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第376回 バイエルン人とフランク王国〜ドイツ人の誕生

前回の記事では、バイエルンを支配した「フランク王国」。これを建設したフランク人について主に記事にしました。

また一方で、フランク王国の支配下にありながら、「五大公国」の一つとして自治権を認められたバイエルン公国。

この「バイエルン公国」が東方へと進出し、「オストマルク」。後の「オーストリア」に「植民」を行っていく様子もまた記事にしました。

今回の記事の舞台はこのバイエルン公国と「オストマルク」。ここを舞台として記事を作成したいと思います。

オストマルク東方辺境伯

「オスト」とは「東方」の事。「マルク」とは「辺境区」の事を指すのだそうです。つまり、「オストマルク」とは「東方辺境区」の事。

バイエルンの「東方」の「辺境区」であったことから名づけられた名称です。「オストマルク東方辺境伯」とは「東方辺境区東方辺境伯」という、同じ言葉を繰り返し使っていることになりますね。

第374回の記事 で「パンノニア」という地域について記事にしたことがありますが、「オストマルク」とはこの一部です。オストマルクの更に東側に「ハンガリー」という地域があります。

フランク王国のカール大帝は、この地域にいたアヴァール人を打ち取ると、ここ地域に「辺境伯」を設けます。ですので、この役職の事を記事によっては「パンノニア辺境伯」と記されているものもあります。

バイエルンを占領したカール大帝は、自分の臣下であったバイエルン貴族、ヴィルヘルム家に、「オストマルク東方辺境伯」の爵位を授けます。(799年)

そして、この地域にバイエルンからの「移民」を誘致したんですね。

ウィーン

こちらは、現在のオーストリアの首都、ウィーン。

一方、東フランク王カールマンの時代に、彼の側近を務めた人物、ルイトポルト(バイエルン人と思われます)は東フランク王アルヌルフの時代に、バイエルン辺境区であるケルンテン辺境伯としての爵位を授けられます。

ケルンテルン

こちらは「ケルンテルン」。現在ケルンテルンはオーストリアの一つの「州」となっています。

彼は息子を東フランク王と同じ「アルヌルフ」と名付け、ルイトポルトの息子であるアルヌルフは後に「バイエルン公」としての爵位を授けられます。

926年、彼の弟であるベルトルトは「ケルンテン辺境伯」としての地位を与えられるわけですが、938年、ベルトルトが「バイエルン公」の座につくと、ケルンテルンは一時的にバイエルンの一部となります。

ということは、この「ケルンテルン」という地域は「オストマルク」には含まれていなかった、ということですね。

少し話が脱線しました。


ヴィルヘルム家によって統治されることとなった「オストマルク」ですが、カール大帝が目的としたように、この地域は東方より異民族によって攻め立てられることとなります。

828年にはスラブ民族が侵入してきたことにより、フランク王はこの地域を「特別区」として指定。907年にはハンガリーよりマジャール人(のちのハンガリー人)が攻め込んできます。

オストマルクはマジャール人に撃破され、マジャール人はバイエルンにまで侵入してきます。

ここに当時の東フランク王であるオットー大帝いる親衛隊が到着するわけですが、この軍もまた窮地に陥ります。

そんなオットー大帝軍の援軍に駆け付けたのがオットー大帝の娘婿であるロートリンゲン大公のコンラート赤毛公。コンラート公はこの戦いで戦死してしまいますが、ついにハンガリー軍を退けることに成功します。(レヒフェルトの戦い)

この当時のバイエルン公はアルヌルフの娘と結婚したハインリヒ1世(オットー大帝の弟)。そして、レヒフェルトの戦いの後、ハインリヒ1世の後を彼の息子、ハインリヒ2世が継ぎます(当時まだ4歳)。

973年、オットー大帝の息子であるオットー2世が皇帝の座につくと、ハインリヒ2世はオットー2世と対立するようになります(お互いに従弟)。

ハインリヒ2世はオットー2世に対して反乱を起こします。

彼はバイエルン公であったわけですが、バイエルン軍はオットー2世軍に敗北。ハインリヒ2世はバイエルンから亡命し、オットー2世は代わりに自身の従弟(ハインリヒ2世も従弟なんですが)である「シュヴァーヴェン公オットー1世」をバイエルン公として即位させます。

【シュヴァーヴェン】
シュヴァーヴェン

同じ名前がいっぱい出てきてややこしいですね。

この時、バイエルンの一部はオストマルク辺境伯とケルンテルン公によって分割されることになります。

オストマルク辺境伯にはドネガウ伯レオポルト1世は(バーベンベルク家)へと与えられることになります。この時、「オストマルク」は「オーストリア」へと正式に改められます。


さて。前回の記事では、この記事で「ハプスブルク家」の誕生まで行きつくことを示唆したわけですが、ハプスブルグ家が登場するまでにはもう少しかかりそうです。

今回の記事は、ここでいったん終わりにします。



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第375回 バイエルン人とプロイセン人~プロイセン人編~

今シリーズ では、親シリーズである「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」において冒頭に作成したシリーズ「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」を作成する中で、大切だとは思うけれども追及できないままになっていた「ロシア(ソ連)」に関連するシリーズ と共に、「ドイツ」と日本の歴史とのかかわりを追及することを目的として作成しています。

特に、日本が「第二次世界大戦」に参戦する理由となった「日独伊三国同盟」。

日本とドイツとが同盟関係を成立させたことが、特に日米の関係を硬化させる一つの理由となったわけですが、私が今回の記事に託したミッションは、「なぜ日本とドイツが同盟関係を成立させたことが結果的に日本の第二次世界大戦への参戦へとつながったのか」という、その理由を探ることになります。

これを日本側ではなく、ドイツ側から探っていくことを目的としています。

そんな中、特に大きくなるのが「ナチスドイツ」の存在。

「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」。これをまずは最大の命題として今シリーズは作成しています。

「ナチスドイツ」が誕生した瞬間にフォーカスしましと、まず見えてきたのは、同じ「ドイツ人」の中でも「バイエルン人」と「プロイセン人」との間での対立。特にバイエルン人のプロイセン人に対する「反発心」です。

そして「ナチス」が誕生したのは「バイエルン」。

そこで、まずは「バイエルン人」が誕生するに至った経緯を 第374回の記事 で、一方の「プロイセン人」の誕生とその国家が拡大する敬意を 第375回の記事 にて検証いたしました。

現段階で見てて来たのは、「バイエルン人」は確かにいくつかの民族の間で混血が進んでこそいるものの、バイエルン人が「バイエルン」に移住し、ここで定住を始めて以降は多民族を排斥し、自分たちの血統を守るかのようなふるまいを行っていたこと。

また「プロイセン人」はその名前の由来となった「プルーセン人」はドイツ人に「同化」され、初期のプロイセンに国家を築いた「ドイツ騎士団総長」の血統ですら途中で途絶え、代わりにプロイセンを統治した「ブランデンブルク選帝侯」がプロイセンの王となり、最終的に「ブランデンブルク」と「プロイセンは」「西プロイセン」を吸収して陸続きとなったこと。

ブランデンブルクはプロイセン王国の一領土となり、この時点で既にその血統を守り続けたバイエルン人と違って、「プロイセン人」をあらわすのはその血統ではなく、「プロイセンという土地に住む人」以外の意味を持たなくなってしまったということがわかりました。

今回の記事では、プロイセン人から再び対象をバイエルン人へと移し、今度はバイエルンに定住した後の「バイエルン人」の動向を追いかけてみたいと思います。


「フランク王国」と「バイエルン人」

ドイツ騎士団がプルーセン人の居住区を征服し、ここにドイツ人国家を築いたのは1230年のことです。

元々ここに居住していたプルーセン人はその後、ドイツ騎士団やフランケン地方から移住してきたドイツ農民たちに同化され、この後、事実上消滅してしまいます。

ですので、ナチスドイツが誕生した「バイエルン」に居住していたバイエルン人が対立していた「プロイセン人」は、少なくともそのルーツをたどろうとしても、この1230年の出来事までしかたどることはできません。

ですが、バイエルン人は、6世紀の段階では既に「国家」を建設しており、史実としてバイエルン国家が初めて歴史に登場するのは、西暦591年に生涯を閉じることとなるガリバルト1世の時代です。

バイエルン部族公であった人物ですね。

この当時、ヨーロッパはフランク人国家である、「フランク王国」によって席巻されており、ガリバルト1世時代のバイエルンもまた、この「フランク王国」の脅威にさらされていました。

フランク王国561

これはガリバルト1世時代のフランク王国。分割されている様に見えますが、4名のリーダーが統括するエリアはすべて「フランク王国」に所属しています。

フランク王国があった地域は、もともと「西ローマ帝国」と呼ばれていた地域で、西ローマ帝国は486年、メロヴィング朝フランク王国によって消滅させられてしまいます。

バイエルンン公国もまたフランク王国より圧力をかけられ、788年、バイエルン公であったタシロ3世はバイエルンから追放され、カロリング朝フランク王国(カール大帝)に併合されてしまいます。

ただ、併合され、別のフランク貴族にバイエルンは与えられるのですが、実際にはこの土地の自治権がバイエルン人に認められ、バイエルン人には政治的独立が保証されることになります。

そしてフランク王国内においてバイエルン人は東方へと進出し、「オストマルク」という地域まで領土を広げます。「オストマルク」とは後のオーストリア地方。オーストリアとバイエルン人との関係はこの時から始まったんですね。

カール大帝はバイエルン貴族であるヴィルヘルム家に「オストマルク東方辺境伯」としての爵位を与えます。

同じカロリング朝時代にフランク王国はカロリング朝を築いたカール大帝の三男で、カール大帝の後を継いだルートヴィヒ1世の下で領土が3人の息子に、3分割して相続されることが決められるわけですが、ルートヴィヒの下にもう一人子供が生まれたことで、相続争いが勃発。最終的に戦争にまで至った後、「ウェルダン条約」によってフランク王国は「西フランク王国」「中フランク王国」「東フランク王国」の3つに分割されます。

フランク王国分割

赤が西フランク、緑が中フランク、黄が東フランク。

この後、中フランクは更に分割され、その一部が後の「イタリア」に、西フランクが「フランス」に、「東フランク」が「ドイツ」の基盤となります。(イタリアを除く部分は西フランクと東フランクで分割される)

そして「バイエルン」が割り当てられたのは当然「東フランク」。

面白いのは、この時「東フランク」に割り当てられた地域で、もともと「フランク王国」であった場所は地図中「フランケン」の中に一地域にすぎず、「ザクセン」はザクセン人の、「バイエルン」はバイエルン人が元々統治していた地域であり、統治者であるルートヴィヒ2世にとって見れば「異民族」であったわけです。

元々「フランク人」とは、「ローマ帝国」に急襲した「ゲルマン人」の総称。どこか特定の民族を差す名称ではありません。

ローマ人が、ライン川中流域に居住するゲルマン人の事を総称して「フランク人」と呼んでいたようです。

西ローマを滅ぼし、カロリング朝の王であるカール大帝は「ローマ皇帝」としての位を獲得するわけですが、その支配者層にはバイエルン人を含む様々な民族出身の貴族が加わっており、フランク王国は「多民族共生を基調」としていた、とのことで、フランク王国の支配下にありながら、バイエルン人に自治権が認められていた理由の一つではないかと考えられます。


「東フランク王国」とバイエルン人


さて。そんな「東フランク王国」ですが、その首都がおかれたのが「レーゲンスブルク」という都市で、バイエルンにある都市。そんなことで、バイエルンは東フランク王国の中心地として大いに栄えることとなります。

東フランク王国を引き継いだルートヴィヒ4世ですが、彼には嗣子(しし:跡取り)がおらず、まずここで東フランク王国から「カロリング朝」の血筋は途絶えます。

既に記しましたように、「東フランク王国」は生粋のフランク人が作り上げた地域ではありません。バイエルン、ザクセン、フランケンなど、「異民族」が統治していた地域を吸収する形で出来上がった地域です。

一方でフランク人たちはフランク王国の再建に固執し、外征を繰り返したことから肝心の東フランク王国の統治はないがしろにされ、更にこの地域からフランク王朝の血筋が途絶えてしまいました。

数少ないフランク人の血筋は異民族と同化され、東フランク王国から「フランク人」は消滅してしまいます。

ルートヴィヒ4世没後、東フランク王国は元々この地域に居住していたゲルマン人たちの合議によって運営されることとなり、次に選ばれた王はフランケン公コンラート1世(ドイツ王国の誕生)。

彼にも嗣子がいませんでしたので、生前に彼が指名したザクセン公ハインリヒ1世が王位を継承します。ハインリヒ1世はコンラート1世と対立状態にあり、他の地域との折り合いもつかず、内戦状態にありました。王国を分裂させないための苦肉の策だったんですね。

そして、選ばれた王はバイエルン人ではありませんでした。

929年、ハインリヒ1世は次男のオットーを後継者に指名し、937年7月に病没。その後、東フランク王(ドイツ王)オットー1世が誕生します。この後、バイエルン人は冷遇されていくこととなります。

彼は自分の娘婿をフランケン大公・ロードリンゲン大公に、弟のハインリヒをバイエルン大公に据えます。(ロードリンゲン大公は後にはく奪されます)

951年、自身は更に「イタリア王」を名乗り、後に親族の活躍もあって異民族を撃退、またイタリアの統治を委せていたベレンガーリオとアダルベルトの父子の反乱からローマ教皇を救ったことなどから、オットー1世は恐慌の信頼を得、ローマ教皇より皇帝の冠を授けられることになります。(960年:神聖ローマ帝国の誕生)

ちなみに、「ザクセン公」の「ザクセン」とは、英語では「サクソン人」。4世紀後半~5世紀にかけて、サクソン人の一部は「アングル人」や「ジュート人」とともにブリテン島、現在のイギリスにわたり、「アングロ・サクソン人」となります。

さて。この後、しばらく「バイエルン人」は歴史の表舞台から姿を消すのですが、この後、バイエルン人が東進・植民し、その基礎を築いた「オストマルク」。後の「オーストリア」に、ついに「ハプスブルク家」が登場します。

次回のきじでは、この「ハプスブルク家」が登場する時代にまで時間を進めて、「バイエルン人」と「プロイセン人」がなぜ対立するに至ったのか。このあたりの内容を記事にしてみたいと思います。



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第374回 バイエルン人とプロイセン人~バイエルン人編(初期)~

ナチスドイツが誕生した地である「バイエルン」。

同じドイツ人の中でも、ここに居住する人たちのことを「バイエルン人」と呼ぶわけですが、前回の記事ではこのバイエルン人のルーツについて深堀してみました。

今回の記事では、同じドイツ人でありながら、そのルーツをバイエルン人とは異にするもう一つの民族、「プロイセン人」について記事にしてみたいと思います。


プロイセン人とは?

プロイセン州

前回の記事でも用いましたが、こちらは第一次世界大戦当時の「プロイセン」です。

バイエルンが後にこの地へ入植したバイエルン人の名前に由来していることとは違って、プロイセンは先住民族である「プルーセン人」にその名前が由来しているようです。

第292回の記事 の中で、ちょうど私はこの「プルーセン人」に関連した記事を作成していますね?

せっかくなので、その部分を抜粋してみます。

さて。一方で「ドイツ騎士団」ですが・・・。

モンゴル

地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

これは、「プロセイン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

もう少し拡大しますと、「ドイツ騎士団領」とは、この位置。

東プロイセン

後に「東プロイセン」と呼称される地域です。

「プロイセン」とはすなわち、もともとプルーセン人の居住地であった土地に、プルーセン人をキリスト教化することを目的として派遣されたドイツ騎士団が、プルーセン人を征服し建設した「ドイツ騎士団領」が発祥である、ということになりますね。

ですが、実際の「プロイセン」は最大で地図の薄いクリーム色の領土にまで広がるわけで、当時のプロイセンとは比較にならない大きさにまで成長することがわかります。

Wikiに記されている言葉を信用するとすると、

騎士団員は修道士の戒律に従い私有財産の所有も妻帯も許されなかったが、ドイツからは領土を持たない貴族の子弟が次々と入会し人材は豊富となり、フランケン地方からドイツ農民を入植させた。

とありますので、ここにドイツ騎士団の血は入らなかったが、フランケン地方から入植させられたドイツ農民と元々のプルーセン人との同化が進められた・・・ということでしょうか。

「フランケン地方」とは、現在のバイエルン州の北部に相当する地域なのだそうです。

バイエルン州

ウンターフランケン
ウンタ―フランケン
ミッテルフランケン
ミッテルフランケン
オーバーフランケン
オーバーフランケン

元々はバイエルン州ではなく、1800年代にバイエルン州に吸収されたのだそうです。

「ドイツ騎士団」が形成した「ドイツ騎士団国」は、

ドイツ騎士団国

最終的にここまで領土を広げます。

「Kingdom of Poland」と記されている部分はの上に、「Pomerelia(ポメレリア)」と記されているエリアがあり、ここが薄いエンジのラインで囲まれています。左上の枠の中で「until 1466 ceded to Poland-Lithuania」と記されており、1466年までの13年間、ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団との間で行われた戦争の結果、この地域がポーランド=リトアニアに譲渡されたことを示しています。

この地図だけだとイメージしにくいと思いますので、改めてプロイセンの地図を重ねてみます。

プロイセン州

上図の濃い青と青に挟まれた、グレーの部分がドイツ騎士団国の「Kingdom of Poland」と記されている部分。つまりポーランド領です。

ポーランド領以西には「Holly Roman Empire」と記されていますので、つまり「神聖ローマ帝国」になります。

第292回の記事 でドイツ騎士団とポーランドとのかかわりに少し触れているわけですが、同記事に記している様に、ローマ教皇の命を受けて東プロセインにまで進出してきたドイツ騎士団は、ポーランドにまで手を広げたわけですが、最終的にポーランド=リトアニア連合に敗戦し、ポメレリアの他クルマーラント、エルビング、マリーエンブルク、ヴァルミアをそれぞれポーランドに譲渡することとなります。

ドイツ騎士団割譲

上図、水色、緑、ピンク、黄色のエリアです。これらのエリアが「西プロイセン」になります。(黄色のエリアは除く)

これらの地域は「ポーランド領プロシア」と呼ばれるようになります。残された東プロイセンはドイツ騎士団領として継続しますが、ポーランドの事実上の属国となりました。この時点は「プロセイン人」と「ドイツ騎士団」とが同義で用いられていますね。

1525年にはカトリック教会公認のドイツ騎士団。その総長であるアルプレヒト・フォン・ブランデンブルクがドイツ騎士団をプロイセンから放逐した上でプロテスタント(ルター派)へと改宗し、ポーランド王の下で「プロセイン公爵」となり、プロイセンは「プロイセン公国」となりました。

1618年には男系の血筋が途絶えたため、ブランデンブルク選帝侯(ブランデンブルクは現ドイツの一部)が公位を継承し、「ブランデンブルク=プロイセン」となります。

1660年、ポーランド・リトアニア共和国より独立。父親であるフリードリヒ・ヴィルヘルムよりブランデンブルク選帝侯と同時にプロイセン公を引き継いだフリードリヒ3世は、「スペイン継承戦争」でハプスブルク家に味方することを約束した代償として、神聖ローマ皇帝より「プロセイン王」としての称号を与えられます。

「プロイセン王フリードリヒ1世」となり、プロイセンだけでなく「ブランデンブルク=プロイセン」全体が「プロイセン王の領土である」とみなされるようになります。

第296回の記事 でも話題にしましたが、ポーランドは後に分割されてしまい、「国家」としては事実上消滅してしまうわけですが、1772年、第一次ポーランド分割の折、ドイツ騎士団国からポーランドへ譲渡された「ポーランド領プロシア」は「プロイセン王国」へと併合されます。

結果、「ポーランド領プロシア」は「西プロイセン州」に、ドイツ騎士団がプルーセン人から奪った、もともとの「プロイセン(プロイセン公国に該当する地域)」は「東プロイセン州」となります。

1815年には「ブランデンブルク選帝侯領」であった地域は「プロイセン王国ブランデンブルク州」となり、元々

東プロイセン

こんなちっぽけな領土であったはずの「プロイセン」が、最終的には

プロイセン王国

ここまで大きな領土へと拡大してしまいます。

もはや「プロイセン公国」時代の領土などへのツッパリにもなりません。

もうお気づきだと思いますが、既にこの「プロイセン」はプロイセンであってプロイセンではありません。

元々の「プルーセン人」は完全に同化されて見る影すらありませんし、そもそもプロセインを「国」としてまとめ上げたドイツ騎士団はプロイセン公国が誕生する以前にプロイセン(東プロイセン)から追い払われてしまっています。

また、その「ドイツ騎士団」総長で、ドイツ騎士団を追い出して「プロイセン公国」を作った「アルプレヒト・フォン・ブランデンブルク」の血統は途中で途絶えており、「プロイセン王国」の初代王となったのはブランデンブルク選帝侯である「プロイセン王フリードリヒ1世」。

もはや度の血筋を「プロセイン人」と呼べば良いのかすら全くわからない状態です。

この時点でプロセイン人とはすなわち「プロイセンに住む人」以外の意味を持たなくなっていますね。

そしてこの騒動は「神聖ローマ帝国」の皇帝の下で起きた騒動です。

次回記事では、再び話題を「バイエルン人」へと戻し、バイエルンに定住した後のバイエルン人の動向を深堀してみたいと思います。



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第373回 ナチスドイツが誕生するまでのドイツ

さて。前回の記事でもお伝えしました通り、今回の記事ではナチスドイツ誕生の地、「バイエルン」。同じドイツ人ではありますが、「バイエルン・レーテ共和国」が建設れた地域に住むバイエルン人について記事にしたいと思います。


バイエルン人とは?

バイエルン州

こちらは現在のドイツの「バイエルン州」。

プロイセン州

こちらが第一次世界大戦当時の「プロイセン州」です。


「バイエルン」という言葉は、もともとゲルマン語で「ボイイ住民」という意味なのだそうです。

「ボイイ人」とは、もともと中央アジアの草原に住んでいた「ケルト人」をルーツに持つと考えられており、このボイイ人と同じくケルト人をルーツに持つのではないかと考えられる「スエビ人」をルーツに持つと考えられる「マルコマンニ人」。

この2つの民族が融合したものが「バイエルン人」なのではないか、と考えられているのだそうです。

ちなみに、チェコ

現在の「チェコ共和国」の一地域である

ボヘミア

「ボヘミア」とは、「ボイイの故郷」という意味で、すなわちボイイ族がもともと居住していた地域・・・なんだそうです。

彼らはここからさらに

ポー平原

ポー平原というところを軍事侵略し、ここから更に南下してイタリア北部までにその居住区域を広げるのですが、後にローマ帝国との戦争に敗れ、彼らはこの地域から撤退せざるを得なくなります。


パンノニア戦争

イタリアを侵略する以前から、彼らボイイ族が定住していた地域が「パンノニア」という地域です。

パンノニア

現在のハンガリーにあたる地域ですね。

ハンガリー

紀元前9年、ボイイ族の故郷であったボヘミアにやってくるのがマルコマンニ人。ローマ軍に追い立てられてやってきます。

マルコマンニ人はこのボヘミアに王国を築くのですが、紀元後1世紀にはマルコマンニ族の王はローマの承認を得て測位するまでになっていたのだそうです。

ところが、紀元2世紀頃になると、マルコマンニ族はローマに反旗を翻し、マルコマンニ族とローマは戦争状態に。最終的な戦場となったのがパンノニアで、敗戦後、マルコマンニ族はここ、つまり現在のハンガリーに定住するようになったのだそうです。

ここでマルコマンニ族とボイイ族との混血が進んだんでしょうね。つまり、これが「バイエルン人」の起源だということになります。


「バイエルン」と「バイエルン人」

つまり、「バイエルン人」の元々のルーツは、現在の「バイエルン州」とは何の縁もゆかりもない地域に住んでいた人々。

ボイイ族、そしてマルコマンニ族の前身であるスエビ人の出身であるケルト人はもともと中央アジアに住んでいた民族で、鉄製の武器や馬にひかれた戦車などをヨーロッパに持ち込んだ一族です。

そして、もともと「バイエルン」と呼ばれる地域に住んでいた民族こそこのケルト人で、バイエルン人たちがここにたどり着くまで、「ノクリム王国」というケルト人国家が存在していました。

紀元前16年ころ、ノクリム王国はローマによって征服され、ローマの一「属州」として併合されます。

もともとケルト人国家であったはずの「ノクリム」に、地理的に近い位置に存在したイタリアより数多くのイタリア人が入植するようになり、ノクリムは徐々に「ラテン化」されていきます。要はケルト人とイタリア人との混血が進んでいった、ということですね。

「ローマ帝国」の首都「ローマ」はイタリアにあるわけですから、当然と言えば当然かもしれません。

ローマ帝国が分裂し、西ローマ帝国が崩壊する頃を迎えると、今度は東側から「フン族」や「アヴァール人」などの遊牧騎馬民族が中央アジアから侵略してくるようになり、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」が起こります。

そしてハンガリーに居住していたバイエルン人はこれに押される形で西側に移動し、当時の「ノクリム」、現在の「バイエルン」に到着します。

バイエルン人の元となったボイイ族やマルコマンニ族はケルトの出身ですし、バイエルン人の中には故郷のボヘミアから南下し、イタリア北部で定住していたボイイ族も含まれています。

イタリア北部で定住していたボイイ族は、もともとイタリアに居住していたエトルリア人との混血も進んでいますので、元々ケルト人国家であり、ローマ帝国時代にイタリア人が移住していた「ノクリム」の地域とバイエルン人は以上に相性が良く、この土地はやがてバイエルン人の名称から「バイエルン」と呼称されるようになりました。


当然ながらバイエルン人たちとこの「ノクリム」に居住していたケルト人たちとは混血が進みますから、最終的にバイエルン人とは「ボイイ」「マルコマンニ」「ケルト」「イタリア」という4つの遺伝情報がまじりあった民族として成立します。

そしてこの「バイエルン人」。今後自分たちが居住している「バイエルン」という土地に、自分たち以外の他民族に入植させないよう「腐心」することになります。

ドイツ人に「保守的だ」というイメージが強いのは、きっとこのバイエルン人たちの保守性を意味しているんだろうな、と思います。

バイエルン人に対する深堀はいったんここで終了し、次は「プロイセン人」について話題を深めてみたいと思います。



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今シリーズは、シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 の冒頭、第291回の記事 においてお示しした、命題を回収することを目的として作成するものです。

シリーズとしては、なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか の子シリーズとして作成するもので、最終的な目的としては親シリーズタイトルにございます通り、日本が第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こすに至った理由を調査することを目的としています。

ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 のシリーズを作成する以前に、十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 のシリーズを作成していたわけですが、記事の中で、意図的にその具体的な調査を行っていないのが「ロシア(ソ連)」と「ドイツ」の2カ国。

疑問には思いつつも、そこを深堀してしまうと本来知りたい「日中戦争はなぜ起きたのか」というテーマから離れてしまいそうな気がしていましたので、あえて触れずに来たテーマです。

ロシア(ソ連)については ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 である程度回収はできたものの、現時点の感覚としては「ソビエト連邦誕生に至る経緯」と同時に、スターリン政権誕生後のソビエトを調査することですべてを補完することが出来るかな、と感じていますので、まだ道半ばではあります。

ただ、「レーニン」や「トロツキー」という2名の人物の存在にまで深堀出来たことでひと段落はついたかと思いましたので、今度はもう一つのテーマ、「ドイツ」へと移行することとした次第です。


中国の近代史を調べていく中で、どうしても疑問がぬぐえなかったのは、中国人の(一部だとは思いますが)その『残虐性』にあります。

その代表的な事例が1927年の「南京事件」 あり、1928年の「済南事件」、そして1937年の「通州事件」でした。

ですが、同じようなことを中国人たちだけでなく、ロシア人たちもまた、行っていたわけです。(アムール川事件尼港事件

ロシアを調査した理由の中に、その原因を探ることも含まれてはいたわけですが、これが原因である、という明確な理由はつかめていません。

ただ、一通りロシアの近代史についてはおさらいすることもできましたので、今回からスタートするドイツの近代史、そしてその後深めてみたいと考えているソ連スターリン政権についても調査する中で、年代を比較しながら考えてみたいと思います。


前置きが長くなりました。それではいよいよテーマを「ドイツ」へと移してみます。

テーマの深め方として、どのような方法が良いのか、いろいろ考えていたのですが、まずチェックしてみたいのは、シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第351回の記事。ロシアの近代史を追いかける中で、ロシア革命後のロシア(ソ連)とドイツとが接触するまでの様子を記事にしたものです。

この記事の中で、「ナチスドイツ」が誕生した瞬間について記事にしています。

ナチスドイツが誕生したのは、ドイツの中でも特に保守的な市民が多かった「バイエルン」という都市。

ここで「独立社会民主党」が「多数派社会民主党」に武装蜂起を仕掛け、バイエルン・レーテ共和国が成立。さらにロシア出身の共産党員オイゲン・レヴィーネらがこの独立社会民主党が成立させたレーテ共和国に武装蜂起を仕掛け、さらに新しい「レーテ共和国」を発足させます。

ですが、実際にはこのレーテ共和国は1か月しか持たず、ベルリン中央政府より派遣されたワイマール共和国軍らによって占領させられ、この際に共産党員らは自分たちが捕虜としてとらえていた人々を虐殺する、などしています。

このような流れの中で誕生したのが右派政党である国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスです。

さて。このような中、情報として登場したのが「バイエルン人」と「プロセイン人」との対立のお話です。

では、「バイエルン人」とは何で、「プロイセン人」とはいったいどんな民族なのでしょうか?

「ドイツ人」のルーツについては第292回の記事 で触れたことがあります。
神聖ローマ帝国とは、もともと「東フランク王国」と呼ばれていた地域で、「ドイツ人」とは、一般的にこの「東フランク王国」の出身者たちのことを差していたようです。

「プロイセン人」についても触れている部分がございますのです、少し引用してみます。

第292回の記事 より】
地図上部に、紫色で「ドイツ騎士団領」という文字がありますね。

モンゴル

これは、「プロイセン」と呼ばれる地域で、後に「プロイセン王国」が築かれる、その基盤ともなる地域です。
ここに、「プルーセン人」という、「異教徒(キリスト教以外の宗教の信者)」がおり、この人々を「キリスト教化」することに手を焼いていたポーランド国王は、当時ハンガリーにいたドイツ騎士団に呼び寄せ、プルーセン人の対応に当たらせます。

この時、引き換えとしてポーランド国王はドイツ騎士団に対し当時自国領土であった「クルムラント」の領有権を認め、また更にローマ教皇はプルーセン人の土地である「プロイセン」の領有権もドイツ騎士団に対して認めます。

1226年~1228年にかけてのことですから、モンゴル人によるポーランド侵攻以前の事ではありますが、教皇の命を受けてポーランドまで移民してきたドイツ人たちは、やがてポーランドの支配をもくろむようになります。

バイエルン人は田舎者で、プロイセン人は都会人。

バイエルン人はプロセイン人を嫌っていて、第一次世界大戦は「プロイセン人が勝手に起こした戦争」で、そのせいで後の不景気にバイエルン人も「巻き込まれた」という意識もあるようです。

次回以降の記事ではまず、この「プロセイン人」と「バイエルン人」の違いについて、歴史を振り返りながら深めていくことでまず「ドイツ」の歴史について深めてみたいと思います。



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<継承する記事>
第357回 トロツキーとスターリン/レーニンの後継者(前半)

前回の記事では、レーニンやトロツキー、スターリンらのパーソナリティに焦点を当て、特にスターリンのトロツキーに対する印象が良くなく、その考え方の違いからたびたび対立する構造にあったことをお伝えしました。

一方でレーニンが自身の考え方をスムーズに連邦全体の共産党にいきわたらせることの困難さを覚えたこと、これを解消するため、各地域の党委員会を指導する「責任書記」の取りまとめを行う、「書記長」という役職を新設したこと、そしてその「書記長」として、「初代」の役割についた人物こそスターリンであったことをお伝えしました。


グルジア問題

さて、そのスターリンですが、彼が名を馳せる原因となったのはスターリンの出身地である「グルジア」に関連した問題です。

グルジア

簡単に説明すると、帝政ロシア時代からロシアやヨーロッパ諸国の支配下にあったグルジアは1918年5月26日、第一次世界大戦の最中、「グルジア民主共和国」として独立するものの、ロシア内戦後、国内の情勢が悪化し、最終的にスターリン率いるロシア赤軍の進行を受け、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」といて再生されます。

「グルジア問題」とは、この「グルジア・ソビエト社会主義共和国」の扱い方を巡って、ロシアボリシェビキ党内で勃発した政治紛争の事です。

ロシア革命に成功したロシア・ボリシェビキでは、レーニンらが自分たちの革命を模範として世界各国において共産党が主導する形で武装蜂起を起こし、革命を成立させることを目的としていました。



ソビエト化する前のグルジアに対して、トロツキーは

 「グルジア内で武装蜂起が起こせる体制を準備し、ロシアはその武装蜂起を起こすための支援を行う」

ことを主張したわけですが、スターリンは

 「自分たちボリシェビキが主導して早急にグルジアをソビエト化する」

ことを主張します。レーニンは両者の主張に対して曖昧な態度を示すわけですが、最終的にスターリンの主張するグルジアに対しる介入を承認しました。

これは、ロシアやグルジアだけではなく、グルジアを取り囲む世界各国の情勢を危惧してのことです。



スターリンはグルジア侵攻後、「グルジア・ソビエト社会主義共和国」を発足させるわけですが、この「グルジア・ソビエト社会主義共和国」の取り扱いを巡って、ついにスターリンとレーニンが対立することとなります。

「グルジア・ソビエト社会主義共和国」が設立されたのは1921年2月の事。

スターリンが書記局長に任じられたのは1922年4月3日の事です。



レーニンは1918年8月に受けた暗殺未遂の後遺症で、このころから脳の障害とみられる症状が出始めていました。
スターリンが書記局長に任じられた翌月、レーニンは脳卒中による半身麻痺の症状に襲われます。

同年8月、スターリンはグルジアの扱いに関連して、グルジアだけでなく、すべてのソビエト共和国が「自治共和国」として「ロシア連邦共和国」に加入することを主張した「自治化」案を作成しました。

ですが、レーニンはこれを「大ロシア主義排外主義である」として批判し、ロシア連邦共和国は、他の共和国と対等な立場で「ソビエト同盟」に加盟する代案を示しました。

スターリンはこれを「「民族自由主義」」であるとして不満を示しますが、結果的にこのレーニンの案をベースにグルジアは「ソヴィエト同盟」に加盟することとなりました。

ただ、グルジアは独立国家として加盟したわけではなく、アゼルバイジャン、アルメニアとともに、「ザカフカース連邦」として同盟に加盟することとなっていたため、グルジア共産党はこれを拒否し、中央委員会が辞職することとなります。

レーニンとスターリン

その後、スターリンの親友で、共にグルジア侵攻に加わったグリゴリー・オルジョニキーゼという人物が独立派のグルジア共産党員を殴りつけたことから、レーニンはオルジョニキーゼだけでなくスターリンをも批判し、スターリンとレーニンの関係は悪化。

1923年1月4日、病床からレーニンは「大会への手紙(レーニンの遺書)」という覚書によって、「スターリンの不作法な態度、度を越した権力、野心、そして政治を批判」した上で、スターリンを書記長職から解任することを提案しています。

ですが、この時点でスターリンはレーニンへの面会を監督する役職を買って出ており、つまりスターリン政権が終焉を迎えるまでレーニンのこの覚書が表に出ることはありませんでした。


レーニンの死去

1924年1月21日、レーニンは命を閉じました。

考えると、病床に伏した後のレーニンはスターリンがトロツキーから「後継者」の座を奪うために利用され、スターリンを抑える役目であったスターリンがいなくなってしまったことでスターリンはその本性を見せ始めた・・・ととらえることが出来るのではないでしょうか?

レーニンはスターリンだけでなく、その遺書の中でトロツキーに対しても以下のような批判文を掲載してます。

「能力が卓抜しているだけではない。彼個人は多分、中央委の中で最も有能である。しかし余りにも自信過剰だし、文事を余りにも行政的に処理しすぎる」

レーニンが批判した「スターリン」は、少数民族であるグルジア人を力で押さえつけ、「ロシア」という強国の下、支配しようとした、そんな「スターリン」でした。

第62回の記事 でお示ししたように、「共産主義」とはもともと

 『支配するものが存在せず、「政府」そのものが存在しない社会』=『完全なる平等社会』

です。

ですが、スターリンのやり方はこれと全く逆行するやり方であったことは明らかですね。

一方のレーニンは、革命を起こす当初こそ「暴力(武装蜂起)」という方法を用いるわけですが、そのあとに出来上がった社会に対しては上下の区別をつけず、同じ立場として対等の関係を築こうとする様子がうかがえます。

そしてトロツキーは、そんなレーニンが目指す社会を実現するうえで、最短の距離で進むことが出来る方法を選択してきた人物である様に思えます。

トロツキーはスターリンの多数派工作によって徐々に政権の中枢から追いやられ、やがてソビエト連邦からも追放されてしまいます。

トロツキーやレーニンが、「世界で共産主義革命を起こすことが必要だ(世界革命論)」としたの対し、スターリンは「そんなものは世界中で実現しようとせずとも、ロシア一国だけで実現することが出来る(一国社会主義論)」という主張を行いました。

スターリンはこの後「大粛清」と言って、スターリンの考え方に反対する人を一般人まで含めて70万規模で処刑します。
処刑された人物の中にはレーニンが作った中央委員会に在籍していたカーネメフの名も含まれてますね。

トロツキーや彼の親族もまた逃亡先において暗殺されるなど、何となく現在の金正恩政権を彷彿させますね。

そして、ソ連と中国が結びつきを深めるのもちょうどこの当時です。もしソ連の指導者がレーニンのままであったとしたら、中国はあの様に変わり果ててしまうことがあったのでしょうか?

シベリア出兵などで内戦当時のロシアと日本もまた対立関係にはあったわけですが、もしレーニンが病没せず、健在であったとしたら、その後、特に9カ国条約 が結ばれた後の日本とロシア(ソ連)との関係は一体どのようになっていたのでしょう。

既に過去の話ですから、検証することすらできない話ではありますが・・・関心のある話ではありますね。


さて。シリーズ ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯

この話題はいったんここで終結し、「近代史」のターゲットは、次はあの「ドイツ」へと移してみたいと思います。

シリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか」。こちらもお時間はかかると思いますが、少しずつ話題を進めてみたいと思います。



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平成29年度7-9月期GDP第一速報が出ましたので、今回はこの内容で記事を作成してみます。(2017年11月16日)

この件に関する今回のニュースは軒並みこんな感じです。

【朝日新聞デジタル】(2017年11月15日09時48分)
実質GDP7─9月期年率+1.4%、16年ぶりの7期連続プラス成長

[東京 15日 ロイター] - 内閣府が15日に発表した2017年7─9月期国民所得統計1次速報によると、実質国内総生産(GDP)は前期比0.3%増、年率換算1.4%増と、7四半期連続のプラス成長となった。7四半期連続の成長は99年4─6月期からの8四半期連続以来、16年ぶり。ロイター予測の年率1.3%増に沿う結果となった。内需がけん引役だった4─6月期と異なり、外需が全体を押し上げた。

 民間消費は同0.5%減と7四半期ぶりにマイナスとなった。4─6月に極めて高い伸びとなった反動が出たほか、長雨や台風など天候不順が旅行や外食などを下押し。自動車や携帯電話という耐久財も減少した。

 設備投資は同0.2%増と4四半期連続の増加。前期より減速したが、企業の高収益や低金利などの環境が後押しし、船舶や汎用機械、パソコンなどが増加に寄与。一方、工作機械やソフトウエアなどは減少した。

 外需は前期から一転してプラス寄与となった。海外経済の回復が続く中、アジア向けIT関連や米国向け自動車・資本財の輸出が寄与。他方で輸入がエネルギーを中心に減少。スマートフォンの輸入も供給不足で下押しした。

 この結果、内需の寄与度はマイナス0.2%、外需はプラス0.5%となった。

 内閣府幹部は「均してみれば緩やかな回復」とみている。ただ、企業収益が強い割に賃金の伸びが弱く、消費や内需全体の力強さに欠ける面が大きいとしている。

 GDPデフレータは前年同期比プラス0.1%と5四半期ぶりにプラスに浮上。前期比でもプラス0.3%だった。名目GDPは前期比年率プラス2.5%だった。

内閣府

 ポイントとなるのは、

 ・2017年度第2四半期実質GDPが「季節調整系列」「年率換算」で「1.4%」上昇した。
 ・内需がけん引役だった4─6月期(第一四半期)と異なり、外需が全体を押し上げた。

この2点です。毎日新聞だとこの内容が以下の様になっています。

【毎日新聞】2017年11月15日 11時58分
GDP 消費の弱さ、輸出が支え 年1.4%増

 2017年7~9月期の実質GDP成長率は、年率換算で1.4%増と7四半期連続のプラス成長を維持した。だが、個人消費の落ち込みを輸出がカバーし、輸出主導の成長に逆戻りした形。景気拡大は続いているものの、消費回復は依然、おぼつかないことが浮き彫りとなった。

 7~9月期は、4~6月期に大幅な伸びを示した個人消費が一転、7四半期ぶりに減少した。4~6月期の反動減や天候不順による外食関連の落ち込みなどが要因とみられ、市場では「落ち込みは一時的」との見方が多い。だが、9月の実質賃金が前年同月比0.1%減となるなど賃上げのペースが鈍いことに加え、年金など将来不安を背景に消費者の財布のひもは固いのが実情だ。

 一方、7~9月期の「外需」が全体の成長を下支えしたのは、米国などの景気拡大で輸出が増加したことが背景にある。しかし、輸入は減少。スマートフォンの輸入減など一時的な要因もあるが、振るわない内需を反映した可能性もある。

 実質GDPが7四半期以上のプラスとなったのは、1999年4~6月期から01年1~3月期までの8四半期連続以来。当時は、世界的なIT景気の追い風で景気が拡大した。

 今回のプラス成長が始まった16年1~3月期は、14年4月の消費税増税による影響を脱した時期。円安などを追い風に企業業績は回復し、有効求人倍率が高度成長期並みの水準となるなど雇用情勢も改善した。しかし、今回の景気回復も世界経済の回復に支えられた面が大きい。

 安倍晋三首相は10月の衆院選で国内の経済指標改善を「アベノミクスの成果」とアピールしたが「景気拡大の実感に乏しい」との指摘は根強い。消費を底上げして力強い成長を維持するには、賃上げにつながる成長戦略などの着実な実行が求められている。【井出晋平】

私はこの記事に異を唱えたい!!!

今回ほど「季節調整」や「年率換算」が全くあてにならないことが示されたGDP速報はないと思います。いや、実際にはあるんでしょうが、久々だと思います。

シリーズGDPの見方 を遡ってみていただければよくわかりますが、私は一貫して

 「季節調整系列」という数字も、「年率換算」という数字も私自身は全く信用していません。

とお伝えしていますね? 今回のGDP統計は、これが露骨に示された結果となりました。


2017年度GDP第二四半期第一次速報統計結果

私が毎回お示ししているGDP統計は、必ず

 「名目原系列、前年同月比」

です。

【2017年度GDP第二四半期第一次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 133.277 兆円(1.7%)

 民間最終消費支出  75.469 兆円(0.9%)
 家計最終消費支出 73.565 兆円(0.8%)
  除く持家の帰属家賃  61.072 兆円(1.0%)

 民間住宅 4.505 兆円(4.0%)
 民間企業設備 20.708 兆円(4.2%)

実質GDP
全体  131.593 兆円(1.7%)

 民間最終消費支出 74.783 兆円(0.7%)
 家計最終消費支出  72.757 兆円(0.7%)
  除く持家の帰属家賃  59.432 兆円(0.6%)

 民間住宅  4.201 兆円(1.5%)
 民間企業設備 20.308 兆円(3.0%)

いかがでしょう?毎日新聞が報道している「消費の弱さ」を示しているのは、「民間最終消費支出」の事を言っています。

これも毎回お伝えしていることですが、「実質GDP」とは、「名目GDP」を「持ち家の帰属家賃を除く消費者物価指数」で割ったものです。

シリーズ物価の見方 の中で、私は毎月この「消費者物価」についても記事にしていますが、第53回の記事 で記していますように、私は実質化する際に用いられる「加重平均」という計算方法そのものに疑問を持っています。

ただ、それでも参考にはなるので記事にしているわけです。

ですから、「実質GDP」という数字そのものもまともには信じていませんが、それでも原系列で見る限りは「季節調整系列」や「年率換算」よりマシ。

ですが、マスコミがこぞって重要視するのはなぜか「名目GDP」ではなくこの「実質GDP」(「季節調整系列」「年率換算」)なのです。

さて。そんな実質GDP(原系列)ですが、今月で見れば全体が1.7%、民間消費支出が0.7%、家計のうち持ち家の帰属家賃を除くものが0.6%と、民間消費支出はGDP全体を引き下げる方向に働いてはいます。

ですが、それでも「消費」を見るうえで一番大切な持ち家の帰属家賃を除く家計で0.6%とプラス方向に上昇しており、「消費の弱さ」と銘打つほど消費が弱いと言えるのでしょうか?

また更に言えば、実質は「民間」「家計」全体を「持ち家の帰属家賃を除く家計」が下回っていますが、名目だと逆に上回っています。名目はGDP全体では実質と同じ1.7%成長ですが、持ち家の帰属家賃は実質より0.4%多い1.0%成長。

もう言うまでもありませんが、マスコミの情報がここまでネガティブな理由は、マスコミが用いている情報は「実質GDP」を「季節調整」して「年率換算」した「前期比」を用いているからです。

では、そのマスコミが用いているデータを掲載してみます。


2017年度GDP第二四半期第一次速報統計結果(マスコミベース)

【2017年度GDP第二四半期第一次速報季節調整系列(前期比/年率換算)】
名目GDP
全体 545.819 兆円(0.6%)

 民間最終消費支出  302.864 兆円(-0.4/-1.8%)
 家計最終消費支出 295.048 兆円(-0.5/-1.9%)
  除く持家の帰属家賃  245.068 兆円(-0.6/-2.3%)

 民間住宅 17.550 兆円(-0.2/-0.6%)
 民間企業設備 84.916 兆円(0.6/2.4%)

実質GDP
全体  530.796 兆円(0.3%/1.4%)

 民間最終消費支出 299.374 兆円(-0.5%/-1.8%)
 家計最終消費支出 291.526 兆円(-0.5%/-1.9%)
  除く持家の帰属家賃  238.217 兆円(-0.6%/-2.6)

 民間住宅  16.349 兆円(-2.6%)
 民間企業設備 83.054 兆円(0.2%)

こうやって見てみると、なぜマスコミがネガティブな記事を連発しているのか、よくわかりますね。

そう。「原系列、前年同月比」で見ると民間消費は軒並みプラス成長しているんですが、「季節調整系列、前期比」で見るとマイナス成長しているんですね。

しかも、その「季節調整系列、前期比」を「年率換算」すると、そのマイナス幅は更に誇張されてデータとして出てきます。

ちなみに「年率換算」を行うための計算式は第140回の記事 に詳細に記しています。

「年率換算」とは、「季節調整を行ったGDP同士を比較したGDPの『前期比』が1年間続いたらどうなるのか」という、全くの虚構の数字です。

たった3か月間の経済成長率が1年間も継続して続くわけがありませんし、何より「前年同期比」という前年度と比較した「実績」が既に存在するのに、なぜそんな「年率換算」などという架空の数字と比較したがるのか、私にはまったく理解できません。

例えば

「前年同期と比較すると〇〇%の成長率だが、前期比と比較すると〇〇%である。このままの経済成長が続けば1年後には〇〇%となるので今のうちに早急な経済対策が必要だ」

といった趣旨の記事を記すのであれば理解できます。

ですが、現在年率換算を用いた各社の記事を私なりに意訳するとすれば、

「現在の日本の経済は、1年後の未来には〇〇%となることが予言されている。これは経済政策が失敗したことを意味している」

と言っているのに等しいのです。未来に〇〇%となるという予言を行った上で、「だから経済政策は失敗だ!」と言われて、なんで誰も疑問を持たないんでしょうか?

では、マスコミが「今の経済をけん引している」と言って憚らない「輸出入GDP」を見てみましょう。パーセントで見ると実態を見失いかねないので、実額で見てみます。


2017年度輸出入GDP第二四半期第一次速報統計結果

【2017年度7-8月期輸出入GDP(原系列:前年比増減幅/年率:前期比増減幅】
名目輸出原系列 23.819兆(+2.946兆)
名目輸出年率 96.644兆(+2.792兆)

名目輸入原系列 22.131兆(+2.599兆)
名目輸入年率 89.96兆(-0.3992兆)

名目純輸出(輸出-輸入)原系列 1.688兆(+0.355兆)
名目純輸出(輸出-輸入)年率 6.684兆(+3.191兆)

実質輸出原系列 22.194兆(+1.333兆)
実質輸出年率 89.424兆(+1.303兆)

実質輸入原系列 22.265兆(+0.505兆)
実質輸入年率 89.771兆(-1.454兆)

実質純輸出(輸出-輸入)原系列 -0.071兆(+0.818兆)
実質純輸出(輸出-輸入)年率 -0.347兆(+2.757兆)

「原系列」では名目・実質とも増減幅は「前年同期」からの増加幅になっています。
「年率」は言うまでもなく季節調整系列を年率換算したもので前期からの増加幅になっています。

輸出入GDPを考えるときに大切なのは「純輸出」を見る習慣です。表に記しているように「輸出」から「輸入」をマイナスしたもの。

原系列で考えますと、

 名目 0.355兆増 実質0.818兆増。

年率換算で考えると

 名目 3.191兆増 実質2.757兆増

となります。

年率換算の場合は民間消費支出が民間住宅まで含めてマイナスになっていますから、名実とも確かに「輸出(外需)がけん引している」と言えなくもありません。

ですが、原系列で考えるとどうでしょう?


「原系列」と「季節調整系列」で異なる輸出入GDPのGDP全体への影響

原系列で考えると、例えば「民間最終消費支出」は名目で0.647兆、実質で0.517兆増加しています。

「持ち家の帰属家賃を除く家計」で見ると名目は0.581兆、実質で0.331兆増加しています。

特に大きいのは「民間企業設備」で、こちらは実質だと0.593兆円ですが、実質では0.827兆円増加しています。

実質の純輸出GDPは前期比で0.818兆増えていますから民間企業設備の0.593兆を上回っています。
ですが、これが「名目」になると逆に純輸出GDPの増加幅はは0.355兆に留まり、民間企業設備は0.827兆円増得ていますから、金額にして約2700億円ほど民間企業設備の方が上回っています。

更に名目は民間消費が0.647兆円、個人消費は0.581兆円ですから、民間全体の消費も、ここから企業の消費を除いた個人消費もともに「輸出入GDP」の増加幅を上回っているわけです。

これを見て、どうして毎日新聞は「消費の弱さ、輸出が支え」などという記事を書くことが出来るのでしょうか?


「季節調整系列」とは、「季節特有の経済現象(クリスマス夏休み、お正月など)を除外する」ことを目的として、「人為的」に数字をコントロールした数字です。

前年と比較する場合は「季節特有の経済現象」と比較する必要はありませんので、わざわざ季節調整を行う必要はありません。

ですから、「季節調整系列」とは「異なる季節同士」を比較するためにコントロールされているもので、主に経済成長率の「前期比」を比較するために用いられています。実際の経済活動に基づかない、人為的な計算式に基づいて算出されているものですので、はっきり言って「参考程度」にしかならない数字です。架空の数字と言っても言い過ぎではないと思います。

そして繰り返しになりますが、「年率換算」とは、そんな架空の数字である「季節調整系列」が、「もし仮に1年間続いたとしたら1年後のGDPは年間でいくらになるのか」という、「架空の数字を利用して算出した未来予測を行うための数字」にすぎないのです。

例えば、「5年後に日本の平均気温は今と比較して3度上昇する」という予測がなされたとして皆さんは信じるでしょうか?
「ひょっとするとそうなるかもしれないよね」とは思うかもしれません。そうならないために温暖化対策を今から行っておきましょう、という程度のものだと思います。

では、「昨年の平均気温は一昨年と比較して0.1度下がりました。ですが5年後は3度上昇します」といわれたらどうでしょうか?

普通、一気にその信ぴょう性は下がるんじゃないですか?

今回のGDP統計、例えば「持ち家の帰属家賃を除く家計消費」で考えるのなら、

 「今期の持ち家の帰属家賃を除く家計は一昨年と比較して1%上昇しています。ですが、このままの経済政策を続けるのなら、1年後の家計消費は前年と比較して2.3%下落します」

と言われているようなもの。

もっと言えば、「輸出入GDP」に関してもそうです。

日本の過去の原系列の事例から見れば、基本的に「輸出」が増えるときは同時に「輸入」も増えますから、結果的に「純輸出GDP」が輸出側、輸入側どちらかに偏って大幅に変化することはありません。あり得るとすれば海外で大きな経済危機が発生した場合。もしくは大幅な為替変動が発生した場合です。

ですが、例えば今回の年率換算で言えば、1年後の輸出は12.4%増え、輸入は1.8%下落することになっています。

実は、マスコミがこぞって「外需がけん引した」という報道を行っている最大の理由はここにあるんですね。
しかしそんな「12.4%」などという数字は、所詮計算式から算出されたフィクションの数字にすぎません。

少なくとも「前年同期比」で見る限り、今期の純輸出GDPの増加幅は「民間消費」全体どころか、持ち家の帰属家賃を除いた「家計消費」すら下回っており、とても「輸出が支えになっている」と言える状況になどないことは歴然としています。

今回の第二四半期GDPを支えてしているのは間違いなく「企業設備投資」であり、「民間消費」であり、果ては「家計消費」が支えているのです。

更に。名目原系列全体で見るのなら、実は今年度第一四半期のGDPを第二四半期のGDPは下回っています。

ですが、「企業」も、「家計」も、そして「輸出入」もすべて第一四半期を上回っています。

実は、GDP全体に対するマイナス要因として作用しているのは「政府最終消費支出」、そして「企業在庫変動」の二つ。

安倍内閣が目指している最終的な消費形態は「政府がサポートせずとも、民需だけで自律的に回転する経済」です。
また「在庫変動」が減少しているということは、それだけ「新規商品が消費されており、在庫が蓄積されていない」ことを示しています。

つまり、安倍内閣は明らかに安倍内閣が進めようとしている方向に向けて、着実に歩みを進めていることを如実に示した統計結果なんです、今回のGDP速報は。

マスコミさん、少しは統計資料を読み取る力を身につけましょうよ、ほんと。

政府が発表した通りに記事を作るくらいだったらマスコミがマスコミである必要なんて全くありませんよ?、ほんと。



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私のブログに、このところ「内部留保」に関連したキーワードからの訪問が見受けられるようになりました。
第47回 「内部留保」の問題点 ←への訪問です。

最大の理由は、先日行われた第48回衆議院総選挙において、小池代表率いる希望の党が、政策として「内部留保課税」を掲げたことが原因です。

【週刊ダイヤモンドより(2017/10/17)】
小池新党「内部留保課税」を課税推進派の財務省さえ見放す理由

小池百合子

消費増税凍結の代替財源に希望の党がぶち上げた内部留保課税

「消費税増税凍結の代替財源として、約300兆円もの大企業の内部留保の課税を検討する」──。

 小池百合子東京都知事率いる「希望の党」が掲げたこの公約が今、有識者などから集中砲火を浴びている。

 批判される理由はただ一つ。代替財源にはなり得ないからだ。

 企業の内部留保とは、事業で得た利益から法人税などの税金や株主への配当などを支払った後に残ったお金のこと。企業の財務諸表には「利益剰余金」などとして計上されており、財務省の統計によると2016年度時点で406兆円(金融・保険業を除く)にのぼっている。

 名前からして、企業の中に巨額の現金が眠っているようにも見えるが、そうではない。現金ではなく、固定資産として建物などに姿が変わっているケースも多いからだ。

 企業会計の初歩的な話であり、それを理解していれば内部留保に課税するということが「二重課税」の問題を招くなど、税金の仕組み上、いかに難しいかはすぐに分かったはずだ。

私、記事内容には関心がございませんので、内容そのものはそれほど重要視していただかなくても大丈夫です。

今回の記事を記す目的の一つは、第47回 「内部留保」の問題点 に記しているデータが2年前のもので、少し古いから。

おそらく訪れてくれている人の中には、安倍内閣における企業内部留保の現状が一体どのような状況なのか、最新の情報が知りたい、と思ってご訪問いただいている方もいらっしゃると思いますので、その期待に添えていないのではないか・・・と考えたことが最大の理由です。


2017年11月版最新内部留保の推移
【2011年1-3月期~2017年4-6月まで】


利益剰余金推移

グラフの情報としては棒グラフが企業内部留保(利益剰余金)の推移で、単位は千億円。オレンジ色が前年同期比で単位は%。

安倍内閣がスタートする直前の2012年10-12月期の企業内部留保を基準に青色の横軸を、前年同月比0%の所にオレンジ色の横軸を引いています。

数字は四半期別の数字を用いていますので、年別で見た引用元のダイヤモンド記事とは数字に開きがあります。

第47回の記事を記したときは「前年同期比」に着目していませんでしたので、民主党内閣時代、2011年1-3月期に利益剰余金が前年同期比で12%も増大していたことは意外ですね。

時期的に東日本大震災が発生したまさにそのタイミングになりますので、内部留保が増えた理由をプラスにとらえるのは少し難しいとは思うのですが、根拠となる資料を持ち合わせていませんので、ここは素直に受け止めておきます。

最新の2017年4-6月期の利益剰余金が383.8兆円ですので、安倍内閣がスタートする直前の2012年10-12月期と比較しますと、実に113.9兆円の利益剰余金が増えたことになります。

2012年10-12月期の利益剰余金が274.4兆円ですから、増加した113.9兆円をこれで割りますと、安倍内閣スタート以来の企業内部留保増加率はなんと41.5%となります。

希望の党が掲げた内部留保課税とは、特に安倍内閣に入って増えた利益と限定していませんでしたから、4-6月期の利益剰余金で考えれば、その383.8兆円に「課税しますよ」という考え方です。


企業内部留保課税とは妥当なのか?

この、希望の党の主張が、実は衆院選前、非常に叩かれていました。理由としては、第47回の記事 でも記しましたように、

 「企業が不景気に見舞われたときに、即座に倒産せず、耐えられるように必要な資金である」
 「内部留保が溜まったのは株主のおかげであり、株主に還元するのが本筋ではないか」

という理由がほとんどです。ですが私、別に希望の党を擁護するわけでも何でもないのですが、どうもこの傾向に違和感を感じ、少し引いた位置から見ていました。

これらの主張を行っていた面々の中に、私が支持するタイプの政治家や評論家たちも含まれていました。

希望の党のこの主張を考えるとき、実は問題となるのはたった1点で、企業の内部留保は企業が企業努力を行った結果であり、人件費や税金をすべて支払った後に残された剰余金だということ。

ここに更に課税するのであれば、「二重課税となるのではないか」とする批判です。

これは、実は私が敬愛する麻生さんも以下の様に述べています。

【産経ニュース(2017/10/06)より】
希望の党公約の内部留保課税は「二重課税」 麻生太郎財務相

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 麻生太郎財務相は6日の閣議後の記者会見で、希望の党が選挙公約に掲げた企業の内部留保への課税について、「内部留保は税金を払った後のお金で、(さらに税を課すと)二重課税になる」との認識を示した。

 ただ麻生氏は、内部留保が大きく積み上がり、現預金の比率が高いことを問題視。「金利のつかない金を貯めて何をするのか。給与や設備投資に回したらどうか」と指摘した。

 麻生氏は合わせて、ペンス米副大統領との日米経済対話の第2回会合を16日に米ワシントンで開催すると発表した。「国益を守りながら、経済関係をいっそう深めていけるよう建設的な議論をしたい」と語った。

 経済対話は4月に東京で初会合を開催して以来となる。経済対話は4月に東京で初会合を開いて以来。11月のトランプ米大統領の来日を前に、経済分野の懸案を話し合う。

 冷凍牛肉を対象に日本政府が発動した緊急輸入制限(セーフガード)も議題に上がる見通し。麻生氏は、「運用を変えるだけで、今起きている問題は避けられる」と述べ、制度改正は必要ないとの考えを示した。

後半は全く関係のないニュースですが、冒頭でまず

 「内部留保は税金を払った後のお金で、(さらに税を課すと)二重課税になる」

と述べたことが記されています。ですが、本当に大切なのはその次の文章。

 「内部留保が大きく積み上がり、現預金の比率が高いことを問題視。『金利のつかない金を貯めて何をするのか。給与や設備投資に回したらどうか』と指摘した」

19第47回の記事 でも記した通りで、麻生さんは一貫して同じことを主張しています。

確かに小池さんの主張する「内部留保課税」は問題なのかもしれません。ですが、巷では、いたずらに内部留保をため込むことが出来る大企業や、株式を購入することのできる株主たちを擁護するような主張ばかり目立ったことは、個人的にはいただけない内容でした。

先ほどのグラフでもお示ししたように、安倍内閣に入って、企業が増やした「内部留保」は、実に安倍内閣前の50%にも到達せんとする勢いです。

例えば、同じ「利益剰余金」が掲載されている最新の統計調査票バランスシートでは、4-6月期の「資産の部」に191兆円の「現金・預金」が掲載されています。もちろん1企業のバランスシートではないことは踏まえておくべきなのですが、だとしても、383兆円の「内部留保」の内、実に191兆円が「現金」として保有されているのです。

安倍内閣に入って113.9兆円の利益剰余金が増えたのに、その増えた利益剰余金が全額「現金」として保有されている。そうとしか見えませんよね、これ。あくまでも見かけ上の話ですから、本当にそうだ、というわけではありませんが。

だったらこれを企業の設備投資や従業員の給与に回すことが出来ないのか、というのが麻生さんの主張です。

そして、この「利益剰余金」に対して、小池さんは「持っていたら税金を課しますよ。設備投資か給与にさっさとまわしなさい」と脅しをかけているのが小池さんなんですが、安倍内閣だとこれが以下のようになります。

【読売オンライン(2017年11月06日)より】
首相賃上げ要請 高い目標に見合う政策が要る

安倍首相

経済成長の持続には、生産と消費の好循環を生み出す賃上げが重要だ。分かっていても踏み切れない企業の意識変革は、政府の周到な環境整備があればこそである。

 安倍首相が、来年の春闘に向けて「3%の賃上げが実現するように期待している」と発言した。

 政府が直接働きかける「官製春闘」は5年連続だ。ただし、これまで首相は具体的な賃上げ率にまでは言及していなかった。

 ベースアップと定期昇給を含む平均賃上げ率は、今年の春闘で1・98%と、4年ぶりに2%を割り込んだ。アベノミクスのもとで緩やかな賃上げが続くが、最高水準にある企業業績に比べると、勢いの鈍さは歴然としている。

 3%に乗せたのは、バブルの余韻が残る1990年代前半が最後だ。政府の掛け声だけで実現できる程度のハードルではない。

 政府が高い目標を本気で達成するつもりならば、賃金が伸び悩む現状の分析に基づく、総合的な政策パッケージが求められよう。

 景気回復とともに産業界では人手不足が深刻化している。主にパートなど非正規雇用の増加で補っている。その正社員化を進めることは、賃金の増加と、待遇の安定という二つの面から消費喚起の効果も高いのではないか。

 政府は、賃金を3%以上引き上げた企業に対する法人税減税などの優遇税制を検討している。

 企業や業界によって経営環境は大きく異なる。不公平を助長せぬよう、慎重に制度設計すべきだ。そもそも赤字決算で法人税を納めていない中小企業も多い。税制措置に過度な期待はできまい。

 政府に求められるのは、企業が攻めの経営に転じられる経済環境を整えることである。

 政府が掲げる「生産性革命」では、人工知能(AI)などへの投資を強力に促進するという。

 新たな市場を創出する規制改革や、有望産業を後押しする成長戦略を着実に進める必要がある。

 持続可能な社会保障制度を構築し、消費者などの将来不安を取り除くことも欠かせない。

 企業が保有する現預金は210兆円に達し、アベノミクス開始当時から25%も増えた。金融庁は、企業に内部資金の有効活用を促すため、経営者向けの指針を来春をめどに策定する。

 経営者に機関投資家や株主との対話を奨励し、資金活用の計画に生かすことを期待している。新指針を、企業が積極的な経営姿勢に転じる契機としたい。

するしている内容を一言で言い表しますと、

 「給料を3%上げた企業は税制で優遇しますよ」

ということです。

 「給料を上げなければ増税しますよ」

と言っているのが小池さん。

 「給料を上げてくれたら税金を安くしますよ」

と言っているのが安倍さん。基本的に共産党や旧民進党の連中が言っているのも小池さんの主張と似たり寄ったりですよね。

さて。企業が給料を上げたい、と感じるのは一体どちらの政策でしょう?

また、「保守」を自称する論者の皆さん。

「希望の党の主張だから」という理由だけで批判するのであれば、それは「自民党だから」という理由で自民党を批判し続けてきた野党の面々と一体どこが違うんですか?

批判するのなら対案を出す姿勢は、野党だけに要求すればよいものではありません。あなた方もまた、同じことを実行するべきではありませんか?



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先月末。10月31日に、9月分の「消費者物価指数」が公表されています。(本日は11月5日です)

第364回の記事 で8月分の情報も掲載したのですが、先月は衆院選選挙月だったこともあり、いつものような詳細な情報ではなく、大枠で「アベノミクスの成果」をうかがうことのできる記事に仕上げました。

ですが、先月より「消費者物価指数」の状況が少し「改善」する気配を見せていて、私個人的には「面白い状況」になっています。


平成29年(2017年)度8月/7月の消費者物価指数

【消費者物価指数(総合)の前年同月比】※( )内は2017年8月/7月の前年同月比です。
総合(ウェイト:10000)
0.7(0.7/0.4)

生鮮食品を除く総合(ウェイト:9586)
0.7 (0.7/0.5)

持家の帰属家賃を除く総合(ウェイト:8501)
0.9(0.8/0.6)

持家の帰属家賃及び生鮮食品を除く総合(ウェイト:8087)
0.9(0.8/0.6)

生鮮食品及びエネルギーを除く総合(ウェイト:8802)
0.2 (0.2/0.1)

先月詳細な情報を掲載しませんでしたので、今回は先月の前年同月に加えて、7月度の前年同月比も併せて掲載しています。

この中でどの数字を一番重要視すべきかと申しますと、「海外の物価動向(エネルギー)」と「天候に左右される物価動向(生鮮食品)」を取り除いた数字、「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が一番重要な数字になります。

0.2%の物価上昇ですから、まだまだ伸び悩んでいる状況は改善なされていませんが、そんな中で

 「持ち家の帰属家賃を除く総合」

が7月度の0.6%から8月が0.8%、そして9月は0.6%と、順調に回復しているのがまず第1の「面白い状況」です。

私のブログでは何度もお伝えしていますが、

 「持ち家の帰属家賃」

というのは、

 「もし持ち家が持ち家でなく借家だったとしたらいったいいくら支払っていることになるのか」

という、なぜそんな数字をわざわざカウントしなければならないのかが全く理解できないフィクションの数字ですから、日本の経済成長を知るためには本来不必要な数字です。

消費者物価指数総合が、

 7月:0.4%、8月:0.7%、9月:0.7%

と推移する中で、持ち家の帰属家賃を除いた総合は

 7月:0.6%、8月:0.8%、9月:0.9%

と推移していますので、本来フィクションの数字であるはずの持ち家の帰属家賃が、CPI全体を約0.2%も押し下げていることがわかります。

この理屈を「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」に当てはめて考えてみますと、

 7月:0.3%、8月:0.4%、9月:0.4%

といった様子で動いていることが推察されます。この0.4%という数字も、これは本来政府が目指している数字からすればまだまだ低いわけですが、2017年3月に-0.1%前年割れし、4月、5月、6月と0%成長を続けてきた状況から考えると、やはりこの0.4%という数字は期待を抱かせる数字ですね。

もちろん、本年3月、4月、5月、6月の前年同月比にも「持ち家の帰属家賃」が含まれていますから、ここから0.2%足した前年同月比を本来は想定しておくべきだとは思いますが。


【消費者物価指数(10大費目別)の前年同月比】
※( )内は2017年8月-7月の前年同月比です。
食料 ウェイト:2623
0.1(0.9-0.6)

 生鮮食品 ウェイト:414
 1.2(0.8/△1.1)
 生鮮食品を除く食料 ウェイト:2209
  1.0(0.9/0.9)

住居 ウェイト:2087
△0.2(△0.2/△0.2)

 持家の帰属家賃を除く住居 ウェイト:589
  0.0(0.0/△0.1)

光熱・水道 ウェイト:745
6.0 (5.2/4.3)

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.2(△0.2/△0.4)

被服及び履物 ウェイト:412
△0.3(0.6/0.0)

保健医療 ウェイト:430
1.8(1.8/0.1)

交通・通信 ウェイト:1476
0.0(△0.4/0.1)

教育 ウェイト:316
0.4(0.4/0.4)

教養娯楽 ウェイト:989
0.2(0.4/0.0)

諸雑費 ウェイト:574
0.1(0.3/0.1)

念のためにお伝えしておきますと、「ウェイト」というのは「重要度」の事。消費者物価指数全体に対する影響度を数字化したものです。つまり、この数字が大きいほど物価全体に対する影響が大きい、ということになります。

一つだけネガティブな情報を載せておきますと、この10大費目のうち「被服及び履物」の費目が下落していることは少し残念な印象を私は受けています。

「エネルギー物価」の下落の影響を受けて、消費者物価指数全体がなかなか上昇できずにいる中で、「被服及び履物」の費目は安倍内閣スタート以来、永続的に前年度をオーバーし続けており、「物価の優等生」だったのですが、このところ上昇幅が頭打ちになったことも感じていました。

昨年までの上昇に勢いがありすぎた、ということもあるのでしょうか。

個人的には「物価上昇率」は1%程度が健全であると考えていますので、このあたりで落ち着くのも一つの選択肢なのかもしれないな、とも思っています。


【家具・家事用品の前年同月比】
さて。今回の「消費者物価指数」10大費目の中で、私が一番「面白い!」と感じているのは、この「家具・家事用品」の分野です。

前年度比△2.0%ですから、「前年度割れしてるやん!」っていう声が聞こえてきそうですが、それでも今回着目すべきはここ。

家具・家庭用品CPI(~2017年9月)

「被服及び履物」がこれまでずっと安倍内閣の物価をけん引してきた物価の優等生であったのなら、この「家具・家事用品」は真逆で物価の足を引っ張り続けてきた劣等生。

平成26年は消費増税年ですから、4月に一気に物価が上昇しているのは消費増税が行われたことによるものです。

ただ、とはいえ翌平成27年4月にいったんは前年度割れするものの、同年12月まで前年同月比では上昇を続け、最終的に2.3%まで物価上昇を果たしました。

ところが、年明けの1月から急速にその上昇幅が縮小し、28年6月に前年度割れ。以来本年、平成29年9月まで前年度を割り込み続けているのです。

その、「主犯」ともいえるのが「家庭用耐久財」の前年度割れです。ピーク時には平成28年(2016年)9月の前年同月比-6.8%まで落ち込んでいました。

エネルギー物価の前年度割れは日本国内ではなく、海外の要因が大きいですので、日本国内の努力でどうにかしろ、と言われてもこれは無理な話です。ですからCPI総合から「エネルギー物価」を除いた消費者物価指数が存在するわけですが、

CPI(前年同月比)推移

こちらのグラフが示す黄色のライン。すなわち「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」が2016年(平成28年)2月以降、その上昇幅が縮小する一つの原因としてこの「家具・家事用品」の低迷が完全な「主犯」となっていました。

【家具・家事用品の前年同月比】
※( )内は2017年8月/7月の前年同月比です。
家具・家事用品 ウェイト:348
△0.2(△0.2/△0.4)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 1.2(1.0/0.0)
 室内装備品 ウェイト:25
 △1.8(△4.7/△4.7)
 寝具類 ウェイト:27
 △0.6(0.0/△0.2)
 家事雑貨 ウェイト:72
 0.8(1.1/1.1)
 家事用消耗品 ウェイト:86
 △2.3(△1.7/△1.4)
 家事サービス ウェイト:27
 0.1(0.1/0.1)

お気づきになりましたでしょうか?

「家具・家事用品」の中で、足を引っ張っている最大の要因はどの分類費目だったか覚えていますか?

そう。「家庭用耐久財」です。ウェイトが86と比較的多きい「家事用消耗品」が代わりに低迷し始めた様子が気にはかかりますが、それ以上に長い間足を引っ張り続けていた「家庭用耐久財」がようやく上昇に転じたことは、私にとって「非常に面白い」ことです。

家具・家事用品 ウェイト:348
△0.2(△0.2/△0.4)

 家庭用耐久財 ウェイト:111
 1.2(1.0/0.0)

  家事用耐久財(ウェイト:57)
  0.7(△1.1/△3.0)

   電子レンジ(ウェイト:4)
   △6.8(△5.1/△14.9)

   電気炊飯器(ウェイト:11)
   13.3(4.5/2.6)

   ガステーブル(ウェイト:3)
   5.3(6.2/6.3)

   電気冷蔵庫(ウェイト:16)
   △7.6(△9.7/△10.5)

   電気掃除機(ウェイト:9)
   2.2(6.8/3.8)

   電気洗濯機(全自動洗濯機)(ウェイト:7)
   3.5(△0.1/1.5)

   電気洗濯機(洗濯乾燥機)(ウェイト:7)
   △4.2(△1.1/△2.5)

   冷暖房用器具(ウェイト:37)
   2.2(3.7/2.9)

    ルームエアコン(ウェイト:30)
    3.2(4.1/3.3)

    温風ヒーター(4)
    △1.1(△1.1/△1.1)

    空気清浄機(3)
    △4.3(7.7/4.5)

  一般家具(18)
  0.7(1.5/2.8)

   整理だんす(5)
   2.2(2.1/3.4)

   食堂セット(9)
   0.0(1.2/1.0)

   食器戸棚(4)
   0.2(1.2/1.0)

改めて過去の記事を振り返ってみますと、7月の記事 でも同様の趣旨の内容を記事にしていましたね。

7月の記事 では、この費目が0%になったことを話題として取り上げましたが、その数字がなんと前年同月比で1.2%にまで回復しているわけです。

やはり季節ものである「エアコン」の動きが好調であることと、「電気炊飯器」の影響が大きいですね。

それだけではなく、物価が下落している項目でも8月、7月と比較するとその下落幅が縮小していることなども影響しており、これで「家事用消耗品」の動きがもう少し堅調であれば、「家具・家事用品」全体がプラスに転じていたんだろうな・・・と思うと、少し悔しい思いもしますね。

ちなみに「家事用消耗品」で上昇しているのは洗剤や紙製品など、「原油精製品」がほとんどです。原油自体は物価が上昇しているのに・・・少し不思議な感覚です。

このほか、物価上昇率0%となっている「交通・通信」の分野では、ウェイト224の「交通(運賃など)」が昨対0%、ウェイト836の「自動車等関係費」が昨対1.7%に対して、ウェイト416の「通信」が△3.5となっており、ガソリン代の物価上昇も含む「自動車等関係費」の物価上昇率を相殺する形になっています。

自動車等関係費の中で、「ガソリン」は確かに昨対7.1%と大きな物価上昇率を記録していますが、それだけではなく、肝心の「自動車」の項目も全体で0.2%の物価上昇率。このうち唯一「軽自動車」のみが前年同月比△1.1%と物価下落を記録していますが、「小型乗用車」が国産・外車とも0.7%、普通自動車が国産0.4%、外車0.3%と物価上昇を記録しており、動きとしては良い傾向です。

一歩で「通信」の足を引っ張っているのは携帯電話の「通信費」です。ウェイト230、物価下落率5.4%となっています。

そのほか、「教養娯楽」では「教養娯楽用耐久財」のうち「テレビ」が4.3%の物価下落、デスクトップ型パソコンが3.7%の下落、ノート型が4.8%の下落となるなど、教養娯楽全体が0.2%と物価上昇する中で、これが伸び悩む原因となっています。

「消費者物価指数」のうち、私が大切にしている「生鮮食品及びエネルギーを除く総合」は昨対0.2%と、まだまだ伸び悩む状況にはありますが、アベノミクスが目指す「物価上昇」に向けて、少しずつ明るい兆しが見え始めたのではないでしょうか?

って書くと、あたかもアベノミクスの効果があまり発揮されていなかったかのように誤解されてしまいそうですが、「物価」が上昇するにもいろんな理由があります。携帯電話料金の様にもともと高すぎる物価が下落してくれれば、当然その差額を他の消費に回すことができるようになります。

安倍内閣で「なかなか物価が上昇しない」と思っている皆さん。改めて「なぜ上昇しないのか」。関心をもって分析してみると、意外と面白い情報が見えてきたりしますよ。


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考えれば1か月も早いですね。月初恒例の「月別税収」が公表されました。今月は9月分の税収です。昨日(10月31日)は同じく9月分の消費者物価指数も公表されていますので、こちらも後ほど記事にしたいと思います。


2017(平成29)年度9月分税収

2017年9月分税収
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【2017(平成29)年度8月分税収】※(  )内は前年同月比です。
所得税全体 9月分 0.95兆(100.7%) 累計 7.89兆(106.0%)

 源泉分 9月分 0.93兆(100.9%) 累計 7.38兆(106.0%)
 申告分 9月分 0.017兆(88.7%) 累計 0.50兆(98.8%)

法人税 9月分 0.188兆(105.1%) 累計 0.696兆(218.9%)

消費税 9月分 1,149兆(105.4%) 累計 4.33兆(100.5%)

一般会計全体 9月分 3.18兆(103.7%) 累計 16.81兆(105.4%)

先月の数字 では桁が間違っていたものが一部あったようなので、後ほど訂正しておきます。


【法人税評】

先月もお伝えしましたが、法人税の申告期限は「事業年度終了の日の翌月から2か月以内」となっています。

ですので、今月の法人税は本年度7月に収められたものが大部分だと考えられます。8月決算の企業もあるかと思いますが、その数字は来月に出てくるのではないかと考えられます。

ただ、その「進捗状況」。つまり、法人税の納税状況が本年度予算に対してどの程度のペースで進んでいるのか、ということを見てみますと、昨年度の10月時点での進捗状況が5.6%。今年度は9月の時点で5.5%の進捗状況となっていますので、法人税収はなかなかのペースで回収されているということがわかります。

前年同月で見ても、8月の169%・・・とまではいきませんでしたが、それでも昨対105%。累計でもいまだ218%を記録しており、その好調さがうかがえます。


【所得税評】

8月はこの数字が「本丸」であるとして記事を作成しましたが、今月は少しおとなしめ。源泉分が昨対100.9%、申告分が88.7%となっています。

「申告分」の納税期限は3月15日、予定納税が行われるのは8月1日、11月30日の2回ですから、今回昨対割れをしていることはあまり意識する必要はないと思われます。

源泉分も、大人締め、とは言え9月単独で昨対100.9%。累計でも106%を維持していますので、いまだにその好調っぷりが衰えたわけではありません。

できれば・・・このまま維持してほしいですね。

所得税全体でも9月分が100.7%、累計は105.5%。予算ベースを3.6%上回る状況が続いています。


【消費税評】

今月の本命はここですね。

7月 も同様にここをポイントとして提示いたしました。

毎月繰り返しにはなりますが、「消費納税額」は「昨年度の納税状況」を参考として納税されています。

ですから、今年度の消費納税額を参考にすると、昨年度の消費納税額を推察することができるわけです。

そして、その納税額が9月もまた単月で105.4%。昨年度の納税額を参考にしているわけですから、略一律となるのは当然と言えば当然ですが、その納税額ががいよいよ累計でも昨年度をオーバーしてきました。

6月までは前年度への還付が行われていたため、消費納税額がマイナス計上されていたことが先月までの累計額が昨年度を下回っていた理由ですが、その累計額がいよいよ昨年度を上回ってきたわけです。

来月は10月。これまでは納税ペースが毎月、または3か月に1度の企業が納税していたわけですが、10月には半年に一度の企業、そして決算月を8月に迎えた企業が納税を行います。

つまり、いよいよ昨年度ではなく、今年度の消費状況を反映した納税が行われるわけですが、9月までの好調っぷりが維持されるのか、今からハラハラドキドキしますね。


【一般会計税収評】

一般会計税収全体としましては、8月の単月で111%という納税状況から比較すれば見劣りはするものの、9月の前年同月比は103.7%と前年度を3.7%オーバー。累計でも105.4%で、予算を1.4%上回る状況が続いています。

10月にはいよいよ8月決算を迎える企業の納税状況が反映される結果が登場します。

税収は日本の景気のバロメーター。

ぜひ良い結果であってほしいものですね。



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