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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




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<継承する記事>第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)

前回の記事では、スパルタクス団蜂起以後、ドイツ(ベルリン=プロイセン)が右傾化していく様子を記事にしようと試みたのですが、どうもグダグダした形で終わってしまいました。

少しだけまとめてみますと、

・スパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが更にバイエルン・レーテ共和国を滅亡させる

・両クーデターを鎮圧する上で主戦力として活躍したエアハルト旅団がヴェルサイユ条約の発効に伴い解散を命じられる

・事実上エアハルト旅団を統括していたベルリン国防司令官リュトヴィッツがドイツ祖国とカップとともにこれに反発し、撤回を要求

・リュトヴィッツは国防司令を解任され、カップには逮捕が命じられる

・リュトヴィッツはエアハルト旅団にベルリン進撃を命じ、ベルリンを占領、カップ新政府の樹立を宣言する

・グスタフ・ノスケはワイマール政府軍に治安出動を命じるも参謀本部長(兵務局長)ゼークトはこれを拒否

・ワイマール政府エーベルト大統領はベルリンを脱出しシュトゥットガルトに大統領府を移転

・これに対し、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟(所謂左翼政党)がストライキを呼び掛けることでこれに対抗

・ルール地方ではこれに触発された労働者たち(ルール赤軍)が反乱を起こし、カップ政権は退陣

・これを鎮圧するため、ワイマール政府はルール地方に派兵を行い、ルール赤軍は壊滅

・フランスはこれをヴェルサイユ条約違反だとし、ドイツに派兵し5つの都市を占領する(1920年5月17日まで)

・再び解散を命じられたエアハルト旅団は「コンスル」というテロ組織と化す

・グスタフ・ノスケは国防相を辞任し、総帥部長官ラインハルトも退陣

・ラインハルトに代わってゼークトが総帥部長官に就任(ワイマール政府軍は政府からの独立色が強まる)

・バイエルン州でも右翼陣営より現州政権打倒の動きが強まり、バイエルン州ホフマン首相は退陣

・後継としてグスタフ・フォン・カールが新首相となる(王党派・右派)

・バイエルンでは反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるも、連合国からの圧力により解散

・バイエルンのワイマール政府に対する反発心が高まることとなり、バイエルンには数多くの右派組織が結成される

こんな感じですね。これでもまだややこしく感じますけど。

傾向として、ベルリンではカップ一揆後のルール蜂起を受け、バイエルンではカップ一揆そのものの影響を受け、共に右傾化色が強まっていっていることがわかると思います。

キーポイントとなるのが前回のタイトルにも記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方です。


当時のドイツにおける「右翼」と「左翼」


個人的に「右翼」だ「左翼」だと区別するのはあまり好きじゃないんですが、そこにこだわりすぎるとここから先の記事が非常に回りくどくなってしまうことが想定されますので、敢えてここでドイツのこの時点に於ける二つの言葉について、それぞれ定義づけておきます。

ドイツにおける「右翼」とは、ドイツ皇帝であったホーエンツォレルン家(この時点ではヴィルヘルム二世)の下まとめられた誇り高き「ドイツ帝国」の封建主義的な在り方を理想とする考え方。

「左翼」とは逆にこの封建主義的な国家の在り方を否定し、「主権」がドイツ国民の下にあり、国民の手によって国家が運営されるべきだとする考え方。その最も極端な位置づけにあるのが「共産主義」です。

マルクスを中心にドイツの社会主義を追いかける中で気づいたことですが、そもそも「産業革命」が勃発するまでの欧州では、同じ「市民階級」の中に「ブルジョワ」と「プロレタリア」という区別は存在せず、マルクスがこれに気づいてしまったために突如として衆目を集めることとなったのがプロレタリアによる市民革命=共産主義という考え方です。


「共産主義」と「社会主義」

ですが、そもそも「共産主義」とは国境も管理者もいない社会を理想とする考え方であり、そしてそんな社会を実現することはまず不可能です。

当然当時の国家の中に「共産主義に近い社会」があったとしても、それは共産主義社会ではありません。

産業革命が起きるまでは「帝政・王政・貴族政」という社会しかありませんでしたから、これを倒すことが市民革命の主たる目的でした。

ですが、「皇帝」や「王」、「貴族」が権力の座から引きずり降ろされた後、そこには尚「資産家(ブルジョワ)」という権力が存在していたことに気づいたのがマルクスたちです。

そして、ブルジョワによる権力社会こそ彼らが考える「資本主義社会」ですから、共産主義者たちはこの「資本主義社会」を暴力によって打ち倒そうと試みているわけです。

ちなみに、同じ共産主義社会の実現を暴力を用いずに実現しようと考えている連中の事を「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びます。

ですが、彼らがいくら共産主義社会を実現しようとしても当然それが実現するわけがありません。では、「共産主義社会」でも「帝政・王政・貴族政」でもなく、「資本主義社会」でもない社会の事をなんと呼ぶのか。

それが「社会主義社会」です。

ビスマルクと5度対談し、自らの理想を彼に語ったフェルディナンド=ラッサールは国家と市民が協力してこの「社会主義社会」を作り上げようとしましたし、ビスマルクはラッサールの目指した福祉社会の実現を国家が自ら実現しようとし、そんな社会の在り方を「国家社会主義」と呼びました。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

「匕首(ひしゅ)伝説」そのものについては前回の記事でも話題にしました。

当時のドイツ国民の中にはやはり左翼的な考え方よりもビスマルクによって形作られた「ドイツ帝国」の国民として、皇帝ヴィルヘルム1世の臣下としての誇りの方が大きかったのではないかと思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークを、普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを立て続けに破り、あのマルクスですらその快進撃に快哉を叫んだほどでしたから。


ヴィルヘルム二世によって破壊されたビスマルク体制

ですが、私のブログでさんざんお伝えしている通り、ヴィルヘルム一世の後を継いだ(正確には一世の息子であるフリードリヒ三世の後を継いだ)ヴィルヘルム二世はそんなビスマルクの功績を悉く破壊していきました。

ビスマルクの目的は、プロイセン内やその周辺で革命を起こさせないこと。国家を安定させ、国民が安心して生活を送ることのできる社会を作ることにありました。

ビスマルクが統一するまでのドイツでは、お隣、フランスの影響を受け、プロイセンをはじめとする北ドイツではブルジョワたちが「民族性」ではなく、「経済的な自由」を求めて「自由主義革命」を起こそうとする動きが、逆に南ドイツ最大の大国であったオーストリアでは、自国内に抱え込んだマジャール人やスラブ人が「民族主義革命」を起こそうとする動きがありました。

ビスマルクは、プロイセンをそんな革命運動に巻き込みたくなかったんですね。

結果としてデンマーク、オーストリア、フランスを相手にそれぞれ戦争を起こし、これを北ドイツとドイツ全体の統一に利用し、ドイツ諸国をプロイセンと同じ法制度の下で管理しようとしたわけです。

ドイツ統一後は当然、争いの場を広げるだけにしかなりませんから、植民地政策はとろうとしませんでしたし、ドイツ統一のために自分自身がフランスを利用したことを自覚しているからフランスが他国と同盟関係を結ぶことをできない状況を作ることにこだわり続けました。

「フランス孤立化政策」が所謂ビスマルク体制の根幹だったはずなのです。

ところが、ヴィルヘルム二世は誇りあるドイツの領土が他国に比べて狭いことを不満に感じており、「世界政策」の名の下、世界一の領土を目指し、一気に植民地政策に打って出ました。(北清事変の元となった山東省の植民地化はその象徴です)

また更に、元々仲の悪かったロシアとオーストリアの内、同じ民族であるオーストリアを大事にし、ロシアとの同盟関係を解消。ビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスと同盟関係を結びました。(ドイツは西をフランス、東をロシアに挟まれる位置にあります)


社会主義者の危険性を無視したヴィルヘルム二世

ビスマルクは、普仏戦争末期、ドイツ統一の目的を果たし、普仏戦争を終結させようとしていました。

ビスマルクは普仏戦争を利用して、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国のナショナリズムを煽り、統一ドイツ=ドイツ帝国を誕生させたわけですが、一方のフランスでは、新政府がクーデターを起こし、帝政ナポレオン三世政府を崩壊させ、「国防政府」が出来上がっていました。

ところが、共産主義者たちにとってこの革命は所謂「ブルジョワ革命」にすぎません。彼らが次に目指すのは当然「プロレタリア革命」。

フランスではドイツとは真逆の動きが巻き起こりました。

敗戦同然のフランスでフランスのプロレタリアによるプロレタリア革命、「パリコミューン革命」が勃発。国防政府はヴェルサイユから逃亡し、「パリコミューン政府」が誕生しました。パリコミューン政府は国防政府軍によって崩壊し、革命を起こしたパリ市民は大虐殺されることとなるわけですが、パリコミューン政府の樹立はにわかにドイツ帝国内の社会主義者たちを活気づけることとなります。

普仏戦争を利用し、ドイツを統一することでせっかくプロイセンに安定がもたらされることとなったのに、「自由主義者」よりも「民族主義者」よりも危険な「社会主義者」がその姿を現したのです。

この事から、ビスマルクは「民族主義者」の象徴ともいえるドイツ中央党と和解してまでも社会主義者の鎮圧に乗り出しました。

ところが、ヴィルヘルム二世は権力欲に取りつかれた取り巻きの自由主義者たちにそそのかされ、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止。ビスマルクを政治の表舞台から追い出してしまいます。


ナポレオン三世政府の崩壊とヴィルヘルム二世政府の崩壊

いかがでしょうか?

このようにしてみてみると、普仏戦争によって帝政ナポレオン三世政府が崩壊した様子と第一次世界大戦によって帝政ヴィルヘルム二世政府が崩壊する様子は非常によく似ているように思えませんか?

戦争そのもの趨勢はともかく、結果的に社会主義者たちのクーデターによって帝政政府が崩壊し、更にプロレタリア革命が勃発することでその新政府もまた、短期間とはいえ崩壊し、プロレタリア独裁政府の樹立を許しています。

また更に、プロレタリア独裁政府によって政権の座を追われたブルジョワ政府が再び軍を起こしてプロレタリア独裁政府を壊滅させ、関わったものを虐殺するところまで酷似しています。

ドイツではそのあとさらに右翼陣営によるクーデターと左翼によるクーデターが連続して起こり、国家全体が「右翼化」していくこととなります。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

では、このように遡って考えてみますと、第一次世界大戦でドイツはなぜ敗北したのか。

何となくその理由が見えてきそうですね。

ヴィルヘルム二世がもし「世界政策」なる妄想に取りつかれず、ビスマルク体制を維持していれば、ドイツが対露開戦に追い込まれるようなことはなかったかもしれません。

その根源となった「バルカン問題」ですら表面化させることなく鎮静化させ続けていたかもしれません。

それ以上にもしヴィルヘルム二世が「社会主義者鎮圧法」を廃止せず、維持し続けていたとしたら、最終的にクーデターによってヴィルヘルム二世政府が崩壊させられるところまでいかなかったかもしれないですよね。

そもそも社会主義的な考え方がドイツ国内に蔓延することを事前に防ぐこともできていたかもしれないですね。

私は、もしビスマルク後のドイツの指導者がヴィルヘルム二世でなければ、第一次世界大戦はおろか、後の第二次世界大戦すら発生しなかったのではないかと思っています。

しかし、第一次世界大戦敗戦後のドイツ国民は、そんなヴィルヘルム二世の事を批判することをせず、第一次世界大戦にドイツが負けたのは「左翼のせいである」と考えたのです。

あいつらが革命さえ起こさなければ、ドイツがフランスに負けることはなかった、と。

ですが、一つだけ確実なことがあります。それは、ビスマルクの政策をすべて排除したドイツには、結果的にビスマルクが危惧した通りの社会。つまり、「普仏戦争末期のフランスがたどった通りの社会」が訪れたのだという事です。


「アドルフ・ヒトラー」の考え方の根底にあるもの

さて、私、ようやく「我が闘争」の上巻を辛うじて「読破」することができました。今下巻に目を通していますが、下巻を読破するにはまだまだ時間が必要ですね。

アドルフ・ヒトラー


ヒットラーは、私が本日記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方をそのまま彼自身の政策に反映していくことになります。

私が本日の記事で、「匕首(ひしゅ)伝説」を、私の過去の記事にまでさかのぼって深めてみたのは、そこへの伏線だと思っていただければと思います。

次回記事では、そんな「我が闘争」の上巻を読んだ後、私が私なりに読み解いた「アドルフ・ヒトラー」という人物の人物像に迫っていきたいと思います。





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<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



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