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この記事のカテゴリー >>実質賃金と名目賃金


今朝、ネット情報をチェックしていますと、以下のようなニュースが話題になっていました。

【読売新聞ニュース 1/30(水) 21:55配信】
実質賃金、実は18年大半がマイナス…野党試算

 立憲民主、国民民主などの野党は30日、毎月勤労統計の不適切調査問題をテーマとした合同ヒアリングを国会内で開き、2018年1~11月の実質賃金の伸び率が大半でマイナスになるとの試算を示した。

 厚生労働省は23日、不適切調査問題を受けて再集計した実質賃金の伸び率を公表した。これによると、3、5~7、11の5か月で前年同月比がプラスだった。最もプラス幅が大きかったのは6月の2・0%。

 これに対し、野党の試算では、6月と11月を除き、すべて前年同月比でマイナスとなった。最もマイナス幅が大きかったのは1月で、1・4%だった。

 厚労省の調査は、前年の17年と18年で対象となる事業所を一部入れ替えている。野党は17、18年を通じて調査対象だった事業所のデータを試算に使った。

 厚労省の担当者は、野党の試算について「同じような数字が出ることが予想される」として事実上、追認した。野党は「政府が公表した伸び率は実際より高く出ている」と批判している。

大元となるのは、厚生労働省が民間企業の「賃金指数」を集計した「毎月勤労統計調査」において、

1.東京都における
2.500人以上の規模の事業所に対して
3.本来であれば全数調査にすべきところを
4.一部の企業のみを抽出して調査していた

という、「不正」が根源にあるわけですが、引用したニュースはこの事例について言及されているニュースではありません。


1月31日のニュースの概要

わかりにくいと思いますので、一つずつご説明します。

まず、厚生労働省は前記した「不正」に関して、既に修正を行っており、2019年1月23日に修正結果を毎月勤労統計調査のホームページに修正後のデータを公表しているわけですが、引用した記事で問題とされているのは、2018年度の毎月勤労統計調査において、対象とするサンプルを2017年度とは入れ替えていることにあります。

2017年度までは同じ対象となる企業について調査を行っているのですが、2018年度はその対象を入れ替えましたよ、ということです。

そして、今回の「不手際」が発覚したのは、その「対象の入れ替え」が行われた結果、17年度と比較して賃金指数が大きく跳ね上がったからです。

しかも、この「不正」が平成16年、西暦で2004年。小泉内閣当時から継続して行われていた・・・ということが発覚しました。

本来であればその「不正」について追求し、今後同じようなことが起こらないように厚生労働省に反省を促すのが本来の国会の在り方だと思うのですが例によって野党の皆さんは、この情報を安倍内閣を攻撃する材料として利用し始めています。

これが、引用した「実質賃金」に関するニュースです。


安倍内閣は、アベノミクスによる効果をねつ造するために対象企業を入れ替えた?

「賃金指数」の中で、誤って算出されていたのは「きまって支給する給与」で、軒並み公表されていた「月間平均給与」を再集計されたものが上回っています。

野党がピンポイントで着目したのは、その結果、2018年の「賃金指数」が、2017年と比較して伸びたのか下落したのかというところ。

政府が公表したデータは、もちろん「対象とする企業を入れ替えて」算出したもの。2018年は1月から最新の11月まで含めて前年を大きく上回っています。最大で6月の2.8%です。

しかし、当然野党はこう主張します。「サンプルが変わったから結果が変わったんだろう!」と。

そこで厚労省が示した、同一のサンプルを用いた場合の「参考値」が以下の通り(すべて前年同月比です)。

1月 0.3%
2月 0.8%
3月 0.2%
4月 0.4%
5月 0.3%
6月 1.4%
7月 0.7%
8月 0.9%
9月 0.1%
10月 0.9%
11月 1%

全月プラス成長となっていますが、この値は、すべて「名目値」です。

そう。野党やマスコミが大好きなのは「名目値」ではなく、「実質値」なんですね。

ちなみに、「名目値」とは、「もらった賃金のうち、何円が支出に回せるのか」という値。「実質値」とは、「受け取った給料でいくつ買えるのか」という値。

野党やマスコミは、「何円使えるか」より、「何個購入できるのか」ということの方が大事だ、と鉄板で主張します。

厚労省は「実質値」を出すのを渋るわけですが、実質値を出すための計算式は決まっていて、「名目賃金指数÷持家に帰属する家賃を除く消費者物価指数」という公式で簡単に算出できます。私自身も計算してみましたが、野党の計算結果とほぼ同じ結果になりました。

実質賃金は、「6月」と「11月」以外、すべての月で実質賃金指数は前年度割れ、となっていたんですね。ちなみにサンプルを入れ替えた後だと1マイナスとなっているのは1月、2月、5月、8月、10月の5か月のみ。で、「サンプルを入れ替えたのは実質賃金がマイナスになっていることを隠すためだろう!!」と野党はわめき散らしているわけです。

データを入れ替えて集計を始めたのは2018年1月になってからで、その時に2月~11月までのデータなんてわかるわけがないんですけどね。超能力者でもない限り。


「実質賃金」がマイナスになると何か問題なのか?

実質賃金については私、シリーズ 実質賃金と名目賃金 において散々話題にしています。

第363回の記事 でも記していますが、実は私、元々厚労省の「毎月勤労統計」については全くあてにしていません。

参考程度にしかならないと思っていましたから、今回厚労省による不正が発覚したところで、「え、今更?」というのがニュースを見た第一印象でした。

というのも、そもそも厚労省のデータは「常勤雇用者数が5名以上の企業」しか対象としておらず、「常勤雇用者が5名未満の企業」は対象になっていません。

ですが、政府データには厚労省データとは別に、「国税庁」が公表している「従業員1名以上の企業」を調査対象としたデータがございまして、こちらの方が正確で、より実態に近い数字となっています。(参考:第43回 実質賃金と名目賃金⑤~厚労省データと国税庁データの違い~

なので、私は賃金の情報を見るときは、厚労省の毎月勤労統計ではなく、国税庁の「民間給与実態統計調査」の方を参考にしています。

このデータですと、業態別だけでなく、受け取っている給与階層別の労働者数なども見られますので、私はとても重宝しています。シリーズ、中間層の見方 で具体的に作成しましたね。今から3年以上前のデータにはなりますが。

ただ、国税庁データの欠点は、集計時間が長く、年に一度しか発表されないこと。昨年2018年のデータが掲載されるのが今年の9月です。

毎月勤労統計は、国税庁のデータほど正確ではないものの、その「速報性」にこそ魅力があるんですよね。

ちなみに、両方の統計データを比較すると、このようになります。

給与所得比較

厚労省データは平成19年(2007年)のデータが17年基準(20年以降は22年基準)のデータしかなかったので、私の手元で計算することは避け、空欄にしています。

厚労省データは「指数」、国税庁データは「年間平均給与所得」です。ともに年間のデータを用いています。「指数」も、基本的には「給与所得」実学をベースに算出されたものですので、単位は違いますが、伸び率や減少率はほぼ同じ基準で比較することができます。

ご覧いただくと一目瞭然ですが、平成29年(2017年)のデータと平成20年(2008年)のデータを比較した場合。「2008年」。つまり、リーマンショックが起きたその年です。

厚労省データは2008年が「103.6」で、2017年が「101.1」。割合にして2.4%、2017年の値が2008年の値を下回っています。

ところが、国税庁データでは2008年が429.6万円。2017年が432.2万円ですから、今度は2017年の値が0.6%、2008年の値を上回っています。

この違いはいくら経済感覚に疎い人にだって理解できるのではないでしょうか?厚労省データと国税庁データの違いは、「常勤雇用者5名未満の企業」が含まれているのか、含まれていないのか、その違いだけです。

2017年と比較して、2018年の「実質賃金」が下回っているからアベノミクスは失敗だ、と野党やその支援者たちはわめき散らしているわけですが、国税庁データによれば、2017年の実績は既にリーマンショックが起きた年の数字を上回っているんですよ?

更に、2018年は実質賃金こそ2017年を下回ったかもしれませんが、名目賃金指数においては2017年の給与所得を上回っています。

実質賃金が下回ったから、一体何だと言いたいのでしょう、彼らは?


今回の「実質賃金の下落」が意味すること

さて。それでは一体なぜ、名目賃金が上昇したにも関わらず、実質賃金指数が下落したのでしょう?

今更言うまでもありませんが、それは実質賃金の算出方法にからくりがあります。

既に掲載していますが、実質賃金指数は、

 実質賃金指数=名目賃金指数÷持家の帰属家賃を除く消費者物価指数

で算出されます。

名目賃金指数が上昇したのに実質賃金指数が下落した理由は単純で、持家の帰属家賃を除く消費者物価指数の上昇率が、名目賃金指数の上昇率を上回ったからです。

私のブログを読み込んでくださっている方であれば、私が次にどんな情報を持ち出すか、予想はついていらっしゃるかと思います。

そう。「消費者物価指数」の「十大費目別消費者物価指数」です。

物価が上昇するには、上昇する鳴りの理由があるんです。そしてこの「消費者物価指数」に関してもまた、私は散々シリーズ、「物価の見方」の中でご説明しましたね?

データは、あえて1年分を掲載しますから膨大になります。後で解説しますが、どの項目にプラスが多く、どの項目にマイナスが多いのか、ということに着目しながら、画面をザっとスクロールしてみてください。

平成30年(2018年)の消費者物価指数

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】
食料 ウェイト:2623
1月 3.2
2月 3.0
3月 1.9
4月 0.7
5月 0.8
6月 0.4
7月 1.4
8月 2.1
9月 1.8
10月 2.4
11月 0.5
12月 -1.1

 生鮮食品 ウェイト:414
 1月 12.5
 2月 12.4
 3月 6.3
 4月 -1.5
 5月 -0.7
 6月 -1.2
 7月 4.3
 8月 8.7
 9月 5.6
 10月 10.8
 11月 -1.4
 12月 -9.4

 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 1月 1.3
 2月 1.2
 3月 1.1
 4月 1.1
 5月 1.1
 6月 0.7
 7月 0.8
 8月 0.9
 9月 1.0
 10月 0.9
 11月 0.9
 12月 0.7

住居 ウェイト:2087
1月 -0.1
2月 -0.1
3月 -0.2
4月 -0.2
5月 -0.1
6月 -0.1
7月 -0.1
8月 -0.1
9月 -0.1
10月 -0.2
11月 -0.1
12月 -0.1

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
 1月 0.1
 2月 0.1
 3月 -0.1
 4月 0.0
 5月 0.1
 6月 0.1
 7月 0.1
 8月 0.1
 9月 0.1
 10月 -0.1
 11月 0.0
 12月 0.1

光熱・水道 ウェイト:745
1月 4.6
2月 4.3
3月 4.0
4月 3.6
5月 3.1
6月 3.3
7月 3.1
8月 3.4
9月 3.7
10月 4.4
11月 5.0
12月 5.0

家具・家事用品 ウェイト:348
1月 -1.2
2月 -1.7
3月 -1.4
4月 -1.5
5月 -1.5
6月 -1.0
7月 -1.1
8月 -1.1
9月 -1.0
10月 -1.0
11月 -0.7
12月 0.1

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 1月 -2.0
 2月 -3.8
 3月 -3.3
 4月 -3.8
 5月 -3.5
 6月 -2.9
 7月 -2.1
 8月 -2.5
 9月 -2.0
 10月 -2.0
 11月 -0.6
 12月 0.5

被服及び履物 ウェイト:412
1月 0.5
2月 0.3
3月 0.0
4月 0.1
5月 0.1
6月 0.0
7月 0.3
8月 -0.1
9月 0.1
10月 0.1
11月 0.1
12月 0.1

保健医療 ウェイト:430
1月 1.6
2月 1.8
3月 1.7
4月 1.9
5月 1.9
6月 2.0
7月 2.0
8月 1.1
9月 1.0
10月 1.1
11月 1.2
12月 1.3

交通・通信 ウェイト:1476
1月 0.7
2月 1.5
3月 1.7
4月 1.1
5月 1.3
6月 1.4
7月 1.5
8月 2.0
9月 2.1
10月 1.9
11月 1.2
12月 -0.1

 自動車等関係費 ウェイト:836
 1月 2.0
 2月 2.6
 3月 1.8
 4月 2.1
 5月 2.7
 6月 4.0
 7月 4.3
 8月 4.2
 9月 4.5
 10月 4.6
 11月 3.3
 12月 1.3

教育 ウェイト:316
1月 0.4
2月 0.4
3月 0.3
4月 0.3
5月 0.3
6月 0.5
7月 0.5
8月 0.5
9月 0.5
10月 0.5
11月 0.5
12月 0.5

教養娯楽 ウェイト:989
1月 0.5
2月 1.3
3月 0.5
4月 0.2
5月 0.0
6月 0.8
7月 0.6
8月 1.6
9月 1.0
10月 1.4
11月 1.0
12月 0.9

 教養娯楽用耐久財 ウェイト:59
 1月 -1.1
 2月 -1.5
 3月 -2.5
 4月 -5.0
 5月 -3.8
 6月 -2.9
 7月 -2.4
 8月 -2.1
 9月 1.7
 10月 -0.3
 11月 -1.0
 12月 -0.3

諸雑費 ウェイト:574
1月 0.5
2月 0.6
3月 0.5
4月 0.1
5月 0.3
6月 0.4
7月 0.3
8月 0.0
9月 0.2
10月 0.8
11月 0.9
12月 0.8

段違いになっているところ、例えば「家具・家事用品」の下にある「家庭用耐久財」は、「家具・家事用品」の中に含まれる項目をピックアップしたものです。

「10大費目」とは、「食糧」「住居」「光熱・水道」「家具・家事用品」「被服及び履物」「保健医療」「交通・通信」「教育」「教養娯楽」「諸雑費」の10の項目の事。

この10の項目のうち、物価を大きく上昇させる要因となっている項目が「光熱・水道」であることがご覧いただけると思います。

この他、「食糧」の中の「生鮮食品」や、「交通」の中の「自動車関係費」。

「光熱・水道」や「自動車関係費」を上昇させる主要因となっているのは「原油価格」。特に2018年は大きく「円安」に物価が振れることもありませんでしたから、原油価格が上昇する原因は、「海外の原油取引価格の上昇」が原因です。アベノミクスとは全く関係ありませんね?

更に、「生鮮食品」が高値を付けているのはアベノミクスのせいではなく、「気象条件」が原因です。

つまり、海外や気象条件が要因となり、名目賃金の上昇率を上回る物価上昇を見せたため、実質賃金指数が下落することになった・・・というのが今回のデータの正しい見方です。

物価が下落する主要因となっているのは「家庭用耐久財」や「教養娯楽用耐久財」。つまり、「家電製品」の大安売りがそもそもの原因です。つまり、ジャ〇ネットタ〇タのせいですね。

このように、物価が下落するにも上昇するにも、きちんとした理由があります。確かにアベノミクスが目標に掲げているのは「生鮮食品を除く消費者物価指数の2%上昇」かもしれませんが、仮にこれが達成できなかったとしても、物価が下落して尚手取りが増えるのであれば、これほど喜ばしいことはないのではないでしょうか?

「アベノミクス」が本当に目指しているのは「自立した経済成長」です。「これがアベノミクスである」と訴えられている内容は、そのアベノミクスが目指す社会の一側面を示しているにすぎません。

その結果、アベノミクス目的として示していないところで経済成長の要素が見えたとして、何か問題があるのでしょうか?

・・・と、本来はこういう批判をしたいわけですよ。

なのになぜか今は「物価が上昇して生活が苦しくなっていることがわかったぞ!!どうしてくれるんだ!!」という主張のオンパレード。

いやいや、確かに原油価格の上昇が経済に悪影響を与えているかもしれないけど、家電製品と携帯電話、その通信料以外はちゃんと成長しているでしょ、と。成長しているから消費者物価指数は上昇するんですよ、と。

「木を見て森を見ず」・・・というか、「森を見て木を見ず」というか。「全体像」をきちんと把握せず、安倍内閣を批判することのできる経済現象が登場したからといって、そこに食らいついて安倍内閣を批判することに終始するのはいい加減やめてほしい。

「賃金が増えているんだから、その増えた賃金を消費に回すにはどのようにすればいいか」ということを全体で話し合える、そんな国会であってほしいと、私は切に願っております。



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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由

今回の記事は、前回の記事で触れました通り、ドイツがロシアに宣戦布告を行うと同時に宣戦布告を行った理由である、「シュリーフェン・プラン」について記事にしたいと思います。


プロイセンはなぜ普墺・普仏戦争に勝利できたのか?

ビスマルクがリーダーを務めていた当時のプロイセンが、プロイセンの「不安要素」を取り除くため、「ドイツ統一」に向けて歩みを進めることとなったのは このシリーズ を読んでいただいている方にはご存知の通り。

どちらの戦争も、プロイセンは実に鮮やかな勝利を収めました。

では、ビスマルク軍は一体なぜ両戦争にあそこまで「圧勝」することができたのか。

これは、ひとえに名参謀、「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)」の存在あってこその勝利だったのですが、では彼の一体何がビスマルク軍に圧勝をもたらしたのか。

これをたった一言で述べるとしたら、「事前準備」。これ以上の表現はないと思います。

特に、普墺戦争当時のプロイセンが相手にしたのは単に「オーストリア」だけでなく、同じ「ドイツ連邦」を構成する、数多のドイツ連邦諸国まで含まれていました。オーストリアとフランスの事前密約まであったことを考えると、これは決して有利な戦争ではなかったと思います。

傍から見れば、「なんて無茶なことを」と思われたのではないでしょうか?

ですが、それでも圧勝できた理由は、普墺、普仏ともに相手側との「兵器力」の差。そして短時間で兵力を確保するための「徴兵制度」の実施。通信網や鉄道の整備など、ビスマルク軍はその「事前準備」を綿密に行ったうえでオーストリアやフランスを挑発し、戦争を仕掛けさせたわけです。

もう一つ、ビスマルクが戦争の「引き際」をわきまえていたこともその理由としてあるわけですが、今回は「モルトケの功績」の方に着目します。

特に特徴的なのは、普墺戦争でビスマルク軍が用いた「ドライゼ銃」。(この辺りは第422回の記事 をご参照ください)

その能力に慄いたフランスは、ドライゼ銃を上回る性能を持つ「シャスポー砲」を開発したのですが、普仏戦争が勃発した時点でビスマルク軍はその性能差を埋めて余りある、「クルップC-64野砲」という大砲を完成させていた、というエピソード。

つまり、普墺戦争で圧勝しておきながら、その時の功績に甘んじることなく、普仏戦争の際にはこれを上回る「戦略」を既に計画していたということです。


「シュリーフェン・プラン」という妄想

さて。私がなぜ本題に入る前に、わざわざビスマルク時代のプロイセンの話を再び持ち出したのか。

普墺・普仏戦争においてプロイセン軍が事前の予測を大きく裏切り、オーストリア・フランスに対して圧勝した理由。それは何よりも「事前準備」を綿密に行っていたからです。

ここまで言えばお分かりですね。ビスマルクが失脚し、当時の軍略家、大モルトケもいないドイツにおいて、ドイツを率いたヴィルヘルム2世が用いた軍略=「シュリーフェン・プラン」とは、まるで普仏戦争においてプロイセンを相手にしたフランスを彷彿とさせる軍略。

「妄想」に近いものでした。

「シュリーフェン・プラン」とは、その名前の通り、ビスマルク後のドイツにおいて、一時参謀総長を務めた「シュリーフェン」という人物が考えた軍略です。

アルフレート・フォン・シュリーフェン


この軍略が練られたのは1905年の事。1890年にビスマルクが失脚し、ビスマルクが意固地なほどに徹底した「フランスの孤立政策」を撤回し、ロシアよりもオーストリアとの同盟関係を重要視したヴィルヘルム2世。

この事でビスマルクが危惧した通り、ロシアはフランスとの間で同盟関係を結ぶにいたりました。既に記事にしています通り、ロシアとフランスの位置はドイツをサンドイッチ状態にする位置。

両国が連携してドイツに挟撃を仕掛ければ、一気にドイツの立場は危うくなります。普仏戦争で買った恨みから、フランスと同盟関係を築くことはできませんので、ビスマルクはロシアと同盟関係を築き、フランスと同盟させないことを何よりも大切にしていたのです。

しかし、現実問題としてビスマルクが危惧していた状況に陥ってしまった以上、ドイツにとって最悪の事態、つまりフランスとロシアが同時に軍事行動を起こし、ドイツに迫ってくる事態に備えないわけにはいきません。

そこで、シュリーフェンがこの事態を想定して考えたのが「シュリーフェン・プラン」です。

以下、Wikiより「シュリーフェン・プラン」について引用しておきます。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。

これは、ロシアの未発達な電信網や鉄道事情などから、ロシアが総動員令を発令してから攻勢に出るまでには6週間かかると予測したからである。

こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、東部戦線と西部戦線左翼を犠牲にして、強力な西部戦線右翼で中立国ベルギーとオランダに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。

作戦の所要時間は1か月半とされた。

これは、かなりロシアの事を舐めた視点で計画されていますよね。ただ、この計画が立てられたのは1905年ですから、この時点では的を射た政策だったのかもしれません。

ですが、この「シュリーフェン・プラン」が実際に用いられた第一次世界大戦が起きたのは1914年7月末の事。同計画が練られてから、実に10年近くも年月が経た後のことです。

改めてこちらの地図を。

1900.jpg

仮に対露仏開戦に至った場合、シュリーフェンの計画によれば、ドイツ軍はフランスとの国境やロシアとの国境は一時的に放置して、対露仏戦争とは全く無関係なオランダ・ベルギーを武力によって制圧し、ベルギー側からフランスに侵攻。国境付近でドイツ軍に向けて進軍するフランスを背後からたたき、壊滅させた上で急いでロシアとの国境に向かい、ロシアを叩く・・・と。

シュリーフェンの計画によれば、ロシアが総動員をかけて進軍を開始してからドイツにまで到達するのに6週間かかると想定されていますので、その間にオランダ・ベルギーを侵攻した上で全力でフランス軍に当たって、4.5週間でフランス軍をせん滅し、その足でロシア国境に向かう・・・ということですね。


小モルトケによるシュリーフェン・プランの改良

で、実際にこの計画の実行にあたったのは1906年に参謀総長となった大モルトケの甥、小モルトケ。

Wikiによれば、小モルトケはこの「シュリーフェン・プラン」の相当な改修を行った、とあるのですが、内容を見てみると、

・フランスが真っ先に狙うであろうアルザス・ロレーヌ地方(普仏戦争でビスマルク軍がフランスより獲得した土地)の防衛をオーストリア軍に任せる予定だった→ドイツ軍部隊を新設し、その舞台に防衛に当たらせる。

・フランスの裏をかくためにオランダとベルギーを侵略する予定だった→オランダは侵略せず、代わりにルクセンブルク(ベルギーとフランスとドイツに囲まれた小さな領土)を侵攻する。

といった程度の内容で、どう考えても「相当な改修」には見えません。

ですが、ヴィルヘルム2世軍はこんな稚拙な計画の下、対ロシア戦を開始するのです。


ドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

では、改めまして、なぜドイツはフランスに宣戦布告を行ったのか。

もうお分かりですね。なぜならば、シュリーフェン・プランで最初に攻めこむ計画になっていたのがロシアではなく、フランスだったから。

シュリーフェン・プランでロシアに戦争を挑む以上、ドイツ軍にとっては=「対仏開戦」を意味していたわけです。なぜならば、シュリーフェン・プランによれば、先にフランスを倒さなければ、ロシアと戦争することができないわけですから。

また、更にその進路として迷惑にも「ベルギー・ルクセンブルク」を通過することになっていましたから、当然ベルギーにも戦争を挑むこととなります。


ヴィルヘルム2世軍の「誤算」

「誤算」ねぇ・・・。

まず第一に、シュリーフェン・プランによれば、ベルギーがドイツ軍による進軍をまるで何もせず、素通りさせてくれるかの様に計画されているのですが、当然そんなことはありません。ベルギー軍だって自国に侵略してくる国があれば当然迎撃します。当然のことです。

ということで、ドイツ軍はベルギーを通過する際、当然のようにしてベルギーの反撃を受けることとなりました。

第二に、対ロ仏開戦に当たって、英国は中立の姿勢を示していたのですが、ドイツに対してたった一つだけ約束をしていました。

「ベルギーにだけは攻め込むなよ」と。

英国がなぜベルギーに攻め込まないようドイツに進言したのかを深く調べることは現時点ではしませんが、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが進軍する以上、ドイツはベルギーに攻め込まないわけにはいきません。

ということで、イギリスに対独開戦を行うための口実を与えてしまい、ドイツは当然のごとくしてイギリスも敵に回してしまいます。

また更に、ロシアだって10年前のままの軍事態勢で居続けるわけがありません。10年もあればロシアの軍事技術も当然進歩します。

シュリーフェン・プランによれば、ロシア軍がドイツ国境にたどり着くまでに6週間かかるとされていましたが、ロシア軍は総動員発令より実に2週間半後にはドイツ国境にまでたどり着き、当然ドイツ軍はそちら側にも軍を配備しないわけにはいかなくなり、対フランス戦がスタートした時点で、既にドイツ軍の優位性は吹き飛んでしまっていました・・・というか、最初っから優位性もへったくれもない気がします。

フランスやロシアを見くびりすぎですし、ベルギーを舐めすぎでしょう。

もしこの時の指導者がビスマルクであり、参謀が大モルトケであったとしたら・・・と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもビスマルクや大モルトケはこんな稚拙な計画で露仏両国に戦争を挑むなどというバカな真似はしませんし、そもそもオーストリアとロシアが戦争状態に陥る前に事態を打開していたのではないかと思われます。

普仏戦争においてフランスはまともな準備すらせずにドイツに宣戦布告し、逆に綿密な準備を行っていたドイツに返り討ちにされたわけですが、今回の独仏戦は真逆ですね。

しかも、「シュリーフェン・プラン」は、おそらくドイツ側から宣戦布告を行うことなど想定していなかったんじゃないでしょうか?

ドイツがロシアの宣戦布告を行うため、ドイツ側の勝手な理屈でフランスは宣戦布告をされ、ベルギーはドイツ側の勝手な理屈で攻め込まれてしまうわけです。

元々はセルビアのバックについたロシアとオーストリアとの争いですから、フランスもイギリスもベルギーも全く戦争には無関係ですから。

それもこれも、ヴィルヘルム2世の「世界政策」という、あまりに幼稚な妄想が呼び込んだ「厄災」です。ドイツ国民にとってもいい迷惑だったでしょうね。更にイギリスと同盟関係にあった日本からも宣戦布告され、せっかく極東に手に入れたはずの山東省という植民地まで失ってしまうことになりました。


イタリアの離反

イタリアは、元々オーストリアとの間で領土問題を抱えていました。

第387回 以降の記事でたびたび話題にしてきた「ウィーン三月革命」。

直前に起きたフランス二月革命は、プロレタリアートたちによるいわゆる「プロレタリアート革命」でしたが、ウィーンで起きた「三月革命」は、そんな二月革命に触発された革命ではありますが、性格はオーストリアでハプスブルグ家の支配下にあった民族がオーストリアからの独立を望んで起こした「民族主義」革命。

独立を望んだ「民族」の中に、「チェコ」「ハンガリー」に加えて「北イタリア」が含まれていたことをご記憶でしょうか?

この問題は、ビスマルクによってドイツが統一された後もくすぶり続けていました。

ですが、露土戦争の事実上の講和条約である「ベルリン条約」を経てフランスがイタリアの対岸にまで迫ってきたことを受け、「ドイツ」「オーストリア」との間で同盟関係築きました。(三国同盟)

イタリアは三国同盟の一員として大戦に参加したはずだったのですが、開戦翌年、4月には三国同盟を裏切り、連合軍へと寝返ります。

イギリスより終戦後、オーストリアとの間でくすぶり続けていた領土問題を回収することを約束されたことがその原因とされています。(ロンドン密約)


「独露」の敗北

一国一国詳細に調べることはしませんが、イタリアが離脱したとの独墺に、オスマン帝国、ブルガリア王国がが加わり、「中央同盟国」を形成。

「中央同盟国」は、シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 にて話題にしましたね?

第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

1917年に勃発した二月革命~十月革命、所謂「ロシア革命」の影響でロシアは共産化し、連合軍を離脱。中央同盟国と同盟関係を築いたウクライナとの戦争を経て、中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。

元々セルビアのバックについたロシアと、オーストリアのバックについたドイツとの間で始まったはずの第一次世界大戦ですが、ロシアは早々と(といっても3年は経過していますが)戦線から離脱してしまいます。

そしてその翌年。ドイツもまた、同じような経緯をたどって第一次世界大戦の宣戦から離脱することとなります。この事を受け、第一次世界大戦は終結することとなるのですが・・・。

では一体どのようにしてドイツは第一次世界大戦から離脱することとなったのでしょう? 実は私、既にこの内容を記事にしていたんですね。私自身が作成した記事でありながら、全く気付いていませんでした。

それが、こちらの記事→第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

そう。私が今シリーズ を作成するきっかけとなった記事です。

ということで、次回記事では、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 に引き続き、再び「ドイツ革命」に焦点を当てて記事を作成したいと思います。

記事内容としてはおそらく ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 で作成した記事を引用する形で進めていくことになるとは思いますが、もう少し「ドイツサイド」に切り込んだ視点で記事を作成できればと考えています。



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<継承する記事>第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由

前回の記事で、第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたことがある、と言いながら、一つしかその理由を掲載せずに記事を終了させていましたね。

後、「ナチェルターニェ」、日本語で「大セルビア主義」というんですが、これもリンク先を読んでいただければよくわかるんですが、リンクを読め、という表現はいささか強引だったかと。

「ナタルニーチェ」とは、セルビアがオスマン帝国に占領され、滅ぼされる以前に存在した「大セルビア」。オスマントルコから独立して復活を果たしたセルビアが、オスマントルコに滅ぼされる前の状況にセルビアを戻そうとするセルビアの政策の事を言います。

滅ぼされる前のセルビアの領土の中に、「ボスニア」が含まれており、オスマントルコから独立したセルビアは、自国同様自治権を有することとなったボスニアを自国領として再び併合したい、と考えていたわけですね。


あともう一点。私は前回の記事で、

『セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね』

と記したのですが、結果的にやはり「ナチェルターニェ」構想がその原因の一つとなっていたことが前回の記事を進めていく中でわかりました。

ナチェルターニェは1844年に製作されたのですが、露土戦争後、正式にオスマントルコから独立することができたセルビアを率いていたセルビア公は親オーストリアであったため、ナチェルターニェ構想は形骸化していたのですが、セルビアでクーデターが起こり、カラジョルジェヴィチ家が政権の座に就いた後、再び「ナチェルターニェ」に基づく政権運営が復活した、ということですね。

オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間に「火種」を生んだのはセルビアで起きたクーデターであり、セルビアがこれまでの「親墺」から「親露」に転向してしまった事。これまで武器の発注をオーストリアに行っていたのに、これをフランスに切り替えるなどしたため、オーストリアとセルビアとの間で所謂「貿易摩擦」が起きました。

対抗してオーストリアがセルビアの畜産品に莫大な関税をかけて事実上の禁輸措置をとるなどしたため、オーストリアとセルビアの関係は急速に悪化していくこととなります。(豚戦争)

そして、そんな中で行われたのがオーストリアにより「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」という強硬策でした。

ロシアと密約まで結んで実行したはずなのに、結果的にオーストリアはボスニアだけでなくロシアも敵に回してしまうことになります。その後勃発した「第二次バルカン戦争」において、セルビアのバックについたロシアと、ブルガリアのバックについたオーストリアはまるで「代理戦争」の様な形で戦果を交えることとなります。(実際に戦争したのはセルビアとブルガリアです)


ドイツはなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?

前回の記事で、『「いくつか」整理できたことがある』とした内容のうちの一つとして、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」が、セルビアが一方的に事件を仕掛けてきた事件であり、オーストリアが切れて引き起こしたのが「第一次世界大戦」だというような、非常にあいまいな認識でいました。

ですが、「バルカン問題」の事を考えると、サラエボ事件が起きる以前から、セルビアとオーストリアの間では既にいつ戦争状態に陥ってもおかしくはない「火種」があったんだということを知ることができました。

また更に、第一次世界大戦ではオーストリアがセルビアに宣戦布告をおっこなった後、ニコライ二世がロシア軍総動員令を発令し、これに対抗する形でドイツが同じく総動員令を発令。更にドイツがベルギーにまで攻め込んだことを受け、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行う・・・といった形で大戦は泥沼化していくことになります。


この流れは非常に概略的な説明になるのですが、例えば前回の記事でも疑問を呈しました通り、この時点でヴィルヘルム2世とニコライ2世は友好的な関係にあり、この2名がなぜお互いに宣戦布告を行うような状況になったのか。疑問が残りますね。

また、セルビアにオーストリアが宣戦布告を行ったことは理解できるとしても、ではなぜヴィルヘルム2世はそう簡単にオーストリアに対する支持を表明したのか。ここも素直にうなずくことはできない部分です。

現時点で一ついえることは、この時点でドイツの指導者は既にビスマルクではない、ということ。皇帝であるヴィルヘルム2世自身なんですね。また更に、普墺・普仏戦争の際、軍参謀総長として辣腕を振るった「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」もまたもういないということ。

参謀総長の座にあったのは、モルトケ(大モルトケ)の甥である「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」、通称小モルトケであったということ。この2点があげられるかと思います。

そう。『第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたこと』のうち2つ目は、第一次世界大戦の時のドイツ指導者であったヴィルヘルム2世は「世界政策」の名の下に、行き当たりばったりで行動する、彼のビスマルクとは比較にならないほどの無能者であったということです。

ただ、本当に「無能だった」といえるのかというと、それは先代の指導者であったビスマルクが有能すぎただけで、他国の指導者たちと比較すると、これがどうだったのかということには疑問が残るところですね。


ヴィルヘルム2世とニコライ2世

ヴィルヘルム2世とニコライ2世

この両者。実はいとこ同士。これは私としても意外でした。

ただ、いとこと言っても、直接の血のつながりはないそうで、血のつながりがあるのはヴィルヘルム2世とニコライ2世の妻。とはいえ、両者が仲がよかった理由の一つとはいえるかな、と思います。

また、サラエボ事件が起きたときの両者の「皇帝」としての立ち位置を考えますと、ヴィルヘルム2世の場合、第453回の記事 でお伝えしました通り、デイリー・テレグラフ事件を受け、イギリスや日本を敵に回し、更に議会では選挙を経てドイツ社会主義労働者党が姿を変えたドイツ社会民主党が議会第一政党へと躍進。

更にツァーベルン事件を経て社会民主党の支持者を中心として帝国全土からバッシングを受け、議会とは大きな亀裂が発生している状態。これが1913年末の段階です。

一方のニコライ2世は日露戦争勃発後に首都サンクトペテルブルクで丸腰の民衆に発砲し多数の死傷者を発生させる「血の日曜日事件」を起こし、「ロシア第一革命」が勃発。

更に日露戦争には敗北し、民衆に対する威信は著しく低下。国内には各地に「ソビエト」と呼ばれる社会主義者たちの「評議会」が結成される状況にありました。

実際、ロシアでは第一次世界大戦開戦より約3年後に当たる1917年2月23日、後の「10月革命」へとつながる「二月革命」が勃発しており、ロシア国内には「反乱分子」といえる社会主義勢力が虎視眈々と改革の機運を狙っている状況にあったのだと思います。

つまり、「ロシア」も「ドイツ」も、実は国内情勢としては非常に似通った状況にあったということ。ひょっとすると、「戦争」を起こし、これに勝利することで、国内に対する皇帝の「威信」を取り戻したいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。


オーストリアの事前工作

オーストリアによる「セルビアへの宣戦布告」が行われた時、ロシアは即セルビアへの支持を表明し、「ロシア軍総動員令」を発令しました。

これに対し、ドイツもまた同様に「総動員令」を発令したわけですが、実はドイツはそう条件反射的に総動員令を発令したわけではありません。

ロシアが総動員令を発令した時、ヴィルヘルム2世はまず、ニコライ2世に対して「総動員令の取り下げ」を行うよう要請しています。ロシアが総動員令を発令したのが1914年7月30日の事。ドイツが取り下げの要請を行ったのは同日の事であり、ドイツは翌31日まで回答を待っています。

ですが、ロシアがこれを断ってきたためにドイツはロシアに対して動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を条件とする最後通牒を発し、翌8月1日、ロシアがこれを断ってきたためドイツはロシアに対し「宣戦布告」を行っています。

では、ドイツは一体なぜこれほど即座にオーストリアを支持するため、ロシアへの「要請」を行ったのでしょうか?


オーストリアは、サラエボ事件を口実にセルビア人をサラエボから駆逐しようとしていた

今更感満載ですが。

私、どちらかというとオーストリアが切れるのも最もだよな、というような考え方をしていたわけですが、しかし実際はオーストリアもセルビアに対して「反セルビア感情」を抱いていたわけで、自国の皇太子夫妻が暗殺されたことは、オーストリアにとってこれ以上ない対セルビア開戦を行うための「口実」だったんだな、という印象を今は持っています。

ですから、オーストリアは、セルビアに対して宣戦布告を行う前に、サラエボにおいて「反セルビア暴動」を煽動しています。

Wikiから引用しますと、以下の通りです。
サラエボではボスニア系セルビア人2人がボスニア系クロアチア人とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。

セルビア人に対する暴力はサラエボ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「Schutzkorps」も設立され、セルビア人を迫害した

つまり、オーストリア当局は反セルビア暴動をあおっておいて、これに反発して暴動を起こしたセルビア人たちを逮捕、投獄、処刑し、セルビア人に対する迫害まで行っていた、ということですね。

オーストリアがもし皇太子夫妻殺害に対する報復として宣戦布告を行うのなら、このようなことを行わず、即座に宣戦布告を行うのではないか、と私は思うのです。

オーストリアは、それよりもバルカン半島におけるセルビアの脅威を取り除くことを意図しており、もし仮に自国がセルビアに宣戦布告を行ったとすれば、当然にしてセットでついてくる「ロシア」の脅威を事前に取り除いておく必要がある、と考えました。

仮にロシアが参戦したとしても、これに対抗するだけの軍力が必要だと考えたわけですね。

ですので、サラエボで暴動が起きている間に、オーストリアは事前にドイツと交渉を行い、「ロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助する」約束を取り付けていました。

ドイツ、ヴィルヘルム2世がロシアに対し、即座に「ロシアへの要請」を行った理由はここにあります。


ドイツはなぜオーストリアを支持したのか

となると、疑問はここにたどり着きます。

事前交渉でドイツはオーストリアを支持することを表明していたわけですが、オーストリアを支持してセルビアと対立するということは、これはイコールロシアとの対立を意味することは分かっていたはずです。

ヴィルヘルム2世がニコライ2世に行ったような交渉をしたところで、引き下がるようなロシアではないことも。

また更にドイツはロシアに宣戦布告すると同時にフランスに対しても宣戦布告を行っています。これは、、「シュリーフェン・プラン」と呼ばれる、露仏攻略ための古い「戦略」を実行するため。ドイツの計画では「ロシア」に宣戦布告をするということは、同時に対フランス開戦も意味していました。

このあたりは次回記事でまとめたいと思います。

この後更にイギリスまでもがドイツに宣戦布告を行っており、どう考えてもドイツにとっては不利でしかありません。

これをドイツ、ヴィルヘルム2世はオーストリアを支持した段階で予見できたはずです。

結局、これをもたらしたのも、ヴィルヘルム2世がビスマルクの「フランス孤立化政策」から「世界政策」へと大きく舵を切りなおしたことが原因です。

この事は、かえってドイツの孤立化をもたらし、オーストリアから対セルビア開戦に向けた相談が行われた段階で、既にドイツにはオーストリアしか同盟国が存在しませんでした。

実際には「三国同盟」が結ばれていて、ドイツはイタリアとも同盟関係にあったのですが、イタリアは第一次世界大戦中に英仏露の「三国協商」側に寝返って対独参戦しています。

この状態で、もしオーストリアがセルビアに敗れるようなことがあれば、西をフランス、東をロシアに抑えられたドイツの南側に、バックにロシアがついた「セルビア」という脅威が迫ることとなります。

加えて戦争状態に突入することで、ビスマルクがそうしたように、ドイツ国内の「ナショナリズム」を煽動して、自身に反発する社会主義者たちをも巻き込むことを想定したのかもしれません。普仏戦争の時はあのマルクスでさえ「ナショナリズム」に昂揚したわけですから。

どちらにせよ、ヴィルヘルム2世の中に、「焦り」があったことは事実だと思います。


さて。次回記事では、ドイツがどのようにして第一次世界大戦に臨んでいくのか、本日少しだけ話題にした「シュリーフェン・プラン」を中心に記事を進めてみたいと思います。



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<継承する記事>第453回 諸悪の根源? ヴィルヘルム2世がもたらす災厄

前回 までの記事を通じまして、特に「ロシア」と「ドイツ」 の2方面から、第一次世界大戦というものを見ることができたかな、と思います。

とはいえ、当シリーズ における「第一次世界大戦」については、これから記事にする予定なので、少し矛盾する言い回しにはなりますが。

二つの視点から見てきたことで、私の中でいくつか整理できてきたことがあります。


第一次世界大戦とバルカン問題

一つは、「第一次世界大戦の勃発」が、結局「バルカン問題」の延長線上にあったんだな、ということ。

勃発した単調直入な理由は>前回の記事 でも掲載しました通り、ボスニア出身のボスニア系セルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が原因で、1914年6月28日の事。

第303回の記事 におきまして、その背景として、まず暗殺犯であるガヴリロ・プリンツィプに武器を支給したのがセルビア政府であること。

そしてこれを理由にオーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったことを記事にしました。

また更に、その遠因として、オスマントルコの支配下にあったセルビアが、最終的に「セルビア王国」として独立した様子を記事にしました。引用します。

セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。

この引用部分に関しましては、ドイツシリーズにおいて私が掲載しました、

第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

 及び、

第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

両記事を読んでいただいた方には、すっとご理解いただける内容かと思います。

両方の記事を繋げますと、バルカン半島で、1459年6月、「イスラム教国であるオスマントルコ」に支配されていた「キリスト教国であるスラブ人国家セルビア」は、1817年、にオスマントルコ領セルビア公国として復活し、1882年、「セルビア王国」として独立したということ。

ただ、「セルビア」についての説明は、第303回の記事 では少し誤りがあります。

セルビアが、元々セルビア王国領であったボスニアを、オーストリアが併合してしまったために、オーストリアに対する敵愾心を抱くようになったかのように記していると思うのですが、447回の記事 でも訂正していますように、ベルリン条約でオーストリアによるボスニアの自治権が認められた後、セルビアはオーストリアに歩み寄っていて、オーストリアの承認を受けてセルビア公国からセルビア王国へとランクアップしていたりしますので、この記述は正確ではないと、現時点では考えています。

つまり、セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね。


オーストリアとセルビアの対立の理由

オーストリア・ハンガリー帝国

セルビア王国

ということで、オーストリアとセルビアが対立した理由を探ってみたのですが、一番大きいのは、1903年6月11日にセルビアで起きたクーデターにあるようです。

このクーデターで、ベルリン条約後、オーストリアから承認されて王国へと昇格させたセルビアの王家、オブレノヴィッチ家、最後の国王であるアレクサンダル・オブレノヴィッチ5世が陸軍士官らによって暗殺されてしまいます。

セルビアそのものの情報をそこまで深めるつもりはないのですが、さわりだけお伝えしておきますと、この事でセルビアは専制君主制から立憲君主制に移行。新国王は親露政策をとり、更にオーストリアとの間の同盟関係を解消し、英仏、ブルガリアと経済同盟を形成したのだそうです。


「豚戦争」の勃発


この事でセルビアとオーストリアでは、その関係が急速に悪化することとなります。いきさつを、Wikiからそのままコピペしてみます。

1906年、セルビアが兵器の購入先を二重帝国のベーメンの兵器工場からフランスに切り替えると、二重帝国は対抗措置としてセルビアの主要輸出品である畜産品(豚またはその製品)など農産物への禁止関税を施行した。

これに対しセルビアは二重帝国からの輸入を拒否する報復措置をとり、「豚戦争」が始まった。

豚戦争は1910年まで続いたが、その間セルビアは、二重帝国以外のヨーロッパ諸国に市場を求めてオスマン帝国のサロニカ(現在のギリシア・テッサロニキ)の港経由で交易を行い、オスマン帝国のほかエジプト・ロシアに家畜の輸出先を拡げ、さらに皮肉なことに、オーストリア=ハンガリーの有力な同盟国であるドイツに市場を確保することによって二重帝国からの経済的自立を達成した。

つまり、このセルビアによる大きな政策転換が、セルビア・オーストリアの対立を生むきっかけとなり、将来起こる「第一次世界大戦」の遠因となっていたんですね。

余談ですが、セルビア王家の特徴は、オブレノヴィッチ家も、クーデター後に君主となったカラジョルジェヴィッチ家も、ともにセルビア本国の出身者でした。支配民族と被支配民族が同じ、という日本と同じ構造の国だったんですね。


オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合

オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するのは1908年10月6日の事。

この時、カラジョルジェヴィチ家への王位移行を経て、オーストリアとの関係が急速に悪化していたセルビアでは、再び「大セルビア主義」、つまり、「ナチェルターニェ」に基づいた国家戦略が復活していたんですね。

この時点で、セルビアは再び「ボスニア・ヘルツェゴビナ」への進出を志すようになっていましたから、このタイミングでのオーストリアの「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」、オーストリア・セルビア関係に対して、まさに火に油を注ぐような行為であったことは想像に難くありません。

また、この時オーストリアの外相に任じられていた「アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール」は、セルビアがどうという前に、ロシアとの協調関係を維持しながらもバルカン半島に対する影響力を拡大するための外交を推し進めており、その「総仕上げ」でもあったのがボスニア・ヘルツェゴビナの自国への併合でした。

同年(1908年)7月にオスマントルコでは「青年トルコ革命」が勃発し、にわかにバルカン半島情勢が混乱し始めることになります。

これは、エーレンタールにとっても一つの「チャンス」でもありました。逆に革命の影響がバルカン半島を刺激するようになれば、自国が占領しているボスニア・ヘルツェゴビナもまた、不安定化する恐れがありましたから、エーレンタールはすぐさま決断し、ロシア外相とも協議し、両地域の併合をロシアが黙認する「密約」を取り付けます。

これを受け、10月5日、一気の両地域の併合宣言を行いましたが、案の定セルビア(とモンテネグロ)が猛反発し、オーストリアとの間で一生即発の事態を迎えます。更に開戦に乗り気だったのはむしろオーストリアの方で、オーストリアはセルビアとモンテネグロを分割することで、バルカン半島に対する懸念材料を一気に払拭する気満々でした。

ところが、ロシア国民の間でセルビアに対する同情論が高まり、また英仏の反対で密約を結んだロシア側の「権益」がご破算になったこともあり、ロシア政府は国民の圧力に押されてオーストリアに強硬な態度をとることとなり、今度はロシアとの間にまで開戦の危機が生まれてしまいます。

これを受け、オーストリア皇帝は対セルビア開戦を断念。ロシアにはドイツが圧力をかけ、開戦の危機は回避されることとなりました。


この段階で、出来上がってしまっていますね。「オーストリア対セルビア」の対立の構図が。そしてセルビアのバックにはロシアが付き、オーストリアのバックには「ヴィルヘルム2世率いる」ドイツが付くという構図まで。

そもそもの原因を作ったのは、クーデター後に誕生したセルビアの新国王ペータル1世政権。同政権の政策転換さえなければ、ひょっとすると墺露にセルビアを加えた状態でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の話も出来ていたのかもしれません。

第一次世界大戦の当事者であるヴィルヘルム2世とニコライ2世は元々中がよかったはずなので、これがなければ両国が戦争状態に陥ることもなかったのかもしれません。

この後、1912年5月には独立を目指して反乱を起こしたアルバニア人を支援する「バルカン同盟」とトルコとの間で「第一次バルカン戦争」が勃発。

バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャ)の結成はロシアが支援したものです。(参考記事:第307回

バルカン戦争では結局バルカン同盟側が勝利するわけですが、今度はバルカン同盟の同盟国間で争いが勃発(第二次バルカン戦争)。

詳細はリンク記事を参考にしていただきたいのですが、構造は「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」V.S.「ブルガリア」。

ロシアは元々「汎スラブ主義」で盛り上がる国民の声に押されてスラブ人国家を支援していた国ですから、当然「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」を支援。一方でセルビアと対立構造にあるオーストリアはブルガリアを支援します。

ブルガリアに対してはルーマニア、オスマントルコも宣戦布告を行いましたから、ブルガリアを支援したのは唯一オーストリアのみであったことがわかります。

セルビアのオーストリアに対する怨念は、第一次・第二次バルカン戦争でも深められることになりました。詳細は308回記事 をご参照ください。

そんな中で勃発したのが、セルビア政府から武器を渡された 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』が「サラエボ」でオーストリア皇太子を暗殺した「サラエボ事件」。

次回記事では、本題である「第一次世界対戦」そのものへと記事を進めてみたいと思います。

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