第145回 五・一五事件と二・二六事件の違いをわかりやすく検証しますなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第144回 第一次上海事変の原因とまとめ(空母「加賀」初出陣)

【前回までの振り返り】
本当は今回の記事、前回の「第一次上海事変」と共に5.15事件単独に絞って掲載しようと考えていたのですが、第一次上海事変が意外と奥が深かったので、前回は「第一次上海事変」を分離させて、単独で記事にしてみました。

前回書ききれていなかった部分で、概略を述べると、そもそも第一次上海事変が勃発するその背景として、時期的に満州事変が勃発した後、満州国を設立したために日本が欧米各国から非難される状況にあったということ。

ここから目をそらすために関東軍で満州事変を引き起こした板垣征四郎が田中隆吉に命じて田中が自身の愛人である川島芳子(満州族親王家の末裔。本名愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)。日本人の養女となったことから和名に変わった)に軍資金を2万円渡して中国人を雇い、「日本人僧侶襲撃事件」を引き起こした・・・という逸話が背景としてあります。

但し、東京裁判において、田中が自分自身の保身に走り、あることないことを吹聴して同じ日本軍の仲間を犯人に仕立て上げまくっていることから、その後記されたこの逸話の信ぴょう性そのものに疑いがあることから、前回の記事では詳細に記しませんでした。

ただ、どちらのケースであったにせよ、満州事変にて関東軍が行ったことと、第一次上海事変における日本海軍の対応はまるっきり異なった性質であることは紛れもない事実です。ですが、ネット上の記述を見ていますと、例えば私がよく記事を作成する際に参考にしている 世界史の窓 を見てみますと、以下の様に記されています。

【「世界史の窓」記事より抜粋】
1932年、上海での日本人僧侶殺害事件を口実に日本軍が中国軍を攻撃。満州事変・満州国建国などに対する批判の目をそらすための謀略であったが、中国軍の抵抗と国際的な非難を受け撤退した。

<中略>
この戦闘で上海市街は大きな被害を受け、反日感情はさらに強まり、また国際連盟およびイギリス・アメリカなどの国際世論は日本の侵略行為に対する非難が強まった。

<中略>
【戦後明らかになった日本軍の謀略】
 この事変は、戦後になって、上海駐在日本公使館付き武官であった田中隆吉少佐が、関東軍の参謀板垣征四郎大佐の依頼で、中国人を買収して襲撃させたものだったことが判明した。満州事変の勃発で満州に集中している列国の関心をそらすのがねらいであった。

 当時、上海は中国で最も繁栄する都市であり、イギリスやアメリカなどの租界があり、その地への日本の軍事行動は大きな国際問題となった。中国の蒋介石政府はただちに国際連盟に提訴し、総会は日本を非難する動きが強まった。揚子江(長江下流域)に大きな権益を持つイギリスとアメリカも日本を非難し、海軍の艦艇を派遣した。

【失敗に終わった武力行使】
 上海事件は、満州事変での陸軍の成功に刺激された海軍によって主導され、引き起こされた。海軍陸戦隊は満州における中国軍の弱体を知り、容易に勝てると判断していたが、上海を防衛していた中国軍の第十九路軍は、蒋介石系ではなく、広東国民政府系の華南地方出身者が多く、内戦を経験して戦闘力を強めていた。

その点を見誤った海軍は苦戦に陥り、陸軍の増援を要請せざるを得なかった。また、ちょうど同時期の1932年2月から、国際連盟主催のジュネーヴ軍縮会議(一般軍備制限会議)が開催され、アメリカ合衆国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加してて軍縮に関する国際会議が開催されていた。

会議では日本の軍事行動に関心が高まっていたが、その精神に反する上海事変への戦火拡大は、強い反発を受けることとなった。国際世論を軽視して軍事行動を強行した点も見通しを誤っていた。<後略>

ここに記されている内容と、私の 前回の記事 とをよく見比べていただきたいのです。
そもそも、上記記事中にも記されているとおり、田中隆吉が「日本人僧侶殺害事件を口実に日本軍が中国軍を攻撃」したという、その真偽はともかく、「暴露」を行ったのは「戦後」。第二次世界大戦後後であり、当時の国際社会は、これを「日本人による謀略」であった、などと認識していなかった筈です。

日本総領事が上海市長に対して謝罪を要求し、上海市長がこれを承服したところ、中国人が暴徒化したため、これを警備するため、日本軍だけでなく、当時上海に租界を有していた欧米4カ国と共に、「共同で警備」に当たろうとしたところ、隣接地に駐留していた国民党軍が一方的に発砲し、開戦に至ったわけです。

しかも、元々日本軍に戦闘行為を行うつもりなどさらさらなく、戦争状態に陥ることをあらかじめ回避するため、日本軍が警備に当たる地域と隣接するエリアからの国民党軍の撤退を提案したにも関わらず、これを拒否しての発砲です。

日本軍の反撃は、日本居留民だけでなく欧米の居留民、果ては自分たちを警護してくれている現地の中国人たちをも含めて守るための反撃であったのに、なぜこれをイギリスやアメリカが非難するのでしょうか?

また、武漢政府軍と南京政府軍を比べれば、当然南京政府軍のほうが教育され、統率も取れていましたし、武力においても南京政府軍のほうが勝っていたはずです。

十九路軍が閘北に陣取った時点で、日本軍は彼らが南京政府とは異なった意思で動いていることは薄々感じていたでしょうし、実際には日本軍の武力が十九路軍を圧倒しており、最終的に撤退したのは日本軍ではなく十九路軍でした。十九路軍の撤退を受けて日本軍は停戦を申し出、軍隊を撤退させたのです。

この記事の中に、もう一つの背景として存在した上海抗日救国連合会についての記載が一切ないことも非常に疑問ですし、唯一租界における自衛団の行き過ぎた行為が問題であった、と言えなくはありませんが、それだって現地民が一種のパニック状態に陥っていたことが原因です。

いつもはよく参考にさせていただいているサイトですが、この「第一次上海事変」に関する記載に関してはデマだらけ。
なぜこのような編集を行っているのか、疑問に感じざるを得ません。

【本日のテーマ】

犬養毅
【暗殺された犬養毅】

前置きが長くなりました。本日のテーマは、「五・一五事件」を中心に記事を作成し、また「二・二六事件」が勃発する背景となった、「一夕会の分裂」についても記事にしたいと思っています。

五・一五事件と二・二六事件の系譜

この二つの事件の「違い」を述べよ、と言われたときに、最も挙げられるのが、この「系譜」の問題ではないでしょうか。

どちらの系譜が古いか、と言われれば、これは明らかに「二・二六事件」です。

「バーデンバーデンの密約」から「一夕会の結成」
張作霖爆殺事件
「桜会」の結成と「三月事件」
満州事変 
十月事件
→統制派と皇道派の分裂
→「相沢事件」

を経てたどり着くのが二・二六事件の「系譜」。途中に「南京事件」や「済南事件」なども背景として含まれます。

一方、五・一五事件は

「ロンドン海軍軍縮条約の締結」と「艦隊派」の誕生
血盟団事件
→「第一次上海事変

を経て勃発することになります。

二つの事件の違いは、2.26事件は「陸軍」が中心となって引き起こしたクーデターであり、5.15事件は「海軍」が中心となって引き起こしたクーデターであるということです。

二つの事件に共通することとしては、共にその思想的背景の中に「北一輝」や「大川周明」らに象徴される「国家社会主義(右翼マルクス主義)者」たちの思想があるということ。

また、第一次世界大戦後の「戦後恐慌」と「昭和金融恐慌」、「世界恐慌」と「昭和恐慌」という「貧困」の問題。
そして軟弱外交を貫いた幣原喜重郎や日本経済を不況のどん底に突き落とした「濱口雄幸」や「井上準之助」の失政に対する不満。

本来そのベクトルは暗殺された犬養や高橋是清ではなく、彼らが政権を担当する前に存在した第一次、第二次「若槻内閣」や「濱口雄幸内閣」に対して向けられるべき刃であったはずなのですが、抜いた刃の矛先を失った軍人たちの刃は、結果的に「第一次上海事変」に於いて的確な対応を見せた犬養首相や、日本国経済を世界恐慌の災禍から脱却させた是清へと向けられたのです。


「統制派」と「皇道派」への分裂

後の「統制派」の中心人物となる「永田鉄山」は、第139回の記事 でもお伝えしましたように、第一次世界大戦の折、ヨーロッパ(スイス)に派遣されていました。

ドイツに対抗する欧州各国の軍事力や総力戦体制、そして逆に有能な軍人が戦局を有利に進めていながらも、最終的に国力を結集できず敗れ去ったドイツの様子を具に目の当たりにし、日本における軍備や政治・経済体制の遅れをひしひしと実感し、日本国力の結集と軍力の効率化、近代化が必要である、と考えていました。

一方、後の「皇道派」の中心となる「荒木貞夫」という人物は、同じ時期、ソビエトへの「シベリア出兵」に参謀として出撃しており、彼はここで、ソビエトの「鉄の規律」を目の当たりにし、共産主義国家の恐ろしさを実感するとともに、ソビエトが軍事力や経済力を成長させる前に、この地域からソビエトを追い出し、日本がこの地域を占領することの必要性を感じるようになりました。

荒木は、対ソ主戦論者となりました。

この様な背景の下で、1925年、加藤高明内閣の下、世界的な軍縮の風潮を受け、当時陸軍大臣を務めた宇垣一成による「宇垣軍縮」が行われます。関東大震災の影響による復興のための財源も必要とされる時期で、また不必要な軍力を削り、最新鋭の武器や航空隊、学校などを設立することで、軍力の効率化と近代化も行おうとしたんですね。

永田は、当然この方針に賛成していましたが、一方この時荒木は宇垣とは派閥が異なっていたため、冷遇される立場にありました。

第143回の記事 でもお伝えしました「国家改造」が必要であるとする「運動」が青年将校たちの間で巻き起こるのがちょうどこのころ。戦後不況や関東大震災の影響を受けて、自分たちの生活がどんどん苦しくなる中で、「軍縮」を行い、自分たちの生活を更に苦しくするとは何事だ! という不満が鬱積していたのです。

ただでさえ海の向こうではソ連が力をつけて満州にまで押し寄せている中、軍縮を行えばますます満州を制圧し、ソ連に対抗することがますます難しくなる。兵士の中には農民出身者も多く、共産主義に傾倒するものも少なくない。何より農村の生活は悲惨な状況にある。

この様な状況にしたのはお前たちだ!!という不満の矛先が、軍縮を行った宇垣や、その他財閥や大臣・閣僚たちに向けられていました。

【荒木陸相の誕生】


【荒木陸相】
荒木貞夫

1931年12月、若槻内閣の退陣を受け、犬養内閣において陸軍大臣となったのが荒木でした。

荒木は、陸軍大臣を務める自身の周囲を、徹底的に自分が動かしやすいメンバーで固め、一方これに横やりを入れそうなメンバーは自身から遠ざけ、自身の派閥で固めてしまいます。

そして、そのうちの一人として荒木から大抜擢されたのが「小畑敏四郎」でした。
荒木を中心としたメンバーは、このころより「皇道派」と呼ばれるようになります。

この様な、「皇道派優遇人事」に反発して派閥化したのが「統制派」。皇道派とは異なり、陸軍大学校を卒業したメンバーが中心となっていましたから、部隊としての統制が取れており、よって「統制派」と呼ばれるようになります。

この「皇道派」と「統制派」のテーマは、あくまでも「二・二六事件」に至る「系譜」です。


五・一五事件の勃発

五・一五事件が勃発するのはその名称の通り、1932年5月15日。この事件を起こしたのは、再三名前を登場させている「藤井斉」が海軍青年将校を集めて結成した政治結社、「王師会」のメンバー。井上日昭もまたこの「王師会」のメンバーであり、藤井は井上と共に先の「血盟団事件」を起こそうと考えていました。

海軍兵士たちは、海軍兵学校を卒業した、いわば「エリート」集団。
五・一五事件が勃発した背景として、ワシントン軍縮会議によって行われた「軍縮」に伴って、兵士たちに「休暇」が与えられ、いわば「お払い箱」とされてしまったような、そんな経緯がありました。

当然彼らのプライドも傷つけられたでしょうし、そんな彼らの不満はやはり「金持ち」や「権力者」たちに向けられます。
「財界や政界の人間は自分たちの利益の追求ばかり考えて、政争に明け暮れ、農民や国防のことなど一切考えていない。
あいつらは不要だ。あいつらを倒して日本国の改造を行うことが必要なんだ!」

という発想に至るわけです。で、そんな青年将校たちに影響を与えたのがやはりあの「北一輝」。北の記した「日本改造法案大綱」の影響を受け、藤井は「王師会」を結成するのです。

戦争は、本来国土や領土を広げるためではなく、自分たちの国の「平和」や「繁栄」を実現するために行われるものだと思います。
彼らの唱える「国家改造計画」も同様で、現在の日本国に問題があるから国家を改造しよう、とう発想になるのだと思います。

であれば、方法や手段は違っていたとしても、別の方法でその目的が達成されたのなら、あえてそれを実行する必然性は失われるはずです。ですが、本来の目的が達成されても尚、これを実行しようとするのが「思想」や「イデオロギー」の問題です。

五・一五事件が勃発したのも、同様の背景から起きた「悲劇」だったと、私はそう思います。
前回の記事でもお示ししましたように、血盟団事件を決行しようとする直前に藤井は第一次上海事変の「戦場」へと派遣され、中国軍に傭兵として雇われたアメリカ人兵士によって撃墜されてしまいます。

第一次上海事変が起きる以前は、「世界恐慌」が起きても、「満州事変」が起きても、その才能のない経済政策と軟弱な外交姿勢で日本をどん俗に突き落とし、海外からの信頼も著しく毀損させた「濱口内閣」や「若槻内閣」が政権を担当していましたが、第一次上海事変の時点ではこれらの無能内閣は崩壊していました。

これを引き継いだのが犬養内閣であったわけです。第一次上海事変では海軍が積極的に活用されましたし、当然藤井にも活躍の場が与えられました。日本の国力を示し、最新鋭の設備を用いて中国を圧倒したのです。経済は高橋是清が担当しましたから、1年とたたずして日本国経済は回復してしまいました。

つまり、彼らが犬養内閣を攻撃する理由はなくなっていたはずなのです。
一説によると、藤井が戦死をする際、遺言で「後を頼む。必ずお前たちの手で政党政治を打倒してくれ」なる趣旨の言葉を遺したために、残された王師会のメンバーである海軍兵士古賀清志らが犬養を暗殺することとなった・・・との記述も見られます。

ただ、だれがこの遺言を古賀らに伝えたのか等明確な記述がどこからも発見できませんし、これが真実なのかどうかは眉唾ではないか、と私は思います。

藤井の遺言があるなしに関わらず、彼ら「王師会」メンバーは犬養の暗殺を決行したのではないでしょうか。
ただ、そこにあったのは、「犬養内閣が良かったのか、悪かったのか」を客観的に判断する能力を持たず、ただ北や大川らが唱える「国家改造論」を実行するためだけに行われた「暗殺」という結果でした。

この後、「王師会」は日本の近代史には登場しなくなりますから、ここで「五・一五事件」に関連した系譜は途絶えることとなります。


相沢事件の勃発

二・二六事件側の「系譜」はまだ続きます。

永田鉄山
【相沢事件によって斬殺された永田鉄山】

1933年になると、「皇道派」と「統制派」との対立構造がより明確になります。

6月に開催された「陸軍全幕僚会議」に於いて、ほとんどのメンバーが、「軍を挙げてソ連に対する戦争を起こす準備に入る」という意見に賛同するのですが、唯一永田鉄山のみが、「ソ連と戦争するのなら、先に中国をたたいて属国化し、対ソ戦争に対して共同戦線を張れるようにしなければならない」と主張し、対ソ戦よりも対中戦を優先することを主張します。

対ソ戦を重視する荒木や小畑は、「中国に戦争を仕掛ければイギリスやアメリカが黙っちゃいない。世界を敵に回すことになる」と反対し、永田との間で対立しあうようになります。

荒木・小畑は皇道派であり、永田は統制派を代表する存在であったことから、ここから皇道派と統制派が対立しあうようになります。

犬養内閣を引き継いだ斎藤実(さいとうまこと)内閣でも荒木は陸相を務めるのですが、彼と共に皇道派の中心的な存在であった真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)が当時公然と述べられるようになっていた「天皇機関説(天皇が国会の一機関に過ぎない、ちおう説)」を攻撃し、これに青年将校たちが同調するようになると、荒木は青年将校たちに自重するよう促します。

この事から、荒木は青年将校たちの信頼を失い、陸相の座を辞職します。
荒木の後を引き継いだ林銑十郎陸相は陸軍省軍務局長として永田鉄山を採用します。

その後、永田は陸軍要職から皇道派を排除する動きを見せる様になります。
永田は機密費を使ってまで真崎甚三郎に対する悪評を流布し、正木を教育総督の座から引きずる下ろそうとします。

永田の工作は功を奏し、真崎は各方面から辞任を要求され、最終的に本人の同意のないまま教育総督の座から罷免されます。
真崎はこの経緯を知った皇道派の青年将校、相沢三郎が激怒し、永田鉄山を斬殺します。(相沢事件:1935年8月12日)


二・二六事件の真相

長くなりました。
こうしてみてみると、高橋是清が暗殺された二・二六事件(1936年)がなぜ起きたのか。その理由を考えると、前記した「皇道派」と「統制派」との対立構造が、陸軍以外の政治家や官僚たちにまで飛び火した・・・と考えるのが正当かなと思います。

私、二・二六事件に於いて、メインターゲットとされたのは三月事件や十月事件、血盟団事件、五・一五事件と同様に、軍人たちの生活を苦しめる「政治家」や「官僚」、そして「財閥」なのだと思い込んでいたのですが、どうやらそうではなく、皇道派がメインターゲットとしたのはのちに日本の政界を牛耳ることとなる「統制派」たちであったのだということが分かりました。

岡田首相や斎藤前首相、そして高橋是清が命を狙われたのはその「ついで」。
統制派を襲撃するための大義名分がほしかったのだと思います。

また、もう一つ見えてきたのは、「皇道派」を構成していたのは、農民出身者も多い、陸軍大学校で教育を受けずに兵士となった「下級兵士」たちがほとんどである、ということ。給料も決して高くはなかった様です。

ですから、日本国経済が3.7%のインフレ達成を受け、是清が経済が過騰する前にこれまでのインフレ政策を縮小し、日銀による国債の直接買い取りを停止する=軍縮に転じたとき、これを「またしても自分たちの給料を引き下げるつもりか!」と皇道派たちが是清をそのターゲットとしたことも、うなずけないわけではありませんね。

ですが、仮にこのクーデターが成功し、本当に陛下を輔弼する役割にある人物をすべて殺害し、内閣を乗っ取ることに成功できたとしても、このような人々が構成する皇道派に、本当に政権担当能力があったのかと疑問を持たざるを得ません。

実際に暗殺されたのは以下の通り。

 松尾伝蔵 (予備役陸軍大佐)
 高橋是清 (大蔵大臣)
 斎藤実 (内大臣・子爵)
 渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)
 警察官5名

斎藤実(まこと)は全内閣総理大臣です。
加えて大蔵大臣であった是清と、警官が5名殺害された以外、残る2名は「軍部」の人間ですね。

二・二六事件以降の経緯については、第72回の記事 をご参照ください。

第72回の記事・・・。本シリーズ第1回目の記事ですね。

ついにここまで来ましたか。感慨深いものがあります。

【次回テーマ】
次回記事では、少し「日本」や「中国」から視点をそらして、「アメリカ」や「ヨーロッパ」に於いて実施されたあの「ブロック経済政策」。
ここに主眼を置いて記事にしたいと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第144回 第一次上海事変の原因とまとめ(空母「加賀」初出陣) 
このシリーズの新しい記事
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