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第355回 ブレスト=リトフスク条約締結~第一次世界大戦終結後のロシアなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第352回 ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり

前回までの記事では、ロシア革命後のロシアで結成された「第三インターナショナル=コミンテルン」が、一番最初に「支援」を行ったとされる「ドイツ革命」の様子を検証してみました。

コミンテルンがドイツ革命に対して行った支援とはいったいどのようなものだったのか。

これを実行したのはコミンテルンが派遣したハンガリー人クン・ベーラ。
クン・ベーラが介入する以前に、コミンテルンはドイツ共産党中央委員会に働きかけ、当時議長を務めていたパウル・レヴィを組織的に失脚させ、ここに指導者としてクン・ベーラを送り込みます。

クン・ベーラはドイツ共産党の新たなる指導部に働きかけ、当時のドイツの首都、ワイマールに隣接する都市「マンスフェルト」で武装蜂起を起こさせます。

マンスフェルトの占領に一時的には成功するものの、たった3日間で国防軍によって鎮圧されてしまう・・・という非常にお粗末な結果に終わりました。

ともあれ、これが初めてコミンテルンが支援した「共産主義革命」の顛末です。

三月行動が失敗した後、三月行動を批判したパウル・レヴィは共産党そのものから除名され、その後コミンテルンは方針転換し、ドイツ共産党は過激な行動を控えるようになった・・・とWikiベースでは記されています。


今回の記事では、改めてロシア国内におけるコミンテルンの動向に着目してみます。

しかしこの時期のロシア、「ロシア」と呼ぶべきか、「ソ連」と呼ぶべきか・・・迷いますね。


第一次世界大戦後のロシア

第347回までの記事 に於きまして、ロシア革命後の「ウクライナ」の歴史についても振り返りました。

年表で振り返りますと、

ウクライナが中央同盟軍との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結させたのが1918年2月9日。

ロシアが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」に締結したのが1918年3月3日。

中央同盟国が連合国軍に敗北したのが1918年11月13日。

ドイツ共産党が誕生したのが1919年1月1日。

ポーランド・ソビエト戦争が勃発したのが1919年2月。

レーニンがコミンテルンを結成したのが1919年3月。

ドイツ共産党が三月行動を起こしたのが1921年3月

と、こんな感じです。

ドイツ共産党が誕生するまでの間でも、各国で共産党が結成されていましたから、コミンテルン結成が目的としていたのは、これらの地域での共産革命の支援です。

ロシアで起こった事を東欧を中心とした各地で再現しようとしたんですね。
1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約に署名し、世界大戦から手を引いた後、ボリシェビキはその党名を「ロシア共産党」へと改名しました。

3月3日、対外戦争そのものは終結したわけですが、ドイツとの間で締結したブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはドイツに対して圧倒的な譲歩を強いられたわけです。

この事から、第347回の記事 でも掲載しました通り、この事でボリシェビキ政権はロシア国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなります。

その典型的な事例が、これまで連立して内閣を構成していた社会革命党左派の政権からの離脱、及びボリシェヴィキに対する武装蜂起、1918年8月30日のレーニン暗殺未遂事件です。

レーニン暗殺の犯人だとされた社会革命党右派は弾圧の対象とされ、実際には事件とは無関係の512人の政治家や軍人が処刑されました。

ロシア国内は赤軍(共産派)と白軍(反ボリシェヴィキ派)に別れて内戦状態に突入しました。

ロシア内戦

ドイツが連合国軍に敗北すると、連合国軍は白軍に味方し、赤軍との間で干渉戦争に突入します。

ドイツが撤退した後の空白地域に共産党を結成することを目的としてレーニン自身も赤軍を送り込んでいますね。

結果的にロシア内戦では赤軍が勝利するわけですが、この赤軍を組織したのがトロツキー。
・ボリシェヴィキはロシアの人口稠密(過密)地帯を支配しており、1921年には数百万人もの兵士を徴兵により募兵することが可能であった。それに対し白軍の兵力が25万人を超えることはなかった。

・ボリシェヴィキの支配地域にはロシアにおける主要工業地域が含まれており、武器の供給においても圧倒的な有利にあった。

・鉄道の路線も赤軍が支配しており兵士・装備の輸送を効率的に行えた一方で、白軍は互いに分断され、政治的、民族的に見ても統合される可能性はほとんどなかった。

・白軍の司令官は帝政時代の貴族や地主が大半であり、彼らは占領地で旧体制の復活を望み農民から土地を取り上げたため民衆からの支持を失った。(Wikiより)

赤軍の置かれた立場はこのような状況にあったわけですが、更に。
レフ・トロツキーはブレスト=リトウスク条約調印後の1918年に軍事担当の人民委員に任命された。彼は優れた演説家であるだけでなく、赤軍の組織化にも才能を発揮した。

コルニーロフによる反乱の際に暫定政府によって組織化された赤衛軍を基として、徴兵により赤軍を作り上げた。

彼は列車を駆使し各地を回り赤軍の士気を高めることに成功した。彼の取り決めた規律は厳格を極め脱走兵は直ちに射殺された。

軍の忠誠を維持するためにボリシェヴィキの任命する政治将校が設けられるようになった。

トロツキー自身は軍事作戦に直接関与せず、赤軍に参加していた75,000人もの士官たち、その多くは職業軍人が白軍との戦闘を指揮した。(Wikiより)

要はトロツキーは軍を組織する能力も非常に有能であった、ということですね。

こうしてみると、ロシア革命ってトロツキーがいなかったらどうなってたんだろう・・・と思わずにはいられません。
10月革命も、あそこまで穏やかに収束させることができたのはトロツキーのおかげで、若しレーニンだけしか行かなかったら、もっと凄惨な結果になっていたのではないか・・・と思わずにはいられません。

これは、レーニンがそういうものを望んでいた、というより、たぶんそういう方法しか思いつかなかったんじゃないかという想像からです。ドイツ共産党による三月行動において、クン・ベーラが行った革命の様に・・・。

ただ、実際に内戦で行われた戦闘行為は凄惨なものであったようです。
ここもWikiから引用します。
内戦中赤軍と白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。

片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている。

レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。

また、この時取られた経済政策「戦時共産主義」に関しても同様の傾向がみられます。

1920年から1921年にかけて発生した旱魃が事態を更に悪化させた。

レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべるどころか逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。

革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。

この800万人という数字は経済政策のみによるものではなく、戦闘行為まで含まれるものと思われます。

この中で発生したのがあの「尼港事件」です。

尼港事件(リンク先最下部)

尼港事件で焼け落ちた日本領事館

内戦そのものは、ポーランド・ソビエト戦争が終結し、ここに投じられていた赤軍が投じられたことで赤軍側の勝利に終わりました。(1920年11月)


内戦終戦後のロシア

内戦により疲弊したロシア経済を救うため、レーニンがとった経済政策が「ネップ」と呼ばれる経済政策です。

戦時共産主義政策では軍隊に武器と食料を回すため、旱魃に襲われた状況の中でも民間から余剰穀物を強制的に徴収し、ロシア全体を飢餓状態に陥れたわけですが、今度はその余剰穀物に「食料税」を課し、税金を納めた後は自由に売買をしてよい、というルールを作ります。商業も一部認められたのだそうです。

資本主義を否定した共産主義ですが、内戦後のロシアではその「資本主義」の制度が導入されたんですね。

レーニンはこれを「国家資本主義」と呼称したのだそうです。

一方でレーニンは子供のころからロシア正教会=宗教の腐敗ぶりを目の当たりにしており、大人になったレーニンは「マルクス主義」を信仰する「無神論者」だったのだそうです。彼はロシア正教会を「反革命の温床」とみなしていたんですね。

1922年3月、教会の財産の接収に反対するデモで死者まで発生したことを受け、レーニンはロシア正教会の弾圧へと突き進みます。以下、Wikiからの引用です。
1922年3月、イヴァノヴォ州シューヤで発生した教会財産接収に反対するデモが暴徒化した。

死者まで招いたこの事態に憤慨し、3月19日にロシア正教会の弾圧を指示。

『これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない』

と厳命した

実際に弾圧された教会はロシア正教会に限らず、イスラム教のモスクまで弾圧の対象となったのだそうです。


さて。レーニンは暗殺未遂の後遺症もあり、この頃から徐々に健康を害していくようになります。

今回の記事は「前半」としてここまでとし、次回の記事は「グルジア問題」と「レーニンの死」、そしてレーニンの死後のロシアについて記事にしてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第357回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(前半)
このシリーズの前の記事
>> 第354回 ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり

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