第149回 盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(前編)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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第148回 盧溝橋事件の真相を追う/第29軍の誕生(蒋介石対馮玉祥)

【前回までの振り返り】
前回の記事では、盧溝橋事件に於いて日本軍が対峙した中国の一軍隊である「第29軍」。この軍団が、一体どのような組織であったのか。このことについて、第29軍の発足にまでさかのぼって記事にしてみました。

第29軍は、蒋介石の北伐軍の中の最大の主力部隊であった「馮玉祥」が率いていた部隊で、馮玉祥の下、その部隊を統括していたのがが「宋哲元(そうてつげん)」という人物であるということ。

馮玉祥は北伐が完了した後蒋介石が軍縮を行おうとしたことから蒋介石に反発して反蒋介石軍に参入するのですが、結局蒋介石軍に敗北し、一線を退いて「隠居」します。これだけのことをしでかした馮玉祥ですが、国民党から除名になったりはしていないんですね。

馮が一線を退いた後、馮の部隊が改変された「第29軍」を任せられたのが宋哲元でした。
宋は、盧溝橋事件に於いても、日中間の交渉の中心となる人物で、少なくとも盧溝橋事件に於いて、彼は「反日」ではありませんでした。

【宋哲元】
宋哲元

また一方で、蒋介石と馮玉祥の間で行われた「中原戦争」に於いて蒋介石を支援し、蒋介石の戦勝に貢献した「張学良」が共産党勢力の一掃のために派遣された西安に於いて、あろうことか敵軍である共産党勢力のリーダー、周恩来の口車に載せられて勝手に共産党掃討戦を停戦状態にしてしまったこと。

そしてその後、蒋介石を共産党に協力させるために拉致し、最終的に蒋介石と周恩来との間で「第二次国共合作」が約せられた、そのエピソードまでを前回の記事ではご紹介しました。

【今回のテーマ】
「盧溝橋事件」を引き起こしたのは前回の記事でご紹介したような背景を持つ「第29軍」であり、「盧溝橋事件」とは、同じく前回の記事 でご紹介したような背景の中で起きた事件であったということです。

今回の記事では、改めてこの「盧溝橋事件」について、一体どのような事件であったのか、具体的に、その上でなるべく簡単に、できる限りわかりやすくご紹介できればと考えています。

そもそも「盧溝橋事件」とは?

少しQ&A形式風に進めてみます。


Q1.「盧溝橋事件」と「張作霖爆殺事件」、「柳条湖事件(満州事変)」はどう違うの?

私も結構ごちゃまぜにして考えがちだったのですが、この「日中戦争」が勃発する件に於いて登場する3つの事件。

 「張作霖爆殺事件」
 「柳条湖事件(満州事変)」
 「盧溝橋事件」


共に中国で起きた事件ですし、全部漢字で書いてあること、そして第二次世界大戦に至る経過の中で頻繁に登場する言葉であり、3つとも「事件」とついていることから、この3つの事件が、あたかも同じ経緯の中で起きた事件であるかのように考えられがちです。

ですが、特に今回の「盧溝橋事件」を考える上で、「張作霖爆殺事件」や「柳条湖事件」と「盧溝橋事件」とは、本来全く別の事件であることに留意することが必要です。

張作霖爆殺事件」とは、日露戦争に於いて日本がロシアから手にした「満州」における権益と在満邦人の人権が、軍閥政治において荒廃した中国人、特に共産党員たちによって蹂躙されつつあった「満州」に於いて、正義感を暴発させた「河本大作(関東軍メンバー)」が起こした張作霖暗殺事件。

柳条湖事件」とは、張作霖爆殺事件を引き起こした河本に触発された「一夕会」のメンバーたちが、「関東軍」と「陸軍中央本部」をまたいで計画し、満州事変を起こすために実行した鉄道爆破事件。

共に右翼マルクス主義者(国家社会主義者)の集団である陸軍兵士、「一夕会」が中心となって引き起こした事件ですが、前回より記事にしている「盧溝橋事件」とは、前回の記事でご紹介した中国「第29軍」が引き起こした事件です。

また更に、関東軍メンバーが正義感を暴発させて開戦に向けて躍起になっていた事情とは異なり、この事件に関しては勃発時より、特に現場で対応した日本軍関係者も中国軍関係者もともに、できる限り大事にしない様、誠意をもって対応していました。


Q2.「盧溝橋事件」もやっぱり張作霖爆殺事件や柳条湖事件の様に「関東軍」が引き起こした事件なの?

盧溝橋事件に関連して、柳条湖事件(満州事変)でもその中心となった関東軍メンバー「石原莞爾」という名前が登場しますので、あたかも盧溝橋事件に「関東軍」が関与しているかのように錯覚してしまいがちですが、関東軍が登場するのは盧溝橋事件に関する交渉が決裂した後の「チャハル作戦」からであって、彼らは盧溝橋事件にはまったく関与していません。

石原莞爾は、どうやら彼一人だけで一つの記事が作れそうなほどたくさんのエピソードを持っているようなので、彼のエピソードに関しては記事を分けて、別の記事でご紹介します。


Q3.盧溝橋事件は中国第29軍から仕掛けたっていうけど、そもそも中国の、しかも首都である北京の一地域に日本が駐留していたのが悪いんであって、中国は日本から領土を取り返すために戦争を仕掛けたんじゃないの?

ここは、まず勘違いしてはいけないのは、この時中国(中華民国)の首都は北京ではなく「南京」でしたから、この当時の北京の名前も「北京」ではなく「北平(ペーピン)」と呼ばれていました。

また、なぜこの地域に日本軍が駐留していたのかということですが、これは時代を大きく遡って、「義和団の乱(北清事変)」のことを振り返る必要があります。

第77回 義和団の乱とはなぜ起こったのか?(崩壊するまでの清国②)
第78回 「義和団の乱」とはどのような事件だったのか?(崩壊するまでの清国③)
第79回 義和団の乱とロシア、義和団の乱と李氏朝鮮(崩壊するまでの清国④)

そもそものところでいえば、中国が悪いわけじゃなく、この義和団の乱に関係して言えば「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由です。

ですが、この当時の中国(清朝)の政権も非常に不安定な状況にあり、皇帝の叔母であり「西太后」が実権を握る状況の中、「義和団」の反乱に便乗した西太后が無謀にも欧米7カ国+日本に対して宣戦布告を行い、敗戦した結果、宣戦布告をされた8か国と当時の清朝の間で締結されたのが「北京議定書」。

この議定書に基づいて、日本だけでなく欧米8カ国が中国国内に自国軍を駐留させていたのが当時の状況。
盧溝橋で軍事演習を行っていた部隊は日本が、この「北京議定書」に基づいて「天津」という地域に駐留させていた「支那駐屯軍」という部隊です。

勿論「権益」の問題があったことは事実ですが、既に当時の中国、北京市(北平市)周辺には多くの日本人が居住しており、現地法人を守るためにも日本軍は駐屯軍を撤退させるわけにはいきませんでした。

【天津市】
天津市

こちらが天津市。

【北京(北平)市】
北京市

こちらが北平市。北平は天津の真上の地域にはなりますが、飽くまで日本が議定書に於いて駐屯を認められていたのは「天津」です。ですから、天津にいたはずの「支那駐屯軍」がなぜ北平の盧溝橋にいたのか、このことに疑問を持つ方もいるかもしれません。この経緯については後程ご紹介します。

ということで、「日中戦争」って、なんだかあたかも日本が一方的に仕掛けた戦争の様に思われていますが、どうもそう簡単なものではなさそうだということが見えてきました。

日中戦争において、あたかも日本が「悪者」であるかのように見えてしまうのは、おそらく前記した通り、関東軍によって引き起こされた「張作霖爆殺事件」や「柳条湖事件(満州事変)」が盧溝橋事件よりも前に勃発しているからであり、盧溝橋事件がまるで関東軍によって引き起こされたかのような印象を持ってしまうことにも起因しているのだと思います。

勿論、特に「満州事変」において関東軍が引き起こした一連の経緯が正当化されるのかというと、これはそうとは言えないと思います。ですが、ここまで私の記事を読んでいただいた方であれば、関東軍が満州事変を引き起こすに至った経緯についてもご理解いただけるとも思います。

蒋介石の心情を考えると、本当に忸怩たる思いもあったでしょう。ですが、国民党軍のトップに立つことを選んだのは彼自身ですし、北伐を完了するため、自軍の中に統制することが難しい北洋軍閥の部隊を引き込んだのも彼。

孫文が行った第一次国共合作により、国民党軍の中に、過激な共産思想の持主を大量に抱え込んでいたことも含めて彼は国民党軍のリーダーとなることを選んだはずです。結果的に彼が自分の左派・共産勢力を統制できなかったことがすべての元凶です。

満州事変が勃発したのは、そのすべての結果に他なりません。。


【支那駐屯軍はなぜ盧溝橋で演習を行っていたのか】

「盧溝橋事件」を簡単に説明すると、「中国側に通知して夜間演習を行っていた 日本軍支那駐屯軍 を 国民革命軍第二十九軍 の一部が実弾で攻撃した」事件です。

様々なサイトの記述を見ていますと、この攻撃が何やら共産党の陰謀であったとか、様々な記述を見ることができるのですが、どうも真相は「演習場で日本軍の一部が空砲を発射したところ、びっくりした中国軍が反撃のつもりで射撃を行った」というのが本当のところなのではないかと思われます。

ただ、実は第29軍の誰がどのような理由で日本軍へ射撃を行ったのか、ということは実は全く重要ではなく、その後日本軍と第29軍の司令部とがお互いに交渉をするための段取りを行う中で、たびたび第29軍側からの射撃が日本軍に対して行われたこと。

このことに尽きると思います。


【張北事件】

Q3 において、天津に駐留していたはずの支那駐屯軍が、なぜ北平市の盧溝橋にまで出向いて演習を行っていたのかということに対する疑問を示しましたね?

実は、第29軍が日本軍に対して敵対する行動をとったのは何も盧溝橋事件に始まったことではありません。

例えば、1934年10月、1935年の2度にわたり、「チャハル地方」と呼ばれる「モンゴル」の領土に当たる地域で日本軍兵士に対して暴行・監禁・尋問が行われる、「張北事件」と呼ばれる事件がありました。

首謀者は宋哲元。馮の後釜を引き継いだその経歴そのまんま。
彼は日本に対する敵愾心を非常に強く抱いており、二つの事件は彼が仕掛けたものでした。

ちょっとわかりにくいんで、地図を掲載します。

【察哈爾(チャハル)省】
チャハル省

【河北省】
河北省

わかりにくいですけど、「チャハル省」は「河北省」の真上に当たる地域ですね。チャハル省の上側のグレーの部分がモンゴルです。地図そのものも現在とは異なっている様です。河北省は、「北京」と「天津」をぐるりと囲んでいます。

彼は蒋介石より糾弾され、この当時の「察哈爾(チャハル)省主席」という役職を解任させられます。
宋は、この後、河北省に新政権を樹立しようとして蒋介石に激怒されるんですが、結果的にこの地域に「冀東防共自治政府」と呼ばれる自治政府を築きます。

「満州」と「中華民国」との境界に位置する地域で、宋はこの頃から日本との連携を図ろうとし始めます。

ただ、宋の態度の変化とは逆行するように、この後も第29軍はWikiソースではありますが、

「盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた」

とあります。盧溝橋事件以前の第29軍はソ連コミンテルンの指導を受ける立場にあり、「抗日民族統一戦線」の一翼を担っていたのだそうですよ。西安事件 が勃発したのが1936年12月12日ですから、おそらくその後のことだと思われます。

資料が不足しているので、このあたりはもう少し詳細な調査が必要ですね。
ただ、西安事件以降の第29軍は、まさしく「中国共産党員の巣窟」となっていました。幹部まで含めて、です。

というより、第29軍幹部に就任した多数の中国共産党員によって、「工作」が浸透していたのがこの時の第29軍でした。


【中国共産党の出没】

この頃(西安事件以前)、「中国共産党」は蒋介石軍と戦闘状態にあり・・・というか、私前回の記事で蒋介石軍と共産党軍との戦いは満州事変の間休止状態にあった・・・というように記したのですが、思いっきり戦闘中ですね。

【毛沢東】
毛沢東1

毛沢東ら共産党軍は、蒋介石軍に対してゲリラ戦を挑み、特に1932年までの戦線では蒋介石軍を度々打ち破っていたんですね
満州事変の停戦協定である「塘沽(タンク―)協定」が結ばれるのが1933年5月。これ以降蒋介石は軍隊兵力を増強し、当時「中華ソビエト共和国」を設立していた共産党勢力を「江西省」から撃退。

【江西省】
江西省

10万の兵力を2万まで減らした共産党軍は、1936年2月17日、「山西省」にまで移動してきます。

【山西省】
山西省
河北省を挟み、北京(北平)市のほぼ真向いです。

この時点で張学良ら蒋介石軍の一部は共産党勢力に丸め込まれていましたので、あっという間に山西省の1/3が占領されてしまいます。この時点での宋哲元は日本との間に協力体制をとることに吝かではなく、寧ろ自身が打ち立てた「冀東(きとう)防共自治政府(チャハル省や河北省)」への共産勢力の侵入を絶対に阻止したいと考えていましたから、作戦も当然日本軍と共同で実施します。

ただ。如何せんこの冀東(きとう)防共自治政府の護衛に当たっていたのはあの第29軍。
そして肝心の南京政府(蒋介石)は日本との間で共同で共産党に対する防衛宣戦を築く事には消極的で、むしろ「共産党侵略の力を借りて」、地方への自身の支配力を増そうとしいていました。

つまり、共産党を少しずつ侵略させ、これを掃討することでその地域への影響力を拡大し、一部は別の地域に逃がす。
さらに逃げた共産党を追いかけてさらに掃討し、その地域の影響力を・・・という戦略です。

ここに至ってついに日本軍(廣田内閣)は支那駐屯軍の増強を決定し、日本から天津に増派。またさらに華北や北平のいくつかの地域に歩兵部隊を配置させます。

このうちの一部が盧溝橋にて演習を行っていたわけです。

【冀東防共自治政府】
冀東自治政府

これが当時の様子。「北平」と記されているところに北京城があります。
「冀察政務委員会」という地域の管理を宋哲元が任されており、ここから「冀東防共自治政府」を管理している構造です。

冀東防共自治政府はチャハルと河北省の一部が統合されたエリア。

確かに天津を離れ、地図中にある「北平」や「豊台」などといった地域に軍を駐留させることは北京議定書に「違反している」と考えることもできなくはありません。ですが宋哲元と日本軍との間にはきちんとした連携関係が築かれていましたから、これは日本軍単独の意志ではなく、宋哲元との間でもお互いに了承されていたと考えるのが筋でしょう。

ですから盧溝橋で演習を行う際、事前に演習を行う旨を日本軍側から中国側に伝えた際もこれに異論が挟まれることはなく、普通に演習が行われたわけです。

いかがでしょう。
この様にしてみると、「盧溝橋事件」に対するイメージがずいぶん変わって見えません?

ちなみに「冀東防共自治政府」や「冀察政務委員会」は満州と中華民国との間の「緩衝地域」であり、特に満州の関東軍と中華民国軍が激突しないようにするための地域でもあります。

盧溝橋事件は、確かに日本軍(支那駐屯軍)と中国軍(第29軍)との衝突ではありましたが、日本は何も中国を侵略し、占領しようとして何か特別なことをしたわけでも何でもないことがよくわかりますよね?

事件が日中戦争へとつながるような深刻な事態へと転化していくのは、日本軍のせいではなく、むしろその中に大量の不穏因子を抱えたままの「第29軍」の方。たぶん、これは私のここまでの記載を見ていただければほぼすべての方に納得していただけると思うのです。

ただし、ここまでで記しているのはまだ盧溝橋事件がいたるまでの経緯と、その勃発した時の様子だけで、ではその後、いったいどのようにして「日中戦争」へとつながったのか。ここに関してはまだ触れていません。

【次回テーマ】
次回記事に於きましては、「盧溝橋事件の真相を追う/なぜ日中戦争へとつながったのか(後編)」といたしまして、盧溝橋事件が勃発した後の日中双方の努力と、この経緯においていった第29軍は何をしでかしたのか。

盧溝橋事件勃発後の経緯について記事にしたいと思います。



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