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いよいよ「平成」の御代が終わり、「令和」へと紡がれる時が訪れます。(平成31年20時現在)

この記事の公開は、御代が移り変わる、まさにその瞬間にしようと思います。

年齢がわかってしまいそうですが、私は中学生の時に昭和の終わりを迎え、また平成の始まりを体感しました。

30年と一言で表現しても、それは本当に長く、永遠にも感じられるようなひと時でした。

私自身が本当の意味で成長させられたのは、まさしく最後の10年間だったでしょうか。

このブログがスタートしたのは平成27年9月10日。ものすごく長い間続いていたように思いますが、まだ3年半ほどしか続いていないんですね。

旧ブログから引き継いでのスタートで、旧ブログが始まったのが平成20年7月18日の事。リーマンショックが勃発するほぼ2か月前のスタートですね。見てみたい・・・という方もいらっしゃるでしょうが、今見るとまあまあ恥ずかしい思いがしますので、ここではご紹介いたしません。

ブログの雰囲気も全く違いますよ。

本日が平成31年4月30日ですから、そう考えると私が「ブログ」を書き始めてから10年は経過したんですね。

当初はよもや私がここまで「政治経済」、そして「歴史」に関心を持つことになるとは露ぞ思っていませんでした。

学べば学ぶほど、「日本」という国を構成しているものが一体何なのか。この事をつくづく考えさせられることになりました。


「政教分離」と「天皇制」

今朝の事、某番組で、一部のコメンテーターがこの事を話題として取り上げていました。

今回の御代替わり、現在においては平成の代の今上陛下がご譲位をなさるための儀式について、これが「国事行為」に該当するのか、しないのかということにしきりにこだわっていました。

ですが、ここまで「歴史」を学んだ私からすれば、この事は違和感しか覚えません。

そもそも「政教分離」という考え方は、敗戦後の日本に持ち込まれた考え方であり、この事を理由に日本の文化や伝統を否定するような真似が、一体なぜできるのでしょうか?

神話の時代から考えれば本年は皇紀2679年。歴史上、その存在を確認できるようになってからも既に1300年以上続く御代です。

このような国は、世界中どこを探しても存在しません。

天皇陛下の存在を、なぜ「憲法」の下で考えようとするのでしょうか。


「敗戦国」日本

あえてネガティブな表現を用いています。

TV上で、コメンテーターが天皇陛下のご存在を、「伝統」や「国體」ではなく、「法制度」の下で考えようとする理由はここにあります。

日本が戦争に敗れたのは、日本が悪かったから。中国や朝鮮半島を侵略し、たくさんの人々を殺戮したから。
この様な「呪縛」に未だにとらわれ続けている人達がこの国に存在するから、上記のような発想になります。

ですが、私が作成した 日本の近代史 を見ていただいてもわかると思いますが、私たちの国家である日本が、なぜ朝鮮半島を併合し、満州を独立させ、華北~中華東部を独立させたのか。それはよくご理解いただけると思います。

陛下の治世は、決してそのような禍々しいものではないのです。


教育勅語

教育勅語」のシリーズでお示ししましたが、その冒頭には以下のような記述があります。

朕(ちん)惟(おも)うに  我(わ)が 皇祖(こうそ)皇宗(こうそう) 国(くに)を肇(はじ)むること 宏遠(こうえん)に 徳(とく)を樹(た)つること 深厚(しんこう)なり

「皇祖」「皇宗」とは、歴代の天皇陛下とその祖先、「神々」たちのことを意味しています。

そして、ここでいう「国」とは、何も日本の事のみを指し示すのではなく、いわば私たちが暮らす「地球」全体を意図したものです。

「国」はまさに人類が誕生したその瞬間から肇(はじ)まったのです。そして神々が育て始めた「徳」は、今も尚、現在の私たち日本国民によって育てられ続けています。

これを意図しているのが続く以下の文章で、
我(わ)が臣民(しんみん) 克(よ)く忠(ちゅう)に 克(よ)く孝(こう)に 億兆(おくちょう)心(こころ)を 一(いつ)にして 世々(よよ)厥(そ)の美(び)を済(な)せるは 此(こ)れ 我(わ)が国体(こくたい)の精華(せいか)にして 教育(きょういく)の淵源(えんげん) 亦(また)実(じつ)に此(ここ)に存(そん)す

ここには私たち「国民」が、たくさんの心を一つにして長い間「美」を済(な)している、と書かれています。

ここにいう「美」とは、見た目の美しさではなく、親孝行や友情、尊敬する心や思いやり、そして義侠心など、様々な国民の心の有り様を意図しています。

そしてそれが日本のあるべき姿そのものであり、それこそが日本国民の教育が長らく深めてきたものであり、それが今まさにここにあると、そう書かれてあります。

「自由」や「平等」を求めることは、確かに大切なことかもしれません。ですが、改めてそれが何に対する自由なのか、平等とは何にとっての平等なのか。これを考える機会も必要なのではないでしょうか。

そして「自由」や「平等」よりも大切なものは、私たち自身の在り方。心の持ちよう。その精神的な支柱なのではないでしょうか?

新しく訪れる「令和」の代が、真の意味で日本国民全体が人のために尽くすことができる代となることを、私は心から願っています。

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<継承する記事>第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~

それにしてもややこしい・・・。

多分、「歴史」を一番複雑にしているのはこういったいわゆる「左翼」の存在なんじゃないかと思います。

ドイツにとっての第一次世界大戦に終結をもたらしたのは、図らずもドイツ国内で起きたキール軍港における水平たちの武装蜂起にあったわけですが、これをきっかけにドイツ全土でいわゆる「レーテ」による武装蜂起が立て続けに起こり、各都市がレーテの支配下に入ります。

スパルタクス団の指導者であるリープクネヒトが実行しようとしていた社会主義政府の樹立を阻止するため、社会民主党の一党員にすぎないシャイデマンが共和制政府の樹立を宣言。

社会民主党と独立社会民主党は連合し、「人民委員評議会」を樹立。ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡しました。

ここは前回の記事でもさらった部分です。


独立社会民主党の政権離脱

わかりにくすぎるので、まずは一つずつまとめていくのが最善の策かと思いまして、わからないなりに、少しずつまとめていきます。

まずはサブタイトルに記した通り、「人民委員評議会」に加わった独立社会民主党がこの評議会を離脱した経緯から記事にしていきます。

おさらいとして、前回の記事 で話題にした「レーテの衰退」について。

社民党と独立社民党において「人民委員評議会」が樹立したわけですが、帝政ドイツ崩壊の中心的役割を果たしたベルリンの「レーテ」は、これとは別に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出。ここに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」しました。

ここには独立社民党極左の「革命的オプロイテ」が半数以上含まれていました。ベルリンの「レーテ」は、つまり社民党ではなく、独立社民党の、しかも極左にその権力を与えようとしたわけですね。

ですが、その「レーテ」によってドイツ全土で開催された「大レーテ大会」では逆にその半数以上を社民党系の評議員が占めていたことから、ものの見事に独立社民党の目論見は骨抜きにされ、更に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」ではなく、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められました。

詳しくは前回の記事を読んでいただければと思うのですが、この結果ドイツの権力は「独立社会民主党」ではなく、「社会民主党」が掌握することとなったわけです。

独立社会民主党は、「人民委員評議会」に加わることの条件として、「全権をレーテが握ること」を要求し、結果これが実現したわけですが、その主力は独立社会民主党ではなく社会民主党系であった・・・と、そういうことですね。


少し時間をさかのぼります。サブタイトルにもある通り、ドイツ独立社会民主党は評議会を離脱するわけですが、そのきっかけとして、「人民海兵団」という言葉が登場します。

この「人民海兵団」。その誕生は1918年11月。人民委員評議会政府が樹立した直後の話です。

革命は水兵の反乱によって勃発しましたので、海軍はその信頼を失い、混乱したままの状態にありました。

そして、首都(ベルリン)の治安を守るために「クックスハーフェン」というドイツの北端の都市から呼び寄せられた水兵とベルリンの水兵との間で結成されたのが「人民海兵団」です。

クックスハーフェン

ですが、ここに独立社民党の極左である革命的オプロイテが浸透し、海兵団そのものが左傾化していくこととなりました。


帝政ドイツ崩壊後、ドイツの首相となったのは社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。

全体的な流れから見て、どうもエーベルトは革命後のドイツが共産化してしまうことを何とか防ごうとしていたような、そんな印象を受けます。

独立社民党と連合して樹立した「人民代表評議会」では、首相であるエーベルトが議長を務めていたことから、どうも独立社民党の中では不満が鬱積していた様子。

一方で12月16日に行われた「大レーテ大会」では、革命的オプロイテやスパルタクス団ら、所謂「急進派」がドイツ帝国軍の解体と国民軍の創設を要求するのですが、エーベルトはこれを無視し、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定します。

ドイツ独立社会民主党の政権離脱のきっかけとなったのは「人民海兵団」の武装蜂起にあるわけですが、おそらくこれもこのような流れの延長線上にあったものと思われます。

「人民海兵団」は極左、革命的オプロイテによって、事実上革命派の一組織と化していたようで、12月23日までに人民海兵団はベルリンの王宮を占拠してしまいます。

これに対し、エーベルト政府は占拠をやめるよう指示を出すわけですが、海兵案はこれを拒否。翌24日には政府軍が海兵団の宿舎を砲撃し、市街地戦がスタートします。

しかしこれもやけにあっさりと終結しているようで・・・。で、独立社会民主党はこの状況を、「政府が帝国軍とつながっている証拠だ」と主張し、臨時政府から離脱してしまいます。

政府なんですから、軍を統括しているのは別におかしいことではないと思うんですが。特にあの時代、政府が軍を統括していなければ、一体どうやって治安を保つというのでしょうね?

兎にも角にも、このような経緯を経てドイツ独立社会民主党は政権から離脱することとなりました。


スパルタクス団蜂起

さて。前回の記事 でも触れましたが、「人民海兵団」に絡む事件が勃発した頃、もう一方の「急進左派」、「スパルタクス団」は、更にもう一つの左派集団である「ブレーメン派」が結成した「ドイツ国際共産主義」と合同し、翌1919年1月1日、「ドイツ共産党・スパルタクス団」を創設しました。

彼らによって引き起こされたのが「スパルタクス団蜂起」です。

スパルタクス団蜂起


この話題は、以下の記事を参考にさせていただこうと思います。

1章 ドイツ革命・3スパルタクス団の蜂起

経緯がきちんと記されているので、この記事を信頼して進めていきます。

そもそも、この「スパルタクス団蜂起」が勃発したのは、「独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたこと」にあるのだそうです。(1919年1月5日)

しかし、このアイヒホルンは政府による解任を拒否し、独立社会民主党のベルリン支部に支援を求めました。

このことを受け、独立社会民主党と同党左派である「革命的オプロイテ」、そして1日に発足したばかりの「共産党」は解任に反対する抗議デモを行うよう、「市民」に呼びかけます。

第354回の記事

にも記しましたが、「スパルタクス団蜂起」を起こしたのは、実は共産党を結成したスパルタクス団ではなく、呼びかけられて集まった「大衆」でした。集まったのは総勢50万にも上る群衆で、中には革命派を敵視する記事を発行していた新聞社を占拠したグループもいました。

ですが、デモを呼び掛けた「左派」の面々は、ここまでの事態をそもそも想定しておらず、集まった群衆をどのように煽動してよいのかが全く分からず、「革命委員会」を結成しこそすれ、この委員会は全く機能しませんでした。

このように、集められた群衆がどう動いてよいかわからず、右往左往している間に、社民党政府は、大戦時の退役軍人を中心に志願兵を募って、義勇軍を結成し、国防大臣グスタフ・ノスケの下、義勇軍は労働者が占拠していた新聞社街の通りや大手新聞社の建物を奪還しました。

武力の差は圧倒的で、共産党の中心的な指導者であったリープクネヒトとローザ=ルクセンブルクはとらえられ、殺害されました。

この時の両名の処刑のされ方を、「虐殺」と記している記述も多く見かけますので、その殺害方法はよほどの内容だったのだと思います。

義勇軍として参加した退役軍人たちも、どうも革命後の市民社会に対して「違和感」を覚えていたのだそうです。ドイツ人たちの中には、確かに「ビスマルク」時代のドイツがはっきりとその脳裏に刻まれていたのではないでしょうか。

だからこそ「誇り」も持っていたでしょうし、姑息なマルクス主義者たちが目指した社会は、きっとドイツ国民にはなじまなかったのではないかと推測されます。

さて。この後の「社会主義」に関しては、第351回の記事、及び 第354回の記事 にて一通りまとめていますので、これ以上はあえて追いかけることはせず、いよいよ今シリーズの本丸、「ナチス」に視点を合わせてみたいと思います。

ただ、その前に一記事だけ、「ヴェルサイユ条約」に関連した記事を作成できればと思っております。




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<継承する記事>第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義

ドイツ社会主義の復習

ものすごくややこしいので、まずは最初に第一次世界大戦前~開戦直後のドイツ国内の「社会主義」を一度整理してみます。

ドイツの社会主義はまず「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働党」という二つのグループからスタートします。

全ドイツ労働者協会ができたのが1863年、ドイツ社会民主労働党ができたのが1869年ですから、全ドイツ労働者協会の方が先です。

全ドイツ労働者協会はいわゆる「社会主義者」であるラッサールが中心となり、一方のドイツ社会民主労働党は「共産主義者」ベーベルやヴィルヘルム=リープクネヒトが中心となって誕生しました。

両グループの違いは議会との話し合いによって社会主義社会を築いていくのか、それともプロレタリアートの暴力革命によってそれを成し遂げるのかという違いです。

ラッサール自身は1864年に決闘により絶命していますので、ドイツ社会民主労働党が誕生したときの全ドイツ労働者協会のリーダーはラッサールではありません。この時の全ドイツ労働者協会の会長は「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物。

彼はラッサールの路線を継承していましたので、ドイツ社会民主労働党とは対立する構造にあったのですが、議会での敗北を受け、シュヴァイツァーが会長を辞任した後、ウィルヘルム・ハーゼンクレーヴァーが会長となってからは、少しずつ全ドイツ労働者協会からはラッサール色が褪せる様になります。

それどころか、両陣営ともビスマルクが成立させた社会主義者鎮圧法によって排除される立場となったことから、両陣営の結束は高まることとなり、1875年5月、両陣営は合同して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生します。

ビスマルクがヴィルヘルム2世より排除され「社会主義者鎮圧法」が廃止されると、「ドイツ社会主義労働者党」は「ドイツ社会民主党」と党名を変更します。(1890年)

改名とほぼ同時に誕生した、「ドイツ労働組合総委員会」を中心に、ドイツの労働組合が終結し、「自由労働組合」を結成します。

この「自由労働組合」はドイツ民主党の最大の支持母体となるわけですが、グループが大きくなるにつれ、次第に自由労働組合はラッサール的な「修正主義」へとその主義を変化させていきます。

ドイツ民主党へと改名した折、党の方針として「エルフルト綱領」が制定されたわけですが、二つの部分からなるこの綱領の内、「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、1895年、マルクスとともにドイツの社会主義をけん引したエンゲルスが死去した後、「修正主義に繋がる内容の論文」を発表するようになりました。

この頃には既に自由労働組合の間で「修正主義」が蔓延していましたから、ベルンシュタインの論文は広く組合員たちに受け入れられるようになります。

また更に、自由都市である南ドイツでは、北ドイツに先んじて普通選挙が実施されるようになっており、所謂「地方議員」として、ドイツ社会民主党でも「修正主義者」である議員が多く誕生していました。そして彼らは自由主義者たちと連携するようになっていたのです。

修正主義の中心地となった南ドイツを中心に、ドイツ社会民主党の「世代交代」も進み、やがて「修正主義者」たちがドイツ社会民主党の中心となっていくようになりました。

ですが、当然のようにして党内の「共産主義者(マルクス主義者)」と「修正主義者」たちは対立しました。

マルクス主義者である「急進左派」と「修正主義者」、そして修正主義者たちへの歩みよりを見せる党指導部の面々、「中央派」。この3つの派閥が社会民主党の中に誕生しました。

このことが大きく問題となるのは、1914年7月28日に勃発した「第一次世界大戦」。ロシアに宣戦布告するのが8月3日。翌日戦費を戦時公債によって賄われることが議会の「全会一致」で議決したとあります。もちろん「ドイツ社会民主党」も含めて。

ですが、この中でただ一人この議決に反対したのが、「カール・リープクネヒト」でした。ドイツ社会民主労働党を結成したヴィルヘルム=リープクネヒトの息子です。


「スパルタクス団」

もう一つややこしいのが、この「スパルタクス団」です。

前回までの記事と違う内容になると申し訳ないのですが、「新しい記事の方が、より洗練された情報である」と受け止めていただけるとありがたいです。

ですので、今回記す記述は、現時点で私が最も「正確だ」と考えている情報です。

まず第一に、ドイツ帝国議会が戦時公債の発行を議決した後、「ドイツ社会民主党」の中で、「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」ら、「急進左派」の面々は、党内に戦時公債に対する「反対派」を結成します。

反対派は、1915年7月、党指導部宛に抗議書簡を送っているのですが、この後、反対派は「労働共同体」と「グルッペ・インターナツィオナーレ」 に分裂します。

中心人物として名前を挙げた「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」の4名は共にスパルタクス団の結成メンバーとして名を連ねています。

で、おそらく「労働共同体」というグループは、前回の記事 に掲載しました、「社会民主協働団」の前身なのではないかと思います。議員団を除名された後、彼らは「社会民主協働団」の名称を用い始めたものと思われます。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」のメンバーは1916年1月1日、リープクネヒト宅で「全国協議会」を開催し、それ以降「スパルタクス団」の名称で知られることとなった、とあります。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」が結成されたのは既に記しています通り、戦時公債が発行された翌1914年8月5日の事です。

「社会民主協働団」を結成するメンバーが議員団を除名されるのは1916年3月24日の事ですが、Wikiベースでリープクネヒトのページを読んでみますと、リープクネヒトは「社会民主党を脱党して1916年からローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した」とありますので、リープクネヒトが離党したのは1915年の事だということでしょうか。

この辺りははっきりしません。

「社会民主協働団」の面々は、結局1917年1月には党組織そのものから除名されることとなります。そして、同年4月8日に彼らは結党し、その名称を「ドイツ独立社会民主党」と定めています。アメリカがドイツに宣戦布告を行う翌々日のことです。

この時、スパルタクス団は、結成されたドイツ独立社会民主党に合流しています。


ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒト

スパルタクス団の結成において、中心的な役割を果たしたのは間違いなくこの両名なのですが、実はこの両者、1916年4月にリープクネヒトが、1916年7月に逮捕されており、禁固2年半を宣告されています。

つまり、両者がスパルタクス団を指導したのは、獄中から。逮捕されていたのは両名だけでなく、スパルタクス団の指導者たちは軒並み逮捕されていましたので、事実上スパルタクス団は「停滞」していたんですね。

「ドイツ革命」が起こり、ヴィルヘルム2世が廃位されるわけですが、革命を起こしたのは結局「ドイツ独立社会民主党」でもなく「スパルタクス団」でもなく、キール軍港の水兵たちでした。

ヴィルヘルム2世が廃位されたことを受け、ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは釈放されます。

ローザ・ルクセンブルク
カール=リープクネヒト


ドイツ革命とそのあとの流れ

ドイツ革命前後の流れを時系列で整理しますと、

・1918年11月4日 キール軍港の水兵たちの蜂起
・1918年11月5日 リューベック、ブルンスビュッテルコークがレーテ(ロシアでいう「ソビエト」)の支配下に
・1918年11月6日 ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェンがレーテの支配下に
・1918年11月6日 ハノーファー、オルデンブルク、ケルンがレーテの支配下に
・1918年11月7日 バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位(バイエルン革命)、バイエルンがレーテの支配下に
・1918年11月8日 西部ドイツすべての都市がレーテの支配下に
・1918年11月9日 ベルリンでストライキが勃発、バーデン公マクシミリアンによる皇帝の退位の宣言、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンによる共和政樹立の宣言(ドイツ共和国の成立)
・1918年11月10日 多数派社会民主党と独立社会民主党の連合が成立(仮政府「人民委員評議会」の樹立)。ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。

と、こんな感じです。ちなみに一党員にすぎないシャイデマンが慌てて共和政樹立を宣言したのは、釈放されたリープクネヒトが社会主義政府の樹立を宣言しようとしていたから。

社会民主党は既に「自由主義色」を帯びていましたから、ロシア革命の象徴である「ソビエト」と同等の意味を持つ「レーテ」政府はそもそも受け入れ難いものです。ですが、党首であるフリードリヒ・エーベルトは、政権を維持することを求めて本来対立する構造にあった独立社会民主党との連合という選択を行いました。

ですが、そんな「独立社会民主党」の中には、より左派色の強い「革命的オプロイテ」というグループを抱えこんでいました。

社民党と独立社民党は連合し、「人民委員評議会」を樹立しますが、労兵(労働者と兵士)で構成されるベルリンの「レーテ」はこれに対し、「革命的オプロイテ」が半数以上含まれる「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出し、これに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」します。


「レーテ」の衰退

さて。そんな「レーテ」なのですが、執行評議会より、郡県市町村ごとに再編成することが指令されます。12月16日には「大レーテ大会」が開催されるのですが、大会を構成していたのは全国から489人の代表評議員。

そして、この代表評議員の半数以上(291名)は社会民主党系の評議員でした。

内心では「レーテ」による支配に反対している社会民主党と、レーテによる支配を確実なものにしようとする独立社会民主党でしたが、大会の結果、独立社会民主党の目論見はものの見事に「骨抜き」とされてしまいます。

大会では、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められます。

1919年1月19日に「国民議会選挙」が行われることが決定したのですが、議会が決定するまでの間、その「権力」が臨時政府に委ねられ、その監督を新設された「共和国中央評議会」が行うことになります。

ですが、その「共和国中央評議会」の監督権限はあってないようなもの。この事から、独立社会民主党は評議会への参加を見送り、そのすべてが社民党の評議員で構成されることとなりました。

もちろん、これは「社会民主党」の主張によって実現したものです。この時点で、まだ「スパルタクス団」は「独立社会民主党」の内部に存在します。


「ドイツ共産党」の結成

さて。ではこのような状況を、スパルタクス団の面々が「潔し」とするでしょうか?

もちろんそんなわけはありません。1918年12月24日、彼らは「ドイツ国際共産主義」と合同誌、1919年1月1日、ついに「ドイツ共産党・スパルタクス団」を正式に創設します。

この後、1919年1月5日、スパルタクス団による武装蜂起が行われるのですが・・・。

続きは次回記事に委ねます。


少し話題がそれるのですが、この回の記事を作成していて少し見えてきたことがあります。

それは、一連の「ドイツ革命」を主導した指導者たちが、軒並み「ユダヤ人」であったこと。ドイツの「民族主義者」たちは、自分たちが敗戦した原因は共産主義者やユダヤ人たちから、「背中から撃たれた」ことにあると考えるようになります。

そして、革命後の「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」では、「反ユダヤ主義」が高まることとなったのだそうです。

本シリーズ のテーマである、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」という疑問に対する答えが、少しだけ見えてきたように思いますね。



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