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<継承する記事>第435回 共産主義者マルクスと社会主義者ラッサール~信頼関係から対立へ~

私自身、ここまで話題が長くなるとは露ぞ、思っていなかったフェルディナント・ラッサール。

ラッサール自身はマルクスを信頼し、資金面でも積極的に支援し、良かれと思って自身の書いた文章をマルクスに送付するわけですが、マルクスはラッサールに金の無心をしておきながら、ラッサールがどんどん成功し、努力によってブルジョワへと成長していく様子を嫉み、僻み、ラッサールのことを批判の対象とする様になってしまいます。

プロイセン国王の代替わりをきっかけに、マルクスをプロイセンへと呼び戻したラッサールですが、マルクスは結局プロイセンの市民権を得ることができず、この後マルクスとラッサールの関係はしばらく途絶えることとなります。


政治運動家としてのラッサール

さて。マルクスと別れた後、ラッサールは政治運動へと身を投じていくことになるのですが、そんな彼に影響を与えたのはオーストリアにおいてイタリア統一運動に邁進するジュゼッペ・ガリバルディという人物。

ガリバルディ

ガリバルディという人物の事を、現時点では深めるつもりはないのでこの程度にしておきますが、Wikiベースの情報では、ラッサールが自身の夫人とともにイタリアに旅行し、ガリバルディと会見し、帰国した後は「ガリバルディの影響で直接的な政治運動が増えていった」とあります。

彼の文筆活動は、「演説原稿」中心となっていきます。

今回のシリーズを通じてビスマルクファンとなった私としては、ここからが非常に面白い。

この頃のラッサールが連携を深めていたのは1848年革命(おそらくベルリン革命三月革命のこと)における革命家たち。その中にローター・ブハーという人物の名前が登場します。革命家たちの中でも特にラッサールと親交が深かった人物です。現段階でローター・ブハーの情報を深めることはしませんが、この人物の名前をご記憶いただきたいと思います。

時期的に1862年当時の事。ヴィルヘルム1世が国王となったのが1861年1月の事。この時点ではまだビスマルクはプロイセンの首相ではありません。

そして同年12月にプロイセンにおいて「衆議院総選挙」が行われます。この時最大議席を獲得したのが自由主義左派政党ドイツ進歩党。ビスマルクと立場の近い保守党は、進歩党105議席に対してわずか15議席しか獲得できなかったのだそうです。

この時プロイセンで用いられていた選挙制度は「三等級選挙制度」。

【三等級選挙制度とは】
ドイツのプロシアで 1849年5月30日、下院議員選挙のために制定され、50年の改訂憲法に取入れられた間接選挙法。

その内容は、各地方自治体で全有権者をその納税累計額が等しくなるように3階級に分け、各階級からそれぞれ同数の議員を選出するというもの。

つまり、圧倒的多数を占める下級納税者とごく少数の上級納税者が同数の議員を選出するという、まったくの大地主・大富豪本位の選挙法であり、1918年 11月のドイツ革命まで、長くプロシア保守勢力のとりでとなった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)

一応、コトバンクからそのままコピペしたのですが、最後の「1918年11月のドイツ革命まで、長くプロシア保守勢力のとりでとなった」とする記述にはいささか疑問が・・・。

ちなみに「プロシア」と書いているのは「プロイセン」の事です。「下院」とは「衆議院」の事であり、「上院」に相当するのが「貴族院」です。

「三等級選挙制度」をものすごく簡単に言えば、たくさん納税している有権者ほどより自分自身の選挙結果が反映されやすい選挙、ということですね。

ただ、私の記事の目的からすると、この説明文を書いている通りに理解していただきたいわけではもちろんありません。

この選挙制度は「保守勢力」、つまり貴族や王族ほどお金を持っていますから、当然納税額も多くなります。

ですから、元々は貴族や王族に有利にするための選挙制度だったのですが、産業革命によってこれまで一「市民」にすぎなかった「上級市民(ブルジョワ)」もお金持ちになってしまいましたから、貴族や王族よりもむしろそんな「ブルジョワ」の意見の方が反映されやすくなってしまいました。

ブルジョワ=自由主義者ですから、もちろん彼らは「保守派」ではありませんね?

つまるところ、1861年選挙で多数派を得た「ドイツ進歩党」の連中は、そういう連中たちの集まりだということです。

ビスマルクはそんな自由主義者たちに否定的ですから、自由主義者たちが当選しやすいこの「三等級選挙制度」には反対でした。
ラッサールもまた、「社会主義者」ですから、プロレタリア(労働者)ではなくブルジョワ(資本家)が多く当選してしまうこの選挙制度には反対だったのです。

時系列を無視する形になってしまいますので、この話題はいったんここで止めます。


ラッサールの演説

そういえば、そんな言葉、高校時代に習ったよな・・・という言葉がここで登場します。いや、そんな言葉、当時のドイツ、プロイセンの具体的な流れを知らずに突然覚えさせられたって理解できるわけないだろ、と思いっきりツッコミを入れたくなるところです。

1862年春に、「プロイセン下院解散総選挙」が行われるのですが、この総選挙を前に、ラッサールは自由主義者、及びプロレタリアートに向けて二つの演説を行います。

Wikiからそのまま引用します。

【自由主義者に向けた演説】
「憲法問題は法の問題ではなく権力の問題だ。

一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の権力関係の中にしか存在しない。

成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の権力関係の正確な表現である場合のみである」

つまり、「憲法」が現在の権力関係を正確に表現したものでなければ、「成文憲法」をこしらえたとしても全く意味がない、と。本当は国王が最大の権力者なのに、その事が憲法に記されていなければ、その「憲法」に価値はないし、持続して運用することはできない、ってことですね。

「国民主権」と仮に憲法で謳っていたとしても、国王がそれを守らず、勝手にルールを変えることがもし可能なのなら、その憲法に意味はない、と。「憲法は権力を縛るものである」とか主張する「似非左翼」の面々が大喜びしそうな言い回しですが、ここに記されている真の意味合いは決して「似非左翼」がイメージするようなものではない、と私は思うんですけどね。

【労働者に向けた演説】
ヘーゲルによれば国家は道徳的理想と自由を実現するものであるはずなのに自由主義ブルジョワの自由放任主義は不道徳と搾取しかもたらさない。

このような自己の利益を保全するだけの自由放任主義国家は「夜警国家」であり、不適切である。

一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理は普遍的で国家の支配原理となるのにふさわしい。

その支配原理を実現する手段は普通選挙・直接選挙である

ここです。「夜警国家」。習いましたよね、世界史の授業で。

この言葉を用いたのは他ならぬこの「フェルディナント・ラッサール」だったんですね。ええ。ラッサールという人物の事を私はこのシリーズを書き始めて初めて知りましたから、当然彼が「夜警国家」という言葉の生みの親であったことなど全く知りませんでしたよ。

ドイツの歴史の中で、ラッサールという人物事態がほんの刹那的に登場したような人物ですし、私がこのシリーズを記したほどに深めて検証しなければ、学生さんたちにとっても全く印象に残らない人物ですよ。

で、そんな「夜警国家」という言葉をただ無責任に覚えさせる学校教育の在り方も正直どうかと思いますよ、これは。ほんと。

ちなみに、「夜警」とは、日本でいえば拍子木を叩きながら夜半に町を練り歩く「火の用心」のようなもの。現代風に言えば店の従業員が出払った後、宝石店が泥棒に襲われないように巡回するガードマンのようなもの。

引用文中でラッサール自身が言っていますが、夜警国家とは、「自由放任主義国家」の事。「夜警国家」も「自由放任主義国家」もともにいわゆる「自由主義国家」を皮肉ったものです。

「自由主義国家」とは、即ち「小さな政府」の事。政府の民間への関わりを極力減らし・・・いうなれば小泉内閣のような感じ。「民間でできることは民間で」のキャッチフレーズの下、政府の仕事を引きはがして民間にゆだねたあんな感じです。

だめだ・・・ラッサールにもめっちゃ共感を覚えてきました。そりゃ、ビスマルクと馬が合うはずです。

第430回の記事 で、ビスマルクの考え方の例えとして、麻生現副大臣が、内閣総理大臣を務めたときの演説を掲載しましたね。

もう一度、同じ文章を引用しておきます。

【「麻生内閣総理大臣講演「私の目指す安心社会(平成21年6月25日)」より抜粋】
  まず、私は単純な小さな政府至上主義から決別をさせていただきました。

この9か月の間に、かつてない規模の経済対策を打ちました。今年度予算の規模は、補正を入れますと100兆円を超えました。市場機能だけではうまくいかない場面があることが、今回の金融・経済危機の教訓です。

その場合に政府が前面に出ることを私は躊躇しません。

しかし、それは決して単なる大きな政府を目指すものではありません。国民の期待に応えるためには、政府の守備範囲は広がります。

例えば、安心できる社会保障や金融機関の規制・監督などです。

しかし、政策を実施するときにはなるべく民間の力を借りて、政府は小さい方がよいのです。

私は大きな政府か、小さな政府かといった単純な選択ではなく、機能する政府、そして、簡素にして国民に温かい政府というものを目指します。
麻生首相スピーチ

そして、これこそが現在の安倍内閣の政策にも通づるもの・・・というより、本来安倍内閣が目指すべき社会構造の在り方だと思います。

ビスマルクも、ラッサールもともに、おそらくは同様な社会構造を目指したのだと思います。一方は「社会主義者」として、一方は「保守主義者、鉄血宰相」として。全く対極に位置する立場から、同じ社会を目指していた・・・というのは非常に興味深いですね。

ただし、ラッサールが自由主義者たちやプロレタリアート(正確には機械製造工)たちに向けて発したこれらの演説は、この時点(1862年)の段階ではビスマルクの下に届くことはなく、翌1863年1月、彼は

 「国民の間に憎悪と軽悔の念を惹起することにより公共の秩序を危うくする」罪

に問われ、逮捕、起訴されることtなります。この時彼は第1審で4か月の禁固刑、控訴審において罰金刑に減刑されています。

ちなみにこの時の演説をまとめて出版したものが「労働者綱領」と呼ばれるもの、なのだそうです。


マルクスとの決裂

さて。ここまでくると、既に「僻み根性と被害妄想」に凝り固まってしまったマルクスと、「共産主義者」ではなく「社会主義者」として非常に現実的な視点を持ち始めたラッサールとの間には、その考え方そのものに大きな開きが生まれてしまっています。

マルクスから久々に届いた手紙をきっかけに、ラッサールはマルクスのいるロンドンを訪れます。

で、この時にマルクスとラッサールとの間の考え方の開きが明白になってしまうんですね。

両者が決裂するきっかけとして大きかったのは、マルクスが自分自身の窮状をラッサールには完全に隠してしまっていたこと。ラッサールを迎えるため、家財一式を売り払わなければならないほどに追い込まれていたのに、ラッサールに対してはそれを隠し、あたかも自分には財産にゆとりがあるかのようにふるまったのです。

ラッサールが鈍感であった、ともいえるのですが、おそらくこれはマルクスのラッサールに対する「虚栄」であったのではないか、と。

ラッサールは元々マルクスの弟子のようなもの。自分自身がここまで追い込まれているのに、ラッサールが成功を収めていることが我慢ならなかったのではないか、と。

ですが、ラッサールはプロイセンに帰国する直前にマルクスの窮状に気づき、エンゲルスを保証人としてマルクスにお金を貸したのだそうです。この後、ラッサールは返済期限をめぐってマルクスともめるのですが、ラッサール自身もマルクスにお金を貸した時点で、「これは戻ってこないな」と思っていたのではないでしょうか。

ですから、そのことを期待もしていなかったのではないか、と。最終的にマルクスから謝罪の手紙が届くのですが、ラッサールはこれに返事を出すことをせず、そのまま両者の関係は途絶えてしまいます。


さて、この後、ラッサールは「全ドイツ労働者同盟」を結成し、その代表者としてビスマルクと出会うことになるのですが・・・。

その話はまた後日。両者の出会いについてはできれば丁寧に記したいな、とも考えていますので、本日はここで記事を終えることとします。




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<継承する記事>第434回 フェルディナント・ラッサール~マルクスとの出会い~

マルクスとの対立

ラッサール
カール=マルクス

パリに亡命し、パリからロンドンに更に亡命したマルクスと、プロイセンに残ったラッサール。

ラッサールはマルクスから無心される続けるのですが、ラッサールはこれを不快に思うことなく、マルクスを慕い続けるのですが、逆にマルクスはそんなラッサールに対し、「嫉妬」するようになります。

ラッサール自身も1848年革命においては、その革命を指導する立場にありましたので、マルクスと同じくプロイセン政府より監視される立場にありました。

ただ、これは私のラッサールに対する印象ですが、ラッサールはマルクスのような共産主義者で、暴力による革命を扇動する、という考え方よりもむしろ、彼の支援者たちに担ぎ上げられ、英雄的扱いを受けたことから、どちらかというと「正義の味方」であるかのような、そんな感覚だったのではないでしょうか?

そして彼が支援していた伯爵夫人。彼女は放蕩者の夫から様々な迫害を受けており、夫からの離婚を希望していたのですが、これが認められないため、ラッサールはこれを支援し、伯爵と法定にて争っていました。ラッサールは伯爵に対して決闘まで申し込んだほどだったのだそうです。

マルクスのラッサールに対する嫉妬心が強くなるのは、この伯爵夫人の法廷闘争が終結し、伯爵夫人が巨額の財産を獲得することとなったあたりから。

ラッサールもその恩恵にあずかり、生活が裕福になったんですね。

ところが、一方のマルクスはラッサールやエンゲルスをはじめ、様々な知人に生活費を無心し、わずかな執筆活動などを通じてもなお、乞食同然の生活を強いられる状況にありました。

ラッサールは大学の卒論として書き始めたまま放置されていた、「ヘラクレイトスの哲学」という論文を完成させ、これを親しくなった出版業者フランツ・ドゥンカーという人物に協力してもらい、書籍として出版することになります。

この本はかなり好評で、ベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を送るようになります。彼のそんな生活はまさに「ブルジョワ」。マルクスらが批判するまさにそのままの生活をラッサールは送り始めたわけです。

更にラッサールはそんな「ヘラクレイトスの哲学」をマルクスにも批評してもらおうとその書籍をマルクスに送り付けます。

ラッサールには全く悪気はありません。マルクスからの無心にも応じていますし、本当にラッサールはマルクスを慕っていたのだと思います。

ですが、マルクスにとってそんなラッサールの成功を快く思うわけがありません。ロンドンで彼はラッサールに対する怒りをぶちまけます。

この時ラッサールはすでに伯爵夫人の下を離れ、ライン地方からベルリンに移っていたのですが、とある事件をきっかけに、ラッサールは警察から目をつけられることになり、ベルリンから再び追放されます。(1858年6月)

で、この時逃亡先であったスイスでラッサールは皇太弟ヴィルヘルムに助けを求めることになります。

ヴィルヘルム。のちにビスマルクが生涯彼の下を支え続けることを決断したのちのプロイセン皇帝(ドイツ皇帝)ヴィルヘルム
1世です。ヴィルヘルムは妃がビスマルクと対立するほどに熱心な自由主義者だったこともあり、ラッサールの立場にも理解があったのだと思います。

ヴィルヘルムがまさに摂政となったそのタイミングであったこともあり、ラッサールは無事、10月にベルリンへと帰還することができました。


イタリア統一戦争をめぐる対立

1859年、マルクスは「経済学批判」という書籍の出版に取り掛かります。

これを支援したのがラッサールで、彼の知人であるフランツ・ドゥンカーを通じての出版なのですが、同じタイミングでラッサールは『フランツ・フォン・ジッキンゲン』という舞台脚本を執筆するのですが、ラッサールはこれをまたマルクスに送り付けます。

これもまた悪意があるわけではなく、ラッサールは純粋にマルクスを慕って、マルクスに批評してもらいたいと思っての事なのですが、これはマルクスの神経を逆なでしました。マルクスの頭の中に、そんな舞台演劇にかまっている暇などなかったのですから。

この時マルクスはラッサールに脚本を批評ではなく「批判」する返事を突き返していますので、ラッサールもさすがに「悪いことしたかな」という程度の認識は覚えたのではないでしょうか。


そして、両者の対立を決定づけたのが「イタリア統一戦争」をめぐる解釈の違いでした。

イタリア統一戦争とは、ナポレオン三世が、イタリアとフランスの間に領土を構える「サルデーニャ王国(後の「イタリア」)と連合し、オーストリアに対して仕掛けた戦争です。(この後、イタリアは独立します)

1859年におきた戦争ですが、この戦争をめぐって、エンゲルスが『ポー川とライン川』という小冊子を出版します。これを手伝ったのはもちろんラッサール。出版社はドゥンガー書店です。

ライン川

英語の地図なのでわかりにくいかもしれませんが、ドイツの中央を流れる太い川、蛍光色で色付けされているのがライン川。ドイツをちょうど東西に分断しているのがわかると思います。

エンゲルスはこの書籍の中でナポレオン三世がこの「ライン川」まで進出する事を最終目標にしているとし、オーストリアを支持する姿勢を示しました。そしてマルクスもこれを支持します。

ところが、ラッサールはこれに異を唱えるんですね。ウィキの記載をそのまま引用しますと、以下の通り。
専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである

ナポレオン三世とオーストリア、両方を批判しながら、それでもナポレオン三世を支持しているような記載になっています。

ナポレオン三世って、何より後の第1インターナショナルの結成にも力を貸した人物ですからね。

で、ラッサールは更に自身の著書として『イタリア戦争とプロイセンの義務』とする小冊子まで発行しています。で、この冊子の記述として面白いと感じるのは、以下の件。

「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」

この時はまだ1859年。ビスマルクは首相にすらなっていません。

ですが、図らずもビスマルクは後の世でラッサールが予言した通りの軍事行動を行いましたね。

つまり、ビスマルクとラッサールは考え方がとてもよく似ていたことを示唆するいきさつです。

マルクスはこの時、ラッサールに対して「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」とする趣旨の返事を送り付けています。

この頃ラッサールは、投資に失敗して大損をしたことから、マルクスの無心を渋る姿勢を示したりもしたようですね。で、マルクスはこれでラッサールに対する不信を加速させた・・・とのことですが、どうもマルクスって・・・。まぁ、多くは語りますまい。


マルクスの帰国

ヴィルヘルム王子がプロイセン国王となった1861年、国王が政治的亡命者に大赦を行います。つまり、これまでの罪を大目に見るから戻っておいでよ、といった趣旨のことを行ったのです。

ラッサールは、これを受けてマルクスにも帰国を進め、プロイセンはラッサールに援助を受けてプロイセンに帰国し、ラッサール宅に滞在しました。

ところが、この時ラッサールはがマルクスに対して取り計らった「もてなし」は、まさしくマルクスが実現しようとするものとは真逆の待遇。マルクスが批判する「ブルジョワ」もしくは「貴族」的待遇だったんですね。

結局マルクスのプロイセン人としての市民権回復は認められず、マルクスは早々にロンドンへと変えることになりました。

マルクスにとってラッサールは、自身が革命によって倒さなければならない「ブルジョワ」となり果てていた・・・ということでしょうか。

ですけどこれ、結局マルクスのラッサールに対する「僻み」以外の何者でもないと私は思います。

その後、マルクスとラッサールのやり取りはしばらく途絶えることとなります。


追いかけてみると、意外とこの「フェルディナント・ラッサール」という人物、興味深い人物ですね。

その後、ラッサールは政治運動へと歩みを進めることとなり、ビスマルクとも出会うこととなるのですが、内容をもう少し深めたいので、今回はこのあたりで記事を終了します。

続きはまた後日。



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<継承する記事>第433回 ドイツ社会主義労働者党の結成~ベーベルとリープクネヒト~

シリーズ、 ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? の現時点での位置づけとして、ヒットラーが登場する前の「ドイツ」を形作った、その中心人物ともいえる「ビスマルク」。

ドイツ統一後、彼がその対策に追われることとなった「社会主義」陣営。

ドイツを統一するまで、ビスマルクの政策に大きな影響を与えることはなかった「社会主義者」が、統一後のドイツで突然ビスマルクが大きく政策転換をしなければならないほどに影響力を持つこととなったわけですが、ではその「社会主義」陣営がどのようにして「ドイツ」に入り込み、「政治」の中に姿を現すこととなったのか。

これを追いかけているのが現時点のシリーズにおける位置づけです。


復習をいたしますと、そもそもビスマルクがその対策を考えなければならなくなった大きな原因は、社会主義者たちの政党である「社会主義労働者党」が帝国議会総選挙において議席を獲得したことにあります。

特にプロイセンの首相となって以降、ビスマルクの政策の中で一貫しているのは、自国内、または自国周辺に「不安定要素」を作らせないこと。

普墺戦争において北ドイツを武力によって制圧したのは、特にプロイセン周辺の「自由主義勢力」がプロイセンの国情を不安定にする最大要因だと考えていたからです。

これらの国々を平定し、「法律」によってプロイセン(正確にはビスマルク)の影響が及ぶ状況を作っておけば、プロイセンの「平和」を脅かす要因を未然にシャットアウトすることができます。

その後普仏戦争を利用して南ドイツまで統一してしまったのも同じ理由です。

特に北ドイツ国民を中心に民衆が目指した「ドイツ統一」は、「ドイツ民族の統一」を目指したものでしたが、ビスマルクはこれを利用してドイツ全土を同じ一つの法律の影響下に置くことで、国家の「安定」を図ろうとしていたのです。

ところが、ビスマルクが実現させた世界と同じ状況を「革命」によって実現させようとしていたのが言わずと知れたカール・マルクス。そしてそんなマルクスの意思を引き継いでいたのが「ドイツ社会主義労働者党」であったわけです。

「ドイツ社会主義労働者党」は、前回の記事で話題にしたベーベルやリープクネヒトが結成した「ドイツ社会民主労働党」と、本日話題にする予定の「フェルディナント・ラッサール」が結成した「全ドイツ労働者協会」が合流して誕生した政党です。


ということで、本日の記事は、ビスマルクに警戒心を抱かせることとなった社会主義政党、「ドイツ社会主義労働者党」。そのもう一つの源流となった「全ドイツ労働者協会」と、その中心人物となった「フェルディナント・ラッサール」にポイントを絞って記事を作成してみたいと思います。

ラッサール


フェルディナント・ラッサール

実は、前回の記事 で彼を中心に記事を作成しようと考えていたのですが、意外ともう片方の「ドイツ社会主義労働者党」を結成したベーベルやリープクネヒトの話題が厚みを持ってしまったので、ラッサールの話題は今回の記事に先延ばしとなってしまいました。

ビスマルクが誕生したのは1815年4月1日、マルクスが誕生したのは1818年5月5日。場所は共にプロイセン。

ビスマルクが誕生したほぼ3年後に誕生したのがマルクスで、同じ国に生まれた両者ですが、少なくとも私が情報を追いかける限り、歴史上で両者が直接接触する機会はなかったようです。

ですが、今回の記事で話題にする「ラッサール」の面白いところは、彼はそんなビスマルクとマルクスの両者に直接接触し、交流する機会のあった数少ない人物であったということです。

ラッサールが誕生したのは1825年4月11日。ビスマルクやマルクスと同じプロイセンの出身です。両者が誕生してより約10年後に誕生したことになりますね。

ビスマルクが「ユンカー(地主)」、マルクスが「弁護士」の家庭に生まれたのに対し、ラッサールは「絹商人」の裕福な家庭に誕生しています。マルクスとラッサールはともにユダヤ人の家系です。

ラッサールが育ったシュレージエン地方は、ユダヤ人に対する差別意識が強い地域だったらしく、貧しいユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人を強制的に押し込めるための区域に住まわされていたのだそうです。

ラッサール自身は裕福な家庭に生まれましたから、そのような迫害を受けることはなかったのですが、ユダヤ人差別を目の当たりにして育つことになりました。

一方のマルクスが居住した地域は「トーリア」という地域で、シュレージエンのようにユダヤ人が迫害されることはありませんでした。マルクスは、彼の父が自由主義者であり、宗教的なこだわりを持たない人物であった事から、彼自身もおそらく自分がユダヤ人である、ということに対するこだわりはそう強くなかったのではないでしょうか。

一方のラッサールは、前述したとおり、ユダヤ人差別を目の当たりにして育つ環境にあったため、かえって自分自身がユダヤ人であることを意識して育つこととになりました。

ただし、迫害されても全く立ち上がろうともしないユダヤ人たちに対し、ラッサール自身は徐々に幻滅していったのだそうです。


学生時代のラッサール

ラッサールの人生を追いかけてみますと、どうも「プロイセン」という国そのものにユダヤ人に対する差別意識が根付いているように感じますね。

ラッサールがマルクスと同じ「反体制派」に傾倒していく流れとして、プロイセン王国のユダヤ人に対する差別意識があったようです。なぜなのか、ということはもう少し調べてみる必要があるようですが、Wikiベースですと、プロイセン王国ではユダヤ人に出世の道は開かれていなかった、との記述がみられます。

ラッサール自身にはキリスト教に改宗するつもりはありませんでしたので、当然そういった「体制」を打ち破っていく以外に方法はなかったのでしょうね。(マルクスは逆に6歳の時、プロテスタントに改宗しています)

ラッサールは、1843年10月にブレスラウ大学という大学に入学するのですが、ここで彼は「ブルシェンシャフト」という学生結社連合に加入し、ここでリーダー的な存在となります。

1844年4月には「ベルリン大学」に移籍します。彼が関心を持っていたのは「ヘーゲル哲学」。「ヘーゲル」とはフランス革命の時代に活躍した哲学者で、マルクスもまたこのヘーゲルという人物から影響を受けています。「ヘーゲル哲学」で登場するのは「弁証法」という言葉です。

「弁証法」とは、単純に言えば「論理的な物事の考え方」とでも言うべきでしょうか。現時点では私の頭の中で、「これが弁証法だ」とか、「これがヘーゲル哲学だ」といった類の明確な答えはありません。現時点ではこれを理解することに意味はないと考えていますので、この話題はここでとどめておきます。


社会主義者、ラッサール

ラッサールは、このベルリン大学においてヘーゲルだけでなく、様々な社会主義者から影響を受けることになります。

ラッサールは子供のころから頭がよかったらしく、父親からも「未来のユダヤ人解放者」として期待を抱かれていたのだそうです。

しかしラッサールはこの頃から、ユダヤ人だけでなく、「あらゆる被抑圧者」、つまり「差別を受ける対象となる人たち」を解放することを目指すようになったのだそうです。つまり、彼自身が「社会主義者」となったのですね。

ちなみにこの時点ではまだ彼はマルクスには出会っていません。

彼はマルクスと会うより先に、「無政府主義の父」と呼ばれるプルードンや、マルクスも影響を受けている詩人、「ハイネ」とも直接出会っています。ハイネって、私の中では「詩人」としてのイメージしかないのですが、どうも彼もまたマルクスやラッサールに対して、「社会主義」的な素養で影響を与えているようです。


ややこしいので詳細は端折りますが、ラッサールは、裁判においてとある伯爵夫人を支援しようとした結果、「窃盗罪」を疑われ、警察に逮捕されます。

ですが、彼は自身の裁判において自由と民主主義を訴えて弁舌をふるい、彼は無罪判決を勝ち取ります。

この時、彼がもともと支援しようとしていた伯爵夫人が「反封建主義集会」においてラッサールを支持する世論を盛り上げるなどしており、無罪を勝ち取ったラッサールは、一躍革命派の英雄となってしまいます。

これがちょうどベルリンにおいて三月革命が起きたその年であり、釈放されたラッサールは、この年にマルクス、エンゲルスと初めて顔を合わせます。この時エンゲルスはラッサールに対してあまり良い印象を持ちませんでしたが、マルクスは逆に好印象を抱いたのだそうです。

この後、ラッサールはマルクスと連携し、ラッサールの地元であるライン地方において、革命運動を指導する立場となります。マルクスが刊行した「新ライン新聞」の名称の通り、マルクスがパリより移住してきた「ケルン」もまたライン地方にあります。


しかし、第432回の記事 でもふれた通り、マルクスらの活動はうまくいかず、ラッサールもまた1848年11月22日に官憲に逮捕されることとなります。罪名は、「王権に対する武装抵抗の教唆」。(同日、マルクもまた反逆容疑で逮捕されています)

ですが、ラッサールはこの時にも無罪を勝ち取り、釈放されることになります(1849年5月)。面白いのは、ドイツではこの頃既に「陪審員制度」がとられていたんですね。(マルクスもまた、2月の陪審員裁判で無罪を勝ち取っています)

ラッサールが2度も無罪判決を受けた理由は、陪審員の中に「民主主義派」が多かったから。マルクスが無罪となった理由も同じです。

ラッサールは、この後再び「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」という罪名で逮捕され、禁固6か月の判決を受けます。(1849年7月)

彼はこの時、刑を執行される前に一時的に釈放されるのですが、同年6月の時点でマルクスはパリに亡命しています。

マルクスはパリにおいて一文無し状態。パリからラッサールに対し生活資金を無心してきました。この時ラッサールはマルクスを支援するため、募金活動を行いましたが、逆にマルクスは自身の惨めな生活を世間に知られることを嫌がり、ラッサールの行動に憤慨したのだそうです。


記事が長くなりましたので、いったんラッサールに関する記事を終了し、次回記事に続きを委ねます。




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<継承する記事>第432回 ドイツにはどのようにして共産主義が入り込んだのか~マルクスの影響

前回までの記事では、「ドイツ帝国」成立より時代を遡り、再び「1848年革命(ベルリン・ウィーン革命)」の時代にまで針を戻して、今度はビスマルクの考え方とは対極に位置する「マルクス」という人物にポイントを絞って記事を作成してみました。

ここまで「ドイツ」という国の歴史を 今シリーズ を通じて調べてきたわけですが、改めて私の中では「オットー・フォン・ビスマルク」という人物に対する評価は鰻登りです。

これまで、仮に「あなたが歴史上の人物の中で最も尊敬する人物は誰ですか」と聞かれれば、これは間違いなく「高橋是清」であったわけですが、ビスマルクは是清に匹敵する評価ですね。

学校でもきちんと教えるべきじゃないか、と私は思います。そしてこれはこれから検証を進めていく予定である「ナチス」とこれを率いた「ヒットラー」という人物を検証する上でも、おそらくキーポイントとなるのではないか、と予感しています。現段階ではまだ想像にすぎませんが。


今回の記事では、前回の記事 の文末で触れた、「ラッサール」という人物、及び「アウグスト・ベーベル」、そして「ヴィルヘルム・リープクネヒト」という3人の人物にポイントを絞って記事を作成してみたいと思います。

現時点で私はこの3人事を全く知りません。ですが、この3名がビスマルクと対立することになる、「ドイツ社会主義労働者党」の結成に関わる様です。


「アウグスト・ベーベル」と「ヴィルヘルム・リープクネヒト」

ラッサールに着目した、最大の理由は単純で、ビスマルクがカトリック政党である中央党とよりを戻さなければならなくなった2つの理由のうち、「社会主義者の台頭」にあります。

その象徴ともいえるのが「ドイツ社会主義労働者党」という政党です。

ざっくりと遡ると、「ドイツ社会主義労働者党」は、今回話題にする「ラッサール(フェルディナント・ラッサール)」が創設した「全ドイツ労働者協会」と、「アウグスト・ベーベル」が「アイゼナハ」というザクセンの都市で結成した「ドイツ社会民主労働党」という政党が合同して結成されたもの。
ベーベル

ラッサールはマルクスと元々仲が良かったわけですが、1862年6月にラッサールがロンドンを訪問したのを最後に、両者の交流は途絶えています。

一方、ベーベルは、1865年7月、「ヴィルヘルム・リープクネヒト」との出会いをきっかけに「マルクス主義者」となり、その延長線上で結成したのが「ドイツ社会民主労働党」です。

リープクネヒトはこれまでに登場した社会主義者(もしくは共産主義者)の中で、唯一共産主義に傾倒する明確な理由を持った人物で、彼は彼の叔父が逮捕され、拷問や侮辱に耐え切れずに自殺したことを受け、このことが反社会運動に加わるきっかけになっています。
リープクネヒト

彼は亡命先のスイスでドイツ人労働者協会を組織した後、1850年に逮捕され、スイスから追放され、ロンドンに渡ります。

ここで彼はマルクスやエンゲルスと知り合うことになり、「共産主義者」となりました。

ベーベルがリープクネヒトと出会うのは1865年7月の事。少し話題を先取りしますが、実はこの時点で将来両者が結成する「ドイツ社会民主労働党」と合同する予定の「全ドイツ労働者協会」を創設したラッサールはすでに死亡しています。

リープクネヒトはマルクスやエンゲルスと行動するようになった後、1862年にプロイセンへ帰国しました。ですが、この時労働者組合の会議においてビスマルクの政策批判を行ったことが理由で、プロイセンを追われ、ザクセンのライプツィヒへと移住します。

ここで『中央ドイツ民報』という新聞の編集者となり、この地でベーベルと知り合いました。


「アウグスト・ベーベル」

一方のアウグスト・ベーベルですが、彼が生まれた場所は「ケルン」。1848年にマルクスがやってきて「共産主義者同盟」の本部を構える場所です。

ケルンはナポレオン戦争後、ウィーン会議によってフランスからプロイセンに割譲された「ラインラント」にある都市です。

彼の父は陸軍の下士官だったのですが、6歳で父が、13歳で母親が他界し、伯母に引き取られた後、「職人」としての道を歩み始めます。ここでいわゆる「労働組居」に加入し、「1863年6月にフランクフルトで開催された労働組合会議にライプツィヒ労働者教育協会の代表として出席(Wikiより)」します。(1863年6月)

この頃、ベーベルはラッサールの「労働者は政治上独立の態度をとるべきである」とする考え方に反対していました。

ラッサールはこの後、1864年8月に決闘により死亡します。


この時のベーベルの考え方は、「使用者と非使用者」は「協調」することができる、という考え方でした。あくまでWikiベースですが、「労働者」とは表現していませんね。

「使用者」とはすなわち「資本家(=自由主義者、ブルジョワ)」の事、「非使用者」とは「労働者(=プロレタリアート)」の事です。

この後、ベーベルはラッサールの死後、1864年10月に第二回労働組合会議で議長、及び組合会議の常任委員となり、彼の居住するライプツィヒで組合活動(ストライキ)を行う中で、自身が「協調可能」と考える自由主義者たちが労働者の要求に反対し、彼らの日ごろの言動とは異なる動きをしていることを知ります。

この時点でのベーベルの所属は「労働者教化組合」。労働組合会議にはもう一つ、ラッサールが創設した「全ドイツ労働者同盟」も参加していました。

ベーベルがリープクネヒトと出会うのはこの頃(1865年7月)です。ベーベルとしては、「共産主義」に一番感化されやすい時期だったんでしょうね。


ベーベルが議長を務めた第二回労働組合会議が開催されたその翌月、ロンドンではナポレオン三世の出資により「国際労働者同盟(第一インターナショナル)」が結成されていjます。

第一インターナショナル・・・記事を改めて読んでみましたが、懐かしいですね。

ちなみにここで、
この時組織された委員会によってパリの労働者に向けて行われた宣言文が、

『資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である』

との内容。(ここには少し違和感を覚えますね。当時ヨーロッパでは産業革命が起きており、資本主義が確立しつつあったため、この時点で「労働者」のアンチテーゼは「王政」ではなく「資本家」に変わっていた、ということでしょうか。
ポーランドの反乱とは直接関係がない感覚に違和感を覚えます。この辺りはもう少し調査が必要かもしれません。)

と記していますが、答えはもう出ていますね。

「この時組織された委員会」が組織されたのは第一インターナショナル結成直前の事です。

この時点で「労働者」のアンチテーゼは「ブルジョワ」。つまり資本家であり、自由主義者たちです。記事内でナショナリズムを「国民主義」と言い換えていますが、国民主義ではなく「民族主義」。両者は明らかに違いますね。


話が脱線しましたが、この「第一インターナショナル」の「設立宣言」を作成したのはマルクスです。

そして、リープクネヒトと出会ったベーベルは、リープクネヒトと出会ったその翌年、前記した「第一インターナショナル」に加入します。


情報が多いので複雑だと感じさせてしまうと申し訳ないのですが、この時期はちょうど「普墺戦争」が行われた時期に当たります。

私のブログ的に記しますと、「普墺戦争」は、「ビスマルクが武力によって北ドイツを占領し、同じルールの中で活動する一つの『国家』とするために起こした戦争」です。

そしてビスマルクは「王政側」の人間。先ほどの第一インターナショナルの記事の件(くだり)ではありませんが、元々「労働者(プロレタリアート)」と「資本家(ブルジョワ)」は「市民」という一つのカテゴリーを形成しており、共産主義革命の源流ともいえる「市民革命」は、元々こういった「王政による支配」を崩壊させるために起こされたものです。

マルクスたちの考え方からすれば、資本家たち自由主義者による革命を起こす必要がある、と考えるのは、ブルジョワ以前にまず「王政(もしくは帝政)」を打破することが必要である、と考えるからであり、ビスマルクのこのような動きは彼らからすれば「時代に逆行している」ようにしか見えなかったのではないでしょうか?

これ以上この動きを拡大させるわけにはいかない、と考えたベーベルとリープクネヒトは、「ザクセン人民党」という政党を結成します。

マルクスの意思を引き継いでいるな、と感じるのは、この政党の目的は、まずはブルジョワではなく、プロイセンの「権威主義」を打ち倒すことにあったこと。ですから、この政党は「共産主義政党」ではなく、「社会主義的な労働者階級とブルジョワ民主主義者との政治的連携を図った政党」でした。

ベーベルとリープクネヒトは、共に1867年2月12日に行われた北ドイツ連邦憲法制定議会選挙に出馬。ベーベルは当選するのですが、リープクネヒトは落選するものの、1867年8月31日の帝国議会選挙ではリープクネヒトも当選します。

この時の選挙では、ベーベルやリープクネヒトら、ザクセン人民党以外にも、全ドイツ労働者協会(つまりラッサール派)より、「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物も当選していました。

こうしてみると、ビスマルクに対する「反乱分子」である社会主義者が、ドイツ議会の中に入り込んだのはまさしくこの時だったんですね。


ザクセン人民党はすでに記した通り、王政の打倒を目指していましたから、内側に純粋な「共産主義者」だけでなく、「自由主義」を目指す勢力も含まれていましたから、当然のごとく考え方の違いから崩壊・分裂し、1869年、ベーベルとリープクネヒトは、「ドイツ社会民主労働党」を結成しすることとなりました。

ドイツ社会民主労働党は、「アイゼナハ」という都市で結成されましたので、「アイゼナハ派」とも呼ばれるのだそうです。


さて。次回記事では今回触れることのできなかったラッサールと、もう一つの社会主義勢力、「全ドイツ労働者協会」の成立に視点を絞って記事を作成してみたいと思います。



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<継承する記事>第431回 カール=マルクスという人物~「唯物史観」と「剰余利益論」

今回作成する記事の目的は、ビスマルクが、自身が法律による弾圧を試みた「カトリック」。その教徒が中心となって結成した「中央党」と協力関係を気づかなければならないほどに危険性を感じた、ドイツの「社会主義勢力」。これが、一体どのようにして誕生するに至ったのか、この視点で記事を作成しようと思います。


ドイツにおける「社会主義」は一体どのようにして広まったのか

作成していて、難しさを感じるのは、そもそもドイツという国でなぜ「社会主義勢力」が生まれたのかということ。情報があまり多くないんですよね。

マルクスを調べればある程度のガイドラインが見えてくるかとも思ったのですが、彼が具体的にドイツの「共産主義化」に尽力しようとし始めるのは1848年、ベルリン三月革命の頃。ですが、ネット上の記述を見ると、ドイツに「社会主義者」や「共産主義者」が流入し始めたのは1830年のフランス七月革命がきっかけである、と記されています。

ややこしいのは、この当時のドイツをはじめとするヨーロッパで誕生し始めたのは「社会主義者」や「共産主義者」だけでなく、「自由主義者」や「民族主義者」など、そもそも誰がどのグループに含まれるのかという部分がものすごくごちゃごちゃになっています。

多分他のヨーロッパ諸国も同様だったと思うのですが、プロイセンで言えばこの頃から、学生などをはじめ、国民の一部が集団となり、「グループ」を作ることを非常に警戒していた様子が見られます。

数名が集まって政治的な話をしようとしただけで、政府や警察から監視されるような身分になるんですね。ドイツに対する批判として、ドイツが「封建的」であるとの記述もよく見られます。

つまるところ、「社会主義者」であろうが、「共産主義者」であろうが、「自由主義者」であろうが、「民族主義者」であろうが、グループを作り、反乱を起こすきっかけとなる集団は、大きくなる前につぶされる。これがこの当時のドイツの傾向であった、ということでしょうか。

そして、ビスマルクの時代にビスマルクのターゲットとなる社会主義政党の源流は、ドイツ内部ではなく、「国外に追放されたドイツ人」たちによって結成されたものである傾向が強いようです。

その、一番初めのグループとして名前が登場するのが「追放者同盟」。1834年、フランスのパリで結成されています。

1837年、この「追放者同盟」より分離して、「正義者同盟」なるものが誕生します。このグループがドイツ人によって結成された、初めての「共産主義秘密結社」なのだそうです。

簡単に記しますが、この「正義者同盟」の分裂に「マルクス」や「エンゲルス」が立ち上げた「ブリュッセル共産主義通信委員会」が介入。正義者同盟の中心的人物であったカール・シャッパーはマルクスと連携し。

その後、本部をフランスのパリからイギリスのロンドンへ移すのですが、正義者同盟内における自分自身の立場が危なくなったジャッパーはマルクスに同盟への加盟を要請。

マルクスを引き入れた正義者同盟は1847年6月、「共産主義者同盟」と名前を変えます。同年11月に開催された第2回共産主義者同盟大会において、マルクスは「共産党宣言(共産主義者宣言)」を発表します。

前回の記事 でご紹介した、

共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。

支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。

プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。

万国のプロレタリアよ、団結せよ。

の文言で結ばれる、あの文章ですね。ちなみに、「万国のプロレタリア、団結せよ」という言葉は、マルクスが考えたわけではなく、共産主義者同盟が結成された第1回大会において、元々「正義者同盟」の中心人物であるカール・シャッパーが考えたもの。

共産党宣言は、ジャッパーの校閲を経て決まったものです。つまり、その内容はジャッパーの影響を強く受けているわけですね。

しかし、その後はジャッパーではなく、マルクス自身が共産主義者同盟の中心となっていきます。

マルクスが共産主義者同盟に加入した当初、マルクスはベルギーのブリュッセルにいました。1848年二月、フランスで二月革命が起きた後、マルクスは一時的にベルギー警察に逮捕され、追放される形でフランスのパリに移動します。

共産主義者同盟本部はロンドンからパリに移転しました。ここでマルクスは「ドイツ労働者クラブ」を結成します。共産主義者同盟は秘密結社だったんで、表立ってその名前を掲げることができなかったんですね。


マルクスの「強権」

「共産主義者同盟」においてジャッパーに代わりその中心的な存在となった「マルクス」。

この時点でマルクスたちが行おうとしていたことは、ドイツ連邦外ドイツ人労働者を結集してドイツ連邦内に送り込むこと。

共産主義らしいなと思うのは、この時マルクスが考えていた策略は、労働者たちによってドイツ連邦内に共産主義運動運動が必要だとする考え方を持つ人たちを草の根的に増やし、煽っていくこと。実際に後にマルクス自身もドイツ内(ケルン)に入り、「新ライン新聞」なるものを作成しています。

要は「プロパガンダ」と「扇動」によって革命に向けた機運をドイツ内で高めようとしたんですね。

マルクスは、共産主義革命を起こすにはまず、フランスやイギリスのようなブルジョワ革命(いわゆる自由主義革命)を起こすことが必要だと考えていたようで、最初はこの「ブルジョワ革命」を起こすことを支援しようとするのですが、どうも「新ライン新聞」そのものはそんなブルジョワを批判し、プロレタリアを支持するような内容になっています。

そして、マルクスから見ると、「ベルリン革命」は失敗であり、「ウィーン革命」は「反革命運動」になるのだそうです。


少し話題を先行させてしまいましたが、パリに拠点を構えたマルクスは、まずドイツ内に「ドイツ人労働者(という名の工作員)」を送り込もうとするのですが、送り込まれるはずのドイツ人労働者たちは気の早い連中が多かったようで、マルクスの意図に反してすぐに武装して武力によって国境を超えようとするものが多かったのだそうです。

もちろんそんな行動はすぐに領内国によって阻止されてしまいます。そしてマルクスはそんな行動を「ばかげた計画」であるとし、それが「ドイツ革命」を阻害すると考えていたようです。

そして、マルクスは共産主義同盟のメンバーを次々と工作員としてドイツ各国に送り込みます。その数は、最終的には300人~400人になっていたのだとか。

そして、ベルリン革命の起こった1848年4月、マルクスは自分自身も家族とともにドイツのライン地方、「ケルン」という都市に入ります。

新ライン新聞

先述した「新ライン新聞」はその発行資金を得る意図からも、名目を「民主主義(ブルジョワの最左翼)の機関紙」とし、マルクスは、まずはブルジョワ革命(自由主義革命)を起こし、ドイツの「封建主義」を打倒するために邁進します。

送り込まれた共産主義者同盟の面々には、

 「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」

と訴えていました。軽々しく武装蜂起を起こすことには反対だったんですね、マルクスは。

またこの時、

「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」

との主張もしていたようで、この辺りは 第350回の記事 で触れた、マルクスの「共産党宣言」の一節にも通じるのかもしれません。

要は、ロシアとドイツとの間で戦争を起こさせることで、ロシア国内の社会主義者たちをあおり、共産主義革命(もしくはその前段階である社会主義革命)を起こさせようとしていたのでしょうか。


「革命」の衰退

しかし、結局マルクスの思惑は思うようには進まず、今シリーズ で長々と記してきた通り、革命の機運は衰退し、「社会主義」的な思想ではなく、「自由主義」的な思想でドイツ連邦はその道を歩み始めました。

オーストリアはマルクスの支援しようとしたイタリアの民族運動を鎮圧。ハンガリーやチェコの武装蜂起を鎮圧したことはすでに記事にした通り。

ベルリンで発足した「自由主義内閣」もどんどん封建主義的な性格を帯び始めます。ビスマルクらが活躍しましたからね。

マルクスが新ライン新聞で自由主義者(ブルジョワ)たちに対して批判的な記事を書き始めたのはこのことに危機感を覚えたから、であるようです。Wikiに掲載されている批判文を引用してみます。

「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。

ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」

ハイゼマンの内閣とは、ベルリン三月革命後に誕生した自由主義内閣ですね。ハイゼマンはマルクスでいうところの「ブルジョワ(資本家)」です。

あくまでもドイツ語を日本語に訳したものですので、その訳者の意図が含まれてはいますが、文字通りに読みますと、「民主主義的」といいながら、「全人民を同盟者にする」とか、「支配を勝ち取る」とか、実に暴力的な表現となっています。

「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」

「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」

このような様子を見て、「ベルリン革命は失敗」だと感じたわけですね。

その後、マルクスはプロイセン政府からの監視対象となりながらも、翌1849年5月まで「新ライン新聞」を刊行し続けます。

ベルリン三月革命の後、「自由主義的な」ドイツ統一を望む民衆たちが発足させた「フランクフルト国民会議」。ここで制定された「ドイツ国憲法」と、この憲法によって皇帝となることを要請されたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの憲法と戴冠の要請を拒否。

これをきっかけとしてヨーロッパ各地で革命の機運が縮小していく中、バーテンやバイエルンで武装蜂起が勃発します。

この様子を、マルクスは喜び勇んで「新ライン新聞」の記事として取り上げるのですが、このことをきっかけとしてマルクスら新ライン新聞のメンバーは国外追放処分とされました。

マルクスはパリに亡命するものの、そのころのパリはすでに後のナポレオン三世(1世の甥)が大統領を務める世となっており、6月に勃発した武装蜂起をきっかけに、外国人は監視対象とされており、最終的にマルクスはロンドンへと亡命することになります。

この時マルクスと交流があり、マルクスにイギリスへ亡命する資金を渡した「ラッサール」という人物が、後にビスマルクにとっての「脅威」となる「社会主義労働者党」。この源流となる政党を作った人物です。

ドイツ領内で、「社会主義勢力」がどのようにして蔓延したのか。それは今回マルクスのドイツ領内での動きを見て、何となくわかってきました。

それでは、次回記事では、マルクスがドイツを去った後マルクスが引き入れ、プロパガンダによって扇動した「社会主義勢力」が、この後ドイツ領内でどのように発展していくのか。この様子を追いかけてみたいと思います。



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<継承する記事>第430回 ビスマルクと自由主義左派の対立~「イデオロギー」の危険性~

前回の記事で記しました通り、今回の記事はビスマルクがカトリック政党である「中央党」と和解し、その力を借りることを選択肢に入れざるを得なくなった理由。

一つ目は「自由主義左派」との対立、そして二つ目が「社会主義者の台頭」。

この二つの理由のうち二つ目、ビスマルクが先導して築き上げた「ドイツ帝国」で台頭した「社会主義者」たちのことを記事にすることを目的としています。

ですが、ここまでドイツの近代史 を検証してみて、ずっとのどの奥に骨のようにつっかえていた、タイトルにもある「カール=マルクス」という人物のことを深堀せずに、やはりドイツにおける「社会主義者」のことを深めることはできないのではないか、と考えているのです。

伏線として 第416回の記事 にてカール=マルクスの話題に触れましたが、これは今回「ドイツの近代史」をここまで振り返ってみなければ気づかなかったことです。

私は「共産主義」の根源がフランス革命にある、とずっと考えていましたし、「社会主義」という考え方もまた、共産主義者たちの暴力的な振る舞いに対し、これを否定的にとらえた共産主義者たちが、共産主義からその暴力的な部分を排除して作り上げたもの、とするとらえ方をしていました。

この考え方は誤りではないわけですが、共産主義が「暴力によってのみ実現可能である」と表現したのはほかならぬカールマルクス」という人物。彼は、共産主義者による国際的な秘密結社である「共産主義者同盟」を結成する際、彼が中心となって作成した「共産主義宣言」の中で、これを以下のように表現しています。

共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。

支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。

プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。

万国のプロレタリアよ、団結せよ。

実際にマルクスの時代=ビスマルクの時代までの間、「民主主義」という概念を作り上げる上で現実的に功を奏したのがフランス革命を筆頭とする「暴力」であったことは否定できません。記している内容を読むと、マルクスが主張しているのは「プロレタリアが暴力によって世界を支配する」といっているようにしか読めませんけど。

ただ、私が「共産主義」というものを考える中で、完全に理解の外に置いていた・・・というよりも理解する能力がなかったのが、

「マルクスという人物は一体どのようなタイミングで登場したのか」

ということ。

つまり、彼が登場するまでの社会の中で、暴力的なものが共産主義であり、そうでないものが社会主義であったのかどうかという線引きが本当になされていたのか・・・という検証は全く行えていなかったわけです。

そこで、今回の記事ではマルクスが登場する前の「共産主義や社会主義」にも最終的にスポットを当てようと思ってはいるのですが、その前にまずはマルクスという人物について深堀することを目的として記事を進めていきたいと思います。


マルクスについての仮説

カール=マルクス

記事を記す前に、少しだけマルクスの情報にざっと目を通してみたのですが、現時点で私にはいくつかの「仮説」が存在します。

仮説の中に登場するのが、「唯物史観」と「剰余価値論」という言葉です。意味が分かりにくいので、事前にこの二つの言葉についてネット上の記述を参考に、「私なりの定義」を記しておきます。

【唯物史観】
この世の中の社会構造は、必ず変化する。しかもある一定の決まったパターンに従って。

そして、その基準は「物質的生活の生産様式」である。

ある一つの生産方式で物質的な生産力を高めるには、ある一つの決まった社会システムが必要になるが、物質的な生産力が社会システムの限界を上回ってしまうと、その生産方式は社会制度的、政治的にその生産方式と矛盾するようになる。

生産方式が変化し、生産力の上限が社会システムの上限を上回ったとき、社会革命が起こり、一つの社会システムを管理する上部組織は転覆することになる

わかりやすく記したつもりなんですが、読み直してみるとやはり難しいですね。ただ、後程ある一つの「キーワード」とともにもう少し砕いた解釈を記しますので、少しお待ちください。

【剰余価値論】
「剰余価値論」の前提条件として、それは「ブルジョワ社会」であること。

「ブルジョワ」とは資本家を意図していて、これに対比する言葉として「労働者(プロレタリアート)」が存在する。

労働者の条件=自身の頭脳や体力以外に売ることのできるものを所有していないこと。

「労働者」は労働によって実際の労働以上の価値を生み出しているが、資本家は労働者に対して実労働分の賃金しか支払っていない。労働者の「労働力」を「商品」であると考えると、その商品が生み出した価値が実労働を「超過」した場合、その超過した価値のことを「剰余価値」と考える。

資本家はこの「剰余価値」分を労働者には支払っておらず、労働者から剰余価値分の賃金を「搾取」している。

難しいですよね・・・。ということで、ここからは私の「マルクス」という人物に対する「仮説」を中心に記していきたいと思います。

マルクスはこの「剰余価値」を資本家が「搾取」していることを「悪」であると考えています。

「剰余価値」って、即ち「利益」のこと。多分、マルクスの「唯物史観」や「剰余価値論」って、イギリスを中心に発展した「産業革命」を目の当たりにしてようやく気付いたのだと思います。

あくまでもマルクスの考え方に従えば、ですが、産業革命によって生まれた「剰余価値」は、本来「労働者」の「労働力」から生まれたものであって、本来労働者に対して「賃金」として支払わられるべきものだ、ということになります。

資本主義は逆の考え方をしますよね。資本家にとって労働者の労働力は、あくまでも「投資対象」ですから。マルクスはこれを資本主義の「矛盾」であると考えたんですね。

産業革命によって、これまで労働者が自身の「労働力」で開発し、作り上げていたもの以上のものを開発したり作り上げたりすることが可能になりました。そうすると、資本主義の考え方でいけばわざわざ「労働者の労働力」に頼らずとも、機械を操作することのできる人が何人かいれば、労働者の何十人分の働きをしたりするわけです。

こうなると、当然労働者の人数は少なくて済むようになりますから、当然人件費は削減され、失業者の数も増えることになります。

これって結局その当時の「ブルジョワ社会」、つまり社会構造が「資本家」と「労働者」に分かれているから起きる現象であって、産業革命による成果物は元々「労働者」の「労働力」が価値を生み出したものなんだから、その価値は労働者に還元しろ、という声が大きくなるのはある意味当然です。

そうすると当然「資本家」と「労働者」との間の垣根はだんだん低くなりますし、むしろ取り払われてしまってもおかしくはありません。

整理しますと、投資家が支払っているのは労働者の労働力に対する「賃金」と、労働者が労働するために必要な環境の整備、あとは原材料費程度のものです。

それ以上の利益はすべて「労働者」の「労働力」が生み出しているわけですから、資本家がこれを搾取するのはおかしい・・・というのがマルクスの主張するところ。このような矛盾が生じるのは「資本家」と「労働者」という垣根が存在するのがおかしいのであって、この矛盾を解消するには社会構造そのものを変えるしかない・・・とこうなるわけです。

そして、それを達成する唯一の方法が「暴力」であると。

しかし、 第416回の記事 を参考にしますと、暴力などに頼ることなく、そのマルクスが理想とする状況をいち早く達成していたのが産業革命を起こした「イギリス」なんですけどね。


ですが、マルクスの時代より考えれば、ずっと遠い「未来」に住んでいて、数多くの戦争やたくさんの犠牲を経て、現在に住む私たちから見れば、このマルクスの考え方に、既にいくつかの「矛盾点」が含まれていることがわかります。

例えば、確かに産業革命による「成果物」を生み出したのは労働者による労働力であったのかもしれませんが、ではそんな労働者たちを統率する人間の「統率力」に価値はないのかとか、そんな人間を見つけ出し、抜擢する人の能力に「価値」はないのか、とか。

「労働者の生産物」というけれども、どの労働者がどの生産物にかかわったのかなど細かく分けることができるのかとか。じゃあ生産にかかわっていない人たちの生活はどう保障するんだとか。

で、となると、当然このような疑問を解消するために、当時の「ブルジョワ社会」に代わる新しい社会が必要になります。当然そこには「管理者」が必要となりますが、マルクスはこの役割を「ブルジョワ(資本家)」ではなく、「プロレタリアート(労働者)」が担うべきだとしたわけですね。

そしてそのような社会が「社会主義社会」である、と。ですが、最終的にはそのような「管理者」さえいない社会が理想的ですから、その目指す先を「共産主義」であるとしたのでしょうか。


マルクスは、私が前期したうち、「プロレタリアートによって管理される社会」を作り上げるための革命を、より短期間で起こそうとしていた節が見られます。この様子は次回以降の記事で記したいと思います。

ただ、何となく思うのですが、ビスマルクの起こした「革命」と、マルクスが起こそうとしていた「革命」って、その発想が結構似通っているように感じるんですよね。

ビスマルクもマルクスも、「自由主義者たちの起こした革命」を批判していますし、マルクスはプロレタリア革命を「暴力によってしか成し遂げられない」として結局ドイツを追放されましたが、ビスマルクは自身による改革を「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」や「普墺戦争」、そして「普仏戦争」といった「暴力」によって半ば強引に成し遂げています。

ビスマルクは元商人の家系で、「ユンカー」と呼ばれるプロイセンの地主貴族の出。マルクスはユダヤ人の司祭である「ラビ族」と呼ばれる家系の出。

共に大学まで進学していますし、学生時代の素行や勉学に向けた姿勢などもよく似ています。

最終的にビスマルクが目指したのは「司法」の場であり、マルクスが目指したのは「哲学」の道。

その後ビスマルクは政治家に、マルクスは革命家としての道を歩むことになります。時代も結構近い時代を生きてるんですね。

ビスマルクが生まれたのは1815年4月1日、マルクスが生まれたのは1818年5月5日。共にプロイセンの出身です。

ビスマルクが目指したのは「上からの改革」。マルクスが目指したのは「下からの改革」。

ビスマルクがドイツを統一したとき、既にマルクスは国外に追放されていますから、その後、両者が交わる接点は全くありません。

ですが、ビスマルクはその後マルクスの影響を受けた社会主義者たちとも対立することになります。革命嫌いのビスマルクと、革命家マルクスですから、もし同じ空間を共有することがあったとしても、何となく「犬猿の仲」となっていたのではないか・・・・と思われますね。

次回記事では、そんなマルクスが結成した「ドイツ労働者クラブ」というキーワードを中心に、マルクスのドイツ社会主義勢力へのかかわりと彼が追放された後の社会主義勢力について、ドイツ帝国におけるビスマルクの対社会主義政策とともに検証してみたいと思います。



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