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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第443回 ビスマルクのとった社会主義者対策~社会主義者鎮圧法~

前回の記事では、ビスマルクがいずれ帝国の平穏を揺るがすことになるであろう「社会主義者」という存在に対し、ビスマルクが一体どのような対策をとったのか。これをその成立までの紆余曲折まで含めて記事にしました。

「社会主義者鎮圧法」という通称を持つ法律により、ビスマルクはドイツ帝国内で彼らが「結社」「集会」「出版」することを禁止しました。警察にはこれに違反した社会主義者(及び共産主義者)をドイツから追放する権限が与えられました。

「結社」が禁止されていますから、「ドイツ社会主義労働者党」という政党そのものが法律違反であることになります。

ですが、一方でビスマルクは本来社会主義者たちがその成立を目指していたであろう、「社会保障政策」を充実させていくことになります。

この事を、多くの記述では「労働者が社会主義運動に流れるのを防ぐため」に行われたものだと記されているのですが、ビスマルクの経歴を追いかけてきた私としては、ビスマルクがそんな打算的な意図で社会保障政策を実行したとはちょっと思えません。

ラッサールに関連する記事で掲載し続けてきましたように、彼はその必要性をずっと感じ続けていた人物です。ですから、彼はそんな打算的な意図ではなく、本当にそれが必要であると常々感じていたからこれを実現させたのだと思うのです。

しかし、社会主義者を弾圧しながら、一方でこのような、ビスマルクとラッサールの関わりを知らない人たちから見えれば「社会主義者たちを懐柔する」ように見えたビスマルクの政策は、当時ビスマルクの社会主義政策を廃止させようとしていた「フランツ・メーリング」という人物により、「アメとムチ」と揶揄されました。


ビスマルクの社会保障政策

ビスマルクがが導入した社会保障政策として代表的なものが

 「強制加入の社会保険制度の導入」。

彼が導入した社会保険制度とは、「労災保険制度」「疾病保険法」「障害・老齢保険法案」の3つです。実はこの制度の制定、ビスマルクが世界で初めて実現しており、彼はまさに「社会保障の創始者」。

ドイツでは、元々1871年に、「帝国責任法」という法律が制定されており、これが労災補償制度としての役割を担っていたのですが、この法律は雇用者側の責任で事故が発生した場合、その立証責任を労働者側に求めており、この事が訴訟にまで発展するケースもありました。

これに対し、炭鉱の経営者であった帝国党議員、シュトゥムという人物が、坑夫組合金庫をモデルとする強制保険制度への移行を提唱しました。また、プロイセン商務相の依頼で重工業家バーレという人物が作成した覚書を下に、ビスマルクは自らプロイセン商務相へと就任し、強制保険制度の導入を推進することを決定します。

彼が重要視したのは、民間の保険会社ではなく、国家が同保険制度を運営する事。そして保険料の一定の部分を国費で負担することです。

ビスマルクの考えた労災保険制度は以下の通り。(引用元 ドイツ自由主義と1881~84年の社会保険政策
。①工場・鉱山と一定の業種で働く年収2,000マルク以下の労働者・職員とその雇用者に対して、労災保険への加入を義務づける。(多数の労働者が働いていた
農業の分野は原則として除外)

②労災保険を管理・運用する新たな機関として、帝国保険施設を設置する。

③労災保険による支給は、事故後5週目に入ったときからとし、事故以前の賃金の2/3を補償の上限とする。当人が死亡した場合は、寡婦・遺児に年金を支給するが、合算して生前の賃金の1/2を上限とする。

④保険料は、年収750マルク以下の労働者については2/3を雇用者、1/3を帝国が負担し、750マルクを越え1,000マルク以下の労働者については2/3を雇用者、1/3を労働者、それ以上の年収のある者については労使が1/2ずつ負担する。

⑤同じリスク・クラスに属する経営は地域的にまとまって労災保険のための協同組合を組織することができる。

すごいですね。遺族年金までセットでついています。750マルク以下の労働者には労働者負担がありませんね。

そしてこの提案理由の中には、
「この目標を追求するうえで、社会主義的な要素が立法の中に持ち込まれるのではないかという懸念が、この道を歩むことを思いとどまらせるようなことがあってはならないのである」

とまで記されています。この記述だけ見ても、ビスマルクの意気込みが、決して社会主義者に阿るようなものではなかったことがうかがえますね。

ビスマルクはこのような保険制度のことを「国家社会主義」と呼んだのだそうです。

国家社会主義。第68回の記事 等で、私は北一輝が自身の記した『日本改造法案大綱』の中で、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要である」と記したことを紹介しています。

訳語として同じドイツ語になるのかどうかはわかりませんが、「国家社会主義」という考え方の生みの親はビスマルクだったんですね。

もちろん、北一輝の目指した「国家社会主義」とビスマルクの考えた「国家社会主義」とは全く性質の異なるものですが。

ただし。今回のシリーズのタイトル名である「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」。ここに含まれる「ナチス」という言葉。これは、彼のアドルフ・ヒットラーが党首を務めた政党の名前で、正式には「国家社会主義ドイツ労働者党」といいます。

ビスマルクの呼称した「国家社会主義」という言葉が、ドイツ語で正式になんというのかが現在の私にはわかりませんから何とも言えませんが、その「国家社会主義」という言葉が関された「ナチス」。どことなくビスマルク政策の影響を感じさせますね。


第一次・第二次労災保険法案

ところが、帝国議会はビスマルクの提出した第一次労災保険法案を大幅に修正し、保険主体を帝国政府ではなく「各邦国政府」とし、更に保険料は一律で労使が負担。国は負担することのない法案とし、これを可決してしまいます。

ビスマルクは、国家が同保険制度を運営する事。そして保険料の一定の部分を国費で負担する事(低所得者への恩恵)。この2点を最も大切にしていたのですが、結局この2点が議員たちから強い反発を受けることとなりました。

ビスマルクの考え方を全く理解していません。ビスマルクの考え方を「社会主義的」だとしました。自由主義者たちは、社会制度に対する「国家権力の介入」を極端に嫌ったんですね。企業経営の責任は、企業経営者(及び労働者)が負うべきだとしたのです。

企業が賠償責任を負えない場合、労働者の生活をどのように守るのかという発想が全くなかったのだと思います。

そしてビスマルクは、「帝国議会が議決した法案では帝国政府の意図に反して貧しい者に大きな負担を課すことになる」との考え方から、連邦参議院にてこれを否決。再び帝国議会を解散してしまします。(この時点で、ドイツ帝国という国家では、現在の日本でいう「内閣」と「国会」がきちんと分立していることもわかります)

ところが、この時にビスマルクが労災保険法の財源として「煙草専売化」を謳ったことから、これが煙草の値上げにつながると考えた有権者たちにより、保守党や帝国党、分離後の国民自由党は敗北。自由主義勢力が躍進する結果となったのだそうです。


1882年4月に召集された議会において、ビスマルクは再び「第二次労災保険法案」を提出するのですが、この法案では労働者が労災保険を受け取るための機関として、13週間の待機期間が設定されていました。

ビスマルクは、これをカバーするための保険制度として、冒頭で掲載した通り、ビスマルクは「疾病保険法案」も合わせて提出します。これは、労働者が疾病により「就労不能」となった場合の保険制度で、保険料の1/3を使用者が負担することになっていたのだそうです。

今の日本でいう「傷病手当」ですね。この「疾病保険法案」については大きな反発はなく、1883年5月31日に可決されたのだそうです。疾病保険法案は、既に執行されていたいくつかの「疾病金庫」を統合することが目的とされており、その保険料負担が1/3が企業、2/3が雇用者とされていましたから、これは通りやすかったんでしょうね。

ですが、結局「第二次労災保険法案」に関してはビスマルクが根回しを行ったにもかかわらず、結局廃案となりました。

ビスマルクの提示した労災保険法案は、現在の日本の保険制度と同じ「賦課方式」がとられており、これを今の日本で保険制度が批判されるように、「現在のつけを将来にまわす不当な方式である」との批判も行われていたようで・・・なんともはや。

時代は繰り返されるんですね。


第三次労災保険法案

翌年、1884年3月には、三度「労災保険法案」が帝国議会へと提出されます。

この法案の内容は以下の通り。引用元は同じく引用元 ドイツ自由主義と1881~84年の社会保険政策 からです。
①保険義務のある雇用者が全国規模ないし地域規模の「同業協同組合」を結成し、この組織が保険の担い手となる。したがって雇用者のみが負担する。「同業協同組合」は支部を結成することもできる。

②保険料は毎年の補償額を配分する「賦課方式」により徴収され、その際に「リスク・クラス」を反映させる。「同業協同組合」は毎年の補償負担額を越える保険料を徴収して「準備基金」を積み立てることもできる。

③「同業協同組合」の監督・裁決機関として常勤3名・非常勤8名のメンバーから成る「帝国保険庁」を設置する。

④労災発生後13週間は「待機期間」とし、疾病保険が負担する。

つまり、「疾病保険」は既に法案として成立していますので、残る変化は保険料の「国家負担」が排除されたこと。その代わり運営主体として民間保険会社が排除される内容は継続されました。

帝国議会で、ビスマルク案に反対する立場にあった「国民自由党」が、大きくその姿勢を変化させたことで、この第三次案は帝国議会を通過しました。引用資料 によれば、「中央党」「保守党」「帝国党」の3党がビスマルク政府との話し合いでまとめた妥協案が、委員会第二読会(今でいう予算委員会分科会のようなもの)を通過したことが、国民自由党の態度を変化させた大きな要因だったのではないか、とされています。


障害・老齢保険法案

ヴィルヘルム2世とビスマルク

この法案は、現在でいう「老齢年金」及び「障害年金」の事。

ビスマルクがこの法案を提出したのは、1888年11月22日の事。

『70歳以上になったか、あるいは労災と無関係な疾病や事故にあって稼得不能になった場合に支給される年金について定めた法案』です。

実は、この法案が提出された時、既にビスマルクがその「生涯の君主」として誓いを立てたヴィルヘルム1世は崩御(1888年3月9日)しており、更に彼の後を継いだヴィルヘルム1世の息子、フリードリヒ3世もまた1888年6月15日に崩御。

そしてそのドイツ帝国の皇帝の座は、ヴィルヘルム1世の孫、ヴィルヘルム2世へと受け渡されていました。ヴィルヘルム2世に対する記載はまた後日記事にて掲載する予定ですが、ヴィルヘルム2世。

そう。シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第351回の記事 で登場させた、、あの「ヴィルヘルム2世」です。

ビスマルクは、1889年10月、期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案を帝国議会に提出するのですが、様々な政党の反対によって否決されます。

ヴィルヘルム2世も、ビスマルクを支持する保守党も、同法の廃止を求めていたわけではなく、その「追加条項」を廃止することを求めていたのですが、どうもこの時のビスマルクには「焦り」のようなものが見られます。

追加条項に対する弱腰な姿勢を見せるヴィルヘルム2世に対しビスマルクは、
もしこの法案が政府の提案通りに採択されないなら、法律なしで(社会主義者に)対処せねばならず、波は高まるままになり、やがて正面衝突は避けられない。

かかる重大問題において陛下が異なる考えを抱いておられるなら恐らく自分は適所にあるとはいえない

とし辞任をちらつかせてまでヴィルヘルム2世に同法案に対する賛同を求めています。

同法案が否決されたのは1890年1月24日。

2月4日、皇帝より「労働者保護勅令の2月勅令」が発せられるのですが、ビスマルクはこれに対する署名を拒否。更に同勅令で予定されていた労働者保護国際会議の開催に対する妨害工作を図ります。これをきっかけに、ヴィルヘルム2世はビスマルクと決別する姿勢を鮮明にしました。

2月20日に行われた帝国議会選挙では、ビスマルクを支持する「保守党」、「帝国党」、「国民自由党」の3党(カルテル3党)が敗北し、中央党・自由思想家党・ドイツ社会民主党(ドイツ社会主義労働者党が名を変えたもの)の3党が躍進。

3月2日の閣議において、ビスマルクは更に厳しい社会主義者鎮圧法提出の方針を示すのですが・・・

結論から申しますと、社会主義者鎮圧法は、最終的に皇帝より提出をやめるよう命じられたビスマルクが、これをあっさり了承したことで消滅することとなりました。

このあたりのいきさつはまた後日記事にて掲載いたします。

次回記事では、時期をビスマルクのドイツ帝国首相就任時にまで差し戻して、今度は「ビスマルク外交」について記事を作成できればと思っています。



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<継承する記事>第442回 ビスマルクの恐れた社会主義~パリ・コミューンの樹立~

前回までの記事で追いかけてきましたように、ドイツ帝国が誕生し、ようやくヨーロッパ全土に「平和」が訪れた頃、ドイツ帝国内で台頭し始めた「社会主義勢力」。

その最も顕著なグループが「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」と、その両勢力が統合して誕生した「ドイツ社会主義労働者党」。

そこにはすでに「全ドイツ労働者協会」を発足させ、ビスマルクと一定以上の信頼関係を築いたラッサールの思いは既になく、隣国フランスで発足した「パリ・コミューン」の支持を真っ先に表明した両党が統合し、たかが12議席とはいえこれまでの総選挙を大きく上回る議席数を獲得した「ドイツ社会主義労働者党」。

この政党の躍進は、ビスマルクに危機感を覚えさせました。

ビスマルクは社会主義者であったラッサールと一定以上の信頼関係を築きましたし、彼の死後、ラッサールの同意であったローター・ブハーを自身の側近とするほどでしたから、「社会主義」そのものには一定以上の理解を示していたものと思われます。

実際、ラッサールの目指した社会保障政策は、「普通選挙制度」まで含めてビスマルクの手で次々と実現されていきました。

ですが、それでもビスマルクが「ドイツ社会主義労働者党」を恐れた理由は、同政党がラッサールではなく、マルクスの影響を強く受けた連中で結成されていたこと。

ラッサールの目指していた社会主義は、政府との「対話」との中で生み出されるものであったのに対し、ベーベルやリープクネヒトが発足させた「ドイツ社会民主労働党」やシュバイツァーが会長職を辞任した後の「全ドイツ労働者協会」が目指していた社会主義は、あくまでも「共産主義社会」を目指す途中経過にすぎず、彼らが目指していたのは「プロレタリア独裁政府の発足」。

つまり、プロレタリアートによる「革命」を起こすことです。

ビスマルクからすれば、そんな「革命」を起こす必要のない社会を作ろうと、(矛盾しているようですが)2度の戦争まで起こして「ドイツ帝国」を作り上げたわけです。


話題は逸れますが・・・

第67回の記事等 におきまして、私は「2.26事件」という日本で起きたクーデター未遂事件について何度か取り上げたことがあります。

その犠牲者の一人として有名なのが「高橋是清」です。彼は、第一次世界大戦後、「昭和金融恐慌」及び「昭和恐慌」という二度の不況に襲われた日本を、奇抜な財政政策によってその不況の渦より脱却させた人物です。

ですが、2.26事件を起こした「皇道派」と呼ばれる軍人たちは、是清のおかげで当時の日本国経済が立ち直りつつあるにも関わらず、それを信じることができずにいましたから、自分たちの生活が苦しいのは政府のせいであると考え、是清もそんな自分たちの生活を苦しめる政府側の人間の一人である、と思い込んで暗殺してしまいました。

自分たちがクーデターを起こし、「天皇を輔弼(助言)する役割のある政府側の人間」を全滅させ、自分たちの考える政治を実現することで、自分たちの生活が豊かになると考えたのです。

ですが、皇道派(北一輝らの受けた日本版共産主義を妄信した軍人たち)の軍人たちが望む生活は、今まさに高橋是清の政策のおかげで実現されようとするその真っ只中にあったのです。

日本軍の中でもう一つの派閥を構成していた統制派が、陸軍大学校出身の、いわば「エリート層」で構成されていたのに対し、行動派の中にそのような陸軍大学出身の者はほとんどおらず、農村出身の者も多い派閥でした。つまり、仕事がないから軍人となっている者も多かったわけです。

欧州風に考えれば、彼らは「プロレタリアート」的な存在でした。

ビスマルクの政治から考えてもそうなのですが、プロレタリアートたちは、自分たちの生活が向上する兆しを見せ始めた、もしくは自分たちが実現したいと考える社会が実現され始めた頃に革命に向けた動きを見せ始める傾向がある様に感じます。

現在の日本の共産党や社会主義政党の動きを見ていても同様に感じられるのですが、彼らは自分たちがやろうとしていることを、権力側の手で実現することを好ましく思わない傾向があるのではないでしょうか? 結果ではなくプロセスを重視しすぎる余り、「国民」にとって本当に大切なものが何なのか。これを完全に忘れてしまった存在。

それが「共産党」や「立憲民主党」、そして「自由党」や「社民党」といった正当なのではないか・・・と、そう思われてなりません。

ビスマルクのとった対社会主義政策

「ビスマルクのとった対社会主義政策」とは、即ち「社会主義者鎮圧法」の事。正式名称は、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律」。

この法律が制定されたきっかけとして、ビスマルクにとっての君主であるドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世が、2度にわたって暗殺未遂事件に巻き込まれたことがあります。(1878年5月11日及び6月2日)

これをきっかけとしてビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定しました。

1度目の発砲事件の犯人はマックス・ヘーデルというブリキ職人で、元ドイツ社会主義労働者党の党員。

2度目の発砲事件の犯人はカール・エドゥアルト・ノビリングという人物で、「博士」だったのだそうです。

1度目の発砲事件の弾丸は誰にも命中することはなかったのですが、ビスマルクはこれを社会主義労働者党の策略であるとし、この時に初めて「社会主義者鎮圧法案」を帝国議会に提案するのですが、この時は保守政党である国民自由党(議会多数派)が反対し、否決されました。

ただし、反対した理由は同政党が原則として「例外法」には反対していたためで、心情的には賛成はが多数いたことは事実であるようです。

2度目の発砲事件では弾丸がヴィルヘルム1世に命中し、その後数日間ヴィルヘルム1世は危篤状態となったのだそうです。

その後、彼は息を吹き返すものの、5か月間の入院生活を送ることとなりました。犯人は逮捕される直前に自殺を試みますが、即死には至らず、事件から3か月後、この時の傷が元で獄中死したのだそうです。

ですが、この犯人はそもそも何らかの政治思想があるわけではありませんでした。

ですが、ビスマルクはこれを受け、帝国議会の解散を宣言します。

ビスマルク政権寄りの新聞社が更に社会主義の危険性を訴える記事を掲載し、社会主義者への恐怖が煽られる中で、解散総選挙が行われ、ビスマルクは「社会主義者鎮圧法の是非」を訴えました。

このやり方は、「郵政民営化の是非」を問うて解散総選挙を行った小泉内閣のやり方とよく似ていますね。更によく似ているのが、この選挙の真の目的が、社会主義者鎮圧法に反対した「国民自由党」から、社会主義者鎮圧法に反対した議員を一掃することにあったこと。

国民自由党は、常にビスマルクの支持政党でったわけではありませんが、ドイツ帝国首相としてビスマルクが就任後の「最大多数政党」であったことを考えると、小泉内閣時代の自由民主党とよく似た存在であったと思います。

そしてビスマルクは、国民自由党から反対勢力を一斉するため、を「政府系・保守系の新聞」を利用しました。つまり、法案に反対した国民自由党を、「皇帝を守らなかった」と喧伝し、その結果、国民自由党からの立候補者のほとんどが社会主義者鎮圧法への賛成を公約として掲げたのだそうです。小泉内閣も同様にマスメディアを利用したところもありましたね。

結果、1876年7月にビスマルクの支援を受けて結成された「ドイツ保守党」、そしてプロイセン時代の「自由保守党」が名を変えた「ドイツ帝国党」が議席数を伸ばし、両政党の合計議席数が国民自由党と肩を並べるほどになりました。

国民自由党の面々も社会主義者鎮圧法への賛成を公約として掲げたわけですから、結果的に保守党、帝国党だけでなく国民自由党もまた同法案に賛成することになりますが、国民自由党左派は、同政党の「例外法の制定に原則として反対する」という理念が捻じ曲げられた、と感じていたようです。

例外法の制定は、「憲法で保障された国民の権利は放棄したり、縮小されたり」することになる、と彼らは考えていたようですね。

そして、第428回の記事 の文末でお伝えしました通り、1879年2月に成立した「保護関税法」の制定を受け、国民自由党左派は国民自由党から分裂。ドイツ進歩党と合流し、「ドイツ自由思想家党」を結成することとなりました。(1884年3月5日)


社会主義者鎮圧法とは?

さて。それでは、ビスマルクによる社会主義者対策として制定された「社会主義者鎮圧法」とは、いったいどのような法律だったのでしょうか?

社会主義者鎮圧法

どの資料もほぼ同様の記述がなされていますが、「社会主義者鎮圧法」とは、

 「社会主義的傾向をもつすべての結社,集会,出版を禁止」

したもの。ただし、彼らが議会の立候補することそのものは禁止しませんでしたので、社会主義者が活動を行える場所は唯一帝国議会のみとなり、表向き、彼らの活動は議会以外の場では禁止されてしまいました。ですが、この事が結局社会主義者たちの結束を深めるきっかけともなっていたようです。


引き続き、ビスマルクがとった「社会保障政策」を記事にするつもりなのですが、上記内容と合わせて記しますと、また記事が長くなってしまいそうですので、いったん記事を分け、次回記事にて続きを掲載します。






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<継承する記事>第441回 普仏戦争以降のドイツとマルクス~ラッサール後のドイツ社会主義~

前回の記事でも記しましたように、現在記事を書いている理由は、「ビスマルクがなぜ社会主義勢力に危機感を覚えるに至ったのか」。この理由を探ることにあります。

「マルクス」という人物に主眼を置いてこれを追いかけているわけですが、前回の記事ではマルクスの視点から見た「普仏戦争」にポイントを置いて記事を作成しました。

今回の記事では更に普仏戦争後、フランスにおいて樹立された「パリ・コミューン」という、「プロレタリア独裁政府」にポイントを置いて記事を作成したいと思います。


パリ20区共和主義中央委員会→パリ20区共和主義代表団

今回も基本的にWikiの記事をベースに進めてみたいと思います。

普仏戦争でナポレオン三世はプロイセンに敗北し、降伏して捕虜となります。

これを受け、パリではクーデターが起こり、ナポレオン三世のフランス帝政(第二帝政)は崩壊します。その後、成立したのが国防政府。(1870年9月4日:共和国宣言)

同政府に対し、ビスマルクが提示した講和条件は非常に穏当なものでした。

そもそも普仏戦争自体が帝政ナポレオン三世政府によって開戦されたものですし、新政府は自らそのナポレオン三世政府をクーデターによってうち倒したわけですから、同政府がこれ以上戦争を続けることはない、と考えていたのが第一点。

そしてビスマルク自身も、これ以上戦火を広げるつもりも毛頭ありませんでしたから。

ところが、何を思ったのか、その新政府は更にビスマルク軍に対して宣戦布告を行ってきたのです。そして、その結果としてフランス国防政府は、ドイツ帝国の間で、更に厳しい条件で講和条約を結ばざるを得ないこととなりました(フランクフルト講和条約)。

フランクフルト講和条約

フランクフルト講和条約

・ドイツ皇帝の承認
・統一ドイツとフランスの領土線の確定(=アルザスの併合)
・アルザス地方からのフランス系住民の追放
・賠償金50億フランの支払い(3年間の期限付き)
・賠償金が支払われなかった場合、国境地帯の重要施設を更に併合する
・特定地域からのドイツ軍撤退

読み込んでみますと、どうも共和国国防政府そのものは早期和平を望んでいた様で、徹底抗戦を要求したのは民衆であったようです。

国防政府そのものはブルジョワ色が強かったことから、パリの労働者たちは「裏切りである」と感じており、この頃からフランスの各都市で、中央政府から離脱し、革命政権として自立する動きが見え始めていたんですね。

普墺戦争や普仏戦争によってナショナリズムが煽られ、バラバラだったドイツ諸国の「ドイツ民族」がビスマルクによって統合されていく「ドイツ帝国」とは真逆の動きがフランスでは起きていたということ。

現在でも「コミューン」という言葉には日本の「市区町村」に相当する様な意味合いがあるのだそうですが、当時のフランスでも「コミューン」という言葉に、「革命自治体」、という意味合いがあったのだそうです。後のロシアで登場する「ソビエト」の様なものですね。

共産主義はもともと「コミュニズム」というものが正式名称ですから、その影響も受けているのだと思います。

1870年9月11日に「パリ二十区共和主義中央委員会」が発足します。

国防政府がプロイセンに宣戦布告したのが9月6日ですから、その5日後の出来事です。ですが、Wiki、「パリ・コミューン」のページによれば、この時点で国防政府は「国防」への関心はすでに薄れていたのだとか。

一方でプロイセンに対する降伏を拒否し、徹底抗戦を主張したのはこの「パリ中央委員会」だったんですね。パリ中央は、『パリ中央は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ』という規約を採択し、更に『市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議』を採択。

この様に、国防政府の発足が9月4日ですから、国防政府の発足より期を待たず、「パリ中央委員会」は国防政府に対する敵対姿勢を明確にし始めていたんですね。

一方で国防政府もまたパリ中央委員会を阻止しようとする動きに出ましたから、両者の対立は決定的なものとなりました。

この後、プロイセンによってパリ周辺の主要拠点が陥落し、国防政府とパリ中央委員会、及びパリ民衆はいよいよ「休戦」と「徹底抗戦」をめぐる争いへと突入することとなります。

1871年1月、パリ中央は「パリ20区共和主義代表団」へと名称を変更し、国防政府に政権の座を明け渡すよう要求を突きつけます。

この時、パリでは食糧を含む物資が圧倒的に不足しており、この事も代表団側からの要求に加えられていたのですが、代表団は同時に徹底抗戦を求めていました。

ですが、パリ市民がそもそも食糧不足に陥っていたのは、圧倒的な武力の差があるプロイセンに対し、徹底した籠城戦を挑んでいたから。さっさと敗北に意思をしめせば、これ以上苦しむこともないわけですが、彼らにはその発想はなかったということでしょうか。

この間、代表団は国防政府に対し、『市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議』に基づく市議会選挙の実施を求め続けていました。

1月28日、国防政府はついにプロイセンと休戦協定を成立させ、パリ籠城戦が終結します。

その後、2月8日にフランスでは総選挙(国政選挙)が行われ、アドルフ・ティエールという人物が「行政長官」を務める新政府が誕生します。(逆に言えば、プロイセンに降伏した後、即座に選挙ができるような状況にあったということ)

そして、ティエールの下でプロイセンと締結されたのが冒頭でお示しした「フランクフルト講和条約」。「講和成立によってパリ市民と政府との亀裂は決定的となった」と記されているのですが、選挙で選ばれたはずなのに、ティエール政権はもうすでに政権としての体をなしていないように感じますね。


パリ20区共和主義代表団と第一インターナショナル

「第一インターナショナル」としていますが、ここでいう第一インターナショナルとは、第一インターナショナルフランス連合評議会の事。第一インターナショナルフランス支部、みたいなもんですね。

選挙において第一インターナショナルフランス連合評議会はパリ20区共和主義代表団、及び労働者連合組合会議と統一戦線を組みました。そしてその後も代表団に対する援助を継続しており、休戦後、2月15日の時点でなお、「いかにプロイセンと戦うか」ということを協議していたようです。

ビスマルクはすでに戦争する必要性など全く考えていませんでしたし、これ以上フランスに攻め込むつもりなど全くなかったにも関わらず、です。

一方のパリ代表団は、共産主義お得意の「機関紙」(ル・クリ・ド・プープル)を刊行し、「原則宣言」なるものを掲載しています。
すべての監視委員のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。

したがって、あらゆる可能な手段によって、ブルジョアジーの特権の廃止、ブルジョアジーの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し追及する。<中略>階級そのものも存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。

政治的領域においては、共和制を多数決原理の上に置く。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、議会という間接的な手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない。

それゆえに現社会が政治と社会の革命的清算によって変革されてしまうまで、あらゆる議会の招集に実力で反対する。<中略>革命的コミューン以外のものは認めない。

つまり、自分たちが所謂「共産主義」革命を目指していることを、堂々と機関紙で訴えたということですね。

一方、国防政府内にもティエール政府に反対する兵士たちが「国民衛兵中央委員会」を組織しました。彼らは、政府軍の統制から外れ、「義勇軍」として行動し、ティエール政府がプロイセンと協定を結んだ後もプロイセン軍に対する抵抗を呼びかけていました。

政府の命令で衛兵軍を排除しようとした政府軍の2名の将軍は逆に衛兵の捕虜とされ、群衆たちによって殺害されてしまいます。

これをきっかけに巻き起こったのが「パリ・コミューン革命」。パリ市民は武装蜂起し、ティエールは軍及び政府関係者とともにヴェルサイユに逃走しました。

この後、パリにおいて「コミューン政府の選挙」が行われ、ついにプロレタリア(労働者階級)による独裁政府、「パリ・コミューン政府」が誕生しました。(1871年3月28日)

パリ・コミューン式典


カール=マルクスとパリ・コミューン

パリ・コミューンそのものはその後、ヴェルサイユ軍によって崩壊。ヴェルサイユ軍によってパリ市民が大虐殺されることとなりました。(1871年5月27日)

普仏戦争が勃発したとき、マルクスは
もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。

そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。

世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している

としてその開戦に熱狂しました。

そしてこの時批判した「プルードンの理論」とは、即ち「アナーキズム(無政府主義)」の事。自身の「プロレタリア独裁論」を否定する考え方を批判する意味で、フランスの社会主義者であるプルードンの名前を用いたわけですが、結果的に自分自身が批判した「プルードン」の地元で、「プロレタリア独裁政府」が誕生しました。

マルクス、ほんとに行けてないと思うのですが、マルクスはそんなパリ・コミューンの成功を、後に「フランスにおける内乱」名前で書籍化される声明で絶賛します。

一方のビスマルクは、この反乱に対し、フランス兵捕虜を釈放し、ティエール政府軍に参加させることで、ティエール政府軍を支援しています。

ビスマルクからすれば、本来ナポレオン三世の降伏で終結させるつもりだった普仏戦争が、パリのプロレタリアートたちによって永続化され、双方に多大な犠牲を生み出すことになったのですから、当然の結果といえるのかもしれません。


ドイツ帝国内において、パリ・コミューン政権が誕生したとき、真っ先にこれに対する支持を表明したのがドイツ社会民主労働党と全ドイツ労働者協会でした。

そして両政党に真の「ラッサール派」はもういません。マルクスが目指す「プロレタリア独裁」、即ち「パリ・コミューン政府」がやったことと同じ「革命」を目指す両勢力が統合され、議席を獲得したのが「ドイツ社会主義労働者党」。

こう考えると、ドイツ帝国誕生後のドイツにおいて、最大の社会主義勢力が誕生し、たかが「12議席」とはいえ、国内で50万票の票数を獲得した同党のことを、ビスマルクが「帝国の敵」であると意識したのも無理はないのではないでしょうか。

さて、いよいよ次回以降の記事では視点を「ビスマルク」へと戻し、ビスマルクのとった対社会主義政策、及び外交政策へと展開していければと思います。



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<継承する記事>第440回 マルクスの視点から見るラッサール死後のドイツ社会主義

現在記事を作成している短期的な目的は、ラッサールの時代、理解を示していた「社会主義」に対して、ビスマルクがなぜそれに危機感を覚えるに至ったのか。これを探ることを目的としています。

社会主義(共産主義)の始祖ともいえる「マルクス」を中心にこれを探ってきたわけですが、私自身が記事を作成していく中で、「ラッサール」という人物に巡り合ったことから、途中よりこの人物の視点からドイツの「社会主義」について記事を作成してきました。

ですが、どうしてもそれだけではすっきりしない部分がありましたので、同じ歴史を今度は「マルクス」の視点から書き直しているのが 前回の記事 よりの内容になります。

前回の記事 では、ラッサール死後の「ドイツ社会主義」を、彼の後継者とされるシュバイツァーとマルクスの関わり、及びもう一つの社会主義勢力であるドイツ社会民主労働党より、マルクスと「リープクネヒト」の関わりから「普墺戦争以前のドイツ社会主義」を検証してみました。

マルクスからの指示を受けて(かどうかは定かではありませんが)、ビスマルクが政治の表舞台に躍り出たプロイセン「ベルリン」に移動したリープクネヒトは、結局ベルリンを追放され、ザクセンの「ライプツィヒ」へと移動します。

彼は、ここでベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しました。普墺戦争の結果を受けてのことです。

「ラッサール派(全ドイツ労働者協会)」に対抗して結成していますので、ベーベルやリープクネヒトは、ラッサール(もしくはラッサール派)の主導する社会主義は、本当の社会主義ではない、と考えていたのかもしれません。彼らの目指す「社会主義」は、その先に「共産主義」を見据えていましたからね。

そんな「ザクセン人民党」は、その中に抱える「矛盾」、即ち「ブルジョワ」と分裂し、新たに「ドイツ社会民主労働党」を結成しました。

ここまでが前回の記事の内容です。

今回の記事では、「普墺戦争」、つまり「北ドイツ連邦」が結成された後のドイツと社会主義陣営の関わりを記事に起こしてみたいと思います。


マルクスと普仏戦争

第422回の記事 で話題にしました様に、「北ドイツ連邦」誕生後、「プロイセンのルールが通用しないドイツ国」である「南ドイツ4カ国」をプロイセンのルールで統一することを目的として、ビスマルクは「普仏戦争」を仕掛けました。

プロイセン王(北ドイツ連邦主席)ヴィルヘルム1世から受け取った「エムズ電報」の一部を省略し、ナポレオン三世の「悪意」が誇張されて見えるように編集したものを新聞に掲載することでフランスを煽り、フランスから戦争を仕掛けさせ、これを南ドイツを含めた「ドイツ民族」の「ナショナリズム」を煽ることに利用しました。

対した準備もせずプロイセンに戦争を吹っ掛けたフランスに対し、プロイセンは法整備まで含めて準備万端。ものの1か月半でナポレオン三世を降伏させました。

その結果として、「ドイツ帝国」が結成されるわけですが、この時「ナショナリズム」を煽られた人物の中に、あの「マルクス」や「エンゲルス」も含まれていたのです。


マルクスとプルードン

プルードン

結局・・・といいますか、マルクスが目指していたものは、ビスマルクによって実現されたものと同じものではなかったのか、とつくづく考えさせられます。

ビスマルクがフランスを撃破していく様に、マルクスもまた熱狂しているのです。

開戦においてマルクスは、フランスに対する批判を以下のように展開しています。
フランス人はぶん殴ってやる必要がある。

もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。

そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。

世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している

いろいろとツッコミを入れてやりたくはなります。マルクスはそもそも「反権威主義」で、ビスマルクのことを「封建主義的である」と批判していた人物です。

何よりフランスに戦争を挑んでいるのはそんな「権威主義」の象徴(とマルクスらが主張する)であるビスマルク率いるプロイセン(と南ドイツを含むドイツ諸国)政府であり、間違っても「ドイツ労働者階級」ではありません。

ですが、マルクスのこの主張によれば、ビスマルクがナポレオン三世を撃破すれば、ドイツ労働者階級の理論が、フランスの労働者階級の理論に勝利することになるわけです。

で、マルクスはその象徴として「プルードンの理論」を挙げています。

では「プルードンの理論」とはそもそも何を言っているのかと申しますと、簡単に説明すれば「アナーキズム(無政府主義)」。マルクス派その状態に至るまでの過程として「プロレタリアによる独裁」が必要だとしていますから、いうなれば「アナーキズム」対「プロレタリア独裁論」。

プルードンは、「アナーキズム」の始祖になるんだそうですよ。この辺り、段々整理できてきました。プルードンはフランス出身の社会主義者であり、彼が発行した「貧困の哲学」という書籍を、マルクスは「哲学の貧困」という書籍で批判していたのだそうです。

マルクスはプルードンに対する対抗意識をむき出しにしていたんですね。

更にエンゲルスは
今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ

と語っていたのだとか。「ドイツの守護天使」が一体何を意図しているのか。「ビスマルク」に他なりませんね。

一体どこまで矛盾しているんだ、この人たちは・・・・と。

1864年9月28日に創設された秘密結社、「第一インターナショナル」の場でマルクスは、
ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。

だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。

こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか

と発言しています。

「ケーニヒグレーツの戦い」とは普墺戦争における対オーストリア戦でオーストリアに対するプロイセンの勝利を決定づけた戦いです。「第二帝政」とはナポレオン三世によって統治されたフランス帝政の事。「ボナパルト」とはナポレオン三世のことです。

そして「ライン川の両岸」とは「ドイツ連邦」の事。

そしてマルクスが「ボナパルト体制」として批判しているのは当時の「北ドイツ連邦」に他なりません。

自分たちが熱狂し、大歓迎していながら、同時に同じ体制を批判する。これ以上矛盾した姿勢はないと思います。

更にマルクスは同じ第一インターナショナルの場で
今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。

もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう

とも発言しています。

ビスマルクはもちろんフランスを征服するために同戦争を起こしたわけではありませんから、マルクスが主張したような行為は行っていませんし、何より普仏戦争後の欧州全体で一切の「戦争」を勃発させなかったのはビスマルクその人。ですがそんなビスマルクに対し、マルクスはナポレオン三世降伏後の普仏戦争に対し、以下のような主張をしています。

・あのドイツの俗物が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる。

・もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう。

・戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった。

第425回の記事、「ナポレオン三世降伏後の普仏戦争」の章でお伝えしていますように、ビスマルク自身もマルクスが考えるように、ナポレオン三世が降伏した時点で普仏戦争を終結させようと考えていました。

ですが、ナポレオン三世後のフランスで樹立された「共和制政府」が「プロイセンに対して宣戦布告」したことにより戦争は続行されることになりました。

帝政フランスに対して勝利したわけですから、当時の理屈で考えればプロイセンが、敗北したフランスに対して、「領土の割譲」と引き換えに戦争を終結させることは、ある意味当然といえば当然のことです。

しかもプロイセンはその全土の割譲を求めたわけではなく、「アルザス=ロレーヌ」のうちの「アルザス」の、しかも元も両国で領土争いのあった地域に限定した「割譲」を求めたのです。

ですが、マルクスはこの事を更に批判していますね?

この事を更にマルクスは、
もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。

どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。

それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ

とも発言しています。(引用はすべてWikiからの引用です)

ですが、既に述べていますように、この戦争が終結した後、ドイツ帝国が樹立されて以降、独仏間はもとより、ヨーロッパ全土において、少なくともビスマルクが「ドイツ帝国首相」であった期間を通じて「新たな戦争」は起きていません。

戦争の火種を生んだのは「神にへつらうヴィルヘルム」よりもむしろそのあとを継いだヴィルヘルム2世。彼はビスマルクを解任した人物ですね?

そしてドイツ帝国の樹立後、普仏戦争は終結を迎えるわけですが、マルクスはこれに対し、「意気消沈した」とあります。

なんだかなぁ・・・という気持ちが拭えませんね。マルクスが「プロレタリア」としての立場からやりたかったことをビスマルクが「首相」としての立場から全部やり遂げてしまったわけで、マルクスのどことなく「やるせなさ」も感じさせられるシーンです。


「パリ・コミューン」を巡って

さて。ビスマルクに対し、「社会主義勢力」への危機感を抱かせた最大の理由となるのではないか、と考えられるのが、普仏戦争後のフランスで樹立されたプロレタリア独裁政府、「パリ・コミューン」の存在です。

前置きが少し長くなったこともありますので、「パリ・コミューン」に関連した記事は記事を分けて掲載します。


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<継承する記事>第439回 ドイツ社会民主労働党と全ドイツ労働者同盟が合併した理由

ドイツという国において「社会主義」というカテゴリーが形成される過程は、前回までの記事である程度捕捉できたと感じていたのですが、どうもやっぱりしっくりこない部分が残ります。

ビスマルクは、元々ラッサールと一定以上の信頼関係を築いており、「社会主義」そのものを敵視していたわけではないと思うのですが、彼の死後、ビスマルク率いるプロイセン政府と社会主義者たちは徐々に対立していく事になります。

普仏戦争の時はドイツ社会民主労働党を結成したベーベルやリープクネヒトが予算の成立に反対したとして「大逆罪」や「不敬罪」で逮捕・投獄されていたり。

わからなくはないのですが、このあたりの経緯を、「マルクス」側の視点から見ると、もう少ししっくりくるものとなるのではないか、と感じたので、この記事では、前回の記事でラッサール側 から追いかけたラッサール死後のドイツ社会主義を、今度は「マルクス」側の視点から追いかけてみたいと思います。


マルクス側の視点から見るラッサール後の全ドイツ労働者同盟

マルクス(1867年)

前回の記事で記していますように、ラッサールの死後、全ドイツ労働者協会の指導をすることとなった「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」が、実際に指導者となるまでの間には紆余曲折があったわけですが、まずはそのあたりから記してみたいと思います。

まず、ラッサールよりラッサール自身の「後継者」として指名されたのはベルンハルト・ベッケルという人物。

ですが、同協会内で衆目を集めていたのは後に会長となるヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー。彼はラッサールの路線を継承し、その考え方を大切にしつつも、ラッサールの考え方に縛られることなく、より柔軟に発展していくべきだと考えていました。

一方で、ラッサールを最も理解しているはずのハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーは、ラッサールの考え方を一切変えることなく、そのまま踏襲していくべきだと主張しました。

ここでまずシュヴァイツァーとゾフィーは対立することになるわけです。

私の直感とすれば、ラッサールであれば、ゾフィーよりもシュヴァイツァーの考え方に賛同したのではないか、と思いますね。

ラッサールの考え方を一言一句変えず、そのまま踏襲するというやり方は、まさに「原理主義」。ラッサールがマルクスから離反した最大の理由は、マルクス主義(共産主義)が原理主義的=理想論であり、現実的ではないと考えたから。

なのにそんな自分の考え方が原理主義化してしまえば、それはマルクスと同じ道を歩むことを意味していますから。

で、シュヴァイツァーはそんな自分自身の考え方から、ラッサールと対立する立場にあったマルクスやエンゲルスにも接触を図ります。

そして、そんなシュバイツァーが協会の新聞として刊行したのが「ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)」。シュバイツァーはマルクスに、この新聞への寄稿を依頼するのです。

当時のマルクスはロンドンに居住していましたから、ドイツに影響力を及ぼすために、プロイセンの首都であるベルリンに足がかりを作りたい、と考えていました。そんな理由から、マルクスはシュバイツァーからの依頼に応じます。

ですが、シュバイツァーはもともとラッサールの事を信頼していた人物。シュヴァイツァーに対するラッサールの影響は、機関紙「社会民主主義」にもその端々に表れています。

客観的に考えて、ラッサールは進歩党(自由主義者・ブルジョワジー)に対しては見切りをつけていましたので、進歩党とは一線を画する政策を訴えたわけですが、彼はむしろ進歩党よりも、ビスマルクに対して親近感を覚えていたわけです。


このブログでは再三述べています通り、ビスマルクは確かに「権威主義」的にふるまってこそいますが、彼は「自由主義」を否定しているわけではなく、また「社会主義」的要素も権力側に取り入れる事が必要だと考えていました。

自身がヴィルヘルム1世に対して生涯をかけて「臣下」であり続けることを誓っていた通り、保守的か、革新的かといえば「保守的」でありましたが、それは日本風に言えば「国體(こくたい:国家としての在り方)」に対してのもの。国民の経済活動や社会制度に対してはむしろ「革新的」であったともいえるのではないでしょうか。

ですが、「権威主義(もしくは封建主義)」か、「共産主義」か、その二択しか選択肢のないマルクスらには、そんな感覚を理解することはできません。

マルクスはラッサール路線を引き継いだシュヴァイツァーに対して、
我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術は我々との連携を不可能にするものだった

との考え方を示し、エンゲルスとともに同機関紙に対して絶縁状を突き付けることとなりました。

ゾフィーはシュバイツァーの「ラッサールの考え方を柔軟に変化させていくべきだ」、とする主張に反発したわけですが、これだけを見てもシュバイツァーがいかにラッサールの考え方を大切にしていたのかということがわかりますね。

ちなみに、マルクスはこのラッサール的な考え方「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んで批判しています。


マルクスとリープクネヒ

一方の「ドイツ社会民主労働党」を結成したリープクネヒトですが、彼はドイツよりスイスに亡命した後、スイスから国外追放され、更に亡命した先のロンドンでマルクスと出会っています。「共産主義者同盟」を結成し、ケルンに「凱旋」する前のマルクスです。

Wikiの記述によれば、彼は、ラッサールがビスマルクと接触するようになった頃、(即ち1863年5月頃以降)、これに危機感を覚えたマルクスがベルリンに送り込んだ、所謂「スパイ」であったと記されているのですが、時系列的に若干矛盾するので、この記載は間違いなのではないか、と。

リープクネヒトがベルリン入りするのは1862年。ラッサールがまだビスマルクに対して敵意を抱いていたころの話です。

Wikiの記載では、「不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した」とあります。この「不信感」が一体何に対する不信感なのか。疑問に思うところです。


少し話題がそれましたが、リープクネヒトがベルリン入りした翌年、ラッサールは「全ドイツ労働者協会(同盟)」を結成します。

リープクネヒトはここに加盟し、ここでラッサール派に対するマルクス派への「引き抜き」を行います。

ちなみに、マルクスは、この時ラッサールとともに、ビスマルクより、「国営新聞」の編集を依頼されていたんですね。ですが、マルクスはラッサールとは違い、これを断っています。反権力の意思表示ですね。

シュバイツァーはラッサールの死後、マルクスとも接触を持とうとしたわけですが、ビスマルクもまた、ラッサールだけでなく、マルクスとも接触しようとしていたことになりますね。

ラッサールが決闘で命を落とすのはその翌年。1864年8月の事です。


浪費家「マルクス」

ラッサールは8月に命を落としたわけですが、先んじて1864年5月、マルクスの同志の一人であるヴィルヘルム・ヴォルフという人物も命を落としています。

ヴォルフは倹約家であり、かなりの財産を蓄えていたわけですが、彼は遺言でこの財産のほとんどをマルクスに捧げる事を記していました。

この事でマルクスは突然金回りがよくなるわけですが、金を手にした彼は、突然浪費家となり、その様子は以下のように記されています。
パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになった

で、再び借金を抱えることとなり、エンゲルスがこれを肩代わりすることになりました。

努力により地位と財産を築き、貴族たちと肩を並べる生活を行うまでになったラッサールをとことん批判しまくっていたくせに、最悪ですね、マルクス。


ザクセン人民党の結成

話題をラッサールの死後の話題に戻します。

リープクネヒトは、労働者組合の会議に出席して、オットー・フォン・ビスマルクの政策を攻撃ていたことから、ベルリン(プロイセン)を追放され、彼はザクセンのライプツィヒへと移動します。(1865年)

彼がここで「ラッサール派」に対抗して、ベーベルとともに結成したのが「ザクセン人民党」(1866年8月18日)。
このあたりの経緯は 第433回の記事 でも記していますね。

同記事において、私は「シュヴァイツァー」の事も「ビスマルクに対する反乱分子」と同じカテゴリーで記していますが、シュヴァイツァーは「親ビスマルク」。反乱分子はベーベルとリープクネヒトですね。

第435回の記事 におきまして、「イタリア統一戦争」当時のオーストリアの姿勢をラッサールが批判的に見ていて、オーストリアが「ナショナリズムを踏みにじり続けている」と感じていたことを記しています。

そしてさらに、1859年当時、彼が
「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」

と記したしたことも記載しました。

ビスマルクがオーストリアのレヒベルクと意気投合して「シュレースヴィヒ・ホルシュタイン」を巡ってデンマークに戦争を仕掛けたのが1864年。同戦争の講和条約であるバート・ガスタイン協定が結ばれたのが1865年8月14日の事。更に普墺戦争によって両領土どころか北ドイツ全体を統一したのが1866年8月23日の事。

ザクセン人民党は、普墺戦争の結果を受けて結成されました。この段階でシュバイツァーら全ドイツ労働者協会は「親ビスマルク」の立場にありました。つまり、北ドイツ連邦の結成を支持していたのですね。ただ、実際には「支持していた」というよりも「受け入れていた」という表現の方が近いようで、この現状の中で何ができるのか、という発想をしていた様です。

ですが、リープクネヒトらザクセン人民党はこれを批判して結成されたわけです。リープクネヒトらは、この段階に至ってもなお、「オーストリアまで含めたドイツ語圏の統一」を主張していました。

シュバイツァーが全ドイツ労働者協会の会長となるのは1867年5月の事。ですから、ザクセン人民党が結成された時点ではまだシュヴァイツァーは会長にすらなっていなかったことになりますね。


マルクスの「普墺戦争」に対する評価

マルクスは、戦争という方法を使ったビスマルクの「北ドイツの統治」に対し、実は決して否定していないところが面白いところ。

マルクスが目指していたのは

1 ブルジョワ革命によって支配者を滅ぼす
2 プロレタリアート革命によってブルジョワを滅ぼす
3 プロレタリアートが一時的に管理者となり国家を統治。
4 統治者の必要のない社会を作り出す

といったところですから、当初よりお伝えしています通り、ビスマルクの取った方法は、順番や「誰がやるのか」という部分こそ違えども、マルクスの考えと似通った部分があります。

ビスマルクはブルジョワ=自由主義者たちに嫌悪感を抱いています。彼はまず「戦争という暴力」によってプロイセン周辺の自由主義国家から統治権を奪い(1)、国境をなくした上で法によって国家を統治しました(3)。

つまり、3という行程がないことと、これを実行したのが権力側であるということを除けば、マルクスが目指す社会を一部ビスマルクが打ち立ててしまったのです。

逆に言えば、後は3さえ実行し、権力者を滅ぼしさえすれば、マルクスの目的の一部が更に達成されることにもなります。


この後出来上がった「北ドイツ連邦」の「帝国議会」に、「ベーベルとリープクネヒト」、そして「シュバイツァー」はともに立候補し、両者は「帝国議会議員」となります(1867年2月、及び12日8月31)。

2月の段階でザクセン人民党が2議席、8月の段階でザクセン人民党が3議席、全ドイツ労働者協会が2議席となります。

更にベーベルは1868年にザクセン人民党の機関紙として「民主主義週報」を刊行し、これをきっかけとして人民党の規模を拡大。全ドイツ労働者協会と肩を並べる規模にまで勢力を拡大させました。

ただ、ザクセン人民党は中に「ブルジョワ」を抱え込んでおり、同党は分裂し、リープクネヒトやベーベルら、純粋な「社会主義者」による政党、「ドイツ社会民主労働党」が立ち上がることになります。(1869年)


「社会主義者」・・・ですか。ですが、実質的には「共産主義者」と呼称するべきなのかもしれないですね。

彼らが目指しているのはラッサールが目指した「社会主義国家」ではなく、その更に先にある「共産主義国家」なのですから。

次回はここから更に「普仏戦争」裏でのマルクスの動きと、敗戦後のフランスで樹立される「プロレタリア独裁政府パリ・コミューン」に関連した記事を作成できればと思っています。



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<継承する記事>第438回 ラッサールとビスマルクの邂逅と全ドイツ労働者協会の結成

シリーズの復習

第428回 までの記事におきまして、ビスマルクによるドイツ統一後、「ドイツ帝国首相」としてのビスマルクの政策にポイントを置いて記事を作成していたのですが、その中で私はカトリック政党である「中央党」を法律によって弾圧していたビスマルクが、この「中央党」との連携に迫られることとなったことを知りました。

その理由の一つとして、1873年不況に対応するため、それまでの自由主義政策から保護主義政策に転換したことに伴って、ビスマルクが「自由主義左派」と対立することとなったこと。そしてもう一つ、「社会主義者」たちの台頭にあったことを挙げました。

第430回の記事 において、まずは「自由主義左派」との対立に至る経緯を記事にしました。

記事の中で、ビスマルクはまず「自由主義」そのものを否定するつもりなど毛頭なかったこと。

彼は単に「自由主義」や「保護主義」といった一つのイデオロギーにとらわれることなく、その時の国家が置かれた経済状況や国際状況に合わせて柔軟に政策を転換できる仕組みを念頭においていたわけですが、これを逆にイデオロギーにとらわれた自由主義者たちは理解することができなかったんですね。

結果、ビスマルクは自身の支持政党である「国民自由党」から分裂した同党左派、そしてビスマルク自身が首相として白羽の矢を立てられる一因となった「ドイツ進歩党」への対応を迫られることとなりました。

これが中央党との連携を模索せざるを得なくなった一つ目の理由です。

そして二つ目が「社会主義者」たちの台頭。ですが、私が 今回のシリーズ で記事にしてきた内容の中で、その「社会主義者」というカテゴリーに触れることはありませんでしたから、私自身の中でも唐突感を感じざるを得ませんでした。

なぜここで突然「社会主義者」なるものが台頭することとなったのか。この違和感を払しょくするため、私はまず一人の人物にポイントを当ててこの話題を調べることとしました。

それが「カール=マルクス」です。言わずと知れた共産主義の親のような存在。記事にしている「ドイツ(プロイセン)」の出身ですし、まずは彼から調べることがドイツにおける「社会主義」を知る手掛かりになるだろう、と考えたのがその理由です。

これが、第431回 以降の記事になります。

ある意味意外なことに、マルクスが誕生したのは私が現在記事の中心的な対象であるビスマルクとたった3年しか違いませんでした。そしてマルクスとビスマルクは同じプロイセンの出身だったんですね。

また、調べていて少し整理できてきたのが、「社会主義」と「共産主義」、そして「自由主義」や「民族主義」とは、それぞれが全くの別物であるということ。「社会主義」と「共産主義」非常によく似ていますが、やはり第434回 以降の記事で話題にしたラッサールの登場により、「社会主義」は「共産主義」との間に明確に線引きがされたのではないか、と私は思っています。

そんな「社会主義」と「共産主義」、そして「自由主義」や「民族主義」が同時に登場したのが両者(ビスマルクとマルクス)が活躍した同じ時期。調べていますと、あたかもこれら4つの「イデオロギー」が、同じ思想であるかのようにして記されている部分がありますので、余計にわかりにくくなっているのだと思います。

「共産主義」は別格として、「社会主義」「自由主義」「民族主義」の3つは特にそうですね。

この時点での共産主義(マルクス主義)は、理想論ばかりを展開し、新聞などの印刷物や革命などを通して権力者(貴族や資本家)から労働者に権利を委譲させようとする者たち。

社会主義は理想論ではなく、現実論で共産主義者が目標とする社会と似た社会を実現しようとする者たち。そのためには自由主義者とも協調できる部分では強調しようとしますし、権力者とも議論によって妥協点を探ろうとします。

「自由主義」とは主に資本家たちが目指した市民社会で、権力の市民経済に対する介入を極力少なくし、権力者ではなく「市民」によって運用される社会を目指します。

そして「民族主義」とは、土地や血筋などの「出身」によってカテゴライズされた市民たちが、異民族からの支配から脱却し、「民族」が結束して統治する社会を目指す者たち、といったところでしょうか。

時にそのイデオロギーが重なる場合もありますが、本来それぞれは別々のものだということです。

日本の場合は基本的に単一民族で、支配層であった民族も同じ大和民族。「異民族」ではありませんから、元から「民族主義」などという発想を持つ必要はありません。同じ社会の中に「自由主義」的な要素も「社会主義」的な要素も含まれる社会。それが「日本」です。

「ナショナリズム」などというと非常に仰々しいイメージがありますが、ナショナリズムとは所詮「民族主義」の事。他国で同じような構造の社会って皆無に近いんじゃないでしょうか。


現シリーズの本来の目的

現在進めているカテゴリー、 ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? の親カテゴリーは実はなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか という名称になっています。

現在の知識からこのカテゴリー名称を見ると、いかにシリーズを作成し始めた当時の私がものを知らなかったのかということもよくわかりますね。第二次世界大戦を起こしたのは日本ではありませんね?

第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして始まっています。日本はその第二次世界大戦に、1941年12月1日、御前会議において対英米蘭開戦を決定し、これが第二次世界大戦への「参戦」のきっかけとなりました。

太平洋戦争は1941年12月8日のマレー半島上陸、及び同日の真珠湾攻撃をきっかけに始まりました。

ですが、この段階で既に日本は蒋介石軍を相手に日中戦争を開戦しており、これを含めて「大東亜戦争」と呼称することを決めていますので、ある意味「最も早く第二次世界大戦を起こしたのは日本だ」といえなくはないと思いますが。

日中戦争の開始は1937年8月14日に勃発した中国軍による上海空爆=第二次上海事変の勃発からだと考えられますが、両軍は「事実上の宣戦布告」を行ってこそいるものの、正式には宣戦布告を行っていませんから、「戦争」ではなく「事変」と呼称するのが本当は正しいのだと思います。いわゆる「支那事変」です。

今回のシリーズ はドイツの近代史を追ってこそいますが、本来の目的は「日本が第二次世界大戦に参戦した理由」を追いかけるものであることを念頭において記事を見ていただければありがたいです。

特にドイツの近代史を追いかけているのは、多くの方が抱くのではないかと思う疑問。「日本はなぜドイツと同盟したのか」ということを解析することを目的としています。


ラッサール死後の全ドイツ労働者協会

ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー

前回の記事 では、ラッサールの死後の「全ドイツ労働者協会」について、

ラッサールの死後、彼の後を継ぎ、全ドイツ労働者協会の指導をすることとなった「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」。彼が指導した全ドイツ労働者協会は、ラッサールの意思を引き継いで親・ビスマルク路線をとった

と記したのですが、彼が指導者となるまでの間には紆余曲折はあったようです。

シュヴァイツァー自身が同盟の会長となったのは1867年5月の事。ある意味ラッサール的だなと思うのは、彼は会長となるまでの間、ラッサールの考え方に対しても柔軟な考え方をしていた様で、ラッサールに反発する立場であったはずのマルクスやエンゲルス、リープクネヒトらとも接触をしていたのだとか。

そういったこともあり、ラッサールの一番の理解者でもあり、ラッサールが裁判に協力したハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーとの対立を生み、シュヴァイツァーが会長として就任後、ゾフィーは全ドイツ労働者協会から分党し、ラッサール派全ドイツ労働者協会という団体を作っています。

ただ、シュヴァイツァーが会長就任後、親ビスマルク路線をとったのは先述した通りで、この間全ドイツ労働者協会はリープクネヒトらのドイツ社会民主労働党と対立することになりました。

ただし、「この間」という表現を用いた通り、シュヴァイツァーが会長職を辞任して以降、全ドイツ労働者協会とドイツ社会民主労働党は急速に接近していくことになります。

シュバイツァーは「北ドイツ連邦」当時(1867年8月)、帝国議会選挙に立候補し他の1名と共に全ドイツ労働者協会で2議席を獲得するのですが、「ドイツ帝国」で行われた1871年3月3日帝国議会選挙では落選。全ドイツ労働者協会全体でも一議席も獲得することができませんでした。

彼の会長辞任の理由はこの選挙結果です。「親ビスマルク路線」をとっていたのは彼でしたから、彼が辞任した後、全ドイツ労働者協会の「親ビスマルク」は以前ほどのものではなくなってしまいます。ドイツ社会民主労働党との間で、お互いに対立する要素がなくなってきたこともあり、両者は急速に歩み寄りを見せることになりました。

翌、1874年1月の帝国議会選挙では、全ドイツ労働者協会で3議席を獲得。正確な議席数は見つけていないのですが、ドイツ社会民主労働党は全ドイツ労働者協会以上に議席数を獲得しており、更に両党が獲得した投票数を合算すれば、後2~3議席獲得できていたのではないか・・・という結果となり、この事が両党を合併へと背中を押すこととなりました。

この時点で、全ドイツ労働者協会からラッサールの精神は失われていた・・・と考えることができるのではないでしょうか。

しかし「野党連合」で議席数を獲得しようとする発想は、今の日本の野党の考え方とも共通する部分がありますね。この時点で、全ドイツ労働者協会はドイツ社会主義労働者党とともに官憲より「弾圧」される立場にもあったことから、両派は連帯感を深め、1875年5月のゴータ大会において両派はついに統一され、ドイツ社会主義労働者党が発足しました。

この結果、1877年の帝国議会総選挙では、ドイツ社会主義労働者党が12議席を獲得。これは当時の議席数全体の9%に及ぶのだそうです。


次回記事では、ビスマルクがこのドイツ社会主義労働者党を恐れた理由と、同勢力に対してとった彼の政策を記事にしていきたいと思います。



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<継承する記事>第436回 マルクスとの断絶。現実主義者ラッサールと「夜警国家」批判

ということで、前回の続きです。

全ドイツ労働者協会の結成

自由主義者たちの政党である「ドイツ進歩党」に見切りをつけたラッサールの下を、当時「全ドイツ労働者大会」開催の準備をしていた「ライプツィヒ中央委員会」の議長である「ユリウス・ファールタイヒ」と「オットー・ダマー」が訪問し、ラッサールに今後の労働運動の方針について指導を求める、という出来事がありました。

ラッサールが自由主義者たちに対し「憲法問題」を訴え、労働者たちに向けて自由主義者たちの政治方針を「夜警国家」であると批判した演説 は、「労働者綱領」として出版されました。

労働者たちはラッサールのこの考え方に感銘を受け、ファールタイヒとダマーは彼の裁判を膨張した上で、ぜひラッサールの指導が必要である、と考えての両者の訪問でした。

ラッサールはこれに対し、『公開答弁書』を出版することで答えるのですが、彼はこの答弁書の中で、企業が労働者に対して賃金を支払うやり方では、企業側がいくら物価を下げる努力をしても、結局下がった物価に合わせて労働者の賃金も下落することに言及します。

これを、「賃金の鉄則」というのだそうです。リカードという人物の考え方です。

で、これを解消するために、労働者自らが「企業家」となることを提唱し、「企業家」である労働者同士が自由に「同盟関係」を気づき、また国の援助を受けることで、「生産組合」を結成することを提案しています。

要は、企業かから賃金を受け取る仕組みだと企業家が利益を搾取するので、労働者自らが企業家となり、組合を作ってその組合から生活に必要な最低限の賃金を受け取り、年間を通じて得た利益を組合員同士で分配する仕組みを作ることを提案したわけですね。

で、これを労働者だけでやってしまうと公平性に欠く事態が生まれかねませんし、国からの援助も受けられなくなりますから、この「組合」に対して国家が介入する必要性も訴えています。

しかし、今のブルジョワ(資本家)たちが作っている政府では労働者たちが望む形にはなりませんので、これを実現するために、当時のブルジョワに有利な 三等級選挙制度 ではなく、国民が自ら立法府を選ぶ選挙、つまり「普通選挙」の実現が不可欠である、と訴えました。

そして、これが「ライプツィヒ中央委員会」、続く「全国労働者会議(3月24日)」でも採択され、ついに「全ドイツ労働者協会を結成するための新委員会創設」が決議されることとなりました。

同盟の結成のため、ラッサール自らがドイツ全土を駆け巡り、ラッサールの答弁書が綱領として採択され、ラッサールを指導者とする「全ドイツ労働者協会」が発足しました。

ラッサールがビスマルクと接触するのはこの後です。


ラッサールとビスマルクの邂逅

ラッサールとビスマルクとの会見は、なんとビスマルクの側からラッサールに対して要請されます。

プロイセン首相ビスマルク

ビスマルクがラッサールに充てて、

「現在の労働者階級の状況に関する諸懸案について、この問題に関係ある独立の緒家の専門的な意見が聞きたい」

とする文面の手紙を送ります。


ラッサールとビスマルクの「会談」は、Wikiベースでも、「グスタフ・マイアー」という人物が編纂した「遺稿集」が元となっていまして、他の資料でも同様の内容を現時点で発見できていませんので、いわゆる「一次ソース」ではありません。

とはいえ、歴史関係、特に海外の歴史関係の情報は私自身の記述も「一次ソース」となっていないケースがほとんどですので、今更ではありますが。

Wikiの記述でも「伝聞系」で書かれていますので、グスタフ・マイアーの「主観」が含まれている可能性は否定できない、ということでしょうね。

ですので、あくまでその前提で私の記述も読んでいただければと思います。


マイアーの記述によれば、ビスマルクとラッサールは最低でも5回、会談の機会を持っているようです。

最初の会談(1863年5月頃)で、ラッサールはビスマルクに対し、「労働者階級は必ずしも君主制に否定的ではない」と伝え、ビスマルクを喜ばせたのだとか。最初の階段ですから、ラッサールもビスマルクと対立関係を生まないような配慮もあったのだとは思います。

ですが、ビスマルク側からラッサールと同じく「三等級選挙制度」を廃止し、普通選挙を制定することを望んでいることを伝えられていることもあり、おそらくこの時両者はある程度意気投合していたのではないでしょうか。

ビスマルクからすれば、軍制改革に否定的な自由主義者たちに有利に働く「三等級選挙制度」に否定的でしたし、ラッサールもまた、「生産組合」を結成し、その管理を任せられる政府を誕生させるためには、普通選挙を実現させる必要性がありましたから、両者とも、意見が合致したんですね。

で、おそらくなんですが、「両者の思惑が一致した」というよりも、両者が、双方の考え方を理解したのではないか、と。

両者が一致したのは、単に「普通選挙制度」を体制として整える事のみならず、自由主義者たちが取り組もうとしない「社会政策」。今風に言えば「社会保障」についての取り組みが必要である、と考えていましたので、その点でも両者は一致したんだと思います。

Wikiベースでは、ビスマルクが社会政策への取り組みが必要だと考えていた理由として、「賃金労働者を親王室にする手段」となることを挙げていますが、ドイツ統一後のビスマルクの動きを見ていると、もっと素直に考えてもよいのではないか、とも思います。

2度目の会談がおそらく同年6月。ビスマルクはこの頃、国王を通じて「新聞並びに雑誌の禁止に関する勅令」というものを発令させており、「自由主義ジャーナリズム」に対する弾圧を行っています。

2度目の会談はラッサール側からの要請で行われており、ラッサールはビスマルクに対し、この弾圧を「社会改良主義ではなく暴力革命に道を開くもの」としてビスマルクを諫めたのだそうです。

面白いのは、同年9月にラッサールがライン地方遊説を行った際、「ゾーリンゲン市」の演説で、自由主義者である同市長が、憲兵と警察官を率いて集会場に現れ、集会の解散を命じた時の事。

ゾーリンゲン
↑ゾーリンゲン市

ラッサールは市長の行為が「結社法を無視する」行為であるとしてなんとビスマルクに電報を送り、ビスマルクはラッサールに対し、関係部局に取り計らってラッサールの救済を行っているのです。

この時点で、ビスマルクとラッサールとの間に、ある一定以上の信頼関係が築かれていることがうかがえます。

この事をきっかけとして、ラッサールはビスマルクに再度会談を申し入れており、これが実現しています。

この時は、ビスマルクの

「保守派と労働者は進歩党という共通の敵を持つのだから次の選挙では保守派を支援せよ」

という問いかけに対し、ラッサールは

「今は保守派と労働者は等しく進歩党と闘争しているが、本来両者は激しい敵同士である」

とも答えており、ラッサールの姿勢はビスマルクに対し、まだ慎重であったことがうかがえます。


「普通選挙法」をめぐって

1864年1月12日、ラッサールが、「普通選挙法が制定される」とのうわさを聞きつけた事をきっかけとして、四度目の会談の機会が持たれます。条文が決定される前に会談をしたい、との申し出をビスマルクに対して行ったことでした。

会談の翌日、ラッサールはビスマルクに対して手紙を送っています。
・昨日閣下に申し上げるのを忘れたが、選挙資格は是非あらゆるドイツ人に与えてほしい。それが道徳的なドイツ統一となる。

・選挙の具体的方法と棄権防止の成案をまとめるのでもう一度会談してほしい

この時点で、ラッサールとビスマルクは、ある程度意気投合しているように見えます。そして、3回目の会談ではビスマルクと組むことをやんわりと拒否したラッサールが、明らかにビスマルクに協力する姿勢を示していることもうかがえます。

このラッサールからの要望を受け、ビスマルクは1864年1月末頃、ラッサールと最後の会談を行うことになります。

1864年1月は、ちょうどあの「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したまさにその時に当たります。

第435回の記事 で記した通り、この時点で既にラッサールはこの戦争の勃発と、その結末までを「予言」していましたね。

ビスマルクとラッサールが最後の会談を行ったのがいつなのか、明確に記されてはいない(わからない)のですが、会談の前後でラッサールは再び官憲の強制捜査を受け、逮捕されています(1月29日)。

労働者を扇動した、というのがその理由なのですが、この時もビスマルクはラッサールの要請に応じて彼を助け、ラッサールは同日夜に身柄を釈放されています。

そして、この時彼が受けた裁判において、ラッサールは

 「ビスマルク氏は恐らく1年もたたないうちにロバート・ピールの役割を演じて普通選挙を欽定するだろう」

との演説を行っています。ロバート・ピールはイギリスの政治家で、「穀物法廃止」が彼の手柄として情報が上がっては来るのですが、現時点ではラッサールが何を意図して「ロバート・ピールの役割」と発言したのか、私にはわかりません。

ただ、重要なのは彼がこの時点でビスマルクの事をとても信頼していることがうかがえるということ。

最後の会談について、Wikiベースでは

最後の会談におけるビスマルクの態度は全体的に冷淡だったが、これはビスマルクが対デンマーク戦争を通じて進歩党をナショナリズムのもとに屈服させることを目指すようになり、さしあたって労働者勢力との連携の必要性は薄くなったためと考えられる

と記されているのですが、「労働者勢力との連携の必要性は薄くなった」ことが最後の会談においてビスマルクが冷淡であったとする、その理由とすることには少し疑問があります。

というのも、ビスマルク自身が、その後の社会政策として、ラッサールの政策を取り入れていること。そして理由はもう一つあるのですが、この話題はこの記事の中で後述する予定ですので、少しお待ちください。


ラッサールの死

ラッサールは、彼自身の恋愛関係をめぐって、「恋敵」との「決闘」で、決闘相手の放った銃弾を受けて命を閉じることになります。

詳細は割愛しますが、ラッサールの恋愛を邪魔したのは彼女(ヘレーネ)の父親(デンニゲス)。決闘を申し込んだ相手はデンニゲスであったのですが、デンニゲスはラッサールの恋敵であったラコヴィツアを決闘相手として指名し、ラッサールはラコヴィツアとの間の決闘に敗れることになります。

決闘を申し込んだ時点でラッサールは失恋しており、彼は決闘に当たっていわゆる「身辺整理」を済ませており、命を落とす覚悟がすでにできていたのではないかと考えられます。


ラッサールの死を受け、彼と袂を分かったはずのマルクスとエンゲルスもまた弔意を示します。

マルクスはラッサールの死に対し、ラッサールに歩み寄りを見せるのですが、ラッサールがビスマルクと会談していたことを知り、ラッサールに対する憎悪の感情を再燃させ、その後は生前以上にラッサール批判を行うこととなりました。


ラッサールの意思を引き継ぐもの

さて。「普通選挙をめぐって」との小見出しの章で、
「労働者勢力との連携の必要性は薄くなった」ことが最後の会談においてビスマルクが冷淡であったとする、その理由とすることには少し疑問があります

と記し、その二つ目の理由を記すことをお約束していたと思います。

第436回の記事 で、ラッサールがマルクスよりも連携を深めていくこととなったベルリン革命における革命家の中で、特にラッサールと親交の深かった人物として、「ローター・ブハー」という人物の名前を紹介しました。

そして同記事で、
現段階でローター・ブハーの情報を深めることはしませんが、この人物の名前をご記憶いただきたいと思います。

と記しました。

ラッサールの死後、ビスマルクは彼、つまりローター・ブハーを外務省に招き、彼を自身の側近として重用していくこととなりました。

ビスマルクは、やはりラッサールの考え方をとても信頼していたのですね。ブハーを側近としたのは、その何よりもの証拠といえるのではないでしょうか。


また更に面白いのは、ラッサールの死後、彼の後を継ぎ、全ドイツ労働者協会の指導をすることとなった「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」。彼が指導した全ドイツ労働者協会は、ラッサールの意思を引き継いで親・ビスマルク路線をとったこと。

そして第433回の記事 で話題にした、1869年、ベーベルとリープクネヒトによって結成された「ドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)」は純粋な共産主義を目指していましたから、当然親マルクス派。

両者は当然のごとくして対立していくこととなります。


第431回 以降の記事では、ドイツ帝国首相となったビスマルクが、カトリック政党である「中央党」と和解し、協調せざるを得なくなった理由の一つ、「社会主義者の台頭」。その理由を深めるため、「ドイツに社会主義者が浸透した理由」を探る事を目的に作成してきました。

ドイツ帝国では、本来敵対関係にあったはずの「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)」が結合することとなります。

両グループがどのようにして出来上がったのか。「全ドイツ労働者協会」とは何なのか、「ドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ派)」とは何なのか。この事についての検証は今回までの記事で十二分に深めることができたと思います。

次回以降の記事では、ビスマルクの脅威となる「ドイツ社会主義労働者党」結成までに至る経緯を追いかけてみたいと思います。




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<継承する記事>第436回 マルクスとの断絶。現実主義者ラッサールと「夜警国家」批判

マルクスとラッサールの決定的な違いは、マルクスは権力者と敵対関係を作ろうとし、ラッサールは権力者と議論しようとしたこと。

いくら傍から「あの権力者はおかしい。もっとこうすべきだ!」と批判ばかりしていたところで、その声が権力者の下に届くことはありませんし、まして「暴力」によって国家そのものを不安定にしようとする連中に対してこの当時の権力者が「妥協」することなどありません。

結局「革命」を起こして政権そのものを崩壊させ、また一から新しい「政権」を作り上げていくよりほか、方法がなくなってしまうわけです。

ラッサールがある意味「運がよかった」のは、当時の権力者がビスマルクであったこと。とはいえ、ビスマルクが表舞台に登場するまではラッサールの考え方は理解されず、時に逮捕され、権力者から追い立てられる状況にはあったわけですが。

今回の記事は、いよいよその「本丸」。ラッサールとビスマルクが邂逅する場面まで記事を進めていきたいと思います。


邂逅当時のプロイセン

ラッサールとビスマルクが出会う直前のプロイセンの状況を整理してみます。

ビスマルクが、永遠の君主であると誓う「ヴィルヘルム1世」がプロイセン国王となったのが1861年1月2日の事。

続いて「下院選挙(衆議院選挙)」が行われ、自由主義者たちの集団である「ドイツ進歩党」が多数派となるのが同年12月の事。

第417回の記事 におきまして、「ベルリン三月革命」以降の政権側の動きを記事にしました。

この記事の中で、私はビスマルクが首相に任じられた理由として、以下の通り記述しています。

ビスマルクが首相に任じられた目的の一つとして、実は当時の国王が実現しようとしていたプロイセンの「軍制改革」を実行することがあげられます。

プロイセンが自国の権益のため、したたかに実行していた「関税同盟」をめぐって、ロシアの仲介を受けて対オーストリアで大幅な譲歩を迫られることとなった「オルミュッツ協定」。

これを締結せざるを得なくなったのは、プロイセンの軍事態勢がナポレオン戦争当時のままであり、この旧態依然とした軍事態勢がヘッセン=カッセル選帝侯内での武力衝突(オルミュッツ協定を締結する元となったもの)においてプロイセンが武力を撤退せざるを得なくなった最大の理由である、とビスマルクではなく、1861年1月に国王の座へと就いたプロイセン王ヴィルヘルム1世が考えていたのです。

ですが、この当時衆議院の多数派を占めていたのは「自由主義派」の議員。

「自由主義派」とは、ビスマルクたちのように、きちんとした軍事態勢を整えた上で外交交渉に臨むべきだとする「保守派」議員に対し、「武力ではなく、話し合いで解決すべきだ」と考えていた人たちのことをいうわけですね。なるほど。。。

で、この状況を打開するため、プロイセン陸軍大臣であるアルブレヒト・フォン・ローン中将が目をつけていたのがオットー・フォン・ビスマルク。

ヴィルヘルム1世は、ローン中将の推薦を受ける形でビスマルクを首相へと任じました。

現在の私の見識で言いかえるなら、「自由主義者」とは「資本家(ブルジョワジー)」たちの集団の事。で、『この当時衆議院の多数派を占めていたのは「自由主義派」の議員』の『議員』とは「ドイツ進歩党」の議員の事。

オルミュッツ協定を締結した当時も自由主義者たちが多数派であったわけですが、少なくともその当時の自由主義者たちの中には「軍制改革が必要である」とする、後のプロイセン国王ヴィルヘルム1世と同じ認識があったわけです。

ですが、ヴィルヘルム1世が国王となった後で行われた総選挙で多数派を獲得したドイツ進歩党は、「ブルジョワジー」たちの集団。ラッサールが「夜警国家」と批判した通り、民間に対する権力の介入を極力少なくし、国民に自由を与えることを求める連中の集団。

彼らは、予算を軍制改革のために割くことに反対だったんですね。

翌年5月、これを不服としてヴィルヘルム1世は衆議院を解散し、再び総選挙に挑むのですが、その結果は更に状況を悪化させます。

解散前の自由主義勢力161に対し、総選挙後の自由主義勢力は231議席に拡大。このうち進歩党は109議席から135議席まで拡大しました。

この状況を打破するため、白羽の矢が立てられたのがオットー・フォン・ビスマルクです。

ビスマルクは、ヴィルヘルム1世の「軍制改革を断行する勇気ある大臣が現れないなら退位する」というメッセージに対し、

自分は王権を守ることに尽くす忠臣であり、現状でも入閣する用意があり、衆議院の多数派に反してでも軍制改革を断行し、辞職者が出ても怯まない

と返します。そしてヴィルヘルム1世は

それならば貴下とともに闘う事が私の義務だ。私は退位しない。

と返しました。そして、あの「鉄血演説」とともに、ビスマルクはプロイセンの「首相」の座に就くのです。(1862年9月23日)

鉄血演説をもう一度掲載してみます。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。

バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。

プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。

ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される

ビスマルク

ここに掲載されている「自由主義」という言葉に、ラッサールの「自由放任主義国家」や「夜警国家」という言葉を重ねてみますと、私自身としても記事でこの演説を紹介した当時に比べてもだいぶんしっくりきます。

プロイセンの「自由主義者」たちは基本的に「小ドイツ主義」。つまり、チェコやハンガリー、イタリアの問題を国内に抱えるオーストリアをドイツから切り離し、「ドイツ民族(ゲルマン語系民族)」だけで「ドイツ民族」として統一することを願っていたわけです。

ベルリン三月革命は本来そういう革命です。

ですが、ビスマルクが名指しした南ドイツ、即ち「バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン」は違います。特にバイエルンは同じ「ドイツ民族」の中でも「バイエルン人」としてオーストリアと考え方が近く、「小ドイツ主義」ではなく「大ドイツ主義」の立場に立っていました。

ですので、ビスマルクがはっきり演説によって明示した国家の「枠組み」は、まさしく自由主義者たちが目指す「国家」であったわけですが、彼らの目指す国家としての「在り方」は、決して「鉄と血によってのみ解決される」ようなものではなかったはずです。

ラッサールがズバリ指摘した通り、彼らの目指す国家としての「在り方」はまさしく「夜警国家」。権力の民間への関わりを極力なくし、民間人の自由に経済活動を行える「国家」であったわけです。

彼らが「民族主義」をさかんに訴えていたのは、本当は「ドイツ民族」として統一することが大切だと思っていたわけではなく、彼らが目指す経済システムに「統治者」が邪魔だったから。

自由主義者たちがプロイセン王国ではなく、勝手に「ドイツ帝国憲法」を作り、その帝国の皇帝として彼らが選んだ人物を据え、彼らが望んだとおりに新しい「国家」を運営できるのなら、彼らが目指す「夜警国家」を実現することもまた、夢物語ではなくなるわけですから。

ですが、そんな自由主義者たちの思惑とは異なり、新国家を設立し、新しい自由主義国家を目指す北ドイツとは違って、南には「分離主義者」、つまりその根底に本当の意味での「民族主義」国家を作りたいと考える国々があり、その一つとして「オーストリア」という国家が存在しています。

またプロイセンの周りにはドイツ諸国だけでなく、フランスやロシア、オスマントルコなどをはじめとする、「武力によってドイツに介入することを望む国家」がたくさんあるわけです。

その象徴として、プロイセンはオーストリアに軍事力で圧倒され、ヘッセン=カッセル選帝侯国からの撤退を余儀なくさせられ、ロシアの介入の下、オーストリアとの間で「オルミュッツ協定」を締結せざるを得なくなる・・・という辛酸をなめさせられることになったのです。

ヴィルヘルム1世や当時の自由主義者たちが「軍制改革が必要だ」と感じたのはまさしくこれが理由でした。

ですから、ビスマルクは南ドイツの国々をあえて「自由主義」と揶揄することでプロイセンとは切り分け、ヴィルヘルム1世の構想通り、「軍制改革の必要性」を「鉄血演説」によって訴えたのです。

自由主義もよいが、その前にまず外敵から攻められても対処できるほどの、もっと言えば外敵に「攻めづらい」と思わせるほどの軍事態勢を整えることの方が大切なのではないか、と。

この当時の自由主義者を見ていると、まるでどこかの日本の「反体制派」の人々を見ているようですけど。

で、この当時の自由主義者たちもまた、現在の日本の「似非左翼」の人々と同じように、ビスマルクが訴えようとしていた一番肝心なところは切り取って、ビスマルクのイメージを貶めるような批判ばかりを行いました。

ですが、それでもビスマルクが首相の座を追われることなく、とどまり続けることができた一番の理由は、「国王との信頼関係」にありました。

この時のビスマルクに対し、ラッサールもまた、以下のような「ビスマルク批判」を行っています。

彼は反動的なユンカーであり、彼に期待しうるのは反動的措置のみです。

さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 ―まさか国民はそれを鵜呑みにはしないでしょうが― 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう。

しかしドイツ統一が反動的な土壌の上でできるはずはありません

つまり、この時点ではまだラッサールはビスマルクを批判しており、ビスマルクよりも自由主義者たちの考え方に近かったことがわかります。

しかし、

「さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう」

という言い回しを見ていると、まるで現安倍政権に対する野党やマスコミの批判を見ているようですね。


ビスマルクとラッサールの「憲法批判」

1863年1月に召集された議会において、ビスマルクは以下のような「憲法批判」を行います。
憲法は3つの立法権(国王、衆議院、貴族院)の同格性を規定しており、いずれの立法権も他の立法権に譲歩を強制することはできない。

それゆえに憲法は三者の妥協の協調を指示しているのである。立法権者の1つが原理原則1点張りで妥協を崩した場合には争議が生じる。

争議は権力問題である。国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかないので、その時には権力を手中にする者は自己の意志で行動できるべきである

ビスマルクは、これまでヴィルヘルム1世がそうしてきたように、自由主義者たちの反発にあい、予算を通すことができませんので、軍制改革に対して予算の裏付けを行わない、「無予算統治」を行います。

上記「憲法批判」は、彼の行ったこの「無予算統治」を正当化するためのものです。

さて。ここで、一つ思い出していただきたいことがあります。

前回の記事において、私は、1862年の総選挙の時、ラッサールが行った「演説」を掲載しました。もう一度内容を掲載します。

【自由主義者に向けた演説】
「憲法問題は法の問題ではなく権力の問題だ。

一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の権力関係の中にしか存在しない。

成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の権力関係の正確な表現である場合のみである」

ビスマルクの演説は、ラッサールがこの演説において指摘した内容そのもの。

ラッサールは、憲法に記された権力関係が実態に即していないものであった場合、憲法そのものが有名無実化することを指摘しました。

そしてビスマルクは、憲法上同格である「三権」、即ち「国王、衆議院、貴族院」が対立していること、これを理由に「国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかない」として、本来「同格」であるはずなのに、「国王」の権限を優先させました。

ラッサールは、ビスマルクに先んじてこの当時のドイツの憲法、即ち1850年プロイセン憲法の欠点を見抜いていたのです。

そして、この点を指摘した当時のラッサールの考え方はまだビスマルクを批判する立場にあり、「自由主義者」を支持する考え方をしていました。

以下は、ラッサールの演説のうち、先述した「自由主義者に向けた演説」に引き続き、同年(1862年)11月にラッサールが行った演説です。
もはや封建主義は社会的な力ではブルジョワに勝てないのでエセ立憲主義で延命を図っているのであり、エセ立憲主義の仮面さえ剥いでしまえば封建主義は全社会と対立して滅亡することになる。

したがって進歩党は護憲闘争をただちに停止し、むしろ封建主義が今やそれなしでは権力を維持できなくなっているエセ立憲主義を破壊することを目指すべき。

議会は自ら無期限休会を決議し、政府が無予算統治を放棄するまで休会し続けることである。

強力なブルジョワ階級を持つようになった今のプロイセンでは議会なしで統治などできないので、いずれ封建主義は音を上げることになり、その時に国民は真の憲法を勝ち取ることができる

この演説の中で、ラッサールはビスマルクらの「保守的」な政治を「封建主義」として批判していますね。

そして1863年1月の議会に先んじて、ドイツ進歩党の代議士会において、ラッサールの上記の訴えが提出されるのですが、ラッサールの提案は代議士会において却下されます。進歩党の代議士たちは、当時の議会を「似非立憲主義」であるとは考えておらず、「議会」そのものを重要視していたんですね。

何より、「1850年憲法」そのものが、自由主義者たちによって作られたものだったわけですから。進歩党議員たちから見れば、自分たちのその「憲法」が否定されたに等しかったわけです。

自由主義者たちとの連携が必要であると考える社会主義者ラッサールに対し、自由主義者の集団である進歩党議員は逆に敵意をむき出しにしてきます。

ラッサールはそんな自由主義者たちの態度にうんざりし、ついに自ら「労働運動」へと乗り出すこととなりました。


かなり長文となっていますので、一度記事を分けます。



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