恵まれた環境に育った(共にユダヤ人)であるのに対して、スターリンの父親は靴職人。母親も農奴出身で、スターリンは貧しい家庭に生まれ育ちました。

スターリンの地元は元々荒々しく暴力的な地域で、彼の父親も酒を飲むと母親やスターリンに暴力をふるうような、そんな家庭であったようです。

スターリン自身はグルジア正教会からの推薦を受け、10歳の時に聖職者を要請するための神学校に進みますが、父親はこれに反対。また教会自体もグルジア人には差別的。彼自身も事故を経験するなどし、決して楽な環境ではなかったわけですが、彼はやがて優等生として認められていくことになります。

ですが、トロツキーやレーニンがそうであったように、スターリンもまた在学中にマルクス主義に傾倒し、「神学」に対する疑問を抱くようになります。

トロツキーは、もともとナロードニキ(マルクス主義が入ってくる前のロシア帝国の社会主義者)であったため、最初からマルクス主義に傾倒することはなかったのですが、スターリンはそうではなく、やがて神学校を退学します。

レーニンやトロツキーは機関誌を発行したり、党や団体を指揮するなど、「指導者」としての立場で革命にかかわっていくわけですが、スターリンはそうではありません。

スターリンの場合はもっと小さな組織。製油所の労働者を組織したり、ボリシェビキの中の一部隊を指揮したり、レーニンやトロツキーよりも器の小さな組織を操っているようなイメージを受けます。

やり方もどちらかというと姑息で、人を揺すってお金を巻き上げようとしたり、銀行強盗をしたり、強奪をしたり・・・と、犯罪を行ってお金を集め、これをレーニンに渡してレーニンの支持を得ていくような、そんな構図ができています。

1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会で彼は初めてトロツキーと出会うわけですが、この時のトロツキーに対する印象もあまりよくなかったようで、後にレーニンの下、トロツキーとスターリンは重用されるわけですが、その後もスターリンはトロツキーのやり方に悉く異を唱えていたようです。


スターリン対トロツキー

両者の対立が表面化するのは、10月革命後、ロシア内戦が勃発した後のことです。

これに対処するため、レーニンは「ソ連共産党政治局」を組織します。構成メンバーは

 レーニン
 レフ・トロツキー
 ヨシフ・スターリン
 レフ・カーメネフ
 ニコライ・クレスチンスキー

の5名。当時の中央委員会の中心メンバーだった5名です。世事局は全ての主要な政治的決定を行うことにより、迅速な意思決定を行えるように設置されたものですね。

言い換えれば、トロツキーとスターリンはともに当時のロシアを含む「ソ連」の最高意思決定機関に配属されたようなもの。
ここにおいて元帝国支持者の扱い方をめぐってスターリンはトロツキーと対立します。

トロツキーはたとえ元帝国支持者であっても、その専門的知識を生かそうとしましたが、スターリンは彼らを信用せず、逆に殺害を命じます。

スターリンはレーニンに対してトロツキーの解任を求めますが、逆に彼のとった戦略が不必要な犠牲者を生んだとして彼はレーニンからも批判されることになります。

スターリンはポーランド戦ではレーニンやトロツキーの戦略と衝突し、最高司令官であるカーネメフの命令を拒否するなどしたため、党大会でトロツキーから痛烈に批判されます。


ソビエト連邦共産党初代書記長

ターニングポイントとなるのはここですね。

ロシア内戦が落ち着いた後、1920年後半になると、トロツキーはレーニンに対して国内の生産部門に対する共産党の独裁体制を築く必要性を訴えます。レーニンはトロツキーのこの意見に対する支持基盤を築くよう、スターリンに求めます。この結果、実際、1921年3月の第10回党大会でレーニンの支持基盤は優位な立場を得ます。

ですが、レーニンはこの時自分自身の方針を通すための困難さを感じました。

各地方の共産党委員会を指導する立場にあったのが「責任書記」。カーネメフはレーニンに対してこれらの責任書記を取りまとめる「書記長」という役職を新設することを進言しました。そして、初代書記長に任じられたのがスターリンでした。(1922年4月3日)


結構調べるのに時間がかかっていますので、まずはここまでを「前半」として締めくくりたいと思います。
この後、レーニンは体調を崩し、やがて「死」へと向かって歩みを進めていくことになるのですが、このようなレーニンの歩みの裏側で、「スターリン」と「トロツキー」が対立し、謀略が繰り広げられていく様子を次回記事では掲載したいと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第372回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(後編)
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