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<継承する記事>第507回 ベルリン進軍を決行するのは誰か?カール政府のドタバタ劇

さて。ミュンヘン一揆に至る経緯はようやく総括できるレベルになりましたね。

前回の記事で私、「ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります」と記したのですが、よくよく考えると一揆が勃発する場所はベルリンではなく「ミュンヘン」。ミュンヘンはドイツではなく、「バイエルン」の州政府がある場所です。

で、私前回記事の最後であたかもベルリン進軍が決行されるかのような書き方をしています。そして「カール政府はバイエルン州民や他の指導者らの信頼を失った」理由にはっきり触れることなく話題を終結させているのですが・・・。

カール政権が民衆の信頼を失った理由は彼らが「ベルリン進軍計画の延期を決めた」事。

1923年11月6日、カールは「ナチスを除く国家主義団体の指導者」を招集するのですが、その場で「体制が整った後にベルリン進軍を行う事」が決議され、計画そのものは延期された形になったんですね。

これに業を煮やしたヒットラーをはじめとするドイツ闘争連盟が「クーデター決行を志す」こととなるわけです。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯まとめ

簡単にミュンヘン一揆勃発までの経緯をおさらいします。

1.シュトレーゼマンにより、(ルール占領に対する)受動的抵抗政策の中止が表明される。

2.これを受けミュンヘンに「ベルリン政府打倒」に向けた機運が高まる。

3.機運を受け、ヒットラーを中心として「ドイツ闘争連盟」が結成される

4.カールがバイエルン州総督に任じられる

5.ナチス機関紙の記事を巡り、ベルリン政府とカール政府との間でドタバタ劇が繰り広げられる

6.カールらがベルリン進軍延期を決議したことを受け、ドイツ闘争連盟は「ミュンヘン政府に対する」武装蜂起を計画する

という流れですね。

ただ、ここでドイツ闘争連盟の内部では、自分たちが引き起こすクーデター(未遂)に対し、二つの案が出されています。

一つが、ナチスの幹部であったショイブナー=リヒターという人物の提案した、武力による州政府制圧という所謂「武装蜂起」。

もう一つはヒットラー自身の案で、カールが演説をする予定のビアホールに突入し、ここでカール、ロッソウ、サウザーの3巨頭を説得し、ドイツ闘争連盟への支持を求める、というもの。

これに対する現時点での私の感想としては、「実に穏やかな武装蜂起だな・・・」という印象です。

これ、印象としてはロシアでレーニンらが起こした10月革命と非常によく似ていて、10月革命のときは当時のケレンスキー内閣の拠点を次々と制圧し、最後に冬宮を占拠することでクーデターが成功するのですが、内部の人間と革命を起こす側との連携が取れていて、革命としてはほぼ血を流すことなく、たった2日で終結しています。

この時ももっと凄惨な革命が起きるものとばかり思っていたので、非常に肩透かしを食らったような印象を受けたのですが、今回のヒットラー案もこれに負けず劣らず、クーデターの内容としては実におとなしい内容ですよね。

という事で、改めてこの計画が実行に移った経緯を深めてみます。


ミュンヘン一揆勃発

ここからは、時系列的にミュンヘン一揆の推移をただ追いかける記事になります。

なるべく読みやすくしようとは思うのですが、私が「ミュンヘン一揆」を理解するために作成する部分なので、しばしお付き合いいただければと思います。


決行前、早朝までの様子

まず、発生したのは11月8日の事。実行犯はドイツ闘争連盟。ヒットラーが中心となって作った組織です。

内容としては、ヒットラーが提案した策が採用されているのですが、これよりも前に、ショイブナー=リヒターより武装蜂起案が起草されており、実はこれはヒットラー案が採用される前に一度方針として決定しています。

リヒター案としては1923年11月11日に武装蜂起を決行し、バイエルン州政府を制圧するというもの。先んじて11月7日、政府の主要機関を制圧するという案が作成されたんですが、これにヒットラーが異を唱えた形ですね。

11月6日夜の事ですが、翌7日、ナチスの軍組織である突撃隊がミュンヘンのキャバレー「ボンボニエール」というところに殴り込み、風刺レビューの作曲家ペーター・クライダーを撲殺したのだそうです。

なぜこのタイミングでこんなことが起きているのかという事、ペーター・クライダーという人物がどういう人物であり、どのような「風刺レビュー」を作曲しているのかという事もちょっと理解できていないのですが、少しだけこの「突撃隊」メンバーの暴力的な側面がうかがえますね。

ヒットラーの提案内容としては、まず前提として、ミュンヘン最大のビアホールである「ビュルガーブロイケラー」というところでカール総督が演説を行う予定があったという事。

更にここに三頭政治を担っている「ロッソウ(軍)」と「ザイサー(警察)」も参加するため、この3名に対し、闘争連盟の支持を求めるための説得を行う・・・というのがその内容です。

決行されたのが8日の午後8時半なのですが、この話し合いは同日午前3時まで続いた、とのことで、要は直前まで話し合いを行っていたってことですね。


ビュルガーブロイケラーへの突入

突撃隊に対しては待機命令が出されるのですが、直前まで話し合いが行われていたこともあり、突撃隊全体にこの計画が周知されていたわけではなかったようです。その結果、参加できなかった隊員も多数いたようです。

会場(ビュルガーブロイケラー)は125名の警官によって警備が行われていたのですが、武装した突撃隊の登場に、ほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく立ち去っています。ヒットラーが現場に到着したのは午後8時。ヒットラーは事前にビアホールに入って仲間と共にビールを飲みながら待機していました。

やがてカールによる演説が始まるわけですが、その演説の最中。午後8時30分に隊長ゲーリング率いる突撃隊がビアホール(ビュルガーブロイケラー)になだれ込みます。

これを受け、ビアホール内で待機していたヒットラーはカールが演説をする壇上へと上がろうとし、現場は大混乱。

そして、この時ヒットラーは拳銃を頭上に向けて発砲。

「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」

と叫んだのだそうです。


ヒットラーの要求

ヒットラーはカール、ロッソウ、ザイサーの命の安全を保障した上で、次のような要求を3人に対して行います。

1.ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限の委譲
2.ベルリン進撃への協力

更に、ヒットラー自身が政府を組織し、ドイツ闘争連盟側よりペーナー(エルンスト・ペーナー?)という人物を首相に、エーリヒ・ルーデンドルフを国民軍司令官に。

カールには「州摂政」、ロッソウには「国防大臣」、ザイサーには「警察大臣」というポストをそれぞれ提示しました。

「ルーデンドルフ」とは、第一次世界大戦の名称で、バーデンバーデンの密約を交わした岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機 にも影響を与えた人物ですね。

ドイツ闘争連盟には「名誉総裁」として就任していました。

しかし、さすがにカールらも「はいそうですか」とこれを受け付けるわけもありません。これを受け、ヒットラーは同席していたリヒターにルーデンドルフを呼びに行かせました。

リヒターから事情を聴かされた時、実はルーデンドルフ、このヒットラー案に基づく武装蜂起の計画を聞かされていなかった側の人間で、最初は激怒していたのだそうですが、彼はそれより武装蜂起そのものを成功させることの方が大切である、と考得たのだそうです。

ルーデンドルフが到着する前のホールでは突撃隊と群衆との間で小競り合いが続いていたのだそうですが、やがてヒットラーの演説が始まると群衆は彼を支持するようになっていたのだそうです。

こう聞くと、ヒットラーってかなりすごいですね。突然ホールに武装してなだれ込んだ上、徐に演説を始めて現場にいた群衆をここまで惹きつけたわけですから。

カールらはルーデンドルフによって説得され、ヒットラーに協力することを明言します。

ここからがすごい・・・というか、個人的に・・・いや、多くは言いますまい。

ヒットラーと共にカール、ロッソウ、ザイサーが演壇に立つと、群衆はドイツ国家の大合唱。この後集会に参加していたクリニング首相ら閣僚は逮捕、軟禁されたのだそうです。


カールらの裏切り

と、このサブタイトルでわかりますように、要はカールらは本当にヒットラーの申し出に従ったわけでありませんでした。

ミュンヘン市内では突撃隊を今度はレームが率いて市役所や国防軍司令部を占拠し、バリケードを築きました。

ところが、この時、彼は通信施設を占拠しなかったため、ここから反一揆派に連絡がなされてしまいます。

ルーデンドルフは自身の説得がうまくいったと思っていたのですが、カールらは逆に恥をかかされていますから、この事を恨みに思っていました。

一方で一揆が勃発する直前、ベルリン政府の国防軍総司令であるゼークトからはヒットラーらを排除することを要請する親書が送られていたりしました。


カール、ロッソウ、ザイサーの脱走

近くで起きた小競り合いを収めるため、ヒットラーが席を外した時、現場に残されたルーデンドルフに対し、ロッソウ、カール、ザイサーが「持ち場に帰りたい」という申し出を行います。

普通はこれを止めなければならないと思うのですが、ルーデンドルフはなんと「ドイツ軍将校は決して誓いを破らない」という理由でこれを容認してしまいます。

この時点で、実は既にバイエルン国防軍は一揆に反対する姿勢を固めていて、カールがバイエルン政府庁舎に戻ってきた時、彼はバイエルン王太子より「いかなる犠牲を払っても反乱を鎮圧せよ。必要とあらば軍隊を使え」という通信んを受け取ります。

ロッソウもまたゼークトより反乱鎮圧の命令を受領しています。

ヒットラーたちはこの後バイエルン政庁の占領を目指す(8日午後11時)のですが、この時点でカール、ロッソウ、ザイサーの3名はヒットラーを裏切っており、鎮圧部隊と化していますから、この後、反乱軍は次々と国防軍、州警察によってとらえられることとなります。

ヒットラーらがカールたちの裏切りに気づくのは翌日午前5時。軍司令部をドイツ闘争連盟のレームが拠点としていたのですが、10時の時点で国防軍によって包囲されていました。


ミュンヘン一揆の結末

これに対し、ヒットラーらがとった対応策は、なんとレームの立てこもる軍司令部への「デモ行進」。ルーデンドルフの発案だったらしいのですが、その根拠として、英雄であったルーデンドルフを全面に立てておけば軍も警察も手出しはできないはずだ、という理由です。

更にこのデモ隊は殆んど丸腰で、武装しているものに対しても実弾を抜き取る様命令が出ていたのだとか。軍や州警察に反撃して取り返しのつかないことになることを避けるためでしょうか。

フェルトヘルンハレ
Thomas Wolf, www.foto-tw.de - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

12時30分頃、デモ隊がフェルトヘルンハレという、ミュンヘン市内の広場(オデオン広場)にある建築物(日本語では将軍廟、などと訳されるカテゴリーの建築物)の前を通りかかったとき、警察隊がデモ部隊に向け、一斉射撃。

この射撃でショイブナー=リヒターが即死。ルーデンドルフは行進を止めようとせず、銃撃にさらされる中、警官隊の隊列まで突き進み、逮捕。

ゲーリングは足を負傷(後にオーストリアに亡命)、レームは潜伏していた軍総司令部で降伏。3名の警官を含み、総数で19名の死者が出たのだそうです。

ヒットラー自身は党員であるウルリヒ・グラーフという人物が身を挺して守ってくれたため、銃弾にさらされることはなく、後にナチスに入党し、幹部となるエルンスト・ハンフシュテングルという人物の別荘に逃亡しました。

その二日後、警察がここに到着したことを受け、ヒットラーは拳銃による自殺を図ろうとしました。しかし、これをハンフシュテングルの妻であるエルナに引き留められ、この時エレナに、ナチス幹部の今後の指導を託す内容を記したメモを渡します。

で、ヒットラーは警察に逮捕されるのですが、この時政府や役人に対する批判を叫んでいたという事なのですが、どうなのでしょう。この時の叫びは普段から彼が感じていた不満を言葉にしたものなのでしょうか。それとも自身が案を練り、その上でカールらに裏切られたその屈辱から漏れた言葉なのでしょうか。

デモ部隊の内、逮捕されたのは指導者たちのみ、と記されており、軍司令部を占拠していた部隊については武装解除後に撤退を許可された、とあるのですが、行進を行っていたメンバーについてはどうなのでしょうか。

恐らくは占拠部隊同様、逮捕されることなく撤退をすることとなったのではないかと思われます。


ミュンヘン一揆の決着

ミュンヘン一揆の「決着」という意味では、その後の裁判の経過こそが重要性を持つものかと思います。

ここには編者の個人的な感想と思われる内容も記されていますので、あくまで事実のみを抽出した後、参考としてその内容を掲載しておきます。

決着としては、ヒットラーに5年間の「城塞禁固刑」が課せられることとなりました。ただし、この時の待遇は非常に良かったらしく、独房の環境も、食事も満足のいくもの。

更に面会も自由で、ナチスの党員が彼の身の回りの世話をしました。

そして何より着目すべきは、この時にヒットラーは後述により、あの「我が闘争」を執筆することとなった事。

我が闘争

ヒットラー自身は5年の禁固刑を言い渡されていたものの、実際には半年後、保護観察処分に減刑され、12月20日、仮出獄することとなります。


裏切者、カールらの評価

カールらの行動は、個人的には突然ヒットラーたちに演説会場に殴り込みをかけられ、自分たちの演説を台無しにされた挙句、「自分たちに政権を渡せ!」と言われた後、突然ルーデンドルフがやってきて説得をされる・・・という滅茶苦茶な状況ですので、口で「今日から仲間だ」と言ったとしても、そんなのは口先だけ・・・というのも心情として理解できなくはありません。

いや、寧ろ普通そうだろうと。

しかし、この時のカールらの行動はバイエルンの民衆たちには決して良い評価を受けておらず、民衆からは「一揆が失敗しそうになると、突然態度を豹変させた」というように映った様です。

裁判においても自分たちに不利な発言が出ないように圧力がかけられていたようで、取り締まった側ですから当然一揆の犯人とされるようなことはないわけですが、民衆からの評価は急降下することとなりました。

で、民衆からの評価が下落したことは、おそらく事実そうだったのだろうと思います。ただ、編者による先入観がある可能性は否定できない部分かな、とは思います。

また、カールらはそれでも第一次世界大戦の名将であるルーデンドルフを有罪にする事も躊躇していたようで、一方のルーデンドルフもまた、「一貫して責任を回避し続けた」とあります。

ただ、これに関しては続いて「時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった」との記述もあり、「責任を回避した」わけではなく、「自らの正当性を毅然として訴えた」とする表現の方が近いのではないでしょうか?

で、彼の言葉の中におそらくはヒットラーを礼賛するような表現があり、この事が一揆の中心人物として「英雄ヒットラー」の民衆に対する人気を急上昇させることとなったようです。

この辺り、ヒットラーの人気が本当にこの事をきっかけとして急上昇させることとなったのかどうか、私としては現時点で裏付けるデータを保持していませんので、現時点では「なるほど、そういう事があったんだな」という程度で受け止めておくこととします。

今後の記事の中で、これを裏付けることができないかどうかという事にもチャレンジできればと思っております。


まとめ

ポイントとしては、ミュンヘン一揆が失敗に終わった時点で「我が闘争」が牢獄の中で執筆されたという事。

また更に、ルーデンドルフの助力もあり、バイエルンにおけるヒットラーの評価が急上昇するきっかけとなったという事。

この2点を抑えて、「ヒットラー」と「ナチス」という存在について、今後の記事に委ねることとします。




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<継承する記事>第506回 ミュンヘン一揆の主犯、「ドイツ闘争連盟」結成に至るまで

纏め方の難しい内容ですが、前回の記事のポイントをまずはまとめてみます。

前回の記事では、ミュンヘン一揆の「主犯」となるドイツ闘争同盟にスポットを当て、これが結成される経緯について記事にしてみました。

ポイントとなるのは、まず「ドイツ闘争連盟」の中心となる「突撃隊」。その結成に寄与したのが元エアハルト海兵旅団のメンバーであった「エルンスト・レーム」であり、彼が突撃隊に元エアハルト海兵旅団のメンバーを次々に送り込んだこと。

そして彼の説得で突撃隊が政府軍である第7軍管区司令部の指揮下、「祖国的闘争同盟共働団」に配属されたこと。更にヒットラー自身が突撃隊への指揮権をそのまま軍に持っていかれることを危惧し、体調をレーム推薦のハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへ挿げ替えた事。

ゲーリングの力で突撃隊のメンバーから元エアハルト海兵旅団が一層され、ヒットラーに忠誠を誓う隊員が集められたこと。

このタイミングで首相シュトレーゼマンによるルール地方の「受動的抵抗政策の中止の発表」がなされた事。

ミュンヘンにいよいよ「ベルリン政府打倒」への機運が高まったことを受け、ヒットラーは「ドイツ闘争連盟」を結成します。

そしてさらに、私からすると自身の功績をないがしろにされた、とも感じられない状況にレームは切れるんじゃないかと思ったのですが、逆にレームは軍じ除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じることとなりました。

なんか、こうしてみるとヒットラーってずいぶん人望のある人物だったんだな、と現時点ではとても感じさせられますね。

前回のポイントをまとめるとはこのような内容になるでしょうか。

この当時のバイエルンでは、「11月革命という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれるいました。

「11月革命」。つまり、レーテ蜂起によってヴィルヘルム2世が亡命、退位し、ドイツが帝政から共和制へと移り変わったあの「ドイツ革命」の事です。

この後のドイツに発令されたのが「非常事態宣言」であり、オイゲン・フォン・クニリングバイエルン州首相より前首相であるグスタフ・フォン・カールが「バイエルン州総督」として任じられ、彼に独裁的権限が与えられることとなりました。

カールはバイエルン州の独立を志しており、カール政府とベルリン政府の関係は緊迫した状況にありました。

一方、ヒットラー率いるナチスはベルリン政府そのものを打倒してドイツ全土の政権を担う事を志していましたので、バイエルン州の独立を志すカールはナチスとも緊迫した関係にありました。

前々回の記事 ではここまで抑えていましたね。

という事で、今回はこの続きから記事を纏めてみます。


ナチス機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」を巡って

少しだけ時系列を整理します。

ドイツ闘争連盟が結成されたのが9月2日。

カールが州総督に命じられたのが1923年9月20日。この時カールはバイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサーの3名で「三頭政治体勢」を取っています。

シュトレーゼマンによる受動的抵抗政策の中止が発表されたのが26日。

レームが辞表を提出し、改めてヒットラーの下、ドイツ闘争連盟に参加したのが27日の直後。

レームはこの時「帝国戦闘旗団」なるものを結成していますね。この時、社会民主党党員らで構成される軍事組織、「国旗団」がドイツ闘争連盟を離脱しており、更に「レーム一派が分裂した」とありますので、これはおそらくレームがこの時「国旗団」に所属していて、ここから分裂して「帝国戦闘旗団」を結成したという事なのだろうと思います。

で、レームが闘争連盟に再加入する直前、9月27日、ナチス機関紙である「フェルキッシャー・ベオバハター」に、受動的抵抗政策を中止したシュトレーゼマンと、軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトを批判する記事を掲載しました。

これに対し、カールと共に三頭政治の一端を担っている第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウに、ベルリン政府国防相より「フェルキッシャー・ベオバハターの発刊中止」が命じられます。

ロッソウはこれをカールに相談したところ、カールはナチスを敵に回すことを恐れてこれを拒否し、ロッソウはこれに従います。

ところが一方でカールはナチスに対し、同日に行われる予定であった集会の禁止を通告します。

このいきさつについて、10月1日、カールは記者会見にて、

「フェルキッシャー・ベオバハターの批判記事と反ベルリン姿勢には賛同できないものの、ドイツ闘争連盟の協力を求め、発禁措置を行わない」

との発表を行います。


ここでこの時点で私が感じた「感想」を少し挟みます。私、この時点ではカールが「バイエルン州の独立」を志して「反ベルリン」の意思を貫いている・・・にしては少し弱腰だ感じました。

まあ、「政治」っていうのは表面に見えることだけじゃなく、その裏側でうごめいていることについても目を向ける必要があると思いますので、額面通りに受け取るのは正しくない、とも思うのですが。

と、ここで「この時点での私の感想」を挟んだのは、この後のカールの姿勢が180度転換するからです。

サブテーマとしてはやはり「ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハター」を巡る経緯から派生するのですが、10月4日、同機関紙が「蜂起の切迫を示す告示」を掲載したところ、カールはこれに対し「10日間の発禁処分」を行います。

こうしてみると、「ひょっとしてカールはベルリン政府よりなんじゃないか」と勘繰りたくなるほどです。

ところが、この事をロッソウが軍総司令であるゼークトに報告したところ、ゼークトは寧ろ10月1日にカールが「発禁措置は行わない」と発表したことの方を重要視しており、ロッソウに対し、「政府の命令を拒否した」として辞職を要求する手紙を送り付けます。(10月9日)

これに対し、ロッソウはミュンヘンの国民主義団体、ドイツ闘争連盟、州武装警察の幹部を集め、自分たちへの支持を求めています。これに対し、彼らは

「ベルリン進軍のためのロッソウとカール政府の支持」

を明らかにしています。Wikiを参考にしているのですが、文章が回りくどく、事実が見えてきづらいですね。

これに対し、中央政府がロッソウに対して罷免通告を下しているのですが、これを「カールが拒否した」とあります。

ここまででわかるのがロッソウが集めた幹部らとのやり取りの中で「ベルリン進軍」に言及しており、これが参加者らの間で話として纏まっている事。

更にベルリン政府は彼らが「ベルリン進軍を画策している」という前提の下、ロッソウに対して罷免通告を出しており、これを理解した上でカールがベルリン政府からの通告を拒否しているという事ですね。

更に、これに加え、カールを州総督に命じたクニリング首相がロッソウを「バイエルン地方国防軍司令官」に任命しています。

ここまでくるとドイツ闘争連盟、カール政府の垣根など全く関係なく、バイエルン州の実力者たちの間で既にベルリン進軍という考え方でまとまっているという事実に疑いの余地などありません。

人物名を挙げると、首相であるクリニング、総督であるカール、地方国防軍に任命された第7師団司令官ロッソウ、州警察長官ザイサー、そしてドイツ闘争連盟の指導者であるヒットラー他、です。

あと、私はあまりイタリアの歴史については突っ込んで記事にしたことはないのですが、1922年の時点でイタリアではムッソリーニが「ローマ進軍」を行っており、これが「クーデター」と認定されていますので、つまり政権の奪取に成功しているという事。

深く追求しませんが、この革命により、イタリアに「ファシズム」という理念を掲げる政党「ファシスト党」が政権をになる新政権が誕生していたんですね。(1922年10月)

外伝的にまとめる可能性はありますが、現時点でこの話題の追及はしません。ただ、この時バイエルン州政府一派はこのムッソリーニによる「ローマ進軍」を念頭に「ベルリン進軍」構想を描いていたようですね。


カール政府のドタバタ劇

グスタフ・フォン・カール
Bundesarchiv, Bild 183-R41120 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

よもや、カール政府とドイツ闘争連盟がここまで纏まってしまう、という展開は私、予想していませんでしたが、この後も想定を上回るドタバタ劇が展開されていきます。

ゼークトはこれを受け、三頭政治を担う指導者3名と、ヒットラーを含むドイツ闘争連盟やその他この計画に加担する軍事組織の指導者たちに対し、武力を用いることを通達しました。(10月20日)

一方、「バイエルン地方国防軍司令官ロッソウ」は24日、国防軍、武装警察、民間武装団体の指導者を集めた上で、今後取りうるべき方策として、以下の3つの選択肢を示します。

 ・ベルリン進軍による独裁政権の樹立

 ・現状を維持して妥協を図る

 ・バイエルン州の独立

この内、ロッソウは一つ目の選択肢を取ることを示したのですが、なんとこの集会にナチス関係者(つまりヒットラーも)は招待されていなかった、とのこと。これはさすがに肩透かしを食らいましたね。

この後、クリニング、カール、ロッソウ、ザイサーらを中心に中央政府との間でドタバタ劇が演じられることになるのですが、結局最終的にカール政府はバイエルン州民や他の指導者らからの信頼を失うこととなります。

一貫してナチス抜きでのベルリン進軍が画策されていたわけですが、ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります。


どこを端折り、まとめるべきか苦心しましたが、漸くミュンヘン一揆本番直前まで歴史を進めることができました。

という事で、次回はいよいお「ミュンヘン一揆」本番へと記事を進めてみたいと思います。






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<継承する記事>第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯

前回の記事では、第一次世界大戦後のドイツの近代史の中で、ルール占領に関連した記事の中で触れることのなかった話題。首相であるヨーゼフ・ヴィルトがソ連と結んだラパッロ条約やこれに関連したラーテナウ外相の暗殺、そして「共和国防衛法。

また、ヒットラーが歴史の表舞台に登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」。これについて話題にしました。

ただ、「ミュンヘン一揆」についてはこれが勃発するまでの経緯が複雑で、またこれまで私が作成してきた記事の中では登場しなかったような人物や組織の名前が立て続けに登場するので、整理するのが非常に難しいと感じました。

そこで、前回の記事ではこの内ミュンヘン一揆を引き起こす主犯となる「ドイツ闘争連盟」。この組織の登場までを話題にし、それ以降の内容は今回以降の記事に委ねる形で終結させました。

この時点で既にヒットラーが党首を務めた「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチス」は既に組織として登場しています。

「ドイツ闘争連盟」とは、ヒットラーが政治的指導者を、「ヘルマン・クリーベル」という人物が軍事的指導者を務める組織です。ヒットラーはナチスの軍事組織である「突撃隊」をこのドイツ闘争連盟に参加させました。

今回の記事では、まずこの「ドイツ闘争連盟」について深堀したうえで、ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか。この辺りを記事としてまとめたいと思います。


「ドイツ闘争連盟」とは何か。

既に「『ドイツ闘争連盟』とは何か」という命題についてはいくつか答えを示してはいるのですが、これを深堀する意味でこのようなサブタイトルにしてみました。

「ドイツ闘争連盟」とは、「祖国的闘争同盟共働団」から派生した組織出ることをお伝えしました。また、ここに「ナチスの軍事組織である突撃隊」が参加していることもお伝えしましたね?

この当時のドイツでは、政党が集会を行うとき、必ずと言っていいほど敵対する政党が殴り込みをかけ、集会を滅茶苦茶にする傾向が常態化していたようで、ヒットラー率いる「突撃隊」とは、ナチスの前身である「ドイツ労働者党」が1919年11月に集会を行った際、組織された警備隊がその原型となっています。

この組織は1920年2月、ドイツ労働者党が「国家社会主義ドイツ労働者党」へと名称が変更された後、「整理隊」へと組織改編されます。

この時、整理隊の隊長を任されたのがエミール・モーリスという人物。彼は後にヒットラーの弁舌を纏め、「我が闘争」を執筆した人物でもあります。「我が闘争」はヒットラーがしゃべった内容を、そのまま彼が筆記したものなんですね。

ヒットラーはさらに1921年7月29日、ナチスの党首となると、整理隊はさらに「体育スポーツ局」へと組織改編されます。

ヒットラーが党首になることを支援した人物がエルンスト・レーム。彼はベルリンからミュンヘンに派遣されている政府軍、「第7軍管区司令部」の軍人で、義勇軍設立のエキスパート。

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


彼はヒットラーに対し、元エアハルト海兵旅団の隊員であり、現コンスル(右翼テロリスト集団)のメンバーであるハンス・ウルリヒ・クリンチュを「体育スポーツ局」の隊長として推薦します。(同8/3)

タイミング的に、ベルリンにおいてカップ一揆が失敗に終わった後で、ヴェルサイユ条約を順守する目的で、ベルリン政府より当時のカール政府に対し義勇軍や郷土軍の解散命令が出されていました。

当初はこれを拒んでいたカール首相も、最終的にはこれを拒否することができず、6月28日、これに同意することになります。カール首相もまた、レームによる支援を受けていました。

レームとしては、何とか義勇軍を維持したい気持ちを強く持っていましたので、自身の影響力のある元軍人を送り込むことで、彼の組織した義勇軍を維持しようと考えていたんですね。


突撃隊の結成

同年9月10日、ヒットラーは「体育スポーツ局」の名称を突撃隊へと更に改変することを発表します。

11月4日、ドイツ社会民主党の党員数百名がナチスの集会を襲撃した際、体育スポーツ局のわずか50名足らずのメンバーがこれを撃退したことを受け、「体育スポーツ局」に「突撃隊」としての名称が正式に与えられます。

「突撃隊」の結成ですね。

突撃隊には、レームが送り込んだエアハルト海兵旅団の下隊員たちが多数所属していて、解散を命じられたエアハルト海兵旅団としては、その組織を維持するのに都合がよかったですし、ヒットラーとしてはその名声を利用することができました。

レームとしても自身が作り上げた義勇軍が解散を命じられていて、突撃隊はそういった義勇軍の構成員たちの受け皿にもなっていましたので、それぞれにとってのメリットがありました。

ですが、ヒットラーにとってみれば、せっかくナチスの軍事部門として「突撃隊」を設立したのに、そこにいるメンバーは大半がレームの息のかかった元エアハルト海兵旅団の隊員で軍人としては実力者ばかり。

ナチスの党首として、ヒットラーの影響が及びにくい状況にあり、この事をヒットラーは危惧していました。


突撃隊、「祖国的闘争同盟共働団」への配属

翌年1月には、フランスによるルール占領が決行され、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト大将の命令で、突撃隊にも国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められます。

ヒットラーは最初嫌がっていたのですが、これも軍に所属するレームに説得され、渋々これに従うこととなります。

ただ、突撃隊としては正式に軍の訓練を受けることになるわけですから、ナチス軍部の組織としては強化されることとなったのではないでしょうか。

この時突撃隊が所属した組織が即ち、「祖国的闘争同盟共働団」ですね。

突撃隊への指揮権そのものが軍に持っていかれることを危惧したヒットラーは共同団に配属された直後、1923年3月に突撃隊の隊長をハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへと挿げ替えています。

ゲーリングはレームが推薦して突撃隊に配属された元エアハルト海兵旅団の隊員たちを一掃し、ヒットラーに忠誠を誓う隊員たちのみで部隊編成を行います。

実際に突撃隊が軍の訓練を受け始めるのは同じ3月からですから、新しく編成された隊員たちが軍の訓練を受けたことになりますね。

ただ、これにはさすがにレームが切れるんじゃないかと思ったのですが、同年8月13日、シュトレーゼマン内閣が設立されると彼から「受動的抵抗」政策の中止が表明されます。

これを受け、いよいよミュンヘンでも、ベルリン政府打倒に向けた機運が高まることになります。

ヒットラーはこの機運に乗じて9月2日、いよいよ「ドイツ闘争連盟」を結成します。ドイツ闘争連盟はヒットラーによって組織されたものだったんですね。

このドイツ闘争連盟の政治的指導者をヒットラーが、軍事的指導者を「祖国的闘争同盟共働団」の指導者であったヘルマン・クリーベルが務めました。

この時、9月26日、レームは軍に除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じています。

という事は、レームはヒットラーの行動に対して不快感を抱いたりするようなことはせず、まっすぐに受け止めていたという事ですね。


ヘルマン・ゲーリングがナチスに入党した理由

ヘルマン・ゲーリング
Bundesarchiv, Bild 102-13805 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


さて。ここで一つポイントとなるのは、突撃隊が「祖国的闘争同盟共働団」に参加した後、突撃隊の隊長となった人物、ヘルマン・ゲーリング。彼がナチスに入党することとなったその理由です。

彼は、1922年11月、ミュンヘン・国王広場で開催されたナチスの政治集会で初めて演説を行うヒットラーの姿を見ることになるのですが、ヒットラーの演説の後、彼はヒットラーと個別に面会する機会を得ることになります。

ゲーリングはその場でヒットラーから

「ドイツが敗戦国にされたのは、戦いに負けたからではなく、ユダヤ人と共産主義者の裏切りのせい」

であるとする所謂「背後の一突き説」を熱心に語るヒットラーに感銘を受け、翌月12月にナチスへと入党しています。

ですが、そもそも「背後の一突き説」とは、「第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ」という考え方を言うのであって、そもそもここにユダヤ人は関係ありません。

ですが、ヒットラーはこの時点で既に共産主義者とユダヤ人とをある意味同一視していたんだという事がわかります。

彼自身は シオンの議定書 に記されている内容を真に受けており、所謂「ユダヤ陰謀説」に振り回されていることはわかります。

ただ、彼自身としては(彼の説によれば、ですが)、例えば彼が嫌っている左翼系の新聞の編集者や歴史上の優秀な芸術家たちが作り上げた絵画をけなすかのような作品を作り上げる者たちが軒並み「ユダヤ人」であることを突き止めており、この事が彼にユダヤ人を嫌悪させる所以ともなっています。

また、この当時のドイツ人の共通認識として、例えばロシアはドイツに降伏しており、一方のフランス戦においてはその戦場はドイツではなくフランス。ドイツそのものは殆んど傷ついていないのです。

このような事情から、ドイツ人としては明らかに勝利に向かって突き進んでいたのに、突然政府が敗北宣言をした。そんな風にドイツの敗戦は映っていたのだと思います。

当然納得がいかず、(事実そうですが)「共産主義者の裏切り」によって自滅した。そういう印象が非常に強いのだと思います。

ヒットラーからしてみれば、これを裏側から主導していたのはユダヤ人であり、国内から社会主義者やユダヤ人を一掃する事こそまさにドイツの国益につながると、この時点で既にそのように思っていたのではないか・・・という推察を行う事ができます。

この時点ではまだ「推察」に過ぎませんし、そのことによってヒットラーがどのような行動に出るのか。これもまだ予測はできません。


記事としては、ここから更に「ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか」というところまで描きたかったのですが、「ドイツ闘争連盟」に関する内容だけである程度まとまってしまいましたので、結成後のドイツ闘争連盟の動きに関しては改めて次回記事に委ねたいと思います。






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<継承する記事>第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのか

前回の記事では、第一世界大戦後、「ハイパーインフレーション」という経済状況に陥ったドイツが、その絶望的な経済状況から一体どのようにして立ち直ることができたのか。この事にポイントを絞って記事を作成してみました。

とはいうものの、実際に記事をまとめている際、私が追求したかったことをそのまま、非常に整然とまとめていた動画を発見してしまいましたので、内容とするとそちらに完全に振った感じになりました。

動画を見ていても、私が今更まとめたところでとてもこの動画の内容にはかなわないな、と感じたのが最大の理由です。

ただ、完全に投げっぱなしにすることはせず、いつか「外伝」的な内容で私の記事なりにまとめることができればと思っております。

その上で追加して、第一次世界大戦後のドイツ史として、「ルール占領の終息」をまとめる上で必要な要素のみ抽出して記事にしました。

この流れの中で、まずはレンテンマルクの導入によって「首相」という立場からはドイツのハイパーインフレという状況を終息させることに成功したシュトレーゼマン、そしてルール占領を強行し、ドイツのハイパーインフレをより深刻なものとさせたフランスのポアンカレ首相はそれぞれルール占領が収束するまでに「首相」の座を降りることとなりました。

ここまでを第一次世界大戦後のドイツの「戦後処理」に係る歴史的経緯としてこの部分について一旦終結させます。

本日の記事では、前述した「戦後処理」の問題の内、話題として触れながら深堀しなかった二つのテーマについて記事にします。


ヨーゼフ・ヴィルトの「密約」と「共和国防衛法」

一つ目が、この「ヨーゼフ・ヴィルト」がソ連との間で締結していた「密約」、そしてヴィルトが退陣する理由の一つともなった「共和国防衛法」です。

で、この「密約」が「ラパッロ条約」と呼ばれるもので、これは1922年4月10日から5月19日にかけて、イタリアの「ジェノア」という都市で開催された、国際会議「ジェノア会議」が開催された際、共に会議に参加していたドイツとロシア(ソビエト・ロシア)が同じくイタリアのラパッロというところで締結した条約がこの「ラパッロ条約」です。

ラパッロ条約

内容としてはドイツとロシアが共に第一次世界大戦によって発生した領土や賠償に関する請求を放棄した条約です。これによって両国の国交が正常化することになりました。

ドイツは「ブレスト=リトフスク条約」によってロシアから得た請求権を、ロシアはヴェルサイユ条約後、得ることができると考えられる請求権をそれぞれ放棄した感じです。

当時はソビエト政権が統治する「ロシア」という国をどの国も国家として承認していませんしたので、ドイツは世界で初めてソビエト政権を国家として承認した国・・・ということになります。1922年4月16日の事です。

また更に、この条約は11月5日、ベルリンにおいて捕捉条約が結ばれ、この捕捉条約において、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース連邦(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)、極東の各ソビエト共和国をドイツは承認。12月、ソビエト・ロシアはこれらの国々と共に「ソビエト連邦」を結成します。

第一次世界大戦はドイツとロシアとの対立に始まり、両国が社会主義革命の勃発によって共に自滅したことによって終結した戦争です。

戦後、両国は連合国からのけ者にされ、のけ者にされた国同士で締結したのが「ラパッロ条約」。

恐ろしいなと思うのは、後の世界を絶望の渦に巻き込んでいく「共産党」という勢力によって形成された「ソビエト政権」を認めたのが、ドイツでも「保守」政党によって支持された首相、「ヴィルヘルム・クーノ」だったという事。

また更に、ドイツは後のソビエト連邦を形成する国々の「ソビエト政権」を認めたのと引き換えに、ソビエト国内での軍事訓練等を行うことを認めさせています。ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備縮小を約束させられていますので、これは「ヴェルサイユ条約」に違反する条約でもあります。

両国の関係は、その後ヒットラー政権が誕生するまで継続したのだとか。


ラパッロ条約がドイツ国内に齎したもの

ラパッロ条約の締結は、まずドイツ国内で「右派」の反発をもたらします。

典型的な事例として、ラパッロ条約をソ連との間で締結したヴァルター・ラーテナウ外相が、「コンスル」というテロリスト集団に暗殺されます。

「コンスル」については、第484回の記事 で話題にしましたね。

第483回の記事 でご紹介した「バイエルン・レーテ共和国」。これを滅亡させる上で活躍した「エアハルト旅団」。

エアハルト旅団はヴェルサイユ条約によって軍縮を求められたドイツ政府、グスタフ・ノスケ国防相によって解散を求められるのですが、これに反発して「カップ一揆」を引き起こしました。

民衆からの反抗でカップ政権が崩壊した後、エアハルト旅団は再び解散を命じられるのですが、このエアハルト旅団の残党によって結成されたのがテロリスト集団「コンスル」。

彼らによってラーテナウ外相は暗殺されました。(1922年6月24日)

これを受け、7月18日の議決を経て21日~23日にかけて施行されたのが「共和国防衛法」です。

「共和国防衛法」に関しては、詳細な情報を見ることができるサイトがほぼ皆無。唯一Wikiのドイツ語版でその詳細をうかがえる程度ですので、掘り下げることは現状難しいのですが、数少ない情報からすれば暗殺は「極右」である「コンスル」によって行われたものですが、対象は「極右と極左」両方がその対象となっていたようです。

また、この法律そのものは憲法に照らせば違憲なものだったのですが、「国会の2/3の賛同」を得て成立しているようです。更にこの法律は1929年に改正されており、第二次法としては違憲な状態がない形に修正されていた、とのこと。

そして、この法律の扱いがまたヴィルト首相はヘルメス財務相との対立を招く一因となり、戦後賠償問題と共に紛糾し、同年11月に退陣することとなりました。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯

そしてこちらが二つ目のテーマ。

戦後処理をめぐり、ドイツ国の首相は

 コンスタンティン・フェーレンバッハ
→ヨーゼフ・ヴィルト
→ヴィルヘルム・クーノ
→グスタフ・シュトレーゼマン

へと代替わりするのですが、ミュンヘン一揆がおきたのは1923年11月の事。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任した直後の出来事です。

シュトレーゼマンは先代ヴィルヘルム・クーノの政策である「受動的抵抗」政策を中止し、通貨を「パピエルマルク」から「レンテンマルク」へと交換し、見事ハイパーインフレを終息させた人物です。(実際に収束させたのは通貨委員であるヒャルマル・シャハトですが)

前回の記事 でバイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングがバイエルン州に「非常事態宣言」を発令した上で、グスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命したことを記事にしました。

よくよく考えるとバイエルンは同じドイツの中でもビスマルクが統合した際「自由都市」として自治を認めた南ドイツの州であり、そのせいでこのような所業が可能になるわけですね。

カールは元々カップ一揆の余波で「バイエルン州首相」の座に就いた(第484回記事参照)ものの、バイエルン州独立を目指そうとしたカール首相はベルリン政府より首相の座を追われることとなりました。

それでもバイエルン州独立の機運が収まることはなく、バイエルン州内での「右翼」と「左翼」が正面衝突しかねない状況となったことから発令されたのが「非常事態宣言」。これが前回の記事でお示しした内容です。

州総督となったカールには「独裁的権限」が与えられました。

この時点で既にナチス、つまり「国家社会主義ドイツ労働者党」は結成されていて、カール政権はこのナチスからも支持されることになりました。「独裁を行わないこと」が条件とされました。

支持する、とはいうものの、この時点ではまだ「静観」する姿勢だったようですね。

カールの取った政治姿勢はベルリン政府と対立する様相を得示していて、カール政権とベルリン政府との関係は緊迫した状況であった、との事です。


主犯・「ドイツ闘争連盟」

ミュンヘン一揆を実行したのは「ドイツ闘争連盟」というグループで、ここにはアドルフヒットラーをはじめとするナチスの党員も参加していました。

「ドイツ闘争連盟」の母体となったのは、ベルリン政府がルール地方を占領するフランス軍に対抗するために組織しようとしていた「ドイツ義勇軍」の一部で、バイエルン州の民間軍事組織を連携させるために結成(1923年2月)した「祖国的闘争同盟共働団」です。

「祖国的闘争同盟共働団」にはヒットラーが代表者であるナチスも参加していたのですが、ヒットラーは主導的な立場にはありませんでした。

同年8月、ルール闘争の失敗やハイパーインフレを引き起こした責任を取り、ヴィルヘルム・クーノが首相を辞任。シュトレーゼマンが首相となります。

バイエルン州には彼がとった「受動的抵抗の中止」という政策に反対する声が多くありました。

ちなみにこの時点でヒットラーを代表とするナチスは自身が「ドイツ人」であると考える「大ドイツ派」。一方、後に州総督となる前バイエルン州首相グスタフ・フォン・カールは自身がバイエルン人であると考える「バイエルン分離独立派」。

「受動的抵抗の中止」に反抗してヒットラーは9月1日~2日にかけて行われた「ドイツの日」のイベントを通じてナチスはバイエルン州右派よりの支持を集める様になったのですが、同時にバイエルン分離独立派との関係は悪化したのだそうです。

で、そんなナチスがカール政府誕生後、カールを「支持する」姿勢を表明したという事ですね。

「ドイツの日」の直後に「祖国的闘争同盟共働団」の「極右派」が、指導者であるヘルマン・クリーベルを議長とした「ドイツ闘争連盟」を組織し、この団体を通じてヒットラーもついに「政治指導者」としてその頭角を現すこととなりました

カール政府が誕生したのはこの後のことです。


記事が長くなりそうなので、「ミュンヘン一揆」に関する記事はさらに別の回に分けて製作しようと思います。




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