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第350回 ドイツ革命の経緯(レーテ蜂起)

前回の記事では、今回のカテゴリーに関連して、レーニンたちが結成した「コミンテルン」が初めてその影響を与えるに至った「ドイツ」。

ここで勃発した「ドイツ革命」について、主にその「前半」ともいえる部分を掲載しました。

今回の記事では、ここから更にドイツ皇帝/プロセイン国王であったヴィルヘルム二世の退位と「ワイマール共和国」まで話題を進められればと思います。

ヴィルヘルム二世の退位

ヴィルヘルム2世
今回のカテゴリーの目的の中の一つに、「共産党」という組織に内在する残虐性を追いかけることも含まれているわけですが、彼らの行う「市民革命」の中には、「帝国主義」から「共和制」への移行という目的も含まれています。

ですから、「ドイツ革命」においても、この「帝政崩壊」というものが一つの課題になるのかと思い、あえてピックアップしてみました。

キール軍港から始まるレーテ蜂起によって、一部都市では既に皇帝国王を退位させ、共和制の敷かれた年もあるわけですが、ドイツ全体でもやはり同様の事が起こります。

ほんと、ロシア革命とよく似ているのですが、ドイツの帝政が崩壊する過程においても、やはりロシアと同じように労働者や市民がパンを求めてデモを起こします。

ただ、このタイミングで支配層側はこれまでの様に群衆に向けて発砲するようなことはせず、首相であったマックスマックス大公子がヴィルヘルム二世に退位を迫るなどし、暴力に依らない方法がとられています。

血気にはやる民衆側の勢いが収まることはなかったのですが、結果的に社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトのそばにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言することによって共和制への移行が成し遂げられました。(1918年11月9日)

ドイツ共和制宣言

同じ日にヴィルヘルム二世は亡命し、後日退位を表明。

11月10日には社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府、「人民委員評議会」が結成されたわけだけど、労働者や兵士たちが結成した「レーテ」はこれを承認しながら、「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」なるものを選任し、ここにドイツの最高権力を与え、二重権力構造が生まれる・・・と。

このあたりもロシア革命とそっくりですね。


今回は「ドイツ」について調査することが目的ではなく、ここにコミンテルンがどうかかわっていくのか、ということを探ることが目的ですので、少し端折ります。

この様な状況の中で、第一次世界大戦に関してドイツは連合国との間で休戦協定を結びます。(11月11日)

しかし・・・これまで中国やロシア、またはヨーロッパにおける市民革命の様子をずっと見て来たからかもしれませんが、どうもドイツの革命の様子は、非常におとなしいですね。

この後、ドイツのマルクス主義者たちの政治集団である「スパルタクス団」が「ドイツ共産党(KPD)」を結成。
同じスパルタクス団による「一月闘争(スパルタクス団蜂起)」なども勃発し、実際に射撃戦なども行われるわけですが、結構あさりと鎮圧されてしまいます。

11月19日には国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得。2月6日、ワイマールという都市で国会が召集され、国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認されます。

この時制定された憲法が「ワイマール憲法」。当時世界で最も民主的である、とされた憲法ですね。
「大統領の権限の強い共和制、ドイツ帝国諸邦を基にした州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた」とされています。

「ドイツ帝国」が崩壊した後、「ワイマール憲法」の下で成立した共和制国家の事を、「通称」ワイマール共和国、と呼ぶのですね。
正式名称は「ドイツ国」であると。

非常にあっさりと出来上がってしまいます。

1919年6月28日、ドイツは第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」に調印します。
この時ドイツが調印させられた内容が以下の通りです。

ラインラントへの連合軍駐屯、陸軍は10万人を上限とするなどの軍備の制限、植民地とエルザス=ロートリンゲン、上シュレージエンなどの割譲、ザール地方の国際連盟による管理化、ダンツィヒ(現・グダニスク)の自由都市化などの領土削減が行われた。

また経済面でも連合国側の管理機関がドイツに設置される事になり、飛行機の開発・民間航空も禁止された。そして戦争責任はドイツにあることが定められた。中でもドイツを苦しめる事になるのが、多額となると見られる賠償金であった。この条約はドイツ国民に屈辱を与え、ヴァイマル政府に対する反感の元となった。

経済的な側面でいうと、多額の賠償金や産業の停滞が原因で政府の税収が減り、これをドイツ政府は「紙幣の増刷」という方法で対応したため、市場は次第に「インフレ」に見舞われるようになります。

物資やサービスが不足する中で紙幣増刷を行えば、当然そうなりますね。

この事から、左派勢力によるストライキや暴動が頻発するようになり、レーテ蜂起において帝政が崩壊した都市バイエルンでは、更にバイエルン州政府が共産党によって倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が発足。(バイエルン革命:1919年4月6日)

しかしすぐさまワイマール共和国政府派遣された軍隊等によって壊滅させられ、たった1カ月で崩壊。

で、この時崩壊前に共産党によって人質に取られた人々が虐殺され、更に崩壊後、バイエルン占領軍によってレーテ共和国に拘わった人々への虐殺行為がいたるところで行われたのだそうですよ。


本論とは少し外れるのですが、レーテ共和国が崩壊した後のバイエルンでは、「右傾化」が進んでいきます。
「右傾化」って、要は国家主義者たちの事ですね。共産主義は最終的には「国家」そのものを否定しているわけですが、国家主義者たちは「国」や「民族」としてのプライドやほこりを大切にしていたのでしょうか。

そして、そんな混乱の中、「バイエルン」という土地で生まれたのが「国家社会主義ドイツ労働者党」=「ナチス」でした。
こうしてみると、彼らが「共産主義者」を否定するようになった経緯も何となく見えてきますね。

まあ、この話題は後に掲載する予定の「ドイツ」に関するカテゴリーで掘ってみたいと思います。


カップ一揆


カップ一揆

1920年3月13日には、ヴェルサイユ条約締結に反対した右派政治家であるヴォルフガング・カップによって、「カップ一揆」と呼ばれるクーデターが勃発。ベルリンが制圧され、新政府樹立が宣言されます。

ところが、これに対してドイツ政府がとった方法は、「ゼネラルストライキ」。
つまり、労働者が結束して「働かない」ことを呼びかけました。カップは「右派政治家」ですから、政府の呼びかけに応じたのは「左派」であったということです。この結束力に驚かされますね。

そういえば、ドイツに「ハイパーインフレ」を引き起こす原因となったのは、「ルール占領」。フランスおよびベルギーによってドイツの生産拠点であったルール地方を占領されたこと。この時もドイツ政府は労働者たちにストライキを呼びかけ、代わりに紙幣をばらまいたことが「ハイパーインフレ」を引き起こすこととなります。


ルール蜂起

「ルール占領」が行われるのは1920年12月26日の事なのですが、それ以前に同じルール地方で、カップ一揆におけるゼネストに参加した労働者立による「ルール蜂起」という事件も起きています。

右派政治家であるカップが起こした「カップ一揆」を受け、今度はドイツ左派政党が結束し、共産党、独立社民党、社民党が共同声明の中で「プロレタリア独裁による政治権力の実現」を目標とすることを宣言します。

これを受けてルール地方では労働者・兵士たちが結束して「ルール赤軍」を結成。1920年3月末までにルール地方全土を占領してしまいます。

これに対し、共和国側は軍隊を派兵し、4月6日にはルール赤軍中枢であるドルトムントに到着し、ルール赤軍を壊滅させました。


これらの混乱を通じ、ワイマール政府において中心的な役割を果たしてきたドイツ社会民主党はやがて国民からの信認を失いはじめます。

選挙によって大きく議席を失い、社会民主党に代わって中央党・ドイツ民主党・ドイツ人民党の3党が内閣を結成することになります。

さて。このような中で1921年3月。ついにドイツ共産党が姿を見せることになります。


次回記事では、ドイツ共産党が起こした「三月行動」とコミンテルンの関わり合いについて記事にしてみたいと思います。



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第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

前回の記事では、レーニンやトロツキーが発足させた「第三インターナショナル」=「コミンテルン」は、一体どのような組織だったのか、何を目指そうとしていたのか。これを途中まで記し、「ドイツ革命」を通じてその過程を検証することをお約束し、記事を終えました。

今回の記事では、第一次世界大戦末期に勃発した「ドイツ革命」の経緯と、革命においてコミンテルンがどのようにかかわったのか。
そして「コミンテルン」そのものの思想の変動についても記事にしたいとおもます。


「共産主義」と「社会主義」

「共産主義」と「左翼」 のカテゴリーの中で幾度も触れてきたテーマでもあります。

第161回の記事 の中で、この問題について私の中では一つの決着をつけたつもりではいたのですが、どうもこの「共産主義者」と「社会主義者」についての違いがより明確となったのは今回シリーズ化している「ロシア革命」の時機だったのではないか・・・ということが見えてきました。

第161回の記事 に於きまして、私は「共産主義」と「社会主義」の違いについて、以下のような方法で定義づけを行いました。
① ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
② 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
③ 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

ここには、とあるSNSにおいて、実際に共産党に所属し、ここで共産主義についてきちんと学んだ方とお話をする中で教えていただいた事が含まれています。③に記した内容がまさしくそれです。

しかし、今回のカテゴリーを記していく中で、どうも「共産主義」と「社会主義」という区分けについて、見えてきたのは、「レーニン」が目指した社会の在り方こそ本当の「共産主義」であり、10月革命が勃発する以前、社会革命党やメンシェヴィキ、そしてスターリンらが妥協しようとした社会は、本当の共産主義ではなかったのではないのか?

レーニンが主導して立ち上げたコミンテルンが目指したものは「世界革命」であったこと。ところが、これを引き継いだはずのスターリンが目指したのは「一国社会主義」というものでした。


「世界革命」の「前提」

ロシアの革命家たちが自分たちの革命の成功にこだわった、その背景にあったものとして、ここにはどうもマルクスの「予言」が原因としてあったようです。

【「共産党宣言」におけるマルクスの予言】
1882年に書かれた『共産党宣言』のロシア語版序文では、マルクスとエンゲルスは「ロシアはヨーロッパの革命的活動の前衛となっている」という認識を示し、「ロシア革命が西ヨーロッパにおけるプロレタリア革命の合図となり、その結果、両者がたがいにおぎないあう」可能性に言及した。(Wikiより)

そして、この予言の通りロシア革命は見事に成功しました。

そして、マルクスと共に共産主義革命の勃発を予測したエンゲルスは、次の様にも述べていました。
<共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時におこる革命となるであろう。

〔中略〕それは、世界の他の国々にも同じようにいちじるしい反作用をおよぼし、それらの国々のこれまでの発展様式をまったく一変させ、非常に促進させるだろう。それは一つの世界革命であり、したがって世界的な地盤でおこるだろう。

マルクスたちの予言通りに共産主義革命が勃発するのだとしたら、ロシア革命が成功したのだから、これがきっかけとなり、西ヨーロッパを皮切りに、世界中で共産主義革命=「世界革命」が半ば自発的に勃発する、とレーニンやトロツキーは考えたわけです。

そう期待したわけですね。そして、革命を成功させたロシアがその手本になろうとしたのです。
その最初の第一手となったのが「ドイツ革命」でした。


「ドイツ革命」とは?

Wikiの表記を引用してざっくりと解説しますと、「ドイツ革命」とは以下のようなものを差します。

第一次世界大戦末期に、1918年11月3日のキール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結として皇帝ヴィルヘルム2世が廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

この様な蜂起が勃発した最大の理由は、

・元々短期決戦を想定していたドイツの想定が敗れ、フランス軍との戦闘においてその戦線は長期化してしまった事。
・膠着状態を打開するため、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制=「総力戦体制」に移行したこと。

この2つです。この結果、ドイツの経済は停滞し、「国民に多大な窮乏と辛苦を強いる」事となり、「戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発」することになります。

ロシア二月革命 が勃発した理由とまったく同じ理由ですね。

考えてみれば、この当時ヨーロッパまで出張に来ていた「岡村寧次(おかむらやすじ)」、「永田鉄山(ながたてつざん)」、「小畑敏四郎(おばたとしろう)」に東条英機を加えた4名は、この様なドイツやロシアの状況を見て、日本陸軍の現状に危機感を覚え、軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築く必要性を実感する(バーデン・バーデンの密約) わけですね。

ふ~む・・・。

まあ、あくまでも余談です。ただ、当時のドイツにしろロシアにしろ、自国がどうであろうとそこには「敵国」が存在するわけですから、ここに軍部の人臣を刷新する必要性を実感した、ということはそうおかしなことではないのかもしれませんね。


ドイツ革命の経過

デモや暴動が頻発した、という部分だけでなく、これが武力蜂起へと転化するあたりも、ロシア二月革命によく似ています。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

【キール軍港】
キール軍港


これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

【レーテ蜂起】
レーテ蜂起


ドイツの都市バイエルンでは、バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制が廃止されるなどし、この運動はほぼすべての主要都市に波及。ほぼすべての主要都市で「レーテ」が結成されます。(レーテ蜂起)

勿論この話には続きがあるわけですが、私の時間が少しなくなってきましたので、続きは次回記事に委ね、今回はここで一旦終了いたします。



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第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

しかしこの記事・・・一体どこから手を付ければよいのかということに、いささか悩まされる部分があります。

そもそも、「コミンテルン」が発足した理由は「第二インターナショナル」の失敗が最大の理由です。

第319回の記事 にて、私はレーニンの唱えた「革命的敗北主義」について言及しましたが、この「革命的敗北主義」という言葉が初めて登場するのが、1915年9月、反戦派が集合してスイスにて開催された「ツィンメルワルト会議」という名前の国際会議です。

第一次世界大戦が勃発したのが1914年6月の事ですから、ここでいう「反戦」とは、第一次世界大戦に対して用いられたものになります。

場所はスイス。レーニン亡命中に開催されたものです。

どうもレーニンの「革命的敗北主義」とは、そもそも「第二インターナショナル」が1912年、自ら作成した「バーゼル宣言」に記されていた文言に由来するものであるようです。

【バーゼル宣言より抜粋】
 「戦争が勃発するおそれがあるので、加盟諸国の労働者階級とその議会代表者は、インタナショナル事務局の総括的活動に支持されながら、彼らに最も有効とおもわれる手段を適用することによって戦争の勃発を防止することに、全力をつくすべき義務がある。

それらの手段は、階級闘争が激化し一般的政治情勢が激化するに応じて当然変化するものである。

 それでもなお戦争が起こった場合には、すみやかな終結のためにつくし、戦争によってひきおこされた経済上および政治上の危機を、国民を揺りうごかすのに利用し、そのことによって資本主義的階級支配の排除を促進することに全力をあげてつとめることが、義務である」。

後段の「それでもなお」以下の文章は、まさしくレーニンの「革命的祖国敗北主義」そのものではないでしょうか?

つまり、

「戦争を勃発させない様、努力する中においても尚戦争が勃発してしまった場合、危機感によって国民を扇動し、支配者層を排除するために全力を尽くす事が必要だ」

とバーゼル宣言には記されているわけです。そしてレーニンの主張する「革命的祖国敗北主義」とはまさしくこの事です。
第二インターナショナルはそう宣言しているにも関わらず、各国の社会主義政党は戦争の勃発に伴って「祖国防衛主義」に走り、その思想を投げ出してしまった事をレーニンは批判しました。

そして、これを受けて開催されたのが「ツィンメルワルト会議」です。もう一度「国際主義」を復活させるために行われたわけですが、同会議においても、その手段として「平和的な手段を用いる」ことを主張した「右派」と、「革命的な手段を用いる」ことを主張した「左派」に分かれてしまいます。

「国際主義」とは、「社会階級・国家・搾取のない世界」を目指し、それを実現するために、国籍を問わずすべての労働者を組織し、各国の国境に止まらず、国際革命を目的とする考え方です。(Wikiより)

この時、「左派」の中心にいたのがレーニンであり、彼がこの時に主張した枠組みこそ「第三インターナショナル」でした。

ロシア革命においてもレーニンはメンシェヴィキや社会革命党、同じボリシェヴィキの仲間であるカーネフやスターリンに対して、彼らの取った方法が「日和見主義」であると批判していたわけですが、「第三インターナショナル」とは、これまでの第二インターナショナルが否定してきた「排外主義」と共に、この「日和見主義」との断絶も主張したもの。

レーニンが「四月テーゼ」にて謳った内容こそ「第三インターナショナル」が目指すべき姿であったと考えることができます。

【四月テーゼの骨子】
・「臨時政府」を「ブルジョワ政府」とみなし、一切支持しないこと
・「祖国防衛」を拒否すること
・「全権力のソヴィエトへの移行」

レーニンが臨時政府を「ブルジョワ政府」とみなした理由は、臨時政府が他の帝国主義・資本主義国家と連携し、排外的な戦争を継続する意思を有していた為でしたね。


「第三インターナショナル」の実現に向けた動き

レーニンがこの「第三インターナショナル」の実現を具体的に動かし始めるのはロシア革命が成功した後の事。

1918年12月、イギリス労働党が第二インターナショナルの再建を目指して会議を呼びかけた事に対抗して、外務人民委員であったゲオルギー・チチェーリンに対して第三インターナショナル設立の準備に入る様指示を出します。

1919年3月にモスクワで開催された会議において、「第三インターナショナル」の創設が議決されます。「コミンテルン」の結成です。
合計54の代議士が参加し、このうち国外からは5名の参加がありました。

レーニン


「コミンテルン」への加盟条件

さて。いざ「コミンテルン」が結成されますと、レーニンが否定した「日和見主義」的な社会主義者まで含めて、様々な団体が関心を示すようになりました。

ですが、これはレーニンの目指すものであはありませんから、コミンテルンへ加盟するための21の条件を作成します。

21か条全てを掲載しているサイトが見当たりませんので、今回はWikiに掲載されています、4条件のみ掲載しておきます。

・内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)
・党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)
・社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)
・コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)



「コミンテルン」が行った事

それでは、この「コミンテルン」という組織は、一体どのような事を行っていたのでしょうか。

今回の記事では、「レーニン」がその代表者であった時代のコミンテルンについて掲載します。

ロシア革命の後、ヨーロッパでは様々な共産主義国家、及び共産党が誕生しました。

1918年1月 – アルゼンチン共産党結成
     2月 – クバーニ人民共和国独立宣言
     8月 - フィンランド共産党結成
     11月 - オーストリア共産党
         ギリシャ共産党(1924年まで社会主義労働者党)
         ハンガリー共産党結成
     12月 - ラトビア社会主義ソビエト共和国成立
          ポーランド共産党(1925年まで共産主義労働者党)
          ドイツ共産党結成

そして、翌1919年3月にコミンテルンが発足します。
コミンテルンが主に行ったのは、その後の武装蜂起の支援。

この時、「ドイツ革命」の支援を行った様子が登場しますので、次回記事ではこの「ドイツ革命」の様子を記事にしてみたいと思います。

一応、私の予定ではこの「ドイツ」という国にも単独でスポットを当て、なぜナチスドイツが誕生したのかというところまで含めてカテゴリーを作成する予定ではいるのですが、これに先駆けてこの「ドイツ革命」のみピンポイントで取り扱ってみたいと思います。



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この記事のカテゴリー >>GDPの見方


第一四半期ですので、4月~6月期GDP速報になります。
ニュースではこんな感じですね。関心がある方は全文目を通してみてください。

GDP、年4.0%増=11年ぶり6期連続プラス-内需堅調で・4~6月期 (共同通信社記事より)
 内閣府が14日発表した2017年4~6月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた実質で前期比1.0%増、この成長ペースが1年続くと仮定した年率換算では4.0%増だった。

 個人消費や民間の設備投資など国内需要が堅調で、輸出の落ち込みを補い、11年ぶりに6四半期連続のプラス成長となった。年率の伸びは15年1~3月期(4.8%増)以来の大きさ。

 物価変動の影響を反映し、生活実感に近い名目GDPは前期比1.1%増、年率4.6%増。16年後半以降の輸出主導型の経済成長が内需主導型に切り替わりつつある。

 茂木敏充経済再生担当相は記者会見で、「良い数字だが、消費はまだ力強さに欠ける」と指摘した。景気の先行きについては「緩やかに回復していくことが期待される」と語り、安倍政権が掲げる「人づくり革命」や生産性向上などの重点課題に取り組むことで、内需主導の持続的な成長を目指す考えを示した。

 実質GDPを項目別に見ると、個人消費は前期比0.9%増と6期連続のプラス。雇用・所得環境の改善から飲食・サービスが好調で、買い替え需要などで自動車販売やエアコン、冷蔵庫も伸びた。

 設備投資は2.4%増。人手不足を背景に、建設業や小売業などで省力化投資が伸びた。住宅投資は戸建て、貸家ともに底堅く1.5%増。公共投資は、16年度第2次補正予算の執行が本格化したことに伴い5.1%増。伸び率は第2次、第3次安倍政権を通じ最大の13年7~9月期(5.0%増)を上回った。

 輸出は0.5%減と4期ぶりのマイナス。統計上は輸出に分類される訪日外国人の消費は増えたが、アジア向けのスマートフォン関連部品の需要一服などが響いた。輸入は原油・天然ガスの価格上昇から1.4%増えた。

 実質GDPの増減にどれだけ影響したかを示す寄与度は内需がプラス1.3%。一方、外需はマイナス0.3%で、6期ぶりのマイナスだった。(2017/08/14-11:46)

内閣府

要約すると、2017年度第一四半期GDPの内、季節調整を行った実質GDPの前月比が1%上昇し、これを年率換算すると4%の上昇率になりますよ、ということになります。

ただ、私のブログにおいて、GDPに関連する記事では繰り返しお伝えしています通り、そもそも

 ・「名目GDP」そのものがサンプルデータを用いて人為的に作成されたデータであること
 ・「実質GDP」はこの数字を更にサンプルデータを用いて人為的に作成した「持家に帰属する家賃を除く消費者物価指数」で割ったものであること
 ・この実質GDPを更に人為的に作成した公式に当てはめて計算した数字が「季節調整系列」であること。
 ・更に「年率換算」は前述した方法によって算出された「季節調整系列前月比」が「仮に4半期連続で継続したとしたらいくらになるのか」というありえない予測に基づいて算出されたフィクションの数字であるということ

以上の様な理由により、「季節調整系列」という数字も、「年率換算」という数字も私自身は全く信用していません。

一つ目の、「名目値」に関するバイアスだけは解消することができないけれども、他のバイアスに関しては解消することが可能である、「名目原系列、前年同期比」を検証することが一番大切なことだと私は考えています。

ということで、私のGDP速報は、この「名目原系列、前年同月比」を中心に記事を進めてみたいと思います。


2017年度GDP第一四半期第一次速報統計結果

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(前年同期比)】
名目GDP
全体 134.556 兆円(1.6%)

 民間最終消費支出  75.012 兆円(1.9%)
 家計最終消費支出 73.095 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  60.613 兆円(2.2%)

 民間住宅 4.185 兆円(7.3%)
 民間企業設備 19.407 兆円(6.4%)

実質GDP
全体  129.498 兆円(2.0%)

 民間最終消費支出 73.808 兆円(1.8%)
 家計最終消費支出  71.948 兆円(1.8%)
  除く持家の帰属家賃  58.674 兆円(2.0%)

 民間住宅  3.935 兆円(5.6%)
 民間企業設備 19.070 兆円(5.8%)

実質を合わせて掲載しているのは、確かにその信憑性に関しては疑問があるものの、それでも一つの指標にはなるということと、名目と実質の数字を用いることでそれぞれの項目における「物価上昇率」を見ることが出来るからです。

項目としては、基本的に日本区全体の「GDP」をまずは掲載しているのですが、続いて家計最終消費支出者、つまり民間人と民間企業を合算した「消費支出」、続いて「家計」の最終消費支出、ここから更に「持家に帰属する家賃」を除いた消費支出を掲載しています。

続いて掲載している「民間住宅」は民間人が住宅におこなった投資金額(購入額)、民間企業設備は民間企業が行った設備投資費の事です。

安倍内閣が目指している経済社会とは、政府支出におんぶにだっこ、何時まで経っても民間で稼ぐことのできないような社会ではなく、民間が政府の力に頼らずとも、自ら自力で回転していけるような社会です。

この情報をきちんと吸い上げて統計化しているのが上記枠内のデータです。


2017年度GDP第一四半期第一次速報への評価

ニュース記事でも書かれているのですが、今回のGDP評として一番大きいのはやはり「内需」の拡大です。

特に注意してみるべき箇所は民間最終消費支出の内、「持ち家の帰属家賃を除く家計最終消費支出」の動向です。

これも何度も言っている様に、「持ち家の帰属家賃」とは、「もし今住んでいる持ち家が借家だった場合、家賃はいくらになるのか」という非常に意味の解らないフィクションの数字ですから、本来GDPには加えるべきではない数字です。

この数字が名目で前年同期比2.2%、実質で2.0%、物価上昇率0.2%という形で上昇しています。これは非常に理想的な形ですね。

また一方で、「企業設備投資費」に関しても前年同期比で名目が6.4%、実質が5.8%、0.6%の物価上昇率を記録しており、これは完全に「デフレから脱却した」と言っても問題がないような状況となっています。

政府日銀が目指している部下上昇率は2.0%ですから、まだまだじゃないか、という声も聞こえてきそうですが、私としてはその物価上昇率には無理があると考えており、やはり麻生内閣時代の名目3%、実質2%、1%の物価上昇率を目指す事こそ一番理想的な経済成長ではないかと考えています。

2%の物価上昇率というのは、どちらかというと安倍内閣誕生時に安倍さんの周辺を取り巻いていたマネタリストたちの非現実的な妄想が招いた政策の弊害だと私は考えています。


もう一つの視点(輸出入GDP)

ただ、ではアベノミクスはついに成功したのか、と単純に考えるのは実は時期尚早だと思います。

いや、アベノミクスは十分成功していると私は思っているのですが、今回の数字をぬか喜びしてよい数字なのかどうか、という点で1点だけ注意してみておくべき点がある、ということを申し上げたいのです。

それは、「輸入額」の事です。
重ねて輸出額も掲載します。

【2017年度GDP第一四半期第一次速報(輸出入GDP統計)】
2016年度輸入額 19.655 兆円
2017年度輸入額  22.178 兆円
輸入額前年度差額(前年同期比) 2.523 兆円(12.8%)

2016年度輸出額 20.890 兆円
2017年度輸出額 23.038 兆円
輸出額前年度差額(前年同期比) 2.148 兆円(10.3%)

額、率とも輸入が輸出を上回っていますので、輸出入GDPはGDP全体を縮小させる要因として働いています。

ですが、それは輸出入全体にいえることであって、消費支出を初めとする各項目の数字の中には輸出入GDPの内「輸入額」が含まれているわけです。

昨年の記事を読み返していただくとわかると思いますが、2016年度は原油価格が前年同月を大幅に下回る状況にありましたから、原油額が大半を占める「輸入額」は消費支出等各項目を前年に対して下落させる要因として働いていました。

ところが、今年度2017年度は原油価格が前年度を上回っていますので、これが今度は各項目を上昇させる要因として働いています。

勿論、輸入額増加額2.5兆円の内、その全てが原油額というわけではありませんし、今月輸入した原油額がそのまま今月の消費者物価に反映されるのかというと、そういうわけでもありません。

ですが、例えば持家に帰属する家賃を除く家計最終消費支出は前年同期と比較して1.3兆円増えたわけですが、これがそのまま内需に起因する上昇額となるわけではない、ということです。


これらの要素を踏まえて統計データを見る必要はあるわけですが、少なくとも今年度第一四半期のGDPデータは、私たちの想像を上回るほど上昇しました。

またGDP全体で見ますと、輸入額が輸出額を上回っており、GDPに対してはネガティブに作用しているにも関わらず、名目GDP全体は1.6%の上昇率を記録しています。

繰り返しますが、「輸入額」が「輸出額」を上回っていますので、名目GDPの上昇幅は明らかに「原油額の上昇幅を差し引いた内需」に起因するものです。

この事をポジティブな要素としてきちんと受け止めることが大切です。

ポジティブな情報は、「期待インフレ率」として作用し、経済を成長させる大きな起爆剤となりますからね。



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<継承する記事>
第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉

前回の記事では、ロシア戦争後のウクライナについて、一通りその経過を収束することができましたので、一旦ウクライナについては記事を終了させる予定だったのですが、改めて記事を読み返していて、今回テーマとする「ブレスト=リトフスク条約」について回収ができていないと感じましたので、コミンテルンの記事に入る前にいったんこの「ブレスト=リトフスク条約」について記事を記しておきます。


ブレスト=リトフスク条約
こちらの画像は、ロシアと中央同盟国が締結した「ブレスト=リトフスク条約」です。

第342回の記事 にて「ロシアと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」を、前回の記事 で「ウクライナと中央同盟国のブレスト=リトフスク条約」をそれぞれ記事にしました。

時系列から申しますと、ウクライナが締結したブレスト=リトフスク条約が1918年2月9日、ロシアが締結したブレスト=リトフスク条約が同年3月3日の事ですから、ウクライナの方が先に締結したことになります。


ブレスト=リトフスク条約とは?

では、そもそもこの「ブレスト=リトフスク条約」とは何なのか。

今更言うまでもないかもしれませんが、「ブレスト=リトフスク条約」とは、ウクライナ、ロシアがそれぞれ別途中央同盟国との間で締結した「講和条約」です。

前回の記事で記しました通り、ウクライナが締結した「ブレスト=リトフスク条約」は、当時ロシアが元東ウクライナの首都であったハルキウに建国し、ここを拠点として領地を拡大するロシア赤軍との戦闘で敗北を続け、1918年2月8日に首都キエフを占領された翌日、ロシア赤軍を打倒するために選択した講和条約。

このことによってウクライナは独墺と同盟関係を築くことに成功し同年4月末日までにウクライナはウクライナ人民共和国(ソビエト)の領土をほぼ全て奪い返すことに成功しました。


ロシアと中央同盟国との和平交渉の経緯

一方、ロシアが中央同盟国との間でブレスト=リトフスク条約を締結するのはウクライナから約1カ月遅れた1918年3月3日の事。ウクライナでは中央ラーダ軍とボリシェビキ軍間での内戦真っ只中であったことが分かります。

では、ロシアが中央同盟国との間で締結した「ブレスト=リトフスク条約」とは、一体どのような条約であったのでしょうか。


和平交渉をスタートさせたのはウクライナよりもロシアの方が先でした。

10月革命によってボリシェビキ軍が臨時政府軍を打倒し、新政権を打ち立てる中で、臨時政府がロシアを代表する正式な政府であると認識し、臨時政府が統括するロシア領内での自治を宣言していたウクライナが、臨時政府の崩壊に伴って正式にロシアからの独立を宣言したのが1917年11月20日の事。

このままではロシアと対立構造にあるドイツがウクライナに介入することは避けられない状況の中でロシアは1917年12月22日、中央同盟国との間で和平交渉をスタートさせます。

しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を和平交渉の条件として提示したことから、この交渉はすぐに暗礁に乗り上げています。ボリシェヴィキ派ウクライナ人民共和国が出来るのはその3日後。

12月25日にロシア側からウクライナ側に最後通牒が突きつけられ、ウクライナとロシアは戦争状態に突入します。


ウクライナと中央同盟国との交渉の経緯

一方、ウクライナ側が中央同盟国との和平交渉に乗り出したのは翌年1918年1月1日の事。中央同盟国側からすると、ロシアと並行する形で同時にウクライナとも和平交渉を進めるわけです。

これに対し、ロシア側(トロツキー)らからの妨害工作が入るわけですが、ウクライナは豊富な穀倉地であり、ウクライナの穀物を魅力に感じたドイツは、ロシアよりウクライナを和平交渉の相手として選択します。

その結果、1918年2月9日ウクライナ中央ラーダ政府と中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」が締結されます。

同条約では、100万トンの穀物を提供することを見返りに、中央同盟国がウクライナに軍事協力を行うことが約束されました。


ボリシェヴィキ政権の誤算

ウクライナと中央同盟国との間で条約が締結されたことを受けて翌2月10日、トロツキーは中央同盟国との交渉を打ち切ります。

ボリシェヴィキ政権の誤算としては、この時点で既にボリシェヴィキ側はウクライナ領土の大半を手中に収めており、ウクライナの事を舐めてかかっていた部分がありました。そして、ドイツをはじめとする中央同盟国内部にもロシア革命の考え方に賛同する労働者や農民、兵士たちがいることから、彼らが武装蜂起を起こすことにも期待していたわけです。

ですが、ウクライナが中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結してしまった事から、この計算が大きく狂ってしまいました。レーニンは慌ててウクライナに対する懐柔策を講じるわけですが、結果的に中央ラーダ軍は息を吹き返し、自分たちが占領していた領土の大半が逆に奪い返され、ボリシェビキ軍はロシア領土内へと追い返されてしまうことになります。


さて。そもそもウクライナがロシア赤軍に劣勢を強いられていた最大の理由は中央ラーダ軍がロシア赤軍に対して武力が劣っていたわけではなく、赤軍がウクライナに対して仕掛けた情報戦(プロパガンダ戦略)によって内部崩壊させられたことが原因です。

つまり、10月革命によって政権を奪取したばかりのボリシェビキ軍の戦力は「その程度」の戦力でした。

第一次世界大戦において英仏を筆頭とする連合軍を相手にする独墺軍にとって、ロシア赤軍の軍力などまさに赤子の手をひねるようなもの。ウクライナ領土を経て、独墺軍が破竹の勢いでロシア領土にまで攻め入る状況にありました。


ロシアが締結した「ブレスト=リトフスク条約」

ロシアは元々「賠償金や領土併合なしの和平」を条件として中央同盟国との間での和平交渉に臨んでいました。

ですが、この様な状況に陥りますと、もうそうは言っていられません。

ロシア赤軍最高総司令官は1918年2月19日、全軍に武装蜂起をする様指令を出し、直ちにドイツ軍との間で和平交渉に入る様命令を出します。

条約が締結されたのは3月3日の事。ロシアはこの条約によって第一次世界大戦戦線から正式に離脱。

そして「フィンランド」、「エストニア」、「ラトヴィア」、「リトアニア」、「ポーランド」、「ウクライナ」及び、トルコとの国境付近の「アルダハン」、「カルス」、「バトゥミ」に対するすべての権利を放棄させられます。

ロシアが放棄した地域

上図の赤色で示された地域ですね。これらの地域はドイツに割譲され、そのほとんどが独立を果たすこととなります。

ウクライナは4月29日、ヘーチマンの政変によって中央ラーダ軍が解散させられ、政治体制も共和制から君主制へと移行。
国名も「ウクライナ人民共和国」から「ウクライナ国」へと変更されます。

6月12日、ロシアはついにウクライナ国との間で休戦協定を結ぶこととなり、この事を受けてロシア内戦は一時休戦状態となりました。

また更に8月27日、ブレスト=リトフスク条約には追加条項が加えられ、ロシアは条約相手国に対して多額の賠償金を支払わされることとなりました。

条約への妥結後、レーニンは首都をペトログラードからモスクワへと遷都しました。


これでブレスト=リトフスク条約に関する点はほぼ回収できましたね。

この語、1918年11月13日、中央同盟国は連合国側に敗北し、ブレスト=リトフスク条約は効力を失い、ロシア=ウクライナは再び交戦状態へと突入することになります。

一方この条約に調印したことでボリシェヴィキ政権は国内のあらゆる階層から非難の的に晒されることとなりました。
この事でロシア赤軍(ボリシェヴィキ側)と白軍(反ボリシェヴィキ側)との対立が激しくなり、ロシア国内でも内乱状態に突入することになります。

第一次世界大戦終結後、連合軍側が白軍側についてこの内乱に介入したことから、ロシア国内この後2年間に及ぶ内戦状態が継続することになりました。


さて。改めまして、次回こそ「コミンテルン」に関連した記事を作成したいと思います。



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第344回 ロシア革命時のウクライナ/ウクライナ・ソビエト戦争勃発

ウクライナ1918

前回の記事を軽くおさらいします。

前回の記事は、ロシア帝国領土となった後、ロシア帝国に於いて勃発した「二月革命」。これによって独立の機運が盛り上がったウクライナが、十月革命が勃発するまで、ニコライ政権に続いて誕生した「臨時政府」を正式な政府であると認め、「臨時政府が統治するロシア」に対して、「ロシア連邦内の自治地域である」という宣言を勝手に行ってしまった第一次ウニヴェルサール期。

その後第一次世界大戦の影響下、ドイツ軍がウクライナを占領してまいかねない状況の中で慌てて臨時政府がウクライナの自治権を認めた「第二次ウニヴェルサール期」、十月革命に於いて臨時政府がボリシェビキ政権に敗れた後、ついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言した第三次ウニヴェルサール期。

これに対抗してボリシェビキ政権がウクライナ政府=中央ラーダに工作員を送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとするもののこれに失敗。

これを受けて中央ラーダに対して最後通牒を突きつけ、これを拒否されるや否やその翌日、もう一つの「ウクライナ人民共和国」を元々東ウクライナの首都であった都市、「ハルキウ」に建国します。

ハルキウは元々ウクライナ人ではなく、ロシア人やロシア人が多く居住していた地域で、ボリシェビキもこの地域には浸透しやすかったんですね。

前回の記事ではこの国の名を「ウクライナ・ソビエト共和国」と記しましたが、実際にこの名称で呼ばれるようになるのは1918年3月19日の事。この時、ウクライナ人民共和国以外に存在していたいくつかの「ソビエト共和国」を、統合し、「ウクライナ・ソビエト共和国」と呼称するようになります。

前回の記事ではここまでお伝えしました。今回はこれ以降。ロシア・ウクライナ戦争がどのようにして進んでいくのか。また第一次世界大戦の収束に伴ってこの戦争にはウクライナでもロシアでもない、第三国が関わるようになるわけですが、この過程について記事にしたいと思います。


「ウクライナ・ソビエト戦争」の経緯

ただ、この「ウクライナ・ソビエト戦争」。具体的に情報が掲載されている資料がWikiしかありませんので、この情報をベースに進めていくことになります。

1.実際に進行が開始するのは翌年、1918年1月の事で1月9日以降、カテリノスラウ、アレクサンドロフスク、コノトープ、フルーヒウと次々とボリシェビキ軍が占領。

2.一方でウクライナ中央ラーダ政府は1月22日、ロシアからの完全な独立を宣言します。(第四次ウニヴェルサール)

ウクライナとボリシェビキ軍の戦力は拮抗していた様なのですが、ボリシェビキ軍はウクライナに対して情報戦を仕掛け、このことによって中央ラーダ軍を内部から崩壊させていくような戦い方をしていたようです。

3.1月28日、ウクライナの首都、キエフにてボリシェビキ軍スパイが武力蜂起を起こし、翌29日には「クルーティの戦い」が勃発し、ウクライナの300人の青年隊が4千人のボリシェビキ軍に敗北。

4.2月8日にはボリシェビキ軍によりキエフが占領されてしまいます。中央ラーダ軍はジトームィルまで撤退します。

地図でいえば、ウクライナ領の中央にある●、「Kiev」がキエフ、その西側の●、「Zhitomir」がジトームィルです。

この時、ボリシェビキ軍(そのほぼすべてがロシア人)は、元々ウクライナ人を見下す傾向が強く、レーニンたちが「ロシア革命」を起こして勝ち取ったはずのソビエト政府だったのですが、ウクライナ人にとってその振る舞いは「帝政ロシア時代のロシア」を思い起こさせるものとなったのだとか。

キエフを占領したムラヴィヨーフという人物が率いるボリシェビキ軍=赤軍は占領下におけるキエフで、約2週間のうちにウクライナ人を無差別に逮捕・処刑し、約2000人のウクライナ人を殺害したのだそうです。フランス革命時代のロベスピエールを彷彿させますね。

この事で、ウクライナ人の反ボリシェビキ感情はマックスに到達します。


ウクライナ・ドイツ間での「ブレスト=リトフスク条約」の締結

5.2月9日、中央ラーダは独墺との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。食糧100万トンと引き換えに独墺軍の軍事的協力を得ることに成功します。

この段階、つまり1918年2月9日の段階から、元々「ウクライナとロシア」の戦いであったはずの「内戦」にドイツとオーストリアが参戦します。

ここでは「独墺と条約を締結した」と記しましたが、実際に締結した相手は「中央同盟国」。

もともと第一次世界大戦は「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦いから始まったわけですが、ロシアはロシア革命により三国協商より離脱。一方イタリアは途中で三国協商側に寝返り、三国同盟から離脱。

独墺はオスマン帝国、ブルガリア王国と共に「中央同盟国」を形成する状態にありました。

6.ウクライナ中央ラーダからの要請を受け、独墺はウクライナへ45万の軍隊を派遣。独墺の支援を受けた中央ラーダは破竹の勢いで領土を回復していきます。

7.1918年3月、ロシアは首都をペトログラードからモスクワへ遷都。

8.ウクライナ領土にあったソビエト共和国を全て「ウクライナ・ソビエト共和国」として結集するもそのほぼ全てが中央ラーダ軍に奪い返され、ウクライナ・ソビエト共和国はロシア領土内に逃げ込むことになります。

9.4月末日までに中央ラーダはウクライナ領のほぼ全てを奪い返します。


ヘーチマンの政変

さて。この段階で「ウクライナ」は「独墺」と同盟関係にあるわけですが、ウクライナ領土内に派遣されたドイツ軍。このドイツ軍の胎動が実に横柄なもので、ウクライナ領土内の農民から膨大な食料が徴発されるなどし、これまでボリシェビキに向けられていた反発心が、今度はドイツ軍をウクライナに招き入れた中央ラーダに対して向けられることになります。

10.1918年4月29日、ウクライナ・コサックの氏族であるパウロー・スコロパードシクィイがキエフ・サーカス劇場にて行われていた農民大会にて、ヘーチマンに選出される。(ヘーチマンの政変)。中央ラーダは解散させられ、国号は「ウクライナ国」と改められる

まるでロシアで起きた10月革命を彷彿させるようなクーデターがウクライナでも勃発します。

中央ラーダの「ラーダ」は議会を意味しますから、所謂「共和制」を目指す政権です。ところがヘーチマンの政変によって誕生割いた政権は「ヘーチマン(コサックのボス)」が存在しますので、ウクライナ国がは「君主制国家」でありました。

ボリシェビキが政権を握ったロシアとは違って、ウクライナでは君主国家へと再び時代が逆戻りした形となったわけですね。


中央ラーダ軍の復活

1918年11月1日 西ウクライナ人民共和国が独立を宣言

1918年11月11日 ドイツが連合国に敗北

ウクライナ国ができたのは4月末であったわけですが、同年11月、ドイツが連合国に敗北してしまったことでドイツ軍はウクライナから撤退してしまいます。

これをまたとない機会ととらえた中央ラーダ軍の残党が再び結集し、「ディレクトーリヤ」という組織を作ります。
12月14日 撤退するドイツ軍と協定を結んだ上でキエフを再び占領。ウクライナ国ヘーチマン、スコロパードシクィイは亡命し、ウクライナ国は消滅。ウクライナ人民共和国が復活

1919年1月6日 ウクライナ・ソビエト共和国は「ウクライナ労農臨時政府」を立ち上げ、「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」に国号を変更する

3月10日 ウクライナ社会主義ソビエト共和国は独立を宣言し、ロシア共和国と軍事同盟を結ぶ

ややこしすぎる・・・

この時点でウクライナは「西ウクライナ人民共和国」「ウクライナ人民共和国」「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の3つ存在する状態となります。

ちなみに「西ウクライナ人民共和国」は地図でいうと西側の黄色の部分。「GALICIA(ガリツィア)」と書いている部分があると思うのですが、このあたりで独立した国家です。で、同エリアに●で、「Lvov-Lemberg(リヴィウ)」と書いている都市がありますが、ここが西ウクライナの首都。

元々この地域に住んでいる住民の6割はウクライナ人だったのだそうですが、そのほとんどが農民で農村部に住んでいて、首都であるリヴィウにはウクライナ人ではなく、ポーランド人やユダヤ人によって支配されていたのだそうです。

ですから、西ウクライナ人民共和国が独立を宣言した時点で西ウクライナとポーランドとは交戦状態に陥ります。

一方のウクライナ人民共和国では、国家こそ復活したものの、ディレクトーリヤ政府は「ボリシェヴィキ・ソビエト政府の軍隊(赤軍)」や「南ロシア軍(白軍、白衛軍)」、「ウクライナ革命反乱軍(黒軍)」と交戦状態に陥ります。「ボリシェヴィキ・ソビエト政府」が「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の事ですね。

西ウクライナとウクライナ共和国は双方がそんな状態にありましたから、1919年1月22日、両国は正式に統一宣言を行います。


ポーランド・ソビエト戦争

1919年2月14日 ポーランド・ソビエト戦争勃発

ドイツ軍が撤退した後、レーニンはロシアが撤退した地域に各地域の共産主義勢力と連携すること、ドイツ、及びオーストリアの革命勢力を支援することを目的として赤軍を派遣することを命じます。(1918年11月)

「ドイツ軍が撤退した地域」に該当するのが「ポーランド」でした。
ドイツの敗戦後、ドイツとソ連から領土を割譲される形で「ポーランド」が復活します。

第一次世界大戦当時、ポーランドはドイツとソ連によって割譲されており、更にソ連領ポーランドとウクライナが国境を接する形にありました。

一方のポーランドは、フランスからの支援を受ける形で1919年2月、軍の再編成を行います。ここに攻め込んできたのがソ連の赤軍でした。(ポーランド・ソビエト戦争の勃発)

この様な状況の中で、1919年7月17日、ポーランドはガリツィア地域を占領し、西ウクライナ人民共和国は崩壊し、残党がウクライナ人民共和国へと逃げ込むことになります。

ウクライナ人民共和国ディレクトーリヤ軍と西ウクライナ人民共和国軍は共闘し、ボリシェビキ赤軍と一進一退の攻防を広げるのですが、1919年10月ウクライナでチフスが流行し、ウクライナ軍は兵士の7割を失います。

これを受け、ウクライナ軍はウクライナ人にとって宿敵であったはずのポーランドへ亡命することとなります。

ディレクトーリヤ軍を率いるシモン・ペトリューラにとって最も憎む相手こそボリシェヴィキ軍。ペトリューラはポーランドに対し、自分たちを唯一のウクライナを代表する唯一の政府として認める事を条件として、ポーランドと同盟を結びます。

ところが、一方の西ウクライナ人民共和国軍はボリシェビキよりもむしろポーランドを最大の宿敵として認識していた為、ペトリューラとは袂を分かち、ポーランドではなくロシア赤軍と合同することとなります。

然し、結果的にディレクトーリヤ軍とポーランド軍はロシア赤軍に敗北し、ポーランドはこの戦争を収束させるよう西欧諸国より圧力をかけられ、ディレクトーリヤ軍ではなくウクライナ社会主義ソビエト共和国を正式なウクライナ政権であるとして承認し、西ウクライナ人民共和国を自国領土として併合しました。

それまで「ウクライナ人民共和国」であったはずの領土は「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の領土として併合されることとなりました。


ウクライナ人民共和国政府はその後も亡命し続け、中心人物であるペトリューラはソ連のスパイに暗殺されるものの、亡命政府そのものは第二次世界大戦後も存在し続け、現在は「ウクライナ共和国」として無事独立を果たすことに成功しています。


しかし、それにしても、「東欧」ってものすごく複雑ですね。

次回記事では、いよいよ「コミンテルン」が発足する経緯について迫ってみたいと思います。


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さて。今回は久しぶりにこの「森友学園問題」を取り扱ってみたいと思います。

というのも、だれが流出させたのか、そもそもその出所がどこだったのかはさっぱりわかりませんがFNNが独自データとして、森友問題に関する「新たなる音声データ」を入手し、これを巧みに編集して報道したからです。


これについて、同じFNN、フジテレビのワイドショーである「バイキング」でも取り上げられていましたので、こちらの動画もご紹介しておきます。


フジテレビがこれらの番組を作成した目的としては、「財務省側、佐川理財局長(当時)」が国会で以下のような発言を行っていることが理由です。

新たなる音声データ0
佐川理財局長
「価格につきまして、こちらが提示したこともございませんし、先方からいくらで買いたいといった希望があったこともございません」

これは、バイキング動画内より抜粋しました。
動画では、籠池夫妻と財務省側、池田国有財産統括官とのやり取りで構成されています。

冒頭で池田国有財産統括官が、土地を森友学園側にリースする段階で、当初より存在が確認されていたゴミ撤去費用1億3200万円をベースに森友側と交渉していることから、「池田統括官は金額を提示しているじゃないか」というのが先ず番組側の主張。

そしてもう一点。この金額をベースで話をしていることから、

「最初からこの金額で売りつけることを目的としているじゃないか、8億2000万円という値引き額はこの金額ありきだったんじゃないか、辻褄を合わせることを目的として、土地評価額の9億5000万円から1億3200万円を差し引いただけじゃないか」

という主張を行っています。
ですが、私は改めてこの動画を見てみて、まったく逆の印象を覚えました。

ピンと来たのはこの土地は元々価格が付かないような二束三文の屑土地だったんじゃないか・・・と。


新たなる音声データの内容

勿論、この動画はフジテレビ側にとって都合の良い部分のみを切り取って都合よくつなげていますので、これを情報ソースとして提示するのは、一見すると適正な方法ではない様に感じてしまいますが、実は今回の動画に関しては全く逆。

フジテレビ側の編集と番組構成、及びその主張がいかに出鱈目なものであるのかということを、この動画そのものが証明してしj待っているのです。

それでは、大切な部分を抜粋する形で籠池夫妻と池田国有財産統括官とのやり取りを文字起こししてみます。

【籠池夫妻と池田国有財産統括官とのやり取り】
池田国有財産統括官
「先ず一転、お詫びの点はですね。地下埋設物の撤去工事に関しては、きちっと森友学園理事長・復縁等に情報が伝わっていなかった点は、われわれも反省点としてありまして、今後の対応については大阪航空局よりご説明いただこうと思っています。」

<中略(籠池氏の恫喝)>

大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

<中略(籠池妻の恫喝。損害賠償の要求:学校の開校が遅れること等を理由に)>

池田国有財産統括官
「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

池田国有財産統括官
「理事長のおっしゃる0円に近いというのがどういう風にお考えになられているのか、売り払い価格というのが0円ということなのかと私は思いますけど、私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくるかと。そこは何とかご理解いただきたい」

籠池氏
「(売却価格は)1億3000万が云々というものよりもぐ~んと下げていかなあかんよ」

池田国有財産統括
「理事長がおっしゃる0円という金額までわたしはできるだけ努力する作業を今やっています。
だけど、1億3000万円を下回ることはない」

ここから、フジテレビ側の主張が続きます。

新たなる音声データ1

「結局最初のごみ撤去費用1億3200万円を上回る1億3400万円で契約が成立」

新たなる音声データ2

「これまで国側は、国有地の鑑定価格からゴミの撤去費用(8億2000万円)を差し引いて土地の売却価格を算出したと説明していた」

新たなる音声データ3

「今回の音声データは、最初から1億3000万円の売却価格ありきで新たなるゴミ撤去費用を算出したことを疑わせる内容」

このあと明らかな印象操作としか考えられない籠池氏の口から出まかせを「さらなる音声データ」として紹介した後、コメンテーターや司会者との間でのやり取りが繰り広げられます。


「新たなる音声データ」から読み取れること

さて。私はこの音声データを、朝起きた時に付けたテレビ番組で初めて耳にしました。

で、聴いた瞬間に頭に思い浮かんだ疑問が、冒頭に述べた、

「これ、この土地は元々値段もつかないような二束三文の屑土地だったんじゃ・・・」

という疑問です。まず冒頭、池田国有財産統括官が述べている、
「先ず一転、お詫びの点はですね。地下埋設物の撤去工事に関しては、きちっと森友学園理事長・復縁等に情報が伝わっていなかった点は、われわれも反省点としてありまして、今後の対応については大阪航空局よりご説明いただこうと思っています。」


という内容について。これは、2016年3月の時点で「新たに発見されたゴミ」について、当初財務省側では把握できておらず、この事を籠池夫妻に謝罪している場面です。

これについては大阪航空局より

「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたい」


と述べています。ところが、この次に池田国有財産統括官が発言する場面では、

「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

という内容に変わっており、これは即ち大阪航空局より説明があった後、籠池夫妻とのやり取りの中で、財務省側から「撤去は別に森友側でやっていただいても問題はない」との提案がなされたのではないかと推察されます。

これに対して更に

「実際にかかる工事費が財務省側の見積りより少なかったとしても財務省側は別に文句は言いませんよ」

と付け加えているわけで す。


さて。ここまで記述した段階で、読者の方のご意見としては2つのご意見に分かれているのではないでしょうか?

一つ目は、私が感じた疑問と同様の疑問。
二つ目は、フジテレビが編集している様に、「え!それじゃ森友側のぼろもうけじゃん!」
とする短絡的な発想です。


「新たなるゴミ」が発見された時点での「土地評価額」は一体いくらだったのか

このサブタイルについて、池田統括官は以下の様に述べています。
「理事長のおっしゃる0円に近いというのがどういう風にお考えになられているのか、売り払い価格というのが0円ということなのかと私は思いますけど、私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくるかと。そこは何とかご理解いただきたい」

<中略>

「理事長がおっしゃる0円という金額までわたしはできるだけ努力する作業を今やっています。
だけど、1億3000万円を下回ることはない」

つまり、この時点で、ごみ撤去工事を行う前の土地の価格は0円でも問題はないが、1億3200万円かけて撤去工事を行ったんだから、撤去工事費用1億3200万円の土地の価値がこの土地には生まれている、とこの様に池田統括官は言っているわけです。

そう。暗に池田統括官は、ごみ撤去工事を行う前の土地価格は「0円でも問題はない」としているわけです。

全く先入観を持たない状況でこの情報を見ると、

「えっ? 0円の土地って、一体どんな屑土地なの?」

と、普通であればこうなるはずです。実際、フジテレビ側もこの「0円」という土地価格が「おかしい」とは一言も言っていません。
フジテレビ側は、この土地が「1億3400万円で売却されたこと」を問題とし、その前提条件となった「1億3200万円」という「価格ありきだったんじゃないか」と言っているわけです。

そして売却時点で査定されていされている土地評価額「9億5000万円」を引き合いに出し、「この9億5000万円から1億3200万円を差し引いた金額を『新たなるゴミ撤去費用見積もり』としたのであったのではないか」

としているわけです。

ですが、よく考えてみてください。そもそも森友側に売却した「1億3400万円」という数字は、「もともと0円と評価しても差し支えなかった土地に、国費を投じて行ったゴミ撤去及び整備費用1億2000万円」がベースになっています。

つまり、

「土地評価額は元々0円であった土地に、1億3200万円の費用をかけて整備した結果、1億3200万円という土地価格が生れた」

ことをこの経緯は示しているのです。


8億2000万円という値引き金額は適正であったのか?

それでは、改めて考えてみましょう。そもそもこの値引き価格8億2000万円という数字は、母体となる土地売却価格9億5000万円という数字があって初めて出てくるものです。

上記録音テープが、一体いつ録音されたのか、それは私には分かりません。ですが、一つ言えることは、録音テープにおいて池田統括官は、
私ども、以前から申し上げているのは有益費の1億3000万という数字を国費として払っているので、その分金額ぐらいは少なくともの売り払い価格は出てくる

とこの様に述べており、池田統括官のこの言葉より、国側は学園側に、この土地の売買価格がどんなに安く見積もっても、工事費として支払った1億3200万円を下回ることがない、ということを、実際に売買交渉に入る以前から伝えていたのではないか、ということです。

「やっぱり価格ありきだったんじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、私が言いたいのはそういうことではありません。

森友側が政府側に土地購入の申し入れを行ったのは3月24日。新たなるゴミが発見されたのは3月11日ですから、森友が購入申し入れを行う前から「新たなるゴミ」は既に発見されていました。

この事から透けて見えてくるのは、籠池夫妻はこの「新たなるゴミ」を政府側に対する「値引き交渉を行うための材料」として提示したのではないかということです。

繰り返しになりますが、政府側は元々籠池夫妻に対して「この土地の売買価格はどんなに安く見積もっても1億3200万円は下りませんよ」と伝えていたわけです。

これに対して籠池夫妻は「これまで発見されていなかった新たなるゴミが発見されたんだから、値段を下げるのが当然でしょ?」と言っているわけです。逆に言えば、「新たなるゴミ」がみつかったことで「値引き交渉が出来る」と踏んで学園側は国側に対して土地の購入を申請しました。

NHKニュース からの情報にはなりますが、上記リンクサイトによりますと、森友が土地購入の申し入れを行った6日後、財務局は大阪航空局にゴミの撤去見積もりを依頼。この金額8億1900万円が確定したのが4月14日である、とされています。

リンク先ではこの8億1900万円を「値引き額」と記していますが、土地評価額が決まるのが5月30日ですから、この時点ではあくまでも「ごみ撤去費用」であり、「値引き額」ではありません。

今回ご紹介した録音テープが、果たしてこのごみ撤去費用が確定する前に行われたやり取りなのか、それとも確定した後に行われたやり取りなのか、これは私には分かりません。ですが、上記録音テープの中には、明らかに不自然な内容が報道されています。

大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

<中略(籠池妻の恫喝。損害賠償の要求:学校の開校が遅れること等を理由に)>

池田国有財産統括官
「我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

文字で見るとわかりにくいのですが、番組的には大阪航空局の発言には、前後の流れが一切含まれておらず、番組のナレーションとナレーションに挟まれる価値で、この部分だけピンポイントで切り取られて入れ込まれている様にも感じるのです。

既に述べていますように、大阪航空局側のセリフでは工事を国で行うことが提案されていますが、池田統括官のセリフになると、いつの間にか工事を森友が行う、という内容になっています。

これまでの流れから考えると、仮にこのやり取りが工事費の見積もりが行われた後に行われたやり取りであると仮定すると、航空局の発言と池田統括官のセリフとの間に、以下のようなやり取りがなされていたのではないかと推察されるのです。
大阪航空局 
「今回出て来た産業廃棄物というものは、国の方に瑕疵(かし)があるということが判断されますので、その撤去に就いては国の方でやりたいなと思っておりまして」

籠池氏
「もちろんそれはそちら側で負担していただけるんでしょ?」

大阪航空局 
「いえ。こちら側で工事をさせていただきますと、その金額が土地取得金額に上乗せされることになります。」

籠池氏
「それはおかしいでしょう。工事には一体どのくらいの金額がかかるんですか」

大阪航空局 
「こちら側の見積もりでは8億1900万円になります」

籠池氏
「本当にそんなにかかるんですか?」

池田統括官
「これまでの事例を参考にしますと、このくらいの金額になります」

籠池氏
「もっと安くならないんですか。そんなんだったらこっちでやりますよ!」

池田統括官
「勿論、そうしていただいても問題はありません。その場合、我々が見込んでいる額よりも(撤去費が)少なくても我々は何も言わない」

あくまでもこれは私の推測であり、言うなれば「フィクション」です。

ですが、当初元々0円であった土地に、1億3200万円の工事を行った結果、1億3200万円の価値がつくのであれば、実際にいくらかかるのかは知りませんが、新たなるゴミ撤去にそれ相応の金額がかかるのであれば、新たなるゴミを撤去した後、その撤去にかかった費用がそのまま「土地評価額」に加算されるはずです。

勿論、この撤去費用の中には、実際に確認できるゴミの撤去費用以外に、仮に建築が遅れた場合の損害賠償費用や仮にこれまで発見されていない場所にもゴミが埋設されていた場合の撤去費用まで全て含まれた「瑕疵担保免責特約」が含まれていますから、その全てが実際にかかる「ごみ撤去費用」ではないのかもしれませんが。

そして、その免責特約まで含めた土地撤去費用を元々の評価額である1億3200万に加算した金額9億5100万円をこの土地の「評価額」とした・・・というのが最終的な土地評価額が決定した「真相」であったのではないか・・・という事を今回の音声データ報道内容より推察いたしました。


さて。それでは改めて森友学園における値引き金額「8億2000万円」は適正だったのでしょうか?
それとも安倍首相に「忖度」して値引きをしすぎていたのでしょうか?

結論から申しますと、今回の値引き金額など、別に何円でもよかったんじゃないか、というのが私の結論です。

そもそもこの8億2000万円という数字は、森友側が「新たなるゴミ」を発見などせず、仮に発見していたとしても現在そうしている様に撤去そのものを行わず、埋設されたまま工事を行っていれば出てくることのなかった金額です。森友が購入した「1億3200万円」という数字がそのままこの土地の評価金額となっていたのではないでしょうか?

もし仮に、森友側が自分たちが値引き交渉に使おうとした「新たなるゴミ」を土地購入後正式に撤去し、政府側見積もりを大幅に下回る金額でゴミの撤去をできた場合、きちんと整備までして売却した場合、その売買金額が仮に政府側が見積もった9億5000万円という金額通りに売却できたとすれば、その工事費と売却金額との差額は、確かに森友側の利益になります。

ですが、現在の様にその撤去すら行わず、放置したままの状態なのであれば、その価値は何時まで経っても1億3200万円という金額のままです。

政府はびた一文損はしていませんし、森友側は撤去工事を行っていない以上、この土地取得をめぐって何一つ利益を得てはいないのです。

そして、これは推測の域を出ませんが、8億2000万円という値引き金額は、別に「1億3200万円ありき」で算出されたものではなく、飽くまで瑕疵担保免責まで含めて正当に見積もられた結果、その金額が1億3200万円という現時点での土地の価値に加算され、「値引き金額」ではなく「土地評価額」の方が事後的に算出されたのではないかと推察されるわけです。

その上で8億2000万円という数字は、別に8億2000万円である必要はなく、別に7億円であろうが5億円であろうが、政府としては全く問題はなかった。

仮に7億円であれば土地評価額が8億5000万円に、5億であれば6億5000万円になっていた・・・という、ただそれだけの事だったのではないかと考えられます。

ただ一つ言えることは、池田統括官は、「新たなるゴミ」が出てきても、森友の要請に一切応じず、逆にその撤去費用を現在の土地評価額に加算する形で収束させた、極めて優秀な方であった、ということ。

寧ろマスコミが報じるべきなのは、この点なのではないかと私は思います。
(※記事作成に数日かかりましたので、一部動画が既に削除されていますが、飽くまでこの動画を元に作成した記事ですので、削除後の動画画面も私の記事では削除せず、そのまま残しておきます。)


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この記事のカテゴリー >>ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯


<継承する記事>
第343回 ロシア革命の財源はどこから?/ユダヤ陰謀論の正体

さて。今回はソビエト連邦が誕生する経緯に於いて私が関心を持った4つのテーマの内2つ目。「ウクライナ」にスポットを当ててみたいと思います。


「ウクライナ」についての復習

今回のシリーズ の冒頭では、「ロシア」に焦点を当てる前に、「ロシア」が誕生する原点となった国家である「ウクライナ」についての記事を作成しました。

とはいえ、当時のウクライナの名称は「ウクライナ」ではなく、「キエフ=ルーシ公国」。現在のウクライナの首都、「キエフ」を中心に存在した国家です。キエフ公国がモンゴルに滅ぼされた後、モンゴルの支配下に於いてこのキエフ公国を継承した「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」がウクライナのルーツです。

「ロシア」はキエフ大公より土地を分割された「ウラジーミル・スーズダリ公」が、後に「モスクワ公」となり、これがロシアの源流となります。

「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」はその後分裂し、「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアに、それぞれ分割して統治されることとなりました。

元々敵対する関係にあったポーランドとリトアニアですが、共通の脅威であったドイツ騎士団に対抗するため、同盟関係を結び、やがて両国を一人の元首が束ねる「ポーランド・リトアニア共和国」となります。

「ハールィチ公国」はポーランドに、「ヴォルィーニ公国」はリトアニアにそれぞれ分割統治されていたわけですから、両国が合併し、一つの国家となったことで「ウクライナ」は再び一つ国家における領土として束ねられることとなります。実際には統合される3年前、ウクライナそのものがリトアニアからポーランドへと移り、「ウクライナ」というポーランドの一地域となります。

そして、そんな「ポーランド・リトアニア共和国」に出現したのが「ボフダン・フメリニツキー」。ウクライナ・コサックの指導者です。ウクライナ・コサックは元々「キエフ=ルーシ」の士族・豪族の流れ者集団で、ウクライナの一地域に拠点を構えていました。

ウクライナがポーランドの一地域となった折、同地域の「登録コサック」、即ち公的な軍事組織として認められたコサック軍には、他のポーランドの貴族と同等の権利が認められました。

フメリニツキーが率いていた「ウクライナ・コサック」とは、このポーランドの一地域となった「ウクライナ」のコサック軍であったものと考えられます。

ただ、この「ウクライナ・コサック」が与えられていた権利は限定的で、しばしば共和国に対する反乱を起こしていました。

その代表的な反乱がフメリニツキーの起こした「フメリニツキーの反乱」と呼ばれるもので、フメリニツキーは反乱の結果、ポーランド政府に勝利し、「ザポロージャのコサック軍(ヘーチマン国家)」という名前の国家を打ち立てます。この時ウクライナ人たちは初めて自分たちの事を「ウクライナ人」であると認識しました。

この後、フメリニツキーは自国をロシアの保護下に置くことを求め、ヘーチマン国家はロシアの保護下に置かれることとなるのですが、フメリニツキーの死後、ウクライナ=ロシア戦争が勃発するなどし、ウクライナは内戦状態へ。

その後、「右岸ウクライナ」がポーランド=リトアニア政府に、「左岸ウクライナ」がロシアに、それぞれ分割統治されることとなります。右岸ウクライナはポーランド=リトアニアにより自治権を失うのですが、左岸ウクライナはロシアにより自治権をみとめられ、保護国として存在し続けます。

所が、後に左岸ウクライナはロシアに対して独立戦争を仕掛け、失敗。その後左岸ウクライナもまた自治権を失うことになります。

その後、ポーランドそのものがロシア・プロセイン・オーストリアの三国で分割されることとなり、「ポーランド=リトアニア共和国」をのものが事実上消滅。右岸ウクライナまで含めてウクライナはロシア領となります。


ロシア革命と第一次世界大戦の経緯

さて。それでは時間軸を再びロシア革命へと戻します。

ここでもう一つおさらいなのですが、ロシア革命(10月革命)が起きたのは現代の暦で1917年11月7日。第一次世界大戦の真っ只中です。

では、改めて「第一次世界大戦」がどのような戦争であったのかというと、「英仏露」の「三国協商」と「独墺伊」の「三国同盟」の戦い。これに他の諸外国が絡んだ形で行われていた戦争です。

三国同盟対三国協商

上図を見るとわかると思いますが、三国同盟を英仏とロシアとで挟撃している構図です。

ところが、第一次世界大戦への参戦で、肝心の労働力であった農民たちが兵士として戦線に駆り出され、ロシアは極端な食糧不足に陥ります。で、食料の供給を求めて主婦たちが起こしたデモをきっかけに勃発したのが「二月革命」。二月革命の勃発により、ニコライ二世が失脚し、帝政ロシアが崩壊。

その後のロシアはニコライ政権下でドゥーマ(議会)をになっていた面々によって結成された「臨時政府」と、メンシェヴィキの旗振りによって結成された「ペトログラード・ソビエト」との二重権力構造となるわけですが、ペトログラード・ソヴィエトは臨時政府を「ブルジョワジー」であると考え、彼らの目指す「ブルジョワ革命」が臨時政府によって行われたと判断し、ペトログラード・ソビエトは臨時政府を指示する方針を示しました。

その後も臨時政府はニコライ政権下、第一次世界大戦に参戦する姿勢を改めず、4月危機、7月事件を経て左派政権である社会革命党の党首であるケレンスキー内閣が結成されるも、状況は変わらず。そしてついに10月革命が勃発し、ケレンスキーは失脚。ボリシェビキが政権の座に就くこととなったわけです。(ロシア革命の完成)


「帝国主義」の象徴である第一次世界大戦への参戦に反発してボリシェビキ政権が誕生したわけですから、この時点でロシアは第一次世界大戦から脱退することになります。

ですが、ドイツからすればそうは問屋が卸しません。これまでロシアとは対立する状況にあったわけですから、このままではロシアは一気に独墺によって攻め込まれることとなります。これを防ぐために、ボリシェビキ政権との間で講和条約を締結する以外に方法はない・・・ということになりますね。

この様な発想からロシアと中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)との間で締結されたのが「ブレスト=リトフスク条約」。この条約の締結によってロシアは第一次世界大戦から脱退します。


ロシア革命とウクライナ

さて。それでは改めて「ロシア革命とウクライナ」について考えてみます。

二月革命の勃発により、帝政ロシアは崩壊したわけですが、当時ロシア領にあったウクライナでも、二月革命の成功はウクライナ独立の機運を盛り立てることとなりました。この機運を受けて、1917年3月、ウクライナの各勢力間の関係を調整する政治的中枢機関として設立されたのが「ウクライナ中央ラーダ」。

「中央ラーダ」の「ラーダ」とは、ロシアでいう「ソビエト」とほぼ同義です。

ヘーチマン国家時代のウクライナもそうなんですが、どうもこのウクライナ人、自分たちの力で結束しよう、という思いがそれほど強く内容で「中央ラーダ」もこの例にもれず、せっかく独立や自治を志して結成されたのに、その方針として「「ロシア連邦」の枠内で共和国全土を治める方針」を定めます。

つまり、ウクライナとして完全に独立することはせず、ニコライ政権に続いて誕生した臨時政府にウクライナの命運を委ね「臨時政府の統治するロシアの一部として、ウクライナに自治を認めてください」という・・・まあ随分都合の良い方針を定めたわけです。まるでどっかの朝鮮半島を見ている様です。

で、この方針を以て中央ラーダの代表団はロシアベラルーシを訪れ、「自分たちに自治権を与えてください」とお願いするわけですが、当然断られます。

これもまた当然の事で、ウクライナは自分たちが戦争状態にある独墺とロシアとの干渉地域に当たるわけです。そこに自治権を認める事は、ロシア自身の命運を左右する結果ともなりかねませんから。

で、断られたウクライナはなんと、6月23日、「ウクライナはロシア連邦領内の自治地域である」と勝手に宣言してしまいます。(第1次ウニヴェルサール期)

ところが、一方のロシアでは、臨時政府に於いて陸海相の座に就いたケレンスキーが、ドイツに対する徹底抗戦を訴えるわけですが、二月革命により第一次世界大戦継続に対するモチベーションがダダ下がりのロシアの前線は完全に崩壊し、ペトログラードでは兵士らによるデモ(7月事件)が勃発し、8月には「コルニーロフの反乱」が勃発。

最前線であるウクライナが、いずれドイツに占領されてしまいかねない状況に陥ります。そこで、慌てて臨時政府は中央ラーダが設置されているキエフに使者を送り、地域を限定して、にはなるものの、ウクライナに対して「自治」を認める事を伝達します。

このことによって、ウクライナはロシアに併合されて以来、初めて正式な形での「自治権」を有することになりました。(第2次ウニヴェルサール期)


ウクライナ・ソビエト戦争の勃発

さて。ここまで見ていただいているとわかると思いますが、ウクライナ「中央ラーダ」は、明らかにニコライ政権の後を引き継いだ「臨時政府」を相手に交渉を行っています。この時点ではまだボリシェビキ政権は誕生していないわけですから、当然と言えば当然なのですが、中央ラーダは明らかに「臨時政府派」なのです。

ところが、その「臨時政府」がボリシェビキの起こしたクーデターによって崩壊。中央ラーダはこのことによって「盟主」を失ってしまいます。中央ラーダは、ボリシェビキの行為を「暴力的である」として非難します。

自分たちが仕えてきた臨時政府が崩壊したわけですが、だからと言って臨時政府を崩壊させたボリシェビキにホイホイと仕えるわけにはいきません。

朝鮮の場合は日清戦争で清国が日本に敗れた後、今度は日本に尻尾を振り、日本が三国干渉で旗色が悪いと見るや、今度はロシアに対して尻尾を振るという非常に情けない態度を取り、最終的には日本の手によって強制的に中国から独立させられてしまったわけですが、ウクライナは違いましたね。

ロシア臨時政府がボリシェビキに敗れ、崩壊するとウクライナはついに「ウクライナ人民共和国の創設」を宣言し、完全にロシアからの独立を宣言するのです。(第3次ウニヴェルサール期)

形式上は、あくまでも「ロシア臨時政府が統治するロシア領内での独立」を意味するわけですが、その、肝心の臨時政府が存在しないわけですから、これが事実上の「独立宣言」となりました。

これを受け、「英仏露三国協商」を構成していた英と仏は、早急にウクライナを国家として承認します。

この段階ではまだボリシェビキ政権は臨時政府から政権を奪取したばかりで、ドイツとは対立する構造にあります。ウクライナはそんなロシアから独立を宣言したわけです。

一方、ボリシェビキ政権は英仏と同盟関係にあった臨時政府に対するクーデターを仕掛け、これを成功させたわけですから、英仏とはまた対立する構造が出来上がります。何しろ、これを成功させたレーニンやトロツキーは、「反帝国主義」を掲げる共産主義者ですからね。

また、英仏は当然独墺と戦争状態にあるわけですから、ウクライナに独墺側につかれるわけにもいきませんから、英仏がウクライナの国家承認を急いだのも理解できます。

また、一方のボリシェビキ政権も、ウクライナに勝手に独立されるわけにはいきませんから、ボリシェビキ政権は先ず中央ラーダにスパイを送り込み、中央ラーダを乗っ取ろうとしますが、失敗。

そこで、ボリシェビキ政権はウクライナ中央ラーダに対し、「ウクライナでソビエト軍、ボリシェヴィキ軍の行動の自由を保障すること」を条件に中央ラーダが運営するウクライナ人民共和国の設立を認めるとした交換条件を突きつけます。

勿論これは中央ラーダにとって飲めるものではありませんから、ボリシェビキ政権から中央ラーダに対する「最後通牒」となります。当然中央ラーダはこれを拒否し、ボリシェヴィキはウクライナへ軍事侵攻を行うことを決定(1917年12月25日)。翌26日、ボリシェヴィキは、ウクライナのロシア側の地域、「ハルキウ」という地域にもう一つのウクライナ人民共和国、「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立します。

「ウクライナ・ソビエト戦争」の勃発です。

ウクライナ1918

こちらの図で、右上の濃い紫色のエリアがロシア・ソビエトで、その西側の薄紫色のエリアが「ウクライナ・ソヴィエト共和国」です。
この地域には元々「ボリシェヴィキ派」のウクライナ人が多くいた地域でもあったようです。


次回記事では、ウクライナ・ソビエト戦争の経過と、これに絡む諸外国の様子なども記事にできればと思います。



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