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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第519回 ドイツ政権の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)への接触

前回の記事では、第518回の記事 で触れることができていなかった、「シュトレーゼマン後のドイツ国首相」で、ヒットラー首相が誕生する直前の2名、即ちパーペン内閣とシャライヒャー内閣の二つの内閣について記事にしました。

単純に見落としていただけで、意図して記事を分けたわけではなかったのですが、結果的にこの二つの内閣、もっと言えばその直前のブリューニング内閣まで含めて、この3つの内閣がヒットラー内閣誕生への伏線のような役割を果たしていた事に気づくことができました。

世界恐慌が勃発したことは確かにあるのですが、それまでの内閣と比較して、ブリューニング内閣は確かに違和感を覚える、実力の薄い内閣だったように感じていたので、裏でシャライヒャーという人物が大統領に対して働きかけていたことを知ると、「なるほどな」という印象を受けました。

で、ブリューニング内閣での法案成立が「緊急法規」という手法を取っていたという事を 第518回の記事 で触れたと思うのですが、同じ記事の中でこの「緊急法規」について、
この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

と記述しました。

で、前回の記事 でパーペン内閣について検証している中で、これもやはりWikiベースではあるんですが、パーペンの政策決定方法として、
内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だった

という記述がみられます。

これは、パーペン内閣でもブリューニング内閣同様、「緊急法規」という手法を用いた政策決定が行われており、これが「大統領権限」に基づくものであったという事がわかります。

つまり、ブリューニング内閣で実行されていた「緊急法規」もまた、「大統領権限」に基づくものであったという事。両内閣に対してシャライヒャーが関わっていることを考えると、そこに一致性がみられることにも疑問を抱かずに済みます。

これは、法案を立案するのは内閣で、本来であればこれを成立させるために議会の承認を得る必要があるのですが、ワイマール憲法第48条によって大統領は「憲法停止の非常大権などの強大な権限」が与えられていていました。

これを、「大統領緊急命令権」といいます。ブリューニングも、パーペンも、この方法を用いて法案を成立させていました。これができたのは、両内閣の成立に関与したシャライヒャーが、ヒンデンブルク大統領に信頼されていたからに他なりません。

極端なインフレを終息させるために緊縮財政政策を取ったブリューニングも、雇用を創出するための財政出動政策を行ったパーペンも、大統領命令を利用して成立させた政策は、決して誤ったものではないと思います。

ただし、その後シャライヒャー内閣→ヒットラー内閣へと政権は移っていくわけですが、ヒットラー内閣においてこれがヒットラーの権限を拡張させるために利用されたことは間違いのないことだと思います。

そしてこれを可能としたのはヒンデンブルク大統領がシャライヒャーを信用しきっていたから。この事は頭の片隅に置いておく必要があると思います。

ちなみにこの事は、第475回の記事 で、麻生さんの「ナチスの手口」発言について解説する記事を作成した際、詳細に記事にしています。

第475回の記事 はこの記事をご覧の皆様にもぜひ読んでいただきたい記事なのですが、あくまでこの時のドイツの憲法は「ナチス憲法」ではなく「ワイマール憲法」です。

ヒンデンブルク大統領が連発した「大統領緊急命令権」は、当時世界でも最も民主的であるとされたはずのワイマール憲法に規定されていたことですし、また大統領がブリューニングやパーペンを罷免する権限も憲法によって保障されていました。

これまでの記述でご理解いただけているとは思いますが、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)はきちんと選挙という方法を通じて議席数を増やし、国政第一党にまで規模を拡大しています。

麻生さんが言っているのはこの事です。ワイマール憲法はどのようにして決まったのか。これは社会主義者たちの台頭を受け、ドイツが第一次世界大戦に敗北し、帝政から共和制へと移行する中で、共産主義者の集団であるスパルタクス団の武装蜂起が勃発する中。

その首謀者であるベーベルやリープクネヒトが処刑される中で成立したものです。

そのような喧噪の中で決まった「ワイマール憲法」。正確には「ドイツ国憲法」ですが、そのような憲法の下でも国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)のような政党が政権を手中に収めるようなことは発生するんですよ。そのようなドイツの歴史に学んだらどうですか、というのが麻生さんがおっしゃっていることです。

是非、きちんとその事を日本の国民全員に考えてほしいなと思います。


釈放後のヒットラー

ということで、改めて本題に入りたいと思います。

同じサブタイトルを、第517回の記事 でも用いているのですが、今回のこの章はその続き、という感じで読んでいただけると嬉しいです。

第517回の記事 では、ヒットラーが収監されている最中に仲間割れを起こしていた元ナチスのメンバーを再び結束させ、ヒットラー自身がドイツ国の国籍を取得したところまで記事にしました。

ミュンヘン一揆によって国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は禁止されていたのですが、ヒットラー自身の釈放(1924年12月20日)後、1925年2月27日に禁止が解除され、再建されることになります。

釈放後、ヒットラーは当時(1925年1月4日)のバイエルン州首相であるハインリヒ・ヘルトと会見をし、ヘルトが同党の再結成を許可したのだそうです。この時、ヒットラーはヘルトに対し、非常にへりくだった姿勢を見せていたようです。

ところが、実際に再結成をし、演説会を開くとその影響力は決して無視できるようなものではなく、州政府からは1年間の演説禁止措置を受けることとなります。

同年7月には「獄中での口述を基にヒットラーがまとめた著書」である「我が闘争」が発売され、これが順調な売れ行きを見せるなど、ヒットラーと国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルン州以外にも支持を広げる様になっていました。


突撃隊の再結成とレームとの決別

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

一方で、国家社会主義ドイツ労働者党の軍対組織である「突撃隊」の再結成に当たっては、突撃隊をナチスから独立させようとさせていたレームとの間で意見が分かれ、結果的にレームとは一時的に決別することとなります。

突撃隊の結成や強化、またミュンヘン一揆においても大きな力を発揮してくれたレームですが、ヒットラーとしては突撃隊への彼の影響が大きくなることを危惧していた時期もありましたね。

ヒットラーが突撃隊の隊長をレームの息のかかった人物からヘルマン・ゲーリングへと差し替え、レームが送り込んだエアハルト旅団退院を突撃隊から一掃した件です。


ザロモンによる突撃隊の再編成とその影響

フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
Bundesarchiv, Bild 119-1587A / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

5月24日にヒットラーの命令により、突撃隊の再建が開始することになるのですが、この突撃隊。バイエルン州だけでなく、ベルリンをはじめとする様々な地域でも各地の党支部の下で再建が行われたのだそうです。

逆に考えると、この時点で国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルンだけでなく、各州に「支部」となる組織を有していたという事。しかも軍部を支部ごとに組織できるほどの・・・。

これはこれでビックリですね。

その後、各地でバラバラに活動していた突撃隊を、中央から統括してコントロールしてほしい、という意見が増えることになり、その役職として突撃隊最高指導者を新設し、ヒトラーはフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンという人物をこの役職につかせました。

ザロモンの働きは実に鮮やかで、1927当初には実に18個大隊を編成し、突撃隊隊員はザロモンに忠誠を誓う形となります。

旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という編成になっていたのだそうですよ。

ザロモンの上長はヒットラーですから、突撃隊はヒットラーとザロモン以外からの指示に従わなくなります。ドイツ共産党の軍隊(赤色戦線戦士同盟)と衝突したり、また暴力的な行為を行うものが増えていくんですね。

社会民主党の国旗団とも戦闘を繰り広げるなど、死傷者が頻繁に出るようになった、とのこと。いろんな州がナチスを嫌がったのは、どうもこのザロモン率いる突撃隊の行動に原因があったようです。ヒットラー自身はこのような突撃隊の行動を嫌がっていた、とありますね。

各州ではナチスの制服そのものが禁止されていくようになります。党としては制服を白シャツにする、などの方法でこれを乗り切ったのだそうです。

ザロモンの「功績」はなかなか興味深いところがありますので、そのまま引用して掲載しておきます。

【突撃隊の社会福祉制度】
負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。


【ザロモンが設立した組織等】
1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊が傘下となっており、1934年までその状態が続いた。

また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。

このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している。


しかし、ザロモンはヒットラーに対し、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に書き加えることをヒットラーに要求したものの、ヒットラーにこれを拒否されると突撃隊司令官を辞職しています。

この時ヒットラーが拒否した理由が

「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」

という理由です。これは、至極尤もな事なのではないでしょうか。

エルンスト・レームの再登場

詳細は割愛するのですが、ザロモンの辞任をきっかけに、各地の突撃隊が中央からの指示に反発するようになります。元々、ヒットラーの政策は保守的なもので、共産主義や社会主義と対立する立場にありました。

突撃隊のメンバーは元労働者が多く、こういった「左翼」が元々多くいたんですね。反乱を起こしたのはこのような人たちです。

突撃隊内での武力衝突も起きるなど、ヒットラーとしてはなんとかこの状況を抑える必要性に駆られます。

この時点でザロモンの役職はヒットラー自身が担っているのですが、ヒットラーにはこの状況を抑えることができる人物はたった一人しか思いつきません。

突撃隊の再建を巡って対立し、自分自身の下を去ったエルンスト・レームです。

レームはヒットラーからの要請を快く承諾し、1930年11月1日に南アフリカからドイツに帰国。1931年1月5日、正式に突撃隊幕僚長へと就任することになります。

この時点でのドイツ国首相はブリューニングですね。少しだけ時間軸を巻き戻し、国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出について記事を記します。


国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出

国家社会主義ドイツ労働者党が初めて国政選挙に挑むのが1928年5月20日の事。この時はたった12人しか当選することはできなかったのですが、ヤング案の成立をきっかけとして世界恐慌が勃発すると、ドイツ国内では失業者が大量に発生し、国政への不満が噴出します。

世界恐慌時の首相はヘルマン・ミュラーで、彼が所属していたのはドイツ社会民主党。1928年5月の選挙でドイツ社会民主党は議席数を大幅に増やし、この事がミュラー内閣の政権安定に貢献したわけですが、世界恐慌の煽りを受けて押し寄せた不景気の波は、逆に政権与党であった社民党への逆風となります。

ミュラー政権が発足した当初は好景気で、ヤング案を成立させたことで、ミュラー政権は戦勝国への賠償金も減額させています。ヤング案の成立が原因で世界恐慌が勃発することまで想定してはいなかったでしょうし、不可抗力だったと思うのですが、ちょっと可哀想な気もします。

ミュラーは1930年3月27日に退陣し、その後ブリューニングが首相となるわけですが、ヤング案の成立そのものもドイツ国民に対しては反政府感情を誘発したようで、ブリューニング内閣で行われた1930年9月14日の国政選挙では、

第一党 ドイツ社会民主党 153議席→143議席▲
第二党 国家社会主義ドイツ労働者党 12議席→107議席+
第三党 ドイツ共産党 54議席→77議席+
第四党 中央党 61議席→68議席+
第五党 ドイツ国家人民党 73議席→41議席▲
第六党 ドイツ人民党 45議席→15議席▲

という結果に終わります。ブリューニングは中央党でドイツ人民党と組んでいます。両党の議席数を合わせて106議席→83議席へと大幅に議席数を減らす結果に終わっていますね。

一歩で選挙前はブリューニング内閣に反対する姿勢を取っていた社会民主党ですが、自党が議席数を減らす中、国家社会主義ドイツ労働者党と共産党が議席数を大幅に増やし、特に国家社会主義ドイツ労働者党は一気に国政第二党へと躍進していますから、これは危機感を覚えたと思います。

その後、ブリューニング内閣に協力する姿勢を見せる様になっていますね。

レームが戻ってきたのは、ちょうどそんな時期でした。


まとめ

本日の記事では、パーペン内閣やシャライヒャー内閣とのかかわりににまで記事を進めることはできませんでしたが、ヒットラーがドイツ国政府や各州の政権から敬遠されるきっかけとなった理由の一つに、再建された「突撃隊」の存在があったことが見えてきましたね。

レームが復活した突撃隊はどのようにまとめられていくのか。

また、現時点でまだヒットラーはそれこそ「ユダヤ人大量虐殺」というような手法を用いて政府と対立していくような様子は見られません。

寧ろ突撃隊の暴走で政府からの心証が悪くなることを恐れているような、そんな印象すら受けます。

この後のヒットラーがどのように変化していくのか。次回以降の記事で検証してみたいと思います。





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<継承する記事>第518回 シュトレーゼマン後のドイツ国首相~ヒットラー首相誕生まで

今回も前回の記事同様、前回の記事に掲載した内容を時系列で整理するところから始めてみます。

1923年9月 グスタフ・フォン・カール、バイエルン州総督に就任
1923年11月8日 ミュンヘン一揆勃発
1923年11月30日 ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1925年2月 エーベルト大統領死去
1925年2月28日 ハンス・ルター内閣始動
1925年5月12日 パウル・フォン・ヒンデンブルク、大統領に就任
1926年5月16日 第二期ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1928年6月28日 ヘルマン・ミュラー内閣始動
1930年3月30日 ハインリヒ・ブリューニング内閣始動
1933年1月30日 アドルフ・ヒットラー内閣始動

で、前回の記事で誤っていた箇所が一つ。

ブリューニングの後にフランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャーという人物がそれぞれ首相を務めていますので、今回の記事はこの両名にも触れておきます。

フランツ・フォン・パーペン内閣(1932年6月1日 - 1932年12月3日)

フランツ・フォン・パーペン
Bundesarchiv, Bild 183-1988-0113-500 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

首相として、ヴィルト、クーノ、シュトレーゼマン、マルクス、ルター、ミュラー、ブリューニングと、所謂「政治家」が多く登場していますね? 経済や外交に強い首相が多い様に思います。

ところがこのフランツ・フォン・パーペン。「政治家」というよりはどちらかというと「軍人」。そして彼が首相として指名された理由として、彼の後首相を務める「クルト・フォン・シュライヒャー」という人物からヒンデンブルク大統領への「推薦」があったことが挙げられます。

この辺りからどうもドイツの政治がいろいろときな臭くなってきますね。

パーペンは政治家としての経験が少なく、あまり有能ではなかった・・・とあります。そしてシュライヒャーが「利用しやすかった」ことがその最大の理由だと。

この辺りは記述者の解釈等が含まれているでしょうし、事実とどの程度近いのかは眉唾ものではありますが、彼が所属していた中央党の党首と「大統領からの要請を受けない」ことを約束していたにも関わらず、ヒンデンブルク大統領からの要請を受け、これに飛びついて中央党から除名されるなど、決して褒められた人物ではないのではないか、との想像は付きます。

彼の下でシャライヒャーは国防大臣も務めています。

更に、この内閣の評判は非常によろしくなく、ブリューニング内閣で自党の軍部である「突撃隊」を禁止され、これを解除してもらう必要があった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が唯一同内閣を批判することがなかったものの、それでも協力を要請されたヒットラーはこれを断っていたといいます。

パーペン内閣は実際に突撃隊の禁止を解除しています。

この段階で、ドイツ国各州がナチスに対し、「ナチス征服禁止令」を出そうとするなど、ナチスが「危険な存在である」と感じられていた様子は見て取れます。

また、前回の記事で日本が主導して開催されたローザンヌ会議が前首相であるブリューニング内閣だったと記したのですが、これは誤りで、実際にはブリューニング内閣が崩壊し、パーペン内閣が誕生した直後。1932年6月16日の事。

実際にローザンヌ協定そのものは成立し(批准はされず)、賠償金額を減らすことに成功はしたものの・・・というより、免除することに成功してたんですね。その代わり、30億マルクを支払え、というのがローザンヌ協定で決まった内容だったようです。

ところが、ドイツ国民にはこの結果は評価されなかった様で。パーペンは「外交下手」との誹りを受けたのだそうです。

その後もフランスに対して「対共(ソ連)同盟」の成立を打診して拒絶され、ソ連にばらされたりするなど、ダメっぷりは発揮するのですが、ただ、経済政策については効果的な政策を打っていたようで、その中心が雇用創出事業。

これまで「緊縮財政政策」とは真逆の「財政出動政策」。中でも道路建設事業や徴兵制度(日本の是清の政策とよく似ていますね)などはヴェルサイユ条約に違反するために見送られたものの、後にヒットラーによって採用され、失業問題を劇的に解決することに役立っています。

そして、彼の時に行われた総選挙でナチスが37.4%の得票率を獲得。議席数を107議席から230議席へと大幅に増やし、政党第一党へと躍進することになります。

社会民主党が143議席から133議席に、国家人民党が41議席から37議席へと議席数を減らす中、パーペン内閣を攻撃した中央党、そして共産党も議席数を伸ばしました。

この後のパーペン内閣とナチスとの関係については後日の記事に委ねようと思うのですが、これを受けてナチスの存在を看過できなくなった・・・という事でしょうか。シャライヒャーはナチスと接触するようになるのですが、結果的にはパーペン内閣はナチスと対立することになります。

その後の政権運営を他人任せにする傾向が強かったパーペンは結果的にシャライヒャーからも愛想をつかされ、退陣を求められることとなり、大統領であるヒンデンブルクの下へ逃げ込むも、ヒンデンブルクからもNoを突き付けられ、パーペン内閣は退陣し、シャライヒャー内閣が生まれることとなります。


クルト・フォン・シュライヒャー内閣(1932年12月3日 - 1933年1月28日)

クルト・フォン・シュライヒャー
Bundesarchiv, Bild 136-B0228 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この人物。パーペン内閣での暗躍っぷりをみてもわかると思うのですが、特にミュラー内閣以降、「政治を裏から操っていた」という印象強く受けます。

現在はWikiの記事を中心に内容を進めているのですが、この中にシャライヒャーが「政治陰謀が好きだ」という記述がみられます。

彼は大学時代に「ヴィルヘルム・グレーナー」という人物に師事しているのですが、シャライヒャーはグレーナーによって政治の表舞台にまで引き上げられることになります。シャライヒャーがグレーナーのことをどう思っていたのかはわかりませんが、グレーナーはシャライヒャーの事を異常に信頼している様子が見て取れます。

実際シャライヒャーは軍人としても有能だったようで、第一次世界大戦後の義勇軍の創設、編成などで大きな功績を発揮したり、第一次世界大戦後のドイツで参謀本部長や軍総司令官などとしても活躍したハンス・フォン・ゼークトの側近として「黒色国防軍」の編成を任せられるなど、その能力を多くの実力者から評価されていたようです。

ただ、ゼークトから重用されてはいるものの、ゼークトはシャライヒャーの事を好ましくは思っていなかったようで、その理由として「政治陰謀が好きだから」という理由が記されています。

彼が信頼を集めていたのはグレーナーだけでなく、ヒンデンブルク大統領からの信頼も厚かった・・・というのはパーペン内閣の様子を見てもご理解いただけると思います。

彼はヒンデンブルク大統領が大統領となる以前から彼の息子と親しく、シャライヒャーがヒンデンブルク大統領に信頼されることとなったのも、そんな大統領の息子を通じての事でした。

彼が大統領に影響を及ぼしていたのはヒンデンブルクが大統領に就任した直後から。

ゼークトはシャライヒャーの危険性(現段階ではあえて「危険性」と表現しておきます)を見抜いていて、軍内、及び政界全体に対する彼の影響力の拡大を押さえつけようとしていたのですが、ゼークト自身が1926年10月に失脚し、シャライヒャーを押さえつける者は誰もいなくなります。

彼の師であるグレーナーがミュラー内閣で国防相となると、彼によってシャライヒャーは少将へと引き上げられ、国軍省に設置された大臣官房の官房長へと任じられます。グレーナーのシャライヒャーに対する信用の度合いはかなりなものであったようです。

ミュラーの後、ブリューニングが首相へと就任するわけでが、大統領に彼を首相へと就任するよう働きかけていたのはシャライヒャー。ブリューニング内閣において行われた地方選挙でバイエルン州以外全ての州で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が第一党へと躍進すると、シャライヒャーはブリューニングを見限ってヒットラーに接触。

ヒットラーと「突撃隊禁止命令の解除」を約束したのはやはりパーペンではなくシャライヒャーですね。シャライヒャーはそれ以外に国会を解散させることなども約束しています。

更にその後シャライヒャーはナチスと組んでブリューニングではなく、グレーナーを失脚するよう画策します。自分自身をここまで信頼し、引き上げてくれた恩師であるグレーナーを、です。クズですね。引用します。

ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。

5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。

シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した。

ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた。

この後、シャライヒャーは大統領に働きかけ、ブリューニングも解任させます。

ブリューニングを首相にする様ヒンデンブルグに働きかけたのはシャライヒャーだったはずなんですが。

この時大統領がブリューニングに伝えた解任の理由は
「今後は右翼政治を行うべし」
「労働組合指導者層とは手を切るべし」
「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」

という内容。

「農業ボルシェヴィズム」とは、「東プロイセンの地主が管理しきれない土地を失業者に分配する」というブリューニング自身の政策をユンカー(地主)たちが揶揄したもの。

これを受け、ブリューニングは5月30日に総辞職しました。

そして、更に首相へと就任したのがパーペン。その後、パーペンがやはりシャライヒャーに見限られ、辞任へと追い込まれるまでの経緯は前記した通り。

パーペンの辞任後、1932年12月3日に今度はシャライヒャー自身が首相へと就任することとなります。


今回の記事では、「ヒットラー」の話題にも触れていく予定だったのですが、記事そのものが少し長くなったことと、「パーペン」及び「シャライヒャー」両内閣の経緯についてヒットラー自身とのかかわりが多くみられることから、両首相の以前の首相の時代まで含めて、改めて「釈放後のヒットラー」について次回記事で検証していきたいと思います。



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<継承する記事>第517回 ヒットラー釈放後のドイツ国経済~世界恐慌勃発まで~

前回の記事では、ミュンヘン一揆前後、ヒットラーが逮捕され、また釈放される前後のドイツ。第一次世界大戦敗戦後ドイツの賠償交渉の流れについて記事にしてみました。

流れ的には

1923年1月11日 ルール占領開始
 ドイツでハイパーインフレーションが勃発

1923年8月13日 ヴィルヘルム・クーノに変わってグスタフ・シュトレーゼマン首相へと就任
 クーノが取っていた通貨発行を原資としたルール地方のストライキ政策を中止

1923年11月15日 ヒャルマル・シャハトによって地代に価値が紐づけられたレンテンマルクが発行
 暴落の真っ最中だったパピアマルクをレンテンマルクに交換し、マルク相場が落ち着く

1923年11月23日 シュトレーゼマンがミュンヘン騒動等の責任を取って退陣

1924年8月16日 アメリカの賠償委員会に参加し、「ドーズ案」をフランス・ベルギーが受諾。
 ドイツは米英からお金を借りてフランス・ベルギーに返済することに

1924年10月 ドイツは新通貨「ライヒスマルク」を発行
 ドイツ国内でしか使用できなかったレンテンマルクと交換、金本位制へと復帰

1929年6月 ドーズ案に変わって新たにアメリカが提案したヤング案が採択
 ドイツの返済額が減殺され、返済期間が延長される

1929年9月4日 ヤング案の成立を受け、世界恐慌が勃発
 ドイツが更なる財政難へと陥り、ヤング案でも返済が不可能な状態に陥る

1932年6月16日~7月9日 ローザンヌ会議で更なる減額が決定。
 フランス・ベルギーの要求を米国が拒否し、批准されなかった

1933年1月30日 ヒットラーが首相へと就任
 返済そのものを拒否する

という感じです。

前回の記事はこの流れを国際社会側から見たわけですが、今回の記事ではこれをドイツ国側から検証することを目的としています。


国際社会の流れとドイツを統合

前回の記事で、一部振れているのが「カール政権の発足」についてです。

彼がバイエルン州総督となったのが1923年9月の事ですから、時期的にはシュトレーゼマンがドイツ国首相となり、ライヒ通貨委員となったシャハトがレンテンマルクを発行するまでの間の出来事です。

更に、ミュンヘン一揆が勃発したのは1923年11月8日~9日にかけての事ですから、レンテンマルクが発行されたのはミュンヘン一揆の直後だったことになりますね。

ミュンヘン一揆勃発のそもそものきっかけを与えたのはシュトレーゼマンのルール占領軍に対する「受動的抵抗の中止政策」を受けてのものではありましたが、彼は後のドイツ国経済に安定化をもたらした「レンテンマルク政策」の実行者でもあったわけですから、彼が辞任に追い込まれたのは「とばっちり」でしかなかったようにも感じます。

ちょうど昭和恐慌から日本をいち早く立ち直らせた高橋是清が、その経済回復を実感できるようになる前に兵士たち(皇道派)によって暗殺された二二六事件の経緯ともよく似ている気がします。


シュトレーゼマン後のドイツ政権~第一期ヴィルヘルム・マルクス内閣

で、登場していてしかるべきなのに、全く名前が登場していないのがシュトレーゼマンの後を引き受けた首相のお名前。

これが、ヴィルヘルム・マルクスという人物で1923年11月30日に首相に就任し、24年12月15日まで首相を続けています。

ヴィルヘルム・マルクス
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

彼は、また更に26年5月16日に首相へと再任し、28年6月12日まで首相を続けています。

で、前任者で辞任したシュトレーゼマンですが、彼は第一次マルクス内閣では外務大臣を務めています。シュトレーゼマン、やはり有能な人物だったんでしょうね。

マルクスは翌12月の総選挙で敗れて退陣するのですが、その直後、1925年2月にはプロイセンの州首相に就任しています。ですが、同じ月の月末、敗戦後の混乱の中から、長らく大統領として就任していたエーベルトが死去。マルクス派州首相を辞任し、大統領選に出馬しています。

ところが、この選挙でも彼は僅差で敗れ、落選。


ハンス・ルター内閣

第一次マルクス内閣の後はハンス・ルターという人物なのですが、この内閣でマルクスは法務大臣を務めています。

ハンス・ルター
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

一方で、ルターはシュトレーゼマン内閣で財務大臣を務めた人物で、シャハトがレンテンマルク政策をとる中で、自身は緊縮財政政策を取り、通貨を安定させました。この時は「ハイパーインフレーション」が起きている真っ只中ですから、緊縮財政政策が「的を射た政策」になるんですね。

首相としてのルターはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとの間で「ロカルノ条約」という集団安全保障条約を締結(ヴェルサイユ条約の内容を踏襲したもの)しており、この事でドイツは晴れて国際連盟へと加入します。

この事は、第一次世界大戦対戦国との融和にも貢献していて、ドイツを国際社会へと復帰させたんですが、その事が逆にドイツ人からの反発を招き、ルターを退陣へと追い込むこととになります。

ちなみにロカルノ条約の発足に貢献したのはレンテンマルク政策を実施したシュトレーゼマン。シュトレーゼマン外相ですね。シュトレーゼマン、結構優秀ですね。やはり。


ドイツ国家人民党とドイツ政権

ちなみにルターを退陣に追い込むこととなったのは、シュトレーゼマン外相の政策に不満を抱いた「ドイツ国家人民党」。

ドイツ国家人民党は第一次世界大戦中の保守政党が合流して出来上がった政党で、皇室の復活を望んでいたり、議会政治に反対していたり、ヴェルサイユ条約やドイツ国憲法(所謂ワイマール憲法)にも反対。反ユダヤ・反社会主義・反共産主義の政党です。

「匕首伝説」も喧伝していたということですから、ガチガチの右派。

そもそも第一次世界大戦はドイツが優勢に進めている中、社会主義者たちの台頭により自滅したような戦争ですから、社会主義者の台頭さえなければドイツが連合国に敗北することはありませんでした。

シュトレーゼマン外相の外交政策(ロカルノ条約)は本来勝ち戦であったはずの第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約を受け入れ、フランスやベルギーと仲直りすることを目的としていますので、国家人民党がこれに反発したのは当然といえば当然でしょうね。

ちなみにこの政権の中には「バイエルン人民党」。も参加しています。バイエルン州総督を務めたグスタフ・フォン・カールもバイエルン人民党です。

ドイツ国家人民党離脱後のルター内閣が崩壊したのも理解できる気がしますね。

ルターの後を再びマルクスが引き継ぎ、マルクス内閣を組閣します。(1926年5月16日)

その後、「社会民主党のフィリップ・シャイデマンにドイツ国防軍とソビエト軍が秘密裏に協力していることを国会で暴露」されたことにより辞職。その後総選挙が行われるのですが、議席を減らし、マルクス内閣は退陣することになります。(1928年6月12日)


ヘルマン・ミュラー内閣

マルクスに代わって首相としての指名を受けたのがドイツ社会民主党党首であるヘルマン・ミュラー。
ヘルマン・ミュラー
Bundesarchiv, Bild 102-11411 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

彼はヴェルサイユ条約に外務大臣として調印した人物であり、当時のドイツ国第2代首相であるグスタフ・バウアーが退陣した後、第3代ドイツ国首相を務めたこともある人物です。(1920年3月27日)

ですが、この時は総選挙で議席を大きく減らし、たった3ヶ月で退陣しています。(1920年6月28日)

第二期マルクスの後に首相として指名されたミュラーですが、彼の在任期間は1928年6月28日~1930年3月27日で、これは第一次世界大戦敗戦後のドイツとしてはこれまでで最長の就任期間なのだそうです。

ヤング案が成立したのは彼の就任期間。ですが、この事が原因で世界恐慌が勃発することとなり、ドイツでも失業者が増大。

結果的にミュラーは退陣へと追い込まれることとなります。

ちなみにこの「ヤング案」ですが、この話し合いがもたれることとなったきっかけは、ドーズ案ではドイツが仏白に対する債務を米英からお金を借りて仏白に返済するだけですので、結局ドイツの債務は減らない・・・。

この事が理由です。

で、この話し合いを持ち掛けたのがはっきり言ってドイツ側からだったのか、アメリカ側からだったのかは私の中でははっきりとした資料が見つかっていません。

ですから、ヤング案を成立させたことによって世界恐慌が勃発し、辞任に追い込まれたミュラーを「無能だった」という表現をすることは適切ではないと思うのですが、彼の目立った「功績」はこのくらいですね。

もう少しだけ進めます。


ハインリヒ・ブリューニング内閣

ミュラーの後を受け、なんと44歳という若さで、世界恐慌の真っ只中、首相へと就任したのがハインリヒ・ブリューニング。彼の就任期間は1930年3月30日~1932年5月30日の2年間。
ハインリヒ・ブリューニング
Bundesarchiv, Bild 183-1989-0630-504 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この後ヒットラーが首相へと就任していますので、ブリューニングがナチス政権直前、最後の内閣ということになるでしょうか。

彼が所属していたのは中央党という、これは ビスマルクの文化闘争に関する記事 のところでお名前が一度登場していますね。

社会主義者の危険性にビスマルクが気づく直前。ビスマルクが社会主義者よりも南ドイツの「孤立主義者」に影響を大きく与えていたカトリックの危険性の方を重要視していた時期。

そのカトリック政党の代表的な存在が「ドイツ中央党」でした。

ミュラー退陣後、大統領であるパウル・フォン・ヒンデンブルクは彼の存在に着目していて、次期首相として彼を指名。組閣を命じました。

ブリューニングは前首相であるミュラーが所属していたドイツ社会民主党ではなく、同党と対立するドイツ人民党と連携する選択をします。ちなみに私がこの記事で高評価しているシュトレーゼマンはドイツ人民党に所属していました。ですが、ブリューニングが首相に就任する直前に脳卒中で他界しています。

で、この内閣でブリューニングはドイツ社会民主党だけでなく、共産党や国家社会主義ドイツ労働者党、つまり「ナチス」とも対立します。

ドイツ国家人民党は一部が政権に参加した、とあるのですが、国家人民党党首であるアルフレート・フーゲンベルクは政権に強硬的に反対する立場をとっており、国家人民党前党首を中心とする一部議員が党を割って外に出ていますので、おそらく政権に参加したのは後者ではないかと思います。

一方で、フーゲンベルク率いる国家人民党は国家社会主義ドイツ労働者党へと近づいていきます。

一方でドイツ社会民主党は国家社会主義ドイツ労働者党や共産党と対立する構造にあり、やがてブリューニングに歩み寄った姿勢を見せる様になります。

ブリューニングの取った政策は、「緊急法規」による議会の審議に縛られない方法を用いたやり方で、「緊縮財政政策」で、デフレを目的としたもの。

何度も言いますが、この状況下のドイツは「ハイパーインフレーション」から回復途上にあり、通貨が安定しておらず、このような状況下では決して誤った政策ではないと思います。

で、この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

また、日本の主導による「ローザンヌ会議」が開かれたのも彼の時代。

彼は世界恐慌の真っ只中でオーストリアと関税同盟を結ぼうとしてフランスの反発を買い、フランス国内からのドイツ・オーストリアの資金受け入れを禁止。一方で政府声明として「ドイツにはもはや賠償金を支払う能力がない」と発表し、外資がドイツから撤退。

傷病兵や失業者に対する保険をカットする緊急法令を発行して共産党組織によるデモが頻発するなど、まさにカオス状態へと陥ります。

シュトレーゼマンが生きていればもう少し異なる政策を打つことができたのかもしれないですね。

これを受けて当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーが「フーバーモラトリアム」を発令し、ドイツへの賠償金支払い猶予を再建各国に提案、これが受け入れられます。

しかしそれでもドイツからの資金引き上げは収まらず、このような状態で開催されたのが「ローザンヌ会議」です。


ナチスの台頭

さて。この後、いよいよ「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」が政権の中心へと躍り出ることになります。

次回記事では、本日の記事に今度は「ヒットラーサイド」から改めて着目し、記事を進めていきたいと思います。




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