第130回 蒋介石という人物(後編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第127回 蒋介石という人物(前編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

前回の記事では、時代を清朝末期まで振り返り、孫文亡き後の中国で、時代の中心人物となる一人の人物「蒋介石(しょうかいせき)」にスポットを当て、蒋介石の人生に大きな影響を与える人物、「陳其美(ちんきび)」との出会いとその後の活動を追いかけながら、ただ実直に、自分が尊敬し、信頼する人のために行動した「蒋介石」が、本人の意向に関わらず、次第に政治の中心へその身を置いていくことになる様子を、「前編」としてご紹介しました。

蒋介石-2
【蒋介石:Wikiより】

【本日のテーマ】
本日の記事では、第127回記事 の続編として、再び中国へと戻った蒋介石のトピックスと義兄弟陳其美の死。

その後孫文からの絶対の信頼を手にした蒋介石のエピソードを、改めて孫文について記した第121回記事 と対比させる形で記していきたいと思います。

蒋介石の帰国、陳其美の死

第二革命 に失敗して日本に亡命した蒋介石が、孫文の指令により満州に渡り、再び日本に帰還。
その後、再び蒋介石が中国に帰国したのは1914年10月のことでした。

第122回の記事 を参考にしますと、1914年10月とは、日本が第一次世界大戦に参戦した直後。青島の戦いが勃発する直前のタイミングです。
袁世凱政権下の中国です。

孫文が国民党を解党し、中華革命党(中国革命党)として再編成したのが1914年6月。
結党の目的は独裁色を強める袁世凱政権を打倒することです。

中華革命党は、極秘裏に中国国内で軍事組織を編成していました。
陳其美は、「東南軍司令官」を任じられ、上海に渡ります。1914年10月、孫文は日本において袁世凱打倒宣言を行い、陳はこれに呼応して軍事活動に率先して役割を果たすようにと、蒋介石を上海に呼び寄せます。

蒋介石はさっそく上海に赴き、上海では「第二革命」時に反政府活動を弾圧した鄭汝成という人物の暗殺に成功する等、「戦果
を挙げるのですが、12月には挙兵に失敗し、陳其美と共にフランス租界に逃げて潜伏することになります。

潜伏地において、陳其美は北洋政府の放った刺客によって暗殺されます。
陳は生前、孫文に対して「蒋介石こそが自身の後継者である」との書簡を送っており、蒋介石自身も、陳の遺体と対面して涙し、陳の意志を継ぐことを決意します。

時にして1916年5月18日。袁世凱が帝政を廃止し、自身を大統領という役職に戻したのが3月22日。
失意のまま病没するのが6月6日。陳其美が暗殺されたのは、袁世凱が病没する直前だということになりますね。


蒋介石(しょうかいせき)と孫文(そんぶん)

孫文が蒋介石を自身の下に呼び寄せるのは1918年3月2日。
孫文が広東軍政府を結成し、「護法戦争」を勃発させたまさにその時でした。

孫文が広東軍政府大元帥の座に就いたのは1917年9月ですが、実際には政府の動向は雲南省や広西省の「軍閥」政治家たちによって左右される状況にあり、特に広西省軍閥の陸栄廷(りくえいてい)という人物は、自身の属する広西省に孫文の影響力が拡大することを恐れ、孫文の追放を画策するようになります。

孫文が蒋介石を自身の下に呼び寄せたのは、北洋政府に対抗するため、というよりはむしろ自身の結成した広東軍政府における自身の身の安全を確保するため、というのがその実情だったということですね。

蒋介石は、孫文の下で「広東軍総参謀部作戦科主任」という役職に任じられます。
この時蒋介石が皇道を共にしたのが、後に孫文によって「離反者」の汚名を着せられることとなる「陳烔明(ちんとうめい)」でした。


護法戦争における事実上の「敗戦」後、孫文は雲南省の唐継堯や広西省の陸栄廷らとの争いに敗れ、上海へと引き下がることになるのですが、この時に北洋政府と前線で戦う蒋介石と出会い、またその戦闘能力の質の高さを自ら評価することになります。

孫文の失脚を受けて蒋介石は一度職を辞するのです(1918年7月)が、護法戦争において共に戦った陳烔明よりの再三の要請を受けて、9月に復職します。この時の蒋介石の指揮能力・統率力の高さは北洋政府(北京政府)軍も一目置くほどだったのだそうです。

その後、蒋介石は陳烔明も下で、将兵への教育担当として働くことになるのですが、自身の孫文への思いとこれを意に介さない陳との間で次第に価値観の違い、ギャップを感じるようになり、蒋介石は陳の下を去り、再び上海へと戻ります。

蒋介石が陳烔明の下に再び姿を現すのは、広東軍政府内において勃発した「第一次粤桂戦争」の折。

陳烔明は、孫文に命じられて、雲南派、広西派に対する戦争を仕掛けます。
この時、制圧に時間がかかっていた広州に対して孫文が陳烔明の下に派遣したのが蒋介石。

蒋介石は自ら陣頭指揮にあたり、見事広州を制圧します。
雲南派、広西派が掃討された後の広州に再び孫文は大元帥として戻ってきます。

その後もしばらく蒋介石は陳烔明の下で働くのですが、陳の自身が統括する軍部に対する独占欲、そして他の部隊への牽制などが行われるようになると、蒋介石は陳に対する不信感が非常に大きくなり、孫文に陳に対する不信感を訴え、実家に帰ってしまいます。

このころから、蒋介石の中には、次第に孫文に対する不信感も募るようになります。
孫文自身は蒋介石を非常に信頼しており、「第二護法」つまり、北京政府に対する「北伐」の際も、再三蒋介石に対して広東に戻るよう要請するのですが、蒋介石はこれを受け付けません。

自己保身に走る陳烔明に対する不信感もあったのでしょうが、中国全土の統一を目指しているはずの広東軍政府が、北洋政府だけでなく広東軍政府内で争いの火種を抱えたまま北伐を実行しようとしていることに対しても、ほとほと嫌気がさしていたのでしょうね。

蒋介石は陳烔明に対して不信感を抱いていたわけですが、孫文はそんな陳烔明を信頼しており、彼はそんな孫文に対しても不満を持つようになります。
対日外交に依存する孫文を批判し、国内の団結を進言した蒋介石ですが、これも受け入れられませんでした。

その後、1921年6月に蒋介石の母親が病没します。

彼は母親のことを敬愛しており、度々蒋介石は孫文より軍に戻るよう要請を受け、彼は時に軍に戻ることもあるのですが、陳烔明を中心とした広東軍政府内部の対立に憤慨し、「母の供養」と称して、彼が実家である渓口鎮から動くことは少なくなります。

ところが、母親の本葬が執り行われた後間もなく、彼が三人目の夫人と結婚すると、その後蒋介石はなぜか孫文に忠実に従うようになります。

おそらくの理由として考えられるのは、彼が3人目の夫人である陳潔如(ちんけつじょ)と結婚する際、この結婚に対して陳潔如の母親から猛反対されていること。

その理由として、彼がこの時正当な職業に就いていなかったこと。
そして、この時まだ彼は一妻一妾と縁を切っていなかったこと。

彼は妻である毛福梅とはすでに離縁状態にあり、妾であった姚治誠に対しては慰謝料を払って縁を切りました。

そして、この時に陳の母親を説得することに尽力したのが孫文だったものと思われます。
これ以降、彼は孫文に忠実に従うようになります。


陳烔明との対立

孫文の「北伐」への思いは、まさしく「執念」のようなものを感じさせられますね。

Wikiの紹介では、蒋介石が一度広東軍政府を離れたときの蒋介石の思いは、孫文の「革命」へのこだわりもまたその批判対象であったことを記していましたが、これって別に外れていたわけではないように思えるのです。

蒋介石が孫文に忠誠を誓った後、孫文はますます革命の象徴ともいえる「北伐」にこだわりを見せるようになります。
そして、孫文のこの「北伐」に対して横やりを入れたのが陳烔明。

彼は、武力による統治絵はなく、各省が、省ごとに「自治政府」を作り、その横の連携による「国家」を理想としていたんですね。
イメージからすると、アメリカ合衆国のような統治体制でしょうか。

彼が兵や食料の補給を妨害したため、蒋介石が大本営に参加して初めての北伐は実施されることはありませんでした。
そこで、蒋介石はいったん北伐軍を広東に戻して、体制を立て直してから再び北伐を行う様進言します。

そして、これが受け入れられ、蒋介石は軍を率いて広東に入ります。
陳烔明はこれに反発して辞表を提出。配下の部隊を率いて逃亡。

この時、孫文は陳烔明を軍職から解任するのですが、「内務部長」として政府職にとどめてしまったため、今度は蒋介石がこれに反発し、辞表を提出。

この後、孫文と陳烔明の間での対立も鮮明化し始めます。
北伐軍が上海に出発した直後、1922年6月19日、広州にて陳烔明によるクーデターが勃発。

孫文のいる総統府を砲撃し、孫文は軍艦に逃亡し、軍艦から陳烔明と60日以上の間交戦状態に陥ります。
この時孫文の救援に登場したのが蒋介石。ですが結局不利な戦局を好転させることはできず、孫文と蒋介石は香港から上海へと逃亡します。

どうやら、この後も戦闘は継続していたようで、陳烔明の戦況は徐々に悪化し、孫文傘下の軍に追い詰められていきます。
この時、孫文は蒋介石を「東路討賊軍参謀長」に任命して、軍全体を監理させようとするのですが、ここで蒋介石は許崇智という人物と衝突し、上海へ帰ってしまいます。

蒋介石・・・・結構短気なんですね。
その性格を孫文から指摘された蒋介石は再び派遣先(福建省)に戻るのですが、この時はすでに雲南・広西の討賊軍が戦局を決定づける状況にあり、蒋介石が大きな役割を果たすことはなかったのだそうです。
第121回の記事を補完することができましたね。

さて。1922年12月15日、陳烔明が広州から撤退、孫文傘下の討賊軍が広州に入場し、翌年1923年3月に孫文が再び大元帥として広東軍政府に返り咲くこととなります。

この時、蒋介石は大元帥府大本営参謀長として任命されています。
この後の広東軍の戦局を取り仕切ることになるのが彼、蒋介石です。

ふ~む・・・。
1923年1月に行われた「孫文=ヨッフェ宣言」と国共合作が孫文軍の広州奪還に強い後ろ盾となったのか、と思っていたのですが、どうやら広東軍政府奪還にはこれはまったく関係がなかった様ですね。


まとめ

国共合作が行われた当時、蒋介石は「共産党宣言」などの文献をロシア語で読み込んでいた蒋介石は、「共産主義」という考え方そのものに対してはどうやら賛同していたようです。
第三次広東軍政府が組織された後、「孫逸仙博士代表団」の一員としてソ連に派遣された蒋介石は、現地で学んだ「軍事と思想教育の分離」という考え方に関心を抱いたようです。(1923年11月25日)

蒋介石、本当に頭がよかったんでしょうね。
ソ連を訪問して、その「軍事面」や「政党の組織づくり」という『エッセンス的な部分』に対して、共感して中国に戻ってくることになります。

ですが、彼が国民党を代表して行った演説の席で、孫文の『三民主義:民族主義(韃虜の駆除・中華の回復)・民権主義(民国の建立)・民生主義(地権の平均)』という演説がソ連から公然と批判されてしまったことで、蒋介石は逆にソ連への不信感と共産党に対しる警戒感を強く抱かせることとなります。

考えてみれば、「民族主義」や「民権主義」という考え方は、所謂「共産主義」とは真っ向から対立する考え方ですもんね。

蒋介石がソ連から帰ってきたときは時すでに遅く、国民党への中国共産党員の受け入れやコミンテルンの代表が国民党の最高顧問となっていたり、と、国民党の現状は惨憺たるものへと変化してしまっていたんですね。

1924年1月、広州において『中国国民党第1回全国代表大会(党大会)』が開催されます。
中国国民党のソビエト化戦略のスタートですね。

この後に開催された「第1期党中央執行委員会」に、共産党員から選出された「毛沢東」の名前が登場します。
彼は、共産党の党籍を持ったまま「国民党中央執行委員候補」として選ばれます。

一方、蒋介石はこの中央執行委員に選出されることはありませんでした。

ところが、彼はこの時、『軍官学校設立準備委員会委員長および陸軍軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長』として任命されます。そして彼は広州に設立された『黄埔軍官学校』の校長として就任します。(1924年5月3日)

ここで彼は「共産主義」ではなく「三民主義」を中心に軍人教育を行っていきます。

システムとしての「エッセンス的な部分」は彼がソ連で学んだ方法を採用するのですが、日常的な生活の規律の部分はソ連方式ではなく、彼が日本の京振武学校や日本陸軍第13師団に所属たときの体験が基礎となっています。

さて。覚えていらっしゃるでしょうか。
第124回の記事で、私は以下の様に掲載しました。

【第124回の記事より引用】
馮玉祥の裏切りを根に持っていた呉佩孚が参戦した(奉天派と直隷派が同盟した)ことにより、自体は決着を迎えるのですが、約半年間かけて、30万人もの死者を出したこの戦いは、中国大陸におけるパワーバランスを完全に崩してしまいました。

特にこの間両軍の戦力が北京に集中していたので、その他の地域はがら空き状態。
この間、孫文亡き後、蒋介石率いる広東政府軍(中国国民党)はソ連の軍事支援を受け、実に30万人もの兵力を誇る部隊へと拡大していたのです。

ソ連や中国共産党の影響が及ぶ当時の広東軍政府下で、なぜ蒋介石はこれほどの軍隊を形成することができたのか。
と同時に、ソ連や中国共産党と連携することに不快感を示していたはずの蒋介石が、なぜ『ソ連の軍事支援』を受けてこれだけの舞台を形成したのか。

この部分に対する「伏線」が今回の記事で回収できたように思います。

【次回テーマ】
次回記事では、その後、孫文亡き後の中国に向けて、蒋介石を中心に記事を進めてみたいと思います。
このシリーズの過去の記事
>> 第127回 蒋介石という人物(前編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
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このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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