第138回 幣原喜重郎の外交政策/「軟弱外交」が日本に齎したものなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第137回 高橋是清の経済政策と昭和金融恐慌/北伐時代の日本

【前回までの振り返り】

前回の記事では、加藤高明内閣の後を引き継いだ若槻禮次郎内閣。
加藤高明内閣より継続して大蔵大臣を務めた「濱口雄幸」と、彼の後を事実上引き継いだ片岡直温の経済政策とその結果勃発した「昭和金融恐慌」。

その責任を取って退陣した若槻内閣。その後を引き継いだ田中義一と彼の下で大蔵大臣を務めた高橋是清の経済政策(昭和金融恐慌Ver.)を比較する形で掲載しました。

特に「経済政策」に焦点を絞って記事にしたのですが、この二つの内閣の変遷においては、後の日本外交に重大な結果をもたらすこととなるもう一つの問題が隠れています。

それが「外交問題」です。その舞台となったのは「中国」。
以下の二つの記事で掲載した内容です。

第133回 上海クーデターはなぜ?/伏線としての南京事件(1927年)
第134回 田中義一内閣と山東出兵/済南事件への対応に見る若槻内閣との違い

若槻内閣の時に勃発したのが 南京事件(1927年)、田中義一内閣の時に勃発したのが 済南事件です。

若槻内閣より遡って、加藤高明内閣の時代にも「イギリス租界回収事件」等をはじめとするいくつか事件が勃発しています。
これらの事件に対し、一貫して対応にあたったのが「幣原喜重郎」なる人物。

【幣原喜重郎】
幣原喜重郎

【本日のテーマ】

本日の記事では、この「幣原喜重郎」という人物に着目し、彼が一貫して通し続けた「外交姿勢」が、後の日本の外交戦略に対してもたらしたもの。彼の姿勢が、「対中」だけでなく、「対英米」果ては国内に対してまで、深刻な影響を及ぼすこととなります。

その様子を記事にしていければと考えています。

幣原喜重郎とワシントン体制
既にいくつか名称を出していますが、「ワシントン会議」とは、「九カ国条約」や「ワシントン海軍軍縮条約」、「四か国条約」などの条約を締結するために開催された会議です。

この、ワシントン会議に参加したのが前回の記事でご紹介した「高橋是清」、そして高橋の後を引き継いで首相となる加藤友三郎、そして今回の記事の中心となる「幣原喜重郎」です。

ワシントン会議において、3つの条約が締結され、その結果出来上がった国際協調体制のことを「ワシントン体制」と呼びます。
幣原は、この「ワシントン体制」を堅実に維持し続けようとしました。

この「ワシントン体制」が出来上がったのは1922年2月6日のこと。
1918年に集結した第一次世界大戦への反省から、国際的に軍縮を行い、極力戦争を行わない、和平の方向へと歩みを進めようとする時期でもありました。

日本国内で考えても、1920年の戦後不況の影響により、財政が危機的な状況にありこれらの条約の締結は、まさに「渡りに船」でした。

この時期はまだ中国では北洋政府も力を失ってはおらず、張作霖率いる安徽派と、馮国璋亡き後の直隷派が対立する「奉直戦争」が行われていた時期。一方で広東軍政府では、陳烔明が不穏分子を一掃し、内敵が存在しなくなった広州に孫文が戻ってきて「第二次護法運動」をスタートした時期でもありました。

この時点では、確かにロシア革命以後勢力を拡大しつつあった「ソ連」の存在こそ懸念材料として存在はするものの、まだそこまで懸念材料とはされておらず、中国にもまだ「共産党」がそれほど影響力を及ぼせる時期ではありませんでした。

日本国内でも、「まさか中国がそんなことになる」とは思いつきもしない時期であったと思います。


中国共産党の勃興と関東大震災

ですが、その同年12月、広東政府の指導者である孫文は、ソビエト連邦の代表者である「アドリフ・ヨッフェ」と共同声明を発表し、ソ連や中国共産党との「連携」を行うことが発表されます。

翌年、1923年2月、孫文がソ連の支援を受けて広東政府大元帥の座に就任します。
この時点で、ワシントン体制が築かれたときと、中国の状況は明らかに変貌しました。

ワシントン体制が築かれる際に結ばれた条約のうち、「九カ国条約」とは、日米英、および中国を含む5カ国の間で「中国」への干渉を控えることを取り決めた条約です。

そして同年9月1日、関東大震災が発生。
この時、総理大臣であった加藤友三郎は肺がんのため病没しており、内閣総理大臣は不在でした。

その翌日に山本権兵衛が首相となります。
ちなみに、彼の下で財政を引き受けたのは「井上準之助」。後に世界恐慌のあおりを受けて日本が大不況に陥ろうとする中でその直後に「金輸出」を解禁し、同時に「緊縮財政政策」を断行。日本をさらなる大不況のどん底に突き落とした人物です。

このことは後日、「世界恐慌」の項目で話題にすると思います。

ともあれ、井上準之助の経済政策は、関東大震災の折にはそれほど批判すべき材料も見当たらず、「モラトリアム」の実施を行うなど、比較的安定した財政政策を実施した様です。

ですが、山本内閣は5か月。半年もたたずして裕仁親王(後の昭和天皇)の暗殺事件の責任を取り、総辞職。
続く「超然内閣(つまり、『何もしない内閣』)」である清浦奎吾を経て、加藤高明内閣が誕生します。

ここで外務大臣を引き受けたのが幣原喜重郎でした。(1924年6月11日)

彼は、「ワシントン体制」を築くための3つの条約を成立させた人物のうちの一人です。彼はこれを「自負」でもしていたのでしょうか。
就任するとともに、ワシントン体制を尊重することを宣言。また、列国との協調と中国への内政不干渉を方針とすることも宣言してしまいます。

ただ、この時点ではまだ孫文も生きていますし、広東軍政府よりも北洋政府の方が政治的には中心的な存在でした。


第一次幣原外交の悪夢

孫文が病没するのが1925年3月12日。
蒋介石が北伐をスタートするのが1926年7月1日。

そんな折、1927年1月、「イギリス租界回収事件」という事件が勃発します。

建前で話をすると、当然イギリス租界地域というのは、イギリスがどのような方法で認めさせたのかはともかくとして、歴史上、この時点においては条約によって、中国とイギリスの間できちんと合議して決められた、合法的にイギリス居留民が住むことが認められている地域です。

場所は「漢口」。

【武漢市】
武漢市

湖北省、武漢市にある地域です。
1927年1月ですから、丁度国民党左派・共産党の連中が占領した武漢市に乗り込み、「武漢国民政府」の設立を宣言した時期です。

武漢では正月より3日間、「北伐勝利」と「国民政府移転」の祝賀会が開かれていて、お祭り騒ぎだったのだそうです。
この騒ぎに乗じて、武漢市民が「帝国主義を追い出せ!」よろしく、租界地域の税関門前で演説をスタートします。

この時警備にあたっていたイギリス人兵士との間で小競り合いになり、ここに地元民が群れになって襲い掛かってきます。
この時イギリス兵士は民衆のうち2名を銃剣によって突き刺すのですが、地元民は怒り狂って、税関を破り、一気にイギリス租界地域へとなだれ込みます。

この時は中国軍が駆け付けたため事態は一時鎮静化するのですが、民衆は再びイギリス租界に攻め込み、これに乗じて中国軍は一気にイギリス租界地域を占領してしまいます。

この時のイギリス居留民がどんな仕打ちを受けたのかは・・・想像に難くないと思います。
その矛先はイギリスだけでなく日本人居住地域にもおよび、日本人も同様の被害に会います。

これを受けてイギリス軍は二万を超える軍隊を動員し、さらに日本にも共同出兵を求めるのですが、幣原外相はこれを拒否。
九カ国条約の締結内容をかたくなに守り、「中国内政不干渉」を貫いたのです。

このことは、日本に対して二つの不利益をもたらします。
一つは、イギリスに日本に対する不信感の種を植え付けてしまったこと。
もう一つは中国人に、「日本人は自分たちが攻撃されても何もしかけてこないんだ」とするイメージを植え付けてしまった、ということ。

南京事件が勃発するのはこの三か月後です。
南京事件が勃発した時も、中国人はまず日本人ではなく、日本人以外の、他国の領事館に対して襲い掛かりました。

これに対し、米英軍は当然のように反撃し、日本に対しても共同戦線を張ることを要請するのですが、当時の日本軍に対しては「とにかく中国人を刺激しないように」との通達がなされており、中国兵に対してまったくの不干渉を貫きました。

これを見て中国兵はさらに日本の領事館に襲い掛かり、館内外にいた女性年齢にかかわらず悉く凌辱され、多数の虐殺者を出すこととなったのです。


幣原外交が日本に与えた影響

南京事件に対する日本の態度は、イギリスの中にある日本への不信感を更に大きくしてしまいました。
またさらに、イギリスとアメリカは、中国に対する軍事行動に出ること画策し始めます。ところが、これを知った幣原はなんとこれに対し、「蒋介石がつぶれたら、中国が再び無政府状態となってしまう」として英米の行動を止めてしまいます。

イギリスの中の不信感は決定的となり、特に共産主義と結託した中国の矛先が自分たちに向けられることを恐れ、日本ではなく中国と連携することを暗に公表してしまいます。

また、中国の中でも日本人を蔑視する傾向が強くなり、中国人の日本人に対する態度はますますエスカレートしていきます。
張作霖爆殺事件 が起きる最大の理由となった満州における治安状況の悪化もまた、この時の幣原の態度が招いた結果だといっても過言ではないでしょう。

どことなく、第二次世界大戦の結果制定された「日本国憲法」を、どんなに時代の情勢が変化したとしても一切変えようとせず、当時の占領軍に要求されたとおりの内容をかたくなに守り続けようとするどこぞの勢力を彷彿させます。

また、この時日本国軍の中に、日本国政府に対する不信感を醸造してしまったことも忘れてはならないと思います。

この時の日本国内の現状に目をやると、戦後不況や関東大震災の影響が消えない中で、1926年末に大正天皇が崩御。
イタリア租界事件が起きたのはこの様な中、日本が喪に服している最中。

昭和金融恐慌が起きた直後に南京事件が勃発します。
若槻内閣としては、国内の経済状況や政治状況を何とかするために、海外に対して目を向ける余裕もなかったのかもしれません。
ある意味、幣原に外交を丸投げした結果起きた事態だともいえます。

【次回テーマ】

次回よりテーマとする「満州事変」。この満州事変が勃発する背景として、このような「経済」と「外交」に対する不信があったことを忘れてはなりません。

フランス革命 が起きたのも、支配者層による政治が腐敗し、民衆の鬱屈が溜まり溜まっていた状況のなかであったことを覚えていらっしゃるでしょうか。
この様な日本の中で、徐々に頭角を現し始めるのが日本国内における「右翼マルクス主義者」たちです。

次回記事では、「一夕会」の誕生と、彼らが引き起こした満州事変を中心に記事を作成してみたいと思います。



このシリーズの過去の記事
>> 第137回 高橋是清の経済政策と昭和金融恐慌/北伐時代の日本
このシリーズの新しい記事
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