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<継承する記事>第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響

前回の記事では、ヴィルヘルム・クーノがドイツ国首相となった後、前首相であるヴィルトの政策を引き継いだことからフランスのポアンカレ首相より「生産的担保」、つまり「ルール地方の鉱山管理権」を要求された事。

その後、フランスとベルギーによりドイツのルール地方が占領され、既に対外貨幣ベースでは極端な「通貨安」状態に陥っていたドイツがルール占領への対抗策としてルール地方の国民に対し「ストライキ」を呼びかけ、賃金を「通貨発行」によって賄った事。

結果対ドル相場でなんと2億3606万倍で貨幣の価値が下落してしまった、つまり「ハイパーインフレーション」を引き起こしてしまったことを記事にしました。

後半で現在の国内で話題となっている貨幣政策への批判を織り交ぜてしまいましたので、記事としてはそこまで終了させたのですが、今回はそこから更に、ドイツ国内でこの「ハイパーインフレーション」という経済状況に対してどのような政策が実行されたのかという内容を中心に記事を進めていきます。


グスタフ・シュトレーゼマンの政策

情勢に変化のない時期を追ってもあまり意味がないと思いますので、「ハイパーインフレーション」まで含むドイツ国内の情勢に大きな変化があった出来事にポイントを絞って記事を進めていきます。

ヴィルヘルム・クーノの就任後、ドイツは連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求め、これにイギリスとイタリアは賛同する意思を示すものの、フランスとベルギーによって拒否。

イギリスのジョージ・カーゾン外相より両国の占領がヴェルサイユ条約に違反することをフランスに通告、アメリカの仲介による中立的な査定期間の設立を提案するものの、これもフランスによって拒否。

結局クーノはハイパーインフレーションを引き起こしただけで何一つまともな政策を打ち出すことができず、1923年8月11日、社会民主党より不信任を突き付けられ、退陣へと追い込まれます。

彼の後を引き継ぎ、首相になった人物がグスタフ・シュトレーゼマン。

グスタフ・シュトレーゼマン

彼が首相となった後、11月に「ミュンヘン一揆」が起きます。この一揆を主導したのが「ドイツ闘争連盟」。そのメンバーの一人として、「アドルフ・ヒトラー」の名前が登場します。

かなり中心的な立場となって彼は活動しているのですが、このテーマは次回記事でポイントを絞って記事にする予定です。


では、改めてグスタフ・シュトレーゼマンについて。

シュトレーゼマン内閣で財務相を務めたルドルフ・ヒルファーディングの試算によれば、シュトレーゼマンが首相に就任した時点で既に「ルール闘争支援」のための費用は限界を迎えており、シュトレーゼマン自身も冬が始まるまで今の「消極的抵抗」政策を続けることは不可能であると考えていました。

この事から、シュトレーゼマンは9月26日、「受動的(消極的)抵抗の中止声明」を行います。

これに対して反対したのが「ドイツ共産党」と「ドイツ国家人民党」。

またこれに対抗し、バイエルンでは9月20日の時点でなんとバイエルン州政府に「非常事態宣言」を行い、バイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングはグスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命しました。

グスタフ・フォン・カール

グスタフ・フォン・カールはクリニングの前の首相でもあります。

第484回の記事、及び 第490回の記事 でも名前が登場しましたね。

第484回の記事

バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

という内容を掲載しました。

第490回の記事 で掲載したように、首相に就任したカールはバイエルンの「分離主義者」たちに支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、これに危機感を覚えたベルリン政府によって首相の座を追われることになりました。

それでも州内の独立の機運が収束することはなく、そこに「受動的(消極的)抵抗の中止声明」が重なりました。

「非常事態宣言」が発令されたのは、今ことが理由でバイエルン州内での「右翼」と「左翼」とが前面衝突しかねない状況が生まれたから、なのだそうです。

カールはシュトレーゼマンの政策を批判し、ベルリンtのの対決姿勢が強まりました。

ここから先はミュンヘン一揆の記事に委ねます。


シュトレーゼマンの声明の影響はドイツ国全体にも衝撃を与え、エーベルト大統領もまた、「戒厳令」を発令。指揮権を国防相に与えました。


シュトレーゼマンの「デノミネーション」政策

ドイツで「ハイパーインフレーション」が問題になったのは、その影響で物やサービスの値段が安定せず、「昨日の買えていた値段で明日パンを買う事ができない」というような事態が発生したから。

例え「ハイパーインフレーション」が起きて通貨の価値が急速に下落しようが、政府がお金を発行してばらまいてくれるわけですから、一定の下落幅で安定し安心して買い物を行う事ができれば不満が大きくなることはありません。

最大の問題は通貨の価値が下落し続け、つまりは「物価が高騰『し続ける』」から問題になるのです。

と・・・情報を検索していると、私が今回記事にしたかった内容を実に鮮やかにまとめた動画を発見してしまったので、その動画を紹介します。



そう。サブタイトルを「シュトレーゼマンの『デノミネーション』政策」としたのですが、実質的にこのデノミネーション政策を実行したのは「ライヒ通貨委員」となったヒャルマル・シャハト。

彼は「ドイツレンテ銀行」を設立し、国内の「地代請求権」を担保とした「レンテマルク」という通貨を発行し、「パピアマルク」と交換しました。

レンテンマルクは「土地の価格」と紐づけられていますので、日々・・・というよりも時間単位で通貨の価値が下落する「パピアマルク」と比較すると価値が安定しており、国民は我先にとパピアマルクをレンテマルクへと交換したのだそうです。

「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているようで、この事がドイツの通貨の価値を安定させ、ドイツの「ハイパーインフレーション」を急速に鎮静化しました。

1:1兆のレートで交換されましたので、実質的には通貨の単位が1兆マルクから1マルクに切り下げられた形となり、このような通貨政策の事を「デノミネーション」と呼びます。

ドイツのは場合は通貨の種類そのものが変わっていますので、疑似的なデノミネーションなんですけどね。

「レンテンマルクの奇跡」、そしてヒャルマル・シャハトという人物の名称は、その後のナチスドイツの政策にも関わってくるようですので、改めて後日的を絞って記事にしたいと思います。

本日ご紹介した動画の内容を参考にして作成すると思いますので、良ければ先に動画に目を通してみてください。私が改めて記事を作成する必要がないほどに、わかりやすいです・・・💦

私とすると打ちのめされた感満載です。


ルール占領の終息

さて。レンテンマルク政策によって見事にインフレを鎮静化させたシュトレーゼマンですが、彼の内閣もまた、バイエルン州問題への対応などをきっかけとして社会民主党が連立を離脱し、総辞職することとなります。(11/23)

彼が総辞職する1か月前、10月23日、米国が賠償員会に加わり、フランスの反対を押し切って賠償策定プロセスにドイツを参加させる方針を決定させました。

これまでは「イギリス」「イタリア」「フランス」「ベルギー」そして「チェコスロバキア」が賠償委員会に参加しており、評決に参加することができたのはチェコを除く4カ国でしたから、どうしてもドイツに対して直接利害関係を有するフランスとベルギーの発言力が高まっていました。

ですが、ここに米国が参加したことで、この構造が変化しましたね。

フランスのポアンカレ首相はそれでもルール占領の正当性を主張していたのですが、シュトレーゼマン退陣後、米国の賠償委員会への評決への関与を受諾する事となりました。

この決定は米国より賠償委員会に加わったチャールズ・ドーズの名称を取り、「ドーズ案」と呼ばれるのだそうです。

内容としては、まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

フランス、ポアンカレ内閣は翌年(1924年)6月に総選挙で敗北し、退陣。

8月16日、独仏双方が折り合い、フランス軍・ベルギー軍は同年10月より撤退を開始することとなりました。


さて。次回記事は「ミュンヘン一揆」へとスポットを当て、それ以降はいよいよヒットラーにスポットを当て、記事を進めていきたいと思います。

シリーズのテーマとしては「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」という名称になっていますが、目的としてはヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の真相までたどり着ければ、と思っています。

シリーズとしてはその時点での終了を目指します。

一応、次期シリーズの事も私の構想にはあり、それは「モンゴル」について。「ソ連」という国の大部分がかつてはモンゴルであった事。一方で中国人の持つ「残虐性」に実はモンゴル人が関係があるのではないか、という私の仮説を裏付ける作業を行っていきたいと思っています。




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<継承する記事>第502回 ジョン・メイナード・ケインズの警告とルール占領までの経緯

前回の記事では、ヴェルサイユ条約以降、ドイツと連合国との間で行われた賠償額の決定に向けた経緯を特にジョン・メイナード・ケインズの視点を通して、更にその後のドイツの対応と関連国、特にフランスの反応について記事にしました。

なんとか「ルール占領」が実行される伏線までは到達できたかと思います。

復習として、

・コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は連合国側からの無茶な賠償金額を受け入れることができず、退陣。

・続いて就任したヨーゼフ・ヴィルト首相は、とりあえず無茶な要求を受け入れて「払えない」ことを実証する作戦に出た。

・ジョン・メイナード・ケインズはドイツが受け入れた賠償額を「支払いが著しく困難である」ことを警告。

・ケインズの警告通り、ドイツは償還が困難となる。

・ヴィルトはこの賠償問題及び「共和国防衛法」をめぐって財務大臣と対立し、退陣。

・ヴィルトは退陣と共に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出。

・続いて就任したヴィルヘルム・クーノはヴィルトの見解を継承する。

・フランスの首相ポアンカレはドイツに「生産的担保」を求める。

ドイツ首相の交代劇を中心に、ザっとまとめましたが、こんな感じです。

で、この「生産的担保」がルール地方の事だ、ってところで話題を今回に委ねました。


フランスとベルギーによるルール占領

という事で、今回は改めてフランスとベルギーによって実行された「ルール占領」の具体的な経過と、その収束についてまず記事にします。

改めて、この時点でのドイツ国首相は「ヴィルヘルム・クーノ」です。ちなみにこの当時のドイツの国名は「ドイツ国」が正式名称ですが、後の歴史では「ワイマール共和国」としても認識されています。

前首相であるヴィルトの下でドイツは連合国側に対して資金調達が困難になったことを理由に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を提出しました。

クーノはこの認識を引き継ぎ、また連合国側でもイギリスはこの要求に一部応じるのですが、フランスはこれに反対し、「生産的担保」として「ルール地方の鉱山管理権」をドイツに要求しました。

この後のドイツについてWikiでは

「その後、ドイツの賠償支払いは遅れ、石炭引き渡し額が200万トン足りないなど、現物支払いを履行しなかった」

と記されています。この「現物払いの遅れ」がドイツによる故意のものであるのか、あるいは本当に不足し、履行することができなかったのかといった内容についての記載はないのですが、これに対し、「12月26日、賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とあります。

賠償委員会の構成国はアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・ベルギー・ユーゴスラビアの7カ国。この当時のユーゴスラビアはユーゴスラビアとい名前ではなく、「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」という名称だったのだそうです。

この内、評決に加わることができたのはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの4カ国。日本は日本に直接関係する問題について、ベルギーはそれ以外の問題について評決に加わることができたのだそうです。

ところが、実際にはこの内アメリカは前提となるヴェルサイユ条約に批准しておりませんので、賠償委員会そのものには参加していません。

ユーゴスラビアに関しては委員会に参加することはできるけど、評決にかかわることはできなかったという事でしょうか。

この内容から考えると、欧州の問題に関連して実際にドイツの賠償に関与することができたのは「イギリス・フランス・イタリア・ベルギー」の4カ国だけですね。

で、フランスとベルギーは直接被害を受けており、イギリスは両国に請求権を持っています。

「賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とありますが、これはつまりフランス・ベルギーの両国がイギリスの反対を押し切ってドイツの「賠償不履行認定を宣言した」という事に他なりません。

この時点、つまり1922年12月26日の時点でも既に連合国側によってドイツはデュースブルクをはじめとする3つの都市を占領されています。

これに加えて1923年1月4日フランスの首相ポアンカレはついにルール地方の占領を宣言。ベルギーととともに1月4日よりルール地方の占領を開始します。

ここからは私のブログでも何度も記事にしていますが、この両国のルール占領に対し、ドイツ国首相ヴィルヘルム・クーノは「消極的(または受動的)抵抗を行います。

即ち、ルール地方の労働者に対するストライキの呼びかけ。ストライキ中の労働者に対する賃金は政府が保証しましたが、これは財源がなかったために「紙幣増刷」で補っています。

本日は令和2年6月21日ですが、この時のドイツ国政府の対応、どことなく今回の日本の「コロナ対策」を彷彿させますよね?

政府が国民に対して「自粛」を呼びかけ、で国民からは「保証の要求」が行われ、これに応じる形で全国民に10万円が支給された、あの様子です。

今回は事情が非常に特殊でした。というのは、「自粛」を要求されていたのは日本だけでなく全国的に同様であったこと。かつ他国から日本への移動が制限されていました。

このおかげで仮に日本国内でお金をばらまいてもこれを狙って国外の企業が日本にたかるようなことはありませんし、また仮に同様の政策を今後継続し、日本国内で「生産活動」そのものが休止に追い込まれたとしても、代替品として海外の生産物が選択されるような状況にはありませんでした。

ですから日本国内で「物・サービスの値段」が高騰するようなことはありませんでしたが、長期的に見ると、あるいは日本国内だけがこのような状況に追い込まれていたとすると、安易に国債発行・・・というよりも「通貨発行」に頼った政策をとると、それは日本国民の生活を破綻に追い込みかねない政策であるってことを私たちははっきり認識しておく必要があると思います。


話題が逸れました。ドイツ政府とすると、フランスの武力による占領に対し、武力で抵抗する方法ももちろんありました。ですが、実際は占領政策によってドイツ軍は縮小、及び廃止を余儀なくされていますし、敗北し、ドイツ全土が占領されてもおかしくない状況だったかと思います。

この事から、当時の軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトは義勇軍の拡充や鵜は独立政権の樹立まで計画していたのだそうです。

フランスのこのような行動は、イギリスやフランス国内の左派政党などからも批判を受けていましたが、フランス国内の右派、及び新聞機関等がさらに強硬な姿勢をとる様煽っているような状況にありました。

この時の状況を再びWikiから引用して掲載してみます。

5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した。

5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した。

抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした

この他、既に連合国の占領下にあったラインラントなどでは占領軍に対するテロも発生するようになっていたそうで、客観的に見てフランス・ベルギーの行動は「侵略」の様相を呈していたんですよね。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。


「ハイパーインフレーション」の影響

改めてハイパーインフレーションの影響にさらされたドイツの様子を見ていて、ハイパー・・・というより「インフレ」という言葉の本当の意味を認識させられた思いがしました。

なので、少しそのお話をしてみます。

前回の記事 でドイツの通貨価値について、ヴィルヘルム・クーノが就任した直後、1922年12月の時点で「マルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していた」ことを記事にしました。

1807倍ですと、日本で考えますと、1919年には500円くらいで買えていた米国産の牛肉が90万円以上出さないと買えなくなるレベルの話ですから、これだけでも半端ないです。

ここから更に、「生産をストップし、賃金だけばらまく」ことを実行しましたので、ドイツの通貨は1923年1月と比較して11月には対ドル相場でなんと2億3606万倍にまで跳ね上がりました。

感覚がわかりにくいかもしれませんが、例えばドイツが通貨を発行してばらまくわけですから、別に1月の時点で1マルクで買えていたものが11月に2億3606万マルクださなければ買えなくなっていたとしても、これをドイツ政府がきちんと支給してくれれば問題はないのです。

ですが、それが問題になってくるのは、例えば11月1日の時点で1000マルクを政府から受け取って、11月1日に500マルクで販売されていたものを11月3日に買おうとすると5000マルク出さなければ買えなくなっていた・・・というのでは話にならないってことです。

売れなくなれば値段は下がるんじゃないかと考える人もいるでしょうが、購入対象が命や生活そのものを左右するような品物で、在庫が入荷する見通しが全く立たず・・・っていう話になると、たとえそれにどのような値段がついていたとしても販売した瞬間に売り切れる。これは、実は私たち日本人もかなり最近体験しています。

そう。「マスク」や「トイレットペーパー」というものを通じて。

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結果、「高いマスクしか買えなくなった」と実感されませんでしたか?

あれが数日ペースで、更に何百、何千倍というペースで進んでいくと考えてみてください。

パンを買いに行っても陳列されていない。陳列されていても高値で一瞬で売り切れてしまう。今日用意した金額ではとても足りない。

足りない分を次の日に政府から受け取ったとしても、買いに行くとない。陳列されているものは昨日の10倍くらいになってる。そんな状況が続いていたわけです。当時のドイツでは。

「インフレーション」の言葉の意味は、「物価が継続して上昇し続ける」ことを言います。

で、同じ「物価の高騰」でも、販売数そのものが増えることによって起きる「物価の高騰」と、販売数が一定で、値段のみが吊り上がっていくことによる「物価の高騰」の2種類があります。

前者ですと、仮に商品単価が下落したとしても「物価」事態は上昇することがあります。全社ですと「商品単価」事態は上昇したとしても「物価」は下落する事もあります。

ですが、数量そのものが限られている状況で単価が高騰すると、それはおのずと「物価の高騰」へとつながっていきます。

限られた経済圏に対して通貨のみを無条件給付した場合、その消費力を受け止めるだけの生産力がその経済圏になければおのずと物価は高騰します。物資が不足すれば、おのずとその経済圏の外にその生産力を求めるしか方法がなくなります。

勿論、その経済圏の内側の生産力を高めることが最良の手段ですが、それはそう早急にできることではありません。不足した「マスク」の供給が需要に追い付かず、必要とする場所に最良の生産物を届けるため、政府が海外から調達した生産物を全戸配布しましたよね?

あれにはそういう意味があります。

更に、海外の生産力のみに頼るようになれば、海外で何かあったときに、当然国内では急激な「供給不足」が起きてしまいます。通貨を供給する仕組みのみに着目し、日本国内の「生産力」を置き去りにした思想。これが「MMT(現代貨幣理論)」という考え方です。

例えば、MMTの考え方の中に「貨幣の信用・価値は、国家の徴税権によって保証されている」という考え方があるようですが、これは大きな誤りです。通貨の信用や価値は、その国内の「生産力」。日本人であればその「勤勉さ」によって保障されています。

これを忘れて通貨の供給のみに着目した思想に私は全く賛同することができません。

少しコロナの問題に関連させ「ハイパーインフレーション」のテーマを掘り下げてすぎてしまいました。

改めまして、次回記事ではこの後ドイツがどのようにして「ハイパーインフレーション」という状況から脱却することができたのか。ハイパーインフレーション下のドイツで起きたことと絡めまして、次回はこのテーマで記事を進めてみます。




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<継承する記事>第490回 第一次世界大戦後のドイツはどのようにして「右傾化」したか

しばらくコロナウイルス関連の記事を続けたのですが、改めてシリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」に路線を戻します。

シリーズ前回の記事 の文末でご案内した通り、今回はドイツに「ハイパーインフレ」を招く直因となった「ルール占領」について、ハイパーインフレが起きた経緯ではなく、ルール占領が行われた経緯にポイントを絞って記事にしたいと思います。

その後、ハイパーインフレに対して当時のドイツがどのような対応を行ったのか。こちらにポイントを移していきます。


ヴェルサイユ条約後、ドイツの賠償が決定する経緯

ヴェルサイユ条約後、ドイツに対する賠償が決定していく経緯について、もう少し深く掘り下げてみます。

ヴェルサイユ条約でドイツが連合国(主にフランスとベルギー)に賠償を行う事が決定するのですが、実際には1920年4月以降、合計12回に渡って開催された会議においてその正式な賠償額が決定します。

この時の首相はコンスタンティン・フェーレンバッハ。第484回の記事 で話題にした「ルール蜂起」。

この後、初めて行われた国会選挙において誕生した内閣です。

前回の記事 でもお伝えしましたね。

フランス・イギリス・イタリア・ベルギー・日本・ポルトガルなど複数の国々によってその賠償額が話し合われ、その総額は1920年6月の時点で総額2690億金マルクとされました。

また、同年11月にはドイツがその賠償請求に応じない場合には連合国によって、ルール地方、またはドイツ全土を占領することが決められています。

1921年2月~3月にかけて開催されたロンドン会議ではドイツ側より総額を500億金マルクとする対案が出されたのですが、連合国側により却下された上、連合国はルール地方にある「デュッセルドルフ」などの3つの都市を占領します。(~1925年8月25日。これは所謂ルール占領とは異なります)

1921年4月27日、その最終的な金額は1320金マルクと決定します。

ドイツははこの額が国力を超え、実行不可能であると反論しますが受け入れられず、フェーレンバッハついに退陣に追い込まれます。

一方で新首相となった「中央党左派」、ヨーゼフ・ヴィルトは、とりあえず連合国側の要求を受け入れ、実際に賠償金を支払った上で、その履行が不可能であることを実証する、「履行政策」を取りました。

ヴィルト


ちなみこの時政権が右派政権から左派政権に代わってますね。彼がとったこの「履行政策」は、ヴェルサイユ条約の見直しを主張する「右翼民族主義者」たちから攻撃の的とされます。

後のドイツの国際関係を検証する上で、この時に首相を務めたヨーゼフ・ヴィルトという人物は、中々重要な立ち回りを演じていますので、この話題は後日深めてみます。

ともあれ、ヴィルトが「履行政策」を取ったことから結果的にドイツの賠償額は総額1320金マルクを30年払いという形で決着がつきました。(1921年5月5日)

既に過去の記事で話題としていますが、更にこの賠償金は外貨建てでの返済を要求されていましたので、ドイツが賠償金を支払えば支払うほど外貨高となり、これが所謂「ハイパーインフレ」を引き起こす一つの要因ともなりましたね。

この後、ドイツはフランスに再三賠償金の支払いについて交渉を行うのですが、悉くフランスに拒否されており(実際に協定の締結まで進んだものも、フランス産業界等の批判により中止にされるなど)、ドイツには厳しい状況が続きます。


ジョン・メイナード・ケインズの警告

以外なのは、ドイツへの賠償を確定させるうえで、イギリスの責任者としてあの「ジョン・メイナード・ケインズ」が就任していたという事。

「ケインズ経済学」の下となる理論をまとめたあの、ケインズです。

ケインズ


彼は元々ドイツの支払い能力として「高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」とする報告書を策定していました。

これを、当時の首相であるロイド・ジョージ氏は受け入れず、「ドイツの限界まで賠償を支払わせる必要がある」として240億ポンドという額での賠償をドイツに求めていました。(1918年12月)

翌年1月に開催されたパリ講和会議。これとは別に開催されていた賠償委員会にケインズは出席することができず、代わりに出席した「イギリス代表」はケインズとは異なり、ジョージ首相同様ドイツに限界「以上」の賠償をさせようとする「強硬派」でした。

例えばアメリカがドイツの賠償額を各国が受けた「損害の範囲内」の補償に留めようとする提案を行ったのに対し、イギリス代表は「戦費」までその補償に含めるべきだと主張しました。

1919年3月からはイギリス代表としてケインズが参加するようになったのですが、イギリスの強硬派たちの抵抗は強く、結果的に同講和会議での賠償額の決定は見送られることとなりました。

また更に英仏は賠償額に対し、更に軍人恩給まで含めることを米国に要求し、米国を屈服させました。イギリス代表であったはずのケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国しています。

この結果、締結されたのが「ヴェルサイユ条約」です。ちなみに同条約116条において、「ロシアの賠償請求権」は保留されることとなっています。ロシア革命後のソビエト政府が正式に成立した後、協議されることとなりました。


ケインズは、この時のイギリス政府の姿勢を「平和の経済的帰結」という書籍において批判し、更に1922年、「条約の改正」という書籍において、賠償に批准したドイツの賠償支払いが著しく困難であることを警告しています。

ここはそのままWikiから引用します。

1922年の「条約の改正」では予算問題とトランスファー問題によってドイツの賠償支払いが著しく困難なものであると警告している。

予算問題とはドイツ政府が賠償を支払うためには、政府財政で毎年黒字を計上せねばならない。黒字達成のためには増税や支出削減が必要であるが、賠償額が大きくなればなるほど国民生活を圧迫し、これが続けば労働意欲や生産力も低下するというものである。

トランスファー問題とは、ドイツが賠償支払いを外貨で行わねばならないことから生じる問題で、ドイツが自国の財政黒字を外貨に両替するためには経常収支が黒字であることが必要であるが、現実的にはその達成が困難だと指摘したものである。

ケインズはこれらの理論により、イギリスとアメリカに対連合国債権をすべて放棄させた上で、ドイツに賠償額を30年賦で12億6000万金マルクずつ支払わせるのが妥当と算定した。

ドイツ政府の賠償金調達はケインズの警告通り、19922年5月の時点で困難となり、ドイツはフランスに対し支払いの延期を求めますが、フランスはこれに応じず、おそらくこの時ドイツは通貨の発行によってこれを賄ったのだと思います。

結果、マルクは「一ポンド=5575マルクまで下落した」とあります。この金額が当時の通貨単位でどの程度の下落であったのかは記されていませんが、ケインズの警告をなぞるような下落幅だったのだと想像します。


フランス・ベルギーのルール占領に至る経緯


1922年1月には一時的に支払いの猶予が認められていたのですが、これに賛成した当時のフランスの首相であったアリスティード・ブリアンは、強硬派の反対を受け、辞任に追い込まれています。

その後もドイツマルクは暴落を続け、ドイツ政府は7月12日、連合国に対し「6ヶ月の賠償支払い停止」を求めた上、「1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言」します。この時点でドイツの対ドルレートとして1919年比で117.5倍まで増加していたのだそうです。

これに対し、アメリカは譲歩の姿勢を見せるのですが、その他の国々はこれに反対します。

ここで一つの構造が見えたんですが、アメリカ以外の欧州の国々は、「アメリカに対する債務」があったんですね。

逆に言えば、アメリカがこれらの国々に対する債務を減額するなりしていれば、他の国々もドイツの要請に応じることもできていたという事になります。

ただ、フランスやベルギー、特にフランスはドイツに対する特定の負の感情を抱いていますから、より強硬な姿勢を示したのだと思います。

またフランスはドイツと国境を接しており、帝国時代のドイツの強烈な印象は拭いされていないでしょうから、二度と立ち直れないほどに国力を低下させたかったという本音もあったのではないでしょうか。

連合国側は1922年後半分に関しては事実上ドイツ側の要請に応じるのですが、ドイツ首相であったヴィルトはこの賠償問題、及び「共和国防衛法」の扱いをめぐって財務大臣と対立することとなり、同年11月に退陣しています。

続いてドイツ国首相となったのがヴィルヘルム・クーノ。

ヴィルヘルム・クーノ

フランス・ベルギーによるルール占領は彼の時代に勃発します。中央党、ドイツ人民党、バイエルン人民党の連立政権ですから、右左でいえば右側の保守政権です。彼は大統領であるエーベルトの指名を受けて首相となります。

ちなみに彼が首相に就任した直後、12月の時点でマルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していたんだそうですよ。

ヴィルトは辞任とともに「「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出しており、クーノはこの見解を継承しました。

これに対し、フランスの首相であるポアンカレは、ドイツに対し、「生産的担保」を求めます。「生産的担保」。つまり、「ルール地方」の事です。(1922年12月19日)

フランスも対英米債務に苦しんでいたんですね。


次回記事では、改めて「ルール占領」そのものに着目し、その上でドイツが「ハイパーインフレ」から脱却するまでの経緯を追いかけてみます。




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