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<継承する記事>第452回 ヴィルヘルム2世の政策~場当たり的な政策が醸し出す未来~

しかし、ヴィルヘルム2世・・・いけてないですね、やっぱり。

前回の記事 で彼の政策を一部記事にしてみたんですが、どうにも気が乗りません。感情移入できないんです。

タイトルにもしたように、一つ一つの政策が場当たり的ですし、先見性のかけらも見受けられません。そして、彼の周りにも彼の政策をきちんとサポートできているような人物が見当たらないんですね。

それを象徴しているのは、彼の政策の象徴ともいえる「世界政策」でしょうか。

例えば、私が高校時代、教科書で習った言葉に「3B政策」という言葉があります。ですが、この言葉を覚える意味が一体どこにあるのか、私には理解できません。

1898年、彼がオスマン帝国を訪問した際、彼はオスマン帝国に対し、「ドイツは全世界3億のイスラム教徒の友である」という演説を行っています。

ですが、これまでの歴史を踏まえ、普通に考えればわかると思うんです。ドイツがオスマン帝国に対して、友好の言葉を述べるということは、即ちドイツとオスマントルコとの間にあるエリア。「バルカン問題」を頭に入れていれば、このバルカン問題において、「ドイツはスラブ民族ではなく、オスマン帝国を支持しますよ」といっているようなもの。ロシアに喧嘩を売っているようなものです。

また更に、スラブ民族のほとんどはキリスト教徒なんですから、当然イギリスやフランスも敵に回すようなものです。

この後、彼はドイツ(プロイセン)の首都、ベルリン、

ベルリン

トルコとバルカン半島の接点であるヴィザンティウム(現在のイスタンブール)、

ビザンティウム

現在のイラクの首都バグダッド。
バグダッド

この3つの地点を鉄道で結ぶ、「バグダッド鉄道」の建設が政策として計画されました。これが、のちに「3B政策」と呼ばれるようになります。これが英仏露の大反発にあい、第一次世界大戦に敗退したことで、頓挫することになります。

まあ、要は3つの大国との間に反発を生んだだけで、ドイツには全く利益をもたらさなかった政策です。これらの国々との対立を極力起こさないように政策を進めたビスマルクの政策とは全く対立する政策ですね。


デイリー・テレグラフ事件

前回の記事で話題にした「黄禍論」もそうですが、ヴィルヘルム2世は、日本に対しても挑発し、反発をあおるような発言をたびたび行っていたようです。

彼が行った政策の一つに、「艦隊法」という法律の制定があります。

この法律は、ドイツ軍に新しく海軍を設立するもので、1898年、「自衛のため」の艦隊建設を目的とした法律が、更に1900年に成立した「第二次艦隊法」は「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を意図したものであったのだとか。

これに対し、ヴィルヘルム2世は言い訳として、

「ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国々に対するものである」

との発言を行っています。Wikiの開設によれば、「特に日本を挑発するような発言」として掲載されています。

この言葉は、「デイリー・テレグラフ事件」といって、ヴィルヘルム2世と対談したイギリス陸軍大佐、ワートリーという人物が、その対談の内容を、「恣意的に要約」して「デイリー・テレグラフ」という新聞社に送り付けたものが発端となってはいるのですが、掲載されたのは1908年10月28日の事。

ですので、「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を目的としたとされる「第二次艦隊法」成立後の話です。日本にとってみれば、三国干渉に引き続き、ということになるでしょうか。

ビスマルクとの面会により、日本人では「ビスマルクのいる」ドイツが大好きな人が増えていたのですが、ヴィルヘルム2世の数々の挑発的な言動を受け、日本では「反独」感情が供促に高まることになります。

「デイリー・テレグラフ紙」ではこれ以外にも、イギリス人を挑発するような発言や、イギリス人たちを見下しているともとられかねないような発言も掲載されており、これはイギリス人だけでなく、ドイツ人からも怒りを買うことになります。

ビスマルクの時代には、皇帝はどちらかというとお飾り的な存在であり、その主導権は完全に首相である「ビスマルク」が握っていました。

ヴィルヘルム2世はこれを快く思っていなかったんですね。ですからビスマルクを事実上罷免してまで自分自身が主導して政治を運用しようとし、宰相はみな、ヴィルヘルム2世の考えを実現するにはどのようにすればよいか、としか考えられない連中がその座に収まる結果となってしまったのです。

「デイリー・テレグラフ事件」を受け、カプリヴィ、ホーエンローエの後を次いで首相となったビューローは首相の座を辞職(1909年7月14日)。議会からも皇帝のあまりにも軽率すぎる振る舞いを批判する声が非常に大きくなりました。

ビューローが辞職する直接の原因となったのは艦隊法による軍艦建設により財政赤字が深刻化したことが原因なのですが、デイリー・テレグラフ事件の結果、皇帝の権力よりも議会の権力の方が強くなり、ヴィルヘルム2世の権力は事実上、大幅に縮小されることとなりました。

後継者として「テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク」が宰相となるのですが、彼が宰相となって初の帝国議会選挙(1912年1月)によって、ついに「ドイツ社会民主党」が議会第一政党へと躍進することとなりました。

「ドイツ社会民主党」。そう。第439回 までの記事でテーマとしたドイツの社会主義政党。「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が合併して出来上がった、「ドイツ社会主義労働者党」を前身とする政党です。

ドイツ社会主義労働者党は、ビスマルクが失脚し、「社会主義者鎮圧法」が失効した事を受け、「ドイツ社会民主党」と党名を変更しました。

すごいですね。ヴィルヘルム2世のあまりにも稚拙すぎる政策のおかげで、ビスマルクが恐れていた「未来」が、国外だけでなく帝国内でも見事に現実のものとなっていくのです。


孤立化するドイツ

海外では1902年に日本とイギリスとの間で日英同盟が。1904年日露戦争を経て1907年日露の間で日露協約が、フランスとの間で日仏協約、イギリスとロシアとの間で「英露協約」、1908年には日米間で「日米協商」と、次々に友好関係が築かれていきます。

逆にドイツと友好関係にあるのは清とオスマントルコのみ。ドイツは孤立化を強いられることとなっていました。

ビスマルク体制とは、真逆ですね。多分、ビスマルクであればこの時点で日本とは友好関係を築いていたでしょうし、日本と協力してロシアの満州進出を阻止しながら、ひょっとすると目的を同じくするイギリスとも同盟関係を築いていたかもしれません。

一方でロシアと敵対関係を作るつもりもないでしょうから、「独露再保障条約」の更新を行って友好関係を築き、同時にオーストリアとの同盟関係を継続しながら、バルカン問題にも取り組んでいくような形になっていたのかもしれません。希望的観測すぎるでしょうか。

とはいえ、ビスマルクは1898年7月30日、老衰に近い形で息を引き取っていますから、遅かれ早かれ同じような状況は生まれていたのかもしれません。「ヴィルヘルム2世」という人物が皇帝になるという事実だけは避けることができなかったでしょうから。


ツァーベルン事件

ドイツ社会民主党が議会第一党として躍進したその翌年(1913年)末、「ツァーベルン」という町で、地元住民とプロイセン軍との間に、一触即発の事態が勃発します。

この町は、普仏戦争によってドイツがフランスより獲得した「アルザス地方」にある町。

ややこしいんですが、アルザス人はもともと「ドイツ民族」。ドイツ語の一種である「アルザス語」を話す民族で、ドイツの前進の一つである「神聖ローマ帝国」の一部でした。

その後、フランスの領土となっていたのですが、普仏戦争によって再びドイツに統合された地域です。

ここに住んでいた「エルザス人(アルゼス人)」は、フランスに支配されている間にドイツ人との間に価値観の「ズレ」が生じており、ドイツ人の中にも、このエルザス人に対する「差別意識」のようなものがあったのだそうです。

そして、この地域に配属されたプロセイン将校がツァーベルンの住民に対して行った「侮辱的発言」が原因で、エルザス人の中から抗議の声が上がります。同発言が新聞報道されたんですね。

報道後、兵舎の周りに集まった群衆が逮捕される、侮辱した張本人であるフォルストナーが、今度は自分自身が侮辱されたことに逆切れして市民を怪我をさせ、拘留される、などの小競り合いが発生。

ツァーベルン議会からは皇帝や宰相に対して、市民が逮捕されたことを講義する電報が送られるなどし、社会民主党の支持者を中心に兵士に対する抗議活動が、帝国全土へと広がります。

その後、フォルストナーによる侮辱行為が音声記録として登場したことにより、フォルストナーは侮辱罪で告訴され、事態は終息へと向かいます。


この事を受け、宰相であるベートマンに対して不信任案が提出され、保守党以外全ての政党によって決議されるのですが、憲法によって宰相の任免権が皇帝にあることが決められており、ヴィルヘルム2世はベートマンの続投を表明。事件に関係した軍人たちが処罰されることもありませんでした。

結果として、ヴィルヘルム2世と議会との間には大きな亀裂が生じることになるんですね。


さて。いよいよ「第一次世界大戦」へと時計の針が近づいてまいりました。

第一次世界大戦の直接の原因となったセルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件が勃発するのは1914年6月28日。

第303回の記事 におきまして、「ロシア側の視点」から「第一次世界大戦」勃発を記事にしました。

次回記事では、「バルカン問題」も絡めながら、今度は「ドイツ側の視点」から第一次世界大戦について記事にすることができればと思っています。

いよいよ、シリーズ、 ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 とリンクしてきましたね。

少しだけ、楽しみになってきました。



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<継承する記事>第451回 近代日本の礎を築いたビスマルク〜岩倉使節団との邂逅〜

ここからまた難しくなりますね。

ヴィルヘルム2世が行ったことを理解するためには、まずヴィルヘルム2世という人物の人となりを理解する必要があると思うのですが、ざっくりとヴィルヘルム2世がやったことしかまだ私の知識の中にはないので、現時点では困難さを覚えています。

単に彼が執り行ったことをここに列挙し、「この政策がこんな結果を招いた」と批判するだけであれば簡単なのですが、ヴィルヘルム2世はヴィルヘルム2世なりに、各政策を行った理由というのが存在するはずなんです。

現時点で情報としてあるのは、ヴィルヘルム2世は自身の祖父であるヴィルヘルム1世がビスマルクの陰に隠れて、ヴィルヘルム1世の政策ではなく、ビスマルクの政策がプロイセンだけでなくやがて誕生する「ドイツ帝国」まで含めてその方向性を決めていたことに子供ながら疑問を覚えていたということ。


社会主義者鎮圧法の廃止と労働者保護勅令

ビスマルクの考え方も理解していたし、祖父ヴィルヘルム1世を尊敬こそしていたものの、どことなく「なんでおじいちゃんが皇帝なのに、配下であるビスマルクの言うことに従っているんだろう」といった疑問を彼は持ちつ続けていたんじゃないかと思うのです。

そんな彼が皇帝としてまず実現しようとしていたのは「労働者保護勅令」を成立させること。

けれどもビスマルクは、「いや、それをやるんだったら先に社会主義者鎮圧法を無期限で延長させなきゃ」という主張を行っていたわけです。

だからこそビスマルクはヴィルヘルム2世との謁見の中で感じた手ごたえを根拠に「社会主義者鎮圧法の無期限延期」とともに『「労働者保護勅令」が反映された「労働者保護法案」』を提出する方針を示したのです。

ビスマルクは別にヴィルヘルム2世が主張する「労働者保護勅令」を軽んじていたわけでもなんでもなかったのではないか、と私は思うのです。

ですが、この一点で両者は対立し、ビスマルクは首相を辞職し、表舞台から去ってしまうことになります。

誤解なき様に記しておきますと、「社会主義者鎮圧法」においてビスマルクとヴィルヘルム2世が対立していたのは、同条文から「社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項」を削除するかどうかということについてであり同法案を無期限に延長するのかどうかということではありません。

結果的にヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を認めず、同法案は廃止されることとなりました。これが、第449回の記事 で記した内容です。


ヴィルヘルム2世とレオ・フォン・カプリヴィ

ビスマルク失脚後のドイツでは、「レオ・フォン・カプリヴィ」という人物が首相となり、ヴィルヘルム2世の政策を支えることとなります。

Wikiを中心に見ているのですが、現在私の頭の中にはいくつかの疑問が沸き起こっています。

カプリヴィの政策として、どうもビスマルクの政策と対立する政策がとられたかのような記述が目立つのですが、私は決してそうではないような気がするのです。

ヴィルヘルム2世の下、彼が実行した政策の一つとして、「労働者保護政策」が挙げられています。これはヴィルヘルム2世が実行していようとしていた政策と同じもので、

・産業裁判所を設立(労使紛争の調停)

・13歳未満の子供の雇用の禁止

・13歳から18歳の労働時間を1日10時間以内に定める

・日曜日の労働禁止

・最低賃金制度の導入

・女性の労働時間を1日11時間以内とする

といった内容です。ですが、既に私は述べていますように、ビスマルクは「これをやるんだったら「社会主義者鎮圧法の無期限延長を先に行うべきだ」主張していたのであって、この内容そのものに反対していたわけではないと思うのです。

何よりビスマルクは

・「労災保険制度」
・「疾病保険法」
・「障害・老齢保険法案」

という3つの法制度を実現した人物であり、実際にビスマルクも同じ「労働者保護法案」を提出する方針を示しています。

ですから、これを以てカプリヴィがビスマルクの方針を転換したかのように記すのはミスリードなのではないかと私は思います。


また、

「ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した」

とも掲載されているのですが、ビスマルクが徹底的に教育と教会を分離しようとしていたのは「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が統合して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生し、議会でもその議席数を増やしたことを受け、社会主義者対策の必要性を実感させられるまでのこと。

それ以降はカトリック政党である中央党とも和解することを目指すようになっています。

ですので、ここもまた、ビスマルクと方針を大きく転換したように掲載されており、「ミスリード」であるのではないかと思います。

ただ、これは結果的に議会の自由主義者たちから痛烈な批判の的とされ、またヴィルヘルム2世からも強硬に反対され、カプリヴィは議会から大きく信頼を失ってしまうこととなります。


ヴィルヘルム2世の外交政策

時系列順なので、あくまでこれはビスマルクが失脚した直後に当たる時期の外交政策です。

第450回の記事 で、ヴィルヘルム2世が「世界政策」と呼ばれる外交政策を推進したことを記事にしました。

彼が行った外交政策の中で、最初に目にするのは「独露再保障条約」の更新を行わなかった、という記述です。

独露再保障条約とは、第447回の記事 でも掲載しましたが、1881年に成立した「三帝協定」がバルカン半島をめぐる墺露の対立で三帝同盟に引き続き崩壊した後、ロシアとフランスを接近させないためにビスマルクがロシアとの間で締結したもの。

1887年6月18日のことです。期限が3年とされ、1890年に更新時期を迎えたのですが、ヴィルヘルム2世はこれを更新しませんでした。

ビスマルクは、フランスとロシアを接近させないために同条約を締結したのですが、ヴィルヘルム2世はこれを理解しておらず、条約の更新を拒否します。(ロシアは更新を望んでいました)

その理由としてWikiベースではヴィルヘルム2世がロシアよりもロシアと対立関係にあるオーストリアやイギリスとの関係を重視したからだ、とあるのですが、これを具体的に裏付ける資料は今のところ見つけていません。

ですので、現時点では「ヴィルヘルム2世が独露再保障条約の更新を拒否した」という事実だけご認識いただければと思います。

そしてその結果、ビスマルクが恐れていたようにロシアはフランスと接近し、「露仏同盟」を締結することとなります。

改めてこちらの地図をば。

1900.jpg

ロシアはともかく、フランスはドイツに対して恨みを抱いている国です。そしてそのフランスとロシアが同盟関係となり、完全にドイツは両国に挟まれていますね。

ただ、フランスがドイツと敵対することは理解できるんですが、ロシアがそこまでフランスに執心した理由がいまいちはっきりとしません。

推測するとすれば、ドイツがオーストリアとの結びつきが強いことはビスマルク時代から継続していることですし、ロシアはバルカン問題をめぐって、そんなオーストリアと対立関係にあります。

一方でフランスはドイツと対立関係にありますから、そんなフランスとロシアとの利害関係が一致したということでしょうか。

そんな中ドイツはその主役がビスマルクからヴィルヘルム2世に移行しており、ロシアとの結びつきの裏付けとなっていた再保障条約の更新を拒否されたわけですから、ある意味当然の結果であったといえるのかもしれないですね。

つまり、ロシアはフランスを助けるためにドイツと対立関係に陥り始めていたということでしょうか。

しかし、そんなロシアとフランスがドイツと組んで日本に「三国干渉」を行うわけです。意味が分かりませんね。ちなみにこの時ロシアはフランスやドイツだけでなく、イギリスにも声をかけています。乗ってきたのはフランスとドイツだけだったということですね。


ちなみに、日本とドイツに対立構造が生まれるキーパーソンとなっているのが、マックス・フォン・ブラントという人物。

彼の略歴を掲載しますと、
伯爵の率いるプロイセン王国東アジア使節団に武官として随行。

1861年(文久元年)1月24日の日普修好通商条約調印に立ち会う。

1862年(文久2年)12月、プロイセン王国の初代駐日領事として横浜に着任、北ドイツ連邦総領事

1868年(明治元年)駐日プロイセン王国代理公使

1872年(明治5年)、駐日ドイツ帝国全権公使

1875年(明治8年)、清国大使となり、離日

とあります。日本とも非常に縁の深い人物です。

彼は、プロイセンが「北ドイツ連邦」になった当時、ビスマルクに対し、北海道をドイツの植民地とすることを提案した人物でもあります。しかし、ビスマルクはドイツ統一に必死で、当然のようにしてブラントの提言を突っぱねています。

この事は、実は日本が欧州の事を意識し、近代化する必要性を意識するきっかけともなった事件であったようです。

そして、そんなマックス・フォン・ブラント。彼はヴィルヘルム2世に対して、「黄禍論」という考え方を吹き込みます。

ブラントがヴィルヘルム2世に吹き込んだ考え方ですので、ヴィルヘルム2世に関する記述を引用しますと、ブラントがどのようにヴィルヘルム2世にこの「黄禍論」を吹き込んだのかということが推察できますね。

【ヴィルヘルム2世の主張する『黄禍論』】
かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように、黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題でああり、この「黄禍」に対して、ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきである。

特にロシアは地理的に「黄禍」を阻止する前衛の役割を果すべきであるから、ドイツはそのためにロシアを支援して黄色人種を抑圧する

多分これ、一種の「陰謀論」のようなものだと思うんですよね。
黄禍

Wikiから拝借した画像ですが、説明書きとして以下のような文章が記されています。

右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニア(イギリス)、ゲルマニア(ドイツ)、マリアンヌ(フランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教の大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。

中二病か、と。

ヴィルヘルム2世が歴史画家ヘルマン・クナックフースという人物に命じて描かせた「寓意画」なのだそうです。

タイトルは、「ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ」。

ビスマルクなら絶対にしない発想ですね。ちなみに、ビスマルクはユダヤ人に対しても非常に寛容で、能力のある人物は重用していたのだそうです。偏見を持たない人物だったんですね。

一方のヴィルヘルム2世は・・・。簡単にマックス・フォン・ブラントの口車に乗せられ、こんな中二病的な発想の下、三国干渉を行い、山東省への植民地化政策を行っていくのです。


少し暴走しました。

ヴィルヘルム2世は、イギリスとの間では「ヘルゴランド=ザンジバル条約」を締結し、自国領の一部と引き換えにアフリカの南方のある「ザンジバル」という領土を獲得します。

この事をきっかけとして、ビスマルク時代よりドイツがオーストリア、イタリアとの間で締結していた「三国同盟」にイギリスを引き入れようとするのですが、イギリスはこれを拒否。しかしこれ以降ヴィルヘルム2世は「親英反露」政策をとるのだとか。

にもかかわらず、「1894年11月にロシア皇帝に即位したニコライ2世とは親しくしていた」とか、意味が分かりません。

この後、ヴィルヘルム2世はそれこそビスマルク時代とは大きく方針を転換し、「植民地政策」を推進し、その一環として山東省も事実上植民地化することになります。このヴィルヘルム2世の政策を「世界政策」と呼びます。

ビスマルクは、イギリスやフランスの植民地政策を促進させることで、両国の視線がドイツに向かわないように努力していたのですが、ヴィルヘルム2世は逆位両国に肩を並べようとして植民地政策に邁進することで、やがて両国を敵に回すことになるんですね。

ビスマルク政策以降、ドイツに住民が増えていたため、ドイツ住民を植民地に移住させたい、という思いもあったようです。


ビスマルクを退陣させてまで実行した「労働者保護法」ですが、ヴィルヘルム2世が期待したほど労働者からの支持が伸びず、以降逆にヴィルヘルム2世は労働者を弾圧する方向へ方針転換します。

一方でプロイセンの宰相となったボート・ツー・オイレンブルクという人物と組んで「転覆防止法」という、「政府への政治的反対行為の処罰を強化する法律」を提起するのですが、これはドイツ宰相であったカプリヴィが反対し、ヴィルヘルム2世は両者を宰相職から罷免します。1894年10月26日のことです。

なんだか滅茶苦茶ですね。じゃあ一体何のためにビスマルクが主張した社会主義者鎮圧法無期限延長を拒否したのか。

やってることが悉く場当たり的であるように感じます。

カプリヴィに続いてドイツ首相となったクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストの下、「転覆防止法案」が議会に提出されるのですが、否決。

以降、たびたび同種の弾圧法案が議会に提出されるのですが、悉く否決されます。

なんだかこの先が見えてきそうな流れです。ヴィルヘルム2世は、やはり国家を統治する器ではなかったということでしょうか。

グダグダ感漂う今回の記事ですが、長くなってまいりましたので、いったんここで記事を閉じ、次回記事へと続きは委ねることにします。



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<継承する記事>第450回 ヴィルヘルム2世の「世界政策」に巻き込まれた清国と日本

前々回 までの記事で、ヴィルヘルム2世が誕生し、ビスマルクが失脚するまでのドイツを、前回の記事 で日本が第二次世界大戦に巻き込まれていくまでの経過と、その遠因としてヴィルヘルム2世が与えた影響を記事にしました。

今回の記事では、少し外伝的な内容で、少し意外な? 日本とビスマルクとの関わりを記事にしてみたいと思います。

多分、歴史に興味がある日本人であれば、普通幕末辺りから勉強をスタートするのでしょうが、私は少し違っていまして、実は幕末の日本に関しては全くといっていいほど知識がありません。

このブログでは

十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」において
 1 清国が崩壊していく様子 
 2 清国の崩壊と袁世凱
 3 袁世凱亡き後の軍閥政府と孫文
 4 孫文亡き後の蒋介石と北伐
 5 北伐によって中国の歴史へと巻き込まれる日本
 6 満州事件後の中国における日本
 7 日中開戦に至る経緯と日中戦争(支那事変)
 8 援蒋ルートと天津英租界封鎖事件(イギリスとの和解)
 9 北部仏印進駐と日米諒解案
 10 南部仏印進駐と日米開戦に向けた交渉

を、

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 において

 1 ロシア人の正体
 2 ヨーロッパV.S.モンゴル帝国(ポーランドとドイツ騎士団)
 3 ロシア誕生までの経緯→ロシアV.S.ウクライナ
 4 日露戦争とロシア第一革命
 5 第一次世界大戦勃発に至る背景(バルカン戦争)
 6 第一次世界大戦の勃発とロシア二月革命(マルクス主義者の台頭)
 7 レーニンの登場から10月革命の勃発に至る経緯
 8 コミンテルン(第三インターナショナル)の誕生からソビエト連邦誕生に至る経緯
 9 ドイツ革命
 10 トロツキーとスターリンの対立~レーニンの死去

といった内容で、「中国」及び「ソ連」について私なりの「検証」を行ってきました。

そして現在 ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? というタイトルで「ドイツ」についての歴史を検証しています。

そう。中国近代史の中で一部深めてこそいるものの、実は私が検証したのは第一次世界大戦後~第二次世界大戦勃発前までの日本。しかもその舞台は、第一次世界大戦後の一時期を除き、そのほとんどが日本ではなく中国ですから、「日本の近代史」についてはほぼ検証していないに等しいのが現状です。

ですので、今回の記事は日本の近代史に詳しい方からしてみれば、「そんなことも知らないのか」と思わせるほど稚拙なものとなってしまうかもしれませんが、どうぞご容赦いただければありがたく思います。


岩倉使節団

岩倉使節団の「岩倉」とは「岩倉具視(ともみ)」の事。

中学校の時の教科書で名前程度は知っているものの、じゃあ何をした人かと聞かれると、私には全くわかりません。

ネット上では、色んな方が同人物について記事を書かれているのですが、今回は非常に短文でまとめている国会国立図書館のホームページを参考にしてみます。

岩倉具視
父は権中納言堀河康親。岩倉具慶の養嗣子。

安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。

5年日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をはかる。

公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人として尊皇攘夷派から非難され、慶応3年まで幽居。

以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。

新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。

明治4年(1871)特命全権大使として使節団を伴い欧米視察。欽定憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注いだ。

そういえば、2018年度の大河ドラマは「西郷どん」。大久保利通なども登場していたので・・・と思ってNHKのホームページを見てみますと、はっきり書いてますね。「岩倉具視」の名前が。

「西郷どん」登場人物としての岩倉具視

しかも、「欧米視察団」の一人として紹介されています。たまには大河ドラマも見てみなきゃいけませんね。

さて。そんな「欧米視察団」としての「岩倉使節団」。そのメンバーは実に総勢107名。そしてその「特命全権大使」が岩倉具視です。

岩倉使節団
こちらがその「岩倉使節団」の全権大使と副使の面々。

真ん中のちょんまげをした人物が岩倉具視。

左端が「木戸孝允」。彼はむしろ「桂小五郎」の名前の方が知られているかもしれませんね。武田鉄矢さん原作の「お~い竜馬」などにも名前が登場していたので、私でも知っていたりします。



左から二番目が「山口尚芳」。この人のお名前は初耳です。

右から二番目は「伊藤博文」。言わずと知れた日本の初代総理大臣です。

一番右が「大久保利通」。私が大好きな麻生太郎さんはこの大久保利通の子孫です。


岩倉使節団とビスマルク

彼らが派遣された先の一つが「ドイツ帝国」。彼らがドイツ訪問中、ビスマルクは使節団を夕食会に招きます。この席上で、ビスマルクは使節団に対し、以下のような話をします。(内容はWikiからのコピペになりますが、ご容赦ください)

貴国と我が国は同じ境遇にある。

私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない。

現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。

私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。

万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう。

英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。

私は小国に生まれ、その実態を知り尽くしているのでその事情がよく分かる。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにあるのだ。

いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である。

我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。

この文章を読めば、はっきりとわかりますね。もしヴィルヘルム2世がビスマルクを敵対視せず、祖父であるヴィルヘルム1世と同様にビスマルクの考え方をきちんと理解することができていたのならば、清国の山東省がドイツの植民地になどなることはなかったでしょうし、これを原因として日本が大国との争いに巻き込まれていくこともなかったであろうということが。

ビスマルクが彼らに語ったことは、まさしく自分たちが(実はドイツを含め)欧米各国から受けていた「外圧」、まさにそのままだったようです。

使節団の面々は、このビスマルクの言葉に、非常に感銘を受け、後の日本の政治をビスマルク政治を手本とすることを志すようになります。

中でも大久保利通は特に感銘を受け、明治天皇と自分たちの関係は、ヴィルヘルム1世とビスマルクの様であるべきだ、と考えたのだそうです。

そしてまた伊藤博文も、ビスマルクのことを尊敬し、大日本帝国憲法を作成する際にもドイツに渡り、ビスマルク憲法を研究し、ドイツ帝国の様な「立憲主義」、そして議会制の導入を目指したのだそうです。

明治時代の日本の政治システムは、軍事制度まで含めてビスマルク時代のドイツを参考にして作られたもの。そういった意味で、もしビスマルクがいなかったら、日本は日露戦争に勝利することができていなかったかもしれません。

ビスマルクは、ロシアがアジア地域に進出する事を未然に防ぐため、日本に教師を派遣し、ドイツの軍事システムを日本人に教えたのだそうですよ。

そういった意味で考えても、ビスマルクがロシアと共同で日本に三国干渉を行うこともまずありえません。むしろ遼東半島に日本の軍事拠点を築かせ、ロシアのアジアに対する影響力を削ぐことの方にビスマルクであれば邁進したのではないでしょうか。


ビスマルクのイズム

大久保利通
伊藤博文

さて。この二人の人物。誰と誰かわかるでしょうか?

上が大久保利通。下が伊藤博文です。

もう一度岩倉使節団の画像と比較してみます。岩倉使節団

左側2名が伊藤博文と大久保利通です。

上二つの写真と比較して、一体何が違うでしょうか?

そう。「ヒゲ」です。

ビスマルク

こちらはビスマルク。ありますね、「ヒゲ」。

何となく思うのですが、二人がヒゲをはやすようになった理由って、ビスマルクの影響が非常に大きいのではないでしょうか?

ビスマルクが失脚した後、「ビスマルクイズム」はヴィルヘルム2世によって途絶えてしまいます。

ですが、そんな「ビスマルクイズム」を最も引き継いだのは、岩倉使節団が帰国した後の日本だったのではないでしょうか?

「侍魂」と「ビスマルクイズム」。とても相性の良いものだったのかもしれないですね。


総括

このところ、お向かいでは韓国が、戦前の徴用工問題を持ち出して日本の企業に賠償金を要求したり、自衛隊の航空機に対して火器管制レーダーを照射したり、安倍首相との間で「最終的かつ不可逆的に」締結されたはずの慰安婦問題日韓合意を一方的に破棄しようとしたり・・・。

遡って竹島占領もそうですし、韓国も含めた「大日本帝国」が連合軍に敗れ、朝鮮半島から日本人が日本に引き返す際、彼らが現地の女性たちに行ったあまりにも残虐すぎる大集団強姦事件もそう。

彼らが日本人に対して、自分たちの悪事を謝罪したことなど一度もありませんね?

清朝やロシアにこびへつらい、満州を占領し、南下を企むロシアの脅威に日本を晒し続けた大韓帝国。

日本は日本を守るため、同国に清朝から独立させることを目指していました。法整備や交通網の整備をいち早く進め、近代化をしてもらわなければ、日本がロシアからの脅威を取り除くことができないのです。

当時の日本には、大韓帝国の日本併合に対し、「賛成派」と「反対派」に分かれていました。

あくまでも大韓帝国の「自治」にこだわっていた人物が伊藤博文です。彼は朝鮮人である安重根によって暗殺されてしまいます。

その結果、併合賛成派が優勢となり、結果として「日韓併合」が行われました。

何度も言いますが、日本にとって、韓国は「法整備」の面でも「インフラ」の面でもいち早く近代化してもらわなければ困るわけです。

その選択肢としての「日韓併合」であったことを忘れてはならないと思います。ですから併合した後も日本は大韓帝国を日本と同等に扱い、教育も同等に行ってきました。

欧米が植民地に対して行ってきたように、現地人を発展させることを阻害し、奴隷同然に扱うような真似をすれば、まさしく朝鮮人の人としてのレベルが低下し、ロシアからの脅威をより増大させてしまいますから、そんなことは絶対にできません。

ですから日本は併合した朝鮮半島、朝鮮人に対し、その民度を高めるため、日本人と同等の教育を施したのです。

これは、北支事変後、勃発した日中戦争後、似非共産主義者に代表される、所謂「匪賊」を駆逐した後の「中華民国汪兆銘政権」でも同等のことが行われました。

あくまでもこれは現地に居住する日本人のため。中国人や朝鮮人のためではありません。日本人のために行ったことが、結果的に両地域を平和にし、住民の生活水準を上げる結果となっただけのこと。

彼らはそれが嫌だったのでしょうか? いいえ。決してそんなことはないはずです。


ビスマルクは、プロイセンを不安定化させる自由主義者たちをプロイセンと同じ法制度化におき、管理できる体制を作るために「普墺戦争」を仕掛け、「普仏戦争」を仕掛けました。

その結果としてプロイセンは「ドイツ」として領土を広げ、安全な統治を行うことが可能になりました。

日本が韓国を併合し、中国東部を占領した後、自治を任せたやり方はこのプロイセンのやり方と非常によく似ています。

日本は決して「侵略」するために朝鮮半島を併合したわけではありませんし、中国東部から匪賊を駆逐したわけではありません。あくまでも「ロシア」という驚異、「共産主義」という脅威から自国を守るために行ったのです。

それはまさしくビスマルクがプロイセンを守るために行ったことと同じことです。この事を忘れるべきではないと、私は思います。


次回は時計を進めまして、「ヴィルヘルム2世」の政策とその結果について記事にしたいと思います。



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<継承する記事>第449回 新皇帝ヴィルヘルム2世の誕生とビスマルクの失脚

もしもヴィルヘルム2世が誕生しなかったら。

仮に誕生したとしても、ヴィルヘルム1世がそうであったようにビスマルクのことをきちんと信頼し、彼のアドバイスにきちんと耳を傾けていれば・・・。

ひょっとしたら日本は欧州大国との争いの中に巻き込まれることはなかったのではないか・・・と、実は現在そのように感じさせられています。

少し話題がそれるのですが、今から「日本が第二次世界大戦に巻き込まれていく過程」を少し復習してみたいと思います。

復習するのはもちろんシリーズ→「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」です。


日本はどうして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

親シリーズのテーマは、本来このタイトルにすべきだったんですよね。現在のシリーズ、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? も「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」の同じ親シリーズである、「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 の一部です。

過去に既に述べていますが、親シリーズの「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」という文字列は、いかにこのシリーズを作成し始めた当時の私がものを知らなかったのか。日本の近代史を知らなかったのか。これを痛感させられる文字列です。

「大東亜戦争」という言葉に準拠するのならばまだしも、「第二次世界大戦」を起こしたのはそもそも日本ではありません。

ですが、第二次世界大戦と太平洋戦争を同一視している人は決して少なくはないと思います。

太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃(正確にはマレー半島への上陸)から始まり、日本は米英蘭中に対しても宣戦布告を行っていますから、「日本が太平洋戦争を起こした」という表現は間違いではありません。ですが、だからといって日本が第二次世界大戦を起こしたわけではありません。(宣戦布告の時期が前後することはここでは無視させてください)

これを「大東亜戦争」にまで広げると、日本は大東亜戦争の開始時期が「日中戦争(支那事変)」だとしていますから、また話が変わってきます。


「第29軍」の起こした「北支事変」


支那事変そのものは、元々盧溝橋事件に始まる「北支事変」から始まるわけですが、実際に「北支事変」では、通州事件 などの、日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件は起こりましたが、これはあくまでも華北の現地軍との小競り合いの延長のようなもの。

日本軍も、華北の「中華民国政務委員会」も事をそこまで大きくするつもりはありませんでした。

北支事変の真犯人は、蒋介石軍の一部体である「第29軍」。中に共産思想を持つ人間を大量に包括している非常に危険な部隊です。

第29軍とは、元々「馮玉祥」という人物が率いていた部隊。

馮玉祥という人物に関しては、第148回の記事 から引用する形でご紹介しておきます。
馮玉祥とは、第二次奉直戦争において北京政変 を起こし、北洋政府の混乱に一つの区切りをつけた人物。

北京政変の後、自ら北京で張作霖に対するクーデターを仕掛けながら、さっさと敗亡して戦場を逃亡し、ソ連に渡った人物。
その後、「ソ連の支援する、中国共産党と連携した中国国民党」への参入をソ連において宣言。

済南事件 において、事件を中心となって引き起こした二部隊の内の一つが、馮の部下である「方振武」が率いる部隊でした。

そして、上海クーデター 以降蒋介石に「全面的に協力」していたはずの馮玉祥は、蒋介石による北伐が完了すると、突然蒋介石に対して反旗を翻します。

勿論その「経緯」はきちんとありまして、北伐の完了後、自分の中に組み入れていた北洋政府時代の「軍閥」の影響力を縮小するために、「軍縮」を行おうとしたことにその理由はあります。

はっきりといえば、「北伐」によって確かに中国全土の「統一」は形式上なされたように見えたかもしれませんが、決して一枚岩ではなく、それどころかお互いに腹を探り合い、離反しあう性質は全く解消されていなかったということだと思います。

そして、「第29軍」とはそんな性質を代表するような「馮玉祥」が元々率いていた部隊。
そして、その中には少なくともあの済南事件を引き起こした部隊が含まれていたはずです。

つまり、北支事変とは、そもそも「ソ連共産党の息がかかった軍隊」によって引き起こされた小競り合いであり、親分である蒋介石が直接絡んだものであはありません。


真の日中開戦は「第二次上海事変」


その「蒋介石」が関わるのは北支事変が上海にまで飛び火し、北支事変から「支那事変」へと拡大する際。

前述した通り、「通州事件」という日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件を収束させて間もなく、今度は上海の日本人居留区(疎開)が最終的に蒋介石軍(中国国民党軍)、と中国共産党軍総勢20万の軍隊に包囲される事態が発生しました。

この時の日本軍兵士の数は同居留区の中にたったの5000人。この事を受け、日本軍が事実上の「宣戦布告」を行って勃発したのが「第二次上海事変」です。

仮に「支那事変」を大東亜戦争の勃発だとするのであれば、この時点を以て当てるべきだと私は思います。

しかもこの時も先に日本海軍に空爆を行ったのは蒋介石軍であり、更に同軍は帰還時に日欧米の民間人が居住する「共同疎開」へ空爆を行い、1700人を超える民間人が死亡。

そして蒋介石はこの時に撮影した写真や映像を国際連盟に持ち込み、これを日本軍の仕業である、と訴えています。

バカな国際連盟の面々はこれを真に受け、日本への経済制裁は「正当なものである」としてお墨付きを与え、のちの「援蒋ルート」へとつながり、これがのちの「北部仏印進駐」から「南部仏印進駐」へとつながるきっかけとなるのです。

日本の「南部仏印進駐」が米国の「石油輸出禁止」のきっかけになったと日本の事を非難する連中がたくさんいますが、その大元は蒋介石のデマを真に受けて日本への経済制裁に正当性を与えたバカな国際連盟の連中。この事を批判する人が全く存在しないことに私は非常に違和感を覚えます。


盧溝橋事件はなぜ起きたのか?

盧溝橋事件のいきさつは、第153回の記事 に掲載しています。

ですが、そもそもの理由として、中国軍の仕業であったにせよ、日本軍のミスであったにせよ、盧溝橋という場所で「空砲」が鳴りさえしなければ「盧溝橋事件」は起きませんでした。

もっと言えば、そこに「日本軍」がいなければ、事件は起きなかったわけです。

盧溝橋にいた日本軍はもともと「天津」にいた「支那駐屯軍」が、「冀東(きとう)防共自治政府」への「共産軍の侵入をなんとしても阻止したい」と考えていた、「冀察政務委員会」管理者である「宋哲元」の許可を受けて演習を行っていたもの。

冀東自治政府

ややこしいですよね。詳細は第140回の記事 をご覧ください。

では、なぜ「天津」に日本軍がいたのかというと、ここからようやく「ドイツ」へとつながるのです。


「義和団の乱」後の「北清事変」

情報は第140回の記事 から引用します。

なぜこの地域に日本軍が駐留していたのかということですが、これは時代を大きく遡って、「義和団の乱(北清事変)」のことを振り返る必要があります。

そもそものところでいえば、中国が悪いわけじゃなく、この義和団の乱に関係して言えば「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由です。

ですが、この当時の中国(清朝)の政権も非常に不安定な状況にあり、皇帝の叔母であり「西太后」が実権を握る状況の中、「義和団」の反乱に便乗した西太后が無謀にも欧米7カ国+日本に対して宣戦布告を行い、敗戦した結果、宣戦布告をされた8か国と当時の清朝の間で締結されたのが「北京議定書」。

この議定書に基づいて、日本だけでなく欧米8カ国が中国国内に自国軍を駐留させていたのが当時の状況。
盧溝橋で軍事演習を行っていた部隊は日本が、この「北京議定書」に基づいて「天津」という地域に駐留させていた「支那駐屯軍」という部隊です。

勿論「権益」の問題があったことは事実ですが、既に当時の中国、北京市(北平市)周辺には多くの日本人が居住しており、現地法人を守るためにも日本軍は駐屯軍を撤退させるわけにはいきませんでした。

きちんと書いてますね。

『「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由』

である、と。もちろんドイツだけではありません。ですが、清の西太合が「北京に公使館をおく」、日欧米の合計8カ国に対して宣戦布告を行うという暴挙に出る原因を作った「義和団の乱」。

「義和団の乱」が起こった原因について、第78回の記事 から引用しますと、
この「山東省」という地域がどのような地域であったかというと、中国にとっては学問の中心ともいえる「儒教」。この儒教の始祖である「孔子」がの出身地です。

ドイツは中国にキリスト教を布教していく上で、この「山東省」という地域は、戦略的にも重要な地域だと考えていました。
儒教発祥の地にキリスト教を布教することで、ドイツは中国人の精神そのものを支配しようと考えていたのでしょうか。

しかし、これは当然地元の中国人の反発を引き起こします。大刀会という武術集団数人が山東省曹州府にあるカトリック教会を襲撃し、ドイツ人神父2名を殺害。この直前には梅花拳という拳法の流派が約三千名で同じ曹州府にあるカトリック教会を襲撃する事件が発生しました。

共に、教会建設にあたる土地争いが原因で、一般民衆が助けを求めたことが原因なのですが、このことを口実に当時のドイツ帝国は山東省に派兵。膠州湾を占領します。
清朝との間で外交折衝が行われ、ドイツは22万両の賠償金を獲得し、済寧など3ヶ所に教会を建設。

更にドイツと清国の間で独清条約が結ばれ、ドイツは膠州湾を租借。鉄道建設権と鉱山の採掘権を手にします。

この時、ドイツ教会を襲撃した梅花拳の流派は、今回の事件で梅花拳の名声に傷がつくことを避けるため、「義和拳」と改名します。

義和拳には、母体となった梅花拳の流派だけでなく、他の反キリスト教グループも結集し、やがて「義和団」と呼ばれるようになります。

1989年、山東省に赴任したのはあの袁世凱。彼によって山東省の義和団は弾圧されるのですが、弾圧された義和団は山東省以外に流失します。

そして、北京周辺にまで流出した義和団によって引き起こされたのが今回のテーマである「義和団の乱」です。

要は、ドイツが中国を価値観の面から洗脳するため、孔子の出身地である山東省でキリスト教を布教しようとしたところ、現地の拳法家たちが教会を襲撃し、神父が2名殺害された、ということです。

拳法家たちの教会襲撃はこれだけにとどまらず、ついに政府から袁世凱が派遣され、彼らは鎮圧されます。

この事で山東省を追われた義和拳の使い手らは北京と天津の間の地域にまで移動し、北京を包囲。これを受けて北京政府は義和団の鎮圧に乗り出すどころか、逆に北京内に公使館を持つ8カ国に対して宣戦布告を行ったわけです。

ちなみにこの時流出した義和団の行為についてい、Wikiでは以下のように記されています。

外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった

この後、講和条約において日本は天津に軍を駐留することが認められるのですが、他の8カ国も同様の権利を認められています。


ドイツはなぜ山東省で布教活動ができたのか

ドイツが山東省で布教活動を行うことができた理由は、ドイツが山東省に「権益」を有していたから。

ドイツは清国が「日清戦争」において日本に敗北した際、その講和条約で清国が日本から約束させられた「2億テールの賠償金」。

この一部を清国に貸与したんですね。ドイツはその代わり、中国に対し「山東省に対する権益」を認めさせます。


「なんだ、やっぱり日本が原因か」などという声が聞こえてきそうですが、例えドイツが山東省に権益を有したとしても、山東省を支配することを目的として、同省で布教活動など行わなければ「義和団の乱」の勃発は防げたはずです。

元々中国人が持っていた伝統的な習慣や風習を無視し、「キリスト教」的な考え方を押し付けようとしたためにおきた出来事です。

また、「日清戦争」そのものも、もとはといえばイギリスが清国を開国させ、アヘンとキリスト教を輸出するために仕掛けた「アヘン戦争」や「アロー戦争」に対してもともと欧州の大国であるはずのロシアが介入し、講和条約を結ばせ、満州の北半分を清国割譲させた事。

これが日本に「危機感」を抱かせたことが遠因として存在します。

この事を受け、日本は日本とロシアとの間にある朝鮮に自立心を持たせ、ロシアからの防波堤になることを求めました。

ですが、清国はいつまでも朝鮮が清国の属国であるという考え方を捨てようとせず、朝鮮もまた、清国の属国であろうとしました。

日清戦争とは、いわば朝鮮を清国から独立させることを目的として起こした戦争です。「ロシア」の脅威から日本を守るために。

その後もロシアは、実際に北清戦争の混乱に乗じてアムール川沿岸の清国人を皆殺しにし、誰も居住者のいなくなった場所を占領するという、文字通り「鬼畜行為」にまで及んでいます。


ヴィルヘルム2世と「三国干渉」

三国干渉

さて。この「日清戦争」において、日本は清国より「遼東半島」の割譲を約束させるのですが、これに対して日清戦争とは無関係であるにも関わらず、日本に対してちょっかいを出してきた国が3つあります。

一つは、地政学的にリスクを負う「ロシア」。ですが、残る2カ国は遼東半島に対して全く、何一つ関係のない国々です。

その国のうちの一つは、そうです。言うまでもありませんね。「ドイツ」です。そしてもう一カ国がフランスです。

そしてこの時のドイツの皇帝は「ヴィルヘルム2世」。ビスマルクが植民地政策に消極的であったことに比べ、ヴィルヘルム2世は逆に植民地を拡大する外交政策を取りました。権益を有する山東省を植民地化した政策は、その一環だったんですね。

義和団の乱が勃発するのが1900年。その2年前、1898年3月6日にドイツは清国との間で独清条約を締結。山東省をドイツの事実上の植民地にしてしまいます。山東省における神父の殺害事件を、ヴィルヘルム2世はドイツに軍を派遣する口実にしたんですね。


もしビスマルクが未だに首相を続けていたら。もしヴィルヘルム2世がビスマルクの考え方を理解し、これを大切にできるような人物であったとしたら、このようなことは起きなかったのではないでしょうか。

普墺戦争においても、普仏戦争においても、ビスマルクは「引き際」をわきまえていました。両戦争はドイツ国民の「ナショナリズム」を高めるために利用したのであり、そもそも「侵略」することを目的とはしていませんでした。

「国境を接する国」であるということもあるでしょうが、ビスマルクは逆に言えば国境を接することのない国に戦争を仕掛けるようなバカな真似は行いませんでしたね。むしろ自国周辺で戦争を起こさないことを目的として行われたのが「ビスマルク外交」でした。

ヴィルヘルム2世による「三国干渉」が行われたのは1895年4月23日のことですが、実はその12年ほど前、ビスマルクは日本の使節団と直接出会い、私が今回記事にした内容をそのまま文章化したような言葉を口にしています。

次回記事では、そんなビスマルクと日本の使節団との出会いを少し記事にしてみたいと思います。



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<継承する記事>第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

「ナチスドイツ」、果ては「ヒットラー」なる人物が誕生した理由を探るため、今シリーズ では、長らく「ドイツ」そのものの歴史をずっと追いかけてきました。

ビスマルクが統一するまで、世界の中に「ドイツ」という国が存在した歴史はなく、「ドイツ」と呼ばれた地域には、元々実に様々な「民族」が居住しており、唯一「ゲルマン系の言語を話す」ということのみにその共通点のある人々が暮らしていました。

改めて、シリーズ最初の記事 を振り返ってみますと、そもそものメインテーマである「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)」が誕生したのは「バイエルン」。

ビスマルク退陣後のドイツはその後、「第一次世界大戦」の渦へと巻き込まれていくわけですが、バイエルン人たちの中には、「第一次世界大戦を起こしたのはプロイセンであり、自分たちは関係がない」とする意識があったそうです。自分たちは巻き込まれた側。被害者だ、と。

ビスマルクやビスマルクによるドイツの統一、そしてその経緯を全く知らなった当時としては、同じドイツでありながらなぜ、という疑問が拭えずにいたのですが、今ならその事情がよくわかりますね。

バイエルンとプロイセンは、元々その成り立ちも民族性も全く異なる国であり、特に「南ドイツ」であるバイエルンと北ドイツであるプロイセンとは、その宗教的な側面からも全く別の「国家」だったわけですからね。

ドイツ統一後も、「自由都市」として軍事的な側面以外は独立した法律の下運営されていたのも「バイエルン」です。ドイツ民族としての統合を理想としていた北ドイツと「分離主義者」たちが中心となる南ドイツ。これもまた「宗教性の違い」にもよるものです。

宗派が違うだけで、同じキリスト教なんですけどね。

あと、ヒットラーの著書、「我が闘争」を読んでいますと、彼は冒頭で自分が血筋的にも「バイエルン人」だと言っているのですが、同じ著書を読み込んでいきますと、彼の出身地はバイエルンではなくオーストリア。オーストリアのバイエルン人ということなんでしょうか。

そして「ドイツ人」としての誇りを持とうとしないオーストリアのことが、彼は大嫌い。

まだ前半の半分も読み切れてはいませんが、「我が闘争」に基づく記事もいずれ作成する予定です。


ヴィルヘルム2世の誕生

第433回の記事 でドイツ帝国誕生後、ビスマルクがとった「社会主義者対策」を、第444回の記事 ではそんな「社会主義者対策」とは相反するように、国民に寄り添う形で執り行った「社会保障政策」。そして第445回の記事前回 までの記事では、更にビスマルクがとった「外交政策」をそれぞれ記事にしてきました。

ドイツ帝国誕生後のビスマルクの政策は、まさしくこの三本柱で、「社会主義者鎮圧法」によって社会不安の根源ともいえる「社会主義者」を徹底的に取り締まり、逆に国民に対してはそんな「社会主義」の象徴ともいえる「社会保障政策」を弱者目線で徹底整備。

軍事外交においては「平穏」を維持するため、ドイツ周辺で戦争を勃発させないため、徹底的に「フランスを孤立化」させる外交交渉を貫き、バルカン半島を除くヨーロッパにおいては事実、その「平穏」を維持し続けることに成功しました。

そしてもう一つ、貿易外交においては海外の不況の影響を最小限にとどめることを目的とし、「保護関税法」を実施して保護貿易体制をとりました。

もちろん、すべての同じ政策を現在行え、といえば間違いなく日本でも憲法違反になる部分がありますし、まず無理だとは思います。ですが、法的な裏付け、その前提条件が異なる当時としては、実に「先見の明」のある政策を実行し続けた人物こそオットー・フォン・ビスマルクだったのではないでしょうか。

ですが、そんなビスマルクの政策は、2つの「敵」を作り出します。そのうちの一つが言わずと知れた「社会主義者鎮圧法」によって弾圧された社会主義者たち。もう一つは自分たちの目指す「自由貿易」とは真逆の政策をとられたことで、ビスマルクの経済性悪に反発した「自由主義者」たち。

そして、そんな「自由主義者」の象徴ともいえたのが、1888年3月9日に崩御した皇帝ヴィルヘルム1世の後を継いだ「フリードリヒ3世」。そして、彼の妃であった皇后「ヴィクトリア」。ヴィクトリアが生まれたのはバッキンガム宮殿。彼女はイギリス人だったんですね。

ビスマルクにとっては幸いなことに、フリードリヒ3世はもともと咽頭癌を患っており、またヴィクトリアが信頼する宮廷医と、義理の息子であるフリードリヒ3世のことを心配してヴィクトリアの母親が送り込む医師団との対立でまともな治療を受けることができず、皇帝に即位してわずか99日でこの世を去ることになってしまいました。

そして、そのあとを引き継いだのがヴィルヘルム2世。

ヴィルヘルム2世

そう。第一次世界大戦の当事者であり、のちにドイツの共産主義グループである「レーテ」が引き起こした「レーテ蜂起」により亡命を余儀なくされた人物。あの、「ヴィルヘルム2世」です。

第444回の記事 の中で、1889年10月、ビスマルクが、「期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案」を議会に提出したことを記事にしました。

ですが、多くの人が思うはずです。

 「社会主義者が危険なことは理解したとしても、いくら何でも『無制限』はやりすぎなんじゃないか」

と。


ルール地方における労働者ストライキ

ビスマルクが前記法案を提出したのは1889年10月。この5か月前、ドイツの「ルール地方」、ラインラント付近で、ドイツ産業の中心となる地域の鉱山において、発生したストライキが、一気にドイツ各地に拡大していったのだそうです。

これを受けて、皇帝ヴィルヘルム2世は、経営者たちを批判し、労働者たちの支持を表明するのですが、この時のビスマルクの行動を、Wikiヴェルヘルム2世のページには、以下のように記しています。
ビスマルクは自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった

これは、あのフェルディナンド=ラッサールが「夜警国家」として批判した自由主義者の目指す自由主義国家 そのまんまですね。

これに対してヴィルヘルム2世は一歩踏み込んで、「労働者」たちを救済する方向に乗り出したわけです。この時、合わせて「ドイツ社会主義労働者党の扇動にのって公共の安全を脅かす行為は辞めるよう要求」も行ったようですね。

もともとヴィルヘルム2世はビスマルクのことを尊敬しており、自由主義者であった父フリードリヒ3世とは違って、保守的な思想の持主。ビスマルクもまた、フリードリヒ3世よりヴィルヘルム2世のことを信頼しており、またイギリス出身の自由主義者、ヴィクトリアとヴィルヘルム2世の距離が開くような画策も行っていました。

実際ヴィルヘルム2世は父フリードリヒ3世が崩御した直後に母ヴィクトリアを幽閉するなどしていますので、ヴィクトリアのことをそれほど信頼していたわけでもなかったのでしょう。

ですが、このルール地方を発端としたストライキ事件の前後で、ヴィルヘルム2世とビスマルクとの間に、微妙な関係の変化が生まれることになります。


社会主義者鎮圧法をめぐる駆け引き

ビスマルクは、この事件が起きた後、事実上事件を「放置」したまま、出身地へ里帰りし、翌年1月24日までそこで静養しました。

この間、ヴィルヘルム2世と接触した人物らが、彼に影響を与え、ビスマルクから少し気持ちが離れてしまうことになります。

ヴィルヘルム2世自身、祖父ヴィルヘルム1世がビスマルクを信頼し、ある意味ビスマルクに主導権を握られてしまっている状況に多少なりとも疑問を抱いていたのだと思います。彼は、「自分自身の手で政治を行いたい」と考えていたようですね。

ビスマルクが「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出させたのも、どうやらその静養先から。この事から、ビスマルクもこの時点ではこの改正法案が皇帝から批判され、成立されないとする選択肢を想定に入れていなかったのではないか、とも考えられます。

1月24日、ビスマルクも参加した御前会議において、皇帝は先んじてルール地方に始まる労働者問題を受けた「労働者保護勅令」の計画を発表したのですが、「社会主義者鎮圧法」の成立を優先すべきだとして、その計画は先延ばししてしまいました。

この時、国民自由党より、「社会主義者鎮圧法を無期限に延長するのであれば、『社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項』を外すべきだ」という主張がなされていたのですが、皇帝はビスマルクに対し、この要求を呑むよう(実際には「帝国議会が追放条項の破棄を決議してもそのために法律を流産させることはしない」とする声明を出すよう)求めます。

この提案は保守党からもなされました。

ですが、ビスマルクはこれには応じられないことを示した上で、「もしそのような考え方を陛下がお持ちなのなら、私は宰相としては適任ではない」として、辞職をほのめかします。

私、争点は「無期限に延長するかどうか」ということかと思っていたんですが、そうではなかったんですね。

確かにその後の社会主義者たちの動きを見ていれば、前記した状況を削除してしまえば、同法案はたとえ無期限であったとしても、これが形骸化してしまうことは想像に難くありませんね。

ビスマルクの「社会保障政策」が実現していった経緯を考えますと、おそらくビスマルクはヴィルヘルム2世の「労働者保護勅令」そのものに反対であったわけではないのだと思います。これを実現するのであれば、先に社会主義者鎮圧法を延長すべきだといっていたのでしょうね。

けれども、ビスマルクのその考え方よりも、ヴィルヘルム2世の勅令が弾かれたこと、そして国民自由党や保守党、ヴィルヘルム2世自身が求める社会主義者鎮圧法の修正が行われなかった事という、いわば「ミクロ的な部分」に視点が集まってしまい、この事でヴィルヘルム2世はビスマルクに反発心を抱くようになります。

翌2月には労働者保護勅令の2月勅令が発せられるのですが、ビスマルクはこの勅令への署名を拒否し、同勅令で定められていた「労働者保護国際会議」のベルリンでの開催を妨害します。

妨害した理由は、おそらくその開催が労働者の暴動へとつながり、やがてクーデターへと発展することを恐れたのではないかと思うのです。

その証拠・・・というわけではないのですが、同月25日、ビスマルクは皇帝に対し、「もし労働者の暴動が発生したら断固たる手段を取る決意があるか」と尋ねています。

暴動は、当時のドイツ帝国の崩壊につながりかねないことをビスマルクは知っていたんですね。これに対しヴィルヘルム2世はこう答えます。

 「かかる際には断じてフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の如き態度はとらぬ」

と。

ヴィルヘルム2世とビスマルク

フリードリヒ・ビルヘルム4世とは、1848年のベルリン3月革命の時のプロイセン国王で、軍隊をベルリンから退去させ、民衆(自由主義者)たちの求めるままに憲法の制定を約束した人物です。

フランスやオーストリアではそれぞれ国王が退位し、亡命を余儀なくされましたね。


ヴィルヘルム2世との謁見で、ビスマルクは「皇帝からの信認を得た」との確信を得、翌年3月2日、皇帝の「労働者保護勅令」が反映された「労働者保護法案」とともに、再び「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出する方針を示しました。

この法案には、更に「他人にストライキ参加を強制した者への罰則条項」も加えられていました。

ですが、皇帝は「保守党」「帝国党」「国民自由党」のビスマルクを支持するはずの「カルテル3党」が同法案に反対であることを知り、彼らから散々持ち上げられた挙句、彼はビスマルクの期待を裏切り、ビスマルクに同法案の提出をやめるよう命じました。

これに対して、ビスマルクはあっさりとその取り下げに応じます。


ビスマルクの失脚

1850年、オーストリアとの間で締結せざるを得なかった屈辱の「オルミュッツ協定」の締結をめぐり、軍制改革の必要性に駆られたヴィルヘルム1世のたっての願いを受け、自身が一生付き従う国王であると心に決め、プロイセン首相となった人物。それがビスマルクです。

もはや皇帝に帝国を守るだけの覚悟が存在せず、また皇帝から必要とされなくなってしまった以上、ビスマルクに今の立場にとどまる理由はもはや存在しません。

1890年3月18日、ビスマルクは皇帝に対し、辞表を提出することとなりました。


長らく続きました、「ビスマルク」シリーズですが、ついにその終焉を迎えましたね。

ただ、「社会主義者鎮圧法」や「フランス孤立政策」にビスマルクが一体何を賭けていたのか。ビスマルクが去った後、「親政」をふるい始めるヴィルヘルム2世。

ビスマルクを追い落としてまで「労働者保護勅令」の必要性を訴えたヴィルヘルム2世が、この後ヨーロッパのみならず、アジアにまで及ぼしていくその「影響」を追いかけてみたいと思います。



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本日、2018年度GDP第二四半期速報が発表されたようですので、今回はこちらの記事を作成したいと思います。

ドイツに関連したシリーズ はお休みです。

例によって、今回も新聞報道の引用からスタートします。

【日本経済新聞2月10日記事より】
GDP、年率2.5%減に下方修正 7~9月改定値

内閣府が10日発表した7~9月期の国内総生産(GDP)改定値は、物価変動を除いた実質で前期比0.6%減、年率換算では2.5%減だった。速報値(前期比0.3%減、年率1.2%減)から下方修正となった。法人企業統計など最新の統計を反映した。

QUICKがまとめた民間予測の中央値は前期比0.5%減、年率2.0%減となっており、速報値から下振れすると見込まれていた。

生活実感に近い名目GDPは前期比0.7%減(速報値は0.3%減)、年率は2.7%減(同1.1%減)だった。

実質GDPを需要項目別にみると、個人消費は前期比0.2%減(同0.1%減)、住宅投資は0.7%増(同0.6%増)、設備投資は2.8%減(同0.2%減)、公共投資は2.0%減(同1.9%減)。民間在庫の寄与度はプラス0.0ポイント(同マイナス0.1ポイント)だった。

実質GDPの増減への寄与度をみると、内需がマイナス0.5ポイント(同マイナス0.2ポイント)、輸出から輸入を差し引いた外需はマイナス0.1ポイント(同マイナス0.1ポイント)だった。

総合的な物価の動きを示すGDPデフレーターは、前年同期に比べてマイナス0.3%(同マイナス0.3%)だった。

ということで、記事としては非常に象徴的なので、今回は日本経済新聞からの引用です。

どの報道も、軒並みこのタイトルです。発表は「二次速報」で、もちろん「一次速報」も存在していたのですが、私としてはあえて二次速報まで待ってみていたところもあります。

一次速報の時から気づいてはいたんですよね。この、「デタラメ報道」のひどさに。


2018年(平成30年)度GDP第2四半期第2次速報

GDPの記事は、→こちらのシリーズ で継続して記事にしています。

マスコミ報道は基本的に、「季節調整」した「実質GDP」の「前期比」を「年率換算」したものを報道しています。

ですが、散々記事にしている通り、そもそも「実質GDP」の算出方法そのものが非常に信憑性の薄いものである上、これを更に信憑性の低い計算方法を用いて「季節調整」する意味が私には理解できません。

更に、「前期比」をなぜ「年率換算」しなければならないのでしょう?

「年率換算」とは、季節調整された実質GDPを前記と比較した「経済成長率」が「もし仮に1年間続いたらどの程度の成長率になるのか」というフィクションの数字です。過去の四半期別GDPデータを軒並み探っても構いませんが、おそらくそんな推測が当たった年度など、過去に1度たりとも存在しないのではないでしょうか?

よしんばもし存在したとしても、それは単なる「まぐれ」にすぎません。

そんな博打の様な統計データにしがみついてGDP報道をせずとも、たんに「前年の、同じ季節」と比較したデータを用いれば済む話です。

ですので、私が用いるGDP統計データは、GDP統計に一切人為的な手を加えていない「原系列」を「前年同期」と比較したものを用います。唯一参考程度に「実質GDP」は用いますが、重要視しているのはあくまでも「名目GDP」です。

【2018年度GDP第2四半期第2次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 133.382 兆円(-0.3%)

 民間最終消費支出 76.012 兆円(1.2%)
 家計最終消費支出 74.032 兆円(1.2%)
  除く持家の帰属家賃  61.520 兆円(1.4%)

 民間住宅 4.274 兆円(-5.2%)
 民間企業設備 21.341 兆円(2.1%)

実質GDP
全体  131.956 兆円(0.0%)

 民間最終消費支出  74.962 兆円(0.6%)
 家計最終消費支出  72.851 兆円(0.6%)
  除く持家の帰属家賃  59.388 兆円(0.5%)

 民間住宅  3.935 兆円(-6.4%)
 民間企業設備  20.767 兆円(1.2%)

内閣府

これが本当の「GDP統計」です。

で、皆さんきっと頭に疑問符が浮かぶはずなんです。私が掲載している項目のうち、「マイナス成長」しているのは「民間住宅」のみで、それ以外は全て「名実共」成長しています。

にも拘わらず、なぜか「名目GDP」の統計全体が前年同月を割り込んでいて、実質は0%成長で横ばい。おかしいなぁって、思いますよね?

ちなみに冒頭に掲載した日経記事によれば、実質ベースで「個人消費は0.2%減」、「住宅投資は0.7%増」、「設備投資は2.8%減」と記されていますが、「前年同期」と比較すればこれがいかに情報をミスリードしているかがわかりますね。本来比較すべきなのは「前期」ではなく、「前年同月」です。そうすればわざわざ「年率換算」する必要も、「季節調整」する必要もないんです。

個人消費(家計最終消費支出)は昨年と比較すれば名目で1.2%のプラス、実質で0.6%のプラスです。ここからフィクションの数字である「持家に帰属する家賃」を除くと名目で1.4%のプラス、実質で0.5%のプラスです。

昨年と比較してこれだけ増加しているんです。

季節調整系列の前期比は「年率換算」することが前提となっていますから、マスコミが報道する「個人消費」を年率換算すると、実質では-0.8(持家の帰属家賃を除くと-1.2%)。

ですが、これってものすごくざっくりとした言い方をすると、「今年の実質GDPは昨年と比較すると0.6%成長しているのですが、来年度は1.2%のマイナスになるはずです」という、非常時矛盾したことを言っていることになります。

ちなみに、この「季節調整の年率換算」。「名目GDP」で見ますと、個人消費ではなんと0.7%のプラス(持家の帰属家賃を除くと0.8%のプラス)となっています。

おかしいですね。「実質GDPの季節調整系列の前期比」以外はすべて好調なデータが出ているのに、なぜか前年度割れした実質GDPとその詳細項目、そして「名目GDPの全体の数字」だけが報道され、その他の数字は一切報道されていないという・・・。

一応、「ログイン」をすればその記事の続きを見ることができるわけですが、わざわざそんなことをしてまで記事の続きを見る人はよっぽどの人です。


なぜこんな歪な統計結果が算出されているのか

不思議ですよね。家計、及び企業ともに名目で1%を超える経済成長率を記録しており、唯一「民間住宅」のみがマイナスを記録していますが、その金額は所詮2.35億円程度。

GDP全体から見れば吹いて飛ぶような数字です。にも拘わらず、なぜか名目はマイナス成長。実質でも同じような状況が生まれています。

実はGDP統計全体を見てみますと、前年同月と比較しまして、前年度割れしている項目が2つあるのです。

それが、政府の「公的資本形成」、つまり「公共事業費」と「純輸出高」。

政府の公共事業費は、数字から見れば1410億円程度ですので影響はそれほど大きくないのですが、問題なのはもう一つの「純輸出高」。

名目だけでお話ししますが、昨年度第2四半期の「輸出高」は23.983兆円、「輸入高」は22.205兆円で、純輸出高(輸出高-輸入高)は1.778兆円だったのですが、今年度は輸出高は24.701兆円と1兆円を上回る上昇幅を記録したものの、輸入高も24.565兆円と、金額で言えば2.36兆円を超える上昇幅を記録しています。

この事で、「純輸出高」が1361億円と大幅に下落。下落幅は1.6兆円を超えています。

民間の需要も、企業の設備投資費も成長しており、全体に大きく影響を与えているのはこの部分以外には存在しません。

では、なぜ「輸入高」はこれほどまでに上昇したのか。考えられるのは、「原油価格の高騰」です。原油価格に関してはまだ詳細に検証していませんのでそれが正しいのかどうかはわかりませんが、これは日本国に原因があるわけではなく、海外に原因のある現象です。

にも拘わらず、あたかも日本国経済が減退しているかのような記事をきれいに作り上げてしまうマスコミ各社。

とくに「経済」の専門紙であるはずの日経まで。この新聞に、「経済新聞」を名乗る資格があるのでしょうか?

確かにこの情報を流したのは政府側かもしれませんが、これを全く検証することもなく、流されたとおりに報道するのでは、それがマスコミである必要性など全くないと思います。

一民間人にすぎない私でさえ、パッと見ただけでわかることです。

ほんと。いい加減にしてほしいですね、マスコミの皆様。



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<継承する記事>第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

前回の記事では、ロシアとオスマントルコとの間で行われた戦争、「露土戦争」と、その講和条約として両国間で締結された「サン・ステファノ条約」について記事にしました。

ですが、この「サン・ステファノ条約」。ロシアのバルカン半島への影響力を大きく高めることが懸念されたため、ロシアと同じくバルカン半島に国境を接するオーストリア(・ハンガリー)帝国、及びイギリスから大きく反発を買うこととなります。

そこで、その仲裁役としていよいよわれらがオットー・フォン・ビスマルクが登場します。


ベルリン会議がもたらした三帝同盟の崩壊

ベルリン会議

ただし、ビスマルクに対してはロシアより、もっと早い段階での介入を求める声があったのですが、ビスマルクにとってみれば、ロシアに肩入れすることでオーストリアの不満を買うことが、結果として三帝同盟の崩壊へとつながることを恐れていましたので、どうしても介入に対して慎重にならざるを得ませんでした。

最終的に「露土戦争」に決着がついた時点でビスマルクは「誠実な仲介者」として東方問題に対する「介入」を初めて行いました。

オーストリアの要請を受けてのものです。

ただ、オーストリアとしてはロシアとの間で既に「ライヒシュタット協定」という密約を結んでいる関係にありますから、一時的にロシアとトルコとの間で「サン・ステファノ条約」が結ばれたものの、不自然な形にならないよう、同協定における約束、即ちボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するための画策を行ったのではないか、とも思うのです。

オーストリアは同戦争に対しては「中立」の立場を保っていましたし、それがロシアとの約束でしたから、戦争に参加すらしていないオーストリアが突然領土を拡大したりすれば、どう考えても不自然ですからね。

つまり、オーストリアとロシアとがお互いに対立しているように振る舞い、両国にとって最も中立的な立場であるドイツのビスマルクに仲裁してもらう、という構図です。


ベルリン条約

このベルリン会議に参加したのは、当事者であるロシアとオスマントルコの他、オーストリアとドイツ、そしてイギリス、フランスに加え、イタリアも参加していますね。(その他、ギリシャ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロもオブザーバーとして参加しています)

露土戦争の講和会議としての性格と同時に、今後のヨーロッパの在り方を決定づけるための会議としての意味合いも有していたのでしょうか。

同会議の結果として、「ベルリン条約」が締結されました。

【ベルリン条約】
・セルビア公国、モンテネグロ公国、ルーマニア公国の三公国の正式な独立

・大ブルガリア公国の分割(マケドニア、東ルメリ自治州、ブルガリア公国:「ブルガリアにとっては事実上の独立)

・オーストリア=ハンガリーによるボスニア・ヘルツェゴビナ占領

・キプロスのイギリスへの割譲

セルビア、モンテネグロ、ルーマニアはもともと「自治領」だったものが正式に独立。これはサン・ステファノ条約でも同じ内容が取り決められています。

ブルガリアも元々「自治領」だったわけですが、ここに関しては領土を広大にしすぎるとロシアの影響力が大きくなりますので、「マケドニア」「東ルメリ自治州」「ブルガリア公国」の3つに分割した上で、マケドニアはトルコに返還。東ルメリ自治州も同じく返還されますが、自治権が与えられます。

「ブルガリア」も「自治領」から「自治公国」へと昇格。ただし、その宗主権はオスマントルコに残され、ブルガリアはオスマントルコへの貢納が義務付けられることになります。

大ブルガリア分割

上図で、南辺~東部の茶色の部分がマケドニア、上部のグリーンの部分がブルガリア公国、ブルガリアとマケドニアに挟まれた赤い部分が東ルメリ自治州です。

そして、ボスニア・ヘルツェゴビナはサン・ステファノ条約では「自治領」となることが決められていたのですが、ベルリン条約ではオーストリアが「占領」することとなりました。

第307回の記事 で触れていますが、セルビアは独立した時点で、この「ボスニア・ヘルツェゴビナ」のセルビアへの統合を目指していました。

ただ、第307回の記事 に対する修正が必要かと思われる部分で、ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアの占領下におかれた後も、オーストリアと敵対することなく、むしろオーストリアに歩み寄る姿勢を見せています。

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

と記したのですが、1878年、公国として独立が認められたセルビアは、オーストリアに接近し、1882年、「オーストリア=ハンガリー帝国の承認」の下、「公国」から「王国」へと昇格しています。

セルビアが王国となった後、セルビアの南方、「ブルガリア」ではブルガリアの南方、「東ルメリ自治州」において、ブルガリアへの統合を求めた蜂起が勃発し、これを受けてブルガリア公が東ルメリ自治州の併合を宣言しました。

これに反対するセルビアはブルガリアと戦争状態に陥っています。つまり、この時点でセルビアは「南方」へも関心を持っていることになりますので、記述内容は少し先走った部分があったかもしれません。


話題を「ベルリン条約」に戻します。

ベルリン条約はロシアとトルコとの間で締結された「サン・ステファノ条約」を修正する目的で締結されたものですが、この条約で最も煽りを受けたのはロシア。ブルガリアの件はイギリスとの話し合いで決まったわけですが、それ以外にももともとロシアが獲得するはずであった領土が大幅に削減され、ロシア政府はビスマルクに不満を持つようになります。

この段階で、ドイツ・オーストリア・ロシアの3国間で締結していた「三帝同盟」は事実上解消されることとなりました。


ビスマルクの対ロシア政策

ロシアとの関係が冷え込んでしまったことを受け、ロシアをドイツ側に引き戻すため、ビスマルクはロシアに対し、逆に「孤立化」させるための外交政策をとることになります。

誤解していただきたくないのは、ビスマルクにとって、この時点における最大の懸念事項は、「フランス」がドイツに対して復讐を企てる事。そのためフランスを他の欧州列強と同盟させないようにすることを最大の目的としています。

ですから、ロシアに対する「孤立化政策」を推し進めるのは、あくまでもロシアにドイツ側に戻ってきてもらい、再び同盟関係を築くこと。ロシアに対して散々嫌がらせをした挙句、「やめてほしかったらこっちに戻ってこい」という政策を進めていくことになります。

ドイツはまず、三帝同盟を構成するもう一つの相手であるオーストリアとの間で、「独墺同盟」を結びます。(1879年10月7日)

【独墺同盟】
第1条 調印国の希望と真摯なる要求に反して、ロシアが両帝国の一つに攻撃をかけたならば、調印国は帝国の全力をあげて支援する義務を負う。従って共同のまた相互の同意によらなければ講和に応じない。

第2条 もし調印国が別の一国に攻撃された場合、調印国はその同盟国への侵略者を支持しないことはもちろん、同志の国にたいして少なくとも好意的な中立を保つ。

しかしながら、もし侵略国がロシアの支援を受けているとするならば、それが共同行動によるかまたは被侵略国の脅威となる軍事的手段を伴うものであれば、第1条の相互扶助の趣旨に沿って、調印国はその全力をあげて、共同行動に移る。この場合、共同した和平が達成されるまで調印国の戦争は継続される。

第3条 この条約の期間は批准の日から仮に5年間とする。この条約の満了するに至る1年前から調印国はこの条約の基礎となる条件が継続しているか、それ以上の延長について合意できるか、詳細について修正が必要かの疑問について協議するものとする。この条約の最終年度の始めの月にどちらかの調印国からこれらの交渉について招請状が発せられないとき、条約はその後3年間に限り延長されるものとする。

第4条 この条約の平和的趣旨に鑑みて誤解を避ける目的で調印国により秘密とされる。第3者に公開するときは両者による共同議定書によってのみ行われ、また特別合意に従うものとする。

調印国はアレクサンドロボ会議でロシアのアレクサンドル皇帝により表明された見解についてロシアの軍備は調印国への脅威とならないことを希望する。従って、本件につき連絡をする必要を認めない。しかしながらこの希望が期待に反し誤りだと証明されたならば、調印国はアレクサンドル皇帝に、片方への攻撃は両方への攻撃を意味することを秘密裡に通告することが、忠良なる義務であると理解したい。

第5条 この条約は両国皇帝の認可に有効性の基礎を置く。そしてこの認可がなされたあと14日以内に発効するものとする。

がっつりと条約の内容が掲載されていましたので、転記しておきます。転記元はWikiです。

かなりロシアに対して挑発的な内容ですね。ちなみに、ここに記されている「アレクサンドル皇帝」とは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のことで、イギリスが清国に対して仕掛けたアロー戦争に便乗して参戦し、満州北東部を清国に割譲させた人物です。(参照:第74回の記事

「農奴解放令」を実施した人物として 第297回の記事 でもご紹介しましたね。

後、ここに書いてある「アレクサンドロボ会議」が何を意味するのかは現在の私にはわかりません。

その他、様々な「嫌がらせ」をロシアに対して仕掛けるのですが、一方のロシアでは。

第297回の記事 で少しご紹介したように、「農奴解放令」など、様々な改革を実施したことがかえってロシアやロシア支配下にあるポーランドなどの民族主義者を活気づかせ、ロシアでは武装蜂起やテロ行為が頻発するようになり、ナロードニキ(人民主義者)たちによる皇帝暗殺計画が頻繁に計画されるようになります。

ナロードニキたちはフランスに逃亡するのですが、フランスからはその引き渡しを拒否されるなど、フランスからもロシアは孤立するようになります。フランスは共和制で、ロシアは帝政なので、そのあたりが影響したのでしょうか。

そして、ロシアの外交的孤立が深まる中、1881年3月13日、ついにアレクサンドル2世はナロードニキ(人民主義者)たちの手で暗殺されてしまいます。


ロシア外務大臣ゴルチャコフの失脚とロシア新皇帝アレクサンドル3世

アレクサンドル2世の下で外務大臣を担っていたのがゴルチャコフという人物なのですが、ロシア外交の中で「反ドイツ」「反ビスマルク」の象徴的な存在であったのも彼でした。

アレクサンドル2世の後を引き継いだアレクサンドル3世は、逆にドイツとの関係改善を求めるようになり、ゴルチャコフは外務大臣の座を追われることとなります。

ビスマルクの思惑通り、ついにロシアはドイツに歩み寄ることとなり、再び「新三帝同盟」である「三帝協定」が締結されました。(詳細な月日は不明ですが、1881年の出来事です)


さて。この後ビスマルクはイタリアとの間で「独墺伊三国同盟」を、更にルーマニアとの間では「独墺ルーマニア三国間同盟」を、1887年7月に墺露の関係が悪化し、三帝協定が破綻するとイタリア、イギリスとの間で地中海協定(後にオーストリアも参入)、ロシアとの間では「独露再保障条約」を締結します。

これらの「同盟」や「条約」が一体どのようなものか・・・という解説は非常にややこしいので、今回の記事及びシリーズでは割愛します。

重要なのは、このような外交政策を通じてビスマルクはフランスを孤立化させることに邁進し、確かに「露土戦争」やセルビア・ブルガリア間での紛争など、バルカン半島における戦火こそ上がってはいるものの、この地域を除く欧州一体での「戦争」は一掃されていたということ。

これは、ビスマルクが失脚した後のドイツやその他ヨーロッパ地域をめぐる動向を見ているととてもよくわかると思います。

これは、「社会主義者」に対する動向も同様です。

確かに、ドイツ帝国結成後、特に最後の10年間のビスマルクの動きは必死さを感じさせるほど何かに焦っているように感じさせられる部分もあります。社会主義者対策も同様ですね。

次回記事では、そんな首相末期のビスマルクとその失脚に向けた動きを記事にしていければと思います。



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<継承する記事>第445回 ビスマルクの外交政策~欧州から戦争を一掃したビスマルク体制~

前回の記事では、「欧州から戦争を一掃したビスマルク体制」と銘打って記事を作成したわけですが、ビスマルクがドイツ帝国となったまさにその直後に起きていますね・・・「露土戦争」。

ロシアとトルコですので、「欧州」というわけではない、ということでしょうか。もちろん同タイトルを銘打ったのはそういう記述を何かで見たからそういうタイトルをつけたわけですが、このあたりも含めて、追いかけていきたいと思います。


露土戦争はなぜ起きたのか~「東方問題」の元凶

露土戦争が起きたのは1877年4月。宣戦布告はロシア帝国側から、1877年4月24日に行われているのですが、実はこの露土戦争。勃発に至った経緯としては 前回の記事 で話題にしたクリミア戦争と同じで、「バルカン半島」という地域が持つ独特の事情。「東方問題」が原因で起きています。

クリミア戦争は、「オスマントルコの事実上の支配下」にある「スラブ人国家モンテネグロ」がオスマントルコと軍事衝突することがきっかけとなって起きています。

一方の露土戦争は、同じくスラブ人国家であるヘルツェゴビナで、「ヘルツェゴヴィナ蜂起」が起きたことが根本的なきっかけとなって起きています。

「ヘルツェゴビナ蜂起」とは、ヘルツェゴビナに居住する「キリスト教徒」によって起こされたものです。この、ヘルツェゴビナのキリスト教徒の動きは「セルビア」や「モンテネグロ」のスラブ人たちに支持され、両国はオスマン帝国に対して宣戦布告を行いました。

私は 今回のシリーズ の中で、たびたび「ナショナリズム(民族主義)」と「愛国心」との違いについて言及していると思います。

日本の場合は、「日本列島」という限られた地域に居住する「大和民族」を、同じ「大和民族」が支配、もしくは管理する状況が現在に至るまで継続して続いています。

ですから、「ナショナリズム」といえばもちろん「大和民族」または「日本人」のことを指していますし、「愛国心」といえば自分たちが住む「日本」という国のことを指しています。

ですが、欧州の場合、日本とは事情が異なります。ヨーロッパでは、そのほとんどの国や地域でその土地に居住している「民族」と、その民族を支配している民族が異なります。ですから、「民族主義(ナショナリズム)」という言葉は、その自分たちを支配する民族、支配層からの「独立」を意味していますので、「愛国」とは対極に位置するものになります。

この様な事情から、ヨーロッパでは「民主主義」と「民族主義」が一致性を見る場合もあるのですが、日本で「民族主義」を掲げると、逆に異民族の排斥を行うようなイメージがもたれてしまいます。

少し話がそれましたが、「バルカン半島」における「スラブ人国家」もまた同じような事情を抱えていました。

しかも同地域に居住するスラブ人のほとんどが「キリスト教徒」でしたが、支配する層は「オスマン帝国」。イスラム教を国境に掲げる国です。

ですから、同地域では「民族」と「宗教」がセットで問題となっていましたから、事態はより複雑です。

そして、「ロシア人」はまたこういったスラブ人国家と同じ「スラブ人」ですから、バルカン半島に居住するスラブ人たちを支援するわけです。ですが、こういったロシアの動きは欧州の他の国家、「イギリス」や「フランス」、そして「オーストリア」からは領土を拡大するための「南下政策」であると受け止められてしまうのです。

ですからクリミア戦争ではイギリスやフランスは異教徒であるはずのオスマン帝国を支援しましたし、友好関係にあったはずのオーストリアもまた、この戦争に対しては「中立」の立場を貫きました。

「東方問題」とは様々な国家や民族の思惑が絡み合っていますから、より複雑なものとなっているんですね。


ブルガリア人虐殺問題とライヒシュタット協定

ただし、今回の「露土戦争」に関しては、唯一「クリミア戦争」とは異なる事情がありました。

これは、同戦争が勃発する前、ヘルツェゴビナ蜂起と時期を同じくして、スラブ人ではなくブルガリア人が起こした「四月蜂起」において、4万人者ブルガリア人キリスト教徒がオスマン帝国によって逆されたという事実。

この事がヨーロッパ諸国の反発を買い、クリミア戦争の時にオスマントルコに見方をしたイギリスやフランスは露土戦争ではオスマントルコを支援しなかったということ。

また更に、三帝同盟を結ぶロシアとオーストリアは、ロシアが宣戦布告を行う前、事前に「ライヒシュタット協定」という協定を結んでいました。この時点ではまだロシアは宣戦布告をオスマン帝国に対して行っておらず、当事者はオスマントルコと「セルビア」「モンテネグロ」の2国ということになります。

ですので、両者の協定は「セルビアとモンテネグロがトルコに勝利した場合」という前提条件で交わされました。

様はその後の領土調整が協定には含まれており、オーストリアが獲得するとされた領土に「ボスニア」と「ヘルツェゴビナ」が含まれていたのです。その代わりとしてロシアはオーストリアが同戦争に対して「中立」を貫くことを確約させます。

これは、セルビア、モンテネグロがトルコに宣戦布告を行ったことでロシア国内の「汎スラブ主義者」たちを抑えることができなくなったロシア(が、ドイツ皇帝であるヴィルヘルム1世に相談した事から起きたことです。既にロシアからは兵器や軍資金が両国に対して援助されていましたし、ロシアが同戦争に介入する可能性は非常に高くなっていました。

ですが、当然オーストリアはこれを快く思わないことが想定されますので、外務大臣であるアレクサンドル・ゴルチャコフは、トルコ分割案を手土産にドイツを訪れた際、ヴィルヘルム1世よりそのことを事前にオーストリア首相であるアンドラーシ・ジュラに相談するよう助言を受けたのです。その結果としての「ライヒシュタット協定」でした。

ちなみに、ここでオーストリアが獲得されるとした「ボスニア」と「ヘルツェゴビナ」ですが、「サラエボ事件」が「第一次世界大戦」へと発展する理由を捕捉するために作成した 第307回の記事 で、1908年にオーストリア(・ハンガリー帝国)が同領土を併合したことを記事にしました。

その伏線ともいえる話題ですね。

この事で、ロシアは両国の戦争に介入する下準備は整ったわけです。


露土戦争の結果とサン・ステファノ条約

こうしてロシアはトルコに対して宣戦布告を行い、トルコとの間での「露土戦争」が勃発します。

露土戦争はロシア、セルビア、モンテネグロ以外にも「ルーマニア」「ブルガリア」が参戦し、結果としてロシア軍の完勝に終わります。

この後、ロシアとオスマントルコとの間で結ばれたのが講和条約である「サン・ステファノ条約」です。

【サン・ステファノ条約】
・アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、およびアナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バヤジト地方のロシアへの割譲

・ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認

・ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大ブルガリア公国が成立)

・ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与

これだとイメージしにくいかもしれませんので、再びこちらの地図を。

1900.jpg

この後「ベルリン会議」が行われ、この地図の領土はベルリン会議の後決定されたものですが、イメージはしていただきやすいと思います。

この地図で言えば、ロシアの支援を受けて(サン・ステファノ条約上)独立したのが「ルーマニア」「ブルガリア」「セルビア」そして「モンテネグロ」。地図には記されていませんが、セルビアとイタリアの間に挟まれた「オーストリア・ハンガリー帝国領」に位置する「ボスニア・ヘルツェゴビナ」。

この領土が一気に広がったわけです。このほかロシアが獲得している領土は地図上でルーマニア・ブルガリアの東側に位置する「黒海」。この西部の一部エリアと東部一部エリア、プラスオスマントルコ領東部です。

オスマントルコ領がイメージしにくいかもしれませんので、現在のトルコを掲載しておきます。

トルコpng

ちょうど地中海の真南に位置しますね。

「ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与」とありますが、この時点ではまだオーストリアとの協定は反映されていない形になりますね。

そして、この状態だと特にロシアの支援を受けて「ルーマニア」「ブルガリア」がそれぞれ事実上「独立」することになりますから、バルカン半島に対するロシアの影響力が一気に拡大することをイギリスなどは恐れました。

ちなみにブルガリア領からオスマントルコ軍は撤退することを条約上約束するわけですが、これを監視する意味合いでロシアからは5万のロシア軍がブルガリアに駐留することになります。

この事は、イギリスだけでなく、「オーストリア」からも反発を買うこととなりました。

そして、ここで要約登場したのが「オットー・フォン・ビスマルク」でした。


次回記事では、「露土戦争」をめぐるビスマルクの動きと、サン・ステファノ条約を修正する形で行われた「ベルリン会議」、そしてその影響について記事にできればと思います。



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<継承する記事>第444回 アメとムチ? ビスマルクの社会保障政策~社会保障の創始者~

前々回 までの記事で、社会主義者であるラッサールと一定以上の信頼関係を築いたビスマルクが、一体なぜ「社会主義者鎮圧法」を作ってまで社会主義者を弾圧するにいたったのか。また「社会主義者鎮圧法」という法律で社会主義者をどのように取り締まったのかということを記事にいたしました。

そして、前回の記事 の記事では、そんなビスマルクが、社会主義者に対する弾圧に相反して、社会主義者たちが実行しようとした「社会保障政策」の成立を次々と成し遂げていく様子を記事にいたしました。

しかし、そんなビスマルクが、ヴィルヘルム1世が崩御し、その孫、ヴィルヘルム2世へと皇帝の座が引き渡される中で、なぜか社会主義者たちへの「弾圧」に強いこだわりを見せる様になり、最終的にヴィルヘルム2世の命令を受け、ビスマルクがあっさりとその法案の提出をあきらめた様子を記事にしました。

ビスマルクの「焦り」が一体何にあったのか。その改名は次回以降の記事にゆだねるとして、今回はそんなビスマルクが取った「外交政策」を記事にしていければと思います。


改めて復習する「ビスマルク」

ビスマルクとは、言わずと知れた「プロイセン」の首相。任命されたのは1862年9月23日の事。

ベルリン三月革命以降、経済的な自由を求めて活動する「自由主義者」たちが、ついにプロイセンの政権内部にまでも浸透し、プロイセンの軍事力は徐々に衰えを見せていくことになります。

1815年、ナポレオン戦争後のヨーロッパの在り方について話し合われた「ウィーン会議」によって、「ウィーン体制」が誕生しました。

プロイセンは、しかしウィーン会議後もナポレオン戦争当時の軍事態勢のままでいたため、プロイセンがオーストリアとの間で一触即発の事態に見舞われた「ヘッセン=カッセル選帝侯国内部での武力衝突」では、結果的にロシアの仲介を受け、オーストリアに対して大幅な譲歩(オルミュッツ協定)をせざるを得なくなってしまいました。

この事態を受け、後のヴィルヘルム1世、当時のヴィルヘルム王子だけでなく、ベルリン革命後に出来上がった自由主義政府もまた、軍制改革の必要性を実感していました。

ですが、その後複数回の選挙を経て、自由主義政府の中でも、国家予算を軍制改革に回すことに対して否定的な勢力が多く議席数を獲得していくこととなります。

そんな中、国王となったヴィルヘルム1世の思いを受け、軍制改革の実現をまずはその目的として抜擢された「首相」がビスマルクでした。

その後、「普墺戦争」を経て北ドイツを統一し、「普仏戦争」を経てドイツ全体を統一したのが「ビスマルク」でした。


ビスマルク外交の背景

ビスマルクが目的としていたのは、何よりも「プロイセン」という国家を平穏で安定した国家にすること。

そのための不安要素を排除するためにオーストリアと連合して起こしたのがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。ですが、「ドイツ関税同盟」に対する駆け引きでオーストリア外相「レヒベルク」が失脚したことを受け、今度はオーストリアを不安要素であると感じ取るようになります。

そしてオーストリアのガスタイン協定の破棄を皮切りにホルシュタイン進駐を決行し、そのまま「普墺戦争」へと突入。一気に北ドイツ全体を平定し、統合。

残る「不安要素」である南ドイツ諸国を自国と同じ法制度の下に置くためにフランスをけしかけて勃発させた「普仏戦争」。

オーストリアを除くドイツ全体をプロイセンと同じ法制度下で管理することができる状態にしましたので、ビスマルクからすればこれ以上「領土拡大」を行う必要性はありませんでした。

ですが、まずビスマルク率いるドイツ帝国に大敗したフランスはそうはいきません。また、突如として出現した「ドイツ帝国」という大国は、その他周辺諸国にとっても一つの「脅威」にすぎませんでした。

ビスマルクは、この時の自身の考え方を以下のような言葉で表現しています。

私の中にあるイメージとしては、どこかの領土を得るという事ではなく、フランス以外の全ての列強が我が国を必要とし、また列強相互間の関係ゆえに我が国に敵対する連合の形成が可能な限り阻止されるような全体的政治状況というイメージである。

フランスは、ビスマルク自身がけしかけた上に圧勝し、ナポレオン三世を失脚にまで追い込んだわけですから、フランスからドイツを「必要とされる」存在にしようとまでは思っていない、ということでしょうか。

この様な事情から、ビスマルクは「フランスがドイツに復讐できない状況」を作ることを重要視することとなりました。

フランスとドイツとの武力の間には大きな開きがあり、フランスがドイツに単独で戦争を挑んだとしても、フランスはドイツに勝つことはできません。

ビスマルクが最も恐れたのは、そんなフランスが他国との間で同盟関係を築いてドイツに戦争を挑んでくること。

ビスマルクが最も望んでいたのはドイツ帝国(もっと言えばプロイセン王国)の「平和」ですから、ビスマルクが最も嫌うのはドイツ以外の国と「敵対関係」を作ること。その意味で、ドイツがどこかの国に対して領土拡大のための侵略行為を行い、戦争状態に陥ることほど無駄なことはありません。

そんなドイツにとって、最も警戒しなければならない相手が「フランス」でした。ですから、ビスマルクは、フランスがドイツ以外の国と同盟関係を結べなくなる状況を作ることに邁進します。


ビスマルクと「三帝同盟」

以前に掲載した地図ですが、以下の地図をもう一度掲載いたします。

1900.jpg

1900年当時の地図ですので、少し年代は違いますが、1871年~1890年まで、ビスマルクがヨーロッパ全体で領土争いが起きることを食い止めていましたから、地図としてはそれほど大きな違いはないと思います。

ドイツの「敵」となりうる国、即ちドイツと国境を接する国は「オーストリア」「ロシア」「デンマーク」「ベルギー」「オランダ」の5カ国。中でも大国といえるのは「オーストリア」「ロシア」の二カ国です。

ですので、ビスマルクはまずこの両国と「同盟関係」を結びます。

フランスではナポレオン三世が失脚し、帝政から「共和制」へと移行しました。

「共和制」とは、いわば社会主義体制であり、社会主義体制が目指すものは「帝政の打倒」ですから、これを理由にビスマルクは、「帝国」である3国(ドイツ、オーストリア、ロシア)が同盟関係を結ぶことで、対フランス包囲網を築くことを提案しました。

この結果結ばれたのが「三帝同盟」なのですが、この同盟は同盟内に潜在的な問題を抱え込んでいました。


「ロシア」と「オーストリア」のシコリ

これが「クリミア戦争」などに代表される「東方問題」と呼ばれるもので、元々オスマン=トルコの勢力下にあった「バルカン半島」の民族の独立運動に、他のヨーロッパ諸国が介入していた問題に起因します。

先ほどの地図で言いますと、オーストリア、ロシア以南、ギリシャまでの半島が「バルカン半島」。オーストリア、ロシアはバルカン半島と直接国境を接していますので、この「バルカン半島」に対して各々「利害」を有していたわけです。

元々、オーストリアとロシアはプロイセンを交えて「神聖同盟」を結ぶなどしていて、お互いに友好関係にありました。もちろん、腹の中では何を考えているのかわからないような関係性ではありますが。

で、そんなオーストリアとロシアの関係に亀裂が入ったのが前記した「クリミア戦争」。1853年10月16日から1856年3月30日、ウィーン体制下の欧州に於いて行われた戦争で、元々はモンテネグロとオスマン=トルコとの間での小競り合いの様な紛争が、最終的にロシアとオスマン=トルコの戦争にまで発展した。そういった戦争でした。

私のブログではまだ「オスマン=トルコ」という国をテーマにして深堀したことはありませんから、私自身でもオスマン=トルコに対する情報はほぼ持っていないに等しいので、この戦争そのものをそこまで深堀することはしません。

問題となるのは、この時オーストリアがロシアに対して示した態度です。


クリミア戦争では、ロシアと対峙したオスマン=トルコを、イギリスとフランスが支援しました。

この事から、ロシアは苦境に陥り、オーストリアに助けを求めたのですが、これに対してオーストリアはオーストリアとの友好関係ではなく、自国の利害を優先し、同戦争に対しては中立の姿勢を示し、更にロシアとの国境に軍隊を終結させ、ロシアに対してオスマン=トルコと講和することを求め、応じなければロシアを敵とみなす意思まで表明しています。

ちなみにニコライ1世のロシア帝国は、オーストリアで起きたハンガリー蜂起において、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会談を行い、ハンガリーに出兵し、ハンガリー蜂起の鎮圧に協力しています。にも関わらず、オーストリアはロシアを裏切ったんですね。

ちなみに同戦争の講和会議はオーストリアとプロイセンの立ち合いの下で行われたのですが、これまで当時の国際協調関係の象徴であった「ウィーン体制」。これの根幹をなしていた「五国同盟」が事実上崩壊し、ウィーン体制そのものが終焉を迎えることになります。


三帝同盟の崩壊

ということで、元々「シコリ」を抱えたまま締結された「三帝同盟」なのですが、これもまたクリミア戦争と同じ「東方問題」が原因で崩壊することになります。

そもそも「東方問題」とは、ドイツ帝国への仲間入りをあきらめざるを得ないオーストリアが、北方、即ちドイツ側ではなく、「南方」、即ちバルカン半島側への影響力の拡大を目的としたものと、同じく「汎スラブ主義」の名の下にバルカン半島への南下を目指すロシア。

そして特にロシアの影響力拡大を恐れるイギリスやフランス、そして同じくバルカン半島と国境を接し、更に領土そのものを有する「オスマン=トルコ」との駆け引きが原因で起きた問題です。

ビスマルクの外交政策に焦点を当てて記事を作成する予定だったのですが、少しだけ記事を分けまして、次回記事では1877年、ロシアとオスマン=トルコとの間で再び勃発した戦争、「露土戦争」をビスマルクの三帝同盟と比較する形で記事にしたいと思います。



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