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<継承する記事>第386回 ライン同盟はなぜ崩壊したのか/ナポレオン戦争とドイツ連邦

前回の記事では、ナポレオン戦争の経過を経て行われた「ウィーン会議」。結果誕生した「ドイツ連邦」。

そしてドイツ連邦結成の過程で対立関係にあったオーストリアとバイエルンが和解し、オーストリア皇帝とバイエルン国王の娘が婚姻関係を結んだことまでを記事にしました。

オーストリアは元々バイエルン人であるヴィルヘルム家が拓いた地域地域なのですが、ヴィルヘルム家が断絶したのち、オーストリアを支配下に置いたボヘミア王オタカル2世を神聖ローマ帝国皇帝であったルドルフ1世(ハプスブルグ家)が撃破し、ボヘミアよりオーストリアを没収したところからオーストリアのハプスブルグ家による支配がはじまります。

ハプスブルグ家は元々現在のスイス地域を出自とするドイツ人ではありますが、バイエルン人ではありません。ですが、オーストリアに居住する住民は大半がバイエルン人ですから、支配層が和議さえ図れば、国民同士の親和はそう難しいものではないのではないかと思います。

ところが、ドイツ連邦にはもう一カ国、バイエルンとは元々異なる民族によって構成されている「プロイセン」という国が含まれています。

また、そもそも「ウィーン会議」自体が参加国間の利害が対立し、全く先に進まなかった会議で、ナポレオンが追放先であるエルバ島を脱出した、という噂が持ち上がったため、慌てて結論が形成された「妥協の産物」です。

そんな中で生まれた「ドイツ会議」が果たして本当にうまくいくのか。これを突き止めるのが今回の記事を作成する最大の目的です。


「ドイツ連邦」の崩壊と「普墺戦争」

サブタイトルが既にネタバレの様になっていますが、「ドイツ連邦」がいつまで続いたのかと申しますと、発足した1815年から1866年におきた「普墺戦争」。結果、プロイセン王国が勝利し、ドイツ連邦は解消されることとなりました。


普墺戦争はなぜ起きたのか?

ドイツ連邦

こちらが当時の「ドイツ連邦」の地図。赤いラインで囲まれた地域です。

ドイツ&オーストリア

中央の空色の部分が「バイエルン」で、その南端が現在のドイツの最南端ですから、当時の「オーストリア」という国の領土の広さがよくわかると思います。

現在の「チェコ」も当時のオーストリアの領土に含まれていますね。


フランス二月革命の影響

オーストリアとプロイセンが対立するに至る背景として、最初に挙げられるのが「フランス二月革命」の勃発です。

ざっくりとまとめますと、ウィーン体制後にフランス国王として復活したルイ18世。彼がフランス革命が勃発する以前の、聖職者や貴族(アンシャンレジーム で言う第一身分、第二身分)を優遇する政策をとったことで、市民。特にブルジョワジーの不満が蓄積。彼の後を継いだシャルル10世の時代に自由主義者(つまりブルジョワジー)が大きな勢力を持つ議会を解散させ、大幅な選挙戦の縮小を命じる勅令を発したことで、学生、労働者を中心にしたパリの民衆らによる「7月革命」が勃発します。(1830年7月)

ギロチンを恐れたシャルル10世は退位し、代わって国民の声に押される形でルイ・フィリップが国王として擁立され、首相にラファイエット将軍が立つ「立憲民主制」へとフランスは移行します。

ところが、擁立されたルイ・フィリップですが、彼が代表したのは「ブルジョワ」の声。「ブルジョワ」、つまり資産階級の事です。

そして、彼が選挙権を拡大したのは銀行家などのいわゆる「資産階級」に対して選挙権を拡大したため、革命を起こす中心となったプロレタリアート(労働者階級)の不満が鬱積し、1848年2月に勃発したのが「二月革命」です。

二月革命は普通選挙制度を求めた労働者たちが起こしたもので、ルイ・フィリップはイギリスへ逃亡し、7月革命によって誕生した「7月王政」は崩壊。フランスは再び共和政へと移行します。


そもそも、「ウィーン会議」で取り決められたヨーロッパの「ウィーン体制」とは、「フランス革命以前の状態」にヨーロッパを戻すことにあり、自由主義・国民主義運動を抑圧することにありました。

日本にいると違和感を覚えますが、この当時のヨーロッパでは、「支配する側(国王・皇帝)」は必ずしも支配する民族を代表する人物ではありませんでしたから、「国民主義運動」の弾圧とは、異民族である国王に対する抵抗勢力を抑圧する効果があった、ということですね。

ですが、フランスで二月革命が成功したことから、オーストリアにもまたその影響が及ぶこととなりました。

オーストリア国民が、宰相であるメッテルニヒに対して、「通商の自由、出版の自由、言論の自由など、比較的緩やかな自由主義的改革要求」などの請願がなされ、ウィーン市内でも学生らによる暴動が拡大することとなりました。(ウィーン三月革命:1848年3月13日)


「オルミュッツ協定」によるプロイセンの孤立

度重なる暴動に対し、メッテルニヒの追放、皇帝の避難や逃亡など、皇帝によるウィーンを支配する体制が揺るがされる状況が繰り返し続きましたが、最終的に革命軍や反乱軍を鎮圧し、一時は存続が危ぶまれたドイツ連邦も、1850年にプロイセン、オーストリア、ロシアの三国間で結ばれた「オルミュッツ協定」によってふたたびその存続が確認されました。

この間にオーストリア皇帝はフェルディナント1世からフランツ・ヨーゼフ1世へと譲位されています。

フランス二月革命の影響を受けて、ドイツでもまたドイツ民族による「民族統一」の風潮が生まれ、「オルミュッツ協定」が確認される前、1848年から1849年にかけてフランクフルトでは選挙によってえらばれたドイツ連邦の成人男性によって「フランクフルト国民議会」が開催されました。

この国民会議ではドイツ連邦で憲法を制定し、自由主義的なドイツ統一を図ることが目的とされましたが、結果的にはオーストリアやプロイセンなどの支持を得られず、とん挫することになりました。

この時、オーストリアがフランクフルト国民会議に対して敵対する姿勢を見せたのは、オーストリアにはバイエルン人を始めとするドイツ人以外にも、「スラブ人(つまりはチェコ人の事ですね)」や「マジャール人(つまりハンガリー人の事です)」を支配下に抱えており、つまりドイツ人による統一国家の建設が前向きに進むこととなると、オーストリアはその枠から外されてしまうことになりかねません。

オーストリアはこのことを恐れたんですね。

一方のプロイセンは、ウィーン会議によって築かれた「ドイツ連邦」が「オーストリア帝国を盟主として」築かれたものでしたから、1848年革命によるドイツ連邦の動揺は、自国が主導権を発揮して「ドイツ民族」を結集し、ドイツ統一国家を築くための足掛かりになる、と考えました。

このことから、プロイセンはドイツ北部の「ハノーファー王国」や「ザクセン王国」との間で同盟関係を築くことに成功します。

ところが、このことに対して今度はドイツ南部の「バイエルン王国」や「ヴュルテンベルク王国」がオーストリアを支持する姿勢を見せ、動揺した「ハノーファー王国」と「ザクセン王国」はプロイセンから距離を置く姿勢を見せます。

このことで、プロイセンはドイツ連邦内で孤立することになってしまったんですね。

一方ウィーン会議後に結成された「神聖同盟(露・墺・普、後にイギリス国王、ローマ教皇、オスマン帝国を除くすべての欧州君主国が参加)」では、大国であったロシアがオーストリアを支持する姿勢を示し、ここでもプロイセンは孤立することになります。


プロイセン・オーストリアと「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」

そして、そんな中で勃発したのが「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」。当時、デンマーク王国が継承権を有していた「シュレースヴィヒ公国」と「ホルシュタイン公国」のデンマークからの独立をめぐる争いです。

この戦争のお話、少し長くなりそうなので、今回の記事はここまでとし、次回記事へ託したいと思います。



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<継承する記事>第383回 中世におけるバイエルン/バイエルン王国の誕生とライン同盟

前回の記事では、ナポレオン戦争の勃発と第三次対仏大同盟戦争。

第三次対仏大同盟戦争が勃発したとき、ナポレオンと同盟関係にあったバイエルンが、第三次対仏大同盟戦争に於いてナポレオン軍に敗北したオーストリア帝国が、ナポレオンと締結した「プレスブルクの和約」によって選帝侯領から王国に昇格する過程。

その結果を受けて神聖ローマ帝国内で開催された「帝国代表者会議主要決議」において戦争から生き残った小国の多くが領土を拡大し、大国であるプロイセンやオーストリアとも対抗できる実力をつけてしまったこと。

その結果、「中規模領邦」となった多くの国々が連携してプロイセンやオーストリアに対抗する存在となり、神聖ローマ帝国が形骸化してしまった様子を記事にしました。

その後「中規模領邦」がナポレオンの後押しを受ける形で結成されたのが「ライン同盟」です。


今回の記事では、フランスと同盟関係にあったライン同盟が、いったいどのような経緯でフランスと離反し、ナポレオンが敗戦を喫するに至ったのか。更にライン同盟が解消され、その後「ドイツ連邦」が結成されるに至った経緯を記事にしたいと思います。


ライン同盟とナポレオン戦争

ナポレオン戦争が勃発したのが1803年。ライン同盟が結成されたのが1806年ですから、ライン同盟はナポレオン戦争の最中に結成されたことがわかります。

で、ライン同盟に参加しているドイツ諸侯とナポレオンとは同盟関係にあるわけですが、ではこの間ライン同盟に参加しなかった「プロイセン」と「オーストリア」はどのような歴史を刻んだのでしょうか。


プロイセン対ナポレオン帝国


プロイセン国旗

ライン同盟が結成された当時、プロイセンはナポレオン軍に対して中立的な立場を取っていました。

ですが、ナポレオンの後押しを受けて、ドイツ中腹に「ライン同盟」が結成されたことを受け、プロイセンは、

・ロシア帝国
・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)
・ザクセン王国
・スウェーデン王国

との間で「第四次対仏大同盟」を結成し、フランスに宣戦布告を行います。

結果的にプロイセンはフランスに敗北し、1807年7月7日-9日、ロシアとともにフランスとの間で「ティルジットの和約」という講和条約を結び、両国は第四次対仏大同盟から離脱。結果的に「第四次対仏大同盟」は崩壊します。

プロイセンはフランスに対してプロイセン西部を割譲させられ、ナポレオンはこの地域に「ヴェストファーレン王国」を設立。自分の弟をこの国の国王に据えます。

また、「ティルジットの和約」において、「ポーランド分割」により領土を失っていたポーランドが、「ワルシャワ公国」として復活します。「ポーランド分割」に関しては 第296回 ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)/ウクライナ人の誕生 をご参照ください。

改めて振り返ってみますと、「ポーランド」を分割したのは1795年、「プロイセン」、「オーストリア」、そして「ロシア」の間で分割されたんですね。

「ロシア帝国」が誕生したのも1721年10月22日の事ですから、この当時であったことがわかります。

また一つネックとなるのは、プロイセンとの戦いにおいて、ナポレオン軍がベルリンにおいて「大陸封鎖令」を発令したこと。

この当時、いわゆる「産業革命」によってイギリスが工業発展を遂げている最中でした。ナポレオンは、この「イギリス」と自分が支配するヨーロッパ各地との間での貿易を禁止したんですね。

ナポレオンとするとイギリスを経済的に孤立させることを目的としていたのですが、このことが却って「ナポレオン帝国」の国民たちを物資不足に陥らせ、疲弊させてしまうことになります。


オーストリア対ナポレオン帝国

オーストリア帝国国旗

プロイセンとの戦いの後ナポレオンは、今度はスペインの国内で起きていた内部抗争に介入します。

スペイン国内で対立する構造にあった国王カルロス4世とその子フェルナンド7世を共に幽閉し、自分の兄をスペイン王として擁立します。

このことにスペイン国民が反発し、武装蜂起が勃発します。

これにイギリスがスペインを支援する形で参戦し、スペインを舞台にナポレオン軍とイギリス軍は交戦状態に陥ります。

ナポレオン軍はイギリス軍をいったんは打ち破るわけですが、その後もスペイン国民が繰り広げるゲリラ戦に苦しめられ、フランス軍はスペインに張り付け状態となってしまいます。

この様子を見たオーストリア帝国は、イギリスとの間で1809年4月9日、「第五次対仏大同盟」を結成します。

オーストリアは 前回の記事 でもお示ししました様に、「第三次対仏大同盟戦争」に敗北し、1805年12月4日、同戦争の講和条約である「プレスブルクの和約」をフランスとの間で締結し、フランスとの間では和解した状態にありました。

スペイン戦においてナポレオン軍が苦戦しているとみて、講和条約を破り、再び交戦状態に入ったわけですね。

ところが、オーストリア軍はこの戦いにおいてもナポレオン軍に敗北します。オーストリアはナポレオン帝国との間で「シェーンブルンの和約」(1809年10月14日)を締結し、領土を割譲させられることになります。

1811年3月20日にはオーストリア皇女との間で生まれた自身の子がローマ教皇になるなど、ナポレオン帝国はまさしく絶頂の一時代を築きます。


ロシア遠征と第六次対仏大同盟

ナポレオンの嫡男であるナポレオン2世がローマ教皇となった年、大陸封鎖令の影響を受けて経済的に困窮したロシアはイギリスとの間で貿易を再開させます。

これを見てナポレオンはロシアへの遠征を決意します。

ナポレオンにとって失敗だったのはこの「ロシア遠征」。ロシアがとった作戦は、まるで戦国時代の中国を彷彿させます。軍閥時代以降、対日開戦後の中国も同じような手段を用いていましたね。

ロシアがとった戦術は、自国都市の住民をすべて避難させた状態でフランス軍を都市に招き入れ、火を放って食糧や建物を焼失させる「焦土作戦」。ロシアがこの作戦を立て続けに実行したことで、フランス軍は占領したはずの都市なのに、食糧も住居も失われ、撤退を余儀なくされてしまいます。

そして撤退を始めたフランス軍にロシアのコサック騎兵や農民が襲い掛かり、更にロシアの寒波にも見舞われて、37万が死亡、20万人が捕虜となったのだそうです。

60万も派遣された軍隊が、最終的にはたった5000人しか生き残ることが出来なかったのだそうです。

このことが、ナポレオン軍にとっては完全な「転換点」となってしまいました。

ロシア遠征

ナポレオン軍のロシア遠征を受けて、ロシアとイギリスは「第六次対仏大同盟」を結成。1213年にはこれにプロイセンが参入。7月にはスウェーデンが、8月にはついにオーストリアが、そして10月にはフランスにとって長年の同盟関係にあった「バイエルン王国」までもが離反し、第六次対仏大同盟に参加しました。

このことで、ついに「ドイツ」はフランスの支配から「解放」されることとなりました。

最終的にナポレオンが敗北し、離島に追放された後、フランスには亡命していたブルボン家のルイ18世が即位し「王政復古」がなされました。


ウィーン会議とドイツ連邦

ナポレオン戦争の終結後、オーストリアの首都である「ウィーン」において開催されたのが「ウィーン会議」。

ナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパをどのようにして回復していくのか、これを決めるために行われた会議だったのですが、参加各国の利害が一致せず、議会内容は一向に進展しなかったのだそうです。このことから生まれた言葉が「議会は躍る。されど進まず」という言葉です。

会議の結果、ドイツには「オーストリア帝国」を盟主とする「ドイツ連邦」が成立しました。

ドイツ連邦の加盟国を見てみますと、

・オーストリア帝国
・プロイセン王国
・ザクセン王国
・バイエルン王国
・ハノーファー王国
・ヴュルテンベルク王国

のほか、合計で39の国や地域が参加したのだそうですよ。

ただし、世界の窓 によりますと、

そもそもハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主同盟に近いのである。

と記されているように、「ドイツ連邦」はあくまでも数多くの主権を持った国が集まってできた「連邦」にすぎません。

例えば、ウィーン会議の決定事項には、同じ「ドイツ連邦」の加盟国であるはずの「プロイセン」に関する記述が別にあり、

・ザクセン王国の北半分、ラインラント、旧ルクセンブルク公領の一部、オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得する。
・ワルシャワ公国の一部をポズナン大公国プロイセン王が大公を兼ねる。
・スウェーデンから西ポンメルンを獲得する。

と記されています。

またオーストリアについても

イタリア北部のロンバルディアと旧ヴェネツィア共和国領を獲得、オーストリア皇帝が王を兼ねるロンバルド=ヴェネト王国とする

との記述があり、プロイセンやオーストリアはドイツ連邦以外にも領土を有していることがわかります。

何より、同じ加盟国の中に「プロイセン」と「オーストリア」という二大強国が同時に含まれている体制。果たしてこのままうまくいくのでしょうか?

一方、「バイエルン王国」は元々オーストリアと対立関係にあったことから、ウィーン会議でも調整がうまくいかず、バイエルンとオーストリアはウィーン会議後、個別に交渉しました。

「ドイツ連邦」が結成されたのは1814年の事ですが、バイエルンの加盟は1年伸びて1815年。更にバイエルンの領土が確定したのはその翌年、1816年の事だったのだそうです。

両国はオーストリア皇后マリア・ルドヴィカの死をきっかけにこれまでの対立関係を解消し、1816年4月、「ミュンヘン条約」を締結します。

11月にはオーストリア皇帝フランツ1世とバイエルン王であるマクシミリアン1世の娘カロリーネ・アウグステが結婚します。


さて。次回記事では改めて、「ドイツ連邦」結成後のドイツについて更に深めてみてみたいと思います。



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<継承する記事>
第384回 平成29年(2017年)度11月度消費者物価指数が公表されました。

前回の記事に引き続き、今回の記事では2017年11月度消費者物価指数の内、上昇している費目について記事にしてみたいと思います。


おさらい

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
食料 ウェイト:2623
△0.1(△1.3)

 生鮮食品 ウェイト:414
 △6.1(△12.1)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 1.1(1.0)

住居 ウェイト:2087
△0.1(△0.1)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
  0.2(0.2)

光熱・水道 ウェイト:745
5.9(6.2)

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.5(△0.3)

被服及び履物 ウェイト:412
△0.3(△0.1)

保健医療 ウェイト:430
1.6(1.6)

交通・通信 ウェイト:1476
0.8(0.6)

教育 ウェイト:316
0.4(0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
0.3(△0.1)

諸雑費 ウェイト:574
0.5(0.2)

ということで、前回記事より、11月度「10大費目別」消費者物価指数のおさらいです。

前回の記事では、11月度の消費者物価指数に対してマイナスに作用している「家具・家事用品」と「被服及び履物」の事を記事にしました。

今回の記事では、同じ10大費目の内、逆に11月度の消費者物価指数にプラスに作用している費目について記事にしたいと思います。

プラスに作用している費目としては、「食料」が生鮮食品を除くと前年同月比1.1%、「住居」が持ち家の帰属家賃を除くと前年同月比0.2%、光熱・水道が5.9%、保険医療が1.6%、交通・通信が0.8%、教育が0.4%、教養娯楽が0.3%、諸雑費が0.5%となっています。

要は「家具・家事用品」と「被服及び履物」以外全ての費目で物価は上昇していますよ、ということです。

ただし、同じ上昇する費目の中でも「光熱・水道」は10月度よりはその上昇幅を縮小させていること、「保健医療」「教育」は横ばいとなっていますので、今回の記事ではこれ以外の費目の中から特に10月度に対しても上昇させる要因となっている「交通・通信」と「教養娯楽」を中心に記事を作成していきたいと思います。


「交通・通信」費は本当に上昇しているのか?

言うまでもありませんが、この「交通・通信」の費目の中には私が重視している「生鮮食品・エネルギーを除く総合」から除外されている「エネルギー」に相当する項目、「ガソリン」が含まれていますので、この章を作成する目的は「ガソリン」を除外しても「交通・通信」の物価は上昇しているのかどうかを確認することになります。

【消費者物価指数(「交通・通信」)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
交通・通信 ウェイト:1476
0.8(0.6)

 交通 ウェイト:224
 0.3(0.1)
 自動車等関係費 ウェイト:836
 2.6(2.2)
 通信 ウェイト:416
 △2.4(△2.5)

相変わらず「通信」の下落幅は大きいですが、これはその大部分が携帯電話の「通信料」に相当するものです。
つまり、主犯は「格安スマホ」ということですね。

ですが、その「通信」費も10月と比較すればわずかですが下落幅を縮小させています。

残る二つの中分類費目である「交通」と「自動車等関係費」。

「交通」はいわゆる公共交通費の事で、ここを引き上げているのは「航空運賃」ですね。航空燃料の変動の影響をうけたものでしょうか?

さて。もう一つの「自動車関係費」ですが、ここに「ガソリン」の物価が含まれています。

「交通・通信」の中でウェイトも836と最も大きく、上げ幅も0.4%ですから、今回の「交通・通信」の物価を引き上げている最も大きな理由となっています。

【消費者物価指数(「自動車等関係費」)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
自動車等関係費 ウェイト:836
2.6(2.2)

 自動車 ウェイト:199
 0.1(0.1)

  軽乗用車 ウェイト:40
  △1.1(△1.1)

  小型乗用車A ウェイト:55
  0.7(0.8)

  小型乗用車B ウェイト:5
  0.7(0.7)

  普通乗用車A ウェイト:80
  0.4(0.4)

  普通乗用車B ウェイト:20
  △0.2(△0.2)

 自転車 ウェイト:9
 2.1(1.8)

  自転車A ウェイト:6
  3.6(3.2)

  自転車B ウェイト:3
  △1.0(△1.1)

 自動車等維持 ウェイト:628
 3.4(2.9)

  ガソリン ウェイト:206
  10.5(9.9)

  自動車タイヤ ウェイト:30
  3.6(3.5)

  自動車バッテリー ウェイト:8
  1.4(△0.9)

  カーナビゲーション ウェイト:21
  7.8(0.0)

  自動車整備費(定期点検) ウェイト:28
  0.0(0.0)

  自動車整備費(パンク修理) ウェイト:22
  0.3(0.3)

  自動車オイル交換料 ウェイト:12
  △0.1(△0.2)

  車庫借料 ウェイト:51
  △0.1(△0.1)

  駐車料金 ウェイト:9
  △0.6(△0.1)

  自動車免許手数料 ウェイト:2
  △0.0(△0.0)
  
  レンタカー料金 ウェイト:5
  0.0(0.0)

  洗車代 ウェイト:2
  1.0(1.0)

  ロードサービス料 ウェイト:3
  0.0(0.0)

  自動車保険料(自賠責) ウェイト:41
  △6.5(△6.5)

  自動車保険料(任意) ウェイト:189
  0.5(0.5)

自動車

想定はしていましたが、「交通・通信」の分野でのまだやはり物価回復の「本調子」というわけではなさそうですね。
「ガソリン」の影響が大きいことは予測通りでした。

それでもその伸び率は10月と比較すると0.9%増とそこまで大きいものではなく、また同時に「カーナビ」の物価上昇も貢献していることがわかりました。

ただ、「物価上昇」を見る上で要としたい「交通・通信」分野の花形である「自動車」も決して悪いわけではありません。傾向として、デフレの象徴ともいえる「軽自動車」の物価が下落し、「小型乗用車」へと移っている様子が見えてきます。

「普通乗用車B(外車)」も物価がは下落していますが、「普通乗用車A(国産車)」は消費増税の行われた2014年度より継続して毎月前年同月比がプラス成長しており、これは「小型自動車A」にも同様の傾向がみられることから、軽自動車を除く国産車に関してはついに「デフレを脱却した」と言える状況に至ったのではないかと思われます。


「教養娯楽」の消費者物価指数

【消費者物価指数(「交通・通信」)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
教養娯楽 ウェイト:989
0.3(△0.1)

 教養娯楽用耐久財 ウェイト:59
 △0.8(△1.1)

 教養娯楽用品 ウェイト:210
 △1.4(△1.3)

 書籍・他の印刷物 ウェイト:128
 1.0(0.4)

 教養娯楽サービス ウェイト:592
 0.9(0.3)

「教養娯楽」を見るときに、私がいつも問題にしている「テレビ」や「パソコン」などはこのうち「教養娯楽用耐久財」に含まれています。

前年同月比としてはマイナスになっていますが、「下落幅の縮小」という点では7月以降5か月間継続して縮小させていることになります。「教養娯楽用耐久財」に関しては、安倍内閣がスタートする以前は二けた。しかも20%を超える下落っぷりでしたから、当時がいかにひどかったのかということがよくわかります。

とはいえ、この傾向が入ったのは何も民主党政権がスタートした後、というわけではありません。

平成4年(1992年)2月~平成25年(2013年)7月まで、なんと21年以上も継続していました。まさしく「デフレの象徴」ですね。

「テレビ」は2016年6月から1年5か月継続しています。ピークが16年9月の-18.6%でした。ここから下落幅を縮小させ、11月は-1.6%まで縮小しました。

パソコンも同様で、ピーク時(デスクトップ型2017年2月:-8.4%/ノート型2017年3月-11.0%)からデスクトップ型が-1.3%、ノート型が-1.2%まで縮小しました。


さて。しかし、です。「教養娯楽」の中でこれを上昇させる要因となっている最大の費目は「教養娯楽サービス」。ウェイトも592、上昇幅も10月と比較して0.6%の改善となっています。

【消費者物価指数(「教養娯楽サービス」)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
教養娯楽サービス ウェイト:592
0.9(0.3)

 宿泊料 ウェイト:113
 1.5(1.0)

  宿泊料 ウェイト:113
  1.5(1.0)

 パック旅行費 ウェイト:42
 3.6(△2.9)

  外国パック旅行費 ウェイト:42
  3.6(△2.9)

 月謝類 ウェイト:103
 0.8(0.8)

 その他教養娯楽サービス ウェイト:334
 0.4(1.0)

  放送受信料 ウェイト:80
  0.0(0.9)

  入場・観覧・ゲーム代 ウェイト:128
  1.1(1.1)

 他の娯楽サービス ウェイト:126
 0.0(1.0)

観光

項目が多すぎるのでまあまあ端折ってます。

「その他教養娯楽サービス」「その他娯楽サービス」は物価を引き下げる方向に働いています。大きいのは「宿泊料」と「外国パック旅行費」。

「宿泊料」は国内旅行、「外国パック旅行費」は海外旅行です。

つまり、「旅行費」が総じて好調であったということですね。海外旅行に関しては特に10月度の前年比が-2.9%と大きく前年割れしていたこともあり、より大きな影響が出ています。


総評

長らく「デフレ」が続いていた日本経済ですが、自動車の物価動向に見られるように、少しずつ「脱却した」と言及してもそん色のない状況が生まれ始めたのではないかな、と感じています。

家事耐久財やテレビ、パソコンなどの家電製品を中心に、まだまだ物価下落の止まらない項目が存在することは事実ですが、可処分所得が「旅費」に回されるなど、私たち一般国民にもその好況感を実感できる状況になりつつあるのではないでしょうか?



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いつもは毎月月末に公表されている最新の「消費者物価指数」なのですが、何気に消費者物価指数のページを開いてみますと、昨日(12月26日)に最新、11月分の消費者物価指数が公表されていました。

これ、今月が年末なので特別に早くなっているのかと思いきや・・・

※全国結果の公表を、平成30年(2018年)1月分から1週間早期化します。
全国 1月分公表日:2月23日(金曜日)(変更前:3月2日(金曜日))
    2月分公表日:3月23日(金曜日)(変更前:3月30日(金曜日))
    3月分以降の公表予定は1月下旬に発表します。
統計局ホームページより)
つまり、来月(2018年1月)からは更にこの公表スケジュールが早期化し、毎月月末に公表されていたものが、1週間前倒しで公表されることになるんだそうです。

「消費者物価」って、毎月1か月遅れで公表されていますから、どうしても1か月分の「タイムラグ」が生じてしまいます。その点で1週間とは言え、わずかでも早くなることはその分より早く政策にも反映できることになりますから、良い傾向だといえるのではないでしょうか。

解析に入る前段階での今月の評価としては「生鮮食品を除く総合」や「持ち家の帰属家賃を除く総合」の前年同月比が改善しているということ(つまり「持ち家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合も改善している)、またエネルギーだけで見ますと、前年同月比8.5%とと大きな増加幅となっているものの、先月の8.6%よりはやや縮小していることから、先月と比較する上でその影響は少なくなってきている、ということでしょうか。

全体的に「改善の兆しが見えてきた」と言えるのではないでしょうか?

「物価」


平成29年(2017年)度11月の消費者物価指数

【消費者物価指数(総合)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
総合(ウェイト:10000)
0.6(0.2)

生鮮食品を除く総合(ウェイト:9586)
0.9(0.8 )

持家の帰属家賃を除く総合(ウェイト:8501)
0.7(0.3)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合(ウェイト:8087)
1.1(1.0)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合(ウェイト:8802)
0.3(0.2)

「総合」や「持ち家の帰属家賃を除く総合」の上昇幅が大きくなっているのは10月度の「生鮮食品」の物価下落幅が大きかったことが理由です。

11月度の生鮮食品の下落幅も-6.1%と大きくなっているものの、10月度の下落幅は-12.1%でしたので、その下落幅が1/2近くまで縮小していることがわかります。

生鮮食品の下落幅が縮小していますので、その分生鮮食品を除く物価の「見かけ上の上昇幅」が拡大している様に見えるのです。

ですが、生鮮食品を含まない物価についても、全体で0.1%ずつとわずかではありますが、上昇していることがわかりますね。


消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】※( )内は2017年10月の前年同月比です。
食料 ウェイト:2623
△0.1(△1.3)

 生鮮食品 ウェイト:414
 △6.1(△12.1)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 1.1(1.0)

住居 ウェイト:2087
△0.1(△0.1)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
  0.2(0.2)

光熱・水道 ウェイト:745
5.9(6.2)

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.5(△0.3)

被服及び履物 ウェイト:412
△0.3(△0.1)

保健医療 ウェイト:430
1.6(1.6)

交通・通信 ウェイト:1476
0.8(0.6)

教育 ウェイト:316
0.4(0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
0.3(△0.1)

諸雑費 ウェイト:574
0.5(0.2)

こちらは毎回掲載しています、「10大費目別」の消費者物価指数。

10大費目別の評価としては、やはり「家具・家事用品」の不調。それでも毎回明日を引っ張っている「家庭用耐久財」は10月の0.8から0.5ポイント上昇幅が縮小してはいるものの、それでも0.3%のプラス成長。

マイナス要因として作用している「家事用消耗品」も10月の-2.4から-2.1に下落幅が縮小しています。

「悪い」と言ってもそこまで悪化しているわけではありません。「室内装備品」や「家事用消耗品」などを中心にもともと堅調ではありませんでしたから、家庭用耐久財の上昇幅の縮小や家事雑貨の伸び悩みなどの影響が反映されやすい状況にあったということでしょうか。

恒例ですが、参考までに「家庭用耐久財」の詳細も見てみます。

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.5(△0.3)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 0.3(0.8)

  家事用耐久財(ウェイト:57)
  △1.3(△0.9)

   電子レンジ(ウェイト:4)
   △7.1(△9.0)

   電気炊飯器(ウェイト:11)
   2.1(5.7)

   ガステーブル(ウェイト:3)
   4.1(8.2)

   電気冷蔵庫(ウェイト:16)
   △7.7(△11.3)

   電気掃除機(ウェイト:9)
   △0.1(4.8)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)(ウェイト:7)
   0.0(4.3)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)(ウェイト:7)
   6.0(0.3)

  冷暖房用器具(ウェイト:37)
  3.0(3.4)

   ルームエアコン(ウェイト:30)
   4.1(4.9)

   温風ヒーター(4)
   0.9(0.7)

   空気清浄機(3)
   △4.6(△7.9)

  一般家具(18)
  -0.6(0.6)

   整理だんす(5)
   0.9(1.2)

   食堂セット(9)
   -1.3(0.5)

   食器戸棚(4)
   △1.1(△0.1)

こうしてみると、「冷暖房器具」は持ち直しており、ネックとなっているのはやはり「家事用耐久財」であることがわかります。

一般家具もずっと物価の優等生っぷりを発揮していたのですが、11月に入って物価下落に転じましたね。このあたり、来月以降注視してみたいです。

また、「物価の優等生」という肩書で言えば、昨年度まで原油価格の下落に伴う物価下落が進む中、物価上昇を堅調に維持していた「被服及び履物」に関してもこのところ物価下落が続いています。

中でも、特に「洋服」が9月の-0.7、10月の-0.6、そして11月の-0.9と物価下落が継続していますので、このあたりも注視する必要がありますね。洋服ってやはり「付加価値」の分野ですからね。伸びてほしい項目です。


「物価」が上昇している理由

さて。同じ「物価」を見る中で、先述しました様に「家具・家事用品」や「被服及び履物」に関しては先月より悪化しているものの、それ以外の費目上昇幅を拡大、または下落幅を縮小させている項目があります。

詳細に見ますと、横ばいが「住居」「保険医療」「教育」の3大費目。上昇幅を縮小させているのが「光熱・水道」。

下落幅を縮小しているのが「食料」(生鮮食品を除くと上昇幅を拡大)、上昇幅を拡大させているのが交通・通信と諸雑費、下落から上昇に転じているのが「教養娯楽」です。

次回記事では、物価を上昇させている要因となっている費目の内、「交通通信」と「教養娯楽」を中心に記事を作成してみたいと思います。



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<継承する記事>第381回 神聖ローマ帝国崩壊に至る経緯

それにしてもややこしい。。。

登場する国や人物が複雑すぎて、全体像を理解するのがなかなか難しいです。

前回は「ライン同盟」を中心として記事を作成することをお約束したのですが、今回の記事では「ライン同盟」とともに、今回のテーマの本題である「バイエルン」という地域に関しても深めてみたいと思います。


ライン同盟はなぜ結成されたのか?

「ライン同盟」は、Wikiによりますと、

1806年7月12日、フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は名目だけ存続していた帝国を離脱してフランス帝国と同盟し、ライン同盟が成立した。

とあります。

ただ、どうしても疑問だったのは、いくら圧力を受けたとは言えドイツ諸侯がそう簡単にフランスの軍門に下るものなのか、ということでした。

で、深めていきますと、そもそもこの「ライン同盟」が結成されるきっかけとなったのはライン同盟が結成される前、ヨーロッパ諸侯が結成していた「第三次対仏大同盟」。これが崩壊する過程にヒントがあることがわかってきました。

「第三次対仏大同盟」を結成していたのは

・グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス)
・オーストリア帝国(神聖ローマ帝国)
・ロシア帝国
・ナポリ王国
・スウェーデン王国

の5カ国なのだそうです。


バイエルン選帝侯V.S.ハプスブルク家

前回の記事で、フランス革命当時のドイツの状況に関して、

対フランス革命政府という大義に於いてオーストリア(ハプスブルグ家)とプロイセンは同盟関係を結べる関係にはあった、ということです。とはいえ、ハプスブルク家=バイエルン人というわけではありませんから、バイエルン人とプロイセン人が友好的であった、ということにはならないでしょう

と記しました。

ハプスブルク家とバイエルン人の関係においてわずかに触れているわけですが、この時私が抱いていた疑問に対する答えが「第三次対仏大同盟」当時のドイツの状況から見えてきました。

同じ「ドイツ(神聖ローマ帝国)」という国の中に、「オーストリア帝国」と「バイエルン選帝侯領」という二つの「国」が存在しました。

「オーストリア皇帝」であったのは言わずと知れたハプスブルク家ですが、「バイエルン選帝侯」であったのは「ヴィッテルスバッハ家」。バイエルン地方を発祥とする生粋のバイエルン人です。

ヴィッテルスバッハ家とハプスブルグ家は同じドイツの中でも対立構造にあり、神聖ローマ帝国皇帝の座を互いに争うような関係にあったのだそうですよ。

1180年に「バイエルン公オットー1世」(第377回の記事 に登場するバイエルン公オットー1世とは別人)がヴィッテルスバッハ家として初めてバイエルン公に即位して以来、第350回の記事 で登場した「バイエルン王ルートヴィヒ3世」が退位するまで、「バイエルン公国」「バイエルン選帝侯領」「バイエルン王国」と3つの時代に渡ってヴィッテルスバッハ家は「バイエルン君主」の座に君臨し続けます。

直系のバイエルン系ヴィッテルスバッハ家は1777年、マクシミリアン3世ヨーゼフの死去によって断絶するのですが、遠縁にあたるプファルツ選帝侯カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承し、カール・テオドールの出身であるプファルツ=ズルツバッハ家はヴィッテルスバッハ家に統合されます。

ところが、この「カール・テオドール」という人物があまり政権に対する執着心がない人物で、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(ハプスブルグ家)がカールにバイエルン選帝侯領の割譲を求めます。

これに異を唱えたのがプロイセン大王フリードリヒ。バイエルン領を巡ってプロセイン軍とオーストリア軍の中で継承戦争が勃発します。(1778年7月5日:実際には和議が結ばれ、武力を用いた戦争には発展しませんでした)

その後、1789年にはフランス革命が、1792年にはフランス革命戦争が勃発。カール・テオドールは、1799年脳卒中のため、死亡。

カール・テオドールにも子どもがいなかったため、今度は「ヴィッテルスバッハ家プファルツ系傍系ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家」の出身である「ツヴァイブリュッケン公」マクシミリアン4世ヨーゼフがバイエルン選帝侯となります。

彼の時代に勃発したのが「第三次対仏大同盟戦争」。第三次対仏大同盟とフランス(ナポレオン軍)との戦争です。


ナポレオンとマクシミリアン4世

バイエルン選帝侯マクシミリアン4世の時代、フランス革命軍はドイツにまで押し寄せてきていて、マクシミリアン4世の拠点であるツヴァイブリュッケン公領を制圧。更にバイエルン王国の首都であるミュンヘンまでも陥落します。(この時バイエルン選帝侯領はオーストリア軍として対フランス革命軍に参戦していました)

その後、軍人としてのナポレオンが台頭する中、1800年6月14日、マレンゴの戦い、12月のホーエンリンデンの戦いにおいてオーストリアはフランス軍に敗北。

翌年2月にフランスとオーストリアの間で「リュネヴィルの和約」が結ばれたことによりフランス軍はバイエルンから撤退し、マクシミリアン4世は亡命先からバイエルンに帰国することが出来ました。

マクシミリアン4世はここから更にナポレオンに急接近し、1801年8月にナポレオンとの間で友好条約を結びます。

1803年にはフランスとイギリスとの間でのフランス革命戦争の講和条約である「アミアン講和条約」が破られ、イギリスはフランスに再び宣戦布告。「ナポレオン戦争」が勃発します。

1804年5月、ナポレオンが皇帝として戴冠すると、これに対抗して結成されたのが前述した「第三次対仏大同盟」。

第三次対仏大同盟はナポレオンに敗れ、1805年12月4日、第三次対仏大同盟戦争に対する講和条約である「プレスブルクの和約」が締結されます。

この時フランスの同盟国であったバイエルンは「選帝侯領」から「王国」へと昇格し、オーストリアはバイエルンに対し自国領の一部を割譲させられます。

そしてその後、1806年7月12日に締結されたのが「ライン同盟」。

ライン同盟

ライン同盟以前からフランスと同盟関係にあったのはバイエルン以外にヴュルテンベルク(選帝侯領→王国)、バーデン(選帝侯領→大公国)も同盟関係にありました。


ライン同盟結成に至った理由

オーストリアとフランスの間で「リュネヴィルの和約」が締結された後、フランスはドイツから撤退するわけですが、神聖ローマ帝国に所属していた国の多くはフランスに領土を奪われ、神聖ローマ帝国はそのドイツ諸侯からその補償を求められることになります。

当時のドイツでは「プロイセン」と「オーストリア」の2強状態にあったわけですが、「リュネヴィルの和約」締結後に神聖ローマ帝国で行われた「帝国代表者会議主要決議」により、フランス戦から生き残ることが出来た国々に多くの領土が分け与えられ、多くの「多くの中規模領邦」が誕生することとなりました。

これらの国々がまとまることで、プロイセンやオーストリアに「対抗しよう」とする意識が生まれたのだそうです。

この時点で「神聖ローマ帝国」そのものは実質形骸化してしまいました。

フランスが更にこれをサポートして締結されたのが当時の神聖ローマ帝国で「プロイセン」と「オーストリア」以外の国々で結成された「ライン同盟」。ライン同盟の結成により、神聖ローマ帝国は崩壊することとなったわけです。


長かったですが、大分整理できました。

こうやって成立した「ライン同盟」ですが、1813年、ライプツィヒの戦いにおいてナポレオンが敗退すると、ライン同盟は崩壊し、その後行われたナポレオン戦争後に開催されたウィーン会議を経て、「ドイツ連邦」が誕生することとなります。

次回の記事は、新しく誕生したこの「ドイツ連邦」を中心に記事を進めてみます。



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この記事のカテゴリー >>日本国債の問題


本日はこんな記事を見かけましたので、久しぶりに「国債」に関連した記事を作成してみたいと思います。

【読売新聞オンライン】2017年12月22日
国・地方の借金1108兆円に…なお先進国最悪

財務省は22日、2018年度末の国と地方を合わせた長期債務(借金)の残高が、17年度末の見込み(1087兆円)より約21兆円増え、1108兆円になるとの見通しを発表した。

債務残高

内訳は国が約915兆円、地方が約192兆円となる。国民1人当たりの金額に換算すると、17年度より18万円多い、約874万円の借金を抱える計算だ。

経済成長により国内総生産(GDP)が底上げされ、GDPに対する長期債務残高の割合は196%となった。17年度見込みの198%からはわずかに減るが、なお先進国では最悪の水準にとどまる。

また、政府は18年度に発行する国債(新たな借金と借り換え分などの合計)は、前年度より約4・1兆円少ない149兆8856億円とし、当初計画ベースでは4年連続で減らした。

記事は読売新聞から。

私のブログを読んでいただいたことのある方に関わらず、このタイトルに込められた一定の「悪意」を認識されている方は大分増えてきていると思います。

ただ、この「悪意」を「他のブログ」にて掲載している内容と同じ内容を掲載したのではもちろん私のブログらしくありませんから、私のブログでは、これを私のブログの「代名詞」の一つである「60年償還ルール」を根拠として記事にしていきます。

60年償還ルール的には第27回の記事第104回の記事、そして第359回の記事 でそれぞれご紹介した通りです。

特に 第359回の記事 は一つの完成形に至っている、と私は自負しておりますので、ご一読いただければありがたく思います。

読売新聞の記事中、財務省の発表はあくまでも「2018年度の見込み」ですから、まだ確定したものではありません。

2017年度までの資料としては、

国債発行残高の推移

こちらが詳細に掲載されています。クリックしていただきますと実際の財務省のページに移動します。

ただ、内容はあくまでも「国債発行残高」に関するものですから、地方債務までは掲載されていません。

読売新聞記事では2017年度末の見込みとして総額が1087兆円とあります。財務省データではこのうち「普通国債(建設国債:4条国債+赤字国債:特例国債)」の発行残高が総額で865兆となっていますから、地方債の発行残高は222兆円。

一方2018年の見込みとしては総額が総額が1108兆円、国の債務が915兆円、地方債が192兆円・・・ということですから、地方債、減ってますね。

ただし、おそらく読売新聞のデータにはいわゆる「国債」以外の銀行からの「借入」も含まれていると考えられますので、実際には「地方債が減っている」という私の記載内容は正確ではないと考えられます。

ですので、確定できる部分。「2018年度末の国と地方を合わせた長期債務(借金)の残高」が「1087兆円」から21兆円増え、「1108兆円」になるという見通しとなったこと、2018年の内訳が「国が約915兆円、地方が約192兆円となる」こと、そして

「政府は18年度に発行する国債(新たな借金と借り換え分などの合計)は、前年度より約4・1兆円少ない149兆8856億円とし、当初計画ベースでは4年連続で減らした」

と掲載されている内容のみから記事は作成していきます。


国と地方を合わせた長期債務の残高は本当に「先進国中最悪」なのか?


ブルームバーグの記事がもう少し詳しいので、こちらからも引用します。

【ブルームバーグ】2017年12月22日
財政赤字10年ぶり低水準、税収増見込む-来年度予算案を閣議決定

政府は22日、2018年度一般会計予算案を閣議決定した。総額は社会保障関係費の増加に伴い97兆7128億円と6年連続で過去最大を更新したが、60兆円近い税収を見込み、新規国債発行額を8年連続で減少させた。これによって、基礎的財政収支(プライマリーバランス、PB)は改善し、赤字額は10年ぶりの低水準となった。

  歳入のうち税収は27年ぶり高水準の59兆790億円。賃上げを想定し、所得税を前年度当初比6%増の19兆200億円としたほか、消費税収は2.5%増の17兆5580億円と見積もった。法人税収は1.8%減の12兆1670億円。国債発行額は2%減の33兆6922億円に抑え、国債依存度は34.5%と10年ぶり(当初ベース)の低水準に抑えた。

  これによって国債費を除いた歳出と国債収入以外の歳入を差し引きしたPB赤字額は10兆3902億円と2年ぶりに改善し、5兆1848億円の赤字だった08年度以来の低水準を記録した。国・地方を合わせた政府の長期債務残高は対国内総生産(GDP)比196%の1108兆円程度、国の普通国債残高も対GDP比156%の883兆円程度といずれも過去最高を更新した。

こちらはタイトルからして読売記事とは方向性が異なりますね。

こちらの記事では普通国債残高が掲載されており、883兆円となっていますので、読売記事の「915兆円」から差し引いた32兆円が国債以外の「借入」(もしくは財政投融資債)ということになります。

17年度の普通国債発行残高が865兆円ですから、増加した「普通国債発行残高」は18兆円、ということになります。

一方、18年度の国債発行額(建設国債+赤字国債=普通国債発行額)は「33兆6922億円」となっており、読売記事では普通国債以外の国債も含めた国債発行額の総額が「149兆8856億円」となっていますので、この額から普通国債発行額を差し引いた116兆1934億円が「借換債+財政投融資+復興債」の額であることになります。

17年度の「借換債+財政投融資債+復興債」の額は119兆5935億円ですから、「借換債+財政投融資債+復興債」の額が総額で
3兆4001億円減少したことになります。

実際に減少したのが借換債なのか、財政投融資債なのか、復興債なのかはわかりません。ですが、「復興債」は17年度で1兆5145億円ですから、仮に復興債が減少していたとしても、借換債か財政投融資債のどちらかも合わせて減少していることになります。

私は、おそらくその大部分は「借換債」からの減少分に該当すると考えています。


改めて考える「60年償還ルール」

さて。そこで「改めて」考えていただきたいのが「60年償還ルール」の事です。

2018年度の事例で考えますと、普通国債は単年度で33.7兆円発行されているにも関わらず、「普通国債発行残高」総額は21兆円しか増えていません。33.7兆円から21兆円を差し引きますと12.7兆円がどこかに消えてしまっていることになります。

税収で返済したからでしょうか?

いいえ、違います。もちろん「見込み額」なのは歳出だけでなく歳入も同じことですから、税収の見込みがやや多すぎる感があることは否めませんが、それでもこの見込み額から差し引かれた「税収」はすべて国債以外の「歳出」に充てられています。

税収で足りないから国債が発行されているのですから、33.7兆円国債が発行されたのであれば、その分「国債発行残高」に加算されなければ普通おかしいのです。

にもかかわらず、なぜ12.7兆円も姿を消しているのか。もうわざわざ説明するまでもないでしょうが、この金額は「60年償還ルール」の仕組みの中で吸収されてしまっているのです。

再度 第359回の記事 を見てみましょう。

頭が砕かれそうな思いがするかもしれませんが、大切なのは発行される予定の33.7兆円ではなく、増加した21兆円が一体どこから生まれたのか、ということ。

2017年度は新規普通国債が34.3兆円発行される見込みですが、18年度は33.7兆円しかされない予定です。この差額、6776億円分が「国債発行残高」総額からまず差し引かれます。

ですので、もし18年度の国債発行額が17年度と同額であったとしたら、国債は実際には21.6776兆円増額していることになります。

とすると、残る21兆円は一体どこから発生したのでしょうか?

実は、戦後日本で初めて国債が発行された年。今から52年前。昭和40年に発行された、たった1972億円の国債がその原資となっています。

こんな風に表現すると、「1972億円の国債が21兆円に膨らんだのか!」という人もいそうですが、違います。

18年度の見込み額は17年度よりも6776億円少なくなっていますから、その分「国債発行残高」から減額されました。

ですが、仮に18年度の見込み額が17年度より多かった場合。その額は「国債発行残高」に対して加算されます。

同額であれば増えることも減ることもありません。

つまり、2018年度に増額すると見込まれている国債発行残高21兆円とは、18年度に発行されることが見込まれている普通国債の新規発行額が原因で増えるのではなく、過去52年間の間に発行された国債の、年度ごとの「増減額」分が積み重なったもの、なのです。

単純にこの21兆円を52倍しただけでも1092兆円となりますから、この考え方は難しくないと思います。

もちろん毎年21兆円増え続けているわけではなく、現在はその積算額が883兆円となっています。また、実際にはこれ以外に「償還期が訪れていない国債」の未償還分の金額もこの中に含まれています。

では、その額は永遠に増え続けるのかと申しますと、これがそうではありません。

第359回の記事 をご覧いただければわかりますように、私たちの国では「60年償還ルール」というシステムが導入されていますから、60年経過すると、増加する21兆円の原資となっている昭和40年の国債発行額は「0円」となります。

つまり、昭和40年分の「借換債」が新たに発行されることはなくなりますから、60年経過するとその分が加算されることはなくなるのです。

何を言っているんだ、とおっしゃる方はぜひ 第359回の記事 をご覧になって、頭の中を整理してみてください。


マスコミ報道のいい加減さ

記事内容としては、特に読売の記事では、この考え方をまったく理解せず記事を作成していることがよくわかると思います。

記者としては三流以下ではないでしょうか?

大切なのは「年度間での国債発行額の差額」と「もっとも古い国債の発行額」を見る習慣。これがわかれば今回の読売のような記事は作成できないと思います。

新聞を読むときこんな視点で記事を見ていただければ、新たなる「発見」もあるかもしれません。ぜひ三流のマスコミ報道に振り回されることのないよう、正確な情報を手に入れる癖をぜひ皆さんも大切にしてくださいね。



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<継承する記事>第377回 バイエルン人と「オストマルク」~オーストリアの誕生~

バイエルン人とプロセイン人との対立を見る上で、どうも神聖ローマ帝国崩壊後、ドイツがプロイセン王国とオーストリア帝国に分裂した後の状況を見る必要があるのではないか、と思われます。

構図的に言うとプロイセン王国=プロイセン人、オーストリア帝国=バイエルン人、という構図です。

今回の記事では、まずドイツが分裂する前、神聖ローマ帝国崩壊に至る経緯を調べてみたいと思います。


神聖ローマ帝国はなぜ崩壊したのか

今回のテーマは、いつもとは逆で結論からさかのぼる形で記事を作成してみたいと思います。

神聖ローマ帝国最後の皇帝はフランツ2世。彼がドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)の退位を宣言し、帝国の解散を宣言したことで神聖ローマ帝国は崩壊しました。

この時、彼が行った宣言は以下の通りです。

朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。

この言葉によりますと、「ライン同盟」の結成によりドイツ皇帝としての退位を決断したことになります。

では、「ライン同盟」とはいったい何なのでしょう?


「ライン同盟」とは何か?

Wikiベースで進めます。

Wikiによりますと、この「ライン同盟」について以下の様に記されています。
フランス皇帝ナポレオン1世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯は名目だけ存続していた帝国を離脱してフランス帝国と同盟し、ライン同盟が成立した。同盟は、ナポレオンを盟主とし、大司教ダールベルクを総裁としたフランス主導の国家連合であった。

つまり、「ライン同盟」結成を主導したのは「フランス皇帝」であったナポレオン1世であり、神聖ローマ帝国に所属していた前ドイツ諸侯が神聖ローマ帝国を離脱し、フランス帝国と同盟関係を結んだため、そもそも「神聖ローマ帝国」そのものが成り立たなくなったわけです。(1806年8月)

ナポレオン1世。私のブログでも、第52回の記事 で登場しましたね。

第60回の記事 では更にそのナポレオン1世が築いた「ナポレオン帝国」についても記事にしています。

少し引用してみます。

「ナポレオン帝国」の果たした役割

ナポレオンが登場する以前のフランスはヨーロッパ諸国と戦争状態にありましたので、ナポレオンの役割は、この「戦争状態」を収束させることにありました。

特に1798年、ナポレオンがクーデターにより実権を握ってからは、それまで各国からフランスを守るための戦争であったはずのものが「フランス革命の精神をヨーロッパ全土に拡大するため」との大義名分のもと、事実上の征服戦争を展開。ヨーロッパ各国に「自由主義」と「ナショナリズム(国民主義)」の精神を押し広げるのです。

ナポレオン帝国

濃い青がナポレオン帝国の領土、薄い水色が属国です。
フランスの右側が「ライン同盟」と呼ばれる連合国家、飛んで右側がワルシャワ公国。その間の二つの領土が上からプロセインとオーストリアで、両国ともフランスの同盟国です。

これだけのエリアにフランスが革命によって勝ち取った(?)「自由主義」と「国民主義」の精神が少なくとも「広められた」わけです。

ちょうど「ライン同盟」も「プロイセン」も「オーストリア」も名前が登場していますね。

ライン同盟が結成されたのは1806年7月。記事によると、ナポレオンが実権を握ったのは1798年の事ですから、ナポレオンが実権を握ってより8年後の出来事です。

記事によりますと、

『ナポレオンが登場する以前のフランスはヨーロッパ諸国と戦争状態にありましたので、ナポレオンの役割は、この「戦争状態」を収束させることにありました』

とあります。ではそもそもなぜナポレオンが登場する前のフランスはヨーロッパ諸国と戦争状態にあったのでしょうか。


「フランス革命」と「フランス革命戦争」

この理由は、実は第51回の記事 で触れており、その最大の理由は「フランス革命戦争」であることがわかります。

ここも少し引用してみます。
このころのフランスでは、国王の逃亡事件を機に、国王に対する不信感が高まり、これまで国民の多数を占めていた国王擁護派が、左派に傾倒するようになり、革命そのものが急進化する傾向にありました。

国王の逃亡を手引きしたスウェーデン王グスタフ3世は、逃亡失敗の知らせを受けるとフランスから亡命した貴族たちと共に諸外国に呼びかけて「反革命十字軍」を組織する計画を立て、ロシアとも軍事同盟を締結しますが、グスタフ3世は暗殺されます。

また、亡命に成功していたルイ16世の実弟であるアルトワ伯爵が、神聖ローマ帝国皇帝やプロイセン王と共に「ピルニッツ宣言」という、一種の宣戦布告とも受け取れるような宣言を出すなどフランスと諸外国の間では今にも戦争が巻き起こるのではないかと、このような機運が高まる状況にありました。

ジロンド派はピルニッツ宣言等の「外圧」を「革命政府に対する脅迫」であると受け止め、1972年4月、オーストリアに対して宣戦布告します。(フランス革命戦争)。

逃亡した国王とはもちろんルイ16世の事。そしてルイ16世の夫人はあのマリーアントワネット。オーストリア=ハプスブルグ家を実家に持つ女性です。

このあたりの推移は、シリーズ「右翼」と「左翼」の違いを分かりやすく検証します に最初から目を通していただけますと、よく理解いただけるのではないかと思います。

つまり、フランスが諸外国と戦争状態に陥った最大の理由はフランス革命が勃発したこと。特にルイ16世がフランスより国外逃亡を図った「ヴァレンヌ事件」と、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世がフランスにおける王権復旧を求めて行った「ピルニッツ宣言」そしてこれに応じる形でフランス革命政府が起こした宣戦布告。

これをきっかけとしてフランスは欧州諸外国との間で戦争状態に陥ることになります。

改めてご記憶いただきたいのは、フランス革命戦争が起きた当時はフランス革命が起きた後。つまり、フランスによる王政が事実上崩壊した状態にあった、ということです。

帝政を敷いていたフランス以外の諸外国にとっては、この影響が自国にまで及ぶことはある意味恐怖であったのではないでしょうか?

ですからスウェーデン王がルイ16世(ブルボン家)の逃亡を手引きしたり、ドイツ(神聖ローマ)皇帝とプロセイン王が王政復旧を求めたり、といった行動を行ったのでしょう。

実際、フランス革命を起こすことに成功したフランスでも、ナポレオンの登場後は再び帝政へと戻っています。


ピルニッツ宣言

発端となるピルニッツ宣言が出された経緯ですが、ルイ16世の国外逃亡に対して、一番動揺したのは、ルイ16世(ブルボン家)の下に妹を嫁がせていた神聖ローマ皇帝であるレオポルト2世(ハプスブルグ家)。

妹の身を案じ、ブルボン家に対する支援を行うことをヨーロッパ諸侯に呼びかけるわけですが、結果的にこれに応じたのがスウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の2名。

引用文にもある通り、スウェーデン王グスタフ3世はロシアとも同盟を結成し、反十字軍同盟を結成するわけですが1792年3月に暗殺されます。

同年7月、オーストリアとプロイセンは同盟関係を結びます。

このオーストリアとプロセインに、ルイ16世の弟であるアルトワ伯をはじめとするフランスからの亡命貴族が熱心に働きかけ、発表されたのがルイ16世の完全なる自由を取り戻すために武力による圧力を加えますよ、内容の「ライプニッツ宣言」。

これに亡命貴族たちが熱くなって更なる脅迫をフランス革命政府に対して行ったことからフランス革命政府が起こって行ったのがフランス革命戦争を引き起こした「宣戦布告」です。


この記事はフランスを追いかけるための記事ではありませんので、フランス革命に関してはこの程度にとどめておきます。

結論として、神聖ローマ帝国が崩壊したのは「フランス革命」が勃発したから。ものすごく簡単に言うとそういうことですね。

ただ、少なくともこの時代、対フランス革命政府という大義に於いてオーストリア(ハプスブルグ家)とプロイセンは同盟関係を結べる関係にはあった、ということです。とはいえ、ハプスブルク家=バイエルン人というわけではありませんから、バイエルン人とプロイセン人が友好的であった、ということにはならないでしょうけれど。

次回記事では、「ナポレオン帝国」の結成において結ばれた「ライン同盟」。この「ライン同盟」がどのような経緯で結ばれたのか、このあたりに着目して記事を作成してみたいと思います。



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<継承する記事>
第377回 バイエルン人と「オストマルク」~オーストリアの誕生~

少し地図上のイメージがゴチャゴチャしてきましたので、まずはそれぞれの国や領土の位置関係から整理してみたいと思います。

【ドイツ】
ドイツ

【オーストリア】
オーストリア

少し小さくて分かりにくいかもしれませんが、現在のドイツとオーストリアの位置関係はこんな感じです。

この、ドイツとオーストリアを連結させて地図化してくれているサイトがあったので、そこから画像を拝借してみます。

【ドイツ&オーストリア】
ドイツ&オーストリア
米国日通旅行者様サイト より拝借いたしました)

そして「バイエルン」はこちら。

【バイエルン】
バイエルン州

ちょうどこの「バイエルン」と「オーストリア」が国境をまたいで連続した領地であることがわかりますね。

前回の記事では、東フランク王(ドイツ皇帝)オットー2世に、彼の従弟であるバイエルン公ハインリヒ2世が反乱を起こし、ハインリヒ2世はオットー2世に敗北、代わりにまた別の従弟である「シュヴァーヴェン公オットー1世」がバイエルン公として即位。

「シュヴァーヴェン公オットー1世」がもともと治めていた「シュヴァーヴェン」という領土がこちら。

【シュヴァーヴェン】
シュヴァーヴェン

バイエルンの西隣の領土ですね。そして、この時「バイエルン」の領土の一部が「オストマルク辺境伯」と「ケルンテルン公」によって分割されるわけですが、「オストマルク」はこの時正式に「オーストリア」と名称が改められます。

そしてもう一つ、「ケルンテルン」という領地がこちら。

ケルンテルン

現在のオーストリアの最南端に、現在はオーストリアの一「州」として位置しています。

オーストリアの他の州を挟んでバイエルンに面しているわけですが、おそらく当時はバイエルンと地続きだったものと思われます。

そして、オーストリアに攻め込んで更にバイエルンにまで侵入してきた「アヴァール人」の居住エリア、「ハンガリー」はこちら。

【ハンガリー】
ハンガリー

地理的には、オーストリアと地続きの南東側にあたります。

この状況をイメージしながら中世のドイツ・オーストリア史を見てみると、イメージしやすいかと思います。


オーストリア公国の誕生

カール大帝より、初代オストマルク辺境伯としての地位を与えられたヴィルヘルム家がもともとオストマルク領を統治していたわけですが、西暦894年、5代目エンゲルシャルク2世の時代にヴィルヘルム家はオストマルク伯としての座を明け渡しています。

少し明確ではなく、推測になるのですが、ヴィルヘルム家の後、オストマルク伯に任じられたのは前回の記事 で東フランク王カールマンの側近を務めたバイエルン人としてご紹介したルイトポルト。

前回の記事 では「バイエルン辺境区であるケルンテン辺境伯」としてご紹介しましたが、どうも彼が伯爵領として報封じられたのはバイエルン辺境区全てであるようです。(明確な証左を発見しているわけではないので、推測だと思ってください)

ルイトポルトは辺境伯として封じられた後、辺境区だけでなく、バイエルン全体の統治を任せられるようになります。

ところが、907年、オストマルク辺境伯領にマジャール人(ハンガリー公アールパード)が攻め込んできます。ルイトポルトは彼との戦いに敗れ、戦死。オストマルク辺境伯領をマジャール人に奪われてしまいます。

ルイトポルトが戦死した後、息子であるアルヌルフがルイトポルトの後を引き継ぎ、同年「バイエルン公」となります。

955年、レヒフェルトの戦いでオットー大帝がマジャール人を撃破したことにより、バイエルン公アルヌルフはバイエルン公領としてオストマルク辺境伯領を回復。

オットー大帝の息子、オットー2世の時代になるとバイエルン公を継承したハインリヒ2世がオットー2世と対立。オットー2世はハインリヒ2世を破った後、従弟である「シュヴァーヴェン公オットー1世」をバイエルン公として封じ、オストマルク辺境伯にはフランケン地方バンベルクより「バーベンベルク家」の「ドネガウ伯レオポルト1世」を封じることとしました。

レオポルト1世はフランケン地方バンベルクの出身です。

現在のチェコ国、「北ボヘミア」に相当する地域だそうです。

【チェコ】
チェコ
【ボヘミア】
ボヘミア

ボヘミアは第374回の記事 で「ボイイ族(バイエルン人)の故郷」という意味であるとしてご紹介しましたね。ただ、だからと言ってドネガウ伯レオポルト1世がバイエルン人だ、というわけでは残念ながら、ありません。

バーベンベルク家はオーストリア辺境伯として1156年まで、以降は「オーストリア公」として、としての発展を遂げることになります。

バーデンベルク家は1246年、フリードリヒ2世の時代に男系が途絶え、オーストリア公バーベンベルク家としては断絶します。

断絶後のオーストリア公領は諸侯の争いの的となるのですが、最終的に1278年8月26日、マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世を撃破した神聖ローマ帝国ルドルフ1世(ハプスブルグ家)がオタカル2世よりオーストリアを没収し、オーストリア公となります。

この時オーストリア公ハプスブルグ家が誕生しました。

オーストリア公ハプスブルグ家として初代となるルドルフ1世、その息子アルブレヒト1世がそうであったように、ハプスブルグ家はその後、「ローマ皇帝」を続々と輩出していくことになります。

1438年、アルブレヒト2世が皇帝となると、それ以降ハプスブルグ家がローマ皇帝の座をほぼ世襲するようになります。

後にフランス王ルイ16世の妃となるマリーアントワネットもまたハプスブルク家の出身ですね。

バイエルン人が自分たちを「ドイツ人」として認識するようになった一つの理由として、オーストリアに拠点を構えたハプスブルグ家の発展により、南ドイツが発展したこと。

そして何より、「オーストリア」を作ったのは自分たちバイエルン人であるということ。こういった理由が挙げられるようです。

さて。この後、ハプスブルグ家が歴代の皇帝を輩出した「神聖ローマ帝国」が崩壊し、ドイツは「プロイセン王国」と「オーストリア帝国」の2大勢力に分かれていくこととなります。

次回記事では、この「神聖ローマ帝国」が崩壊していく過程について追いかけていければ、と思います。



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この記事のカテゴリー >>「物価」の見方


今月(2017年12月)初日に公表されており、本日は7日ですので、「速報」と称するには少し期間が経過していますが、タイトルの通り、2017年10月度消費者物価指数についての記事を作成したいと思います。

まだざっと見ですが、今回の特徴は「生鮮食品」の物価が下落していることにあげられるかと思います。もちろん私のブログで大切にしているのは「生鮮食品及びエネルギーを除く消費者物価指数」及び「持家の帰属家賃を除く消費者物価指数」ですから、生鮮食品の物価そのものは重視していません。

ただ、このことが他の費目に与える影響もあるかと思いますので、私の掲載する情報に、そんな「フィルター」をかけながら見ていただけると嬉しく思います。


平成29年(2017年)度10月の消費者物価指数

【消費者物価指数(総合)の前年同月比】※( )内は2017年9月の前年同月比です。
総合(ウェイト:10000)
0.2(0.7)

生鮮食品を除く総合(ウェイト:9586)
0.8(0.7 )

持家の帰属家賃を除く総合(ウェイト:8501)
0.3(0.9)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合(ウェイト:8087)
1.0(0.9)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合(ウェイト:8802)
0.2(0.2)

10月度の全体的な状況はこんな感じです。「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」と「生鮮食品を除く総合」の差が0.6ポイントありますので、これだけエネルギー物価が上昇したことを示しています。

また、「総合」と「生鮮食品を除く総合」の差が0.6ポイントありますので、この差は「生鮮食品」の物価下落が影響していることがわかります。総合を先月と比較しても0.5ポイントも引き下げているわけですから、あくまでも「前年同月比」ベースではありますが、影響は「大きい」と言えるでしょうね。

ただ、「生鮮食品」は基本的に天候や気温によって物価が上下落する費目ですから、私たち一般庶民が体感している「景気」の影響を受けて上下落するものではありません。(逆に景気に影響を与える場合はありますが)

ですので、私のブログでは参考程度の掲載にとどめておきます。

また、「持家の帰属家賃を除く総合」と「総合」を比較しますと、0.1ポイント開きがありますので、「持家の帰属家賃」はやはり消費者物価を下落させる方向に働いていることがわかります。(持家の帰属家賃は架空の数字です)


消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比

【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】※( )内は2017年9月の前年同月比です。
食料 ウェイト:2623
△1.3(0.1)

 生鮮食品 ウェイト:414
 △12.1(1.2)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
 1.0(1.0)

住居 ウェイト:2087
△0.1(△0.2)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
  0.2(0.0)

光熱・水道 ウェイト:745
6.2(6.0)

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.3(△0.2)

被服及び履物 ウェイト:412
△0.1(△0.3)

保健医療 ウェイト:430
1.6(1.8)

交通・通信 ウェイト:1476
0.6(0.0)

教育 ウェイト:316
0.4(0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
△0.1(0.2)

諸雑費 ウェイト:574
0.2(0.1)

物価を下落させる方向で働いているのが「食料」「住居」「家具・家事用品」「被服及び履物」「教養娯楽」の5項目。残る5項目は逆に上昇させる方向に働いています。

ただし、「食料」は既に言及していますように生鮮食品の「-12.1%」が最大の影響を与えており、これを除くと1.0%と横ばい。しかも1%台ですから、消費状況を見るうえでの「物価」としては決して悪い状況ではありません。

また、「住居」もこれを引き下げる主要因となっているのは「持家の帰属家賃」で、これを除くと0.2%。決して高成長だとは言えませんが、それでも7月のマイナス成長を挟んで6月~9月まで物価上昇率が0%であったことを考えると、改善している状況にあります。

ですので、実際に景気状況を見る上での「物価を下落させる要因」として働いているのは「家具・家事用品」「被服及び履物」「教養娯楽」の3つ。

「被服及び履物」は昨年度は「物価の優等生」と私が呼称していたほどの分野ですから、物価状況としては少し残念な状況にあります。ただ、10月は季節の変わり目でもありますので、11月、12月と冬物が本格的に動き出した後の物価状況に着目したいと思います。

さて。となるとやはりポイントとなるのは「家具・家事用品」と「教養娯楽」の2つ。

そう。私がいつも物価下落の主犯にあげている「家電製品」が含まれている分野です。

ただし、


家具・家事用品の前年同月比

【家具・家事用品の前年同月比】
※( )内は2017年9月の前年同月比です。
家具・家事用品 ウェイト:348
△0.3(△0.2)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 0.8(1.2)
 室内装備品 ウェイト:25
 △1.2(△1.8)
 寝具類 ウェイト:27
 0.2(△0.6)
 家事雑貨 ウェイト:72
 0.6(0.8)
 家事用消耗品 ウェイト:86
 △2.4(△2.3)
 家事サービス ウェイト:27
 0.1(0.1)

先月、先々月と同様の傾向ではありますが、「家具・家事用品」中分類費目の内、家電製品が含まれる「家庭用耐久財」全体では前年同月比+0.8%。9月より減少してこそいるものの、既に物価を下落させる要因としては働いていないことがわかります。

もう少し掘り下げてみてみます。

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.3(△0.2)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 0.8(1.2)

  家事用耐久財(ウェイト:57)
  △0.9(0.7)

   電子レンジ(ウェイト:4)
   △9.0(△6.8)

   電気炊飯器(ウェイト:11)
   5.7(13.3)

   ガステーブル(ウェイト:3)
   8.2(5.3)

   電気冷蔵庫(ウェイト:16)
   △11.3(△7.6)

   電気掃除機(ウェイト:9)
   4.8(2.2)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)(ウェイト:7)
   4.3(3.5)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)(ウェイト:7)
   0.3(△4.2)

エアコン

  冷暖房用器具(ウェイト:37)
  3.4(2.2)

   ルームエアコン(ウェイト:30)
   4.9(3.2)

   温風ヒーター(4)
   0.7(△1.1)

   空気清浄機(3)
   △7.9(△4.3)

  一般家具(18)
  0.6(0.7)

   整理だんす(5)
   1.2(2.2)

   食堂セット(9)
   0.5(0.0)

   食器戸棚(4)
   △1.2(0.2)

記事を作成していて今気づいたのですが、私一つ大きな思い違いをしていました。

家具・家事用品>家庭用耐久財 費目の内、「冷暖房用器具」は「家事用耐久財」に含まれるものと考えていたのですが、どうやら違いましたね。

冷暖房用器具は「家庭用耐久財」中分類費目の直下に入る費目で、「家事用耐久財」からは独立していたようです。

2016年2年7月までは「冷暖房用器具」も「家事用耐久財」同様物価の足をひっぱる主要因として働いていたこともあり、同一視していましたが、違いましたね。

2017年10月度の結果としては、家庭用耐久財全体としては前年同月比0.8%と+方向に働いているものの、「家事用耐久財」は9月度のプラス成長から一転して再び前年同月比0.9%のマイナス成長へと転じています。

ですが、「冷暖房用器具」が9月度の+2.2%より更に+3.4%と急成長したため、家庭用耐久財全体としては9月度の1.2%と比較するとやや縮小したもの、0.8%のプラス成長を維持することが出来た・・・というのが今回の家庭用耐久財費目の正当な評価ですね。

ただし、家具・家事用品全体では9月の-0.2%より-0.3%と更にマイナス幅を広げています。

家事用耐久財そのものが上昇幅を縮小させていることもその一つの原因ではありますが、その最大の要因となっているのは「家事用消耗品(ウェイト87)」の前年同月比-2.4%(9月-2.3%)ですね。

トイレットペーパーや洗剤、芳香剤関係の物価下落です。

所謂石油精製品なのですが、このあたりの物価が下落している理由をもう少し明確に把握出来たら一度記事にしてみたいものですね。


その他

もう一つの物価を下落させる要因となっている「教養娯楽」分野ですが、こちらは確かにマイナス要因として働いてはいますが、先月の+0.2→-0.1に転じた程度で、継続して物価を下落する主要因として働いているわけではありません。

この中で下落要因として働いているのは「教養娯楽耐久財」「教養娯楽用品」の2項目。

ただし、テレビやPCなどのいわゆる「家電製品」が含まれる「教養娯楽用耐久財」は2017年度ではマイナス幅が4月3.5、5月3.7、6月3.7、7月4.0、8月2.8、9月2.1、10月1.1と7月をピークに下落幅が縮小する傾向にあり、物価を下落させる要因としては少しその影響力を弱めている様です。

10月度で下落幅が大きかったのはウェエイト31の「教養娯楽用品」。耐久財のウェイトが11ですから、物価に対する影響力としては用品の方が大きくなっています。

品目要因としては「運動用具類(特にゴルフバッグ)」や「玩具」などの影響が大きくなっています。

ただし、この「教養娯楽用品」も、今月、先月と確かにマイナス成長を記録していますが、こちらも毎月同じ状況が続いているわけではありませんので、下落要因としては一時的なものかと思います。


さて。いかがでしょう。本当はもう少し掘り下げて「交通・通信分野」の成長分野なども見てみたいのですが、時間の都合上、今月はここまでとしたいと思います。

関心があればぜひ、統計局データ などを参考に、例えば「交通」の中でも「ガソリン」と「自動車」は実際どうなのか、などのデータをぜひ調べてみてくださいね。



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この記事のカテゴリー >>日本の税収の見方


先月の記事 と同じ振りにはなりますが、本日(2017年12月1日)には同時に消費者物価指数についてもデータが更新されていますので、後ほどこちらの情報も記事にしたいと思います。


2017(平成29)年度10月分税収

201710月税収
PDFダウンロードはこちら

【2017(平成29)年度8月分税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 10月分 0.92兆(98.9%) 累計 8.82兆(104.8%)

 源泉分 10月分 0.91兆(99.0%) 累計 8.29兆(105.2%)
 申告分 10月分 0.018兆(92.0%) 累計 0.52兆(98.5%)

法人税 10月分 0.41兆(113.5%) 累計 1.105兆(162.0%)

消費税 10月分 1.419兆(106.7%) 累計 5.75兆(102.0%)

一般会計全体 10月分 3.63兆(103.2%) 累計 20.44兆(105.0%)



【法人税評】

先月の記事で、8月決算を迎えた法人の法人税について、

「8月決算の企業もあるかと思いますが、その数字は来月に出てくるのではないかと考えられます」

という情報を掲載しました。9月分が1882億円であったわけですが、10月分は4,186億円となっています。前年同月比でも113.5%となっており、法人税の好調ぶりがうかがえます。

平成29年度(2017年度)の法人税納税額は予算ベースで昨対120%となっているわけですが、現時点での累計は前年同月比で162%。

進捗は6.6%で、まだまだ法人税納予算額のほんの一部にすぎませんが、やはり期待させてくれる数字ですね。


【所得税評】

こちらは・・・少し残念な感じですね。

7月の記事 で所得税の内、特に「源泉徴収分」が好調であることを引き合いに、「2017年度の景気の好調ぶりを示している」と記したわけですが、9月の昨対100.7%に引き続き、10月分の99.0%と、8月分で持ち上げた割には、9月、10月と源泉徴収分は低迷が続いています。

厚労省の毎月勤労統計でボーナスの影響を見てみたのですが、少なくとも「従業員5名以上の事務所」のデータを見る限り、ボーナスは基本7月に支払われているのですが、7月の一人当たりボーナスは前年度割れ。これが前年給与所得の前年割れの原因となっていました。

ただ、「所定内給与(ボーナス以外)」は前年度をオーバーしており、また8月は前年給与所得全体が前年度をオーバーしていますので、

 「ボーナスで一括して支払われるのではなく、所定内給与に上乗せされる傾向」

が見られるのではないでしょうか。しかしこのことが10月の所得税源泉徴収分にどう影響したのか、というところまではわかりません。

とはいえ、累計では源泉徴収分が105.2%、所得税全体が104.8%と好調を維持していますから、来月以降の実績に期待したいところです。


【消費税評】

先月に引き続き、ここは一つのポイントとなっています。

毎度お伝えしていますように、消費税は昨年度の消費納税額に合わせて、

 「毎月」「3か月に一度」「半年に一度」「年に1回」

の4パターンに分けられており、今年度の実績は今年度が終了するまでわからないわけですから、分納する際の納税額は「昨年度の納税額」を参考に決められています。

つまり、今年度の納税状況を見れば、昨年度の「消費」が本当に不調であったのか、それとも好調であったのかということを知る一つの指標になるわけです。

また、先月の記事 では、

来月は10月。これまでは納税ペースが毎月、または3か月に1度の企業が納税していたわけですが、10月には半年に一度の企業、そして決算月を8月に迎えた企業が納税を行います。

つまり、いよいよ昨年度ではなく、今年度の消費状況を反映した納税が行われるわけです

と記しました。

そう。今月の消費納税額の実績には、納税回数が「半年に一度の企業」が登場するほか、「決算月を8月に迎えた企業」もまた納税しているわけです。

「消費税の納税期限」は「事業年度終了の日の翌月から2か月以内」となっていますから、多くの企業が8月の実績を下に10月に納税することがその理由です。

そしてその実績が「前年同月比『106.7%』」であり、累計ではついに「前年同月比102.0%」と前年を2%上回る実績を示してきました。

昨年度の実績と今年度の実績が混在している状況ではありますが、この時点で「昨年度の消費は一昨年の実績を2%上回っていたのではないか」との推測が成り立ちます。

もちろん単純に「そうだ」と決められる情報ではありませんが、安倍内閣の目指す「2%の物価上昇」が、実は達成されつつあったのではないか・・・との推測が成り立つわけです。

「消費者物価指数」と一概に申しますが、「物価」で考える場合、少なくとも安倍内閣が目指す物価上昇は、「単体の物価がいくら上昇したのか」ということではなく、「消費総額全体で前年度を何%上回ったのか」。これを示しているはずです。

政府の示すマクロデータの多くは、サンプル指標のバイアスや、サンプル指標からマクロデータを導く際の計算式上のバイアスが含まれており、そのデータを何の疑いもなく「真実だ」とみるには難があります。

ですが、この「税収」という項目は、確かに正確に納税が行われたのかどうか、という個人レベル、企業レベルでの「行動」が原因となって起きるバイアスこそ発生しますが、それを織り込んで尚、人為的に決められたサンプル指標から人為的に計算式によって導かれた「GDP」や「CPI」などのマクロデータと比較すれば、よほど信頼に足るデータだと私は考えています。

次のポイントとなるのが12月分の実績が統計化される2月(12月に決算月を迎える企業もありますので)。

つまり今後11月~1月のデータは、昨年の「消費」を図る指標としてはまだ有効だということ。

来月以降のデータも楽しみにしながら、かつこれからは「今年度」の実績を図るデータとしてもこの「消費納税額」を活用したいと思います。


【一般会計税収評】

さて。一般会計税収全体では、10月の納税額は前年同月比103.2%。累計で105.0%となっています。

8月の111%、そして9月の103.7%と比較しますと、ややペースこそ落ちたもの、未だ前年同月比103.2%と好調を維持しています。

一般会計税収累計の予算が104%ですから、予算ベースを1%上回る実績。

「税収の上振れ」で考えますと、その金額は1947億円。9月の上振れが2233億円ですので、金額は減少していますが、これを「景気対策」のための財源として活用できることを考えると、ぜひ増加てほしいものです。

そのためにも「所得税」を筆頭とする3大税収には頑張ってもらいものですね。



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