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<継承する記事>第419回 プロイセン対オーストリア前編~普墺開戦に向けた動き~

前回の記事 の続きです。

バート・ガスタイン協定によって「シュレースヴィヒ」と「ホルシュタイン」を各々が統治することとなったプロイセンとオーストリアですが、秘密裏にフランス、イタリア、ロシア、そしてハンガリーの革命家とも接触し、密約を結ぶプロイセン。

一方でバート・ガスタイン協定締結下にありながら、自国が統治するホルシュタインでのホルシュタイン独立に向けた集会を許可し、また公然とドイツ連邦会議にバート・ガスタイン協定の破棄を提案するオーストリア。

フランスはプロイセンと盟約を結んでおきながら、同時にオーストリアに普墺戦争後の取引を持ち掛けます。この滅茶苦茶な状況の中、プロイセン軍はホルシュタイン進駐を決行。ドイツ連邦諸国の大半がオーストリア側につき、プロイセンはついにドイツ連邦を脱退。いよいよ普墺開戦と相成ります。


普墺開戦!

プロイセン

再びこの地図を使いながら話題を進めていきます。

既に話題にしていますし、話題にした記事を読んでいない方にもおおよその予想はできていると思いますが、結論を先に述べますと、この戦争はオーストリア側についた連邦諸国やオーストリアの勝利を予想したナポレオン三世の期待を裏切り、プロイセンが勝利します。

記事は年表形式で進めます。

1866年6月15日
 14番、ホルシュタインを占領。
 同日、プロイセンは13番ザクセン、4番ハノーファー、6番の右半分ヘッセン・カッセルに宣戦布告。

6月16日
 3国に侵攻を開始。

6月17日
 ハノーファー首都を占領し、同国政府を掌握。

6月18日
 ザクセン首都ドレスデン占領。

6月20日
 「普伊秘密協定」により、普墺開戦となった際、参戦することを約束していたイタリアがオーストリアに宣戦布告。(第三次イタリア独立戦争)

6月21日
 ヘッセン・カッセル陥落

6月29日
 ハノーファー軍降伏(ハノーファー王国滅亡)
 10番オルデンブルク、4・13・16番で囲まれた黄色い領土ブラウンシュバイク、9番メクレンブルク投降(ドイツ北部征服)

7月3日
 ケーニヒグレーツの戦いでオーストリア軍大敗。

7月10日
 プロイセン軍、バイエルン(3番)国境付近バイエルン領内にて第7軍団を撃破。

7月10日
 プロイセン軍、フランクフルト(ヘッセン・ダルムシュタット内)、ヘッセン・ナッサウ(6番西側)を占領、フランクフルト政府(ドイツ連邦議会)を解散。(ドイツ西部征服)

7月20日
 ヘッセン・ダルムシュタット(5番)攻略。

7月28日
 ヴュルツブルク(バイエルン領内)占領。(ドイツ西部戦終結)

さて。ここまででドイツはほぼプロイセンによって占領され、残された領土はバイエルン、オーストリアの他、バーテン(2番)、ビュルッテンベルク(17番)、他、1番と7番。つまり、「南ドイツ」のみとなっていることがわかります。

実際にオーストリアとプロイセンとの主戦場となったのは現在のチェコ西部。13番のザクセンと3番のバイエルン、そしてバイエルンから南東へと連なるオーストリアの3つの領土で囲まれたグレーの地域、「ボヘミア」でした。この当時、チェコはオーストリア領となっていましたね。

上表のうち、7月3日の部分を赤色で示していますが、この「ケーニヒグレーツ」こそがボヘミアにある都市の名前で、この戦いにおける大敗が、オーストリアにとっての敗戦は決した形となりました。

この大敗を受け、オーストリアの勝利を予測していたナポレオン三世が、両国に対し調停者になることを申し出ます。これは、もしこの申し出を断れば、フランスがこの戦争に介入してくることを意味しています。

プロイセンとしては、ウィーン目の前にした状況ではあったものの、物資が不足し、その調達を占領地において行ったため、これらの地域では地元民による蜂起が発生するなどし、オーストリア国民との間での武力衝突が発生する恐れがあったこともあり、オーストリアも、プロイセンも講和を望む状況が出来上がっていました。

ビスマルクとすれば、北西ドイツ各地を占領し、フランクフルトドイツ連邦政府まで解体させたわけですから、戦果としては申し分なかったのではないでしょうか。

結果、ビスマルクはナポレオン三世の仲介を飲む形でオーストリアとの間で講和条約(プラハ条約)が締結されることになります。

講和条約は、調停者となったナポレオン三世、及び対戦国であるオーストリアに配慮する形で行われ、ドイツ連邦は解体。ザクセン以外の北ドイツ諸国はプロイセンに併合されました。(1866年8月23日)(地図と若干一致しないエリアもありますが、現在の私には検証する時間と情報が不足しています)
※ヘッセン公国(ナッサウ・ダルムシュタット)は表上では占領した地域としていますが、講和条約ではプロイセンに併合されてはいません。

オーストリアはイタリアとの間でも講和条約を結び、ヴェネトをイタリアに割譲しています。

ビスマルクはドイツ革命を他国のように民衆側から起こすのではなく、「政府」が主導し、見事にこれを成し遂げたわけです。彼はプロイセン人の「英雄」となりました。

そして、図らずもこの形態はずっとビスマルクが望んでいた「ドイツ」の在り方そのまんまですね。私のブログ的にも齟齬が結局生まれることはありませんでしたね。


「北ドイツ連邦」の誕生

北ドイツ連邦
こちらは、「北ドイツ連邦」の地図です。赤い枠線で囲まれたエリアが「北ドイツ連邦」です。

条約が締結された同じ月である8月末には条約によって併合されなかった国も含めて、「北ドイツ」の国々が「北ドイツ連邦」を立ち上げることとなります。これにはザクセンも参加しました。

「連邦」という形をとっていますが、北ドイツ連邦はドイツにおいてはじめて、一つの憲法によって統一された「国家」としての様式を持つ「統一国家」が誕生したことになります。

「ドイツ連邦」という形はとっていながら、実際には「ドイツ関税同盟」の在り方に左右され、統一国家ではなく「同盟」としての関係にすぎなかった普墺戦争前の状態とは異なります。

当然それぞれの「国家」としての権能は「北ドイツ連邦憲法」によって制限されることになります。

ビスマルクはこの「北ドイツ連邦」の首相となりました。ヴィルヘルム1世はプロイセン王国の首相と同時に北ドイツ連邦の「連邦主席」となりました。


次回記事では、ここからさらに南ドイツも統一され、真の「統一ドイツ」が誕生するまでの様子を記事にしてみたいと思います。


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<継承する記事>第418回 普墺戦争勃発に至る経緯~ガスタイン協定後のプロイセンとオーストリア

冒頭に、少しだけ前回の記事のおさらいをしておきます。

問題はプロイセンとオーストリアが連携して行った「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と、その普墺がちょくぜつ激突する「普墺戦争」。こんの二つの戦争が起きるまでの間に一体何があったのかということです。

年表で少し整理してみます。

1864年2月1日 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争開戦
1864年7月1日 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争終結
1864年10月   レヒベルク失脚(オーストリア)
1864年2月   2月宣言(プロイセン:ビスマルク)
1864年5月27日 ヴィルヘルム1世による両公国併合に関する宣言
1865年7月   エステルハーツィ政権誕生(オーストリア)
1865年8月14日 バート・ガスタイン協定締結
1865年8月末  ビスマルクとナポレオン三世の会談
1866年1月23日 ホルシュタイン公国におけるアウグステンブルク公派の集会の開催
  →ビスマルクによる抗議
1866年2月21日 オーストリア御前会議においてプロイセンに対する譲歩を行わない決定が行われる
1866年2月28日 プロイセン御前会議において、対オーストリア開戦不可避の認識が示される

そしてこの後、1866年6月14日、普墺開戦と相成ります。

ビスマルクとすれば、そもそも国が国としてどうあるべきかを大切にしていたのに、シュメルリンク政権退陣後、急にすり寄ってきたエステルハーツィ政権のことは、内心信用してはいなかったのでしょう。

この後、ビスマルクの考え方は「プロイセン=ナショナリズム」から「ドイツ=ナショナリズム」へと変化していきます。

プロイセン主導で、政治的にドイツを統合することを目指すようになったわけですね。


本日の記事では、形式的に「普墺戦争」が勃発し、これが終結していくまでの流れをなぞる形で記事にしてみたいと思います。


普墺戦争勃発までの流れ

ビスマルクは、御前会議の後、まずはイタリアとの間で協定を結ぶ動きを見せます。

第387回の記事 以降の記事でたびたび話題にしている「ウィーン三月革命」ですが、このウィーン三月革命は、学生運動を発端として、その後オーストリアから「ハンガリー(マジャール人)」、「チェコ(スラブ人)」に加えて、「北イタリア(イタリア人)」がそれぞれ民族独立に受けた運動を展開したものであったことを記事にいたしました。

そして、「イタリア」でもまた1848年にイタリア統一へ向けた「革命」が巻き起こっており、経緯は一切割愛しますが、1861年に統一された「イタリア王国」が誕生しています。

ですが、このイタリア王国でも、オーストリア領土である「北イタリア(ヴェネト)」は問題となっており、この問題を餌として、ビスマルクはナポレオン三世了承の下、イタリアとの間で「普伊秘密協定」を締結しています。

これは、普墺開戦となった際、イタリアも同戦争に参加することを約束した協定です。

また更に、ドイツ領内に対しては、「普通・直接・平等選挙によるドイツ国民議会の創設」を提案します。これは、ドイツ領内の自由主義者や民族主義者たちの支持をプロイセンにつけるためです。

一方のオーストリアは、ガスタイン協定を破棄し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両国の問題をドイツ連邦会議に付託するべきだ、との提案を行います。

ドイツ関税同盟は更新されており、仮にドイツ国民会議が創設されたとしても、オーストリアは蚊帳の外ですから、オーストリアがこれに反対することは端っからビスマルクには分っていましたし、逆にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を連邦会議に付託すれば、当然両公国はアウグステンブルク公領として独立してしまうことが分かっていました。

つまり、この二つの提案は、普墺両国がそれぞれ相手国にネガティブな印象を植え付けるために行われた提案です。

プロイセンからの提案は1866年4月9日に、オーストリアの提案は4月25日に行われます。

一方でビスマルクは自由主義者たちを取り込むため、ドイツ国民会議の提案を行ったことから、ロシア皇帝から「革命主義者なのではないか」と疑われ始めていました。

このことから、彼は自身の暗殺事件ども利用し(自分は革命勢力から命を狙われるほどの立場にある)、ロシア皇帝の取り込みを図る中で、同時にオーストリアから亡命しているハンガリーの反墺革命家とも交渉を行ったりしていました。

で、さらにビスマルクと協定関係にあるはずのナポレオン三世は、自国がプロイセンに対してもオーストリアに対しても中立を保つ代わりに、ビスマルクが普伊秘密協定において領土問題の解消を約束したはずのオーストリア領北イタリア(ヴェネト)を、オーストリアが勝利した暁にはフランスを介してイタリアに変換させることを約束させています・・・って、何が何だか、もう滅茶苦茶ですね。

ナポレオン三世は、ビスマルクと様々な盟約を行っておきながら、内心プロイセンは不利である、と考えていたんですね。

オーストリア戦勝後には南西ドイツとオーストリアが連名し、新しいドイツ連邦を作るところまで頭に入れていたようです。


普墺開戦に向けた動き

ビスマルクが普墺開戦の拠り所としたのは、図らずもオーストリア側が行ったガスタイン協定の破棄。シュレースビヒ=ホルシュタイン両公国の問題を連邦議会に委ねたことにありました。

これをビスマルクは「自国への挑発である」として進駐軍を結成し、ホルシュタインに進軍し、進駐させます。(1866年6月9日)

一方、オーストリアは「ドイツ内部の安全と連邦加盟国の権利を守るため」として「連邦軍動員案」を提出。他のドイツ領国の多数(全国ではない)がこれに賛同し、6月14日、この案が可決されます。

そう。この時点に至っても尚、ドイツ領各国はプロイセンではなく、オーストリア側についたんですね。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でも、各国は開戦に反対し、最終的に「プロイセンが主導する」普墺軍によって戦争は行われましたから、このあたりを考えても、ある意味予測された結果なのかもしれませんが。

つまり、ドイツ領に対して影響力を持っていたのは、実はプロイセンではなく、オーストリアであったということ。これは意外ですね。

今シリーズ の大元のテーマである「ナチス」出身地である「バイエルン」も、もちろんこの時点ではオーストリア側についた、ということです。

そしてビスマルクは、オーストリア案に賛同したドイツ諸国に対し、これがプロイセンに対する「宣戦布告」であるとし、オーストリア案に反対した他の連邦諸国と新しいドイツ連邦を結成することを宣言し、ドイツ連邦から脱退してしまいます。

これをもって、ドイツは「プロイセン軍」と「オーストリア軍」に分かれ、ついに普墺戦争開戦と相成ります。

普墺戦争 />


少し記事が長くなりそうなので、記事を分け、普墺戦争本戦とその後のドイツについては記事を分け、次回記事にて記したいと思います。



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<継承する記事>第417回 ベルリン三月革命から見るオットー・フォン・ビスマルクとヴィルヘルム1世

第413回の記事 より数回にわたりまして、第389回の記事 で一度テーマとしたしました、「シュレースビヒ=ホルシュタイン問題」について再度深めるための記事を作成いたしました。

第389回の記事 を作成した段階では、プロイセン(ビスマルク)が第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争にオーストリアを参戦させた段階で、オーストリアにホルシュタインをいったん獲得させた上で、オーストリアになにがしかの理由をつけて対オーストリア戦を行い、シュレースビヒ及びホルシュタイン両国を領土として取得することをあらかじめ想定していたのではないか・・・という予測を私は立てていました。

ですが、第413回の記事 以降の記事を作成した段階で、この考え方は少し変化しました。

つまり、ビスマルクはもともと領土拡大そのものを意図していたわけではなく、シュレースビヒ=ホルシュタイン両国を独立させるのであれば、自国に併合した方が後々新たなる紛争の火種とはなりにくい、と考えて同戦争に参戦したこと。

そしてプロイセンの首相であるビスマルクは、オーストリア外相であるベルンハルト・フォン・レヒベルクと考え方が近く、両者は「話し合い」を優先して政策を進めていくやり方に危機感を覚えており、それよりもまず、「プロイセン」や「オーストリア」という「独立国」がそもそもどうあるべきなのか。これを最優先に政策を進めていくべきだ、と考えていたようです。

両国以外の国々は、「プロイセン」や「オーストリア」という「虎の威」を借りることに必死になっており、プロイセンに依存したほうが有利な北ドイツと、オーストリアとも関係を持ち続けたいと考えていた南西ドイツが「小ドイツ主義」や「大ドイツ主義」といった一種の「イデオロギー」で両国を振り回していた、という感じだったのではないでしょうか。

ですから、ビスマルクも第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争以後、もしレヒベルクが外相として中心になって外交を進めていくのなら、プロイセンはプロイセンとして、オーストリアはオーストリアとして、それぞれの「国家」を維持することを中心に政策を進めていたのではないか、と私は考えています。

ですが、残念ながら第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争の講和条約が締結される直前に、「ドイツ関税同盟」が原因でレヒベルクは罷免され、以降オーストリアも他のドイツ連邦諸国同様、「自由主義政策(大ドイツ主義)」を中心に政策を進めていくことになります。

ですが、この時点で既にオーストリア以外のドイツ連邦諸国はビスマルクにより、、プロイセンに依存する経済政策の在り方を赤裸々にされてしまい、結果、プロイセンと経済関係を続ける以外の選択肢をとることができずに「ドイツ関税同盟」の更新へと歩みを進めることになりました。

後にドイツは経済だけでなく、国家として統一されるわけですが、この段階でオーストリアの進むべき道は凡そ、決められていたのではないかと思われます。


普墺戦争への歩み

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終結したのは1864年7月の事。レヒベルクが失脚したのは同年10月。

オーストリアにとって、両地域は自国から遠く離れており、ここを自国領土として保有しておくことにあまりメリットがありませんでした。ですが、単純に両国を手放したのではプロセンのドイツ連邦内での発言力がますます高まってしまいますので、これを防ぐ手段として、シュレースヴィヒ=ホルシュタインを「アウグステンブルク公」を盟主として独立させようとする方向に動きます。

そう。第415回の記事 におきまして、図らずもビスマルクよりオーストリアに提示された案としてアウグステンブルク公の独立案を記事にしていますね?

オーストリアにとっては、この時と同じ考え方だと思います。

また、プロイセン国内においても皇太子をはじめとしてアウグステンブルク公を支持する声は大きかったのですが、ビスマルクの本心は両国の「独立」ではなく、プロイセンへの併合にあります。

1864年6月の段階で、ビスマルクはアウグステンブルク公に対して「保守的な統治」を行うことを独立の条件として示しています。

ビスマルクは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインにおいて、ウィーン・ベルリン革命のような「民族主義革命(←民主主義ではないことに着目)」を起こし、ましてアウグステンブルク公が旗振り役となってこれを実現していくような統治体制が起こることを嫌っていたのだと思います。

これにあおられてプロイセン国内でも再び革命の機運が醸造され、武力を用いなければならないような状況に陥ったのではたまったものではありません。何せ、シュレースビヒ=ホルシュタインはプロイセンにとっての「隣国」となる可能性があるわけですから。

そして同時にこれが難しい選択だということも理解していて、だからこそ自国に併合し、同じ「統治システム」の中で両国を管理しようとしたのでしょう。


レヒベルク失脚後のビスマルク ~バート・ガスタイン協定はなぜ締結されたのか?~

第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が終わった後に起きたアウグステンブルク公独立の風潮に対しても、ビスマルクは同様の態度を示します。

ビスマルク(1862年)

1865年2月にビスマルクが行った「2月宣言」。

Wikiベースになり(というより、ビスマルクについて詳細に研究しているサイトが見つからない)申し訳ないのですが、この「2月宣言」は

「形式的にアウグステンブルク公の独立公国を認めつつ、実質的にはプロイセンに併合されるも同然の軍事的支配下に置く内容」

であったのだそうです。


当然アウグステンブルク公はこれに反発しますし、オーストリアも同様にこの条件に反発します。

ポイントとして、この時点で「シュレースビヒ=ホルシュタイン両公国」はまだデンマークが主権を放棄し、プロイセン・オーストリア両国が取得した、という状況にあり、この後どのような扱い方をするのかということがまだ決まってはいません。

レヒベルク外相時代のオーストリアとしてはこの「シュレースビヒ=ホルシュタイン」が自国にメリットがあるとは感じておらず、早く手放してプロイセンに渡してしまいたい、と考えていたのです。(代わりに相応の代償地を獲得したいと考えていました)

レヒベルク失脚後、そうではなく同地を「アウグステンブルク公国」として独立させようとする方向に変わっていくのです。(プロイセンの中にもこれに賛同する声が少なくはありませんでした)

これに対抗する形でビスマルクは同地を独立させる代わりにプロイセンの軍事的支配下に置く、という宣言を行います。

そしてこれにオーストリアは反発します。この時のオーストリアは「自由主義者」たちがイニシアチブを握っていました。


モーリッツ・エステルハーツィ伯政権の誕生

ところが、1865年7月、オーストリアにおいてこれまで政権の座に就いてきた自由主義者、「シュメルリンク」が退陣。理由は、「ハンガリー問題」なのだそうです。

このあたりのオーストリアの事情を現時点で調査しようとは考えていませんが、もともと「ウィーン三月革命」がハンガリー(マジャール人)とチェコ(スラブ人)がオーストリアからの独立を求めて起こした革命であったことを考えると、それほど抵抗のある出来事ではありません。

そして、その後シュメルリンクの後を継いで誕生したのが「エステルハーツィ伯政権」。

エステルハーツィ伯とは、なんとハンガリーの大貴族なのだそうです。これについて、Wikiの記事では以下のように記されています。
エステルハーツィは封建主義的・教権主義的な保守派であり、シュメルリンクが推し進めていたドイツ人中心の中央集権化政策や大ドイツ主義政策に反対し、プロイセンとの保守的連帯を熱望していた

バート・ガスタイン協定が締結されるのは1865年8月14日。エステルハーツ政権が誕生した翌月の事です。

ただし、この時点で既に「ビスマルク」の考え方は、レヒベルクが外相であった当時の考え方とは違ってきている様子が見て取れます。

改めて「バート・ガスタイン協定」の内容を見てみます。
・プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治する。

・プロイセンはオーストリアに賠償金を支払い、ザクセン=ラウエンブルクを統治する。

・キール港をドイツ連邦の所有とし、プロイセンはその軍政・警察事務を管理する。

・レンデスブルク城はドイツ連邦の所有としプロイセンおよびオーストリアが守備兵を置くこと。

同協定締結後、ビスマルクはフランス(ナポレオン三世)と連携しようとするのですが、この時ナポレオン三世と行った会見の中で、
・バート・ガスタイン協定は暫定的なものにすぎない

・その証拠に、同協定の内容は意識的にあいまいな表現になっている

・近いうちに必ずや普墺対立が再燃することを確約する

ことに言及しています。

もちろん、これは外交交渉の上での内容なので、これがどこまでビスマルクの本心であるのかを慮ることは難しいのではないかと思います。

ですが、これを推察する上で、過去にビスマルクが行っている一つの発言を参考にすることができます。

それは、ビスマルクが行った「2月宣言」に対するオーストリアの対応を受けて、同年(1865年)5月27日にヴィルヘルム1世が行った、

 「両公国の併合は国民が求めている」

という宣言。

これを受けて、ビスマルクは「普墺戦争勃発の場合、露仏は好意的中立の立場を取るだろう」という見通しを発表しています。

もちろん、これはオーストリアに対する「威嚇」であり、どこまでが本心であるのかはまたわからないわけですが、ガスタイン条約締結後、フランス(ナポレオン三世)との協議を急いだ理由は、ヴィルヘルム1世宣言を受けて自身が行った見通しに対する「整合性」をつけるためであったのではないか、と考えられるのです。

ちなみにロシアは1853年10月16日に勃発した「クリミア戦争」において、オーストリアからの裏切りにあっており、ビスマルク発言の論拠はここにあるのではないかと、現時点では想像しています。


ビスマルクは、すなわちレヒベルクが失脚した時点で、既に対オーストリア戦争が選択肢の中にあり(もしくはその予測を行っており)、ガスタイン協定を締結したときに、もうすでにレヒベルク外相当時ほどエステルハーツィ政権のことも信用してはいなかったのではないでしょうか?


普墺戦争勃発に向けた経緯を考察する

シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 において、日本が米国との間における「開戦」を選択肢、もしくは「最悪の想定」の中に入れながらも同時に米国との間で「日米諒解案」修正交渉を行い続けたことを記事にしました。

「開戦」を将来に向けた選択肢の中に加えていることと、実際に「開戦」を行うこととは必ずしもイコールではありません。

ですが、「最悪の事態」が発生した時のために備えをしておくこともまた、国家を運営するリーダーの役割の一つだと思います。

この後、実際にオーストリアはガスタイン協定を締結しているにも関わらず、プロイセンではなく、プロイセン以外のドイツ連邦諸国と近づこうとし始めます。

そして、1866年1月23日、ホルシュタイン公国内にあるアルトナで、『オーストリア政府の許可を受けて』アウグステンブルク公派の集会が開催されました。

これは、オーストリアがアウグステンブルク公の下でホルシュタイン公国を独立させようとする動きだと、ビスマルクの目には映ったことと思います。そもそもビスマルクがレヒベルクと協定しようと考えていたのは、「反革命連合」の結成です。

そう。このような独立に向けた機運が醸造されることを封じることを目的としていたわけです。

ですから、このようなオーストリアの行為はビスマルクにとってはオーストリアからの「裏切り」であり、ビスマルクはこれを「ガスタイン協定を撤回させようとする運動へのオーストリア当局の加担」だと批判しました。

そしてさらに 「オーストリアがそれを止めないなら『あらゆる政策』を辞さない旨」をオーストリア側に伝達します。

オーストリアはこれに対し、『皇帝出席の下に開催された閣議』 において 『プロイセンに一切の譲歩を行わないこと』 を決定してしまいます。

第389回の記事 では、普墺開戦に向けた動きを、

オーストリアが管理するホルシュタインでオーストリアとプロイセンの分割統治に反対する集会が開催されたことを、ビスマルクは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン領」の分割統治を普墺間で取り決めた「ガスタイン条約」に違反しているとし、一方的にホルシュタインの統治権をプロセインに譲渡するようオーストリアに対して迫った、ということです。

と、このように記しましたが、ここに記した

 『一方的にホルシュタインの統治権をプロセインに譲渡するようオーストリアに対して迫った』

という記述は、どうも、必ずしも「正しい」とは言えないようです。

オーストリアは、同集会を 『バート・ガスタイン協定に違反している』 ことを認識した上で、あえて開催した、という表現のほうが正しいのではないでしょうか。

そして、尚且つこれに対するプロイセンからのクレームを一方的に拒否。つまり、プロイセンに対し、普墺開戦となるようけしかけたのはプロイセンではなく、オーストリアであったと考えることができます。

ただ、オーストリア側からしてみれば、ガスタイン協定締結後、フランスとの連携を急ぎ、かつ会見にて「近いうちに必ずや普墺対立が再燃することを確約する」とまでビスマルクが発言しているわけですから、「先にけしかけたのはプロイセンだ」と主張するでしょうけれども。

ただし、この時点でビスマルクのこのような発言が実際にオーストリアに対して、どこまで伝わっていたのかは現在の私にはまだわかりません。ビスマルクほどの人物が、そのような会見において、わざわざオーストリアをけしかけるような発言を、オーストリアにも届くような形で行うことは考えにくいため、この部分は資料さえ整うのなら、改めて調査してみたい部分です。


この後、プロイセンにおいてヴィルヘルム1世の御前で行われた会議において、「対墺開戦不可避」との認識が、皇太子を除く参加者全員から示されることとなります。

この後、同会議において、ビスマルクは以下のように語ったのだそうです。
プロイセンこそが旧ドイツ帝国の廃墟の中から生まれ出た唯一の生存能力を持った政治的創造物である。プロイセンがドイツの頂点に立つ権利を有しているのはそのためである。

しかるにオーストリアはプロイセンに嫉妬し、プロイセンの努力を昔から妨害してきた。指導能力などないくせにドイツ指導権をプロイセンに渡すまいとしてきた。

ドイツ連邦はフランスからドイツ国土を防衛するために結成されたにすぎない存在だった。真に民族的な意味を持ったことなど一度もなかった。

連邦をそうした方向へ向かわせようとするプロイセンの試みは全てオーストリアによって潰されてきた。

1848年はプロイセンにとってチャンスの年であった。もし当時プロイセンが演説ではなく剣でもって運動を指導していたならば恐らくはもっと良い結果が達成できていただろう。

さて。ここでいう「そうした方向」とは、すなわち「真に民族的な意味を持つ方向」のことを言っているものと思われます。

そう。ビスマルクはここにきて初めて「打倒オーストリア」と「ドイツ民族の統一」について言及するのです。

ここに記している内容の中に、私がこのブログにて記してきた内容と一部異なると感じられる部分があるようにも感じられますが、これはあくまでも会議への参加者を納得させるための演説であり、記されている内容が、すべてそのままビスマルクの本心であるとそっくり受け止める必要はないと思います。

少なくともビスマルクはレヒベルクが失脚する前と後とで考え方を変えていますし(正確には自身の中にあるいくつかの選択肢のうち、異なる選択を行った)、彼自身は1848年当初より「ドイツ民族の統一」にはこだわっていなかったと思います。

後、「ドイツ関税同盟」という手段によって「ドイツ」を統合させようとする動きをことごとくオーストリアに邪魔されてきたことを「根に持って」きたのはビスマルクも同様でしょうし、オーストリアに翻弄されて右往左往する他のドイツ連邦諸国のことも苦々しく思ってきたと思います。

何よりも、プロイセンのこれまでの動きから推測するに、ビスマルクの頭にあったのは民族としての統合よりもむしろ「経済的な統合」を早く行いたかったのではないか、と。確かにオーストリアさえいなければ、これはとっくの昔に出来上がっているはずなんですよね。

最終的にはオーストリアを武力によって叩き潰す以外に方法はない、とも思っていたのではないかと。

そして、1848年のベルリン革命が、民衆によって起こされたものではなく、武力を威嚇する手段として利用しながらも、政府が主導して行われていたのだとすれば、もっと異なる形が生まれていたのではないか、と。ただし、これはビスマルクにとっても「結果論」でしかないのでしょうけれども。


例えるなら、蒋介石北伐時代の中国において、南京の日本軍居留区に赤化された一部の中国国民党軍(第19軍)が押し寄せ、50名を超える日本人(以外にも欧州人も多数)が非常に凄惨な方法で殺害され、30名を超える女性が少女に至るまで凌辱されても政府が全く動かず(南京事件(1929年)、結果として被害者こそ日本人12名、凌辱2名と南京事件ほどではないにせよ、南京事件以上に凄惨な方法で日本人が殺害された済南事件 を引き起こし、いい加減政府に対する鬱憤がたまりにたまりまくっていた陸軍が政府の意向を全く無視して気持ちいいくらい国民党軍を叩き潰した 満州事変 の様な感じでしょうか。

ビスマルクの動き方って、結構第二次世界大戦開戦前の日本軍の動きを思い起こさせるんですよね。もちろんいい意味で。

このシリーズ を書き始めた当初は、プロイセンに対して私、決して良い印象は抱いていなかったんですが。

さて。次回はいよいよ「普墺戦争」そのものの経緯とその後のドイツへ向けて記事を進めていく予定です。


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<継承する記事>第416回 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争で連合した普墺が分裂した経緯

前回の記事で話題にしたオーストリア外相ベルンハルト・フォン・レヒベルク。彼については、個人的にはもう少し情報を深めたいんですが、残念ながら現在ネット上では、彼の情報を深められそうな投稿は全く見つけられません。

唯一Wikiでビスマルクの検索をかけたときに他のサイトに比較すれば詳細だと考えられる情報が出てくるのですが、これだけですね。

他のサイトでは、彼が外務大臣就任後、ビスマルクと激しく対立した・・・というところまでしか情報として出てきません。ですが、きっとこれは歴史的に考えると「本質的」な情報ではないんだと思うんです。

ビスマルクに関しても、彼が武力によってドイツの統一を成し遂げようとした人物・・・という印象が強いのですが、実際には彼は統一ドイツの達成にはそもそも反対(というより、重要視していない)していて、プロイセン王国という国がどうあるべきなのか。ここを深く考える人物であったのではないか、という印象を私は受けるのです。

関税同盟に関してもレヒベルクは「大ドイツ主義」の立場から、ビスマルクは「小ドイツ主義」の立場からの主張を行っているように見えるのですが、ビスマルクは別に小ドイツ主義に固執しているわけではなく、プロイセンの主張に従うのか従わないのか。ただそれだけを重視していたのではないか、と。

関税同盟に関して、ビスマルクがレヒベルクに歩み寄る余地があったということは、レヒベルクも関税同盟に関して、同じような考え方をしていたのではないかと思うのです。つまり、関税同盟としてどうあるか、以前にまず、「オーストリア」としてどうあるべきなのかを考えることのほうが大切なのではないか、と。

ただ、現時点では私にはレヒベルクの考え方を検証する方法がありません。もしどこかでその方法を見つけたとしたら、その時再びレヒベルクについて触れてみたいと思います。


レヒベルク失脚後のオーストリアとドイツ

レヒベルクは関税同盟でプロイセン側に敗北したことから、1864年10月に失脚するのですが、翌1865年8月14日にオーストリアは、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争において両国が手にしたシュレースヴィヒ、ホルシュタイン、及びラウエンブルクの扱いをめぐって、「バート・ガスタイン協定」を締結します。

同協定締結に至るまでの経緯として、デンマークが普墺に敗北し、両国に講和を申し出たのが1864年6月18日の事。講和条約が結ばれたのは10月3日です。ドイツ関税同盟が更新されたのが翌11月12日の事。

レヒベルクが失脚したのは講和条約が結ばれてから関税同盟の更新に参加国が署名するまでの間であったことがわかります。


ビスマルクが首相に任じられた目的の一つとして、実は当時の国王が実現しようとしていたプロイセンの「軍制改革」を実行することがあげられます。

プロイセンが自国の権益のため、したたかに実行していた「関税同盟」をめぐって、ロシアの仲介を受けて対オーストリアで大幅な譲歩を迫られることとなった「オルミュッツ協定」。

これを締結せざるを得なくなったのは、プロイセンの軍事態勢がナポレオン戦争当時のままであり、この旧態依然とした軍事態勢がヘッセン=カッセル選帝侯内での武力衝突(オルミュッツ協定を締結する元となったもの)においてプロイセンが武力を撤退せざるを得なくなった最大の理由である、とビスマルクではなく、1861年1月に国王の座へと就いたプロイセン王ヴィルヘルム1世が考えていたのです。

ですが、この当時衆議院の多数派を占めていたのは「自由主義派」の議員。

「自由主義派」とは、ビスマルクたちのように、きちんとした軍事態勢を整えた上で外交交渉に臨むべきだとする「保守派」議員に対し、「武力ではなく、話し合いで解決すべきだ」と考えていた人たちのことをいうわけですね。なるほど。。。

で、この状況を打開するため、プロイセン陸軍大臣であるアルブレヒト・フォン・ローン中将が目をつけていたのがオットー・フォン・ビスマルク。

ヴィルヘルム1世は、ローン中将の推薦を受ける形でビスマルクを首相へと任じました。


ベルリン3月革命とビスマルク

時代を少し遡ります。

すでに記事にしています通り、プロイセンではナポレオン戦争の講和条約である「ウィーン議定書(1815年)」を受け、手に入れたラインラントが、自国本土とは飛び地になっていることを受け、物資の輸送に他国に税金を支払わならなければならないリスクを回避するため、他のドイツ諸国との間で「ドイツ関税同盟」を締結しました。(1834年)

これは、プロイセンとしては後に起こる「統一ドイツ」へ向けた動きとは関係なく、すでに産業革命等で発展する過程にあったイギリスやフランスに対して遅れをとらぬよう、自国経済の発展に向けた動きであったわけです。

ところが、その「産業革命」が原因でフランス国内に資本家と労働者との間での「格差」問題が深刻化し、これが「フランス第二革命」を引き起こしました。

考えてみれば、現在の日本で蔓延している「右翼」だの「左翼」だの言ったレッテルとこれに基づく(敢えて言いますが)「(似非)左翼陣営」たちが巻き起こしている社会問題は、ここを根源としていたのだな、ということが今はよくわかります。ほんと、ようやく真理に行き着いた思いです。

話を本筋に戻します。

この、フランスで勃発した「フランス第二革命」の余波がドイツにも「ウィーン三月革命」や「ベルリン三月革命」という形で影響を与えることとなります。

ウィーンで起きた「ウィーン三月革命」は、ハンガリーやチェコの「独立戦争」という形をとるのですが、では「ベルリン」では何が起きていたのでしょうか。

「ベルリン」とは、もうお気づきの方も多いと思いますが、「プロイセン」の首都の名前です。

フランス第二革命の影響を受け、ベルリンでもいわゆる「国民主権」というものを求めて活動を起こす活動家たちが開く集会が頻繁にみられるようになります。

ベルリン三月革命とは、このような活動家たちに向けて国王軍が発砲をしたことから始まります。

これが3月18日の事なのですが、国王軍はなんと翌19日に降伏し、国王は市民軍の管理下に入っています。この時国王ヴィルヘルム4世は、市民に対して自由主義者による内閣を構成することを約束させられています。

で、この時市民軍の管理下に入った国王を救出すべく軍を組織して進軍を開始したのがビスマルク。ですが、この時点で国王軍は撤退を開始しており、ビスマルクは進軍を断念せざるを得なくなります。

この時、ビスマルクは王位継承権者を持つヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム4世の弟)の妃であるアウグスタに対して、この国王の決定を取り消すための許可を得ようとしているのですが、彼女はこれを拒否。

実は、彼女こそ「自由主義的思想」の持ち主であり、この後もビスマルクとは対立していくことになります。アウグスタって、結構この当時のプロイセン宮廷の中で影響力のある人物だった・・・ということなんでしょうね。


ベルリン三月革命の影響を受け、ドイツ各国の「自由主義ナショナリスト」たちは、ドイツ連邦議会に対して「ドイツ国民議会」の設置を要求。3月27日に開催された同国民会議において、なんと「ドイツ帝国憲法」が決議され、ドイツ帝国の皇帝としてプロイセン王であるヴィルヘルム4世が選出されます。

まだ「ドイツ帝国」などできていないにも関わらず・・・。で、ヴィルヘルム4世は当然これをやんわりと拒否します。

ベルリン三月革命を受けて、ドイツ国内でも「自由主義政府」が出来上がり、のちにビスマルクを首相として指名するヴィルヘルム王子の周りも「自由主義者」たちで囲まれ、妃の影響も受け、ヴィルヘルム王子自身もやがて自由主義へと傾倒していくこととなります。

ヴィルヘルム1世


しかし、そんな彼がな反自由主義の急先鋒ともいえるビスマルクを首相に指名することとなったのか。

それが、前半部分でも触れた「軍制改革」の問題。

実は、ベルリン三月革命の後出来上がった自由主義政府(衆議院)でも、ヴィルヘルム王子と同様、軍制改革が必要だという認識では一致していたようなんです。

ですから、双方が歩み寄りを見せ、最終的には軍制改革の面でも一致するのですが、「選挙」が繰り返される中で、同じ「自由主義者」たちの中でも、この軍制改革とその予算に対して否定的な党派が主流となり、こういった状況を打開するために選ばれたのが「オットー・フォン・ビスマルク」でした。

このような経過を見ると、ヴィルヘルム1世という人物も、自由主義者たちに傾倒し、歩み寄る素振りを見せる中で、それ以上に譲れないものを守るためにあえてそのような中に身を投じていたのではないか・・・ともとることができますね。


記事としては、「普墺戦争」に向けた動きを掲載する予定だったのですが、「ビスマルク」という人物を追いかける中で、どうしても抑えておかなければならないと感じる部分が多々登場してしまいましたので、今回は前回と重複する部分もありながら、あえて再度ビスマルクが首相となるまでの経緯を追いかけてみました。

次回こそ、「普墺戦争」に向けた動きを記事にしてみたいと思います。


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<継承する記事>第415回 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とビスマルクのプロイセン
前回の記事では、前々回の記事 に引き続き、第389回の記事 で話題にした「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」を掘り下げる形で記事にしました。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は2度あり、この2度の戦争は、「ビスマルク」という人物が存在するのかしないのかという、たった一つの理由で、全く異なる性格の戦争となりました。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争はプロイセンがオーストリア以外のドイツ連邦と組んでデンマークに挑んだ戦争だったのですが、結果的にオーストリアを含む第三国の介入を受け、「現状維持」を確約させられ、プロイセンは事実上デンマークに敗北することとなりました。

ところが、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、プロイセンは逆にドイツ連邦諸国とは協力せず、オーストリアとの2国間で連携し、またプロイセン=外交力によってデンマークに勝利したのです。


「自由主義」と「ナショナリズム」

余談になりますが、この頃のドイツのことを調べていると、「自由主義」という言葉をよく目にします。。

ここでいう「自由」とは、英語で考えると「フリーダム」のことではなく、「リバティ」のこと。

「フリーダム」と「リバティ」の、ではどこが違うのかと申しますと、「フリーダム」とは一般的な、広義での「自由」のこと。一方の「リバティ」とは、「様々な戦いや運動を通じて勝ち取った自由」のことです。

第60回の記事 におきまして、「ナポレオンが果たした役割」として、「自由主義」と「ナショナリズム(国民主義)」をヨーロッパ全土に拡大したことをあげました。

ここでいう「自由主義」とは、すなわち「フランス」という国に住む人たちが、「フランス革命」という革命で、あまりにも残酷な方法で大量の人の命を犠牲にして手に入れた「自由」のことです。「リバティ主義」=「リベラル」のことです。

ところが、ここ(すなわちビスマルクが登場した当時のドイツの時代)にきて、どうもそれぞれ、「自由主義」と「ナショナリズム」の意味が、当初の意味とは変質しているように思います。


「ナショナリズム」の変質

「ナショナリズム」とは、すでに388回の記事 でも記しましたが、「国民主義」ではなく、「民族主義」に。

つまり、ヨーロッパ各国の「国」とは、実際には異民族によって支配されているケースがほとんどで、そこに住む「国民」も、必ずしも同一民族を意味するものではありません。

ですが、1848年のフランス第二革命を通じてドイツに広がった「民族主義」とは、ドイツ人がゲルマン語を話す民族としてまとまり、「支配民族」からドイツという国を取り戻す。こういった意味合いに変質してしまっています。

さらにオーストリア(ウィーン)においては、ドイツ民族よりもむしろ「マジャール人(ハンガリー人)」や「スラブ人(チェコ人)」という、オーストリア国内に内在する異民族が、支配民族であるハプスブルク家に対してクーデターを起こしているわけです。

一方のデンマークでは、「汎スカンジナビア主義」の下、デンマーク人を統合しようとし、その結果勃発したのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」。ここでは両国に居住するドイツ人が、両国の統合と独立を求めて武装蜂起を行ったわけです。

この時の「ナショナリズム」とは、すでに「国民主義」という一つの国に居住する「市民」が、「貴族」に対して独立を求める運動ではなく、「市民」などというざっくりとした何かではなく、「〇〇人」という、「言語」や「血筋」を根拠とした「民族」がまとまって独立をしたり、統合を目指したりする動きへと変質しています。


「自由主義」の変質

さて。すでに述べていますように、もともと「自由主義(リベラル)」とは、「フランス革命」を通じて、「第三身分」に位置付けられていた「市民」が、「貴族」から大量の犠牲を出して手に入れたものです。

ですが、この時の「市民」の中に、「労働者」や「資本家」といった区別はありませんでしたね?

実はこれ、シリーズ、「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します。 ドイツにおける「自由主義」 を通じて私が結局たどり着けなかった答えでもあるのです。

では、「フランス革命」当時と、ビスマルクが登場当時の「ドイツ」とで、一体何が違うのでしょうか?

これを明確に示すキーワードが「産業革命」です。


「産業革命」とは何か?


参考元としては、こちらのブログ

MONEY PLUS なぜ産業革命はイギリスから始まったのか
↑がとても分かりやすかったし、納得できる内容でしたので、こちらを参考にしながら記事を進めてみます。

「産業革命」はイギリスで最も早く発生しました。では、「産業革命」とはそもそも一体何なのでしょうか?


産業革命が起きるまでの経過

まず前提条件として、イギリスでは、どうも「市民」とやらが権力者から「権利」を手に入れるまでに、フランスで起きたような凄惨な「革命」は起きていないようです。

この記事はそもそもイギリスの内情を深堀することを目的としていませんので、ざっくりとした結論だけ記しますと、

・イギリスでは、貴族や土地の所有者、小作人の関係性が他国ほど悪くなく、お互いが連携して生産性を求める仕組み作りを行う下地が無理なく出来上がった。

というところでしょうか。ですので、他国と比較しても小作人の生活は裕福で、下っ端であるはずの小作人が、「消費者」となりえたのです。

産業革命も、結果的にこのように、労働に対してその「生産性」と「効率化」を求めるイギリス人の国民性が巻き起こしたものでした。


産業革命とフランス二月革命

ところが、フランスではもともとイギリスのような国民気質がありませんから、イギリスから流入した産業革命の影響が、いわゆる「一般国民」たちの賃金に反映されることはありませんでした。

その恩恵にあずかることができたのは「富裕層」に限られており、ここで富裕層と一般国民との間に「貧富の差」=「格差」が生まれ、これがフランス第二革命へとつながりました。

フランス第二革命とは、フランスの一般国民が、フランス政府に対してこの「格差解消」を求めて起こしたクーデターだったわけです。

共産主義の祖ともいえる「カール=マルクス」が登場し、「共産党宣言」を発表するのも、まさしくフランス二月革命が勃発した1848年。まさにその年ですね。


「産業革命」と「自由主義」

話題をドイツに戻します。

ここでいう「自由主義」という言葉に対して、ビスマルクは以下のような演説を行っています。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。

バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。

プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。

ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される

ビスマルク

これは、ビスマルクが首相となる直前に行った演説で、彼が「鉄血宰相」と呼ばれる所以ともなった演説です。

この演説の中で、ビスマルクはプロイセンの国境問題は武力によって解決すべきだ、演説しているわけですが、実はこの演説、プロイセンの言葉をそのまま額面通りに受け取るべきではないのではないかと考えています。

例えば、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題 に関して、ビスマルクは最終的に「武力」を用いてデンマークを制圧しているわけですが、それ以外の局面においては「武力」をちらつかせ、半ば脅しにも利用しながらも、局面全体は「外交」によって解決しています。

演説の中でビスマルクは「バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン」、つまりオーストリアよりの「大ドイツ主義」をとる南西ドイツの面々を名指しし、諸国の政策を「自由主義政策」として「揶揄」しています。

演説そのものはプロイセン国内の「自由主義者」たちを威圧するために行われたものですが、様々なネット上の記述を見ていると、ビスマルクが最後に述べている「現在の問題」について、「統一ドイツ問題」と記しているサイトをよく見かけます。

ですが、どうもビスマルクの動き方を見ていると、彼は必ずしも「統一ドイツ」という考え方に前向きではなかったのではないか、思うのです。

というのも、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争において、ビスマルクがオーストリアと連携した際、オーストリア側の中心人物であった外相ベルンハルト・フォン・レヒベルク。

関税同盟をめぐる駆け引きにおいては対立し、最終的にビスマルクはバイエルンやウュルテンベルク、ダルムシュタット、ナッサオをも諦めさせ、オーストリアを除くドイツ諸国の「関税同盟」を更新するわけですが、「国境問題」に関しては近い考え方を持っていました。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題で振り返ってみると、ビスマルクは両国を独立させることではなく、自国に統合することを考えていました。

理由は、両国を独立させると、他の関税同盟諸国がそうであるように、プロイセンの政策に対して異を唱え、自国の考え方にプロイセンを譲歩させようと動き出すことを嫌ったからです。

つまり、「自由主義」的な政策をとらせたくなかったからです。彼が考えていた「自由主義的な政策」とは、まさしく彼が演説で述べているように、「演説や多数決によって」決める政策のことを言っています。


ドイツの抱える特有の問題

ドイツには、他のヨーロッパ諸国であるフランスも、イギリスも、デンマークですら抱えていない問題があります。

それは、「ドイツ連邦」という領土の中に、統治機構が全く異なる多数の国々が、同等の「権利」を有しながら、同時に存在していながら、それぞれの国が単に同じ系統の言葉を話すというあやふやな「民族意識」で連携し、一つの国であるかのようにふるまっているという問題です。

では、プロイセンにとっての「ナショナリズム」とは、「プロイセン人」としての民族意識なのでしょうか。それとも「ドイツ人」としての民族意識なのでしょうか?

ビスマルクにとっての「民族意識」とは、間違いなく前者です。彼にとって、自分がドイツ人であるかどうかなどどうでもよく、要は「プロイセン人」の国家である「プロイセン」に、他の領邦国家が従うのか従わないのか。ただそれだけであったのではないでしょうか。

ですから、ビスマルクはドイツ領邦を、「ドイツ」として統一させるのではなく、おそらく「プロイセン」に統合させる形で統一を進めようとしていたのではないか・・・と私は思うのです。

そういった意味でオーストリア外相であるレヒベルクはとても考え方が近く、だからこそシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題に関してお互いに連合して戦争に臨むことができたのではないでしょうか。

ですから、1864年の関税同盟の更新において、ビスマルクはレヒベルクが失脚することがないよう、できるだけレヒベルクに歩み寄った交渉を進めようと画策したのですが、他の経済学者たちによってこれは阻止され、オーストリアに一切譲歩する形のないまま関税同盟は更新されました。

ここからは私の推測ですが、もし仮に、レヒベルクが失脚することなく、そのまま外相であり続けたのであれば、ビスマルクはドイツを「ドイツ人国家」として統合することは考えなかったでしょうし、この後に勃発する「普墺戦争」も起きなかったのではないでしょうか?

現時点で私はこの後のドイツがどのような道を進むのか、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第350回の記事、及び第351回の記事 で記した以上の内容は知りません。

次回記事では、いよいよ普墺戦争勃発に向けて記事を進めてみたいと思います。


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<継承する記事>第414回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をドイツ関税同盟と比較してみる
前回の記事では、「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について記事にしてみました。

ポイントを押さえますと、

・この時点ではまだビスマルクは首相の座にはついていない

・オーストリアはこの戦争には参加していない

・同戦争は「フランス二月革命」の影響を受けて、革命の2か月後に勃発した戦争である

・フランス二月革命が影響を与えたのはデンマークだけでなく、同年プロイセン・オーストリアでも革命が起きている

・同戦争が終盤に向かったころ、プロイセンはオーストリアとの間でも開戦寸前の危機に直面しており、プロイセンはオーストリアに妥協する形で屈辱の「オルミュッツ協定」を締結している。

・ドイツ関税同盟をめぐる流れはオーストリアに有利な形で進んでいた

というところでしょうか。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争においても、結果プロイセンはデンマークに対してもロンドン議定書を交わし、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン両公国は改選前の状況のまま、デンマーク領とし、その代わりデンマークで新たに施行された6月憲法の適用はしない、という形で妥結を余儀なくされたのです。


第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争勃発に向けた経過

ただ、これはデンマークにとっても、両国を自国に統合しようと考えていたわけですから、デンマークにとっても「妥結」させられた形となっています。形式上はプロイセンの敗北です。

この時交わされた「ロンドン議定書」では、シュレースヴィヒとホルシュタインが不可分のものであるとしてデンマークへの帰属が確認され、また後継者のいなかったデンマーク王フレデリク7世が崩御したのちには、フレデリク7世の出身であるオルデンブルク家の流れをくむグリュックスブルク家より、クリスチャン(後のクリスチャン9世)がデンマーク王に即位することまで確認されていました。

ところが、1863年1月にポーランドで勃発した武装蜂起が、勃発し、これに触発されてデンマーク王フレデリク7世はシュレースービヒの自国への併合を推進するようになり、ドイツ連邦との間で再び対立を深めていくことになります。

フレデリク7世は自身が急死する直前にシュレースヴィヒ=ホルシュタインまで含めた領土をクリスチャン9世が継承することを定めた新憲法「11月憲法」を公布します。

しかし、両公国に居住するドイツ人はこれを認めず、アウグステンブルク公世子フリードリヒが独立を求めて蜂起します。(1863年11月)


第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でなぜビスマルクはオーストリアと連携したのか

ドイツ連邦諸国をはじめ、当然プロイセンもこれを支持するわけですが、この時首相であったビスマルクは、実は両公国(および同じくデンマーク統治下にあったラウエンブルク公国)の独立を望んではいませんでした。

ビスマルクが登場するまでのプロイセンは、フランスやイギリスがそうであるように、「自由主義」や「民族主義」、「ナショナリズム」を求める傾向が強かったのですが、ビスマルクはどちらかというと現実主義者で、そいうった理想主義的な考え方を嫌う傾向にありました。

ビスマルクが考えていたのは、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの独立ではなく、自国プロイセンへの併合。

これは考えてみれば当然のことで、プロイセンがこれまで関税同盟をめぐって大変な思いをしてきたのは所属する国々の統治主体が異なっていたから。プロイセンに併合してしまえば、そのことで大変な思いをすることはなくなります。

デンマークも同じ課題で苦しんだわけですから。

ですが、ビスマルクは自国国王も含めて様々な対立を避けるため、このことを表に出すことはせず、デンマークの対応が、「ロンドン議定書に違反する」ことを理由として、デンマークにこの議定書に従うことを求めます。

ロンドン議定書では、当然蜂起したアウグステンブルクの名前は記されておらず、ドイツ連邦諸国からは反発を受けますが、この議定書には、実はあの「オーストリア」の名前が記されており、つまりビスマルクはオーストリアと連携することで、連邦諸国の反発を抑え込んだわけです。

だいぶ風通しがよくなりましたね。

ビスマルクは元々シュレースビヒ=ホルシュタインを自国に併合することを目的としていたが、これを公然と訴えれば自国国王を含めた他国からの痛烈な批判にさらされる。

これを防ぐため、公平な取り決めである「ロンドン議定書」を利用し、持論を正当化した上で、強国であるオーストリアを巻き込むことに成功した

ということですね。

1863年12月7日に行われたドイツ連邦議会では連邦加盟国であるホルシュタインに強制執行を行うことが可決し、12月24日、ザクセン軍、およびハノーファー軍がホルシュタインに進駐することとなります。

つまり、この時点では対デンマークではなく、「武装蜂起を起こしたアウグステンブルク公世子フリードリヒ」が対象とされていたわけですね。

普墺連合艦隊


対デンマーク戦勃発

第一次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争の事実上の講和条約である「ロンドン議定書」に署名したのは「英」「仏」「露」「丁(デンマーク)」「普」「墺」の6カ国で、実はプロイセンとオーストリア以外のドイツ連邦諸国は、このロンドン議定書には署名しませんでした。

その上で、普墺が押し切る形で連邦加盟国のホルシュタインに対する武力行使が可決され、ザクセンとハノーファーがホルシュタイン進駐を行いました。

ですが、他のドイツ諸国はアウグステンブルク公を支持しており、ロンドン議定書に基づく普墺の主張は批判を浴びることになります。

1864年1月、普墺はさらに連邦議会に対し、「ロンドン議定書に従わず、シュレースビヒ=ホルシュタインを併合しようとするデンマーク」に対する開戦案を提出するのですが、これはさすがに否決されます。

これを受け、プロイセン、オーストリア両国は、連邦議会の議決には頼らず、「自分たちの責任で行動する」とし、普墺二国で対デンマーク戦をスタートしてしまいます。

オーストリアはもうすでに引くに引けない状況にまで巻き込まれてしまっていますね。

ドイツ連邦とすれば、自分たちはロンドン議定書にサインしたわけではありませんから、口のはさみようがありません。

ビスマルクの目的はこの時点で既に「シュレースビヒ」「ホルシュタイン」「ラウエンブルク」の三公国を自国に併合することにあります。

1864年1月16日、プロイセンはオーストリアとの間で協定を締結し、デンマークに最後通牒を出したうえで、これに応じない場合、シュレースビヒにまで軍を進めること、及び占領後の同地域における取り決めを約定します。

そして同2月1日、両国はシュレースビヒ侵攻を開始し、ここに「第二次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争開戦」と相成ります。


調停をめぐる駆け引き

デンマークがロンドン議定書を守ろうとしないことを理由に両国は同議定書を事実上破棄し、シュレースビヒからさらにデンマーク領にまで進軍を開始します。

これを受け、普墺両国の増長を好ましく思わないイギリスは、露仏の支持を取り付けたうえで、普墺丁3国に調停を申し出ます。

デンマークとすれば、当事者以外の各国がデンマークに好意的であったことから、普墺両国に対しても強気な態度で臨み、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両国をデンマークに統合することを頑なに主張します。

これに対し、オーストリアはロンドン議定書を遂行させようとしているわけですから、両公国の独立を意図していたわけで、デンマークの態度に当然好感を抱くことはありません。

ですが、一方のプスマルクはデンマークの主張するデンマークへの統合でも、オーストリアの考える両国の独立でもなく、自国、プロイセンへの統合を画策していました。

デンマークのこの頑なな態度を引き合いに出し、ビスマルクはオーストリアに対し、「両公国を独立させるか、(両公国と国境を接する)プロイセンへの併合のどちらかしか選択肢はない」という悪魔の囁きを行います。ここにきて、ビスマルクはついにオーストリアに自信の本音をにじませるのです。

そのうえでビスマルクは独立させるための条件として、「保守的な統治を行う保証」が必要であることを示します。

この時、ビスマルクは両公国の統治者として、アウグステンブルク公の名をあげます。そう。「ロンドン議定書」を理由に自身が反対し、進駐まで行って食い止めたはずのアウグステンブルク公の名を。(1864年5月末)


第二次シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争の結末

ビスマルクからの「囁き」を受け、オーストリアはイギリスが主催したロンドン会議にアウグステンブルク公を統治者とする両公国の独立を提案し、ビスマルクはこれを支持。

プロイセン側は、実は2月26日の段階でアウグステンブルク公に対する要求内容が取りまとめられており、アウグステンブルク公に対して要求済みでした。

6月1日、ビスマルクはアウグステンブルク公をベルリンに招いた上で、同草案に「保守的な統治」という文言を加えた上で、改めて同条件を飲むことを要求します。

しかし、アウグステンブルク公を支持しているのはビスマルクとは真逆のナショナリストたち。(この場合の「ナショナリズム」とは、プロイセンだとかホルシュタインだとかいう枠を超えて、「ドイツ」としての統一を考えている人たちのことを指すものと考えられます)

アウグステンブルク公はビスマルクの要求を拒否。アウグステンブルク公とビスマルクとの会談は決裂します。

ロンドン会議では北シュレースビヒをデンマークが併合し、残りを独立公国とすることが提案されますが、デンマークがこれを拒否。

ビスマルクも当然この案には賛成できませんから、この時フランスが提案した別の案に賛成し、結果ロンドン会議は何も決まることがないまま、決裂することとなりました。


最終的に、普墺軍が武力によってデンマークを攻略し、デンマーク政府は事実上の降伏。「シュレースビヒ」「ホルシュタイン」、そして「ラウエンブルク」の3公国に関する権利がデンマークより普墺両国に譲渡されることとなります。

譲渡された3公国の取り扱いに関して、1865年8月14日に締結されたバート・ガスタイン協定では、
・プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを統治する。

・プロイセンはオーストリアに賠償金を支払い、ザクセン=ラウエンブルクを統治する。

・キール港をドイツ連邦の所有とし、プロイセンはその軍政・警察事務を管理する。

・レンデスブルク城はドイツ連邦の所有としプロイセンおよびオーストリアが守備兵を置くこと。

が決められました。

次回記事では、改めてさらにここからどのようにして「普墺戦争」へと結びつくのか。その過程を記事にしてみたいと思います。



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<継承する記事>第413回 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争再検証~成立ちの歴史から検証する今回の記事を作成する目的は、改めてになりますが、第389回の記事 で私が記した内容に、一部事実と異なる部分があったようですので、ここを検証しなおすことが一つの目的です。

記事としては、私が
シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したとき、プロイセンで宰相を務めていたのが「オットー・フォン・ビスマルク」という人物。

と記した後で、さらに
そんなビスマルクが「ホルシュタイン」を支援する形で始まったのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」。

戦争は第一次、第二次と行われ、「ドイツ民族を統一する」という意識がまだ薄かった当時に行われた第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではプロイセンはデンマークに敗北するわけですが、引き続いて行われた第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、プロイセンはオーストリアを味方につけ、デンマークを撃破します。

そして、この時にシュレースヴィヒ、ホルシュタインの両公国をの支配権をデンマークから獲得し、シュレースヴィヒはプロイセン、ホルシュタインはオーストリアが管理することなりました。

と記したのですが、第一次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは1848年のことで、この時はまだビスマルクは首相に就任していません。

一方で第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは1864年1月のこと。ビスマルクが首相になったのは1862年10月ですから、第二次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争はビスマルク指揮下で行われたことになります。

で、そもそも第一次シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発した理由ですが、これはどの記述を信用してよいのか、少し自信がない部分はあるのですが、「民族意識」の部分で、まずデンマーク人は「シューレスヴィヒ公国」に関しては「デンマークの一部」であると考えていました。

考えていたことは事実だと思うのですが、どうも当時のデンマークに存在した政党である国民自由党が、「アイダーまでのデンマーク」というスローガンを掲げ、どうもこれをデンマーク国民の世論を盛り上げるために利用していた節が見えます。

「アイダー」というのは、前回の記事 でもご紹介した通り、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の国境に一縷する「アイダー川」のことで、つまり、国民自由党は「シュレースヴィヒ公国をデンマークに併合しよう!」と訴えていたのです。

以下のリンク先レポート
↑を参考にしますと、これの考え方を主導したのはデンマークの政治家である「オルラ・レーマン」という人物で、アイダー川を分岐点にシュレースヴィヒはデンマーク、ホルシュタインはドイツの土地であると明確に訴えています。

1846年7月8日にはデンマーク国王クリスチャン8世がシュレースヴィヒはデンマーク王家のものであることを明確に宣言する、などし、シュレースヴィヒとホルシュタインを分離させる動きを見せます。

ところが、両地域に住むドイツ人はこれとは逆にシュレースヴィヒとホルシュタインは一体である、という考え方を持っており、クリスチャン8世のこの動きに反発する声がドイツ人側から一斉に巻き起こります。

クリスチャン8世は1848年1月20日に死去。続いてフレデリック7世がデンマーク王となり、彼はさらにシュレースヴィヒだけでなく、ホルシュタインまで含めた国土をデンマークに統合することを宣言します。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン

濃いえんじ色がデンマーク、赤色が「北シュレースヴィヒ」、黄土色が「南シュレースヴィヒ」、黄色が「ホルシュタイン」です。
「シュレースヴィヒ」も「南シュレースヴィヒ」にはデンマーク人よりもドイツ人が多く居住していました。


第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
このことは、一気に両公国に居住するドイツ人の反乱へとつながり、ドイツ人はホルシュタインに臨時政府を設立。デンマーク王国からの独立を宣言します。一応、シュレースヴィヒ=ホルシュタインとして独立を宣言したようですが、シュレースヴィヒ人の半分はデンマーク人であり、彼らはデンマークへの残留を望んでいました。

そして、独立を画策する臨時政府を支援したのがプロイセン王国でした。

シュレースヴィヒもホルシュタインも、ともにデンマークより「封土」された土地で、デンマークの「属国」に当たるわけですが、形上はこの両国がデンマークに対してクーデターを起こすわけです。

クーデターを鎮圧する必要がありますから、当然デンマークは隣接するシュレースヴィヒに対して軍を派遣します。

一方でホルシュタインは「ドイツ連邦」に所属していますから、ドイツ連邦としてはデンマークの「侵攻」を食い止める必要があります。1848年4月、プロイセンとドイツ連邦シュレースヴィヒ=ホルシュタインに向けて進撃。ここに「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」が開戦します。(ただし、この時にはオーストリアは参戦していません)


第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争当時のドイツ

では、改めてこの当時のドイツはどのような状況にあったのでしょうか?

同戦争が勃発したのは1848年4月のこと。この年は、ドイツにとって一体どのような時だったでしょうか?

第378回の記事 などで記述しましたが、1848年2月、フランスで「フランス二月革命」が勃発します。

フランス二月革命によってフランスの王政が再び崩壊し、共和制へと移行したフランスのこの「二月革命」の影響はフランスだけでなくドイツにも波及し、同年3月、オーストリアで「ウィーン三月革命」が、プロイセンでは「ベルリン三月革命」が勃発し、ナポレオン戦争後に取り決められたヨーロッパにおける「ウィーン体制」は崩壊の危機を迎えたわけです。

「ウィーン体制」とは、すなわちヨーロッパにおける「王政」の復活、および自由主義運動を抑圧することにあったわけですが、民衆によりこれらがすべて否定された形です。


「ドイツ関税同盟」側から見ると・・・

一方で、「ドイツ関税同盟」側から見ると、1834年に南北のドイツ関税同盟が統合される形で「ドイツ関税同盟」が成立。

自国内に「チェコ」や「ハンガリー」、「北ドイツ」の問題を抱えるオーストリアはこれに加わることができずにいる状態で勃発したのが前記したウィーンとベルリンにおける「三月革命」です。

プロイセンは同年5月、ザクセン・ハノーファーとの間で、将来の統一ドイツを見据えた「三王同盟」を結成。

一方でオーストリアで起きた「ウィーン三月革命」は単にウィーン市民のみの活動にはとどまっておらず、「マジャール人(ハンガリー)」や「スラブ人(チェコ)」、そして北イタリアの「独立運動」としての側面もあったため、オーストリアはプロイセンに対して一歩で遅れた形になりました。

プロイセンによる三王同盟の結成後、オーストリアは自国領土の問題を終結させると、プロイセンの動きに対して、「ウィーン会議で定められた(ドイツ)連邦規約に反する」とし、これを南ドイツ諸国が支持。これを受けてザクセンやハノーファーは同盟から離脱することになりました。

第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したのは、ちょうどそんな時期であったということです

この時のドイツ連邦諸国の動きを見ていると、どちらかというとオーストリアが優勢であるように見えますね。

ちなみに1850年11月には、ヘッセン=カッセル選帝侯国においてプロイセンとオーストリアは一触即発、武力衝突の危機を迎えるわけですが、この時ヘッセン=カッセルに派遣されたドイツ連邦軍は「カールバースト決議」に基づいた、「オーストリア中心の連邦軍」であり、方やシュレースヴィヒ=ホルシュタインに派遣された軍隊は「プロイセンを中心とする連邦軍」。

こう考えると、とてもいびつな状態にあったわけですね。

結論から申しますと、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を終結させたのはイギリス、フランス、ロシア、オーストリアなどの「外交干渉」によるもの。

デンマーク王フレデリック7世が、1949年に国民の要請に答える形で発布した「6月憲法」。これは、デンマークの絶対君主制を廃止し、「立憲君主制」とするもの。これまで国王の権力で動かされてきたデンマークを、議会によって運用することとしたものです。

デンマークとしては、シュレースヴィヒ=ホルシュタインをデンマークに統合し、両国にも同憲法を適用させようとしたのですが、スウェーデンの提案によって両国にはこれが適用されませんでした。

プロイセンを中心とするドイツ連邦軍は両国から撤退したものの、ドイツ連邦に参加するデンマーク領ホルシュタイン公国と、両国のドイツ人が統一の維持を望むシュレースヴィヒ公国。この問題が何も解決されないまま、この戦争は一時的に終結を迎えたのです。

1852年5月8日のことです。ヘッセン=カッセル選帝侯国における小競り合いでは、1850年11月、「オルミュッツ協定」によってオーストリアへの譲歩を認めさせられた後、プロセイン軍は2度目の撤退を余儀なくされたわけですから、プロイセンとしては屈辱的な「妥結」であったと思います。

1951年、11月末に、オーストリアよりドイツ連邦各国に対して、「第一案」及び「第二案」そして南西ドイツに対して「第三案」が提示され、オーストリアとプロイセンとの間で「ドイツ関税同盟」をめぐる駆け引きが行われる、まさにその中での出来事でした。


話題が少し長くなりましたので、「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と「ドイツ関税同盟」の比較は次回記事に譲り、今回はここで終結いたします。



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<継承する記事>第412回 英仏通商条約(コブデン条約)をめぐるドイツ領内における駆け引き

普墺戦争までの前振りとして、第389回の記事 におきまして、一度「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について記事にしたのですが、その後、「ドイツ関税同盟」をめぐる記事を通じて、ナポレオン戦争後のドイツ領内の国家間の駆け引きを見ていくと、第389回の記事 における「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」についての記述が、必ずしも正確ではないな、と感じました。

今回の記事では、シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争をめぐるデンマーク国内の動きを、ドイツ領内の動きと比較しながら記事にしてみたいと思います。


「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン」とは何か?

地理的なおさらいです。「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」は、現在ではドイツの一部として、「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン州」となっていますが、この「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン問題」が勃発した段階では、ともにデンマークの支配下にある地域でした。

Wikiで見ますと、「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の位置関係が意外とわかりやすく図解されてましたので、それぞれのページから画像を持ってきてみます。

Sleeswijk1848.png

こちらが「シューレスヴィヒ」。

Holstein.png

こちらが「ホルシュタイン」です。

地図のサイズが思いっきり違うので、ぱっと見は戸惑うかもしれませんが、よく見て比較すると、そもそも両方の国がヨーロッパでどの位置にあるのかというところまで含めて理解しやすいと思います。

ざっくりとした歴史をひも解くと、元々この地域はデンマークとドイツ(正確にはドイツではなく、西ローマ帝国、東フランク王国、神聖ローマ帝国を経て「プロイセン」と名称を変える)の国境に位置する地域であり、両国間で紛争が繰り返されていました。

西ローマ帝国の時代、「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の間にある「アイダー川(ネタみたいですけど)」を両国間の国境であると取り決められるものの、その後も紛争はやまず、最終的に神聖ローマ帝国の時代、1027年、「コンラート2世」の時代に改めてこの「アイダー川」が国境であると取り決められます。

その後、1115年に時のデンマーク王クヌーズ4世より、彼の弟であるオーロフ1世に与えられた土地がのちの「シューレスヴィヒ公国」。

一方、もともと神聖ローマ帝国諸侯の一人であるザクセン公より、同じく神聖ローマ帝国諸侯の一人であったシャウエンブルク家に分け与えられた土地がのちの「ホルシュタイン公国」です。

要は、もともと「シューレスヴィヒ」とはデンマーク領であり、「ホルシュタイン」はドイツ領であったということですね。


「シューレスヴィヒ」と「ホルシュタイン」の変遷

14世紀末(詳細やその経緯は出てこないです)、デンマーク王はホルシュタイン伯であったアドルフ8世に、シューレスヴィヒ公としての地位を承認します。この時点で、「ドイツ人」であるシャウエンブルク家が、デンマーク領であるシューレスヴィヒを継承するといういびつな状態が出来上がってしまいます。

ところが、今度は1459年、アドルフ8世が亡くなると、アドルフ8世には後継ぎがいなかったため、デンマーク領であるシューレスヴィヒはデンマーク王クリスチャン1世(オルデンブルク家)に返還されます。ですが、この時点ではドイツ領であるホルシュタインの継承者はいません。

そして、クリスチャン1世は自分の母がアドルフ8世の姉であることを理由にドイツ領であるホルシュタインの継承も宣言してしまいます。

神聖ローマ帝国はホルシュタインの爵位を「伯爵」から「公爵」へ引き下げた上でこれを承認。今度はドイツ領であるホルシュタインをデンマーク王が領有する状態となります。


1544年、シューレスヴィヒ=ホルシュタインが3分割される

クリスチャン1世より、フレゼリク1世を経て王位を継承したクリスチャン3世は、シューレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国を3分割し、自身の出身であるオルデンブルク家と分家であるゴットルプ家との共同統治とします。

当初、この共同統治はうまくいっていたものの、ゴットルプ家はやがてデンマークだけでなくスウェーデンやロシアとも結びつきを深めていきます。


ポーランド王家とゴットルプ家との対立

第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生 のところで少し触れていますが、フレゼリク3世(ゴットルプ家)の時代に海外で勃発した「北方戦争」。

引用記事中では「ロシア=ポーランド戦争」として紹介していますが、この戦争にスウェーデンがちょっかいをかける形で拡大したのが「北方戦争(1655年)」です。

元々スウェーデンと対立関係にあったデンマークは、ロシアがスウェーデンに宣戦布告を行ったのを見て、この北方戦争に参戦します。

この時、スウェーデン王カール10世と婚姻関係にあったゴットルプ家は、自国領のスウェーデンの通過を認めるなどし、ゴットルプ家はデンマーク王家との対立を深めていくことになります。

この戦争(第一次デンマーク戦争)において、デンマークは一時的に敗北するものの、1658年、停戦条約を一方的にスウェーデンが破って攻めてきたことをきっかけとして勃発した第二次デンマーク戦争では逆にデンマークが勝利し、フレゼリク3世の子、クリスチャン・アルブレクトは領土から追放されることになります。


大北方戦争とゴットルプ家

1667年、和平を結ぶ目的でクリスチャン・アルブレクトはデンマーク王フレゼリク3世の娘であるフレゼリゲ・アメーリエと婚姻関係を結ぶわけですが、1694年にクリスチャン・アルブレクトは死去。彼の息子らはデンマークに対して強硬な態度をとります。

1700年、スウェーデン軍(ポーランド・リトアニア共和国、オスマン帝国、 ヘーチマン国家、グレートブリテン王国)と反スウェーデン軍(ロシア・ツァーリ国、デンマーク=ノルウェー、ザクセン選帝侯領、ポーランド=リトアニア)との間で戦争がはじまると、デンマークはスウェーデンとの同盟国であるシュレースヴィヒ=ホルシュタインへ侵攻。

デンマークはまた再びスウェーデンに敗北するものの、1709年、スウェーデンがロシアに大敗を喫したことを受け、デンマークは再び参戦し、1713年、ゴットルプ家のシューレスヴィヒ領を占領し、ゴットルプ家のから宗主としての権限をはく奪します。


ホルシュタイン=ゴットルプ家

一方で、ゴットルプ家領のうち、神聖ローマ帝国領であるホルシュタイン公国ではデンマーク王家とゴットルプ家との共同統治体制は継続し、同領地は「ホルシュタイン=ゴットルプ公国」と名称を改められます。この時のゴットルプ公はカール・フリードリヒ。

しかし、すごい複雑ですね・・・

この地域の人達はある意味とても寛容なのでしょうか? ただ、このゴットルプ家はあくまでもポーランド人であり、神聖ローマ帝国内にありながら、ホルシュタイ=ゴットルプ公国の帰属はポーランドにあります。


ポーランドからロシアへ

1739年、カール・フリードリヒから爵位は彼の子供であるカール・ペーター・ウルリヒへと移るのですが、彼は彼のおばであるロシア女帝エリザヴェータより後継者としての指名を受け、1762年にはなんとロシア皇帝になってしまいます。

ですが、彼の息子であるパーヴェル・ペトロヴィチが同領地を再びデンマーク王へと譲り、同領地は再びデンマーク王の下で統一されることとなります。

で、ややこしいついでなのですが、この時パーヴェル・ペトロヴィチは、デンマーク王より神聖ローマ帝国領内のオルデンブルク公国を代わりに譲り受けます・・・って、つまるところデンマーク王は神聖ローマ帝国領内にあるオルデンブルクの出身・・・つまり、元々はドイツ人だったってことですね。

ややこしすぎます。


ドイツ連邦ホルシュタイン公国

さて。ようやく時代がドイツ連邦にまで戻ってきました。

神聖ローマ帝国が解体された後、ホルシュタイン公国はホルシュタイン公国として主権を回復することになります。もちろんその宗主はデンマーク王であるオルデンブルク家。

そしてオルデンブルク家が宗主であるホルシュタイン公国は、ナポレオン戦争後に執り行われたウィーン会議の後、「ドイツ連邦」に参加することとなります。

さて。記事が少し長くなりましたので、「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」に関する再検証は次回にゆだねることとして、今回はここまでで締めくくりたいと思います。



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<継承する記事>第407回 オルミュッツ協定後のドイツ~オーストリアとプロイセンの駆け引き~

さて。前回の記事 におきまして、プロイセンとオーストリア、他のドイツ諸国が、オーストリアを含めずに従来のドイツ関税同盟を継続する「小ドイツ主義」とオーストリアを含めて関税同盟を統合する「大ドイツ主義」をめぐって画策を繰り広げる中、オーストリアの考え方に近い南ドイツ7か国がオーストリアの案を含めて協議するようプロイセンに働きかける様子を記事にしました。

結果として、オーストリアを含めたドイツ領内の駆け引きよりも、フランスやロシア、トルコなどの動きに対応する必要が出てきたため、オーストリアがプロイセンの要求を飲む形でオーストリアをドイツ関税同盟には含めず、オーストリアとプロイセンが2国間で通商条約を結ぶこととなりました。

合意が行われたのは時に1853年2月13日のこと。(署名は2月17日)

その合意内容は
・相互に関税を優遇すること、関税同盟有効期限を十二年間とすること
・1860年に将来的な関税同盟統合について協議すること

の2つ。

ここからさらにプロイセンは、イギリスやフランスとも同様の通商条約締結に向けて動き始めます。


英仏通商条約とプロイセン

プロイセンがイギリスやフランスに対してもオーストリアと同様に「通商条約」を結ぶ必要性にかられたのは、サブタイトルにあるように、イギリスとフランスがお互いに締結した「英仏通商条約」が原因です。

このシリーズがそもそもドイツの歴史を追いかけることを目的としていますので、イギリスやフランスの事情まで掘り下げることはしませんが、少なくともこの時点でのイギリスが、欧州各国に対して「自由貿易圏」を築くことを目的としていたということ。このことが前提にあります。

イギリスはこれをすべての国との間で成立させようとしていたのですが、フランス(ナポレオン3世)はクーデターにより帝政を復活させたばかり。対外的には「保護主義」の政策をとっていましたので、今回のイギリスとの条約も対象はイギリスのみ。2国間における通商条約を締結しました。

「自由貿易」とは簡単に言えば、国家間での関税を大幅に引き下げて貿易を自由にできるようにしましょう、ということ。「保護主義」とは逆に他国からの輸入品には高関税をかけ、もしくは輸入そのものを禁止にして自国内での生産者を有利にするための仕組みです。

この記事はドイツの歴史を探るためのものであって、経済に関する記事ではありませんから、これ以上は話題を広げないようにします。

思い出してみてください。そもそもプロイセンがドイツ領内における国家間の「関税同盟」を締結しようとした理由はどのような理由だったでしょう? 「民族主義(ナショナリズム)」という思想によってドイツ民族(ゲルマン語を話す民族)が居住する地域を「ドイツ」として統一させる必要性にかられた・・・わけではありませんでしたね。

ナポレオン戦争後、「ウィーン議定書」によって自国が獲得した領土「ラインラント」。せっかくドイツ領内における流通の要所を手に入れたのに、ラインラントとプロイセン本土は飛び地になっていて、ラインラントからプロイセンに物資を輸送するために他国に対して「関税」を支払わなければならなかったから。

これを解消するため、プロイセン主導で進められたのが「ドイツ関税同盟」でしたよね?

ところが、プロイセンがドイツ領内におけるイニシアティブを獲得するために様々なことを画策している間に、ドイツ領外ではフランスがイギリスと2国間での「自由貿易協定」を締結してしまったわけです。

イギリスは2国間ではなく、多国間での自由貿易協定の締結を目指していましたが、フランスは保護主義をとっていましたので、経済圏としてのフランスを、プロイセンとしてはイギリスに奪われてしまう。そんな危機感が生まれました。

フランス内でイギリスの生産物は安く流通しますが、プロイセンの生産物は高く流通する、という状況です。

英仏通商条約が締結されたのは1860年1月21日。第407回の記事 でご紹介した通り、プロイセンがオーストリアとの間で二国間の通商条約を締結したのが1853年2月21日ですから、その約7年後の出来事です。


プロイセンは、オーストリアとの間で締結した条約において、「1860年に将来的な関税同盟統合について協議すること」という約束をしています。

フランスがイギリスとの間で通商条約を締結したのはまさにその1860年のことでした。

そして、フランスとの二国の「通商条約」の締結は、実はプロイセン側からではなく、フランス側から提案されたものでした。

プロイセンとしては、オーストリアとの協議があるため、最初はフランスのこの提案に対して躊躇していたのです。

ところが、同年(1860年)、フランス国王であるナポレオン三世と、プロイセン国王であるヴィルヘルム一世との間で行われた会合をきっかけとして、プロイセンはフランスとの間で通商条約の交渉に応じることとなりました。

この交渉は、「ドイツ関税同盟」の盟主であるプロイセンにフランスより持ち掛けられた交渉ですから、もともとドイツ関税同盟に加入していないオーストリアはこの交渉から除外されることになります。

このことから、もともとオーストリアに近い立場である南西ドイツの面々は、この交渉に対して距離を置くようになりました。

もちろんオーストリア側からもプロイセンに対し、オーストリアとドイツ関税同盟の統合をはじめとする様々な働きかけが行われたのですが、プロイセンはフランスとの交渉を強引に推し進め、1862年8月2日、通商条約にプロイセン政府は署名することになります。

そしてこの後、10月8日にプロイセンの首相となったのがあのビスマルクです。ビスマルクはさらに1863年3月28日、ベルギーとの通商条約にも同様に署名しました。

ドイツ関税同盟は、完全に浮足立つ形となってしまいます。中でもバイエルンはプロイセンに対して、オーストリアとの間で約束した「二月協定」に基づく関税同盟の更新を主張するわけですが、ビスマルクはこれを拒否。

そして1863年12月31日、なんとビスマルクはドイツ関税同盟諸国に対して、プロイセンのドイツ関税同盟からの離脱を通告するのです。そしてもし同盟を更新したいのなら、フランスとの通商条約を承認することをを条件として突き付けるわけです。

これは、ドイツ関税同盟がどれほどプロイセンに依存した同盟であったのかということを象徴する出来事ですね。


プロイセン離脱をめぐるドイツ領各国の駆け引き

ここからは、再び様々な国名が登場してわけがわからなくなるので、再び下地図を用いて記事を進めていきます。

プロイセン

プロイセン側からの要求(半ば脅しですね)を巡ってまず1864年5月、ベルリンで開催された会議には

 3番 バイエルン
 5番 ヘッセン・ダルムシュタット
 6番の左半分 ヘッセン・ナッサウ
 17番 ウュルンテンベルク(ヴュルッテンベルク)

の4か国が欠席します。一方で

 13番 ザクセン

がプロイセンとの間での新しい関税同盟に署名。続いて

 2番 バーテン

が署名すると、参加した各国は次々と同同盟へ署名を行います。

そして9月末にベルリンにおいて改めて開催された会議には前回の会議で欠席した4か国も参加し、ついに関税同盟は更新されることとなります。つまり、オーストリアを除くすべての国がフランスとプロイセンとの間における通商条約を承認したということです。

私は今回のドイツ関税同盟をめぐる一連の記事を、

 早稲田大学リポジトリ ドイツ統一国家形成と関税同盟
 ↑こちらの記事

を参考に作成しました。同サイトには、この時のバイエルンの苦悩が、バイエルン国王の言葉として、以下のような形で記されています。
関税同盟更新交渉の経緯には心を痛めている。

閣議の報告書は自分の確信を裏打ちするものであり、バイエルンにとって、ウュルテンベルクが加わるかもしれないが、バイエルンのみの関税圏を形成するか、対仏関税・通商条約無条件受諾というプロイセンの要求に従うかであり、これ以外の選択の余地はない。

プロイセンの覇権を少なくとも通商政策に限定するということで、この選択に同意せざるをえないであろう。バーデンとウュルテンベルクの関税圏を他のドイツから分離するということは自然なことではない

「プロイセンの覇権」という言葉が言及されており、引用先の記事にもあるように、この時点はすでにバイエルンとしても関税同盟のことを考える以外に選択肢がなく、オーストリアのことを考える余裕すらなくなっていることがわかります。


一方、プロイセンとドイツ関税同盟をめぐるこの一連の駆け引きが行われる中で勃発したのが、第389回の記事 でもご紹介した、あのシューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争です。

改めて振り返ってみますと、第389回の記事 は必ずしも正確ではない様ですので、次回記事では改めてこの「シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」について掘り進めて見たいと思います。



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