第127回 蒋介石という人物(前編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>
第125回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~中国共産党の結成~

第121回の記事では広東軍政府(孫文)側から見た五四運動後の中国を、第124回の記事では北洋政府側から見た五四運動の後の中国を、第125回の記事では、「中国共産党」の成立を、振り返ってみました。

袁世凱亡き後の中国において、長らく続いた「軍閥時代」も、馮玉祥の起こしたクーデター「北京政変」と、孫文の北京入城、そして死去に伴い、少しずつ落ち着きを取り戻しつつありました。
この後、馮玉祥が張作霖を相手に再びクーデターを起こし、北洋政府の人員が大量に命を失っていく中で、ソビエト共産党の支援を受け、着々とその体制を整え、軍備を拡張していた人物が「蒋介石」。本日の記事の中心となる人物です。

【本日の記事】
蒋介石
【蒋介石:Wikiより】

今回の記事では、孫文亡き後の中国において中心となっていく一人の人物、「蒋介石」にスポットを当て、清朝末期に誕生した彼が、どのようにして孫文と出会い、後の中国社会の中心となって活躍することになるのか。

時代をさかのぼって、清朝末期より振り返りながら蒋介石のエピソードをご紹介できればと思います。

「蒋介石」という人物

蒋介石という人物を振り返って見てみると、気づかされるのは「革命家」孫文が戦闘の中心には身を置かず、自身の身は安全なところに置きながら全体をコントロールしようとするタイプであったのに比べて、彼はもっと実践的。

孫文を尊敬し、孫文の為に、「実働部隊」として身を粉にしていたような、そんなイメージを覚えます。
孫文が死亡するまでは歴史の表舞台には姿を現さず、また袁世凱の様に権力欲に取りつかれることもなく、ただ実直に生き続けてきたような、そんな印象を受ける人物です。

例えば、孫文も蒋介石も、共に日本を訪れ、日本人からの「学び」を経験するわけですが、孫文が日本を訪れるのはほぼ必ずと言っていいほど「革命」に失敗し、「亡命者」としての訪問であるのに対し、蒋介石はもっときちんとした目的を持って、2度の日本訪問は共に「東京振武学校」という、日本の軍人養成学校に入学することを目的としていました。

最初の訪問時は東京振武学校に入学するための条件を満たしていなかったため、彼は一旦帰国し、東京振武学校への入学条件を得るため、中国国内の軍人学校に入学し、ここを卒業してから再び日本を訪問し、無事「東京振武学校」へ入学を果たしています。

卒業後、彼は日本の陸軍に入隊し、実習を経験します。
孫文が亡命目的で日本に渡り、中国で革命を起こすための組織作りに躍起になったのに対し、蒋介石は日本で軍人になるための勉強と実習をしていたんですね。

その後の蒋介石の中国本土での行動を決定づけたのは、最初に訪日した際に出会った「陳其美」という人物との出会いにありました。


陳其美との出会い

陳其美
【陳其美:Wikiより】

蒋介石にとって、陳其美との出会いが大きかったのは、彼が蒋介石と出会ったとき、彼は孫文が日本で立ち上げた秘密結社、「中国同盟会」に所属していたということです。
つまり、蒋介石は陳其美と出会ったことで、後に孫文と出会うきっかけを持つことになります。

【中国同盟会】

余談になりますが、この「中国同盟会」という団体の設立には、「玄洋社」という日本の政治団体の関わりが大きく見られます。

玄洋社とは、日本の旧福岡藩(黒田藩)が中心となって立ち上げた政治団体です。

現在の日本共産党が「綱領」の中で想定している「右翼」が第68回の記事でもお伝えした、2.26事件を引き起こした陸軍の「皇道派」や「統制派」と呼ばれる「国家社会主義者」たち。

天皇陛下を労働者の代表として据え立てて、それ以外の、天皇陛下に進言する役割を持った支配者層を政治の舞台から排除することで事実上の「社会主義」または「共産主義」社会を実現しようとする、所謂「マルクス主義者」でした。

一方で、玄洋社から派生する勢力は、現在の「保守層」が「右翼の源流である」と主張している政治団体です。

「中国同盟会」は、玄洋社が海外に拠点を築く目的で日本に発足させた「黒龍会」という政治団体の指導者、内田良平という人物の手引きで孫文が中心となり、日本において発足させました。

「玄洋社」という政治団体は、「人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要である」と主張し、「アジア主義」または「大アジア主義」という構想の下、敗戦後GHQによって解体させられるまで、日本の政財界に大きな影響力を発揮し続けたのだそうですよ。


話を戻します。
二回目に日本を訪れた蒋介石は、1910年、日本陸軍に入隊します。
同年6月、アメリカに亡命していた孫文が、日本にやってきます。蒋介石は、この時陳其美の徒弟として、初めて孫文に出会います。
この時の孫文との出会いが、後の彼の行く道を決定づけることとなります。


辛亥革命時の蒋介石

陳其美は蒋介石や孫文よりも早い時期に中国に帰国し、ここで中国同盟会の支部設立に奔走します。
1911年7月、陳が同盟会の庶務部長に任じられた後、同年10月に辛亥革命が勃発します。

陳其美は、上海にて武装蜂起を実行するのですが、彼は事前に上海立憲派との講義を妥結する等、様々な階層からの幅広い支持を得ていて、武装蜂起は成功。彼は上海各層からの推薦を受けて、11月6日、「滬軍都督」となります。
(※清朝末期の中国では、主に「革命派」と「立憲派」という二つの勢力で構成されていました。「立憲派」とは清朝皇帝を全ての法律の上位に据え、憲法の下に中国を統治する、という考え方を持ったグループです。「大日本帝国憲法」の様なイメージですね。孫文ら革命派とは一線を画する位置にありました。)

このころ、10月30日、蒋介石は日本より帰国し、上海にたどり着きます。
彼は陳より杭州方面革命軍である第五団団長に任じられ、11月4日、参戦。見事杭州を陥落し、浙江省独立を宣言します。

ほぼ同時に陳が武装蜂起に成功し、上海都督として就任。陳は蒋介石に「軍事顧問」としての役割を与え、二人は義兄弟の契りを結びます。

陳と蒋は、お互いに深い信頼関係で結ばれていたんですね。

その後、陳は南京攻略を開始しますが、この時点での蒋介石は上海防衛を任されていたため、南京攻略には参戦しませんでした。この後、1912年1月1日、中華民国が設立されます。

同年3月、蒋介石は再び日本に渡り、中国同盟会の会員や在日華僑に向けて、「軍政統一論」、すなわち、「軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要である」と説きます。

8月25日、孫文は中国同盟会を中心に政治結社を合流させて、更に発展させて「中国国民党」を結成します。

その後、12月、蒋介石は日本から帰国します。

翌年3月、孫文に代わって国民党の実権を掌握していた宋教仁が袁世凱に暗殺されたことで、孫文が国民党の実権を握ることになります。

蒋介石が中国国民党の党員となったのはこの時(1913年5月)。
陳其美の下で国民党員となります。

同年7月12日、孫文は袁世凱に対して武力蜂起を決行(第二革命)。この時中華民国の閣僚の地位にあった陳其美は上海に戻り、「討袁軍総司令」と称し、蒋介石率いる第五団に命じて武力蜂起を企てますが、この時すでに上海市内は政府軍に抑えらえていて、第五団の体制は蒋介石の説得に応じず、政府軍についてしまい、武力蜂起は失敗。

陳其美は地下に潜伏し、蒋介石は日本に亡命します。
翌8月、二月革命そのものが失敗し、孫文も日本に亡命しました。

国民党の国会議員は全員袁世凱によって解職させられてしまいます。

孫文は革命達成のための教育機関を日本に設置しその中の軍事専門家養成機関の教官として蒋介石が選ばれます。

1914年7月、孫文は東京に於いて国民党を解体し、新たに中華革命党を結成します。
陳其美は党総務部長に就任し孫文の右腕としてすべての実務を取り仕切るようになります。

蒋介石もまた陳と共に入党して、孫文に絶対の忠誠を誓います。

このころから蒋介石は、孫文の腹心として、少しずつ頭角を現し始めるんですね。
蒋介石は満州に派遣され、現地にて袁世凱との闘争を複数回にわたって企てますが、どれもうまくいかず、結局日本に戻ることになります。

日本に戻った蒋介石は、孫文より命じられ、中国に送り出された工作員たちに対して具体的な指令を発する職務を担うようになります。

話題が長くなりそうなので、続きは次回記事に委ねます。


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