第107回 五四運動の影響をわかりやすく考える(中国人の反日感情)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<前回の記事 第106回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~日本と中華民国との軋轢(対華21ヶ条要求)~

前回の記事では、辛亥革命後の中国において建国された「中華民国」で、二代目の大統領となった袁世凱が仕立て上げた自作自演劇、「対華21か条要求」についてご説明いたしました。

まとめますと、
・日本はイギリスからの要請に応じ、第一次世界大戦に参戦した。

・宣戦布告を行った相手はドイツであり、ドイツが占領していた膠州湾岸(青島)を中国に返還することを前提条件として日本に引き渡すよう要求した。

・中国は一方的に戦地を限定してきたが、日本もドイツも中国が指定していない地域で戦闘行為を行ったため、これを理由として、日本がドイツから取り返した領土を中国に返還するよう要求してきた。

・第一次世界大戦はまだ集結しておらず、日本はイギリスからの要請に応じてドイツに宣戦布告した以上、第一次大戦が終結し、講和条約が締結されるまで返還を待つよう中国に伝えた。

・中国(袁世凱)はドイツと結んだ条約で、膠州湾岸は中国以外の国には譲渡しないことを約束していたことを理由に、膠州湾岸を日本の管理下には置かず、速やかに中国に返還するよう迫ってきた。

・中国(袁世凱)の言いなりになって中国に膠州湾岸を返還すると、中国から賠償請求をされる危険性が生まれたため、当時の大隈重信内閣は中国に「14か条の要求」と「7か条の希望」を提示し、中国を交渉のテーブルに上げようとした。

・ところが、中国(袁世凱)は日本を信頼していないアメリカとドイツの二カ国を巻き込んで国内、国外の世論の反日感情を煽った。

・袁世凱は、最終的に日本から「最後通牒」を突きつけるよう依頼し、日本からの要求を「しぶしぶ承諾した」様に演出した。

・対華21か条要求が締結された直に、袁世凱は「日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処す」という内容の「懲弁国賊条例」という法律を公布し、締結した直後に対華21か条要求を破った。

と、こんな流れです。

ちなみに、日本が対華21か条要求の最終通告が行われた日は1915年5月7日、袁世凱がこれを受け入れた日が5月9日です。
袁世凱は、この時、中国の内外に対して日本の横暴である、と喧伝し、中国国民の団結を訴えました。
そして、中国国民は中国が対華21か条要求を飲んだ5月9日を「国恥記念日」と呼んだのだそうですよ。

記念日・・・ですか。まあ、何も言いますまい。

【本日のテーマ】

【五四運動(天安門広場にて:Wikiより)】
五四運動

さて。この「対華21か条要求」によって高められた反日感情。今回の記事では、この「反日感情」が元となって中国で巻き起こった「五四運動」に着目して記事を進めてみたいと思います。

五四運動とは何か?

五四運動は何か、と問われれば、教科書的な説明は簡単にできるわけですが、今回は少し違った角度からこの「五四運動」を見てみたいと思います。

違った角度・・・というのは、実は日本共産党さんが、しんぶん赤旗において、実に「わかりやすく」記事をまとめていらっしゃったので、少しこの記事をご紹介してみたいと思います。

【五・四運動とは?-しんぶん赤旗より】
五・四運動とは?

 〈問い〉 中国では「五・四運動」記念日の五月四日に、また反日デモがあるのではないかといわれています。五・四運動とは何ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 1919年に中国で一気に高まった一連の反帝国主義・反封建主義の愛国運動のことです。

 きっかけは第一次世界大戦の戦後処理を話し合うパリ講和会議(19年1月)です。中国は、日本が奪っていた山東省の旧ドイツ利権の回収、日本の21カ条要求(15年)の撤回、各国の在華特権を認めた不平等条約の廃止を要求しましたが、会議はこれらをすべて却下しました。

 5月4日、北京大学の学生ら3000人は天安門前で抗議集会を開き、21カ条要求の撤回、親日派官僚の罷免、パリ講和条約調印拒否などを要求し、日本商品のボイコットをよびかけ、その後、弾圧に対して授業放棄をおこないました。

 運動はまたたくまに上海、天津、広州など全国に拡大。孤立した親日派の軍閥政府は6月3日から北京で街頭演説中の学生1000人を逮捕しました。これに対し、商人や労働者が学生に同調してストライキを組織。とりわけ中国経済の中心だった上海では6月5日、商店の閉店による抗議が発生。労働者のストライキ参加は6、7万人に達しました。この結果、政府は、逮捕学生を釈放、親日派官僚を罷免、講和条約の調印を拒否します。

 五・四運動は、帝国主義列強の世界再分割策への反対運動であるとともに、売国的な軍閥に対する反対闘争でした。1911年の辛亥革命後、軍閥支配に抗して中国の活路をもとめて「新文化運動」を展開した知識人や学生が、欧米の新思想を積極的に取り入れて民衆とともに運動したのが特徴です。

 五・四運動は、1921年の中国共産党の成立に大きく影響。後に国民党との共闘が実現することになります(第一次国共合作)。(松)

〔2005・5・4(水)〕

要約すると、第一次世界大戦の戦後処理を話し合うパリ講和会議において、中国側の要求がすべて却下されたので、北京大学の学生が天安広場前で行った抗議集会が、瞬く間に中国全土の民衆にまで広まった運動のこと、ということですね。

さて、この赤旗記事と第106回の記事を比較していただいて、色々と突っ込みどころが満載だ、ということにお気づきいただけますでしょうか。

一番の突っ込みどころは、日本の新聞であるはずの赤旗が、中国で起きた五四運動のことを「愛国運動」であると表現しているところにあると思うんですけどね。

日支共同防敵軍事協定

五四運動の内容に進む前、もう一つ中国における反日感情が高まった一つの原因ともいえる、この「日支共同防敵軍事協定」についてお話しておきたいと思います。

第95回の記事でもお伝えした通り、袁世凱は、その後自分を皇帝とした「中華帝国」を設立(1915年12月12日)するのですが、日本からの対華21か条要求を飲んだ、という事実から、中国国民の激しいバッシングを受けることになります。

「護国戦争」と呼ばれる内戦が中国国内で勃発し、各省が帝国からの独立を宣言。
3月17日に帝政は取り消され、中華民国が復活。

6月6日、袁世凱は病没します。
没後、副総統であった黎元洪が大統領として就任しますが、北京政府は統治権を失い、その後の北京は「軍閥時代」と呼ばれる内戦状態に突入します。

黎元洪の下で副総理を務めたのが「馮国璋(ふう こくしょう)」。
国務総理を務めたのが「段祺瑞(だん きずい)」という人物でした。

日支共同防敵軍事協定とは、第一次世界大戦の下、段祺瑞内閣において日本と中華民国(支那共和国)との間で結ばれた軍事協定です。
この協定が結ばれるようになった背景として、中国の第一次世界大戦への参戦が挙げられます。

少し時系列でお示ししてみます。

【中華民国誕生後の年表】
1912年1月1日  中華民国誕生
1913年10月10日 袁世凱初代大統領になる
1914年7月28日 第一次世界大戦勃発
1915年5月9日  対華21か条要求締結
1915年12月12日 中華帝国誕生
1916年3月17日 中華帝国消滅
1916年6月6日  袁世凱死去
1917年2月23日 ロシア革命(二月革命)勃発
1917年11月7日 ロシア革命(十月革命)勃発
1918年2月9日  ドイツとロシアの間で講和条約が結ばれる。
1918年11月11日 第一次世界大戦終結

と、こんな流れです。
中国が第一次世界大戦に参戦した経緯としては、

・第一次世界大戦中に起きた「ロシア革命」により、ロシアに政権が誕生した
・ロシアは連合国の意向を無視して勝手に敵国であったドイツと講和条約を結んだ
・にわかにドイツが中国・極東にまで攻め込んでくる危険性が増した。
・中国は第一次世界大戦に参戦した。

という流れです。
段祺瑞は日本に支援を求める傾向にあり、中国が日本に支援を求める形で「日支共同防敵軍事協定」が締結されます。

この「日支共同防敵軍事協定」の内容が

「日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした」
とあります。飽くまでもこれは、「中国側からの要望」で締結された内容です。

中国そのものが内戦状態にあったわけですし、仕方のない選択だったのかもしれません。
ちなみに、この協定には終結に関する内容も明記されていて、「独墺敵国ニ対スル戦争状態終了ノ時」とあります。

つまり、「第一次世界大戦が終わったら協定は解消しますね」と書かれていたのです。
ところが、中国国民はこれを潔しとせず、「日支共同防敵軍事協定」を「日本と軍閥の『癒着』である」と考えたんですね。

五四運動勃発

このような状況の下、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」の中に中国側の要求が一切認められなかったことから勃発したのが「五四運動」。

中国側は、元々ドイツに占領されていて、日本が取り返してくれた膠州湾岸(青島)の権益を「自分たちに返せ」と要求し、袁世凱の権力欲で、日本に懇願して「最終通告」をさせて、直後に「日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処す」などという内容の法律を公布しておきながら、「対華21か条要求を撤廃させろ!」と要求したのです。

ですが、この戦争の性格から考えると、日本は中国を相手に戦争をしていたわけではなく、飽くまでドイツを相手に戦争をしていました。
日本は対戦国であったドイツに勝利して膠州湾岸(青島)を手に入れたのです。
日本がドイツを破らなければ、いまだに膠州湾岸(青島)はドイツ領のままでした。中国が参戦したのは日本がドイツに勝利した後であり、膠州湾岸(青島)の権益が日本に認められたのは、至極当然のことだと考えられます。

返してほしければ、お宅が直接日本と交渉してください、というのは別に不思議なことでもなんでもありません。
対華21か条要求に関しても、元々中国が日本に対して無茶な要求を突き付けてきたため、やむを得ず交渉するための材料として日本が中国に提示したものです。

日本が膠州湾岸(青島)をドイツから奪還した後、第一次世界大戦が終結するまでおとなしく待っておけば、突きつけられることもなかった要求です。

ですが、これが認められなかったことを知るや否や、激怒して3000人規模のデモを行ったのが北京大学の学生たち。
彼らが行ったことは、

1.売国奴(日本との交渉に当たった役人)を処罰することを政府に要求するとともに、かれら自身で人民による処罰を実行したのである。趙家楼にある曹汝霖(交通総長)の邸宅が焼かれ、章宗祥(駐日公使)は大衆に殴打された。

2.6月3日には学生は授業を放棄(罷課)して街頭で山東の返還、日本製品ボイコットを口々に訴え、商店は一斉に抗議の店じまい(罷市)をし、労働者はストライキ(罷工)によって呼応し、上海は都市機能がストップ、他の都市にも動きは広まった(三罷闘争)。

というような内容になっています。(世界の窓より引用)
なんだか、どこかのフランス革命あたりで見た内容ですね。

この五四運動の影響を受けて誕生したのが「中国共産党」です。
中国共産党は、元々「マルクス主義研究会」という名称の団体でした。

1921年7月、コミンテルンの指導を受けて誕生したのが「中国共産党」。

五四運動とは「反政府・反帝国・反日」運動です。
そして、そのような運動の中から誕生したのが「中国共産党」です。

今回のシリーズの課題の一つである、「大東亜戦争において、なぜ日本と中国は戦争するに至ったのか」という謎。

少しその謎の片鱗が見えてきた気がしますね?

【次回記事のテーマ】
次回記事では、袁世凱が病没した後分裂し、「軍閥政治」へと陥った中国が、一体どのようにして再び統一され、一つの国家としての体裁を整えていくのか。

そんな様子を記事にしたいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第106回 対華21か条要求とは何だったのか(日本と中国の軋轢)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
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