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この記事のカテゴリー >>「物価」の見方


現在(2018年1月30日)の段階~4月までにかけて、議員さんの後援会事務所のお手伝いをすることになりましたので、更新の頻度が落ちます。特にナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? のシリーズ等は作成するのにどうしても時間がかかりますので、楽しみにしている方がいらっしゃったとしたら・・・申し訳ございません。

おいおい更新しますのであきらめずにお待ちください。

さて。今回はタイトルにもございます通り、2017年12月の消費者物価指数に関連した記事です。


平成29年(2017年)度12月の消費者物価指数

【消費者物価指数(総合)の前年同月比】※( )内は2017年11月の前年同月比です。
総合(ウェイト:10000)
↑1.0(↑0.6)

生鮮食品を除く総合(ウェイト:9586)
↑0.9(↑0.9 )

持家の帰属家賃を除く総合(ウェイト:8501)
↑1.3(↑0.7)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合(ウェイト:8087)
↑1.1(↑1.1)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合(ウェイト:8802)
↑0.3(↑0.3)

11月と比較した上昇幅が大きいのは「持ち家の帰属家賃を除く総合」で0.7→1.3(↑0.6%)、次が「総合」で0.6→1.0(↑0.4%)となっています。

それ以外は横ばいです。

ここから読み取れることとして、まず0.4%増加した「総合」から生鮮食品を除くと消費者物価指数は横ばいとなっていますので、消費者物価指数「総合」を引き上げているのは「生鮮食品」であるということ。ちなみに12月の生鮮食品の物価上昇率は4.8%(ウェイト:414)です。

一方で「持家の帰属家賃」を除くと消費者物価指数「総合」は上昇幅を拡大させていますので、日本国内には本来存在すらしない「持家の帰属家賃」は相変わらず消費者物価指数を下落させる要因として働いていることがわかります。ちなみに12月の「持家の帰属家賃」は-0.2%(ウェイト:1499)です。

しかし、それにしても本来存在すらしない「持ち家の帰属」のウェイト(重要度)がウェイト全体(10000)の15%を占めていて且つこれが物価全体を引き下げる方向に働いているというのに、その数字が含まれた「コアCPI(生鮮食品を除く消費者物価指数)」を物価上昇率の目安とするのもいかがなものか、と真剣に思います。

生鮮食品からさらにエネルギーを取り除いた「生鮮食品及びエネルギーを除く」は11月と同じ上昇率となっていますので、エネルギー物価指数そのものは11月とほぼ同じ水準なのではないか、と推測されるのですが・・・

実際の12月のエネルギー物価指数は前年同月比7.7%、11月は8.5%ですから、物価上昇への影響力はやや減退しています。
「エネルギー物価」はその大部分が原油価格に依存しており、主に海外の物価の影響を受けますから、エネルギー物価は高いより低いほうが良い、という理屈はこれまでにお伝えしてきたとおりです。


消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】※( )内は2017年11月の前年同月比です。
↑1.8(↓0.1)

 生鮮食品 ウェイト:414
 ↑4.8(↓6.1)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 ↑1.2(↑1.1)

住居 ウェイト:2087
↓0.1(↓0.1)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
 ↑ 0.1(↑0.2)

光熱・水道 ウェイト:745
↑5.2(↑5.9)

家具・家事用品 ウェイト:348
↓0.9(↓0.5)

被服及び履物 ウェイト:412
↓0.3(↓0.3)

保健医療 ウェイト:430
↑1.6(↑1.6)

交通・通信 ウェイト:1476
↑0.8(↑0.8)

教育 ウェイト:316
↑0.4(↑0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
↑0.4(↑0.3)

諸雑費 ウェイト:574
↑0.7(↑0.3)

下落しているのは「住居」「家具・家事用品」「被覆及び履物」の3つですが、「住居」に関しましては例によって「持家の帰属家賃」を除くとプラス成長(ただし、↑0.2→↑0.1と上昇幅は縮小)していますので、実質的に下落しているのは「家具・家事用品」「被覆及び履物」の2つです。


「家具・家事用品」の前年同月比

「家具・家事用品」の詳細を見てみますと、例によって「家庭用耐久財」が↓0.9となっており、また11月の前年同月比↑0.3と比較するとプラスからマイナスへ転向していますので、その影響が大きいということがわかります。

【家庭用耐久財の前年同月比】※( )内は2017年11月の前年同月比です。
家具・家事用品 ウェイト:348
↓0.9(↓0.5)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 ↓0.8(↑0.3)

  家事用耐久財(ウェイト:57)
  ↓3.4(↓1.3)

   電子レンジ(ウェイト:4)
   ↓5.9(↓7.1)

   電気炊飯器(ウェイト:11)
   ↑3.2(↑2.1)

   ガステーブル(ウェイト:3)
   ↑2.5(↑4.1)

   電気冷蔵庫(ウェイト:16)
   ↓7.3(↓7.7)

   電気掃除機(ウェイト:9)
   ↓18.5(↓0.1)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)(ウェイト:7)
   ↑6.0(→0.0)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)(ウェイト:7)
   ↑5.7(↑6.0)

  冷暖房用器具(ウェイト:37)
  ↑3.9(↑3.0)

   ルームエアコン(ウェイト:30)
   ↑4.3(↑4.1)

   温風ヒーター(4)
   ↑4.8(↑0.9)

   空気清浄機(3)
   ↓0.6(↓4.6)

  一般家具(18)
  ↓2.0(↓0.6)

   整理だんす(5)
   ↓0.2(↑0.9)

   食堂セット(9)
   ↓3.4(↓1.3)

   食器戸棚(4)
   ↓1.3(↓1.1)

タンス

家庭用耐久財全体を見ますと、「家事用耐久財」が↓1.3 から↓3.4 へと下落幅を拡大しているほか、「一般家具」がまた↓0.6 から↓2.0 へと下落幅を拡大させています。

ただ、「家事用耐久財」を見ますと確かに全体的に物価は下落させる要因として働いているものが多いのですが、この傾向は11月から続いているもので、12月独特の現象ではありません。

唯一、「電気掃除機」のみが前年同月比-0.1%から-18.5%へと大幅に物価幅を拡大させてさせていますので、「家事用耐久財」の物価を下落させた要因の主犯はこの「電気掃除機」であると考えられます。

このほか、洗濯機は上昇させる方向へと作用していたりしますので、「電気掃除機」の物価が下落したことをもって、「安倍内閣の政策が失敗した」という人はいないのではないでしょうか。

一般家具が下落する方向にあるのは気にかけておく必要のある要因かと思います。


「交通・通信」の前年同月比

また、物価が上昇する要因として働いてはいるものの、その品目の中に、「物価」要因のうち海外の物価動向の影響を受けやすい「ガソリン」が含まれる費目。「交通・通信」に関してはさらに分解して検証しておく必要があると思いますので、毎度のことですが、ここも深堀して情報を見てみます。

【交通・通信の前年同月比】※( )内は2017年11月の前年同月比です。
交通・通信 ウェイト:1476
↑0.8(↑0.8)

 交通 ウェイト:224
 ↑0.4(↑0.3)
 自動車等関係費 ウェイト:836
 ↑2.5(↑2.6)
 通信 ウェイト:416
 ↓2.3(↓2.4)

傾向として、「通信」が全体を引き下げ、「自動車等関係費」が全体を引き上げている状況はこれまで通りですが、自動車等関係費の上昇幅が縮小し、通信の下落幅もまた縮小していることがわかります。

「自動車等関係費」の上昇幅が縮小した原因を探ってみますと、

【消費者物価指数(「自動車等関係費」)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
自動車等関係費 ウェイト:836
↑2.5(2.6)

 自動車 ウェイト:199
 ↑0.1(↑0.1)

  軽乗用車 ウェイト:40
  ↓1.1(↓1.1)

  小型乗用車A ウェイト:55
  ↑0.6(↑0.7)

  小型乗用車B ウェイト:5
  ↑0.7(↑0.7)

  普通乗用車A ウェイト:80
  ↑0.4(↑0.4)

  普通乗用車B ウェイト:20
  ↓0.2(↓0.2)

 自転車 ウェイト:9
 ↑2.2(↑2.1)

  自転車A ウェイト:6
  ↑3.6(↑3.6)

  自転車B ウェイト:3
  ↓0.7(↓1.0)

 自動車等維持 ウェイト:628
 ↑3.3(↑3.4)

  ガソリン ウェイト:206
  ↑10.3(↑10.5)

  自動車タイヤ ウェイト:30
  ↑3.7(↑3.6)

  自動車バッテリー ウェイト:8
  ↑0.9(↑1.4)

  カーナビゲーション ウェイト:21
  ↑4.5(↑7.8)

  自動車整備費(定期点検) ウェイト:28
  ↑0.1(↑0.0)

  自動車整備費(パンク修理) ウェイト:22
  ↑0.3(↑0.3)

  自動車オイル交換料 ウェイト:12
  ↓0.1(↓0.2)

  車庫借料 ウェイト:51
  →0.0(↓0.1)

  駐車料金 ウェイト:9
  ↓0.6(↓0.6)

  自動車免許手数料 ウェイト:2
  →0.0(→0.0)
  
  レンタカー料金 ウェイト:5
  ↓0.2(→0.0)

  洗車代 ウェイト:2
  ↑0.8(↑1.0)

  ロードサービス料 ウェイト:3
  →0.0(→0.0)

  自動車保険料(自賠責) ウェイト:41
  ↓6.5(↓6.5)

  自動車保険料(任意) ウェイト:189
  ↑0.5(↑0.5)

と、こんな感じです。

物価を上昇させる要因としてガソリン代が最も大きいのはその通りなのですが、11月の↓10.5から↑10.3へとわずかに上昇幅は縮小しています。

そのほか、小型乗用車A、つまり小型自動車の国産車の物価上昇幅が0.7→0.6へと減少していることも自動車等関係費全体の物価上昇幅をやや縮小させている理由となっています。

このほか、軽自動車の物価が下落し、代わりに小型、普通を含めた普通車の物価が上昇していること。「普通乗用車」の場合は輸入車よりも国産車の物価が上昇する傾向にあることなど、この辺りは安定期に入ったように感じます。

つまり、自動車の物価は安定して上昇するサイクルに入ったのではないか、と。軽自動車の物価が下落していますので自動車全体の伸び率は0.1%とやや伸び悩んでいるように見えますが、軽→普通車へと移行している様子は必ずしも自動車の物価が「伸び悩んでいる」とは言えないのではないかと私は思います。

物価上昇幅のうち、私が最も着目している「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が二か月連続で0.3%成長。持家の帰属家賃がさらに0.2%程下落させる要因として働いていることを考えると、実際には0.5%ほどの物価上昇率となっているのではないかと考えられます。

ちなみに政府日銀が目指している物価上昇率は「生鮮食品を除く総合(コアCPI)」で、この値が二か月連続で0.9%。持家の帰属家賃を考慮すると1.1%の物価上昇ではないかと思われます。

時間はかかりましたが、ようやく政府日銀の目指す「物価上昇率」が目途に入ってきたのではないでしょうか?



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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第390回 ドイツはなぜ統一したのか/ドイツ関税同盟とプロイセン

前回の記事 では、ドイツの「民族統一への動き」が生まれた理由として、ウィーン会議後にプロイセンが獲得した領土が飛び地になっていたことがそもそもの発端であることを記事にしました。

経済的な交易の要所である「ラインラント」を獲得したプロセインは、飛び地となっているこの「ラインラント」と自国が行き来する際の「関税」の障壁をなくすことを目指し、その「障壁」となる国々との間で「関税同盟」を結ぼうとしたわけです。

ですが、プロイセンのこの動きは南ドイツのバイエルンを始めとする他の国々に警戒感を抱かせ、ドイツは3つの「関税同盟」が分立する状態となり(この状態で、プロイセンはまだラインラントと飛び地の状態)、プロイセンは更にこの3つの関税同盟を統一する必要性に駆られ、バイエルンを中心とする「南ドイツ関税同盟」との間で「通商条約」を結び、続いてラインラントとプロイセンとを陸続きにさせるための要所となる「ヘッセン=カッセル選帝侯国」を北ドイツ関税同盟へと引き入れることに成功。

その後「ドイツ関税同盟」として3つの関税同盟を統一することに成功しました。

プロイセンのこの動きがドイツ国民の「民族意識」を高揚させ、更にフランスで起きた「二月革命」の影響を受け、ウィーンで勃発したのが「三月革命」でした。三月革命はウィーンだけでなく、ベルリンでも起きています。


この時点で見えてきたのは、そもそも「ドイツ人」とは、かつて「東フランク王国に所属していた国々」の「寄せ集め」だということ。ドイツ人には、「これがドイツ人だ」という明確な定義づけなどそもそも存在しなかった・・・という結論ですね。

経済的な発展を求めたプロイセンの動きがドイツの「民族主義」を高めたわけですが、ウィーン三月革命で考える限り、ここで「民族主義」がテーマになるのは革命後におきた「チェコ(ベーメン)」「ハンガリー」「北イタリア」のそれぞれの「独立運動」で、このような問題を国内に抱える「オーストリア」はプロイセン主導で始まった「関税同盟」の動きに加わるることはできませんでした。


オーストリアの対案

第387回の記事 におきまして、フランス二月革命後、各地で勃発した革命の影響を受け、揺らいだ「ウィーン体制」の修復が図られた「オルミュッツ協定」の事を記事にしました。

記事中では、

度重なる暴動に対し、メッテルニヒの追放、皇帝の避難や逃亡など、皇帝によるウィーンを支配する体制が揺るがされる状況が繰り返し続きましたが、最終的に革命軍や反乱軍を鎮圧し、一時は存続が危ぶまれたドイツ連邦も、1850年にプロイセン、オーストリア、ロシアの三国間で結ばれた「オルミュッツ協定」によってふたたびその存続が確認されました。

と記しました。

ですが、これももう少し詳細な状況がわかりましたので、少し掘り下げて記事にしてみたいと思います。

オーストリアはまずウィーン国内におけるスラブ人(チェコ人)やマジャール人(ハンガリー人)の独立運動をどうも独力で収束させているようです。

オーストリア国内の騒動の鎮圧に先立って、プロイセンは、オーストリアを除くバイエルン、ウュルテンベルク、ハノーファー、ザクセン、プロイセンの5カ国の間でドイツ統一に向けた「代表者会議」を開催します。

その後、更にハノーファ、ザクセンとの間では「三王同盟」を結成します。これが1848年5月の事。オーストリアが国内の騒動を鎮圧するのはこの後になります。

国内の騒動を鎮圧させたオーストリアは、プロイセンのこのような動きがウィーン会議によって定められた「連邦規約に反する」という主張を行ったところ、これをバイエルンやヴュルテンベルクが支持し、ハノーファ、ザクセン両国は三王同盟から離脱することになりました。

ですが、この時確かに、ハノーファ、ザクセン両国は三王同盟を離脱しましたが、プロイセンはそれ以外の北ドイツ諸国と同盟会議を開催し、ここで「エアフルト同盟憲法」なるものを採択しています。ただ、この時点では単に「「エアフルト同盟憲法」を中心に話を進めていきましょう、といった感じで、まだ参加国で合意を取り付けていたわけではないようです。


また、オーストリアとしては、「ドイツ関税同盟」を中心として、プロイセンがドイツ連邦における影響力を拡大させているわけで、これに対抗するため、「ハンガリー」や「北イタリア」を領土に持つ自国と「ドイツ関税同盟」がさらに大きな「関税同盟」を形成することを連邦政府に対して提案します。

ドイツ連邦
ライン川

上が「ドイツ連邦」の地図、下が「ライン川」の地図です。オレンジや黄色の光沢で縁取りされている川が「ライン川」です。

「ライン川」はドイツの西側から南側を広く流れる川なんですね。ここを抑えているのが「プロイセン」。

これに対抗するため、オーストリアは自国領土を他のドイツ連邦諸国に開放し、ライン川側の「北海」

北海

からオーストリアが領土に含む「北イタリア」側の「アドリア海」

アドリア海

までを抜ける一大経済圏を築くことをオーストリアは連邦に対して提案したわけです。


オーストリアがこの提案に対する議決を急いだ理由として、「ドイツ関税同盟の更新年」が12年とされていたことにありました。

オーストリアがこの提案を行ったのが1848年。ドイツ関税同盟が「更新年」を迎えるのは1951年でしたので、ここで取り残されると、更にオーストリアの発展は遅れることを危惧したんですね。


ヘッセン=カッセル選帝侯国内部での武力衝突

プロイセンは逆にこのまま自国主導で「ドイツ統一」を推し進めたいわけですから、オーストリアのこの提案を流そうとします。

そして、そんな「オーストリア」と「プロイセン」は、「ヘッセン=カッセル選帝侯国内」においてついに「武力衝突」することとなります。

ただ、実際には武力衝突する寸前にまでは到達せず、寸前でプロイセンが軍を引く形になったのではないかと思われます。(詳細な記述はまだ見つかっていません)

原因はヘッセン=カッセル選帝侯国内で起きた君主と議会との対立で、最終的に議会が君主を押し切る形で議会側が提出した「憲法」が採択されたことにあります。

ウィーン三月革命でも宰相であるメッテルニヒが辞任後亡命しており、この当時のドイツでは君主が敗北すると命を狙われるような状況が当たり前の様にしてあったんでしょうね。

議会に敗北した君主はドイツ連邦に対して、1819年にドイツ連邦を構成する主要10ヶ国が集まって行った「カールスバート決議」に基づいて軍隊の派遣を要請します。

これを受けてオーストリアを中心とする連邦軍がヘッセン=カッセル選帝侯国に派遣されました。

ですが、連邦軍が対峙するはずの「議会」は、実はプロイセンが中心となって結成しているのエアフルト同盟の「のエアフルト同盟憲法」を支持しており、プロイセンはこの「連邦軍」の「侵攻」に対して異議を唱えます。

そしてプロイセンはヘッセン=カッセル選帝侯国に軍を派遣するのですが、プロイセンと連邦軍の兵力の差は圧倒的で、プロイセンはヘッセン=カッセル選帝侯国からの撤退を余儀なくさせられます。

こうして、1850年11月にオーストリアとプロイセンの間に、ロシアを交える形で締結されたのが「オルミュッツ協定」。

結果、エアフルト同盟は解体され、プロイセンは再び「ドイツ連邦」へと復活することになりました。


ですが、確かにプロイセンが北ドイツの小国との間で締結した「エアフルト同盟」は解消されることとなりましたが、だからと言って「ドイツ関税同盟」が解体されたわけではありません。

第387回の記事第389回の記事 で記しました様に、この後プロイセンとオーストリアは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」を経て、「普墺戦争」に向けて突き進むこととなります。

次回記事では、「普墺戦争」までのドイツを、「ドイツ関税同盟」側からさらに深めてみたいと思います。



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この記事のカテゴリー >>日本の税収の見方


毎月作成しているこのシリーズですが、11月分のデータとしては中々熱い状況になりました。


2017(平成29)年11月度税収

2017年11月税収
PDFダウンロードはこちら


【2017(平成29)年11月度税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 11月分 1.363兆(103.4%) 累計 10.183兆(104.6%)

 源泉分 11月分 0.859兆(104.9%) 累計 9.156兆(105.2%)
 申告分 11月分 0.503兆(100.9%) 累計 1.027兆(99.6%)

法人税 11月分 3.457兆(104.7%) 累計 4.562兆(114.5%)

消費税 11月分 1.891兆(107%) 累計 7.649兆(103.3%)

一般会計全体 11月分 7.595兆(105.3%) 累計 28.050兆(105.1%)

今回は比較するため、10月のデータも掲載してみます。

【2017(平成29)年度10月分税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 10月分 0.92兆(98.9%) 累計 8.82兆(104.8%)

 源泉分 10月分 0.91兆(99.0%) 累計 8.29兆(105.2%)
 申告分 10月分 0.018兆(92.0%) 累計 0.52兆(98.5%)

法人税 10月分 0.41兆(113.5%) 累計 1.105兆(162.0%)

消費税 10月分 1.419兆(106.7%) 累計 5.75兆(102.0%)

一般会計全体 10月分 3.63兆(103.2%) 累計 20.44兆(105.0%)



【法人税評】

今月のデータの特徴は、法人税だけでなく、所得税の「申告分」に関しても同様の事が言えると思うのですが、計上されている金額が一桁増えていますね。

法人税であれば0.41兆円→3.457兆円、所得税申告分であれば0.018兆円→0.503兆円という感じです。

法人税であれば「法人税の申告期限は「事業年度終了の日の翌日から2か月以内」」が申告期限となっていますから、要は9月に事業年度が終了した企業だということでしょうか?

法人税も申告税も、共に企業が納税するものですからね。このあたりはどういう事情なのか、再度調べてみる必要がありそうです。


さて、です。法人税は月単位0.41兆円からいっきに3.457兆円に増加し、累計も1.105兆から4.562兆と4倍近い数字になりました。

その代わり、累計の「前年同月比」は162.0%から114.5%と一気に減少しました。ただし、そもそも法人税累計の前年同月比が前年を大きく上回っていたのは、8月分の税収に関する記事でも触れました様に、「7月分までのマイナス幅が前年度より少なかったから」というネガティブな理由です。

そして同じ記事で「8月単月での納税額が前年度比で169%オーバー」であったことを理由に、「8月決算の企業が10月に納税するはずの税収に関してもある程度期待ができるのではないでしょうか」とも記しました。

8月は決算月だと考えられるため、決算月を迎えた企業が、その8月早々に納税した額が169%オーバーであったため、その2か月後、遅れて納税する企業の数字に期待ができるのではないか、という趣旨です。

残念ながら10月ではその結果は出てこなかったわけですが、前年比104.7%と、1月後れではありますが、11月分にその結果が表れています。

単月の納税額が多く、累計で4倍近い数字になった状況で、かつ累計の前年同月比は114.5%という数字を維持しています。

ただし、予算ベースでは120.0%となっていますから、予算ベースで考えるともう少し頑張ってほしいところ、というところでしょうか。
とはいえ、予算ベースは120%ですからね。少なくとも114%と実績も近い数字が出ているということは、何らかの根拠のある数字なんでしょうね。


【所得税評】

所得税の数字も中々期待できる数字が出てきています。

以前にもお伝えしていますように、「所得税」の内「源泉徴収税」は毎月翌10日までに納税する必要のあるものですから、その年の景気状況が、よりタイムリーに反映されやすい税項目となっています。

また、「申告分」に関しましても先ほどお伝えしたように、11月は10月と比較しても、その納税額が0.018兆円→0.503兆円と約4倍~5倍に相当する額になっており、今年度の実情をより反映しやすい納税額となっています。(納税額が少額である月と比べると偶然性が低くなる)

源泉分が前年同月比単月で104.9%、累計で105.2%。申告分 11月分が単月で100.9%、累計で99.6%となっています。
所得税全体では単月で前年同月比103.4%、累計で104.6%という状況です。

申告分はまだ伸び率が0.9%とそれほど高いわけではなく、累計でもまだ前年割れしている状況ですが、トータルでは4.6%オーバーとなっています。予算と比較しても2.5%オーバーしている状況で、全体を引き上げる方向に作用しています。

このまま頑張ってほしいですね。


【消費税評】

「消費納税」もまた好調です。

金額的には10月が1.419兆円、11月が1.891兆円ですから、確かに増加してこそいるもの、それぞれの月の消費税収全体への影響はそれほど差はないと思われます。

この状況の中で、10月単月の前年同月比は106.7%だったわけですが、11月度はこれが107%。わずか0.3%とはいえ、ただでさえ好調であった10月の消費税収前年同月比を更に上回る状況となっています。

累計としては9月に初めて前年同月比が+に転じたわけですが、その後10月が102%、11月が103.3%と、順調に「前年同月比」をクリアしています。

「消費税収」もまた「申告月より2か月以内」に納税する必要のある税であり、前年度の納税額によって納税しなければならない回数も①毎月、②年4回、③年2回、④年1回の4パターンに分かれています。

8月決算のお話を何度かしていますが、11月納税分にもこの①~④すべてのパターンで8月決算を迎えた企業の納税額が含まれていると考えられるわけですが、同時にまだ決算を迎えていない企業の場合は、「前年度の納税額」を参考に納税が行われています。

つまり、今年度の納税額を見れば、昨年度の消費納税状況が推測できる、ということです。「消費税」とは「消費されたものにかかる税」ですから、消費納税の状況を見ると、更に「消費状況」まで見えてきます。

これを考慮に入れますと、11月分の前年同月比107%という数字が、どんな意味を持つ数字なのか、ということが想像できるのではないでしょうか。

ちなみに

【2017年度消費税収の推移】
4月 △0.043兆
5月 △0.116兆 累計 △0.160兆
6月 △0.193兆 累計 △0.354兆
7月 1.752兆 前年同月比 105.2% 累計 1.397兆 前年同月比 95.7%
8月 1.784兆 前年同月比 105.4% 累計 3.181兆 前年同月比 98.9%
9月 1.149兆 前年同月比 101.6% 累計 4.330兆 前年同月比 100.5%
10月 1.419兆 前年同月比  106.7% 累計 5.750兆 前年同月比 102.0%
11月 1.891兆 前年同月比  107.0% 累計 7.649兆 前年同月比 103.3%

このように消費税収の推移を月別で追いかけてみますと、さらに「前年度の消費状況」が見えてきますね。

納税額がプラスに転じた7月から、「前年同月比」ベースでは9月にやや鈍るもの、他の月はすべて105%を上回る納税状況。そして「累計」で見ると毎月、月が進む度にその割合が増加している様子も見えますね。

政府・日銀が目指す物価上昇率は「2%」を目指していますが、「消費税納税額」から見る限り今年度の物価上昇率は、少なくともこれを上回っているのではないか、と推察されます。


【一般会計税収評】

3大税収としてはとても好納税額を納めているわけですが、一般会計税収全体としても、単月で105.3%、累計で105.1%とその好調な3大税収の納税状況を反映した結果が刻まれています。

10月と比較して累計では0.1%とわずかな増加幅の上昇ですが、ですが、単月で見ると103.2%→105.3%と1.1%も前年同月比が増加しています。

「法人税」や「所得税」のところで述べましたが、11月は企業からの納税額が大幅に増加しています。

この状況の中での好調っぷり。もちろんそれだけではなく、従業員の給与の増減を表す「所得税源泉分」そして、昨年の状況が反映されている、とは言え、日本国民の「消費状況」を表す「消費税」が共に増加していること。

「国民の消費」に関してはもう少し待つ必要がありますが、その「消費」に加えて「企業業績」「賃金」がそろって上昇している様子がわかるのが今回。2017年11月の「納税状況」です。

来月はいよいよ年間のピーク月でもある「12月」のデータが上がってきます。

もちろん法人税や消費税の納税期限は「納税月の翌日から2か月以内」となっており、その実態が正確に反映されるまでには後3か月ほど待つ必要はありますが、今年度の「企業業績」「賃金状況」「消費状況」、特にこれまで昨年の納税状況がより反映されていた「消費税」に対して今年度の納税状況がより多く反映されるようになります。

12月のデータを見るのが今から楽しみです。



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<継承する記事>第389回 シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争/普墺戦争はなぜ起きたのか(後編)

前回の記事では、『オーストリアがプロセインに敗北した後の「ドイツ連邦」』を記事にする、とお伝えしたのですが、その前に少しタイトルにある、「ドイツはなぜ統一したのか」というテーマで記事にしたいと思います。

正確には、「なぜドイツは統一の必要性にかられたのか」というテーマです。

ドイツ統一は「ドイツ帝国」の誕生を待つ必要があるのですが、ドイツ帝国はプロイセンのビスマルク主導で行われました。

ドイツ統一は前回の記事で、

前回の記事(第387回の記事)でドイツが「フランス二月革命」の影響を受けて「民族統一の風潮が生まれた」と記しましたが、二月革命が起きる以前より、イギリスに端を発した「産業革命」がドイツにも押し寄せており、特に資本家たちの間で「ドイツ」という領土の統一が必要だと考えられるようになっていました。

と記しました。

今回、『オーストリアがプロセインに敗北した後の「ドイツ連邦」』の事を調べる中で、ドイツが統一に迫られた理由として、上記内容よりも更に詳細な理由に突き当たりましたので、今回はまずそのことから記事にしたいと思います。


ドイツ関税同盟

ドイツ統一へ向けた動きは、まず「プロイセン」からスタートします。

ウィーン議定書 によって、プロイセンは「ラインラント」という地域を手にしました。

【ラインラント】
ラインラント

プロイセンはこちら。
プロイセン

青いエリアが元々のプロイセンで、緑色の領土がウィーン会議によってプロイセン領土となったエリア。

このうち、12番が「ラインラント」です。

ご覧いただくとわかると思うのですが、ウィーン会議によって領土が広がった後の領土はラインラントに対して飛び地になっていることがわかると思います。

この「ラインラント」。「地下資源が豊富でライン川などを利用した物流の要所」であったのだそうです。

プロイセンにとってラインラントは産業を発展させるための肝ともなる領土です。そんな「ラインラント」をせっかく手に入れたわけですが、このように飛び地になっていては、プロイセンとしては非常に便利が悪いわけです。

プロイセン本土とラインラントの間で物流を行う場合、まず障壁となるのは「関税」の問題です。ですので、プロセインの宰相であるビスマルクはまず、他のドイツ各国と「関税協定」を結ぶことを考えました。

プロイセンがまず協定を結んだのは「ヘッセン=ダルムシュタット大公国」

ヘッセン=ダルムシュタット大公国

先ほどのプロイセンの地図ですと5番のエリア。プロイセンはヘッセン=ダルムシュタット大公国との間で「北ドイツ関税同盟」を結成します。(1828年)

ただし、これでもまだプロイセンはラインラントとは飛び地になっています。

ですが、プロイセンのこの動きは、ドイツ連邦南部のバイエルン王国とヴュルテンベルク王国にプロイセンに経済的な主導権を握られることを恐れを抱かせ、両国はこれに対抗して「南ドイツ関税同盟」を結成します。

バイエルンが3番、ヴュルテンベルクが17番です。

更に13番のザクセンと4番のハノーファーは「中部ドイツ通商同盟」を結成。この中部ドイツ通商同盟にはザクセンとハノーファー以外にも参加し、ザクセン・ハノーファーを併せて合計で17の国や地域が参加しました。

このことで、同じドイツの中に3つの経済圏が成立し、ドイツ連邦内での物流が滞ってしまう状況が起こりました。そして、ドイツ連邦内の資本家たちは、「このままではドイツが産業革命の流れから取り残されてしまう」と考えたわけですね。

この状況を打開するため、プロイセンは関税同盟を結成していた他の連邦内の国家との間で交渉を行い、3つの経済圏を統合し、「ドイツ関税同盟」を結成したわけです。


プロイセンを中心として結成された「北ドイツ関税同盟」はまず「南ドイツ連邦」との間で交渉に臨み、1829年、南ドイツ連邦との間で「通商条約」を成立させます。

更に1831年、ヘッセン=カッセル選帝侯国を北ドイツ関税同盟へと引き込みます。プロイセンの地図で言えば6番のエリアです。

このことで、プロイセンはラインラントとの間で陸続きとなり、「中部ドイツ通商同盟」は切り崩されることになります。

また更に1833年には13番の「ザクセン」、更に13番、6番、3番に囲まれた「テューリゲン諸邦」が組み入れられ、「中部ドイツ通商同盟」は崩壊。

こうして南北のドイツ関税同盟は統合され、1834年1月1日に「ドイツ関税同盟」が成立します。

ドイツ関税同盟の成立後、1935年にはバーデン・ナッサウ(詳細な位置はよくわかりません)、1836年にフランクフルト(5番の中にある都市国家)が加盟します。

そして、このような状況の中でフランス二月革命の影響を受けて起きたのが「ウィーン三月革命」です。

オーストリアV.S.プロイセン

さて。この「ドイツ関税同盟」に含まれていない地域がありますね?

それが「ドイツ連邦」の中で異質な状態にある「オーストリア帝国」です。

要は、オーストリアはプロイセン主導でスタートした「ドイツ関税同盟」の流れに乗り遅れたわけです。

三月革命は民衆が中心となって起こした革命ですが、同年(1848年5月)に開催された「フランクフルト国民会議」では、この王なプロイセンが中心となって結成した「ドイツ関税同盟」の発想が根底にありました。

ドイツ関税同盟の結成によって「ドイツ」統一の必要性をドイツ民衆が感じるようになったわけで、フランクフルト国民会議は「ドイツ人あるいは、ドイツ系の居住地を含めた統一国家の建設」を議論するために集められたものでした。

ですが、この中で「オーストリア」は自国の中で「スラブ人(チェコ人)」や「マジャール人(ハンガリー人)」を抱える国家です。

特に三月革命の影響を受け、オーストリア内では「マジャール人」がハンガリーの独立を目指した「ハンガリー独立運動」をスラブ人が「チェコ(ベーメン)」の独立を目指した独立運動を、また北イタリアも同領土に抱えていたため、北イタリアでも武装蜂起が起きるなどしており、「ドイツ統一国家」へ参加することは、このような独立運動を更に活性化させる要素を含んでいたわけです。

このような事情から、オーストリアにとって、「統一ドイツ」に参加することはあり得ない選択肢でした。ですが、統一ドイツへの参加を拒否するということは、オーストリアを除くドイツ連邦での「統一ドイツ」の結成を意味します。

このようなオーストリアが抱える「ジレンマ」はドイツ関税同盟に対しても姿を現します。


民衆は「統一ドイツ」の結成を望むわけですが、連邦に所属しているオーストリアの事情でこれがかなわないことから、プロイセンはオーストリアを除いた形でのドイツ統一を目指すようになります。

第387回の記事 にも同様の内容を記していますが、同記事で、

プロイセンはドイツ北部の「ハノーファー王国」や「ザクセン王国」との間で同盟関係を築くことに成功します。

ところが、このことに対して今度はドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ、動揺した「ハノーファー王国」と「ザクセン王国」はプロイセンから距離を置く姿勢を見せます。

このことで、プロイセンはドイツ連邦内で孤立することになってしまったんですね。

と記しました。「ドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ」たと記していますが、この時の「オーストリアの姿勢」とは、オーストリアがプロイセンの動きに対して示した「見解」に対するものです。


記事が少し長くなりましたので、今回はここで終了し、記事内容は次回へとゆだねたいと思います。

次回記事では、「ドイツ統一」への動きへ向けたオーストリアとプロイセンとの駆け引きを巡る記事を作成したいと思います。





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<継承する記事>第387回 ドイツ連邦結成と普墺戦争/普墺戦争はなぜ起きたのか(前編)

前回の記事では、フランス二月革命の影響を受けてオーストリアで勃発した「ウィーン三月革命」と、その後プロイセン、オーストリア、ロシアの3国の間で改めて「ドイツ連邦」の存続が再確認がなされた「オルミュッツ協定」。

そしてオルミュッツ協定が確認される過程において明らかとなった「プロイセン」の思惑。その結果プロセインが孤立することになった、その経緯まで記事にしました。


シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争

そして、そんな中勃発したのが前回の記事の最後でお示しした「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」です。

「シュレースヴィヒ」と「ホルシュタイン」は共に国(公国)の名前で、共にデンマーク王国の支配下にありました。

Wikiの地図は少し見にくいので、今回は世界の国々 というサイトから地図を持ってきてみます。

欧州地図

地図の上側、「スウェーデン」や「ノルウェー」の位置する半島が「スカンジナビア半島」。

スカンジナビア半島の真南にあるのが「デンマーク」です。

デンマークだけ拡大してみます。

デンマーク

地図の内、白抜きの部分が現在の「デンマーク」です。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン

また更にわかりにくいと思うんですが、こちらが当時の「デンマーク王国」。

地図の色が上部の薄紫色、その下がえんじ色、そしてえんじ色のエリアの下に若干色が変わって赤いエリアがあると思います。

ここが「シュレースヴィヒ公国」の領土、その下のオレンジと黄色のエリアが「ホルシュタイン公国」です。

デンマークの歴史までわざわざ説明するととても分かりにくくなりますので、簡単に言いますと、この「シュレースヴィヒ公国」と「ホルシュタイン公国」の「公爵」の立場にあったのが当時のデンマーク王の家計であった、ということだと思われます。

なので、デンマーク王が両公国の領有権を主張していたのに対し、両国に住んでいた人たちの中には「ドイツ語を話す人」すなわち、「ドイツ人」が多く居住しており、特に「ホルシュタイン公国」はウィーン会議によって「ドイツ連邦」に参加していましたので、公国の住民とデンマークとの間で対立が起きたわけですね。


前回の記事 でドイツが「フランス二月革命」の影響を受けて「民族統一の風潮が生まれた」と記しましたが、二月革命が起きる以前より、イギリスに端を発した「産業革命」がドイツにも押し寄せており、特に資本家たちの間で「ドイツ」という領土の統一が必要だと考えられるようになっていました。

二月革命はこれに「火をつけた」というところだと思います。同じ「ドイツ」の中で複数の国々がバラバラに領土争いを繰り広げていたのでは、産業革命の波に乗り遅れる、という危惧を資本家たちは持っていたようです。

前回の記事 で掲載した「フランクフルト国民会議」は、そんな風潮の中で巻き起こったものです。

このようなドイツ統一に向けた動きが、デンマークの支配を受ける形にあった、特に「ホルシュタイン公国」のドイツ人たちの「ナショナリズム」に火をつけることとなりました。

第388回の記事 でお示ししました様に、「ホルシュタイン公国」では、「国家を統治する家系」と「統治される民族」とがバラバラだった・・・ということですね。


ドイツ統一問題と汎スカンディナヴィア主義

北欧では、南に対峙する「ドイツ」の民族問題と共に、東に対峙する「ロシア」との間でも民族問題を抱える状態にあり、北欧がこれに一致して対抗する必要性に追われていました。

元々デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧三カ国の間で文化活動の一環として行われていた文化交流を起源とする「汎スカンジナビア主義」を、スウェーデン・ノルウェーの王であるオスカル1世が盟主となって牽引し、これにデンマーク王も賛同し、北欧三国が一体となってオスカル1世の政策を実行することとなりました。

そして、この「汎スカンジナビア主義」の考え方の中では、シュレースヴィヒとホルシュタインは一体であると考えられていて、ホルシュタインだけをデンマークから分離させるつもりはなかったわけです。

そんな中、「ホルシュタイン」をプロイセンが支援し、「シュレースヴィヒ」をデンマークが支援する形で始まったのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」です。


この記事ではデンマークの事情を掘り下げることは目的としていませんから、改めて部隊をドイツへと戻します。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発したとき、プロイセンで宰相を務めていたのが「オットー・フォン・ビスマルク」という人物。

ビスマルク

鉄血宰相ビスマルク。確かに高校時代の世界史でも習った記憶があります。ですが、あの当時はこのような背景が全く理解できませんでした。ドイツに「ビスマルク」という偉い人がいた・・・というような認識ですね。「プロイセン」だとか「バイエルン」だとか「オーストリア」だとか、そんなことは全く理解できていませんでしたね、あの当時。

プロイセンのオーストリアに対する対立構造が明確となったのは、彼の登場によるものが大きかった様です。

そして、そんなビスマルクが「ホルシュタイン」を支援する形で始まったのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」。

戦争は第一次、第二次と行われ、「ドイツ民族を統一する」という意識がまだ薄かった当時に行われた第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではプロイセンはデンマークに敗北するわけですが、引き続いて行われた第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、プロイセンはオーストリアを味方につけ、デンマークを撃破します。

そして、この時にシュレースヴィヒ、ホルシュタインの両公国をの支配権をデンマークから獲得し、シュレースヴィヒはプロイセン、ホルシュタインはオーストリアが管理することなりました。

そして、1864年6月7日、オーストリアが管轄するホルシュタインに、プロセイン軍が侵入したことからオーストリアが激怒し、勃発したのが「普墺戦争」です。


ただ、このあたりの経緯としてプロイセンとオーストリアは共同してデンマーク戦に当たったわけで、たとえプロセイン軍がオーストリアが管轄する地域に軍をすすめたからと言って、だから開戦となった・・・という流れにはいささか疑問が残ります。

ということで調べてみますと、

ルドルフ・フォン・イェーリング「友人書簡集」 を編纂した文書に、その経緯がしるされていました。

ルドルフ・フォン・イェーリング、というのはビスマルクの友人で、リンク先の文書はイェーリングの娘が編集したイェーリングの「友人書簡集」。これを訳者である平田公男氏が抜粋し、訳者自身の注釈も加えたものです。

この中から、普墺開戦に至った経緯について記された「訳者注釈」部分を抜粋します。

そのような時に、チャンスが訪れたのである。すなわち、一八六六年一月ホルシュタインのアルトナで、オーストリアとプロイセンの分割統治に反対するアウグステンブルク派の「革命的な政治集会」が開催された。

このような集会を一許可したのは、分割統治を定めたガスタイン条約に「違反」していると、プロイセンはオーストリアを激しく責め立て、ホルシユタインの統治権をプロイセンに譲渡するよう、オーストリアに迫ったのである。

それを認めないオーストリアに対して、二月二八日の御前会議でピスマルクやモルトケは「開戦やむなし」と主張した。

つまり、オーストリアが管理するホルシュタインでオーストリアとプロイセンの分割統治に反対する集会が開催されたことを、ビスマルクは「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン領」の分割統治を普墺間で取り決めた「ガスタイン条約」に違反しているとし、一方的にホルシュタインの統治権をプロセインに譲渡するようオーストリアに対して迫った、ということです。

そしてこれが1866年2月28日の事。同年6月1日、プロセインがホルシュタインに軍隊を侵入させたことを受け、オーストリアはドイツ連邦の議会において「連邦軍」を動員させる決議を行ったわけです。

資料によりますと、実際に戦闘になっているのはプロセイン対オーストリアではなく、オーストリア戦以前にハノーファー、ヘッセン=カッセル、バイエルンを撃破したとありますから、つまり「普墺戦争」はオーストリアがプロセインに対して起こしたものではなく、プロセインがオーストリアと戦争することを目的として、一方的に進軍させた結果の戦争であることがわかりますね。

延いては、そもそもプロセインが対デンマーク戦にオーストリアを参戦させた時点からこの結果を想定していたのではないか、とも考えられるわけです。

普墺戦争では結果、ビスマルク率いるプロイセンが勝利し、オーストリアは敗北することになります。


次回記事では、オーストリアがプロセインに敗北した後の「ドイツ連邦」を記事にしてみたいと思います。


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この記事のカテゴリー >>なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか


現在、シリーズとしてはナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? の途中なんですが、前回の記事を作成する中で私自身が気付かされた一つの「事実」。

これって、私が今まで全く意識してこなかった考え方でもありますので、このことを今回は「番外編」として、親シリーズである なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか に紐づける形で記事を作成してみます。

その「考え方」とは何なのか。タイトルにも掲載している通り、「ナショナリズム」という言葉についての考え方です。

「ナショナリズム」というより、ナショナリズムの日本語訳である「民族主義」という言葉についての記事になります。

難しい・・・と感じても、良ければ頑張ってついてきていただけると嬉しいです。


第387回の記事 を作成している途中で、私、実はものすごい違和感に襲われました。

流れ的に、

フランス革命戦争の勃発→ナポレオン戦争への転換→ライン同盟の結成→ナポレオン戦争の経過→ライン同盟の崩壊とドイツ連邦の結成→ドイツ連邦の崩壊

へと単純に進んでいく予定でした。で、ドイツ連邦が崩壊した理由に、どうも「普墺戦争」というキーワードが関係がありそうだ・・・ということで、この「普墺戦争」というキーワードの調査を行おうとしていたわけですが・・・。

こんな中で登場したのが「民族主義」というキーワードでした。

私が作成しているブログの中で、「民族主義」という言葉が登場するのは、「共産主義」というキーワードの関連付けられている記事です。

余談ですが、遡ってみると、「民族主義」という言葉をこのブログで初めて登場させたのが 第60回の記事

この記事で、第387回の記事 に記したような内容を既に掲載していますね。

ただ、 第60回の記事 では、あたかもナポレオンが欧州全体に「国民主義(民族主義)」を押し広げたかのようにして掲載していますが、第387回の記事 の内容を参考に考えますと、国民主義を広げたのはナポレオンではなく、ナポレオンが姿を消した後のフランスで再び勃発した革命、「フランス二月革命」によって立ち上がったプロレタリアートたちであることがわかります。

話を本筋に戻しますと、私が意図している意味で「民族主義」を用いているのは、シリーズ十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 における、第121回第125回第130回の記事 がまさしくこれに該当すると思います。

特に、第130回の記事 で記しています、

彼が国民党を代表して行った演説の席で、孫文の『三民主義:民族主義(韃虜の駆除・中華の回復)・民権主義(民国の建立)・民生主義(地権の平均)』という演説がソ連から公然と批判されてしまったことで、蒋介石は逆にソ連への不信感と共産党に対しる警戒感を強く抱かせることとなります。

考えてみれば、「民族主義」や「民権主義」という考え方は、所謂「共産主義」とは真っ向から対立する考え方ですもんね。

という言い回しがそうです。

つまり、「民族主義」とはフランス革命を発端として始まった「共産主義」がまさしく否定するもの(共産主義の原理主義的な考え方は、そもそも「国境」そのものを否定しています)であり、貴族や王族に反旗を翻した欧州人は皆、この「民族主義」そのものを否定している、と私自身が思い込んでいたわけです。


日本にとっての民族主義と国家主義

日の丸

例えば、日本で「民族主義」と言いますと、これは即ち「大和民族」の事。大和民族の頂点にいらっしゃるのが天皇陛下です。

ですから、「民族主義」と言えば天皇陛下の下、大和民族が一致団結して国難に臨む・・・といった発想になります。

ですので、少なくとも大和民族である私たちにとって、「民族主義」と「国家主義」、または「愛国心」といったものは同じ意義で受け止めることが出来ます。

この考え方を受け入れられない人たちがいわゆる「グローバリズム」を語ったり、天皇陛下という存在そのものを否定したり、あるいは「日本はアメリカの属国だ」という主張を行って大和民族の「民族性」をのものを否定しているのが現在の日本だと思います。

例えば元々「琉球王国」であった沖縄を日本から切り離し、日本から独立させよう・・・などという考え方を展開する人たちもそうなんだと思います。(その多くが日本人のふりをした中国人だと思いますが)

ですが、これを「ヨーロッパ」に置き換えて考えてみるとどうでしょうか?


欧州における「民族主義」と「国家主義」

日本では、「古事記」や「日本書紀」の時代から脈々と受け継がれている「天皇陛下」の系譜が存在し、陛下が私たちの国、「日本」を統治なされる明確な理由が存在します。(日本国憲法上「統治」なされているわけではありませんが、あくまでも考え方の問題ですので、ご理解ください)

ですが、ヨーロッパという国はどうでしょうか?

例えば、現在のシリーズで解析している、「バイエルン」という国はどうでしょうか?

「バイエルン」という地域に居住する住民は、元々中央アジアからやってきた「ブイイ族」という民族がルーツ(バイエルン人=ブイイ人という意味)となっており、また更に元々ブイイ族であったバイエルン人が現在のバイエルンという土地に移住してきたとき、元々バイエルンに居住していたケルト民族もまた中央アジアから移動してきた民族です。

そんなバイエルンが「フランク人」によって支配され、フランク人カール大帝の命により植民したのが「オーストリア」。

しかしそんなオーストリアもまたバイエルンとともに異民族である「ハプスブルグ家」によって支配され、神聖ローマ帝国が崩壊した後のドイツでは「ナポレオン帝国」によって支配されるわけです。

バイエルンという一地域で考えてもそうなんですから、つまり「欧州人」にとっての「民族主義」は、必ずしも「国家主義」とは一致しませんし、民族主義と「愛国心」もまた一致しないわけです。

欧州では、「民族」と「国家」とは全く別物だということですね。

第387回の記事 で、私は

「ウィーン会議」で取り決められたヨーロッパの「ウィーン体制」とは、「フランス革命以前の状態」にヨーロッパを戻すことにあり、自由主義・国民主義運動を抑圧することにありました。

日本にいると違和感を覚えますが、この当時のヨーロッパでは、「支配する側(国王・皇帝)」は必ずしも支配する民族を代表する人物ではありませんでしたから、「国民主義運動」の弾圧とは、異民族である国王に対する抵抗勢力を抑圧する効果があった、ということですね。

と記しました。

あくまでも「国民主義運動」であり、「国民主権運動」ではありません。「国民主義運動」=「民族主義運動」の事です。

同じ「民族主義」でも、神聖ローマ帝国の前身である東フランクは、「フランク王国」の時代に「西フランク王国」や「中フランク王国」と違い、そもそも「統治者」と「国民」が一致していませんでした(東フランク王国はフランク王国が領土を拡大した地域)から、西フランク王国から発展した「フランス」や「中フランク王国」から発展した「イタリア」とはまた事情が異なっていたことも想像されますね。

フランスは「フランク人」の国家ですが、ドイツは「多民族国家」です。しかもドイツ連邦は「国家」ですらありません。「ドイツ人」という概念にそもそも無理があります。


中国における「民族主義」

ここにはあえて「国家主義」という言葉は含めていません。

中国で「民族主義」を提唱したのは孫文です。

孫文が初代大統領となった「中華民国」は、「中華民国」として成立する以前は「清国」。異民族である満州人による「征服王朝」でした。

アヘン戦争によって開国させられる以前の中国は、対外的に「鎖国」していましたから、国境が複雑に変化する欧州とは異なり、少なくとも「中国大陸」という広い意味での領土の中での「民族意識」は非常に高かったのではないかと考えられます。

古くは「秦」という国に始まり、閉ざされた「中国」というエリアの中で陣取り合戦を繰り広げていた国が「中国」ですから、中国人の中でもやはり日本人と同じように、「民族」と「国家」の一致性は非常に大きいと思います。

清国末期以降の中国は、結局「国家」についての考え方が違う欧州勢が、元々一つのまとまった地域であったはずの「中国」をバラバラにしてしまった結果、生まれてしまったものだと考えることもできるのではないでしょうか?

それと、もう一つ感じるのは、欧州という地域を席巻したのは、元から欧州に居住していた人たちではなく、中央アジアから欧州に攻め込んだ、そもそも「国境」という概念を持たない中央アジアの騎馬民族たちだということ。


「ナショナリズム」の意味

「ナショナリズム」=「民族主義」という考え方は、第387回の記事 で記した通り、「フランス二月革命」を皮切りとして欧州全体に広がっていきました。

ですが、同じ「ナショナリズム」でも、これが日本語に訳される際は「国家主義」や「国粋主義」と訳されることもあるわけです。

しかし、今回の記事でも記しました様に、逆に日本語である「国家主義」や「国粋主義」を欧州人が自国語に訳そうとしたとき、決して「ナショナリズム」とは訳さないはずです。

第267回の記事 の中で、日本の対米開戦に至る経緯の中で、1941年6月21日にコーデルハルとの間でやり取りをされた米国側の「対案」に関して、これに添えられていた「オーラルステートメント」の一文として、ハルが欧州戦争への「参戦」を「自衛のための参戦である」と述べていることをご紹介しました。

日本側とすれば、あくまでも「日本」は「日本人の居住する『国家』」(日韓併合下にありましたから、朝鮮人も『国民』と考えていました)ですからにすぎません。

ですから日本は華北や満州、内モンゴルをいったんは占領しておきながら、その後は統治権を地元人に任せ、軍隊こそ駐留させるものの、それらの地域を「日本領である」とはしなかったわけです。

ですが、欧州勢はどうでしょうか?

米国にしても、イギリスにしても、フランスにしても、オランダにしても、そしてドイツやロシアにしても、「領土拡大」にまい進している様子が見えてこないでしょうか?

彼らにとって、「自分たちが支配下に置いている地域」こそ「国家」であり、「国家」と「民族」は必ずしも一致しない・・・という考え方が根本にあったのではないでしょうか?

ですから、アメリカにとってたかがフィリピンにおける自国の「権益」を守るための参戦を、「自衛のための参戦」であると表現したのではないか・・・と考えると・・・。

満州戦にしても、華北戦にしても、上海・南京戦にしても、そもそも日本がこの様な戦闘を行ったのは、現地の邦人や日本企業が安心して居住し、商売を行うことが出来るようになることを目的としたものです。

ですが、欧米各国は、「自国領土を拡大するため」に東南アジアや中国、アフリカに対する植民地政策を繰り広げました。

ロシアは満州や内モンゴルに対して領土を拡大しようとしましたが、日本はロシアに対して満州や内モンゴルに領土を拡大させないための「緩衝地域」を築くことに専念していました。

九カ国条約が締結されたとき、欧米は日本に対して、「中国の内政に干渉しないこと」を約束させました。

ですが、実際には中国の内政に干渉していたのは日本ではなく欧米各国。日本はあくまで「自国を守るために必要な措置」を取っていたにすぎません。

彼の大戦は、ひょっとするとこのような日本と欧米間での「国家」に対する認識の違いが生んだ悲劇だったのではないか・・・と思えてきました。

このことも含めて次回以降の記事では検証していきたいと思います。



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