第121回 中国近代史における孫文の役割-中国共産党の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事 第119回 北洋政府V.S.広東軍政府(国民政府):護法戦争~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

第119回の記事の続きです。第119回の記事では、中国国民に「反日感情」の現況を植え付けた袁世凱亡き後の中国が突入した「軍閥時代」。

北洋政府と広東軍政府との争い(護法戦争)において、特に「北洋政府」側から見た護法戦争の経緯を、またさらに北洋政府内部で勃発した段祺瑞と馮国璋との争いに焦点を置いて記事を作成しました。

【北京政府の国旗:Wikiより】
北京政府国旗

【本日のテーマ】

本日は、護法戦争の経緯を、今度は広東軍政府側から、特に「孫文」という人物にフォーカスし、護法戦争から五四運動にかかる流れ、中国共産党の設立・孫文の中国国民党との連携にまで至る流れを記事にしたいと思います。

広東軍政府側から見た護法戦争

この「護法戦争」。
広東軍側から見れば、7月11日、馮の裏切りによって傅良佐が敗北に至った経緯は、「湖南省における初戦で広東軍は北洋政府軍を退けた」と、こうなります。

ですが、翌年4月には段の工作によって進撃せざるを得なくなった馮軍により、広東軍は大敗北を喫することになります。

しかし、北洋政府軍では段が北洋政府からの支持を失っていたため、結果的に護法戦争の決着は武力による対立ではなく、「和議」という形式で決着がつきます。

これまでの事例にもれず、孫文の敗北によって幕を閉じるのです。

護法戦争の真っ只中において、孫文は広東軍内部でも色々とやらかしています。
孫文は馮大統領政権下での段内閣のやり方に反発して、「広西省」や「雲南省」の支持を取りつけて、1917年9月に自身を大元帥に据えた広東軍を設立します。

ですが、自身が発足させた広東軍でありながら、広東軍政府内でクーデターを起こし、軍内部の「広西派」を打倒するため、広州市督軍府を砲撃させたりしています。結果的に広東軍が敗北した1918年4月、翌5月には大元帥の座を追われ、広東軍政府を後にしています。


ヴェルサイユ条約と五四運動

五四運動直前。1918年10月に段祺瑞が馮と共に政権の座を追われ、下野した後の流れを、第119回の記事を補足する形で少し記事を追加しておきます。

段が下野したのは1918年10月。第一次世界大戦が終結したのは翌11月。
講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれるのは翌年1919年6月。その過程において日本に中国山東省権益が譲渡されることが決まったのが4月29日なのですが、色々な記述を見ていると、このヴェルサイユ条約の締結を画策したのが「段祺瑞」である、という情報が出てきます。

ですが、段はヴェルサイユ条約が締結される前年、1918年10月に政権の座を降りていますし、直接ヴェルサイユ条約締結に関して権力を振るうことはできないはずなんです。

にもかかわらずなぜ・・・と調べていたのですが、ここで登場したのが『徐樹錚(じょじゅそう)』なる人物の名前です。

徐樹錚
【徐樹錚:Wikiより】

彼は段祺瑞の腹心。段が広東軍に敗北した後の1917年11月、一度国務総理の座を降りたときも裏から画策して馮に圧力をかけ、結果和平統一路線を馮に撤回させ、段自身も再び国務総理に復帰するまでの工作を仕掛けた人物です。

段を支援する政治集団「安福倶楽部」を結成したのも徐樹錚。
馮の派閥で、和平統一を画策した陸建章を暗殺したりもしています。

徐は軍事費を流用したことをとがめられ、自身が馮に対する工作を仕掛けるために安徽派への支持を取り付けた奉天派張作霖より、奉天軍副司令の職を罷免されるのですが(張作霖を説得した際、徐は自分自身を張作霖より奉天軍副指令に入関させています)、同時に段は徐を参戦処参謀長兼西北国防籌備処処長に任じています。

そしてその後日本と交渉して資金・物資・技術援助を獲得したのはこの『徐樹錚』ですね。
日本との間で『日支共同防敵軍事協定』を締結したのは彼だということですね。

この時点まで、段は『国務総理』の座にありましたから、ここまでのことができたんですね。

そして11月。段が下野した後、彼は日本から獲得した資金を利用して「参戦軍」を編成。
段子飼いの舞台とします。

同時に彼は「陸軍上将」としての位を授けられています。
このタイミングで彼は日本を訪問し、段に対する支持を取り付けます。

そして4月29日、パリ講和会議において、日本への山東省権益譲渡が決定されたことに反発して5月4日、「五四運動」が勃発。
しかし徐はこの学生運動を鎮圧し、ヴェルサイユ条約に調印するべきだ、と主張するのです。

これを裏で画策していたのが「段祺瑞」であると、すなわちそういうことですね。

結局直接交渉にあたった当時の国務総理である陸徴祥はヴェルサイユ条約への調印を拒否。

結果的に段や徐ら「安徽派」の威信は完全に失墜し、これまで安徽派を支持していた奉天派、張作霖も馮が所属する直隷派と連合。安徽派は孤立することになります。

孫文の帰還

五四運動が勃発したその翌年。1920年8月、広東軍政府内で、「第一次粤桂戦争」なるものが勃発します。
軍政府内の権力争いだったのですが、護法戦争の際、軍政府内で大きな権力を有するようになっていた「陳炯明」なる人物が、雲南派、広西派の軍隊を駆逐した後、孫文は広州に戻ってきます。

これですよね・・・。孫文、いつもこうです。
自分ではまともな成果をまったく上げることができず、いつも最後は逃げ出して、誰かがしりぬぐいしてくれた後に戻ってきて、大きな顔をする・・・。

そんな感じです。
戻ってきた後、彼は再び広東軍政府を樹立し、「第二次護法」なるものをスタートします。
この時点で、まだ中国には「北洋政府」と「広東軍政府」という二つの政府が並立しています。

但し、諸外国が「政府」として認めているのはあくまでも北洋政府(北京政府)であり、諸外国が外交交渉を行っている相手も北洋政府です。

ですが、このような中で孫文は1921年4月に「非常国会」を開会し、「自分たちは軍政府ではなく、正式な『中華民国政府』である」ことを決議し、孫文が大統領として選出されます。

ちなみに、この3か月後。1921年7月、ロシアコミンテルンの指導を受け、あの「中国共産党」が発足します。
この時点で、孫文が1919年に設立した「中国国民党」は、「反民族主義」の理念を持つ中国共産党に対しては反対の立場をとっていました。

孫文は大統領に就任した後、「北伐」つまり、武力によって北京政府を制圧し、中国を統一することが必要である、と訴え始めます。

【広東省】
広東省

1922年夏、孫文は、広東省の最北端である「韶関市」というところに「北伐大本営」なるものを設置し、ここで孫文自らこの大本営を仕切ります。

ここから、自陣のすぐ北側に位置する江西省の直隷派拠点に対して攻撃を開始します。

【江西省】
江西省

ですが、孫文帰還のおぜん立てをした陳炯明は、これをあまり好ましく思わず、また同年6月、北洋政府にて勃発した「奉直戦争」により、北洋政府の大統領であった徐世昌が下野し、孫文が自身の行動の根拠とし続けてきた「護法」。

つまり、孫文が中華民国初代大統領となったときに制定した「臨時約法」を順守する考え方の持主である「黎元洪」が再び大統領として返り咲きます。
このことで、陳炯明は、孫文が北伐を行う名目が失われたとして、孫文に対して徐世昌と共に下野することを迫ります。

ですが、これを孫文一派は陳炯明の「離反」であると判断し、再び韶関市から広州市に帰還します。
ですが、孫文の帰還した総統府を陳炯明は砲撃し(6.16事変)、孫文は再び広州から逃げ出します。

この時、孫文と共に広州を離脱した人物が「蒋介石」です。

同年12月、孫文は中国共産党と話し合い、お互いが連携することを決めます。同月30日、ソビエト連邦が成立します。
翌年1月、孫文は雲南派、新広西派と共に広州の陳炯明を撃破。

1923年1月26日、孫文は「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表し、中国統一運動に対して、ソ連が中国を支援を受け入れることを確約します。2月21日、孫文は再び広東軍政府大元帥として返り咲きます。

ふぅ・・・ようやくここまで来ました。
孫文の目的は、陳炯明と対立したことからもわかるように、「北伐」を行い、北京を奪還すること。
自分たちの手によって中国を統一することにあります。

これを、ソビエト共産党の力を借りて実現しようとしたんですね。
ソビエトコミンテルン工作員ミハイル・ボロディンは孫文の顧問となり、1924年1月20日、中国国民党の綱領には「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針が明示され、軍閥や北洋政府(北京政府)に対して共同戦線が張られることが約束されます。

中国国民党は「マルクス・レーニン主義」を受け入れ、中国国民党に中国共産党員が入党することを認めます。
今考えると、聞くだけでも恐ろしいですよね。

ところが、陳炯明が離反した折に孫文と共に広州を脱出した「蒋介石」は、このような孫文のやり方に反対でした。
1925年3月、ついに孫文はガンによりこの世を去ります。

孫文の死後、いよいよ中心となってくるのが「蒋介石」。

【次回のテーマ】

次回記事では、五四運動以降の北洋政府と、中国共産党誕生に至る経緯、孫文の没後の中国についての内容について記事にできればいいな、と思っています。


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