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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第406回 統一ドイツ誕生までの歴史を復習①~「ドイツ」とは何なのか?

第392回の記事 におきまして、スラブ人(チェコ人)やマジャール人(ハンガリー人)の反乱を鎮圧した後、完全に出遅れた感じとなったオーストリアが、自国が身動きが取れない間に、自国以外の国々の間で締結された「ドイツ関税同盟」に対し、さらにオーストリアを含む大きな枠組みでの「関税同盟」を提案した理由として、「ドイツ関税同盟の更新年」が12年であったことをご紹介しました。

オルミュッツ協定が締結されたのは、1850年11月29日のこと。ドイツ関税同盟の更新年は翌1851年です。

プロイセンは、1851年11月11日現行の条件下でのドイツ関税同盟の更新は行わないことを表明し、更に52年4月に新たなる条件での関税同盟を更新するための協議を「ベルリン」で行う用意があることをほのめかします。

一方、オーストリアは11月25日、プロイセンに先駆けて52年1月に、自国も含めた新たな枠組みでの関税問題を話し合うための会議を「ウィーン」にて開催することを表明し、すべてのドイツ諸国に招待状を送りました。

「ドイツ関税同盟」においてプロイセンが主導権を握るのか、オーストリアが主導権を握るのか、その鍔迫り合いが始まったんですね。


新たなる「関税同盟」の形

プロイセンは、関税同盟の新しい形として、「ドイツ関税同盟」と「オーストリア」が「自由貿易協定」を結ぶ形を求めていました。

つまり、ドイツ関税同盟に対する主導権はあくまでプロイセンが握り、これとオーストリアが対等な形で貿易を行うスタイルですね。

オーストリアは招待状に、このプロイセンが求めている形式ともう一つ、オーストリアがドイツ関税同盟そのものに参加する二つの案を添えて発送しました。

そしてさらに、この両案が決裂した場合に備えて、バイエルン、ウュルテンベルク、バーデン、ザクセン、ヘッセン・ダルム、シュタット、ヘッセン・カッセルの6か国にのみ、オーストリアとこの6か国が新たなる関税同盟を締結する第三案がさらに添えられていました。


一方のプロイセンは、もしこのような会議に参加するのであれば、それは新たなるドイツ関税同盟が更新された後であり、更新もされていないのにこのような会議に参加するつもりはない、とウィーン会議への参加を拒否します。

さらにプロイセンとの関係の深い北ドイツの諸国もウィーン会議への参加を見送りました。

そしてプロイセンは、ウィーン会議が開催されている中、現行のドイツ関税同盟に加えて、ハノーファー、オンデンブルクの2か国に対して「ベルリン会議」への招待状を送ります。

プロイセン

ハノーファーは上地図の4番。オンデンブルクは10番です。ハノーファー・・・大きいですね。

ハノーファーは、プロイセンにとって、自国の経済圏を確立する上でも要所であったことがわかりますね。16番がラインラント地方で、ライン川を利用する上での交通の要所。こことプロイセンの自国領土を陸続きにすることを目指していたわけですから。

プロイセンが招待状を送付した送付先の意味するところは、つまりドイツ関税同盟の次の枠組みとして「ハノーファー」と「オンデンブルク」は追加しますが、「オーストリア」はドイツ関税同盟には入れませんよ、という意思表明が行われたに等しいわけです。

ですが、そもそもウィーン会議で話し合っている内容は、オーストリアを関税同盟に含める案と、同盟には含めず、自由貿易協定を締結する案との2択が議題として挙げられているわけですので、もしベルリン会議が成立してしまえば、ウィーン会議を行うことそのものが意味のないものとなってしまいます。

既に述べていますように、ドイツ関税同盟の更新年は12年。ベルリン会議において新しい枠組みでのドイツ関税同盟が更新されてしまえば、オーストリアがこれに加わるまで、少なくとも12年は待たなければならないわけです。


「第3案」をめぐる駆け引き

プロイセンが事実上、オーストリアからの提案を事実上無視した形となったことから、第2案の成立はとん挫し、一方でオーストリアは第2案の成立を望んでいるわけですから、第1案の成立も望み薄です。

となると、にわかに脚光を浴びることとなったのが「第3案」。

しかもこの第3案は極秘で、オーストリアに近い立場をとる南ドイツの6か国にしか提案されていませんので、この6か国が非常に苦しむこととなります。

もう一度同じ地図を出します。

プロイセン

バイエルンは言うまでもなく3番。オーストリアの隣です。
ウュルンテンベルク(ヴュルッテンベルク)は17番。
バーデンは2番。
ザクセンは13番(黄色)。
ヘッセン・ダルムシュタットは5番
ヘッセン・カッセルは6番の右半分。

このうち、「ザクセン」はプロイセンと国境を接する位置にあり、オーストリアよりもプロイセンに近い位置にありますから、第三案に乗った場合、下手をすると孤立してしまう恐れがあります。ザクセンとすると、ドイツ関税同盟にオーストリアを加える「大ドイツ主義」の立場をとるものの、現行のドイツ関税同盟から外れてしまうことはザクセンの思惑とは異なるわけです。

この問題を話し合う為、ザクセンはまずバイエルンに会談を呼びかけます。これを知ったヴィッテンベルクはバイエルンに対し、自分たちも協議に加えるよう呼びかけます。

三者は仮に第三案に署名するのであれば、3国がともに参加することを条件としました。

この時点で、ザクセンが参加を拒んでいるわけですので、この3国が第三案に署名する可能性は極めて薄くなります。

3国は、第三案を提案された6か国に、6番の左半分、「ヘッセン・ナッサウ」を加えた7カ国で継続審議を行うことを呼びかけ、その開催地をダルムシュタットとすることとしました。

ところが、このダルムシュタット会議において、オーストリア案を中心に7カ国が協議を進めていくことが決定され、ベルリン会議においても7カ国はプロイセンに対し、オーストリア案をベースとしてオーストリアと協議に入ることが提案されます。(この時点では、提案がオーストリアから正式になされたものではない、としてプロイセンはこれを拒否します)


さて。ここまでドイツは、ドイツ領内における覇権争いに終始していたわけですが、この段階でにわかに国際情勢がきな臭くなってまいります。

そもそもドイツで「民族主義」の傾向が高まってきた最大の理由として、1848年のフランスで勃発した「フランス二月革命」がありました。

この、フランス二月革命によって王制が崩壊し、フランスは再び共和制へと移行するわけですが、その後大統領となったルイ・ナポレオン(ナポレオン1世の孫)が、1851年12月にクーデターを起こし、翌年12月には皇帝ナポレオン3世となり、帝政が復活。

一方、オーストリア南方に位置するクリミア半島ではロシアとオスマントルコとの武力衝突の危険性が増すなど、ドイツ領内での覇権争いよりも、オーストリアとプロイセン共通の危機に対処する必要が生まれてきたのです。

このことから、オーストリアとプロイセンは、オーストリアの提案を成立させるべく7カ国が奔走する中で、なんと2か国間で通商条約を締結することとなりました。

そのままドイツ関税同盟も成立してしまいましたので、つまりオーストリアの第1案がそのまま受け入れられる形で協議が成立してしまったのです。


「譜墺戦争」までは時間がかかりそうですが・・・。

なかなかシリーズナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? を進められずにいますので、本日の記事はここまで。

続きは次回以降の記事をお楽しみに!



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<継承する記事>第392回 プロイセンV.S.オーストリア/オルミュッツ協定締結までの動き

前回の記事を記したのが1月9日で、本日(この文字を入力している時点)での日にちが6月3日ですから、実に5か月近くこのシリーズ を放置していたことになりますね。

私の生活も大分安定してきましたので、少しずつこのシリーズも再開し、進めてみたいと思います。

期間がずいぶん開いたこともありますので、前回の記事 までの流れを追いかける形で、改めてく今回のシリーズ が対象としている「ドイツ」という国の成り立ちをざっくりと復習しながら話題を進めてみたいと思います。

改めて記しますと、

・「ドイツ」という国名は、元々「東フランク王国」という国が存在していた地域の住民を指す言葉であった。

・東フランク王国とは、もともと「ルートヴィヒ1世」が統治していたフランクのうち、3男である「ルートヴィヒ2世」に割譲された領土である。

・フランク王国のうち、東フランク王国に当る土地は、元からフランク王国であったわけではなく、ルートヴィヒ1世の先代の王であるカール大帝が、東に攻めて拡大した領土に当る土地であった。

・東フランク王国以外のフランク王国は、元から「フランク人」によって統治されていた土地であったが、東フランク王国は民族も風習も違う異民族によって統治されていた土地であった。

・東フランク王としては第3代に当るルートヴィヒ4世には、跡取りが誕生しなかったことから、ルートヴィヒ4世の死去に伴って王族にフランク王国の血筋は耐え、またこの地域に居住していたフランク人は、東フランク王国に元から住んでいた「ゲルマン人」たちとの間で同化が進み、事実上東フランク王国のフランク人は消滅してしまった。

フランク王国分割
考えてみれば、東フランク王国誕生当時のドイツには、「プロイセン」は存在しなかったんですね・・・。改めて考えると、意外な思いがします。

また、ここまで復習してみたんですが、一つ見えてきたことがあります。

そもそも、「ドイツ」という言葉のルーツをたどりますと、フランク王国にてラテン系の言語ではなく、「ゲルマン系の言語」を話す人(ゲルマン人)たちのことを「ドイツ」と呼称しており、「ドイツ」という言葉そのものには「民衆」や「大衆」といった意味があったのだそうです。

つまり、フランク人はフランク王国において、ゲルマン系の言語を話す人たちのことを「ドイツ」と呼んでいたんですね。

「復習」を少し進めます。

・ルートヴィヒ4世の死後、「東フランク王国」に居住していた「ゲルマン人」たちの合議によって、「フランケン公コンラート1世」が王として選ばれる

これをもって「ドイツ王国の誕生」とされているわけですが、これは、つまりもともと「東フランク王国」であった場所で、 「『フランク人』より『ドイツと呼ばれていたゲルマン人』」たちの合議によって、「フランケン公コンラート1世が即位した」ことを意図しているわけですが、コンラート1世にはまだフランク人の血が流れていました。

彼の後を継いだザクセン大公ハインリヒ1世の代になって初めてドイツ人による国家が誕生することになったんですね。

やはり期間をおいて調べなおしてみると見えてくることってありますね。


オーストリアのルーツ

また、加えて 第377回の記事第380回の記事 で「東フランク王カールマン」をご紹介しているのですが、ここは私の中で情報が混乱していますね、明らかに。

先述しました、ルートヴィヒ2世が割譲された「東フランク王国」は、「東フランク王カールマン」が統治していた東フランクとはまた別の領土。

カールマンはカール1世(のちのカール大帝)の弟で、カール1世とカールマンは、父親であるピピン3世より、フランク王国の西側をカール1世が、東側をカールマンが譲渡されています。

この時のカール大帝が統治していたエリアを「西フランク王国」、東側を「東フランク王国」と呼称していましたので、この時代の「東フランク」とルートヴィヒ2世が継承した「東フランク」とはまた別ものですね。

カールマンの方がカール1世より早く亡くなりますので、カール1世は東フランク王国を継承し、フランク王国全土を継承しました。

後にカール1世はローマ教皇より戴冠され、「カール大帝」となります。

カール大帝の時代に、「東方辺境」であったオストマルク(のちのオーストリア)よりマジャール人(のちのハンガリー人)を撃退。マジャール人対策のため、カール大帝はこの地域へのバイエルン人の移住を促進し、バイエルン貴族であるヴィルヘルム家に「オストマルク東方辺境伯」の爵位を授けました。

カール大帝の死後、ルートヴィヒ1世がフランク王国全土を継承します。ちなみに、「ルートヴィヒ」って、フランス語では「ルイ」と発音するんですね。「ルートヴィヒ1世」は「ルイ1世」ってことらしいです。

ルートヴィヒ1世の死後、彼の3人の息子の間で領土争いが勃発。「ウェルダン条約」が結ばれ、3人の息子のうち、東フランク王国を継承したのがルートヴィヒ2世(ルイ2世)。もちろんこの「東フランク王国」とはカールマンが統治していた「東フランク王国」とは基本的に別ものです。

ややこしいですね。

さて。ルートヴィヒ1世の死後、3つに分割された領土の一つである「東フランク王国」。その一部として存在した「オーストリア」はのちに公国→大公国へと昇格し、やがて「ハプスブルグ家」が大公を世襲するようになります。


プロイセンのルーツ

また、もう一方のドイツ統一の主役である「プロイセン」ですが、第375回の記事 に非常に詳しく書いてましたね。

元々プロイセンは、「ドイツ」とは全く関係のないエリア。

東プロイセン
↑この位置(濃いえんじ色の位置)にありました。同エリア、西隣のエリアが「ポーランド」で、そのさらに西側に連なるエリアが「ブランデンブルク辺境伯領」。

濃いえんじ色のエリアが元々「プルーセン」と呼ばれる地域で、ここに「プルーセン人」と呼ばれる、キリスト教徒ではない「異教徒」が居住していました。

教皇の命を受けて「ドイツ騎士団」が派遣され、この地域にもともと居住していたプルーセン人を降伏させ、やがてドイツ騎士団とプルーセン人は同化し、プルーセン人は事実上消滅。プルーセン人が居住していた地域、「プロイセン」が後のプロイセン王国のルーツとなっています。

こののちドイツ騎士団はプロイセンだけでなくポーランドに対しても支配をもくろむようになるのですが、ドイツ騎士団はポーランドに敗北。

ドイツ騎士団割譲
↑上図のうち水色・ピンク・緑・黄色の地域をポーランドに譲渡します。

この結果、プロイセン(ドイツ騎士団領)は元々プルーセン人が居住していたエリアのみとなり、さらにポーランドの「属国」として存続することになります。

さらに1525年、ドイツ騎士団の総長であるアルプレヒト・フォン・ブランデンブルクが、ドイツ騎士団をプロイセンから放逐し、プロイセンはポーランド王の下で「プロイセン公国」となります。

1618年に男系の血筋が途絶えるとブランデンブルク選帝侯が公位を継承し、「ブランデンブルク=プロイセン」となるわけですが、ブランデンブルク選帝侯領そのものが「プロイセン」とみなされるようになります。

「プルーセン人」も「ドイツ騎士団」も、さらにフランケン地方よりプロイセンに移住して農作を営んだフランケン人すらもいない「プロイセン」がここに出来上がってしまいます。

プロイセン・ブランデンブルク

領土からするとこんな感じです。ピンク色が神聖ローマ帝国ですから、そのピンク色とグレーの部分を除くエリアが「プロイセン」となりました。

ちなみに、この中で「神聖ローマ帝国」に属しているのはブランデンブルク選帝侯領のみで、同じプロイセン王国でありながら、それ以外の地域は神聖ローマ帝国ではなかったんですね・・・。ビックリです。


「神聖ローマ帝国」の行く末

そんな「神聖ローマ帝国」ですが、「フランス革命」の勃発で大きく動揺することになります。

革命当時、フランス国王であったのがルイ16世。ルイ16世の妃はあの「マリーアントワネット」。オーストリア大公のマリア=テレサを母に持つ女性です。

マリーアントワネットは、兄であるローマ皇帝レオポルト2世に助けを求めます。この後、オーストリアとプロイセンが同盟を結び、さらにフランス革命の影響下にあるフランスを、王制時代に戻そうとする「ライプニッツ宣言」を発表したところ、革命政府が激怒。フランス革命戦争が勃発することとなります。

さらに、のちに誕生した「ナポレオン政権」の働きかけを受けて神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は帝国を離脱し、フランス帝国と「ライン同盟」を結ぶことになります。

この時点で、「神聖ローマ帝国」は存在しなくなりますから、プロイセン全土が神聖ローマ帝国に属していたか否かはその重要性を失いますね?

そしてその後、ナポレオンの敗退を受けて行われた「ウィーン会議」。ここで承認された「ウィーン議定書」によりドイツ連邦が成立します。

ですが、この「ドイツ連邦」はあくまでもそれぞれが別々の行政機能を果たす独立した「国家」の集合体であり、「ドイツ連邦」がそのまま「国家」としての機能を果たすわけではありません。

ドイツ連邦に所属する国々は、もともと別々の民族であり、「ドイツ人」として一つにまとまろう、などという意識を持った集合体ではないわけです。

ですが、そんなドイツ人たちが、なぜ一つにまとまる必要性を感じるようになったのか。ここに大きく関与するのが「ビスマルク」という人物の登場でした。


統一ドイツへの布石

ビスマルクはプロイセンの宰相の名です。

ナポレオン戦争後、「ウィーン議定書」によってプロイセンが獲得した地域の中に、ドイツの交通の要所である「ラインラント」が含まれていました。ですが、プロイセンの本土とこの「ラインラント」とは飛び地になっており、プロイセン本土からラインラントに物資を輸送するためには、プロイセン本土とラインラントとの間に位置する国に対して「関税」を支払う必要がありました。

プロイセン
↑上図、16番がラインラントです。

プロイセンは、「統一ドイツ」を作ることでこの障害を取り除こうとしたのです。そして、そのキャッチコピーとして利用されたのが「統一ドイツ」という謳い文句。

先に述べた通り、「ドイツ人」とは、ドイツがフランク王国の一部であった時代にフランク人たちより「ゲルマン語を話す人たち」という意味で「ドイツ」と呼ばれていたことがそのルーツとなっています。

この当時、オーストリアは「フランス二月革命」の影響を受け、「チェコ」「ハンガリー」「北イタリア」という異民族による独立運動という問題を抱えていましたから、統一ドイツを果たそうとするビスマルクにとって、「オーストリア」という存在は邪魔だったんですね。

オーストリアがこれらの民族の独立運動の鎮圧にてこずっている中、プロイセンは先んじて「統一ドイツ」結成に向けて動き始めていたのです。

これに対してオーストリアは自国内の独立運動を鎮圧した後、オーストリアを外して統一ドイツの実現に向けて動き出したプロイセンの行動を「ウィーン議定書の規約に反する」とし、プロイセンのこの動きはいったん白紙に戻されるわけですが・・・

そのあとの動きを第392回の記事 で記事にしています。

ということで、続きは第392回の記事 をご覧ください。

当シリーズ次回記事では、改めて第392回の記事 の続編。普墺戦争勃発に向けたドイツ連邦内の動きを記事にしてみたいと思います。



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この記事のカテゴリー >>日本の税収の見方


「2018(平成30)年4月度」と記していますが、今回のデータは「2017年度(平成29年度)翌4月」のデータです。

政府の「会計年度」は毎年4月に始まり3月に終了します。

ですが、「税収」に関しては、典型的なものとして「消費税」の納付期限が、「翌々月」の納付までで構わないとされており、例えば3月の消費税収を「5月」に納付するところまで認められているわけです。

ですので、「税収」に関しましても、確かに政府の会計年度は「4月~3月」なのですが、3月分の最終納付月が5月となっているため、「税収」のデータは毎年「当年4月~翌5月まで」のデータが1年分のデータとして公表されています。

ただ、翌年度、今回でいえば2018年度(平成30年度)ももうスタートしていますので、同時に「2018年度4月」のデータも公表されています。

ですが、今回はあくまで2017年度(平成30年度)の統計を分析することを目的としていますので、本日記事にする資料は2017年度としての2018年4月の数字となっています。


2018(平成30)年4月度税収

2018年4月税収
ダウンロード

【2018(平成30)年4月度税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 4月分 2.702兆(101.8%) 累計 18.805兆(107.2%)

 源泉分 4月分 1.112兆(97.4%) 累計 15.617兆(107.9%)
 申告分 4月分 1.589兆(105.1%) 累計 3.188兆(104.2%)

法人税 4月分 0.452兆(110.0%) 累計 6.941兆(115.6%)

消費税 4月分 1.833兆(102.1%) 累計 14.720兆(103.3%)

一般会計全体 4月分 5.666兆(102.8%) 累計 50.399兆(105.9%)

これが2017年度4月の「税収」です。


所得税収の見方


4月のデータとしては、ずっと好調を保っていた所得税収「源泉分」にブレーキがかかっているのがネガティブな要素としてはありますが、それでも累計で見ると所得税収「源泉分」は前年同月比107.9%で、予算ベースが前年同月比で102.7%ですから、これを5.2%上回っていることがわかります。

一方で、3月が確定申告月にはなるのですが、この「申告分」としては4月に納められるものが最も多いようです。

そしてこの数字が4月単月で前年比105.1%、累計が104.2%。予算ベースでは前年比98.4%で組まれていますから、これを4.8%上回っていることがわかります。

所得税収全体では源泉分のブレーキが効いていて前年同月比101.8%とはなっているものの、累計では107.2%。予算が前年比101.9%で組まれていますので、所得税収は全体の累計実績で5.3%も上回っています。所得税収は4月がピークですので、この数字はほぼ確定したものと考えて間違いないでしょう。


法人税収の見方

一方、法人税収としては、4月単月で前年比110.0%、累計でも115.6%と明らかに好調を維持しているのですが、何しろ予算ベースが前年比120%となぜこんな数字で組んだのかわからないほど莫大な伸び率で予算組されていますので、予算ベースでは不調となっております。

ただし、税収としては4月の法人税収は4522億円となっており、法人税収全体の予算額12.391兆円であることを考えると、その影響は微々たるもの。法人税収のピークは5月ですから、5月の数字に期待してみたいところです。


消費税収の見方

消費税収としては、予算が99.5%と前年度割れで組まれている中、4月の実績としては金額で1.833兆円、前年度比で102.1%。累計で103.3%となっており、予算と比較しても前年比で2.8%のプラスとなっていますから、ここは「好調」というよりも「堅調」に推移しているといえます。

もちろん「消費税収」のピークも5月ですから、この時の伸び率に期待したいところです。


「消費増税」を批判する皆さんに向けて

来年度、2019年10月には、いよいよ消費税率が10%に引き上げられます。

では、この10%増税はやるべきなのか、やめるべきなのか。私としては、両方の考え方に一理あると思っています。

私が「消費増税を行うべきだ」とする最大の理由は、国民の「労働する意欲」を担保することにあります。

社会保障にしろ、時折話題となる「ベーシックインカム」にせよ、私は私たちが受けることのできる行政サービスは、あくまでも「労働の対価」として与えられるものであり、「働かずして行政サービスを受ける仕組み」は、長期的に見れば日本人から労働する意欲を奪い、外需に依存する国民性を作り上げてしまうのではないか、と危惧しています。

ただし、これはあくまでも現時点での「税収」が、日本の社会保障システムを根幹から揺るがしてしまうほどに枯渇しており、このままでは本当に社会保障システムを維持することが困難であるとする前提条件の下でのみ成り立つ理屈です。

例えば私は第401回の記事 及び第402回の記事 におきまして、私自身が厚労省年金課の担当者とお話させていただいた内容を下に、いかに厚労省職員が「年金」のシステムを理解せずに運用しているのかということを記事にしました。

はっきり言って、こんな理解度で年金課の職員に年金を運用してもらったのでは困るわけです。何より、国会議員に年金システムを「レク」し、国会で議論する元ネタを作るのは彼らなのですから。

こんな誤った理解度で「年金は崩壊寸前である」などといわれたのでは困るのです。

消費税を上げるなら上げるで、国会議員はもとより、官僚の皆さんがキチンと社会保障システムを、私のような人間に何か言われただけで返答に窮したりしないほどに理解した上で上げるのでなければ、はっきりいって国民を納得させることなどできません。


また一方で、「消費税を上げるべきではない」とする連中にも私はほどほどうんざりしています。

消費税を上げるべきではないとする連中の主張の柱となっているのは、「消費増税により、消費が低迷した」とする「デマ」があります。

【生鮮食品・エネルギー、消費増税の影響を除く消費者物価指数の前年同月比の推移】
CPI(生鮮食料・エネルギー除く)

こちらは、過去の記事で用いた資料です。グラフを見ていただくとわかると思いますが、「消費者物価指数」総合から、「生鮮食品・エネルギー・消費増税の影響」を取り除くと、増税年度である2014年度はすべての月で0%を上回っており、翌2015年度の消費者物価指数前年同月比は12月に1.3%を記録していて、ピークを記録しています。

増税年度に「消費が低迷した」と言われている最大の理由は、実は消費増税によるものではなく、海外の原油動向の影響をもろに受けた、「エネルギー物価の低迷」にあったのです。

これは、「税収」で見ても顕著で、増税が行われた2014年度。消費増税が行われていますから、当然消費税収は伸びる(10.829兆→16.028兆)わけですが、増加したのは消費税収だけではありません。唯一所得税収のうち「申告分」のみが99.7%と前年度割れしているのですが、所得税源泉分が「12.759兆→14.026兆(前年度比109.9%)」に、法人税収もまた「10.493兆→11.031兆(前年度比105.1%)」と、安倍内閣が誕生したばかりで、増税前の「駆け込み需要」があったはずの2013年度を大きく上回っているのです。

本当に消費増税が景気に悪影響を与えたのだとしたら、私たち一般国民が受け取るはずの給与所得が反映された「所得税収源泉分」が9.9%も増加したりするでしょうか?

「消費が低迷した」と言われますが、実際の消費税収の推移を見てみますと、

2013年度 10.829兆
2014年度 16.028兆
2015年度 17.426兆
2016年度 17.228兆
2017年度4月 14.720兆
(前年同月比103.3%から予測した2017年度消費税収17.796兆円)

となっています。
私のブログを熟知している方は、2014年度→2015年度の消費税収が大きく増えている理由をご存知だと思いますが、念のため説明しておきます。

「消費税」は、基本的に各企業とも「決算月」に納めるわけですが、仮に決算月が12月であった場合、1月~3月の売り上げには消費税が加算されていませんから、実際に増税分が含まれているのは4月~12月の9か月分のみ、翌1月~3月の増税分は翌年12月に納税されることになりますので、その差額が2015年度に増加していることになります。


2015年度の「消費」は増税年度の「消費」を上回っているのか?

「消費税収」とは、「消費されたもの」に対してかけられている税収ですから、逆算すれば日本国内で消費された物品やサービスの金額を算出することができます。

つまり、「消費税収の推移」を見れば、日本国内で実際に行われた「消費」が伸びたのか、それとも下落したのかということを測ることができるのです。

増税年度である2014年度は、納められた消費税の税率が一律ではありませんので、ここから消費税が含まれていない消費額を算出することは困難ですが、増税の前年度である2013年度の消費額と、翌2015年度の消費額を算出することはできます。

2013年度の一般会計における消費税収は10,829,294(百万)円です。

5%税率での消費税は、1%を地方税、4%を国税として充てることになっていますから、国税として納付されている10,829,294(百万)円の消費納税額は消費税全体の4%であることがわかります。

10,829,294(百万)円が税率4%分になるわけですから、これを4で割れば1%分の税収が算出されます。

 10,829,294(百万)円÷4=2,707,481(百万)円

2,707,481(百万)円は消費税を除く消費額全体の1%分に相当しますので、これを100倍すると、消費税を含まない消費額を算出することができます。

 2,707,481(百万)円×100=270,748,100(百万)円≒270.748兆円

同じ理屈で、2015年度の消費納税額は17,426,292(百万)円。
8%税率での国税分は6.3%になりますので、

 17,426,292(百万)円÷6.3=2,766,078(百万)円

これが消費全体の1%分になります。100倍します。

 2,766,078(百万)円×100=276,607,800(百万)円≒276.607兆円

となります。いかがでしょうか。安倍内閣誕生直後、駆け込み需要があったはずの2013年度の消費額が270.748兆円。
消費増税が行われた翌年。消費増税によって景気が低迷しているはずの2015年度の消費額が276.607兆円。

おかしいですね。消費が低迷しているはずの2015年度の方が、約6兆円消費が活発であったはずの2013年度の消費を上回っているのです。

2016年度に限って言えば、確かに前年度、2015年度の「消費」を下回っているわけですが、その翌年である2017年度。

あくまで私が個人的に計算した「見込み額」にすぎませんが、同じ計算式で消費額を算出すると2017年度の消費額は282.487兆円になります。

2016年度の低迷分が余分といえば余分ですが、2017年度の消費額は、2015年度の消費額を5.88兆円上回っていることになります。

増税前の2013年度と比較すると11.739兆円の消費増。

当時のGDPが507.246兆円ですから、2017年度と2013年度を比較すると、「消費税課税対象となる物品やサービス」のみの消費額で、なんとGDP全体の2.3%に相当する「消費」が増えていることになります。

消費増税の影響で、本当に消費は「低迷した」のでしょうか?

例えば、反増税はの急先鋒で、まるで自分の説がすべてを凌駕するかのように吹聴する高橋洋一は、ダイヤモンドオンラインにおいて、以下のような説を述べています。

【ダイヤモンドオンライン 5月31日より】
<前略>

前回の消費落ち込みは「増税効果」があったから

 骨太方針の原案には、「消費税率10%の引き上げを実施するとともに、税率引き上げによる需要変動の平準化に万全を期す」と書かれているようだ。

 経済財政諮問会議は、2014年4月からの消費税増税による景気の後退について、駆け込み需要が大きくその反動減と考えているのだろう。

 しかし、現実の消費の減少動向を見ると、単に駆け込み需要やその反動減では説明できない。実際は駆け込み需要があってその反動減以上に、消費は落ち込んだ。

 つまり、本当の「増税効果」があったと考えることができる。

駆け込み需要とその反動減では一定期間をならしてみれば消費減はなかったと暗に前提していることになるが、そうではなく本当の「増税効果」があったから消費が落ち込んだのだ。
<後略>

さて。本日の私の記事を読んだうえで、高橋洋一の記事を読んでみると、皆さんはどのように感じるでしょうか?

彼は

「経済財政諮問会議は、2014年4月からの消費税増税による景気の後退について、駆け込み需要が大きくその反動減と考えているのだろう」

と記しています。つまり、消費増税が行われた2014年から景気が後退した、と記しているのです。

ですが、2014年全体を通じてみますと、「消費税収」だけでなく、「所得税収」も「法人税収」も前年を大きく上回っています。

「生鮮食品」と「エネルギー」及び「消費税収の影響」を取り除くと「消費者物価指数」も増加し続けており、翌年12月には前年同月比1.3%というピークをつけています。増税年度は、駆け込み需要があったはずの2013年度を上回る物価上昇率を記録し、2015年度はその物価をさらに上回る「物価上昇率」を記録しているのです。

「消費」に絞って考えますと、税率が一律でない、増税年度である2014年度こそその算出は困難ですが、翌2015年度は、駆け込み需要があったはずの2013年度を6兆円上回る「消費額の増大」を記録しているのです。2017年度まで通算して考えますと、2013年度~2017年度の4年間で、毎年0.57%ずつ上昇している計算になります。

しかもその消費額は「消費税課税対象となる物品やサービス」のみの消費額であり、政府行政サービスを含む課税対象とならない「物品やサービス」はまた別に存在します。

さて。本当に高橋洋一氏のいうように、2014年4月以降、景気は後退したのでしょうか?
消費は減少したのでしょうか? しかもその減少幅は「単に駆け込み需要やその反動減では説明できない」ほどに落ち込んだのでしょうか?

違いますね。実際には増税年度も含め、しかも民間消費レベルで消費は拡大し、「雇用」の面からも「企業経営」の面からも、景気は成長し続けているのです。

唯一、2016年のみにその成長に陰りが見えていた、というのが「税収から見る安倍内閣日本の景気の真実」です。

2014年以降、景気が後退していたというのは高橋洋一らが吹聴している「デマ」だということです。そしてその「デマ」に、いわゆる「保守論客」と言われる面々までもが振り回されているわけです。

なぜでしょう? それは簡単なこと。彼らにとって、「消費増税」は悪であり、消費増税が行われれば、必ず日本の景気は悪くなってもらわなければ困るから。

そうでなければ、自分たちの論説そのものが崩壊してしまうからです。


まとめ

私自身、もともと「景気が回復していない状況における消費増税」には反対でした。

麻生内閣において、麻生さんは消費額を行うための目安として、「名目成長率3%、実質成長率2%、物価上昇率1%が、3年間継続し、国民が景気回復を実感すること」を挙げていました。

私としても、これが達成されていない状況で消費増税が行われたことには正直承服しかねる部分があったことも事実です。

ですが、だからと言って事実を捻じ曲げて消費増税に反対することの正当性を訴えることが、本当に正しいのでしょうか?

それでは「自民党だから」とか、「安倍内閣だから」とかいうただそれだけの単純な理由で自民党安倍内閣を批判し、日本国のためには全くならない理由をこじつけて批判し、国会を停滞させまくっている野党5党1会派と一体何が違うのでしょうか?

消費増税を行えば景気にブレーキをかけてしまう。それは決して間違った主張ではないと思います。

であれば、本当に消費増税反対派が行わなければならない主張は、「消費増税さえ行わなければ、安倍内閣における成長は今以上に顕著であったはずだ」と、こうなるのではないでしょうか?

安倍内閣におけるアベノミクスは決して間違いではないと私は考えています。

ですが、私と同じように主張する人たちが、消費増税が行われたというただそれだけの理由であたかも安倍内閣における経済政策が失敗であったかのように主張し、テーマから「消費増税」が外れるとアベノミクスを礼賛するそのダブルスタンダードな姿勢に、正直へきえきしています。

批判するなら批判するで、なぜ正確な情報を下に批判するという姿勢が取れないのでしょうか?

私には全く理解ができません。



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