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<継承する記事>第428回 ドイツ帝国における「自由貿易」と「保護貿易」~ビスマルクの経済政策~

前回の記事は、現在の安倍内閣やリーマンショック時の麻生内閣、F=ルーズベルト大統領の下で行われたニューディール政策やケインズ政策、高橋是清の財政政策などとドイツ帝国が誕生した当初にビスマルクが行った経済政策を比較する形で記事にしました。

少しだけ記したかった内容を記すことができていない部分がありましたので、冒頭に少しだけ補足して本題に入ります。


ビスマルクは、プロイセン以外の国々が、民衆の側から起こった「自由主義」や「民族主義」に翻弄され、冷静な判断ができなくなっていることを懸念していました。幸いにもビスマルクのいるプロイセンは、そのような「思想」に振り回されることなく、その時々で必要な政策を適宜実行してきました。

ビスマルクが自由主義側に傾倒したかのような記述を見ることもありますが、それはあくまでも「ドイツ」領内においてのこと。ビスマルク自身も「自由主義」や「民族主義」が悪いとは思っていなかったわけで、これが前提条件も、決まり事も設けられることなく、ただ無節操に執り行われいたことを批判的に見ていたのではないでしょうか。

これは現在の日本でも非常によく見かけられることですが、単なる「権利の主張」にすぎなかったものが、いつの間にかイデオロギー化し、何一つ統治機構を持っていないのに、それがあたかも一つの国家であるかのようにしてふるまわれる様子は、ビスマルクのような人物には非常に危険な状況であると目に映っていたのかもしれません。


第213回の記事 で、TPPについて説明する中で私は「EPA」と「FTA」についてご説明したかと思います。

EPAとは日本語で「経済連携協定」のこと。FTAとは「自由貿易協定」のこと。何気に参考となる情報として掲載したつもりだったのですが、はっきりと書かれていましたね。FTAが「自由貿易協定」である、と。

更に詳細な内容を引用しますと、

EPAは「関税だけでなく知的財産の保護や投資ルールの整備なども含めた協定」のこと。
FTAは「関税の撤廃・削減を定める協定」のこと。

ビスマルクの時代に、そこまで明確な考え方が存在したわけではないでしょうが、自由主義者たちや民族主義者たちが目指していた「自由貿易」とは、即ち「FTA」のこと。一方でビスマルクが構想していた「自由貿易」とは、「EPA」のことだったのではないでしょうか?

既に記していますが、安倍内閣で実行されたTPPはもちろん「EPA」であり、「FTA」ではありません。

前回の記事で掲載した安倍首相の所信表明演説の中で、安倍さんが「保護貿易の台頭」を「懸念」していたり、「今こそ日本は自由貿易の旗手として、新しい時代のルール作りを主導していかなければなりません」と発言していたりする事例を示しました。

安倍さんは「保護貿易」を否定し、日本が「自由貿易」の旗手となることを高らかに宣言しているわけですが、私が言いたいのは、安倍さんが目指している「自由主義」とは、ウィーン体制後のドイツ連邦において、連邦諸国が前提条件すら定めることなく、話し合いのためのルールすら定めることなく実現しようとしていたあの「自由貿易」ではない、ということです。

ビスマルクはドイツ連邦を「ドイツ帝国」としてまとめ上げるため、まずは連邦各国に対して「前提条件」を示したうえで、自国(プロイセン)が決めたことを尊重することを要求しました。

要求した上で「この決まり事に賛同できない国はこの同盟には入ってこないでください」とあらかじめ境界線を引いていたわけです。そして、当初旗振り役であったはずのオーストリアは、「ドイツ帝国」からは完全に排除されてしまいました。

安倍内閣で執り行われた「TPP交渉」も同じことだと思います。米国主導で、既に決まりかけていた「TPP交渉」に後から割って入り、タフネゴシエーターと呼ばれた甘利さんの交渉の下、日本(だけでなく参加するアメリカ以外の国々)が有利になるように決まり事を変えさせ、最終的に米国をTPPの枠組みから追い出してしまったわけです。

日本はその後もTPPだけでなく、ヨーロッパとも「経済協力」のための交渉を行いますが、逆にアメリカは「自由貿易」のための交渉を行います。自由貿易が本当に有利に働くのは、米国や中国のような「経済大国」が、そうではない小国を相手に貿易を行う場合だけです。

ニュース等で米国は「保護貿易に転じた」かのように報じられていますが、あの国がやろうとしているのは、かつてのドイツ連邦諸国が行おうとしていたような「自由貿易」です。

ですが、貿易には当然「ルール」が必要です。ルールを交渉せず、自国の要求ばかりを主張しようとするものですから、最終的には米国と中国のような関税合戦になり、あたかも「保護貿易に転じた」かのように見えてしまうのです。


ビスマルクも最終的に「保護関税法」という法律を制定し、関税によって自国企業を守ろうとする姿勢を見せましたが、これは突如としてドイツに「1873年不況」が襲い掛かったわけですから、これはある意味当然のことと思います。

そして、この時ビスマルクが実行した「保護関税法」の対象国は、「ドイツ帝国以外の国々」。ドイツがあたかも一つの民族で形成された、「国家」であるかのように考えるからこれが「保護貿易」であるかのように見えてしまいますが、ビスマルクは「ドイツ帝国内」の「旧連邦諸国」に対しては自由貿易を継続しています。

だってそれ以外の国々とは前提となる「ルール」が異なるんですから。しかも当時は相手の失政に乗じて相手の領土を奪おうと虎視眈々と狙っている国家のオンパレードだったんですから。


ということで、前置きが少しばかり長くなりすぎてしまいましたが、本題に入ります。

前回前々回 の記事で触れましたように、ドイツ帝国首相となった当初、自由主義者たちを取り込むため、また自身も将来的な不安定要素になると考えていたカトリックを法的に政治から分断させようとしていたビスマルク。

そんなビスマルクが、自由主義者たちとの対立や社会主義者たちの台頭を受け、当初よりの方針を転換し、カトリックたちによって構成される「中央党」と強調せざるを得ない状況が生まれました。

今回の記事は、そういったビスマルクの自由主義者たちとの対立や社会主義者たちの台頭について話題にしたいと考えています。


ビスマルクと自由主義者たちの対立

第427回の記事、及び 第428回の記事 は、このテーマの伏線として作成しました。

ビスマルクが自由主義者たちと対立することなった最大の理由は、「1873年不況」の勃発に他なりません。


「自由主義」にしても、「社会主義」にしても、これって結局「イデオロギー」なんですよね。高校の時の国語の授業で、「イデオロギー」の意味を、「概念」として習った記憶があります。「概念っていったい何なの」、と聞かれてしまうと、これほど答えづらい言葉はないのですが、それはつまり「イデオロギー」もまた一緒。

「イデオロギーって何?」って聞かれても、「これがイデオロギーだ」とわかりやすく答えることは難しいのですが、最もわかりやすく、近い言葉は実は「思想」なんじゃないかと思います。

「思想」の意味はと申しますと、Wikiで説明されている表現が最もわかりやすいのではないかと思います。

人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのこと。

一言で言えば、この説明書きの最後にある、「あるまとまった考え」。これが「思想」であり、「概念」であり、「イデオロギー」といって差し支えないと思います。

ですが、どんな「思想」であれ、「概念」であれ、これが絶対に正しいという考え方なんて存在しません。だからこそ他の考え方を吸収し、または後世の人間がこれを修正して、どんどん意味合いが変わっていくんです。

ところが、「この考え方が絶対的に正しい」と主張する人が登場し、他の考え方を全く受け入れない社会が誕生してしまうと、これほど生きづらい社会はありません。しかし、それを政治的に利用しようと考えたり、あるいは完全に洗脳されてしまって、それが本当に絶対的であると信じてその考え方しか存在しない社会を作ろうと考える人々がいるのも事実。

ビスマルク時代の「自由主義者」や「社会主義者」って、きっとそういう存在だったんだと思います。

私自身、記しながら少し熱くなっていますが、これは最近日本で起きているとある現象に対して覚えている私自身の「怒り」も少し反映されていますので、ご容赦いただければと思います。では何に対する怒りなのかという記事は、「外伝」的に、他のシリーズ内で記すつもりです。

ビスマルクはそういった「イデオロギー」に縛られていなかったんでしょうね。だから時勢に合わせて柔軟に政策の転換ができましたし、彼って実は「争い」を最も嫌っていたんじゃないかと思うんですよね。

それが証拠に、彼が「ドイツ帝国首相」であった時代のヨーロッパでは、実は「戦争」が一度も勃発していないんだそうです。普仏戦争が最後の戦争だったんですね。

ドイツ帝国首相としてのビスマルクの外交は、後日記事にするつもりですが、その思想(『イデオロギーではないですよ』)はフランス第二革命後の彼の姿勢を通じて一貫しているように感じます。


またしても大きく話題がそれましたが、ビスマルクはそもそも「自由主義」という考え方そのものが悪い、と考えているわけではありません。(←これまで彼の記事を記してきた私自身の印象ですので、断言することをご容赦ください)

だからこそドイツを平定した後の彼は自由主義を推進しましたし、それを実現するための法整備も次々に整えました。ですが、それはあくまで「同じルールで管理できる社会」にのみ適応させたわけで、そうではない社会とは、時勢に合わせてそれこそ「是々非々」で対応してきました。

国外の情勢が安定しており、国外と取引をすることが自国の利益につながるのであればそちらを優先するが、国外の情勢が不安定な時はいったん門を狭め、国外と国内の経済の行き来を限定することで国内の経済を守る。国外が安定してくれば再び門を開いて国内の市場を開放する。

国を統治するものとして、こういった思想はとても大切なものだと思うのです。

また少し脱線しますが、日本でも同じような考え方を持ち、国家のリーダーであった時代にこれをはっきりと主張した人物がいます。やっぱりそれも麻生さんなんです。

【「麻生内閣総理大臣講演「私の目指す安心社会(平成21年6月25日)」より抜粋】
  まず、私は単純な小さな政府至上主義から決別をさせていただきました。

この9か月の間に、かつてない規模の経済対策を打ちました。今年度予算の規模は、補正を入れますと100兆円を超えました。市場機能だけではうまくいかない場面があることが、今回の金融・経済危機の教訓です。

その場合に政府が前面に出ることを私は躊躇しません。

しかし、それは決して単なる大きな政府を目指すものではありません。国民の期待に応えるためには、政府の守備範囲は広がります。

例えば、安心できる社会保障や金融機関の規制・監督などです。

しかし、政策を実施するときにはなるべく民間の力を借りて、政府は小さい方がよいのです。

私は大きな政府か、小さな政府かといった単純な選択ではなく、機能する政府、そして、簡素にして国民に温かい政府というものを目指します。

麻生首相スピーチ

実は、麻生さんは、この考え方を現安倍内閣でもずっと大切になさっているのではないか、と私は考えています。

だからこそ、高橋洋一氏のように金融政策一辺倒の主張を行う陣営に批判的な主張を行っているのではないか、と。実際には高橋洋一ではなく、竹中平蔵をターゲットにしてきたわけですが、日銀政策に依存する政策を主張するという点で、両者の考え方は一致しています。

ビスマルク時代の自由主義者たちも同様だと思います。

ビスマルクは結果的に「保護関税法」を成立させ、国外からドイツ帝国内への流通を制限した上で、ドイツ国内、特に鉄道や電信などのインフラ整備に「投資」を行い、1873年から1896年にかけての「デフレ不況」から最も早く脱出させました。これは立派な「実績」といえるのではないでしょうか?

ですが、結局当時ビスマルクを支援していたはずの国民自由党の帝国議会議員たちの一部はビスマルクと対立し、ビスマルクと対立する立場にあった自由主義者たちの政党、ドイツ進歩党と合流。ドイツ自由思想家党を結成しました。自由思想家党・・・「思想」っていう言葉が見事に入ってますね。

更にドイツ自由思想家党は1881年と1884年の2回の帝国議会選挙で躍進し、84年の選挙ではついに国民自由党の議席数を追い抜きます。

この時同じく議席を伸ばしていたのが「社会主義労働者党」。

麻生内閣が敗れ、民主党が政権をとったときととてもよく似ていますね。麻生内閣当時より安倍内閣にかけて、自民党と協力関係にあるのは創価学会員で構成される「公明党」。

ビスマルクが協力関係を築かざるを得なかったのもカトリック教徒で構成される「中央党」ですから、このあたりもとてもよく似ています。

この後はWikiよりそのまま抜粋しますが、
これに対抗してビスマルクは当時不穏になっていた国際情勢を利用してポーランド系住民蜂起の可能性やフランス対独報復主義の危険性など対外脅威論を強調するようになり、それ以外の「取るに足らない」法律論議をしようとする者、軍や政府の要求を受け入れない者はすべて「帝国の敵」「非愛国」であるというレッテル貼りを強化し、自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた。

とあります。このあたりの手法は、どちらかというと安倍内閣とよく似ているように感じます。

ただ、これもひょっとすると筆者のレッテル貼りである可能性もあるのではないかな、と。それは、のちの記事で記そうと考えているビスマルクの「外交政策」の側面から見るとうっすらと想像できるはずです。

安倍内閣も北朝鮮や中国の脅威を「煽っている」ように日本の「社会主義者もどき」の面々には映っているでしょうけれど、しかし外交上、これに対応できる体制を作ることは、とても大切なことです。

ビスマルクの時代も同じことであったのではないかと思います。この一節の中で、「ポーランド人のプロイセンからの追放」が話題に上るのですが、この話題はビスマルクの「外交」を見ていく中で追及していきたいと思います。このことは、のちの「独露関係の悪化」にも関係するのだそうです。


自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた上で、ビスマルクは国民自由党と共に「保守党」、「帝国党」という二つの政党とともに「カルテル」と呼ばれる選挙協力関係を築き、翌1887年の帝国議会選挙ではこの三党が圧勝し、「絶対多数」を確保するに至ったのだそうです。

話題が多くなりましたので、今回はいったん記事を終了し次回記事では特にビスマルクの行った「社会主義者」たちに対する政策を中心に記事を進めてみたいと思います。




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先日(2018年9月22日)、愛媛県松山市の「椿神社」というところで、「憲法に自衛隊を明記する意義」というタイトルの講演会に参加する機会がありました。

愛媛県憲法改正国民投票連絡会議設立大会

画像にもございます通り、講師をなされたのは、自衛隊元「空将」でいらっしゃる織田邦男さんという方。私としては初めてお伺いするお名前です。

ただ、元々は講演会を開催することが主目的であったわけではなく、「愛媛県憲法改正国民投票連絡会議設立大会」のメインゲストとして織田さんが招かれた形になります。

大会には、実行委員会の共同代表としてもお名前を連ねていらっしゃいます、われらが加戸守行元愛媛県知事もご挨拶のため、登壇なさいました。

愛媛県憲法改正国民投票連絡会議設立大会挨拶


私は、実はこれまであまりこの「憲法改正問題」にはこのブログ上では触れてきませんでした。

実際にこれまでで話題にしたのは主に2回。ともに「緊急事態条項」をテーマとした記事です。

第86回 本当のアベノミクス
第105回 緊急事態条項の真実~現行法制の本当の問題点を問う~

「緊急事態条項」とは、例えば先日北海道を襲った北海道胆振東部地震や関西地域を襲った台風21号、広島、岡山、愛媛を中心に西日本一帯を襲った西日本豪雨災害のように、自治体や管理団体の垣根を超え、横断的に災害に対応すべき事態が発生したとき、一時的にその指揮権を内閣総理大臣に一括し、災害対応に当たることを可能とするための改正内容です。

また災害が発生した後で内閣の任期切れに伴う解散総選挙などがある場合、災害対応を優先するために一時的に内閣の任期を延長し、衆議院の解散を行わず、災害対応に当たることを可能とする内容も含まれています。

一部の野党はこれが内閣総理大臣の独裁体制を築くための法改正である、などとバカのように大騒ぎしていますが、私は最悪の事態に対応するため、このような法改正は実際に必要だと考えています。

説得力のある内容だと考えたから記事にしたわけですが、そもそもの「憲法改正議論」で考えた場合、やはり緊急事態条項の制定は憲法を改正する上での「傍論」にすぎません。その本丸はやはり「9条の改正」にあるのです。


9条に自衛隊を明記すべき理由

【日本国憲法第9条】
第1項
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これまでの私としては、確かに現在違憲状態にある自衛隊を合法とすべきだとする、その考え方そのものは理解できるのですが、では、それを今どうしてもやらなければならないのかとか、現行法制ではダメなのかとか、そういった考え方に対して疑いもなく、はっきりと答えることができる情報を持ち合わせていませんでした。

まして9条の法改正に反対するのは、そもそも自衛隊そのものが必要ない、と考えている共産党などの面々。「反対のための反対」を必死に考え、ウェブ戦略まで駆使して改憲勢力をつぶそうと考えている連中です。

ですから、私自身の中ですらまだ疑問点が残っているような話を、無責任にブログの記事にするわけにはいきません。

私の中で、「9条を改正すべき、説得力のある理由」に未だ巡り合うことができていなかったことがそもそも私がブログに9条に関する記事を記すことができなかった最大の理由です。


自衛隊の現状

現在自衛隊が抱えている最大の問題は「なりて不足」にあるのだそうです。

自衛隊は毎年8000人の自衛官を募集しているのだそうです。ですが、実際には6000人強程度しか集まっておらず、この「なりて不足」が将来の日本の「安全保障」に対して深刻な影響を与える可能性を指摘していました。


なり手が不足する理由

自衛官のなり手が不足する理由として、織田さんは以下の3つの理由を挙げていました。

 1.少子化
 2.好景気
 3.活動家らによる隊員の募集・広報活動の妨害

このうちで、「少子化」に関しては今後改善することは現実的に難しく、どうしようもない問題かと思います。

ですが、このうちで3番の「活動家らによる隊員の募集・広報活動の妨害」という問題は、本来発生させる必要のない問題であり、例えば2番の「好景気」が応募に二の足を踏ませる要因となっていることも、この3番を改善させれば、解消させることができるのではないか、と私は思います。


「活動家らによる妨害」とは何か?

例えば、皆さんは以下のような写真を見たときに、どのように感じるでしょうか。

自衛隊反対活動

こちらは東京都三鷹市というところで行われた地域の防災訓練に、自衛隊が参加することに反対する「市民」たちが行っている自衛隊反対活動の様子です。彼ら、彼女らは災害の時に「自衛隊が作ったカレーなど食べない」といっているんですね。

そして防災活動に迷彩服を着た自衛隊は参加するなとか、自衛隊ではなく災害救助隊を参加させろ、とか。

自衛隊反対活動2

こちらは隊員たちの真横で自衛隊の訓練に対する反対活動を行っている様子です。

共産党チラシ

こちらは奈良県で行われた勉強会のチラシの写真。赤枠で囲っている部分を拡大すると・・・

共産党チラシ2

少し文字が荒れているので読みにくいかもしれませんね。ここには、

「自衛隊は人殺しの訓練。奈良の若者が駐屯地誘致で自衛隊に狙われている。不安がいっぱい・・・」

と記されています。読み方によっては、奈良の若者が自衛隊に命を狙われている、ととられても仕方のないほどの表現です。

ですが、実際には自衛隊は海外でも「人殺し」など一度も行っていませんし、特に国内では災害時にたくさんの国民が自衛隊に命を助けられているはずです。


特に安倍内閣に入って、災害時における自衛隊の活動が大きくクローズアップされ、またSNS等が普及したこともあり、自衛官に対する謝意を言葉にする場面を多く見かけるようになりました。

ですが、このような自衛隊の活動が現在ほど報道されることもなく、またSNS等の媒体に触れることの少ない世代が多く住む自治体で、上記のような組織による活動が頻繁に行われていたとしたらどうでしょうか?

このような地域で育った子供たちは、自衛隊に対してどのような意識を持つでしょう?

もちろん、被災地の住民などは隊員たちに対する感謝の意を伝えるでしょうし、多分、隊員のお世話になった子供たちの中には「自分も大きくなったら自衛隊に入って、あの人たちのような存在になるんだ!」と思う子供たちも出てくると思います。

ですが、上記のような「反自衛隊活動」が盛んに行われている地域では、真逆の状況が起きることが想像されます。

また、実際に隊員として活動する皆さんの中にも、「自分たちはこんなに頑張っているのに・・・」と悲観的な感情を持つ人も増えるのではないでしょうか?

織田さんのお話ですと、県庁や市役所などの公の施設でも、自衛官募集のポスターなどを掲載していると、活動家らよりクレームが入れられる自治体もあるのだそうです。その結果、「ポスターを貼らない」という選択をするほどですから、そのクレームの度合いも右から左に受け流すことができるほどの規模のものではないということかと思われます。

織田さん自身も、防衛大学に進もうとしたとき、いわゆる日教組系の教員に取り囲まれて防衛学校に進むことをあきらめるよう説得された経験があるのだそうです。

では、一体なぜこのような、私たちから見れば「非常識」なことが法律で規制されることもなく、まかり通っているのでしょうか?


活動家らが自衛隊に反対する理由

はっきりといえば、自衛隊という存在が、活動家らにとっては「イデオロギー化」しているから。これ以外に理由はありません。

ですが、彼らもまたそのような主張を面と向かって行うことはしません。想定される彼らの「自衛隊に反対する理由」こそが、「自衛隊は違憲な存在であること」なのです。

彼らにこのような活動をやめさせる最大の方法こそ、私は自衛隊の存在をはっきりと憲法に明記し、自衛隊そのものを「合憲」な存在にすること以外には考えられません。

例えば教育の現場で、「自衛隊が人殺しを目的とした集団である」と子供たちに教えたとしても、それを「偏見であり、職業に対する差別だ」と取り締まることは、現状では難しいかと思われます。その理由は、現状では自衛隊は事実上「違憲」な存在であり、憲法9条に記された、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする文言に抵触する存在であるからです。

「まさか」と思う人もいるかもしれませんが、私、今まさにSNS上でこの問題について、共産党の方と議論しているのですが、はっきりと「自衛隊が人殺しを目的とした集団である」と言ってきました。

私が「自衛隊は人殺しを目的にはしていない」とお伝えしたところ、「今はそうではない。だが将来的には」と答えてきましたので、実際にそういう認識が共産党の方にはあるのでしょう。

ですが、このような事実に基づかない憶測が偏見を生み、一部の学校教育の場で、特に隊員を父親や母親に持つ子供たちの気持ちを苦しめる結果になっているのだとしたら、正直ってこれは看過できるものではないと思います。

このような現状が自衛官「なりて不足」の原因につながっているというのは非常に筋の通ったご意見だと私は感じました。

そして、もしこの原因を取り除くことができたとしたら、逆に自衛隊の隊員さんたちは尊敬される立場になり、国民のため、自衛官になりたいと考える人も増えるのではないかと思うのです。

これは、織田さんが自衛隊のなり手が不足する理由の一つとして挙げられた、二番の「好景気」という部分も解消する一つのソリューションともなるでしょう。

自衛隊が、好景気にも選ばれる職業となれば、好景気が理由で自衛隊のなり手が不足する現状はなくなります。


改めて考える、「自衛隊を憲法に明記すべき意義」

私たちが、特に喫緊で意識しておかなければならないのは、やはり災害時における自衛隊の隊員の不足に関する問題です。

もちろん、「それがあえて自衛隊である必要があるのか」といわれれば、もちろん自衛隊以外の災害救助専門の部隊を用意する方法もあるとは思います。

ですが、「だから自衛隊は必要ない」ということにはならないのではないでしょうか。


織田さんのお話で「なるほどな」と思わされた話題の一つとして、中国やロシアが日本の領空に近づいた際に発せられる、「スクランブル要請」の問題です。

両国が、特に領空侵犯を仕掛けてくる最大のタイミングは、例えば先日北海道で起こった「北海道胆振東部地震」や関西地域をお襲った21号、西日本豪雨災害、そして東日本大災害。

このような、日本が自然災害によって最も困難に見舞われた時にこそ両国の領空侵犯スレスレの行為は数を増すのだそうです。

もしこの時に自衛隊がスクランブル発進をせず、この状態を放置していたとしたら、両国は簡単に領空、了解侵犯を実行し、特に中国は、南シナ海のように領海内に基地を建設し、領海を実効支配するような行動も平気で行ってくるでしょう。

「憶測だ」といわれればそれまでですが、「やってこない」確証などどこにもありません。米国軍が自衛隊に変わってやってくれるわけではないのです。

自衛隊は必要なのです。

では、せっかくそれだけの装備や組織力を持ち、災害復旧にもっとも力を発揮することができる自衛隊を、例えばスクランブル発進にのみ対応させ、災害時の救済・支援は行わせない、などということほど馬鹿らしいことはありません。

そして、例えば自衛隊以外の災害救助専門の部隊を用意するよりも、自衛隊を憲法に明記した上で名実ともに合憲な存在とし、その役割の中に「災害復旧」を規定したほうが、時間的な面でも、予算的な面でもよほど現実的です。

ですが、現在のように自衛隊の存在を憲法上不安定なまま放置し、活動家たちによる自衛隊バッシングを継続させていれば、いずれ災害復旧、救済支援にあたる自衛隊員の数が不足し、充足していれば助かったはずの命を助けることができなかったり、復興の遅れをもたらし、被災者が必要以上に不自由な生活を強いられるような状況が現実的に発生しかねません。


では、なぜ「今」なのか?

自衛隊を憲法に明記するためには、当然憲法を改正する必要があります。

そのためには、「憲法を改正しても構わない」と感じる国会議員を2/3以上結集し、憲法を改正するための発議が行える状況を作らなければなりません。

改憲に反対する勢力が必死に活動を展開すし、憲法を改正する必要がない、という印象操作をメディアまで利用して行っている状況がありますから、この2/3の改憲勢力をそろえられる機関など、そうやすやすと作ることができるわけではありません。

もしそのタイミングを逃せば、自衛隊は違憲状態のまま放置され、活動家たちのバッシングのターゲットとされ、いずれ私たちの国、「日本」という国の安全を脅かす状況が発生したとしても、全く不思議なことではないのです。

そうなったときにはもう遅い。

織田さんの言葉を借りるとすれば、「本当に改憲する必要が生まれたときにはもう遅い」のです。

改憲する必要が生まれてから選挙を行ったとしても、改憲に賛成する国会議員が2/3集まる保証などどこにもありません。

もし仮に公明党の「加憲案」に妥協したとしても、自衛隊を憲法に明記できるタイミングは「今」しかないのです。

この考え方は、私にとっても非常に納得のいくものでした。

自衛隊が将来人殺しを目的とした集団となる、なんてそんなもの妄想以外の何者でもありません。はっきり言って自衛隊に対する「侮辱」ですね。

ですが自衛隊は、「そんな人たち」でももし災害に巻き込まれれば救助しなければならないんです。

「自衛隊が将来人殺しを目的とした集団となる」という非現実的な妄想を信じて自衛隊を違憲状態のまま放置するのか。それとも日本の安全保障を充実させるため、自衛隊を合憲な存在とし、だれからも尊敬される存在となる一つのきっかけづくりを行うのか。

ぜひ、この記事を読んだ皆さんにも一生懸命考えていただきたいと思います。



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<継承する記事>第427回 ビスマルクの文化闘争と1873年恐慌~ウィーン証券取引所の崩壊~

「ビスマルクの経済政策」と記していますが、多分この時にビスマルクがとった経済政策にポイントを当てて記事にしているサイトって、存在しないんじゃないでしょうか・・・。あくまでも私の推測にはなりますが。

今回の記事では、時代を現代とリンクさせ、場所を過去と現代の日本やアメリカへとリンクさせます。

なので、少し「外伝」的な要素も含まれますが、あくまでもテーマの本旨としては、今後ナチスドイツの誕生に向けたビスマルク時代の「ドイツ帝国」についての記事です。


今回はまず産経新聞の記事。先日(2018年9月20日)に行われた、日本の自由民主党総裁選に向けて、9月10日に安倍首相が、「自民党総裁」として行った「所信表明演説」のご紹介から始めます。

といっても、掲載するのはその発言の一節のみにはなりますが。

【自民党総裁選・所見発表演説会詳報】より抜粋
「さて、世界は今、保護主義の台頭に対して懸念が深まっています。経済のグローバル化の中、急速な変化に対して不安や不満が生じています。

しかし、貿易制限措置の応酬はどの国の利益にもなりません。

むしろ、知的財産、環境、労働といった幅広い分野において公正なルールを打ち出していくことによって、この不安や不満に対応し、そして世界の貿易、投資を拡大していくという発想に立たなければなりません。

だからこそ日本はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)11、日EU経済連携協定(EPA)においてリーダーシップを発揮し、合意へと導いてまいりました。

今こそ日本は自由貿易の旗手として、新しい時代のルール作りを主導していかなければなりません」

安倍総裁所信表明(産経より)

抜粋部分の冒頭で、安倍首相は「世界は今、保護主義の台頭に対して懸念が深まっています」と発言していますね?

これは、現在貿易において関税合戦を展開するトランプ大統領が主導するアメリカや習主席が主導する中国の動きを念頭に置いたものです。

例えば、元々日本とアメリカを含める12カ国で話し合われていたはずの「TPP」に関しても、アメリカは交渉に日本が参入してきたことで、自国の利益にはならないことに気づくと、一気にTPPからの離脱へと歩みを進めました。
(TPPに関しては こちらのシリーズ← をご参照ください)

その後、トランプ大統領は自国の「貿易赤字」を念頭に、海外から自国(アメリカ)に流入する物資に関税を上乗せすることで、「自国企業」の利益を保護する政策に転換しました。

TPPは逆に参加国の最低限の利益を保護した上で、基本的には「関税」という障壁を取り除くことを目的として締結された「連携協定」のことです。

つまり、「保護貿易」を象徴するものがトランプ大統領の政策、「自由貿易」を象徴するものが「TPP」です。

この選択が、即ちビスマルクの時代のドイツ帝国でも問題となっていたということ。そして1873年不況に見舞われたドイツにおいて、ビスマルクが選択しようとしていた政策が「保護貿易」であったということです。


ドイツ帝国における「自由貿易」と「保護貿易」

いくつかの前提条件を掲載しておきます。
・もともとプロイセンは、ナポレオン戦争後のウィーン議定書において取得した「ラインラント」とプロイセン本土の間で物資を輸送する際、「ドイツ地方内の他の国家」に対して関税を支払わなければならないリスクを回避するために「関税同盟」を締結する必要性に駆られた。

・プロイセン以外のドイツ諸国は、プロイセンの経済力を自国発展に利用するために関税同盟の締結に賛同し、ドイツ関税同盟が成立した→このことがドイツ民族(正確にはプロイセンを中心とする北ドイツ諸国)の「ドイツ=ナショナリズム」を昂揚させた。

・ビスマルクは、このような自由主義者や民族主義者たちの動きを非常に煩わしく感じていた。(国家として経済連携関係を成立させていくことにはむしろ前のめりだったが、これに乗じてドイツ民族の統一や、逆に民族としてドイツから独立しようとするハンガリーやチェコ、シュレースビヒ、ホルシュタインなどの動きがプロイセンを不安定にすると直感していた)

・最終的にビスマルクは武力によってドイツ民族を統一する方法を選び、一方で「分離主義者」たちが多く居住する南ドイツ諸国には「自治権」を与えた。

非常に簡単にまとめるとこんな感じです。

この他、ビスマルクはイギリスや普仏戦争前のフランスなどとは関税を撤廃することを前提とした通商条約を締結していますから、一見すると「自由貿易」を推進しているように見えるのですが、実際に「自由貿易」を行っているのは最終的に「ドイツ帝国」に加盟したドイツ諸国との間のみ。

それ以外の国々とは、自由貿易を行うための協定を「個別に」行っていることがわかります。

私の推測ですが、何となくビスマルクという人物は、例えば国家を当時の船舶に例えると、「自由主義」や「保護主義」という波にこだわることをせず、時流に合わせていつでも「自由主義」から「保護主義」に舵を切ることができる、そういった「ニュートラル」な位置に自分自身の価値観を置いていたのではないか、と思うのです。


「保護貿易」と「自由貿易」についての私の考え方

では、記事を記している私自身が、「保護貿易」がよいと考えているのか、「自由貿易」がよいと考えているのかと申しますと、これは明らかに「保護貿易」が一番良いと考えています。

というよりも、「内需主導型」の経済を目指すのか、それとも「外需依存型」の経済を目指すのかといえば、当然「内需主導型」の経済を目指すべきだと考えているのです。

1998年、橋本龍太郎内閣によって、「金融システム改革法」という法律が施行されました。

この法律ができるまで、一度に取引ができる金融商品の決済には上限が設けられていましたし、取引は法人でなければ行うことはできませんでした。

取引を行うには取引を希望する法人が金融機関の店頭まで出向かなければなりませんでした。

ところが、このような規制が「金融システム改革法」によってすべて撤廃され、金融取引は個人でも行うことが可能になり、上限は撤廃。何よりわざわざ金融機関の店頭にまで出向かずとも、インターネット環境を利用して「電子商取引」を行うことが可能になりました。

その結果、何が起きたかと申しますと、海外の金融機関や投資家たちが、日本まで来ることなく、海外からインターネットを使って通貨や株、その他金融商品の取引を行うことが可能になったのです。


もちろん、現在から考えると、この法律が施行されていなければ、日本の発展は完全に世界から取り残されていたでしょうし、現在そのおかげで一資産を築いた人がいることも事実です。

ですが、間違いなく言えるのは、この法律さえ施行されなければ、リーマンショックは起きなかったということです。

金融システム改革法が施行された後、小渕内閣においてゼロ金利政策が実施され、これを利用して小泉内閣の際、それこそ前回の記事 で話題にしたドイツ銀行のような金融機関が、「電子商取引」で日本の銀行から資金を借り、アメリカのサブプライムローンに投資する構造から生まれたのが「リーマンショック」です。

このような構造を「円キャリートレード」というわけですが、これを可能にしたのが橋本龍太郎内閣で実施された「金融システム改革法」であったわけです。

もちろん、リーマンショック以前、橋本龍太郎内閣において金融システム改革法が実施される以前、1997年7月に勃発したアジア通貨危機もあるわけなので、「金融システム改革法がなければ経済危機は起きなかった」というつもりは毛頭ありませんが、少なくともリーマンショックの原因となったのは「金融システム改革法」であるということです。


「外需に依存」する一つの事例としてリーマンショックを示したわけですが、この時政策を受け持った麻生内閣は、(国債償還費、社会保障費を除き)現在に至るまでの中で最大の財政支出を行うことでこの難関を切り抜けました。

しかも、きれいに日本国内でお金が使われるシステムになっていましたので、麻生内閣の財政支出の影響は、実は麻生内閣が終わった後、民主党内閣入っても継続して及び続けました。

消費税課税対象となった消費の推移

民主党内閣になって麻生内閣において未実行の政策はすべて停止されてしまいましたが、実行済みの物はそのまま実行されましたからね。

麻生内閣が継続していれば、民主党内閣当時のように円高が急伸することもなかったでしょうし、特に麻生内閣崩壊後、鳩山内閣当初のような景況感を国民はみな実感できただろうと推測されるわけです。


ただ、私は別に安倍さんが発言している、「保護主義の台頭に対して懸念が深まっています」という言葉を批判している、というわけではありません。

例えばTPPは、元々野田内閣当時にスタートした議論ですが、私は当初より、「民主党政権下でのTPP交渉参加には反対だ」と主張していました。

大事なのはTPP交渉に参加し、日本が有利になるように内容を変えさせることにあるのであって、そのために日本国がどうあるのかという意思を統一させておくことが大切なのです。

ですから安倍内閣になり、甘利さんが交渉する中でアメリカは「旨味」を失い、最終的にTPPから脱退する選択をしました。

この過程は、プロイセンが「関税同盟」における交渉を進めた様子と非常によく似通っているように感じます。

ビスマルクは、最終的に「武力」を用いて交渉に決着をつけましたが、もしビスマルクが交渉のテーブルに上がらなければ日本の民主党政権におけるTPP交渉のように成り下がっていたのではないでしょうか。

私が何を言いたいのかということをその上でご推察いただければと思います。


ビスマルクの経済政策

ビスマルクが現役であった当時、ビスマルクの考え方を俯瞰(ふかん)できる人はいなかったんじゃないか・・・とも思います。

冒頭に記したように、この当時のビスマルクの掲載政策にポイントを絞った情報がネット上では見当たりませんので、わずかな少ない情報からの推測になるのですが、少しWikiの抜粋から話題をスタートしてみます。

【1873年不況:イギリスのの政策とドイツの政策の比較】
1873年から1896年の不況の間に、ヨーロッパの国々の大半は劇的な物価下落を経験した。

それでも、多くの会社は生産効率を改善させるようになり、高い労働生産性を確保した。結果として、工業生産高はイギリスで40%、ドイツで100%以上増加した。

この2国の資本形成率を比較すると、異なる工業成長率が明らかになる。不況の間にイギリスの国民純生産に対する国民純資本の形成率は11.5%から6.0%に下降し、ドイツは10.6%から15.9%に上昇した。つまるところ、不況が進行する間にイギリスは静的な供給調整を行い、一方ドイツは実効需要を刺激し、資本形成を増加調整することで工業供給能力を拡大した。

例えば、ドイツは送電線、道路、鉄道の管理のような社会インフラに関する投資を劇的に増加させたのに対し、イギリスはこれを止めるか減らし、投資がドイツにおける工業需要に刺激を与えた。その結果、資本形成率の違いが2国の工業生産におけるレベルの違いとなり、不況期またその後の成長率の違いとなった。

前回の記事 でも似た情報を掲載しましたが、前回の記事ではドイツと「オーストリア」とを比較しました。ですが今回の引用はドイツと「イギリス」とを比較したものです。

1873年から1896年の間に

イギリスは「労働生産性」は40%向上させたものの、国民純資本の形成率は11.5%から6%に下落
ドイツはは「労働生産性」を100%向上させ、国民純資本の形成率は10.6%から15.9%に上昇

という違いが生まれました。「国民純資本」は、国民の収入総額から支出総額をマイナスしたものです。

イギリスの数字もともにプラスですから、比較年と比べてともに上昇はしているもの、その増加幅に違いが出たことを引用文では説明しているものと思われます。

この時イギリスがとった政策はいわゆる「緊縮財政政策」。「供給調整」を行ったとありますから、要は仕事そのものの量を減らし、その代わり一つの仕事にかかる人員の量を増やした、ということと思われます。そりゃ、「労働生産性」は上がりますよね。

一方ドイツは逆に仕事の量を増やし、インフラを整えることで、おそらく機械的な生産効率を向上させたものと思われます。結果的に労働生産性はイギリス以上に向上し、資本形成率も不況前の形成率を上回る結果になった、ということですね。

ドイツがとった経済政策は、即ち「ケインズ政策」と同じ種類のものと思われます。


第147回の記事 で、世界恐慌に見舞われたアメリカにおいて、フランクリン=ルーズベルト大統領が執り行った経済政策、「ニューディール政策」について記事にしました。

また、第126回の記事 におきまして、この米国の「ニューディール政策」を日本の高橋是清の記事と比較する内容も掲載しました。少し文章が長くなりますが、同記事より引用します。

高橋是清の政策は、後のアメリカ政府が模倣して「ニューディール政策」として実施し、その数年後、「ジョン・メイナード・ケインズ」という人物がまとめ上げ、「ケインズ政策」または「ケインズ経済学」として広く世界に知れ渡るようになりました。

<中略>

過去に何度も述べていますが、高橋是清の政策は、基本的に「金融政策」と「財政政策」を同時に実施するからこそ意味のある政策です。恐慌が発生し、国全体に「不況」が押し寄せたとき、一番問題となるのは「国民が仕事を失うこと」です。

人が生きていく上では、当然生活費が必要となりますから、そのためには「仕事」が必要となります。
この時に、国民に「仕事」を与えず、「お金」だけを与えたとしたらどうなるでしょう?

その典型的な例が「第一次世界大戦後のドイツ」です。
第一次世界大戦後のドイツでは、ドイツの最大の収入源であった「ルール地方」が占領され、その収入源が断たれてしまいます。

この状況で対戦国であったフランスやベルギーは「賠償金を支払え」と言ってきました。

そこで、ドイツ政府はルール地方の労働者たちにストライキを呼びかけ、その代り、彼らに「紙幣増刷」によって生活費を直接支給したのです。

ドイツでは生産活動が行われない中で紙幣増刷によって資金が供給されましたから、物価がどんどん高騰し、最終的にはあの「ハイパーインフレ」と呼ばれる経済状況に陥りました。

一方、高橋是清は国債発行によって手にした資金を、国民に直接分配するのではなく、軍事産業への資金として「投資」を行いました。
生産活動を行う対価として資金を手渡したのです。
そして、物価上昇率が3.7%に達成した時点で国債発行を中止し、軍事産業への資金投与を中止しようとしたところ、勃発したのがあの「2.26事件」です。

ちょうどドイツに関する記事も掲載していますので、この部分も省略せず、掲載しています。

1873年恐慌に対するビスマルクの経済政策は、ちょうどこのニューディール政策や是清の経済政策ととてもよく似ています。

是清やルーズベルトはその財源を手に入れる方法として「国債発行(つまり金融政策)」という方法をとりましたが、ドイツの場合はわざわざ国債発行という手段に頼らずとも、フランスから獲得した「賠償金」がありました。

順番からすると、是清の経済政策を模倣してF・ルーズベルトがニューディール政策を実行し、これをケインズがまとめ上げた、という流れになるのですが、当然ビスマルクの時代にはまだ是清は生まれていませんから、実は是清の経済政策を世界で最も早く政策として実施したのはビスマルクであった・・・という事実が判明してしまいました。


記事を総括的にまとめますと、つまりビスマルクが考えていた「保護貿易」とは、輸出入のことを意図したものではなく、実はこのような「内需拡大政策」のことを意図していたのではないか、と私は考えるわけです。

第141回の記事 におきまして、世界恐慌時の是清の前の大蔵大臣である井上準之助のことを話題にしました。

彼は、是清とは真逆の経済政策をとり、世界恐慌の影響下、日本経済を失墜させてしまうわけですが、彼のとった政策の一つが「金輸出の解禁」。

この政策が、ちょうど橋本龍太郎内閣で執り行われた「金融システム改革法」とよく似ています。

経緯の説明まではここで説明しませんが、金輸出が解禁されたことにより、日本国内では物価の急落=デフレが襲います。そのため、井上準之助の後を引き継いだ是清は金輸出を禁止し、資金不足に陥った国内で国債を発行し、これを通貨発行権を持つ日銀に直接購入させることで通貨の量を増やし、更にこれを「公共投資(軍需産業)」に回すことで日本国経済を回復させました。

ビスマルクも、おそらく同じことをやろうとしたんですね。ビスマルクの時代ですから、これを「金輸出禁止」という方法ではなく、「保護関税法」というものを成立させることで実行しました。(1879年2月)

この結果、これまでビスマルクを支持してきた国民自由党のうち、自由貿易を推進する「自由主義左派」の面々が分裂し、ビスマルクと敵対する立場にあったドイツ進歩党と合流し、「ドイツ自由思想家党」を結成。(1884年3月5日)

保護貿易路線への変更をめぐるビスマルクと国民自由党左派との対立は、既に1875年終わりころから明らかになり始めており、ビスマルクはこれまで敵対してきたカトリック政党である「中央党」との和解がその選択肢の中に含まれるようになっていました。


次回記事では、ビスマルクが「中央党」との和解を考えるようになったもう一つの理由、「社会主義勢力の台頭」を自由貿易推進はたちとの対立と並行する形で記事を進めていければ、と考えています。



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<継承する記事>第426回 ビスマルクの「改革」~自由主義改革とカトリックへの弾圧~

少しだけ、前回の記事の補足をしておきますと、普仏戦争後、ドイツは統一を果たしたことで、当初のプロイセンの目的の一つである「ドイツ市場における完全の撤廃」を関税同盟抜きで実現することができましたから、ドイツ国内における市場間での物流が非常に活発になりました。

一方、フランスに勝利したことでドイツはフランスから多額の賠償金を手にしたため、今後のドイツは急速に発展していくことになります。自由主義者から、これまでの封建制度の撤廃を望む声が盛んに上がるようになったのも、このようなドイツの経済状況を背景にしたものです。


武力による経済的市場の統一を実現したビスマルクですが、統一後は非常に民主的にその後の市場改革を行っていったということですね。

ただし、そんなドイツの中で、いまだに「旧態依然」とした勢力を誇っていたのが西南ドイツを中心に活動する「カトリック」信者たち。

彼らを一掃するため、ビスマルクが用いたのは法律による「弾圧」でした。


ビスマルクの文化闘争

この、「文化闘争」という言葉をはじめて用いたのは、1861年に結党したドイツ進歩党の創立者の一人である、「ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョー」という人物。ビスマルクを支持していたのが国民自由党なのですが、国民自由党そのものもドイツ進歩党に所属していた議員によって結党されたものです。

ドイツ進歩党は「自由主義左派」政党で、国民自由党もまた同じ自由主義政党ではあったものの、政治的な思想は「右派」・・・って、ややこしいですね。

私自身が両政党の詳細を把握しているわけではありませんから、両政党の詳細はこの程度にとどめておきますが、ドイツ進歩党は何しろビスマルクに対立する立場にあった政党。

つまり、ヴィルヒョーが用いた「文化闘争」という言葉は、どちらかというとビスマルクを中傷する目的で用いられたものなのではないか、というのが現在私が言いたいことです。


あと、この段階になって見えてきたのは、そもそも北ドイツと西南ドイツでは、その「宗教観」が異なっていたということ。もちろん同じキリスト教ではあるのですが、プロイセンで主に信仰されていたのがプロテスタントであったのに対して、オーストリアを含む西南ドイツで主に信仰されていたのはカトリック。

私にはキリスト教の考え方はわかりませんが、これまでの南北ドイツの対立構造は、こういった宗教観の違いにも理由があったのかもしれないですね。


前回の記事 において、「ビスマルクV.S.カトリック」とのサブタイトルで、当時のローマ教皇であったピオ9世がまとめたとされる「誤謬表」の話題や、「教皇により神格的な意味づけを持たせた」ことなどを記しました。

自由主義者たちがこういったカトリックたちに対する嫌悪感を抱いたきっかけとなったのは、ちょうど普仏戦争が行われていた当時、ローマ教皇領において開催されていた「第1バチカン公会議」でのこと。考えてみれば、当時の産業革命や、これを利用してドイツが実現して見せた軍事政策などは、当時の一般人からすれば「神の領域に近づこうとしている」と映っていたのかもしれません。

時期的には1869年12月8日から1870年10月20日にかけてのこと。「教皇により神格的な意味づけを持たせた」のは「教皇不可謬説」という考え方なのですが、これが「憲章」により採択されたのが1870年7月18日のことです。

ローマ教皇領は元々フランスよりの支援を受けていたのですが、普仏戦争の勃発によりフランス軍がローマ教皇領より撤退した後、イギリス国王軍によって占領され、イギリスに併合されてしまいます。

ですから、ビスマルクがドイツを統一し、ドイツ帝国の首相となった時点ではすでにローマ教皇領はイギリスの統治下にあった、ということになります。


「政教分離」

前回の記事で記した通り、確かに西南ドイツにおけるカトリックの存在を脅威に感じており、これを統制することで自由主義者たちの支持を得ようとしたことは間違いないと思うのですが、実際に行われた内容を見ると、ビスマルクが行ったことは現在の日本でいう「政教分離」を実行したに過ぎないのではないかと思われます。

例えば、そのきっかけとなった「説教壇法(カンツェルパラグラフ」というものがあるのですが、これは「聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課す」という刑法の一つです。

確かに現在ではこのような法律を施行すれば日本でも憲法違反になるでしょうが、ビスマルクの意図は「政治と宗教とを分離すること」にあったことがわかります。

「聖職者」と記していますが、これを「カトリック」には限定していませんね? つまり、同じ法律がプロテスタントに対しても適用されるということです。

この他、「政府系の学校から宗教の教師が追放」や「『五月法』による聖職者教育の管理」、「聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所の設置」、「全ての聖職者が記載された届書の提出」などです。

まあ、「弾圧」といえば「弾圧」ですね。

この他、ビスマルクが実施した取り組みの中に、「イエズス会の禁止」というものがあります。「イエズス会法」というものを作って、イエズス会を国外に追放したのだそうですよ。

そして、自由主義者たちはこのビスマルクの取り組みに賛同したのだとか。「イエズス会」は、カトリック以上に当時の自由主義者たちから毛嫌いされていたんですね。

イエズス会は同じカトリックの中でもより「カトリック色」の強い団体だったみたいですね。イエズス会が禁止されたのは当時のドイツだけでなく、18世紀のポルトガル、フランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国、1848年のスイス等々・・・。

要は、国家間の支柱となる精神的な基盤が、「宗教」ではなく「民族主義」に移行しようとしていた時代、権力者にとって、国境を越えて「教皇」という存在の下に結束しようとするイエズス会の存在が相当に煙たかったのだと思います。


1873年恐慌

さて。このように「分離主義者」が多く居住する西南ドイツにおいて影響力を発揮するカトリック教会。

その信者で構成される「中央党」がドイツ議会において「第二政党」となったことから、その存在に危機感を覚えたビスマルクは、法制度の制定により、その「弾圧」へと乗り出したわけですが、1873年におきた「1873年恐慌 」をきっかけに、ビスマルクはその「中央党」との関係を見直す必要性へと駆られることとなります。


ドイツにおいて「恐慌」が勃発した理由はいくつかあるのですが、一つ目の原因はこの当時すでに存在した「株式」にあります。

「株式」そのものはなんと13世紀当初より存在したのだそうですが、実際に「株式会社」が誕生するのは1602年のこと。オランダがインドネシアを拠点に設立した「東インド会社」が世界初の「株式会社」なのだそうですよ。

ドイツにおける「恐慌」の発端となるのは1871年、オーストリアウィーンに設立された「ウィーン証券取引所」の崩壊です。

ウィーン証券取引所の崩壊

この当時のドイツでは、法人の設立が自由化され、普仏戦争における勝利による好況感や、フランスから獲得した賠償金を元手に、新興企業が設立や既存企業の法人化が盛んにおこなわれていたのだそうです。


少しだけ話題がそれます。この時設立された法人の中に「ドイツ銀行」という法人があります。

私、どうもこのドイツ銀行とドイツ連邦銀行のことを混同していたようです。これはさすがに私としても非常に恥ずかしい限りです。

リーマンブラザーズが倒産した際、リーマンブラザーズの「CDS債(Credit default swap債)」を発行していたAIG。このAIGを救済するために米国政府がAIGに投入した政府資金を横流しで手に入れた銀行が「ドイツ連邦銀行」だと勘違いしていたのですが、どうも連邦銀行ではなく、「ドイツ銀行」であったようです。
(CDSとは、その対象となる企業が倒産した際にお金を受け取ることができる、『保険商品』のようなものです)

知らないっていうのはある意味非常に恐ろしい話で・・・。ひょっとすると私がどこかで発信した情報を見て、これを真に受けてしまっている方もいたかもしれないと考えると、本当に申し訳ない思いがします。

現在のドイツ銀行に関しては現時点では情報が全くないに等しいので言及しませんが、本シリーズ で取り上げている主テーマである「ナチス」。ナチスの誕生後、ヒトラーが政権を握った後のドイツ銀行は、同企業からユダヤ系社員の追放を強制し、役員からユダヤ系役員を追放するなどしています。

Wikiベースではありますが、このことを「アーリア化」と表現しています。Wikiを真に受けるわけではありませんが、ヒトラーが掲げたとされる「アーリア人至上主義」における「アーリア人」とは、「非ユダヤ人」のことを言っているのではないか、との推測が現時点で成り立つかと思います。

元々「アーリア人」とは中央アジア、現在のアフガニスタンあたりに住んでいた民族のことで、後にこの民族が南下し、パキスタンのあたりから東に移動した民族を「インド・アーリア人」、西に移動した民族を「イラン・アーリア人」といいます。

イラン・アーリア人が設立した最大の国家が「ペルシャ帝国」。ペルシャは後に「イラン」と名称を変えます。

後にこのアーリア人の言語がヨーロッパを構成する一部の民族の言語構造に非常に類似していることを、イギリス人のウィリアム・ジョーンズという人物が気づきます。このことから、これらの言語を話す民族のことを後に考古学者であるトーマス・ヤングという人物が「インド=ヨーロッパ語族」と名づけます。

おそらくこのことがのちにヒトラーが主張する「アーリア人至上主義」へとつながっていくものと思われます。

この話題はまた後日、記事にしたいと思います。

話題を戻します。

1871年以降のドイツでは、これらの法人化された企業の「株式」に対する「投機」が盛んにおこなわれる傾向にあったのだそうです。

またビスマルクは、フランスに勝利した直後、当時のドイツの通貨であった「銀貨(ターレル)」を廃止する手続きをスタートします。

「ターラー」そのものは、ドイツに限定されて利用されていたものではなく、ヨーロッパ全土で用いられていたのですが、特に当時のドイツで流通していた通貨のことを「フェアアインスターラー」と言います。「フェアアインス」とは、「統一」という意味があるんだそうです。

この通貨を元々利用していたのはなんとオーストリア帝国。1857年にオーストリアがこの通貨を制定して以来、フェアアインスターラーは、やがてドイツ全土で「通貨」として用いられるようになります。

ですが、普墺戦争でオーストリアが敗れた後、オーストリアにおけるフェアアインスターラーの打刻は停止。普仏戦争の勝利後、ビスマルクはフェアアインスターラーの廃止を決定したわけです。まあ、それはそうなりますよね。


恐慌の原因

恐慌の発端となった「ウィーン証券取引所」の崩壊ですが、冷静に考えますと、ドイツが普仏戦争に勝利した時点で、オーストリアは自国通貨である「フェアアインスターラー」の製造は中止していますから、この時点でウィーン証券取引所は「資金不足に陥っていたのではないか」という推測が成り立ちます。

現在のように電子商取引が行われているわけではありませんから、仮に証書を発行することができたとしても、株の価値が上がったとき、これを銀貨と交換しようとしても、元々保有している銀貨の量には限りがありますから、当然支払いができなくなってしまいます。

このことが原因で、ウィーンにある銀行が連鎖的に倒産を始めることとなります。面白いのは、この時もリーマンショックと同じような現象が起きており、最も大きな破産を起こしたのは、出資した株式会社が破綻したとき、その損失を保護するために設立されたオーストリアの協会の設立者だったんだそうですよ。

このことが、ドイツ国内における新興株バブルを崩壊させることとなりました。

ただし、ここで面白いのは、この時ドイツが取った手法は、フランスからの賠償金を利用して、さらなる社会インフラに対する設備投資に資金を回したということ。イギリスなどは逆に「緊縮政策」をとったようで、これがこののちの両国の成長率に差をつけることとなったようです。

一方、オーストリア(正確にはオーストリア=ハンガリー二重帝国)は自国の経済力ではなく、隣国ドイツがフランスから受け取った賠償金と株バブルによって支えられていた経済成長でしたから、ウィーン証券取引所の崩壊の影響は深刻なものとなりました。

アメリカにおける「恐慌」
一方、この時の「恐慌」の影響は、なんと大西洋を隔てて遠く離れたアメリカまで巻き込みました。

当時のアメリカは、南北戦争後の復興期にあり、ドイツがそうであったように、鉄道を中心とするインフラ事業のあおりを受け、経済は好調な状況にありました。

ですが、この好況感はやはりドイツと同じように、「投機筋」の投機対象となったのです。


アメリカの不況の原因となったのは、ドイツで銀貨が廃止され、金貨(金マルク)へと移行されたことです。

アメリカでは銀貨に対して銀の価値を固定していたわけですが、海外では銀の価値が下がっていますので、海外からものを買おうとすると、これまでよりも多量の銀貨が必要とされるわけです。

このままでは米国内における物資が不足することは明らかですから、米国でもヨーロッパと同じように銀貨を事実上廃止し、金本位制へと移行することが「貨幣鋳造法」によって定められました。

銀貨は、つまり「変動相場」となり、銀そのものの価値も大きく下落することとなったわけです。

そうすると、当然銀鉱山を持つ事業者の利益は既存されることとなります。また、これまで生産されていた銀貨そのものが国内に流通しなくなるわけですから、当然「通貨供給量」が減少することになります。

今のように電子商取引がなされているわけでも、政府によって価値が裏付けされた紙幣があるわけでもありませんから、銀の価値が急落するだけで米国経済は大騒ぎです。

今回は米国の状況を追求する記事ではありませんのであまり深堀はしませんが、結果的に米国ではオーストリアと同じような事態が発生したわけですね。米国の不況はこの後1879年まで続いたのだそうです。


これらの不況を受けて、ドイツ国内では、特に自由主義者たちが、これまでと同じように外国との貿易によって資本を得る「自由貿易」を維持するのか、それとも輸出入を税金によって制限し、国内の生産者を保護する「保護貿易」へと移行するのか、ビスマルクはその二択に迫られることとなりました。

一方でビスマルクを本来支持していたはずの国民自由党では、その内側に野党であるドイツ進歩党と同じような考え方を持った勢力が内在していました。

進歩党や国民自由党内部にいた「自由主義左派」たちは、「自由貿易」を維持すべきだと主張していた面々です。

一方のビスマルクは、逆に「保護貿易路線へと移行すべきだ」と考えていたようです。


次回記事では、ビスマルクが考えていた「自由貿易」と「保護貿易」について、第141回の記事 にて掲載した「金輸出」の問題などを参考にしながら、少し経済的な視点から記事を記してみたいと思います。

進められるようであれば、中央党との和睦やその後の「社会主義勢力の台頭」の記事も記してみたいと思います。


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<継承する記事>第425回 普仏戦争の終結とドイツ帝国の誕生~ドイツ帝国首相ビスマルク~

前回の記事で、ようやく「統一ドイツ」にまでたどり着きました。ここで初めて現在の「ドイツ」につながる原型が出来上がったわけですね。

余談ですが、第二次世界大戦敗戦後、ドイツは「東西」に分断されましたが、ここまでのドイツの歴史をたどると、それは決して不自然なことではないんだなと気づかされます。

日本に住んでいて「ドイツ東西分断」と聞かされれば、同じ国民性を持った一つの民族が、それこそ朝鮮半島のように二つに切り裂かれたかのような印象を持ちますが、ドイツの成り立ちを考えると、日本の「民族意識」とは同一に考えることはできないんですね。

とはいえ、現在はまだ情報がそこまで進んでいませんし、ドイツがどのような国境で「東西」に分断されたのか、ここは改めて検証する必要はあると思いますが。


話題を本旨に戻します。

普仏戦争のさなかに誕生した「ドイツ帝国」ですが、どうもこのドイツ帝国が誕生した時点で、いくつかの「憂慮」すべき事態が含まれていたようです。

そもそも論ですが、ビスマルクが統一ドイツの結成を志すようになったのは、「プロイセン」という一つの国家の「ルール」で統治できる領土を広げることがありました。

その理由として、ウィーン体制後のドイツにおいて、特にフランスの「第二革命」の影響を受け、「民族主義」や「自由主義」に煽られた国民たちが暴動を起こし、プロイセンそのものが不安定化していたことがあります。

自由主義者たちはこの問題を「話し合い」によって解決しようとするのですが、ビスマルクはそのうち「話し合いでは埒が明かない」と考えるようになり、シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争において志を共有することができたオーストリア外相『レヒベルク』が失脚した後、ビスマルクの選択肢の中に、「武力によるドイツの統一」が含まれるようになりました。(第418回の記事 をご参照ください)

例えば戦争によって獲得したシュレースビヒ=ホルシュタインについても、これを「独立」させず、プロイセンに「併合」することを目指したのも、もし両国を独立させ、プロイセンとは異なるルールの下での統治を可能にすると、この両国の中で民族意識が盛り上がり、プロイセンにとっての不安定要素となることを防ぐためです。

ですから、統一後の北ドイツ連邦もまた、「北ドイツ連邦憲法」という一つの共通のルールの下での『国家』を築いたのです。

残るはバイエルン、ヴィッテンベルク、バーテン、そしてヘッセンという4つの国を統合すれば、関税同盟を結成する同じ「ドイツ」という領域の中で、「(ドイツ民族ではない)民族主義」や「自由主義」をあおってプロイセン国内を不安定にさせる要素を取り除くことができると考え、南ドイツの「ドイツ=ナショナリズム(民族意識)」を煽ってドイツ統一に向けた機運を高めるべく引き起こしたのが「普仏戦争」でした。


ドイツ帝国における不安定要素

この時点では、まだ私は「ドイツ帝国の結末」までその流れを見ているわけではありませんから、あくまでも「予測」。この後の記事を進めるうえでの「仮定」としてこの情報を掲載しています。

そして、今回のシリーズのタイトルはナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? というタイトルですから、これから記す情報は、このことがのちの「ナチス誕生」に影響を及ぼす一つの要因となっているのではないか、とする推測です。

ビスマルクは、南ドイツ4カ国と交渉し、国名を「ドイツ連邦」とはせず、「ドイツ帝国」とし、その盟主を「皇帝」とするところまで含めて妥結する流れの中で、南ドイツ4カ国に対しては大きな譲歩をしています。

先に記したように、ビスマルクがドイツを統一しようとした最大の目的は、ドイツ領内の各国が、「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定にさせないようにすることにあります。

その手段として所属国を一つのルールの下に統一し、共通のルールで「ドイツ」という国家全体を運用しようとしたわけです。

ところが、ビスマルクは南ドイツを北ドイツに統合し、「ドイツ帝国」を設立した際、北ドイツ各国とは異なり、この4つの国に対しては「自治権」を認めたのです。

これらの国々に対し、「自治権を認める」ということは、即ちビスマルクがもともと排除しようとしていた『「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定』 にさせる要因を、自国の中に有し続けるということです。

ビスマルクは、普仏戦争によってドイツ=ナショナリズムを昂揚させ、南ドイツ諸国とともに見事「ドイツ帝国」結成にまでたどり着くわけですが、誕生と同時に自国内に「南ドイツ」という大きな矛盾を抱え込むことになるんですね。

皇帝ヴィルヘルム1世は、『連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく』との宣言を読み上げ、1871年1月18日、「ドイツ帝国」が誕生しました。

また更に、4月16日には「ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)」が公布され、この憲法は私が第351回の記事 にて話題とした、「ワイマール憲法」が制定されるまで存在し続けることとなります。

ただ、この「ドイツ帝国憲法」ですが、例えば
確かに皇帝に対して対外的な条約の締結権や帝国宰相の任命権、議会の召集権、法令の布告権、官吏の任免権など、様々な権利を有するものの、例えば『防衛戦争を除く宣戦布告』には当時のドイツの帝国議会、及び連邦参議院の同意が必要とされており、両議院にはこれを審査する義務が課せられていた

帝国議会は25歳以上の成人男性が有する普通選挙権によって選出された議員団によって構成され、秘密投票が保障されていた

ドイツ帝国民の市民権は各領邦の差別なく平等に扱われる

など、制度内容に民主的な要素が多分に含まれている様子がうかがえます。


ビスマルクによる改革

また、結構面白いのは、元々「自由主義者たちの台頭」を煙たがって誕生させたはずの「ドイツ帝国」なのですが、誕生後のドイツ帝国で行われたビスマルクによる改革は、ドイツ帝国の「自由主義化」でした。

・貨幣の統一
・様々な関税の引き下げ
・中央銀行の創設
・法律と裁判制度の統一化
・郡条例制定による地方貴族の領主裁判権・警察権の廃止
・県条例改正による地方自治の一定の実現

現在の私たち日本人から考えると、「自由主義化」というよりも「近代化」といった要素のほうが強い様に感じますね。

この時のビスマルクの行動は、特に「保守主義者」たちの反発を買います。そんな「保守主義者」の中に、これまでビスマルクとともに帝国の誕生に向けて歩みを進めてきた陸相「ローン」という人物も含まれていました。

ビスマルクはこの時、保守派急先鋒であったローンをこれまで自身が担ってきた「プロイセン首相」という役職に就け、その仕事の大変さを身をもって経験させることでこの事態を回避したのだそうです。(後にビスマルクは再びプロイセン首相に復帰)


ビスマルクV.S.カトリック

ドイツ帝国を結成した頃のビスマルクは、カトリック教徒たちからは「保守主義」ではなく、「自由主義者」だと認識されていたのだとか。

ドイツ帝国結成後、最初の選挙においてカトリック政党の中央党が投票総数の5分の1を獲得します。

この時のドイツ議会における「与党」は「国民自由党」で、この政党が第一政党だったのですが、中央党はこの選挙を経て、ドイツ議会第二政党となります。

ビスマルクは普仏戦争によってドイツナショナリズムを昂揚させ、ドイツ帝国を誕生させたわけですが、その最大の理由は南ドイツ国民の「分離主義者」たちの存在でした。

ビスマルクは、プロイセンそのものの統治を楽にするためにドイツ領全体を統一させようとしたわけですが、南ドイツ諸国はプロイセンで主流であった「ドイツナショナリズム」に対して否定的であり、例えばバイエルンであれば「バイエルン=ナショナリズム」、バーテンであれば「バーテン=ナショナリズム」が主流でした。

北ドイツとの統一に否定的な「分離主義者」たち。

「ドイツナショナリズム」を昂揚させることでドイツ帝国誕生を成し遂げたわけですが、誕生後も南ドイツから「分離主義」思想が払拭されたわけではありません。

「中央党」の党員、即ちカトリック信者たちの考え方は、このような分離主義者たちの考え方に近く(西南ドイツに多く存在しました)、ビスマルクとしても彼らを放置しておけば、再びドイツ国内に「暴動の種」を育ててしまうことになります。

また、元々ビスマルクに反発していた自由主義者たちも、特にこの時のカトリックの代表者であるイタリアのローマ教皇が「反近代的」だと考えていて、嫌悪する傾向にありました。


現在の日本で考えると、インターネットが現在のように普及していない時代、マスメディアが情報を独占していた時代がありました。

ところが、現在のようにインターネットが普及してしまうと、マスメディアが独占していた情報も広く国民が有するようになり、その独自性が失われてしまいます。

中にはマスメディアが国民を欺くため、限られた情報を意図的にコントロールして配信していたものもあったわけですが、それがすべて「デマ」であったことが徐々に明らかになり始めるわけです。

危機感を覚えたマスメディアは、あわててそのようなネットメディアの情報をコントロールしようとし始めます。


ピウス9世 (ローマ教皇)

おそらく、この当時のカトリックも同じような状況にあったのではないでしょうか。

フランス革命が勃発し、ここまで「近代化」や「自由主義化」が蔓延してしまうと、これまで権威の象徴として君臨してきたはずの「宗教」の存在価値が失われはじめます。

要は、宗教をよりどころとせずとも、国民が自分自身で臨んだ将来が構築できるようになり始めるわけですね。

これまでは「神に祈りなさい。そうすればあなたは苦しみから解放されるでしょう」という言葉で救われていたはずの人たちが、「いや、そんなことこの機械や考え方を用いれば簡単に実現できるし」というように考え方を変質させていったのだと思います。

で、カトリックではそんな失われていく権威を取り戻すため、教皇により神格的な意味づけを持たせたり、近代化や自由主義化によって実現可能となったシステムを「誤りである」と批判したりするわけです。

当時の教皇がそんな「誤り」を一覧表としてまとめたものを「誤謬表(近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書)」というのだとか。

少し面白そうなので、リンクとともにその誤謬表のうち、タイトル部分のみを抜粋して掲載してみます。

近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書
1 汎神論、自然主義、理性絶対主義

2 半唯理主義

3 宗教無差別主義と宗教拡大主義

4 社会主義、共産主義、秘密結社、聖書結社、自由聖職者結社

5 教会とその権利についての誤謬

6 国家自体、国家と教会との関係についての誤謬

7 自然道徳とキリスト教的道徳についての誤謬

8 キリスト教的結婚についての誤謬

9 教皇の民事権についての誤謬

10 現代自由主義に関する誤謬

読んだだけだと一体何のことかわからないかもしれませんが、これらのタイトルの下、様々な事例を掲載し、「この事例はすべて間違っていますよ」とこの「誤謬表」には記されているのです。

例えば、「1 汎神論、自然主義、理性絶対主義」の中には合計で14の「誤謬」が記されていて、その一番には以下のような内容が記されています。
この現実の宇宙と区別される最高の、最高に知恵を持った、すべてを統率している如何なる天主的神性も存在せず、天主は現実の自然と同一であり、したがって、変化を免れ得なく、事実、天主は人間と世界とにおいて成立ち、すべてのものが天主であり天主の実体そのものを持っている。天主と世界とは同一の同じものであり、したがって霊と肉、必然と自由、真と偽、善と悪、正義と不正義は同一の同じものである。

要は、

「この世の中に物全ては変化するものであって、神もまたその変化から免れることはできない」

といった趣旨のことが記されているのですが、教皇ピオ九世は、

「世間ではそう思われていますが、そうではありません」

と言っています。こんな調子で、合計80以上の「誤謬」が一覧表にまとめられています。


自由主義者たちは、そんな教皇の主張を「胡散臭い」と考え、嫌悪していたんですね。

考えてみればビスマルクは、「保守主義者」でも「自由主義者」でもなく、単なる「現実主義者」だったんだと思います。ですから、彼自身の中で自由主義そのものが悪いと考えていたわけではなく、

「確かにお前らの言っていることは最もかもしれないけど、何事にもやり方ってものがあるだろ」

といった趣旨のことを考えていたんじゃないでしょうか。ですから、たとえ「自由主義」であったとしても、彼が正しいと感じたものは躊躇なくこれを実践していったに過ぎないのではないかと思います。

ですから彼の中では必ずしも「自由主義者=敵」というわけではなかったのではないか、と。

一方で上記したカトリックたちの考え方は非常に非現実的ですし、「分離主義」は彼にとっても障害以外の何物でもありませんから、ビスマルクはこのようなカトリックを弾圧することで、自由主義者たちの支持を得ようと考えました。ここから、ビスマルク政治における「文化闘争」がスタートします。


記事が少し長くなりましたので、今回の記事はここでいったん終了します。

「文化闘争」の経緯と、そしていよいよ台頭する「社会主義者」たち。

次回記事では、「文化闘争」の経緯とドイツにおける「社会主義者」の台頭について記事にしていければと思っています。



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<継承する記事>第422回 普仏戦争の勃発~スペイン王位継承問題とエムス電報事件~

さて。今回テーマとしている「普仏戦争」ですが、これまで記してきた様々な戦闘よりもかなり具体的な内容が記されていて、どこをピックアップして要約すべきなのかと迷うばかりですが、戦闘内容そのものの詳細を記すことはこのブログの目指すものとは異なるように感じますので、あくまでも記述を大枠でとらえ、記事を進めてみたいと思いjます。

普仏戦争において、確かにドイツ各国の支援を受けたプロイセン軍の「圧勝」ではありますが、プロイセン軍も当然無傷ではありませんし、戦地によってはプロイセン軍が「敗退を喫した」と考えられる場所もあります。

ただ、戦争全体を通じていえるのは動員や援軍の派遣、戦況の読みなど様々な面にわたってプロイセン軍が一枚上手だということ。

フランス軍が勝利している戦地ですらフランス軍は攻め進むわけでなく、逆に撤退したりしています。

前回の記事にも記しました通り、開戦が1870年7月19日で、開戦後わずか1か月半。9月2日に、フランスは皇帝であるナポレオン三世が、10万人の将兵とともに全面降伏することとなりました。

ナポレオン三世が捕虜となったことと知ったパリ市民は憤慨。共和制をへの移行を求めた運動がパリ中に広がり、パリ市民は市庁舎を占拠。軍事総督であるルイ・ジュール・トロシュ将軍の下、共和制臨時政府の樹立が宣言されました。(この時点でナポレオン三世は廃位。)


ナポレオン三世降伏後の普仏戦争

さて。ここからがナポレオン三世降伏後の「普仏戦争」となります。

ビスマルク自身はナポレオン三世が降伏した時点で、普仏戦争を終結させよう考えていました。

そもそもビスマルクがこの戦争をけしかけた最大の理由は、独立志向の強い南ドイツ諸国民の「ドイツ=ナショナリズム」をたきつけて、ドイツ全体の統一に向けた機運を高めることにあったのであり、フランスを完全に屈服させること自体が目的ではありませんした。

何より、これ以上の戦いを続けることは、ドイツでもフランスでもない、第三国からの干渉を受ける危険性もはらんでいます。

1か月半の普仏戦争の戦場となったのはフランスの「アルザス=ロレーヌ地方」で、ナポレオン三世降伏の時点でプロイセン軍はこの「アルザス=ロレーヌ地方」を占領していました。

アルザス=ロレーヌ

地図の西側のエリアがフランス。東側がドイツです。

ビスマルクは、今回の戦争を起こしたのはフランス新政府が打倒したはずの前皇帝であり、新政府側もこれ以上戦争を続けることに興味はないだろう、と考えていました。

戦争を穏当に終結させるため、ビスマルクが新政府側に要求したのは、自分たちが占領した領土のうち、アルザスにおいて、元々両国に争いのあった地域でした。

ところがフランス新政府は、この要求を見事に蹴ってきました。「領土1インチたりとも、要塞の一石たりとも、譲り渡しはしない」と。

共和国政府はなんと、更にプロイセンに対して宣戦布告。ドイツ軍は戦争を継続せざるを得ない状況へと追い込まれてしまいます。

ドイツ側としてもこの時、ビスマルクが高めようとした「ドイツ=ナショナリズム」が一気に昂揚し、アルザスの一部にとどめようとしたビスマルクに対し、アルザス=ロレーヌ全土を併合を求める世論が形成されていました。

この後、プロイセン軍はフランスの首都、パリにまで進撃し、パリを包囲。砲以後、プロイセン軍が警戒して侵攻をためらう原因となっていた要塞「メス」を率いるバゼーヌ元帥がまともに戦闘することもないままプロイセン軍に降伏。(10月27日)

翌1871年1月5日、プロイセン軍はパリに砲撃を開始し、パリにて戦闘が続く中、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、「ドイツ皇帝」として戴冠。1月18日、なんとフランスのベルサイユ宮殿にてドイツ帝国の成立が宣言されることとなったのです。

ヴェルサイユ宮殿

戴冠に先んじて、ビスマルクは同じベルサイユ宮殿にて南ドイツ諸国と交渉し、ドイツ統一国家「ドイツ帝国」樹立に向けた樹立を取り付けていました。

ドイツ帝国の首相は当然の様にしてビスマルクが就任しました。

これは・・・私も想定していませんでした。よもやドイツ帝国の成立がフランスの、しかもベルサイユ宮殿で宣言されるとは・・・。


1月25日、フランス共和政政府首相ルイ・ジュール・トロシュは辞任し、外務大臣であったジュール・ファーブルがその後任となり、降伏文書に署名。1月27日、普仏戦争の休戦が成立します。


いやぁ・・・なんとも。

普墺戦争や普仏戦争においてこの時ドイツがとった戦略はフランスだけでなく、他の欧州各国をびっくりさせたでしょうね。

その後、世界各国がこのドイツの「軍事戦略」を採用していくこととなります。


余談ですが、シリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 中、第139回 満州事変の正体/バーデンバーデンの密約~一夕会の結成 に於いて、ドイツのバーデン・バーデン岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎の3名に、東条英機を加えた合計4名で行われた「バーデンバーデンの密約」で、「軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築くことを約しました」と私は記しました。

その理由として、彼らが称賛した『ドイツの軍人「エーリヒ・ルーデンドルフ」の戦略』の中に、後の日本の「国家総動員法」の原型に相当する戦略が記されていたことをあげました。

要は、一度戦争となったら、自国を守るため、短時間で兵士を集めることができるシステムを作ることが必要だ、と彼らは第一次世界大戦のヨーロッパを見て痛感したわけですが、そのルーツはこの「普仏戦争」にあったわけですね。


次回記事では、ドイツ帝国誕生後、首相となったビスマルクがおっこなった様々な改革やその後、第350回の記事 で記した「ドイツ革命」に至るまでの経緯を、少しずつ追いかける記事を作成できればと考えています。



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<継承する記事>第423回 2018年度(平成30年)GDP第1四半期第2次速報(前編)

今回の記事は続きもので、初めて同時投降する形としています。→前編はこちら になります。

難しいことは前編に記しましたので、今回はさっそく2018年度(平成30年)GDP第1四半期第2次速報の記事に取り掛かります。


2018年度(平成30年)GDP第1四半期第2次速報

【2017年度GDP第四四半期第一次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 136.507 兆円(1.4%)

 民間最終消費支出 75.177 兆円(0.4%)
 家計最終消費支出 73.107 兆円(0.3%)
  除く持家の帰属家賃 60.604 兆円(0.4%)

 民間住宅 3.922 兆円(-6.9%)
 民間企業設備 20.737 兆円(7.5%)

実質GDP
全体  131.024. 兆円(1.3%)

 民間最終消費支出  73.869 兆円(0.2%)
 家計最終消費支出  71.881 兆円(0.1%)
  除く持家の帰属家賃 58.469 兆円(-0.1%)

 民間住宅  3.603 兆円(-8.9%)
 民間企業設備 20.166 兆円(6.4%)

内閣府

いかがでしょう。前編の記事で散々実質GDPをディスったのに、なぜ・・・という声も聞こえてきそうですが、「参考」にはなりますので、あえて掲載しています。

ちなみに「名目成長率」から「実質成長率」をマイナスすると、「物価上昇率」が出てきます。

同じ情報を「マスコミ報道ベース」でみるとこんな感じです。

【日本経済新聞より】2018/9/10 9:00 (2018/9/10 10:12更新)
4~6月期実質GDP、年率3.0%増に上方修正

 内閣府が10日発表した2018年4~6月期の国内総生産(GDP)改定値は物価変動の影響を除いた実質(季節調整値)で前期比0.7%増、年率換算で3.0%増だった。速報値(年率1.9%増)から大幅な上方修正で、成長率が年率3%を超えるのは16年1~3月期以来の9四半期ぶりだ。民間企業の設備投資が速報段階から大幅に上振れした。

 4~6月期の内外需の寄与度をみると内需が0.9%分の押し上げ寄与となり、内需主導の成長を示した。内需の前期比でみた伸び率は15年1~3月期以来の13四半期ぶりの大きさとなった。一方、外需は0.1%分の押し下げ寄与となった。

 内需のうち民間企業の設備投資は実質で前期比3.1%増と、速報値の1.3%増から大きく上振れした。財務省が3日発表した4~6月期の法人企業統計で設備投資額の前年同期比伸び率は約11年ぶりの大きさとなった。運輸・郵便や電気、化学の設備投資が堅調だった。

 GDPの6割を占める個人消費は0.7%増と速報値から横ばい。18年1~3月期の0.2%減からプラス成長に戻した。伸び率は17年4~6月期(0.8%増)以来となる1年ぶりの高い水準だ。自動車がけん引し、飲食サービスも小幅に上方修正に寄与した。

 民間住宅は2.4%減と、速報値の2.7%減からマイナス幅が縮小した。不動産仲介手数料が上方改定となった。

 民間在庫のGDPに対する寄与度は0.0%と速報値から横ばい。4~6月期は在庫の積み増しや取り崩しに対するGDPへの寄与度は軽微だった。

 生活実感に近いとされる名目GDPの改定値は0.7%増、年率で2.8%増。名目ベースでも速報値の年率1.7%増から大幅な上方修正で、17年7~9月期(3.2%増)以来の高い水準だった。

二次速報ベースなんで、一次速報ベースで作成される記事とは趣が異なりますが、今回各社ともフォーカスしているのは

『4~6月期実質GDP、年率3.0%増に上方修正』

という部分です。

もうわかりますね。このタイトルを私なりに要約しますと、

『4~6月期GDPによると、1年後には全体の売り上げ数量がで3.0%増えることがわかった』

となります。いやいやいや・・・どうやったら1年後の売上数量を今知ることができるんですか、と。で、金額に換算するとそれっていくらになるんですか、みたいな。

情報とすると、安倍政権を応援する面々にとっては非常に喜ばしい記事となっているのですし、反安倍の連中を叩くような投降も時折見かけるのですが、もう少し冷静になりましょう。


GDP全体に関して

記事内容をGDPベースで要約しますと、年率換算の実質が3.0%、名目が2.7%上昇したということですから、0.3%物価が下落している、とこの記事には記されています。

ネガティブな要素をわざわざ記す必要はありませんが、安倍内閣が目指す物価上昇率は「2.0%」だったはずなんですが・・・。


同じ情報を「データから見る日本」ベースでみますと、名目GDPの伸び率は「前年同月比」で1.4%。実質GDPの伸び率は1.3%となっています。

これはもちろん「未来予測」ではなく、「結果」に基づく「実績」。その計算方法の信憑性はともかくとして。

伸び率は報道ベースより低いですが、報道ベースでは下落していたはずの物価が0.1%とは言え、上昇しています。


「家計」の問題

問題になるのはそれこそ「内需」。家計の問題です。

報道ベースでは個人消費の伸び率が「0.7%」であり、これが17年4~6月期以来の伸び率だとしていますが、実際の伸び率は「0.4%」。実質が-0.1%となっていますから、反安倍の人たちが見たら発狂しそうですが、名目はきちんと成長しており、物価上昇率は0.5%と、きちんと成長しています。

もちろん、安倍内閣の目指す物価上昇率は2%ですので、安倍内閣の政策に固執する人は発狂するかもしれませんが。

最も深刻なのは「民間住宅」。つまり、個人が購入した物件の購入総額です。

報道ベースでは「民間住宅は2.4%減と、速報値の2.7%減からマイナス幅が縮小した」とされていますが、未来に向けたフィクションではなく、実績ベースで昨年の同じ季節と比較しますとなんとマイナス6.9%と大幅な下落を記録しています。3期連続、下落幅を拡大している状況ですね。

ちなみに実質は-8.9%ですから、物価上昇率としては2%の物価上昇です。

「民間住宅」に関しては昨年度10-12月期にマイナスに転じるまで、約9か月にわたって4%前後から最大で7%を超える水準にまで名目が上昇していましたから、その反動もあるのかもしれません。


企業設備投資費

一方で家計ではなく「企業」ベースで考えますと、企業の設備投資費はなんと7.5%の名目上昇率。実質でも6.5%となっており、物価上昇率は1%。ここは非常にきれいな結果となっていますね。

私個人的には麻生内閣時代の「名目3%、実質2%、物価上昇率1%」を理想と考えていますので、この設備投資費の結果、物価上昇率を達成した上で私の理想を大きく上回っていることになりますね。

ただ、この部分に関しては報道ベースでも

 「財務省が3日発表した4~6月期の法人企業統計で設備投資額の前年同期比伸び率は約11年ぶりの大きさとなった」

と記されており、この数字の重要性を報道側も理解していることがうかがい知れます。これ以外の情報はすべて前期比年率換算なのに、企業設備投資費に関してのみあえて「前年同月比」に触れているわけですから。

しかし、わざわざ「法人企業統計」の情報に頼らずとも、内閣府ではその「前年同月比」の情報もきちんと出しているんですが。なぜ「財務省が3日発表した4~6月期の法人企業統計」であることに言及する必要があるんでしょうか。これも理解ができません。

一応、「日本経済新聞」の記事なんですけどね。


総括

ということで、私なりに今回のGDP二次速報を総括しますと、

「家計の最終消費支出が前年と比較して0.4%と伸び悩んでおり、特に『民間住宅』に関しては下落幅が大きくなっている。

一方で企業の設備投資費は非常に好調。7.5%の上昇率は、消費増税直前の2013年度1-3期(13.9%)以来の伸び率となっている」

といったところでしょうか。もちろんすべて「名目GDP原系列」の上昇ですけどね。



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このところ、ドイツの話題 が私の中でも風通しがよくなり、あまりにも筆が進むもので、定例で掲載している経済関連の記事もすっ飛ばして記事を進めておりました。

気持ちとすると「早く先が知りたい」という私のわがままでもあります。

ですが、今回の平成30年度第1四半期二次速報あたりから、おそらくこの情報を求めたアクセスなのではないか、と感じるアクセスが多く見られますので、さすがに検索をかけてくれた皆さんに悪いな、と思いまして、定例通り記事を作成しようと思ったわけです。

とはいえ、既に一次速報はスルーしていますので、今回のGDP速報に関連した情報がすでに出回っている状況下での記事の作成になります。

内閣府


まずは基本から

検索等でこの記事にたどり着いた方にとっては、私のGDP情報と出会うのは初めてになると思いますので、まずは私の「GDP」に関する考え方から記事を進めてみたいと思います。

特に、私のGDP情報の掲載の仕方は大手マスコミ等で出ている見方とは異なりますので、「それでいいのか!」と感じてしまう方もいらっしゃるかもしれません。


そもそも「GDP」とは?

日本語では「国内総生産」といいます。

では、「GDPとは何か」と申しますと、「ある一定期間に日本で生産された付加価値の合計値」ですね。情報が多くなりすぎると内容を理解することが難しくなると思いますので、今回は「支出側GDP」の情報で記事を作成いたします。

「支出側GDPって何のこと?」と思う方はぜひ、

第164回 生産側のGDPと支出側のGDP/統計上の不突合とは?

を読み込んでみてください。私たちが一番見る機会の多い「GDP」はこの「支出側GDP」です。

こんな風に記すと難しく感じられると思うのですが、例えば皆さんがコンビニで100円のチョコレートを合計で10枚購入したとします。計算式で表すと以下の通り。

チョコレートの単価 100円×購入数量 10個=購入総額 1000円

となります。「支出側GDP」から見ると、100円のチョコレートは、販売されて初めて100円という「付加価値」が生まれます。

このチョコレートが、合計で10個販売されていますので、この店では合計「1000円の付加価値」が生まれました。

これを、国レベルで考えた場合、ある一定期間に日本国内で購入された全ての物やサービスの「平均単価」に相当するものが「GDPデフレーター」、日本国内で購入された全ての物やサービスの「購入数量」に相当するものが「実質GDP」、日本国内で購入された全ての物やサービスの「購入総額」に相当するものが「名目GDP」です。

この情報の詳細は

第218回 GDPデフレーターとは何か?/日本一わかりやすく考える

をご覧いただければと思います。


「GDP」はあくまでも「推測」にすぎず、「真実」ではない!

GDPそのものは、いくつかの項目で構成されており、大きなくくりで言うと「家庭のGDP」「企業のGDP」「政府のGDP」「輸出入GDP」の4つです。(「家計」という表現のほうが一般的だと思いますが、今回の記事ではあえて「家庭」と表現します。)

この中で、「家庭のGDP」に該当するGDPは、政府の統計表では「家計最終消費支出」及び「民間住宅」という名称で掲載されています。

このうち、「家計最終消費支出」では、これを実質化する際、その分母として「消費者物価指数」が用いられています。「消費者物価指数」に関しては、私の記事の中でも具に記事にしています。(シリーズ 「物価」の見方

この消費者物価指数の算出方法として、詳細な費目ごとに「加重平均」という計算方法が用いられています。(参考:第53回 実質GDPへの疑惑

参照記事の中に記していますが、しかしこの加重平均の分母に用いられる「ウェイト(重要度)」はその根拠が「消費量」ではなく「消費金額」にあることなど、その信憑性に私は非常に懐疑的です。

分母もいわゆる「サンプル指数」が用いられているなど、必ずしもこれは正確であるとは言えないものです。

このようにして出来上がった「消費者物価指数」で「家計最終消費支出」を割ることでできるのが「家計最終消費支出」の実質値です。「実質GDP」とは、このような「計算式によって作り上げられた『推測値』」の集合体にすぎないことをまずは頭においていただきたいと思います。

「名目GDP」も基本的にサンプル指数を用いて作成されているわけですが、それでもまだ「実質GDPに比べればまし」です。


なぜ「前期比」の「季節調整値」の「年率換算」が重宝されるのかが理解できない!

ニュースでよく見かける「GDP」は、基本的に「季節調整を行った実質GDPを年率換算した値の前期比」です。

意味が分かりませんよね。冒頭でコンビニで販売されるチョコレートを参考に「GDP」の考え方をお示ししましたが、

 「実質GDP」×「GDPデフレーター」=「名目GDP」

という公式考えますと、「実質GDP」とは、所詮日本国中で消費者(および企業・政府)が支払った物やサービスの「平均単価」にすぎません。そして先ほどの章でもお伝えしましたように、そもそも「実質GDP」の計算式の正確性には疑問があるのです。

新聞は「日本国内全体で一体何円消費が起きたのか」ということよりも、「日本国内で一体いくつ、ものやサービスが利用されたのか」ということのほうが大切だと言っているのです。その正確性にすら疑問があるというのに。

また、「季節調整」は春と夏、夏と秋、秋と冬など、異なる季節同士を比較するため、素人では誰もその根拠を理解することのできないような計算式(指数)を使って行われています。季節調整系列とは、「人為的な手の加えられた、信憑性に乏しい」指数だということをご理解いただきたいと思います。

その季節特有の状況を計算式で算出することなどそもそも不可能です。もし比較するのならば、なぜ前年の同じ季節と比較しないのでしょうか? なぜ無理に「前期」と比較しようとするのでしょうか。

また、さらに大手メディアではこれを「年率換算」したものを記事に用いています。

「年率換算」とは、「もし仮に、『季節調整が行われた数字同士を比較した前期比』が、仮に1年間続いたとしたら、1年後の経済状況はどうなっているのか」という、完全なフィクションの数字です。

私はGDP分析を長らく行っていますが、あらゆる時期の『年率換算された実質GDP』がぴたりと一致したことなどただの一期たりともありません。実質だけでなく名目もそうですが。

当たり前です。今回であれば「2018年度第一四半期(4月~6月)のGDPを2017年度第4四半期(1月~3月)のGDPと比較したGDP成長率」が、今から9か月後まで継続しているわけがありません。充てられたとしたらそれはまさしく超能力。「予言者」です。

にも関わらず、なぜそんなフィクションの数字で新聞は一喜一憂しようとするのか。私にはまったく理解できません。


もう一つのフィクション「持家の帰属家賃」

これは、物価の見方 の中で散々記事にしているのですが、GDP統計の中には、本来加えるべきではない、「持家の帰属家賃」というものが数字として加えられています。

「持家の帰属家賃」とは、「もし自分がいま保有している持家が持家ではなく借家だったとすると家賃はいくらになるのか」という全く意味の理解できない数字です。

なぜこのような数字があるのかというと、海外では日本のように持家に住んでいる人が少ないため、海外の家賃と比較するために、わざわざ「持家の帰属家賃」という全く意味の分からない情報を計算式によって算出し、これをGDP統計にわざわざ加えているのです。

これだけは全く理解できません。

ですが、これは同じようなことを考えている人がいるということだと思います。GDP統計のうち、「家計最終消費支出」の中には、「持家の帰属家賃を除く家計最終消費支出」という項目がわざわざ掲載されています。


前置きが非常に長くなりましたが、以上の理由から、私のブログでは、

1.実質GDPではなく名目GDPを大切にする
2.前期比ではなく前年同月比で成長率を見る
3.家計を見る場合は「家計最終消費支出」ではなく、「持家の帰属家賃を除く家計最終消費支出」でみる

ということを大切にしています。ですので、基本的にはニュースから引用する場合を除いて私のブログには「前期比」に相当する情報は出てきませんので、ここをご理解いただきたいと思います。

長くなりますので、記事は次に分けます。

後編はこちら


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<継承する記事>第421回 統一ドイツへの道〜北ドイツ連邦と南ドイツの「ギャップ」

さて。前回の記事に記しました通り、今回の記事は「普仏戦争」と「ドイツ帝国の誕生」についての記事になります。

前回の記事 の内容から想像がついている方はいらっしゃるでしょうが、「普仏戦争」とは、ビスマルクが「南ドイツ国民の『ドイツ=ナショナリズム』」を煽るため、フランスに「仕掛けさせた戦争」です。

結論から申しますと、この戦争はプロイセン側の圧勝。

宣戦布告はフランス側からプロイセンに対して行われましたが、北ドイツ連邦連邦と南ドイツ諸国は事前に攻守同盟を結んでおり、開戦と同時に「バイエルン」「ヴィッテンベルク」「バーテン」の3カ国は参戦します。

前回の記事 で、この3カ国は「プロイセン型軍制改革を行うことを決定」したと記しましたが、この「軍制改革」とは、どうやら「徴兵制」のことを意味していたようです。

プロイセンは、兵役年齢を迎えた男子全員に兵役を義務化しており、この制度を南ドイツ3カ国も取り入れたんですね。

一方でフランスはこのような制度をとっておらず、「クリミア戦争、アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争、メキシコ出兵などの歴戦を経験した古参」たちが含まれていたわけですが、北ドイツ連邦&南ドイツ連合軍のように素早い動員を行うことができず、これがフランス敗戦の一つの理由となっています。


ドイツ軍圧勝の理由

この他、フランスがドイツ連合軍に完敗した理由として、普墺開戦においてオーストリアが完敗したの同じ理由、即ち「兵器力」の差が挙げられるようです。

フランスもドイツも、その利用していた兵器は自国製のものを利用していたわけですが、フランスは明らかに後発的。例えば、ここで登場する兵器として「ドライゼ銃」という名称の兵器が登場します。

トライゼ銃

この銃は、普墺戦争において、対オーストリア最終決戦ともいえるケーニヒグレーツの戦いにおいてプロイセンが主力兵器として用いた銃での名前です。

オーストリアが利用していた銃は、弾を銃に装填するとき、銃の先端に弾を装填していましたので、体を起こした状態で装填する必要があったのですが、プロイセンが利用した「ドライゼ銃」は、弾丸と弾薬とが一体となっていて、オーストリアの「先込め式」の銃とは違い、銃の手元側で装填することができました。

このため、弾丸を装填するとき、オーストリアのような体を起こした状態ではなく、茂みの中に寝そべって、「ほふく前進」状態で弾丸を装填・発射することが可能でした。これがオーストリアとプロイセンとの戦果に圧倒的な開きをもたらしたのです。

ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼというプロイセン人によって開発されたものなのだそうです。

フランスはこの戦果に驚愕し、慌ててこの「ドライゼ銃」を研究し、同じ仕組みでありながら、飛距離がドライゼ銃の2倍(1500m)ある「シャスポー砲」という兵器を開発します。

ですが、この時フランスが利用していた「大砲」はオーストリアの銃と同じ前装式で、この時点でプロイセンはすでに「クルップC-64野砲」という後装式の大砲を開発していました。

クルップC-64

3キロの砲弾を4500mも飛ばす大砲なのだそうです。フランスの大砲とは圧倒的な性能の差を誇っていました。

「銃」に関しては確かにフランスのほうがその性能を上回っていたわけですが、「大砲」のこの性能の差は銃の性能の差を補って余りあるものだったのだそうです。

一方、フランスは普仏戦争において、陸戦においてはじめて「レフィエ・ミトラィユーズ」という連射砲を投入しました。

レフィエ・ミトラィユーズ

初期のミトラィユーズ砲(連射法)をは、ベルギー軍のトゥサン=アンリ=ジョゼフ・ファフシャンという人物が開発し、後にフランスで改良されたものが「レフィエ・ミトラィユーズ」です。

要は、砲台に25発の砲身をセットし、点火することでこの25発の方針から弾丸が時差式で発射されるような仕組みになっていたようです。

ですが、この兵器が実戦配備された段階で、この連射法の使い方の訓練を受けている兵士はほとんど存在せず、そもそもの絶対数が少なかったこと、照準を定めることが非常に難しかったこと、そもそも操作中に壊れやすかったことなどがあり、実践ではあまり役に立ちませんでした。


さて。実戦で大活躍したプロイセン軍の「クルップC-64野砲」と、せっかくの性能を持っていながら兵士が訓練されておらず、ほとんど役に立たなかったフランス軍の「レフィエ・ミトラィユーズ」。

この二つの兵器と、その運用方法から考えて想像できると思うのですが...。

プロイセン軍は、開戦する以前に司令官であるモルトケ元帥の下、何度も徴兵された兵士訓練を行っており、また重い砲台を運用するための鉄道をフランスに向けて敷設、戦場と予測されるフランス領の地図を作成しておくなど、用意周到でした。

一方のフランスは、「レフィエ・ミトラィユーズ」の運用方法のグダグダっぷりから考えてもわかるように、確かに兵士こそ歴戦の猛者ばかりでしたが、対戦相手のプロイセンを舐めていたとしか思えないような準備不足が見て取れます。

ビスマルクに挑発されてフランスから戦争を仕掛けたにも関わらず、フランスはプロイセン軍に開戦からわずか1ヵ月半で降伏することとなります。


普仏戦争開戦に至る経緯

このように記すと、プロイセンが、単に何の理由もなく、自国の利益のために一方的に戦争をけしかけたかのように思えてしまいます。根本的な理由としてこれが間違っている、とは言いませんが、そうではない事情もあった、ということを少し記しておきます。


スペイン王位継承問題

普仏戦争の直接的な原因となったのは、「エムス電報事件」と呼ばれる、ビスマルクによる電報の「改ざん」にあります。

では、この「エムス電報」とは何かと申しますと、ドイツ西部の温泉地で静養中であった皇帝ヴィルヘルム1世よりビスマルクに向けて発信された1通の電報の事です。


この当時、ドイツから見てちょうどフランスを挟む位置にある「スペイン」では、1868年9月、民主的な政治を求めてフアン・プリム将軍が起こした武装蜂起をきっかけに、スペイン全土に革命が波及します。

この時国王の座に就いていたのが女王イザベル2世。この時のスペイン王朝はフランスのブルボン家をルーツとしており、イザベル2世はブルボン朝スペインの国王としては5代目に当たります。

スペインで勃発した9月革命をめぐってイザベル2世はフランスに亡命。スペインは国王不在となってしまいます。イザベル2世は退位を表明し、息子であるアルフォンソを後継者として指名するが、将軍フアン・プリムはこれを認めませんでした。

そして、アルフォンソに変わってスペイン王後継者として名前が挙がったのが、レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンという人物。彼を推挙したのがプロイセン王であるヴィルヘルム1世とビスマルク。レオポルトはヴィルヘルム1世と同じホーエンツォレルン家の出身でした。

フアン・プリムもこれに賛同し、レオポルトがスペイン王後継候補者となります。

ですが、フランス皇帝であるナポレオン三世からすれば、自国が「ホーエンツォレルン家」の王国で挟まれる形となります。両国が組んで自国に攻め込まれたのではたまったものではありませんから、ナポレオン三世はこれに反対します。

ヴィルヘルム1世自身にもこの王位継承問題にはあまりこだわっていませんでしたから、ナポレオン三世からの要請をあっさりと受け入れ、レオポルトは王位を辞退しました。


エムス電報事件

問題はここからです。ナポレオン三世は、ここで納得しておけばよかったのですが、レオポルトが辞退した後、さらに同じ「ホーエンツォレルン家」からスペイン王位の継承者を出さないことをプロイセンに対して要求します。

この時ヴィルヘルム1世が静養していたのがドイツ西部の温泉地。ナポレオン三世はここに大使を派遣し、ヴィルヘルム1世との会見を求めるのですが、ヴィルヘルム1世自身はすでに一度ナポレオン三世に対して譲歩していますから、会見を求めた大使を拒否し、事の経緯をビスマルクに電報します。


電報を受け取ったビスマルクは、これを「普仏開戦」に向けて利用しようと考えたのです。

ヴィルヘルム1世より受け取った電報の一部を意図的に省略し、「非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を強要し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように文面を編集」します。

ビスマルクはこれを新聞に掲載し、さらに各国に向けて公表しました。ちなみに、この時点でビスマルクより「ロシア」「オーストリア」「イタリア」「イギリス」への根回しは完了しています。

フランス側からすれば、自国大使とヴィルヘルム1世とのやり取りが意図的に捻じ曲げられ、事実とは異なる形でビスマルクが公表したわけですから、当然のように腹を立てるわけです。

エムス電報事件以前から、フランス皇帝ナポレオン3世がオランダ王ウィレム3世からルクセンブルクを購入しようとしたことに端を発する「ルクセンブルク危機」などを通じてプロイセンとフランスの関係は悪化しており(一部はビスマルクによって意図的に仕掛けられたもの)、エムス電報事件によって両国民の敵対感情がさらにあおられることとなりました。

ルクセンブルク危機についての詳細はここには記しませんので、関心があればぜひ調べてみてください。

きっかけはすべてフランス側が作っているのですが、これをビスマルクに利用される形でフランスは挑発され、見事なまでにビスマルクの術中にはまってしまいます。

この時点でプロイセン(北ドイツ連邦)側の戦闘に向けた準備は開戦後、連合を組むこととなる南ドイツ3カ国も含めて準備万端。

一方のフランスはプロイセンを甘く見たまま、ビスマルクに挑発されるままに1870年7月19日、プロイセンに対して宣戦布告することとなりました。


次回記事では、改めましてナポレオン三世投降後の普仏戦争の経過とドイツ帝国誕生に向けた経緯まで記事にできればと考えております。



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<継承する記事>第420回 プロイセン対オーストリア後編~普墺戦争と北ドイツ連邦~

さて。前回の記事において、いよいよいプロイセンによる北ドイツの統一まで進むことができました。

シリーズのテーマとしてはナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? としているわけですが、この謎を解くための手がかりとしてまず、そもそも「ドイツ」とは一体何なのかという命題に挑むことからスタートしました。

ここにきて、ようやく私自身としても得心のいく答えまでたどり着くことができました。

少しQ&A形式でこの問題の「答え」を示してみます。


Q.「ドイツ人」とは一体どのような人たちの事なんですか?

A.ドイツ人とは、「ゲルマン系の言葉」を話す人たちの集団です。


Q.「ドイツ」はもともとどんな国だったんですか?

A.「ドイツ」とはもともと「フランク王国」という国の一部で、フランク王国が武力によって獲得した地域の事です。フランク王国の東部に位置していました。フランク王国の王様(ルートヴィヒ1世)はこの土地を三男(ルートヴィヒ2世)に譲り渡しました。


Q.「ドイツ」とは、もともとドイツ人の国ではなかったのですか?

A.フランク王が占領し、拡大した領土には、占領される以前よりたくさんの国があり、ここに住んでいる人たちの多くが「ゲルマン系の言葉」を話していました。フランク人はゲルマン系の言葉を話す人たちのことを「ドイツ」と呼んでいましたが、この地域にはまとまった統治機構を持つ、国家としての「ドイツ」は存在しませんでした。


Q.もともとまとまった統治機構を持つ「ドイツ」は存在しなかったのに、どうしてドイツ人たちはまとまった一つの国を作ろうとしたのですか?

A.ナポレオン戦争後、ドイツ(元東フランク王国の領土)の北東に、「プロイセン」という国がありました。プロイセンという国の領土は飛び地になっていて、同じプロイセンという国の2つの領土の間に、プロイセン以外の国が存在したため、プロイセンは自国の領土から領土に物資を輸送するとき、通過する国に対して関税を払わなければなりませんでした。

「ドイツ」という国が統一に向けて動き始めたのは、「プロイセン」という国が感じた不便さを、プロイセン自身が解消しようとしたことが原因です。



Q.プロイセンという国の利益にしかならないのに、どうしてプロイセン以外の国はプロイセンと同じようにドイツを統一しようと考えたのですか?

A.プロイセン以外の国々は、必ずしもすべての国がドイツを統一しようと考えていたわけではありませんでした。ドイツそのものを統一しようと考えていたのは、それぞれの国よりもむしろ、プロイセンの動きに触発された、それぞれの国に住む国民、「ドイツ民族」です。


Q.プロイセン以外の国々は、ではドイツを統一しようとは考えていなかったのですか?

A.プロイセンも、もともとはドイツそのものを統一しようとは考えていませんでした。プロイセンが望んでいたのは、自国領土間で物資を輸送する時に、関税を払わなくてもよいようにすることです。プロイセンの動きは他の国々にとっても悪い話ではなかったので、プロイセンと他の国々は、「関税同盟」という同盟関係を結びました。


Q.それでは、なぜドイツ諸国はドイツを統一しようと考えたのですか?

A.プロイセンがドイツ経済の統合へ向けて動き始めたことと時を同じくして、ドイツ各地で民族による「ドイツ民族の統合」を目指す動きが活発になり始めたからです。特にプロイセンの首相となったビスマルクは、このようなドイツ各地の不安定さが、自国の統治システムにも悪影響を及ぼすと考え、武力によって自国以外の国家を制圧し、プロイセンの意思でドイツの安全ををコントロールできるようにする必要性を感じるようになりました。


Q.それでは、ドイツはどのようにして統一されたのですか?

A.プロイセンの首相であるビスマルクが、武力によって北ドイツを制圧したことによってドイツの統一は実現に向けて動き出しました。


これはあくまでも「北ドイツ連邦」の誕生までの動きを追いかけたにすぎませんが、凡そ的を射た概略だと思います。あえてオーストリアについては触れていませんが、単純に「統一ドイツ」の誕生のみを考えると、このような形になるのではないでしょうか。

ただ、意識しておいていただきたいのは、このシリーズ は、そもそも シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 を補完する目的で作成しているシリーズだということ。

シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 では、レーニンやトロツキーらが発足させた「第三インターナショナル(コミンテルン)」が他国に与えた影響を検証する目的で、今シリーズ でテーマとしている「ドイツ」もまたテーマとしています。

第350回の記事第351回の記事第354回の記事 がそれです。

特に、第351回の記事 は第一次世界大戦後のドイツの様子を記しており、ここでドイツ皇帝と同時に「プロイセン国王」であったヴィルヘルム2世が退位し、「ドイツ」という国が帝政から共和制へと移行していく様子も記しています。

「ヴィルヘルム2世」は、ビスマルクが仕えた「ヴィルヘルム1世」の後継者であり、ビスマルク自身も、ヴィルヘルム1世が崩御(1888年)した後、1890年までの間、首相を務めています。

そして、ヴィルヘルム2世が退位するまでの間、少なくとも「プロイセン王国」という国は存在していました。

今シリーズ もついにその時代にまで近づいているということを意識しながらこれからの記事を読み進めていただけると嬉しく思います。

ヴィルヘルム2世


「統一ドイツ」誕生に向けた動き

この後ビスマルクは、さらに南ドイツと北ドイツ連邦の統合までを視野に入れて動くようになります。南ドイツの大国であるバイエルンでは、プロイセンよりの考え方を持つクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストという人物が首相になりました。

例によってこの人物の詳細はネット上では見つかりませんので、では彼が一体いつからバイエルンの首相を務めていたのか、という情報まで知ることができませんが、少なくとも北ドイツ連邦が南ドイツとの交渉に入った時点でのバイエルンの首相は彼であった、という形でご容赦いただければと思います。


そもそも、プロイセン軍はなぜオーストリア軍に圧勝することができたのか?

話題を少しだけ普墺戦争に戻します。

いくらプロイセン軍が強いといっても、そもそもプロイセン側についたドイツ諸国は、北ドイツにある一部の小国にすぎず、プロイセンはオーストリアだけでなく、ザクセンやバイエルンをはじめとする大国をまとめて相手にしたのです。

これは最初からわかっていることでしたし、だからこそナポレオン三世もオーストリアの勝利を予測し、オーストリアと、終戦後の領土問題まで話し合っていたわけです。

にも関わらず、プロイセンがすべての国々に対して圧勝した最大の理由は、プロイセンで参謀総長を務めた「ヘルムート・フォン・モルトケ」という人物の存在が大きく影響していました。

彼はシュレースビヒ=ホルシュタイン戦争でも参謀総長を務めたのですが、彼が指揮したプロセイン軍は、オーストリア軍に対して産業革命の一つの集積ともいえる、「近代戦」を挑みました。

シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争がどうだったのかというところまではわかりませんが、この時モルトケと対峙したオーストリア軍について、あくまでもWikiベースにはなりますが、普墺戦争における対オーストリア戦を決定づけた「ケーニヒグレーツの戦い」において、以下のように記されています。

ビスマルクが心血を注いだプロイセン軍は、丈夫で装填時間が短い鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の後装式軍用ライフルを装備し、装備の面でもオーストリア軍を遥かに凌駕していた。プロイセン軍の新兵器の圧倒的な火力と速射力の前に、従来通り銃剣突撃を繰り返すオーストリア兵は次々になぎ倒された。

これ以外にも、開戦に向けた準備として、「鉄道と電信」の敷設に力を入れるなど、すなわち兵器力の差が圧倒的であったわけです。


北ドイツ連邦と南ドイツ諸国

ホーエンローエの提唱により、ビスマルクは南ドイツ3国、すなわちバイエルン、 ヴュルテンベルク、バーデンとの間で、会議を行い、3国は「プロイセン型軍制改革」を行うことを決定します。

まあ、そりゃそうですよ。自分たちが普墺戦争においてなぜ勝利することができなかったのかという理由を分析すれば当然の判断だと思います。

この段階で軍事面での統合は実現的なものとなったのですが、ビスマルク・・・というより、プロイセンがもともと実現しようとしていたのは「経済面での統合」。ビスマルクはこれをプロイセンが主導して実施しようと考えていたのです。


ここで押さえておきたいのは、ビスマルクが武力によってドイツ統一を図り、少なくとも北ドイツの統合には成功したということ。これは、逆に言えばこのようなビスマルクのやり方に反発する考え方もある、ということです。

ビスマルクも元々は「プロイセンナショナリズム」をモットーとしており、武力によって制圧することで民衆による独立運動を封じる目的があってドイツ統一に向けて動き出したわけです。

特に北ドイツ、プロイセンの首都である「ベルリン」では、「ドイツナショナリズム」に基づいて武力蜂起がおこり、ドイツ政府はこれに翻弄されてきたわけです。

ところが、もう一方の武力蜂起が起きた「オーストリア」はどうだったでしょうか? オーストリアの首都「ウィーン」で起きた武力蜂起では、「ドイツ民族による統一」ではなく、ハンガリー(マジャール人)やチェコ(スラブ人)らによる「民族の独立運動」がその理由となっていましたね?

フランス第二革命をきっかけとして起きた両国の「三月革命」でしたが、ベルリン革命とウィーン革命は全く性格を異にしていたということです。


「ドイツ関税同盟」を通じて見えてきたこと

ビスマルクは、南ドイツ経済を北ドイツ連邦と統合する方法として、南ドイツの民衆の力を利用しようと考えます。

「関税同盟」の中に普通選挙による民選議会「関税議会」なるものを設置し、議員を国民に選択させることで、ビスマルクのドイツ統一へ向けた動きを嫌う勢力(邦国分離主義)を一掃し、軍だけでなく、経済においてもドイツを統合しようと考えたのです。

ビスマルクは「大ドイツ主義」、即ちオーストリアを中心とした関税同盟の結成を目指す勢力はこのような邦国分離主義者たちであり、国民の多くはドイツ国民としての統一を望んでいるはずだ、と思い込んでいたわけです。

ところが、実際にこの選挙を実施してみると、ビスマルクの想定を大きく外れて南ドイツではビスマルクが排除しようとした「邦国分離主義者」たちが多数を占め、つまり「ドイツ統一」を願う国民よりも「自国の独立」を願う国民のほうが多いことが証明されてしまったんですね。

このような現状から見ても、もともと「北ドイツ」と「南ドイツ」では国民の考え方が違っていたんでしょうね。

そう。「プロイセン」と「バイエルン」の間でも。


改めて 「プロイセン人のルーツ」に関して記した記事 までさかのぼっていただきたいのですが、そもそも「プロイセン」という言葉の語源はドイツ国内にはなく、もともと「ポーランド」北東部に位置する「プルーセン」。

そして、ここにいる異教徒たちを退治するためにポーランド国王が当時ハンガリーにいた「ドイツ騎士団」を呼び寄せ、プルーセンまで派遣し、現地を征服したドイツ騎士団が作った「ドイツ騎士団領国」がそもそもの「プロイセン」のルーツでしたね。

プルーセン人を同化した「ドイツ騎士団」すらプロイセンより追放され、ポーランド国王の下で初代プロイセン公となった元ドイツ騎士団総長もその血筋が途絶え、現在の「ドイツ」の一部に封じられていたブランデンブルク公がプロイセン公を継承し、やがて「ブランデンブルク=プロイセン」全体がプロイセンとみなされるようになりました。

ポーランド北東に位置した「プルーセン」を語源としていながら、ビスマルクが首相を詰めた「プロイセン」はそこに住んでいる人も含めてもはや「プルーセン」とは全く関係のない人々で構成される、民族としては「統一性のない」人たちで構成されるようになっていたのです。

ところが、「バイエルン」は違っていましたね?

第374回の記事 で記したように、元々は中央アジアの草原に住んでいた「ケルト人」(ボイイ族=バイエルン人)で、中央アジアから移住してきた彼らが、同じケルト人が築いていたノクリム王国(現在のバイエルン)に移住し、定住することとなった地域が「バイエルン」。

考えると、バイエルンは、結局「ケルト人」によって作られた国で、同じ民族同士で同化が進んでからは、非常に排他的な民族となるんですね。

その後、フランク王国や東フランク王国に支配され、フランク人たちとの間で混血が進む歴史こそあれ、バイエルンはやっぱり「ケルト人の国」なんでしょうね。


「プロイセン人」のルーツはもともと「ドイツ騎士団」ですから、彼らを縛る要素は話す言語しかありませんが、バイエルン人は国民として、きちんと血筋にルーツを持っているわけです。

それが、今回の「関税議会」をめぐる選挙でもはっきりと表れたのでしょう。

この選挙は1868年2月から3月にかけて行われたのですが、翌1869年に行われたバイエルン議会選挙でも独立派が圧勝。これをめぐり、ビスマルクと歩調を合わせてきたホーエンローエは辞任に追い込まれ、バイエルンでは再びオーストリアと連携する「大ドイツ主義」の考え方脚光を浴び始めます。

民族としては北ドイツ連邦というざっくりとしたくくりより、オーストリアに住むドイツ人のほうがよほど近いわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。

このことから、ビスマルクはドイツ人を「ドイツ民族」としての一体感を持たせるためには、ドイツ民族以外からの「外圧」を加える以外に方法はない、と考えるようになります。


さて。次回記事では、ここからさらに「普仏戦争」、そして「統一ドイツの結成」へと話題がを進めようと思います。

「普仏戦争」ですか・・・。何となく、この後の展開が予測できるような話題ですね。

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