第144回 第一次上海事変の原因とまとめ(空母「加賀」初出陣) など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第143回 一夕会と桜会/三月事件と十月事件・血盟団事件の勃発

【前回までの振り返り】

前回の記事では、「満州事件」が計画される以前に、発生した「三月事件」。
満州事変を計画した「一夕会」のメンバーと、一夕会とはまた別に結成された「桜会」。「大川周明」が「北一輝」から託された『日本改造法案大綱』をこの二つの組織が共同で行おうとしたクーデター未遂事件。

不発に終わった三月事件を再度実行しようと桜会のメンバーが大川と北一輝をともに味方につけて企画したクーデター未遂事件「十月事件」。

一方で三月事件や十月事件とは異なり、桜会が計画したクーデターとほぼ同じ内容を僧侶、井上日召ら「血盟団」が、今度は、今度は「海軍」より支援を受けて実行した「血盟団事件」。血盟団事件は、昭和恐慌を引き起こす原因を作った井上準之助の暗殺に成功した、という点で、未遂に終わった三月・十月事件とは異なっています。(クーデターそのものは失敗しましたが)

5.15事件とは、この血盟団事件において、裏側から血盟団を支援した海軍中尉 藤井斉(ふじいひとし)。
第一次上海事変において命を落とした 藤井の、その意思を海軍兵士たちによって引き起こされます。

【今回の記事】

空母「加賀」
【藤井斉が搭乗した空母「加賀」】

前回の記事では、今回の記事に託すテーマとして、『「5.15事件」と、後に2.26事件を起こす「皇道派」そして「統制派」の違いについて』記事にすることをお約束したのですが、改めて調べていると、「血盟団事件」と「5.15事件」をつなぐキーパーソンとなる藤井斉が巻き込まれた「第一次上海事変」。

これも近代史を見る上では重要な事件であったことが見えてきましたので、少しこの部分を深める記事にしたいと思います。

第一次上海事変

記事としてはまず最初に、血盟団事件事件において裏から手を貸した海軍中尉「藤井斉」が命を落とすこととなった「第一次上海事変」。この背景について記事にしたいと思います。

【上海】
上海

「事変」というくらいですから、これは「戦争」状態にあったことを示しています。「義和団の乱」が「北清事変」と呼ばれるのも、義和団の乱に際して、清国が日欧米各国に対して宣戦布告を行い、これらの国々から軍隊が派遣され、清国との間で武力衝突を起こしたから。

満州事変も最初は「柳条湖事件」という単なる鉄道爆破事件だったのに、当時日本国領土であった朝鮮半島から国境を越えて満州に軍隊を派遣したから「満州事変」と呼ばれるようになりました。

第一次上海事変の特徴は、日本軍が初めて「空母」を用いて実践を行った戦いであったこと。
「血盟団事件」と「5.15事件」とをつなぐ存在となる「藤井斉」は、中国軍傭兵として戦闘機のパイロットを務めたアメリカ兵によって撃墜されました。

事件が勃発する背景として見えてくるのは、蔡廷鍇(さいていかい)という人物の率いる国民党軍、『十九路軍』と、満州事変の勃発を受けて上海内で結成された『上海抗日救国連合会』という二つの存在です。

時系列的に言うと、上海市で反日市民団体である「上海抗日救国連合会」が結成されたのが1931年9月22日、蔡廷鍇率いる『十九路軍』の内、第78師団が上海市閘北に現れるのが同年11月のことです。


【上海抗日救国連合会】

「抗日救国」というのは、この当時の中国共産党の「スローガン」です。
共産党は蒋介石と対立する構造にありましたから、蒋介石の「不抗日」というスタイルを批判し、「抗日救国」というスローガンを「プロパガンダ」として利用していたんですね。

つまり、満州事変の勃発を受けて結成された「上海抗日救国連合会」とは、すなわち中国共産党に関係のある組織、ということになります。
この組織によって掲げられた決定内容は、

 一.日貨を買わず、売らず、運ばず、用いず
 一. 原料及び一切の物品を日本人に供給せず
 一. 日本船に乗らず、荷揚げせず、積荷せず
 一. 日本銀行紙幣を受け取らず、取引せず
 一. 日本人と共同せず、日本人に雇われず
 一. 日本新聞に広告せず、中国紙に日貨の広告を載せず
 一. 日本人と応対せず、以上の規定に違反する者は
 一. まず、反日救国会に懲戒委員会を設置する
 一. 違反者の罪重き者は漢奸として極刑に処す
 一. 懲戒は、貨物没収、財産没収、拘禁の上曝す町を引き回す、漢奸服・三角帽の着用、罪名を記した布を胸に付ける

という内容。つまり、日本の通貨を利用した経済活動を一切禁止する、と決議したんですね。
そして、これに反したものは極刑に処す・・・と。

注目していただきたいのは、これを決議したのは何の政治的決定権も持たない「反日市民団体」。
市民団体が勝手に決めて決議した内容に対して、当時の中国政府はこれを禁止したり罰したりしようとはしなかったんですね。

つまり、暗に承認してしまった・・・と。
実際にこの決議に違反した中国人は容赦なく罰せられたのだそうです。そう。「極刑」も含めて。

かつての「南京事件」や「済南事件」のケースもありますから、当時上海租界地域に住んでいた居留民たちは気が気ではなかったはずです。

ちなみに「南京市」は「上海市」と同じ「江蘇省」にある地域。その後、「上海クーデター」も起きていますから、その記憶は鮮明に残っていたはずです。経済活動も完全に停滞してしまいましたから、当時の商工会議所は日本国政府に電報等で講義を行うのですが、当時の外務大臣はあの幣原喜重郎。

ご期待にもれず、「不干渉主義」を貫きました。
つまり、何もしなかったんですね。


【『十九路軍』の襲来】

そして、その場にやってきたのが蔡廷鍇(さいていかい)率いる十九路軍。
彼らが上海にやってきた理由として、この当時日本と共にイギリス、アメリカ合衆国、イタリア、フランスによって構成されていた「共同租界防衛委員会」のメンバーは、「繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしている」と考えていました。

実際、第十九路軍を構成していたのはあの武漢政府軍側のメンバー。

蔡廷鍇は中国共産党の異常さに気づいて武漢政府側から離脱した、とはありますが、この時十九路軍は、日本軍側より軍事施設を撤去するように、との申し出があったにも関わらず、これに応じていませんし(蒋介石は応じるように指示を出しています)、それどころか武力攻撃を強行し、日本に対して先制攻撃を加えています。

ちなみにこのタイミングでは、既に幣原を外相として採用していた若槻内閣は崩壊しており、政権を担当していたのは犬養内閣。
犬養内閣では、南京事件や済南事件の様に悲惨な状況とならない様、早々に手を打っていた、と考えるのが筋だと思います。


【第一次上海事変勃発に至る経緯】

事変が勃発する経緯として、いくつか伏線がありまして、まず日本で朝鮮の独立を求める朝鮮人が天皇陛下を襲撃し、暗殺しようとした「桜田門事件」が勃発します。これに対して上海の新聞社『民國日報』が、「不幸にして天皇が生き残ってしまった」という趣旨の報道を行い、これに対して現地の日本人が激怒します。(1月9日)

続いて、1月18日、「日本人僧侶襲撃事件」(数十名の中国人によって5名の日本人が襲撃され、内1名の僧侶が命を落とした事件)が勃発。その報復として日本青年同志会の32人が日本人僧侶襲撃事件の犯人の拠点である三友實業社に放火し、その後警官と乱闘となった「三友實業社襲撃事件」(日本人一名が射殺され、警官一名が斬殺された)。

これをまた『民國日報』が「日本海軍陸戦隊が支援した」とデマ報道を行います。
第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将との間では論争に発展し、さらに現地居留民(行政権を持つ工部局)からは『民國日報』の閉鎖と、さらに僧侶らを襲撃した「上海抗日救国連合会」に対する解散が要求されます。

居留民が大会を開き、日本人僧侶襲撃と新聞報道に対する憤りを表明。大会参加者らによる日本領事館と海軍陸戦隊司令部へのデモ行進が行われます。

これを受け、村井総領事が上海市長に対して

 1. 市長による公式謝罪
 2. 襲撃者の逮捕と処罰
 3. 負傷者と死亡した僧侶の家族に対する治療費の保障と賠償
 4. 全ての反日組織の即時解散

という4つの要求を行います。日本側からは、さらに圧力をかけるため、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員が上海に派遣されます。上海市長は1~3番までは承服するのですが、4番の項目に対して即答を避けます。(1月22日)

村井総領事は、「30日までに満足のいく回答が得られない場合には、しかるべき対応をさせていただく」と、さらに強気な姿勢を示します。(海軍がサポートしました)上海市長は28日、ついにすべての要求を承服するのですが、これに納得がいかない中国人たちは上海市役所を襲撃。中国の警官たちは逃げ出し、中国人たちはついに日本人居留地域へとなだれ込んできます。

中国当局より戒厳令が布告され、日本人を含め、全ての外国人に対して租界地域へ避難する様通告がなされます。

上海に租界地域の日欧米各国は協議を行い、それぞれの国がエリアを分担して警備にあたることになるのですが、この時日本が警備を担当したのが『北四川路及び虹江方面』。日本の居留民が最も多く暮らしている地域で、日本にとっても利害が大きかったことがその理由です。

ただ、この地域が中国軍が居留している「閘北」という地域と接触する地域に当たるため、予め日本側より中国兵に対して、閘北の軍事設備を閘北から撤去し、戦線を交代させるよう要求したんですね。なるほど。

この通達は蒋介石に対しても行われ、蒋介石はこれを承諾し、前線にいた蔡廷鍇の第十九部隊78師団に通達するも蔡廷鍇はこれを拒否。北四川路及び虹江方面に対して警備の舞台を配属しようとしたところ、突然第十九部隊より発砲があり、日本軍からは90名以上の死者が出たようです。

これに対して日本海軍が応戦。「第一次上海事変」の勃発と相成るわけです。(1月28日)

特に、この時日本軍が応戦したのも、相手が「第十九部隊」であると認識して応戦したわけではなく、この時日本軍は暴徒と化した民衆から日本人とその他の外国人、加えてともに護衛に当たる中国人たちをも護目的で応戦したのだということは、この一連の流れを見れば明白ですね。

犬養首相は、ここからさらに部隊を上海に対して増派。(1932年1月31日)
国民党からも同様に部隊が派遣されてきます。一触即発の事態となるわけですが、このタイミングさらに日本側から、中国に対して「これ以上戦火を拡大させないように」と、前線を下げるよう中国側に要請がなされるのですが、蔡廷鍇はこれを拒否。

これを受けて日本軍は一気に中国軍に対して攻撃を開始し、犠牲者は日本軍769名、中国軍1万4326人、民間人まで含めるとさらに死者は6080人、行方不明者は14000人に上るのだそうです。


【居留民たちによる「自衛」】

一方、この第一次上海事変では、海軍兵だけでなく、居留民たちも自ら「戦い」を行いました。

居留民たちが一番恐れたのは、居留地域に潜む「便意兵」たち。
「便意兵」とは、民間人の恰好をして紛れ込んでいる「中国兵」のこと。この場合だと、中国兵もそうですが、不安をあおりまくる共産党員などもその警戒対象になっていたんでしょうね。

自警団は、怪しいと思われる中国人を片っ端から捕まえて自ら監禁・処刑などの行為を行っていたんだそうです。
ただ、これは明らかにやりすぎで、公使である重光葵が、芳沢謙吉外相に対して、「あれはやばい。中国人以外の外国人まで標的にしている。のちのち面倒ごとに発展しかねないよ、あれは」という趣旨の手紙を送っているほどです。

これは、上海抗日救国連合会など、共産主義者たちがばらまいた「不安の種」が一種結実した結果だとも言えるでしょうね。
住民たちはパニック状態に陥っていたんだと思います。実際、南京事件でも済南事件でも、そんな「一見安全だと思える人」たちによって事態は深刻化しましたから。

まとめ

さて。この後、戦闘は5月5日まで続き、ついに第十九部隊は前線から撤退します。
この時を以て日本軍は国民党に対して停戦を申し入れ、事態はいったん収束へと向かいます。(派遣していた軍もいったん撤退します)

この事件を調べていて感じたのは、どうもこの「第一次上海事変」に関して、日本があたかも悪者であるかのように掲載し、また日本軍に「善戦」した中国をあたかも称賛するかのような記事が多いということ。この「第一次上海事変」と「満州事変」とを関連付けさせ、「関東軍」が引き起こしたまるで「陰謀」でもあるかのような印象を持っている人が多く見受けられました。

ですが、記事をまとめていて、関東軍が中心となって引き起こした「満州事変」と、日本海軍が中心となって活躍した「第一次上海事変」では、全くその性質が異なるということを実感しました。

ネガティブな印象を記している記事の根拠となっている情報の多くが、東京裁判において「田中隆吉」という人物が、「自分が(満州事変を引き起こした)板垣征四郎より要請を受けて「日本人僧侶襲撃事件」を引き起こしたと証言している部分です。

ですが、私が記した「第一次上海事変」の一連の流れを見ていても、「南京事件」や「済南事件」と同じように、

 1.事件が勃発する前に共産党員が事件が起きる舞台となる場所にやってきてネガティブな情報をばらまく
 2.日本軍から信頼されている人物が代表者である軍突如としてやってきて
 3.日本軍の蒋介石の信頼を逆手にとって門を開けさせ→現地人を悲惨な目に合わせる

という一連のパターンにそっくりだと思いませんか?
つまり、事件そのものがあらかじめ共産党員たちによって仕組まれた事件である、ということです。

「日本人僧侶襲撃事件」については、これが板垣征四郎の指示であったことを示す証言は「田中隆吉」本人による供述しか存在せず、また彼が次々と自分の仲間たちを売って(あることないこと米軍に吹聴し)死刑にまでもっていき、自分自身は処罰されることからまぬかれていることなど、その信ぴょう性は極めて薄いと感じられます。

つまり、彼の証言がなければ「日本人僧侶襲撃事件」は中国人たちによって引き起こされた単独の事件であり、「満州事変」とは全く別の事件であることになります。

そのスタンスに立てば、「第一次上海事変」と「満州事変」は全く別の原因によって発生した事件であることがご理解いただけると思います。そして、満州事変は関東軍(陸軍)によって引き起こされた事件であることに対して、第一次上海事変は日本海軍によって、見事な対応がなされており、その性質も全く異なります。

さて。そんな中でただ一人、本来であればまったく別の事件であるはずの「満州事変」と「第一次上海事変」を歴史的につなげてしまう人物がいます。それが、「第一次上海事変」によって、日本海軍兵として初の「戦死者」となる藤井斉。

【次回テーマ】
次回記事では、そんな「藤井斉」がキーパーソンとなって引き起こされた「5.15事件」と、その後勃発する「2.26事件」を、その「違い」に着目して記事にしたいと思います。



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