第155回 南京事件(南京大虐殺)の真相を2つの視点から検証する。など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第154回 通州事件と第二次上海事変/日中戦争勃発の真相を追う(後編)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、緊迫した日中間の情勢が、ついに「戦争状態」へと移るきっかけとなった「第二次上海事変」について記事にしました。

北京市周辺で盧溝橋事件を皮切りとして勃発した「北支事変」に関しても、今回の第二次上海事変に関しても、日本軍はギリギリまで中国軍の挑発に耐えて我慢に我慢を重ね、取り返しのつかない事態へと陥って初めて反撃を行っている様子が見て取れると思います。

北支における第29軍、上海・南京における第19軍。ともに共産勢力の息がかかった「輩(やから)」です。
北支における支那駐屯軍も、上海・南京における日本海軍も、ギリギリまで耐えていました。このまま放っておけば、さらに悲惨な事態になる、という状況に至って初めて日本軍は反撃を行っているのです。

北支における通州事変、上海における租界地域への空爆がこれに該当します。

【今回のテーマ】
そもそも、私がこのシリーズ を作成している目的は、「第二次世界大戦」は本当に「侵略戦争」であったのか。大戦が日米の視点で語られることは多いけど、本来「日中戦争」こそが日本が始めた第二次世界大戦(大東亜戦争)の発端であったはずなのに、侵略であったのか否かが日中の視点で語られることが少ないのはなぜか。

例えば「南京大虐殺」や「慰安婦」の問題にしても、これが「ねつ造である」という意見はよく目にするものの、明確な根拠のある、風通しの良い意見にはなかなか巡り合わないこともその理由の一つです。

日中開戦の理由にたどり着くことができれば、この問題について、私自身が納得できる考え方に出会えるのではないか、と考えたからです。「クライマックス」とまでは言わないまでも、この南京事件に関する記述は、どうやら一つのピリオドとなりえそうです。

【南京戦の様子】
南京戦

今回の記事では、多くの人が、多くの疑問を持ったまま独り歩きしている「南京大虐殺」。この問題について、私なりにたどり着いた「3つの視点」から記事として掲載したいと思います。

第一の視点:南京爆撃

前回の記事 でもお伝えしましたが、第二次上海事件において、自軍艦隊への空爆や共同租界・フランス租界地域への中国軍の空爆を受けて、ついに日本軍は決起し、「広州」「広徳」、そして「南京」への空爆を開始しました。

上海戦に敗退した中国軍は上海を捨て、首都である「南京」へと逃げ込みます。
南京に敗走した中国軍を日本軍はさらに追撃します。そして戦場は南京へと移り、日本軍にとっての「南京攻略戦」、中国軍にとっての「南京防衛戦」がスタートします。

私の検証方法は、常に自ら「仮説」を立て、自らの仮説を私がその意見に反対する立場であればどう打ち破るのかと、そのような考え方で検証をスタートしています。

今回は、既に多くの方が検証を重ねていますが、私も同じように「南京大虐殺は、実は捏造だったのではないか」という仮説に基づいて検証を行いました。

南京大虐殺のポイントとして、日本軍が本当に「虐殺」と呼ばれるような愚行を働いたのかということと、「大虐殺」と呼ばれるほど大量の中国人を殺害したのかという事、そしてその殺害した相手は軍人だったのか、民間人だったのかという3つのポイントが考えられます。

【南京大虐殺:中国側の主張】
引用:北京週報「人民網日本語版」2014年2月27日
1937年12月13日、中国侵略日本軍は中国・南京でわが同胞に対する40日余りの長きに及ぶ、この世のものとは思われぬほど残虐な大虐殺を開始し、30万人以上をむごたらしく殺戮し、国内外を驚愕させる南京大虐殺を引き起こした。

国際法に公然と違反するこの残虐行為については、揺るぎない証拠があり、第2次世界大戦後の極東国際軍事裁判と南京軍事法廷の審判を経て、とうに歴史的結論と法的定論が出ている。

これが中国側の意見。着目してほしいのは、このうち「40日」という日数と、「この世のものとは思われぬほど残虐な大虐殺」という非常に抽象的な表現と、「30万人以上をむごたらしく殺戮」したという記述です。

調べていると、一つ目の残虐性についてはそれ程深く考えることもなくこれを否定できる仮説へとたどり着くのですが、残りの2つの問題については簡単に払拭できるものではないな、と感じました。それが「空爆」の問題です。


【南京爆撃の検証:南京爆撃はどのような施設を狙ったのか】

なぜこの「南京空爆」が南京大虐殺を検証する場合の筆頭の検証内容となるのかというと、調べていてどうも南京で死亡した中国人の数はいわゆる「南京大虐殺」が行われたとされる日本軍の地上戦よりもこの空爆による犠牲者の方が多いのではないか、という仮説にたどり着いたからです。

例えば、地上戦に於ける南京大虐殺が、仮にあったと想定したとしてもなかったと想定したとしても、問題となってくるのはその「数」の問題です。例えば否定をする理由の一つとして、

「いや、いくら何でも30万人は言い過ぎでしょ。確かに少しであればそのような「虐殺」もあったのかもしれないけど、さすがに30万人はないでしょ」

という否定を行うことができると思います。そこで、

・仮に地上戦でこの「30万人」という数字を否定することができたとしても、ひょっとしてこの「空爆」による被害者がそれくらいになったんじゃない?

という「反論側」の仮説を立ててみました。実際、「残虐性」の側面から考えても、「数」の面から考えても、中国側の意見に即する答えが出るのではないかと考えられるのはこちらです。

前回の記事 に於いて、日本が狙ったのは中国軍の「航空基地」だという風に表現しました。

ですが、調べてみると実際に攻撃していたのは「航空基地」だけでなく、その他の「軍事拠点」となる重要施設も狙っていました。
また更にその際民間人の犠牲者も多数出していますし、中には民間施設に対する爆撃も行われていたようなのです。

で、実際どのくらいの人が犠牲になったのだろう・・・という視点で資料を探していたのですが、どうにも見つかりません。
で、唯一このあたりの数字を具体的に掲載した資料を見つけたので、この資料をベースに話を広げてみます。

学習会第2回 笠原十九司著『南京難民区の百日』 ―虐殺を見た外国人― 福田広幸・田崎敏孝
この資料は、「ノーモア南京の会・東京」という団体のホームページに掲載されている内容です。
内容とすれば、「南京大虐殺はあった」と主張する人たちが作成した資料だということになります。

この資料によりますと、南京の空爆は8月15日を皮切りとして、8月中に合計23回行われ、その多くが夜間に行われたとあります。
その結果、市内3か所で火災が発生し、約100人の住民が死亡。

9月19日、長谷川第三艦隊司令長官は第三国人に避難勧告を行った後、25日から7日までの間に11回、都市・産業・鉄道・橋などを攻撃対象とした爆撃を実行。25日には5回の空爆が行われ、市民数百人が死亡。負傷者は数千人に上ったとしています。

難民収容所にも爆弾を投下し、100名以上の死者が出た・・・とあります。
10月は19日に70回目の空襲があり、20名の死者が、市内の飛行場付近では20発以上の爆弾が投下され、2名死亡。

26日には80回目の空爆が・・・最終的には12月12日に南京が陥落するまで空爆は続き、まる4か月、合計120回以上の空爆が行われた、とあります。

実際、これだけの空爆が行われたことは事実であるようですし、民間人に負傷者が出たことも事実です。
ですが、ここに記されている内容をすべて信じるのかどうか、というところでしょうね。

笠原十九司氏の著書からの抜粋であるわけですが、例えばここには気になる記載として、以下のような記述が含まれています。

【世界からの日本非難】
中国における日本軍機の都市爆撃は世界に報道されて、 世界の憤激を引き起こしていた。

アメリカでは8月13日に始まった上海戦において、 日本軍機が数千人の難民の群れに爆弾を投下した光景や、焼き出され、 さらに砲弾や銃撃の犠牲にされた膨大な民間人の惨状が報道写真やニュース映画、 さらには雑誌、パンフレット類をとうしてアメリカ国民に知られるようになり、 非戦闘員を巻き込んだ日本軍の蛮行に対する非難の声があがりはじめた。


さて。覚えていますか?

「難民」というのは、おそらく避難民のことですね。
では、前回の記事 を復習してみましょう。

上海戦において、数千人の難民の群れに爆弾を投下し、焼き殺したりしたのはどこの軍隊でしたか?
そう。中国軍ですね。つまり、この記述は明らかな「デマ」です。

上記した「デマ」は、明らかに中国が米国において印象操作によってばらまいたもの。
記述では、「中国における日本軍機の都市爆撃は世界に報道」されたとあります。つまり、このデマがアメリカだけでなく、他のヨーロッパ諸国にも撒かれていたということ。この「デマ」が理由で欧米の人が日本人に対して批判的な印象を抱いていたことになります。

だとすると、日記を書いたとするミニー・ヴォートリン教授、ロバート・ウィルソン医師らの記述はどこまで信用できるものなのでしょうか。

また、
南京空襲とおなじように、日本軍機による都市爆撃は上海、広州、杭州、漢口、 南昌などの諸都市におよび、10月中旬までに華中、 華南の大中小都市60ヶ所以上が爆撃の被害を受けた。 これらの非武装都市の爆撃は、 当時日本も署名していた「陸戦の法規慣例に関する条約」 に違反する行為であった。

ともあります。ですが、これらの都市は本当に「非武装地域」だったのでしょうか。

日本軍の空爆によって死亡した民間人の数を具体的に記しているのはこの笠原十九司の著書に基づいたものしか発見でいないのは非常に残念なところです。

ちなみに、この記述に日本軍が病院や大学などの民間施設を狙った、とありますが、実際に日本軍が狙ったのは大学や病院ではなく、大学や病院に設置された砲台。病院や大学などの高台に砲台を設置して反撃すれば、日本軍から狙われることくらいわかってますよね?

だったらそこから民間人はさっさと非難させておくべきだと思います。
にもかかわらず、民間人をここから逃がすこともせず、わざわざ砲台を設置し、ここから反撃するっていったいどういうことなんでしょう?

いったいどんな「思想の持主」がこのようなことを行ったのか。なんとなく想像がつきますよね。

勿論空軍が民間人をも巻き込んだことを肯定できる材料とはとてもなりませんが、このことで本当に被害を受けた民間人は一体どのくらいいたのか? 現地で治療にあたった第三国人たちの話を信じるしかないのでしょうか?


第二の視点:南京大虐殺

先ほどの南京空爆で、実際に何人の民間人がなくなったのかは明確にはわかりません。
ですが、この空爆においてものすごい量の爆弾が投下されたことは事実で、この空爆は施設を狙ったとは言え、先ほどのリンク先記述を見れば、その一撃一撃の破壊力は一撃で100名単位を殺害する能力があるほどですから、まさしく「推して知るべし」です。

ですが、そもそも中国が言っているのは、この南京空爆以上の殺害が地上で行われ、地上で虐殺された人の数だけで30万人に到達した、ということです。

再掲します。
【南京大虐殺:中国側の主張】
引用:北京週報「人民網日本語版」2014年2月27日
1937年12月13日、中国侵略日本軍は中国・南京でわが同胞に対する40日余りの長きに及ぶ、この世のものとは思われぬほど残虐な大虐殺を開始し、30万人以上をむごたらしく殺戮し、国内外を驚愕させる南京大虐殺を引き起こした。

国際法に公然と違反するこの残虐行為については、揺るぎない証拠があり、第2次世界大戦後の極東国際軍事裁判と南京軍事法廷の審判を経て、とうに歴史的結論と法的定論が出ている。

空爆が行われたのは1937年8月からですが、12月8日には日本軍が南京を包囲。9日に中国軍に対して無血開城を勧告するのですが、中国軍がこれに応じなかったため、翌10日に攻撃を開始。

ちなみに、例によって9日、無血開城を言い渡してからよく10日までは、日本軍は全く攻撃を行っていません。
ですが、そのような日本軍に向けて中国軍は容赦なく大砲やら迫撃砲、機関銃などで立て続けに攻撃を加えていました。


【漢奸狩り】

「漢奸」というのは、漢民族の裏切り者のこと。特に日中戦争において中国人は、日本に協力した者や、日本についての知識が深い者のことを「漢奸」と呼んでいたのだそうです。第二次上海事変においては、総数で4000名もの中国人が、たとえ漢民族でなかったとしても「漢奸」として逮捕され、処刑されていました。

これは南京でも同様で、この「漢奸狩り」については結構詳細に記録が残っている様です。
(『画報躍進之日本』、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、『ニューヨーク・タイムズ』等)

これらの資料によれば、南京戦勃発後、11月までで約2000人に到達していたといいます。
この時、南京においては中国共産党員たちによる「スパイ狩り」が行われていました。

この「漢奸狩り」は南京戦が勃発する直前にも行われていて、これが共産党員たちのいわゆる「プロパガンダ」に利用されていました。「日本軍に行為を持つ者がいれば、このような目にあうぞ」と南京のいたるところにポスターと共に血みどろの「さらし首」が掲げられていました。11月以降については記述が見当たりませんが・・・推して知るべしですね。


【挹江門(ゆうこうもん)事件】

蒋介石は7日の段階で日本軍が到着する前に南京から逃げ出しています。

12日には南京防衛司令官であった唐生智も南京を逃亡。逃げ遅れた中国兵たちが城門に殺到し、同じ中国人である防守舞台と衝突。同士打ちにより双方に大量の死者が出たのだそうです。(独立系装甲車第二中隊曹長藤田清氏の証言によれば数千人)

門を乗り越えようとしたもの、揚子江を渡ろうとしたもの、そして揚子江を渡って対岸の「下関(シャーカン)」にまでたどり着いた者。後にその光景を見た外国人記者が、「日本軍による大虐殺が行われた」と勘違いされるほどの惨劇だったのだそうです。


【避難民に紛れ込んだ便衣兵】

逃げ切ることが出来なかった敗残兵は、服を着かえ、「便衣兵」として民間人に紛れ込みました。

南京城内では、ドイツ人「ジョン・ラーベ」という人物が中心となって、15名の欧米人が「南京安全区国際委員会」というものを設立し、南京市の中央に「安全区」を設立し、ここに南京市民約20万人を収容しました。便衣兵たちは、この安全区に紛れ込んだのです。

読んでいて結構詳しいな、と感じたのはこちら。↓

南京戦史 という書物です。
PDF化されていて、実際にリンク先から読むこともできますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
先ほどの挹江門(ゆうこうもん)事件に関するいきさつや、その後の南京城内の様子などは、

証言による『南京戦史』(9)
↑こちらのページが詳しいですね。

南京城内の様子についていくつか内容としてまとめてみます。引用は上海派遣軍司令都郵便局長 佐々木元勝氏 が記した郵便局長日記です。とても客観的に記されています。

【南京戦史からの抜粋】
①中山門から入った後、しばらくすると中国兵の殲滅(2万~3万)が行われたと思しき場面に出くわした。火災の残っている家もあった。

②麒麟門では5名の日本兵が、お昼過ぎ頃から後ろ手に縛られた200名の敗残兵を1名ずつ銃剣で突き刺した。夕刻にはすべて埋葬されており、1本の墓標が建てられていた。

③揚子江からの帰り、総数で約2000名の捕虜が連れられて行くのを見た。全て便衣兵であり、日の丸の腕章をつけていた者がほとんどだった。中には15~6歳の少年もいた。彼らは全員処刑された。

④知人から聞いた話として、捕虜の中には女性兵士もいた。服装検査を行う際、女性であることが分かり、この時に裸にして立たせ、写真を撮った。途中から「かわいそうだ」というのでオーバーを着せた。

⑤揚子江の近辺に、青い中国兵の軍服が散乱していた。一斉掃射を浴びた跡かとも思ったが付近には血が流れておらず、この場で1~2万の中国兵が便衣兵に着替えて逃げ去った後だと考えられる。

⑥夕刻に南京へ戻る為に中山門をくぐったとき、武装解除された中国兵の大群に出会った(7200名)。彼らは警察署に留置させて餓死をさせる予定。

このうち、①は日本軍の仕業ではなく、中国人同士の同士討ちの結果。戦線を離れようとした自国兵をとらえ、大量に処刑した結果です。つまり、「漢奸狩り」の結果ですね。

上記記述の内、所謂「虐殺」と言われてもまあ、おかしくはないかなと感じるのは②と③ですね。
⑥も、7200名ほどの捕虜を餓死させるということですから、「虐殺」と言えなくはないかもしれません。

ですが、どことなく統制が取れているように感じるのは気のせいでしょうか。

また、⑤について。1~2万人もの中国兵が、便衣に着かえた跡のがある、とのことですが、これほど大量の中国兵は、一体どこからこのような「便衣」を手に入れたのでしょう。

一方、③。2000名の便衣兵が連行されてきた、とのことですが、これらの便衣兵はいったいどこにいたのでしょう。
はい。先ほどお示しした、南京中央部に欧米人たちが設立した「安全区域」。彼らはここに紛れていたんですね。

では、日本兵は安全区域にドカドカと乗り込んで、例えば銃を乱射して、強制的にこの便衣兵たちを引きずり出したのでしょうか?
ですが、佐々木元勝さんの記述を見ていると、どうもこの連行された便衣兵たちは、何か抵抗して日本軍から銃撃を受けたような、そんな光景はどうも見えてきませんね。

つまり、当時の南京市は20万人の民間人の中から、その中に紛れ込んだ便衣兵を選別し、連行することができる状態にあったということ。

南京市民たちは、この便衣兵たちの選別に比較的協力的だったのではないか・・・との光景がうっすらと見えてきます。


【南京大虐殺の「証言者」たち】

南京大虐殺が仮に「あった」と考える場合、そこにはいくつかの「裏付け」が存在します。

例えば南京で安全区域を作った欧米人たちであったり、この時日本軍を率いた日本人の将校たちであったり、何よりも現地で「被害にあった」とされる現地人たちの「証言」です。

この中で、一人の証言者、アメリカ人の牧師、ジョン・マギー氏の証言をピックアップしてみます。

【ジョン・マギー氏の証言(Wikiよりの引用)】
1938年1月終り頃、新開路六番地の家に行くと13人の家族のうち2人の子供をのぞく者が殺されていた。

生存者の少女一人は約8〜9歳で、日本兵が入つて来た時に背中を二度刺され、その傷は写真に撮った。
遺族の話によれば、約三十名の日本兵がやってきて、回教徒の家人が戸を開けると即座に殺さし、後ろにいた男とその妻を殺した。

日本兵は14〜16歳の少女を広場の横へ連れて行こうとし、少女を保護しようとした父方の祖父母を殺したあと、強姦した。女の膣は竹の棒で突かれた。

また、広場に面している他の家では、母親が一歳の子とベッドの下に隠れていたが、日本兵はその女を強姦した後、女と赤ん坊も殺した。遺体の膣には瓶が入れてあった。ある少女の話では、頭から日本刀で斬られた。

この新開路での事件はマギーが行く6週間前に発生していたが、少女が強姦された机や殺された床の上には血が散乱していた。遺体は14歳の少女、16歳の少女、老婆の娘である一歳の嬰児の母があった

内容がほぼ伝聞形式で記されているとおり、これはマギー氏が、遺族から聞いた、「伝聞」にすぎません。
注目していただきたいのは、強姦されたとする14~16歳の少女に対して日本兵が行ったとする行為についてです。
「女の膣は竹の棒で突かれた」とありますね?

この行為、実は済南事件 においても、1927年の南京事件 においても、そしてあの通州事変 においても、必ず中国軍が強姦された日本人女性に対して行っていた所業です。

そして、通州事変に於いて中国軍が行った所業は写真データとして残されており、この写真を現在の中華人民共和国はユネスコ遺産へ「南京大虐殺」の証拠写真として提出しているのです。

勿論、この事例のみを以て、「証言者たち全員の証言がおかしい」というつもりは毛頭ないのですが、南京大虐殺に関する「証言」には、このような資料が多いのです。内容を見ていると、まるで前記した三つの事件に於いて中国第29軍、第19軍、冀東保安隊などが日本人に対して行った所業を彷彿させるような内容です。

別に「日本人が虐殺などするわけがない」と言っているわけじゃないんですよ?
問題としているのはそのやり方です。日本人には風習としてないやり方で中国人が「虐殺された」としているわけです。

また、中国軍は撤退っする時、自分たちの施設や設備を占領軍に利用されないために撤退する前に自軍の施設に対して砲火を行ったり、略奪行為を行ったりする習慣が、長年の風習として根付いている様なのです。

第二次上海事変 の時もそうでしたね?
上海から一斉に退却を開始する前に、同じ中国人民間人に対する略奪と破壊行い、敗残兵や便衣兵との間で同士討ちが行われたり、重要機関に対する放火を行ったり・・・。

つまり、航空機による爆撃以外の場面で施設から上がった火の手の大部分が中国人によって引き起こされたものである可能性は非上に高いわけです。民間人が居住している地域にわざわざ砲撃台を設置して日本軍を攻撃したりしたのも、そこを日本軍に破壊させて、国際的に日本軍への非難を集めるための所業です。

南京大虐殺が本当にあったのかなかったのか。私は当時を生きていたわけではありませんから、これに対する明確な答えは持ち合わせていません。ですが、南京戦史 に書かれている内容や、過去に中国軍が行ってきた所業、そして上海開戦に至るまでの、そして開戦しても尚貫き続けた日本軍の姿勢をかんがえれば、その事実は「推して知るべし」なのではないでしょうか。

【次回テーマ】
さて。冒頭でも少し予告した通り、この南京事件に関する記事で、一旦「日中戦争」を検証するための記事は終結させたいと思います。
何しろ私があまり詳しくない内容を掘り起こして、様々な資料を比較し、仮説を検証し、矛盾点を一つずつ潰しながら記事を作っていく作業には少々疲れました。

勿論この後、日中ではなく、「日米」「日英」開戦など、様々なケースにおいて日本が正しかったのか、間違っていたのか、それとも「やむを得なかった」のか等、様々なケースを検証したい気持ちは山ほどあるのですが、少し、お休みします。

次回以降の記事では、再び「経済」へとテーマを戻して、この頃発表されている様々な経済指標に対する検証等を行っていきたいと考えています。



このシリーズの過去の記事
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