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ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>第519回 ドイツ政権の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)への接触

前回の記事では、第518回の記事 で触れることができていなかった、「シュトレーゼマン後のドイツ国首相」で、ヒットラー首相が誕生する直前の2名、即ちパーペン内閣とシャライヒャー内閣の二つの内閣について記事にしました。

単純に見落としていただけで、意図して記事を分けたわけではなかったのですが、結果的にこの二つの内閣、もっと言えばその直前のブリューニング内閣まで含めて、この3つの内閣がヒットラー内閣誕生への伏線のような役割を果たしていた事に気づくことができました。

世界恐慌が勃発したことは確かにあるのですが、それまでの内閣と比較して、ブリューニング内閣は確かに違和感を覚える、実力の薄い内閣だったように感じていたので、裏でシャライヒャーという人物が大統領に対して働きかけていたことを知ると、「なるほどな」という印象を受けました。

で、ブリューニング内閣での法案成立が「緊急法規」という手法を取っていたという事を 第518回の記事 で触れたと思うのですが、同じ記事の中でこの「緊急法規」について、
この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

と記述しました。

で、前回の記事 でパーペン内閣について検証している中で、これもやはりWikiベースではあるんですが、パーペンの政策決定方法として、
内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だった

という記述がみられます。

これは、パーペン内閣でもブリューニング内閣同様、「緊急法規」という手法を用いた政策決定が行われており、これが「大統領権限」に基づくものであったという事がわかります。

つまり、ブリューニング内閣で実行されていた「緊急法規」もまた、「大統領権限」に基づくものであったという事。両内閣に対してシャライヒャーが関わっていることを考えると、そこに一致性がみられることにも疑問を抱かずに済みます。

これは、法案を立案するのは内閣で、本来であればこれを成立させるために議会の承認を得る必要があるのですが、ワイマール憲法第48条によって大統領は「憲法停止の非常大権などの強大な権限」が与えられていていました。

これを、「大統領緊急命令権」といいます。ブリューニングも、パーペンも、この方法を用いて法案を成立させていました。これができたのは、両内閣の成立に関与したシャライヒャーが、ヒンデンブルク大統領に信頼されていたからに他なりません。

極端なインフレを終息させるために緊縮財政政策を取ったブリューニングも、雇用を創出するための財政出動政策を行ったパーペンも、大統領命令を利用して成立させた政策は、決して誤ったものではないと思います。

ただし、その後シャライヒャー内閣→ヒットラー内閣へと政権は移っていくわけですが、ヒットラー内閣においてこれがヒットラーの権限を拡張させるために利用されたことは間違いのないことだと思います。

そしてこれを可能としたのはヒンデンブルク大統領がシャライヒャーを信用しきっていたから。この事は頭の片隅に置いておく必要があると思います。

ちなみにこの事は、第475回の記事 で、麻生さんの「ナチスの手口」発言について解説する記事を作成した際、詳細に記事にしています。

第475回の記事 はこの記事をご覧の皆様にもぜひ読んでいただきたい記事なのですが、あくまでこの時のドイツの憲法は「ナチス憲法」ではなく「ワイマール憲法」です。

ヒンデンブルク大統領が連発した「大統領緊急命令権」は、当時世界でも最も民主的であるとされたはずのワイマール憲法に規定されていたことですし、また大統領がブリューニングやパーペンを罷免する権限も憲法によって保障されていました。

これまでの記述でご理解いただけているとは思いますが、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)はきちんと選挙という方法を通じて議席数を増やし、国政第一党にまで規模を拡大しています。

麻生さんが言っているのはこの事です。ワイマール憲法はどのようにして決まったのか。これは社会主義者たちの台頭を受け、ドイツが第一次世界大戦に敗北し、帝政から共和制へと移行する中で、共産主義者の集団であるスパルタクス団の武装蜂起が勃発する中。

その首謀者であるベーベルやリープクネヒトが処刑される中で成立したものです。

そのような喧噪の中で決まった「ワイマール憲法」。正確には「ドイツ国憲法」ですが、そのような憲法の下でも国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)のような政党が政権を手中に収めるようなことは発生するんですよ。そのようなドイツの歴史に学んだらどうですか、というのが麻生さんがおっしゃっていることです。

是非、きちんとその事を日本の国民全員に考えてほしいなと思います。


釈放後のヒットラー

ということで、改めて本題に入りたいと思います。

同じサブタイトルを、第517回の記事 でも用いているのですが、今回のこの章はその続き、という感じで読んでいただけると嬉しいです。

第517回の記事 では、ヒットラーが収監されている最中に仲間割れを起こしていた元ナチスのメンバーを再び結束させ、ヒットラー自身がドイツ国の国籍を取得したところまで記事にしました。

ミュンヘン一揆によって国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は禁止されていたのですが、ヒットラー自身の釈放(1924年12月20日)後、1925年2月27日に禁止が解除され、再建されることになります。

釈放後、ヒットラーは当時(1925年1月4日)のバイエルン州首相であるハインリヒ・ヘルトと会見をし、ヘルトが同党の再結成を許可したのだそうです。この時、ヒットラーはヘルトに対し、非常にへりくだった姿勢を見せていたようです。

ところが、実際に再結成をし、演説会を開くとその影響力は決して無視できるようなものではなく、州政府からは1年間の演説禁止措置を受けることとなります。

同年7月には「獄中での口述を基にヒットラーがまとめた著書」である「我が闘争」が発売され、これが順調な売れ行きを見せるなど、ヒットラーと国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルン州以外にも支持を広げる様になっていました。


突撃隊の再結成とレームとの決別

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

一方で、国家社会主義ドイツ労働者党の軍対組織である「突撃隊」の再結成に当たっては、突撃隊をナチスから独立させようとさせていたレームとの間で意見が分かれ、結果的にレームとは一時的に決別することとなります。

突撃隊の結成や強化、またミュンヘン一揆においても大きな力を発揮してくれたレームですが、ヒットラーとしては突撃隊への彼の影響が大きくなることを危惧していた時期もありましたね。

ヒットラーが突撃隊の隊長をレームの息のかかった人物からヘルマン・ゲーリングへと差し替え、レームが送り込んだエアハルト旅団退院を突撃隊から一掃した件です。


ザロモンによる突撃隊の再編成とその影響

フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
Bundesarchiv, Bild 119-1587A / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

5月24日にヒットラーの命令により、突撃隊の再建が開始することになるのですが、この突撃隊。バイエルン州だけでなく、ベルリンをはじめとする様々な地域でも各地の党支部の下で再建が行われたのだそうです。

逆に考えると、この時点で国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルンだけでなく、各州に「支部」となる組織を有していたという事。しかも軍部を支部ごとに組織できるほどの・・・。

これはこれでビックリですね。

その後、各地でバラバラに活動していた突撃隊を、中央から統括してコントロールしてほしい、という意見が増えることになり、その役職として突撃隊最高指導者を新設し、ヒトラーはフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンという人物をこの役職につかせました。

ザロモンの働きは実に鮮やかで、1927当初には実に18個大隊を編成し、突撃隊隊員はザロモンに忠誠を誓う形となります。

旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という編成になっていたのだそうですよ。

ザロモンの上長はヒットラーですから、突撃隊はヒットラーとザロモン以外からの指示に従わなくなります。ドイツ共産党の軍隊(赤色戦線戦士同盟)と衝突したり、また暴力的な行為を行うものが増えていくんですね。

社会民主党の国旗団とも戦闘を繰り広げるなど、死傷者が頻繁に出るようになった、とのこと。いろんな州がナチスを嫌がったのは、どうもこのザロモン率いる突撃隊の行動に原因があったようです。ヒットラー自身はこのような突撃隊の行動を嫌がっていた、とありますね。

各州ではナチスの制服そのものが禁止されていくようになります。党としては制服を白シャツにする、などの方法でこれを乗り切ったのだそうです。

ザロモンの「功績」はなかなか興味深いところがありますので、そのまま引用して掲載しておきます。

【突撃隊の社会福祉制度】
負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。


【ザロモンが設立した組織等】
1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊が傘下となっており、1934年までその状態が続いた。

また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。

このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している。


しかし、ザロモンはヒットラーに対し、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に書き加えることをヒットラーに要求したものの、ヒットラーにこれを拒否されると突撃隊司令官を辞職しています。

この時ヒットラーが拒否した理由が

「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」

という理由です。これは、至極尤もな事なのではないでしょうか。

エルンスト・レームの再登場

詳細は割愛するのですが、ザロモンの辞任をきっかけに、各地の突撃隊が中央からの指示に反発するようになります。元々、ヒットラーの政策は保守的なもので、共産主義や社会主義と対立する立場にありました。

突撃隊のメンバーは元労働者が多く、こういった「左翼」が元々多くいたんですね。反乱を起こしたのはこのような人たちです。

突撃隊内での武力衝突も起きるなど、ヒットラーとしてはなんとかこの状況を抑える必要性に駆られます。

この時点でザロモンの役職はヒットラー自身が担っているのですが、ヒットラーにはこの状況を抑えることができる人物はたった一人しか思いつきません。

突撃隊の再建を巡って対立し、自分自身の下を去ったエルンスト・レームです。

レームはヒットラーからの要請を快く承諾し、1930年11月1日に南アフリカからドイツに帰国。1931年1月5日、正式に突撃隊幕僚長へと就任することになります。

この時点でのドイツ国首相はブリューニングですね。少しだけ時間軸を巻き戻し、国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出について記事を記します。


国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出

国家社会主義ドイツ労働者党が初めて国政選挙に挑むのが1928年5月20日の事。この時はたった12人しか当選することはできなかったのですが、ヤング案の成立をきっかけとして世界恐慌が勃発すると、ドイツ国内では失業者が大量に発生し、国政への不満が噴出します。

世界恐慌時の首相はヘルマン・ミュラーで、彼が所属していたのはドイツ社会民主党。1928年5月の選挙でドイツ社会民主党は議席数を大幅に増やし、この事がミュラー内閣の政権安定に貢献したわけですが、世界恐慌の煽りを受けて押し寄せた不景気の波は、逆に政権与党であった社民党への逆風となります。

ミュラー政権が発足した当初は好景気で、ヤング案を成立させたことで、ミュラー政権は戦勝国への賠償金も減額させています。ヤング案の成立が原因で世界恐慌が勃発することまで想定してはいなかったでしょうし、不可抗力だったと思うのですが、ちょっと可哀想な気もします。

ミュラーは1930年3月27日に退陣し、その後ブリューニングが首相となるわけですが、ヤング案の成立そのものもドイツ国民に対しては反政府感情を誘発したようで、ブリューニング内閣で行われた1930年9月14日の国政選挙では、

第一党 ドイツ社会民主党 153議席→143議席▲
第二党 国家社会主義ドイツ労働者党 12議席→107議席+
第三党 ドイツ共産党 54議席→77議席+
第四党 中央党 61議席→68議席+
第五党 ドイツ国家人民党 73議席→41議席▲
第六党 ドイツ人民党 45議席→15議席▲

という結果に終わります。ブリューニングは中央党でドイツ人民党と組んでいます。両党の議席数を合わせて106議席→83議席へと大幅に議席数を減らす結果に終わっていますね。

一歩で選挙前はブリューニング内閣に反対する姿勢を取っていた社会民主党ですが、自党が議席数を減らす中、国家社会主義ドイツ労働者党と共産党が議席数を大幅に増やし、特に国家社会主義ドイツ労働者党は一気に国政第二党へと躍進していますから、これは危機感を覚えたと思います。

その後、ブリューニング内閣に協力する姿勢を見せる様になっていますね。

レームが戻ってきたのは、ちょうどそんな時期でした。


まとめ

本日の記事では、パーペン内閣やシャライヒャー内閣とのかかわりににまで記事を進めることはできませんでしたが、ヒットラーがドイツ国政府や各州の政権から敬遠されるきっかけとなった理由の一つに、再建された「突撃隊」の存在があったことが見えてきましたね。

レームが復活した突撃隊はどのようにまとめられていくのか。

また、現時点でまだヒットラーはそれこそ「ユダヤ人大量虐殺」というような手法を用いて政府と対立していくような様子は見られません。

寧ろ突撃隊の暴走で政府からの心証が悪くなることを恐れているような、そんな印象すら受けます。

この後のヒットラーがどのように変化していくのか。次回以降の記事で検証してみたいと思います。





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<継承する記事>第518回 シュトレーゼマン後のドイツ国首相~ヒットラー首相誕生まで

今回も前回の記事同様、前回の記事に掲載した内容を時系列で整理するところから始めてみます。

1923年9月 グスタフ・フォン・カール、バイエルン州総督に就任
1923年11月8日 ミュンヘン一揆勃発
1923年11月30日 ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1925年2月 エーベルト大統領死去
1925年2月28日 ハンス・ルター内閣始動
1925年5月12日 パウル・フォン・ヒンデンブルク、大統領に就任
1926年5月16日 第二期ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1928年6月28日 ヘルマン・ミュラー内閣始動
1930年3月30日 ハインリヒ・ブリューニング内閣始動
1933年1月30日 アドルフ・ヒットラー内閣始動

で、前回の記事で誤っていた箇所が一つ。

ブリューニングの後にフランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャーという人物がそれぞれ首相を務めていますので、今回の記事はこの両名にも触れておきます。

フランツ・フォン・パーペン内閣(1932年6月1日 - 1932年12月3日)

フランツ・フォン・パーペン
Bundesarchiv, Bild 183-1988-0113-500 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

首相として、ヴィルト、クーノ、シュトレーゼマン、マルクス、ルター、ミュラー、ブリューニングと、所謂「政治家」が多く登場していますね? 経済や外交に強い首相が多い様に思います。

ところがこのフランツ・フォン・パーペン。「政治家」というよりはどちらかというと「軍人」。そして彼が首相として指名された理由として、彼の後首相を務める「クルト・フォン・シュライヒャー」という人物からヒンデンブルク大統領への「推薦」があったことが挙げられます。

この辺りからどうもドイツの政治がいろいろときな臭くなってきますね。

パーペンは政治家としての経験が少なく、あまり有能ではなかった・・・とあります。そしてシュライヒャーが「利用しやすかった」ことがその最大の理由だと。

この辺りは記述者の解釈等が含まれているでしょうし、事実とどの程度近いのかは眉唾ものではありますが、彼が所属していた中央党の党首と「大統領からの要請を受けない」ことを約束していたにも関わらず、ヒンデンブルク大統領からの要請を受け、これに飛びついて中央党から除名されるなど、決して褒められた人物ではないのではないか、との想像は付きます。

彼の下でシャライヒャーは国防大臣も務めています。

更に、この内閣の評判は非常によろしくなく、ブリューニング内閣で自党の軍部である「突撃隊」を禁止され、これを解除してもらう必要があった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が唯一同内閣を批判することがなかったものの、それでも協力を要請されたヒットラーはこれを断っていたといいます。

パーペン内閣は実際に突撃隊の禁止を解除しています。

この段階で、ドイツ国各州がナチスに対し、「ナチス征服禁止令」を出そうとするなど、ナチスが「危険な存在である」と感じられていた様子は見て取れます。

また、前回の記事で日本が主導して開催されたローザンヌ会議が前首相であるブリューニング内閣だったと記したのですが、これは誤りで、実際にはブリューニング内閣が崩壊し、パーペン内閣が誕生した直後。1932年6月16日の事。

実際にローザンヌ協定そのものは成立し(批准はされず)、賠償金額を減らすことに成功はしたものの・・・というより、免除することに成功してたんですね。その代わり、30億マルクを支払え、というのがローザンヌ協定で決まった内容だったようです。

ところが、ドイツ国民にはこの結果は評価されなかった様で。パーペンは「外交下手」との誹りを受けたのだそうです。

その後もフランスに対して「対共(ソ連)同盟」の成立を打診して拒絶され、ソ連にばらされたりするなど、ダメっぷりは発揮するのですが、ただ、経済政策については効果的な政策を打っていたようで、その中心が雇用創出事業。

これまで「緊縮財政政策」とは真逆の「財政出動政策」。中でも道路建設事業や徴兵制度(日本の是清の政策とよく似ていますね)などはヴェルサイユ条約に違反するために見送られたものの、後にヒットラーによって採用され、失業問題を劇的に解決することに役立っています。

そして、彼の時に行われた総選挙でナチスが37.4%の得票率を獲得。議席数を107議席から230議席へと大幅に増やし、政党第一党へと躍進することになります。

社会民主党が143議席から133議席に、国家人民党が41議席から37議席へと議席数を減らす中、パーペン内閣を攻撃した中央党、そして共産党も議席数を伸ばしました。

この後のパーペン内閣とナチスとの関係については後日の記事に委ねようと思うのですが、これを受けてナチスの存在を看過できなくなった・・・という事でしょうか。シャライヒャーはナチスと接触するようになるのですが、結果的にはパーペン内閣はナチスと対立することになります。

その後の政権運営を他人任せにする傾向が強かったパーペンは結果的にシャライヒャーからも愛想をつかされ、退陣を求められることとなり、大統領であるヒンデンブルクの下へ逃げ込むも、ヒンデンブルクからもNoを突き付けられ、パーペン内閣は退陣し、シャライヒャー内閣が生まれることとなります。


クルト・フォン・シュライヒャー内閣(1932年12月3日 - 1933年1月28日)

クルト・フォン・シュライヒャー
Bundesarchiv, Bild 136-B0228 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この人物。パーペン内閣での暗躍っぷりをみてもわかると思うのですが、特にミュラー内閣以降、「政治を裏から操っていた」という印象強く受けます。

現在はWikiの記事を中心に内容を進めているのですが、この中にシャライヒャーが「政治陰謀が好きだ」という記述がみられます。

彼は大学時代に「ヴィルヘルム・グレーナー」という人物に師事しているのですが、シャライヒャーはグレーナーによって政治の表舞台にまで引き上げられることになります。シャライヒャーがグレーナーのことをどう思っていたのかはわかりませんが、グレーナーはシャライヒャーの事を異常に信頼している様子が見て取れます。

実際シャライヒャーは軍人としても有能だったようで、第一次世界大戦後の義勇軍の創設、編成などで大きな功績を発揮したり、第一次世界大戦後のドイツで参謀本部長や軍総司令官などとしても活躍したハンス・フォン・ゼークトの側近として「黒色国防軍」の編成を任せられるなど、その能力を多くの実力者から評価されていたようです。

ただ、ゼークトから重用されてはいるものの、ゼークトはシャライヒャーの事を好ましくは思っていなかったようで、その理由として「政治陰謀が好きだから」という理由が記されています。

彼が信頼を集めていたのはグレーナーだけでなく、ヒンデンブルク大統領からの信頼も厚かった・・・というのはパーペン内閣の様子を見てもご理解いただけると思います。

彼はヒンデンブルク大統領が大統領となる以前から彼の息子と親しく、シャライヒャーがヒンデンブルク大統領に信頼されることとなったのも、そんな大統領の息子を通じての事でした。

彼が大統領に影響を及ぼしていたのはヒンデンブルクが大統領に就任した直後から。

ゼークトはシャライヒャーの危険性(現段階ではあえて「危険性」と表現しておきます)を見抜いていて、軍内、及び政界全体に対する彼の影響力の拡大を押さえつけようとしていたのですが、ゼークト自身が1926年10月に失脚し、シャライヒャーを押さえつける者は誰もいなくなります。

彼の師であるグレーナーがミュラー内閣で国防相となると、彼によってシャライヒャーは少将へと引き上げられ、国軍省に設置された大臣官房の官房長へと任じられます。グレーナーのシャライヒャーに対する信用の度合いはかなりなものであったようです。

ミュラーの後、ブリューニングが首相へと就任するわけでが、大統領に彼を首相へと就任するよう働きかけていたのはシャライヒャー。ブリューニング内閣において行われた地方選挙でバイエルン州以外全ての州で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が第一党へと躍進すると、シャライヒャーはブリューニングを見限ってヒットラーに接触。

ヒットラーと「突撃隊禁止命令の解除」を約束したのはやはりパーペンではなくシャライヒャーですね。シャライヒャーはそれ以外に国会を解散させることなども約束しています。

更にその後シャライヒャーはナチスと組んでブリューニングではなく、グレーナーを失脚するよう画策します。自分自身をここまで信頼し、引き上げてくれた恩師であるグレーナーを、です。クズですね。引用します。

ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。

5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。

シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した。

ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた。

この後、シャライヒャーは大統領に働きかけ、ブリューニングも解任させます。

ブリューニングを首相にする様ヒンデンブルグに働きかけたのはシャライヒャーだったはずなんですが。

この時大統領がブリューニングに伝えた解任の理由は
「今後は右翼政治を行うべし」
「労働組合指導者層とは手を切るべし」
「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」

という内容。

「農業ボルシェヴィズム」とは、「東プロイセンの地主が管理しきれない土地を失業者に分配する」というブリューニング自身の政策をユンカー(地主)たちが揶揄したもの。

これを受け、ブリューニングは5月30日に総辞職しました。

そして、更に首相へと就任したのがパーペン。その後、パーペンがやはりシャライヒャーに見限られ、辞任へと追い込まれるまでの経緯は前記した通り。

パーペンの辞任後、1932年12月3日に今度はシャライヒャー自身が首相へと就任することとなります。


今回の記事では、「ヒットラー」の話題にも触れていく予定だったのですが、記事そのものが少し長くなったことと、「パーペン」及び「シャライヒャー」両内閣の経緯についてヒットラー自身とのかかわりが多くみられることから、両首相の以前の首相の時代まで含めて、改めて「釈放後のヒットラー」について次回記事で検証していきたいと思います。



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<継承する記事>第517回 ヒットラー釈放後のドイツ国経済~世界恐慌勃発まで~

前回の記事では、ミュンヘン一揆前後、ヒットラーが逮捕され、また釈放される前後のドイツ。第一次世界大戦敗戦後ドイツの賠償交渉の流れについて記事にしてみました。

流れ的には

1923年1月11日 ルール占領開始
 ドイツでハイパーインフレーションが勃発

1923年8月13日 ヴィルヘルム・クーノに変わってグスタフ・シュトレーゼマン首相へと就任
 クーノが取っていた通貨発行を原資としたルール地方のストライキ政策を中止

1923年11月15日 ヒャルマル・シャハトによって地代に価値が紐づけられたレンテンマルクが発行
 暴落の真っ最中だったパピアマルクをレンテンマルクに交換し、マルク相場が落ち着く

1923年11月23日 シュトレーゼマンがミュンヘン騒動等の責任を取って退陣

1924年8月16日 アメリカの賠償委員会に参加し、「ドーズ案」をフランス・ベルギーが受諾。
 ドイツは米英からお金を借りてフランス・ベルギーに返済することに

1924年10月 ドイツは新通貨「ライヒスマルク」を発行
 ドイツ国内でしか使用できなかったレンテンマルクと交換、金本位制へと復帰

1929年6月 ドーズ案に変わって新たにアメリカが提案したヤング案が採択
 ドイツの返済額が減殺され、返済期間が延長される

1929年9月4日 ヤング案の成立を受け、世界恐慌が勃発
 ドイツが更なる財政難へと陥り、ヤング案でも返済が不可能な状態に陥る

1932年6月16日~7月9日 ローザンヌ会議で更なる減額が決定。
 フランス・ベルギーの要求を米国が拒否し、批准されなかった

1933年1月30日 ヒットラーが首相へと就任
 返済そのものを拒否する

という感じです。

前回の記事はこの流れを国際社会側から見たわけですが、今回の記事ではこれをドイツ国側から検証することを目的としています。


国際社会の流れとドイツを統合

前回の記事で、一部振れているのが「カール政権の発足」についてです。

彼がバイエルン州総督となったのが1923年9月の事ですから、時期的にはシュトレーゼマンがドイツ国首相となり、ライヒ通貨委員となったシャハトがレンテンマルクを発行するまでの間の出来事です。

更に、ミュンヘン一揆が勃発したのは1923年11月8日~9日にかけての事ですから、レンテンマルクが発行されたのはミュンヘン一揆の直後だったことになりますね。

ミュンヘン一揆勃発のそもそものきっかけを与えたのはシュトレーゼマンのルール占領軍に対する「受動的抵抗の中止政策」を受けてのものではありましたが、彼は後のドイツ国経済に安定化をもたらした「レンテンマルク政策」の実行者でもあったわけですから、彼が辞任に追い込まれたのは「とばっちり」でしかなかったようにも感じます。

ちょうど昭和恐慌から日本をいち早く立ち直らせた高橋是清が、その経済回復を実感できるようになる前に兵士たち(皇道派)によって暗殺された二二六事件の経緯ともよく似ている気がします。


シュトレーゼマン後のドイツ政権~第一期ヴィルヘルム・マルクス内閣

で、登場していてしかるべきなのに、全く名前が登場していないのがシュトレーゼマンの後を引き受けた首相のお名前。

これが、ヴィルヘルム・マルクスという人物で1923年11月30日に首相に就任し、24年12月15日まで首相を続けています。

ヴィルヘルム・マルクス
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

彼は、また更に26年5月16日に首相へと再任し、28年6月12日まで首相を続けています。

で、前任者で辞任したシュトレーゼマンですが、彼は第一次マルクス内閣では外務大臣を務めています。シュトレーゼマン、やはり有能な人物だったんでしょうね。

マルクスは翌12月の総選挙で敗れて退陣するのですが、その直後、1925年2月にはプロイセンの州首相に就任しています。ですが、同じ月の月末、敗戦後の混乱の中から、長らく大統領として就任していたエーベルトが死去。マルクス派州首相を辞任し、大統領選に出馬しています。

ところが、この選挙でも彼は僅差で敗れ、落選。


ハンス・ルター内閣

第一次マルクス内閣の後はハンス・ルターという人物なのですが、この内閣でマルクスは法務大臣を務めています。

ハンス・ルター
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

一方で、ルターはシュトレーゼマン内閣で財務大臣を務めた人物で、シャハトがレンテンマルク政策をとる中で、自身は緊縮財政政策を取り、通貨を安定させました。この時は「ハイパーインフレーション」が起きている真っ只中ですから、緊縮財政政策が「的を射た政策」になるんですね。

首相としてのルターはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとの間で「ロカルノ条約」という集団安全保障条約を締結(ヴェルサイユ条約の内容を踏襲したもの)しており、この事でドイツは晴れて国際連盟へと加入します。

この事は、第一次世界大戦対戦国との融和にも貢献していて、ドイツを国際社会へと復帰させたんですが、その事が逆にドイツ人からの反発を招き、ルターを退陣へと追い込むこととになります。

ちなみにロカルノ条約の発足に貢献したのはレンテンマルク政策を実施したシュトレーゼマン。シュトレーゼマン外相ですね。シュトレーゼマン、結構優秀ですね。やはり。


ドイツ国家人民党とドイツ政権

ちなみにルターを退陣に追い込むこととなったのは、シュトレーゼマン外相の政策に不満を抱いた「ドイツ国家人民党」。

ドイツ国家人民党は第一次世界大戦中の保守政党が合流して出来上がった政党で、皇室の復活を望んでいたり、議会政治に反対していたり、ヴェルサイユ条約やドイツ国憲法(所謂ワイマール憲法)にも反対。反ユダヤ・反社会主義・反共産主義の政党です。

「匕首伝説」も喧伝していたということですから、ガチガチの右派。

そもそも第一次世界大戦はドイツが優勢に進めている中、社会主義者たちの台頭により自滅したような戦争ですから、社会主義者の台頭さえなければドイツが連合国に敗北することはありませんでした。

シュトレーゼマン外相の外交政策(ロカルノ条約)は本来勝ち戦であったはずの第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約を受け入れ、フランスやベルギーと仲直りすることを目的としていますので、国家人民党がこれに反発したのは当然といえば当然でしょうね。

ちなみにこの政権の中には「バイエルン人民党」。も参加しています。バイエルン州総督を務めたグスタフ・フォン・カールもバイエルン人民党です。

ドイツ国家人民党離脱後のルター内閣が崩壊したのも理解できる気がしますね。

ルターの後を再びマルクスが引き継ぎ、マルクス内閣を組閣します。(1926年5月16日)

その後、「社会民主党のフィリップ・シャイデマンにドイツ国防軍とソビエト軍が秘密裏に協力していることを国会で暴露」されたことにより辞職。その後総選挙が行われるのですが、議席を減らし、マルクス内閣は退陣することになります。(1928年6月12日)


ヘルマン・ミュラー内閣

マルクスに代わって首相としての指名を受けたのがドイツ社会民主党党首であるヘルマン・ミュラー。
ヘルマン・ミュラー
Bundesarchiv, Bild 102-11411 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

彼はヴェルサイユ条約に外務大臣として調印した人物であり、当時のドイツ国第2代首相であるグスタフ・バウアーが退陣した後、第3代ドイツ国首相を務めたこともある人物です。(1920年3月27日)

ですが、この時は総選挙で議席を大きく減らし、たった3ヶ月で退陣しています。(1920年6月28日)

第二期マルクスの後に首相として指名されたミュラーですが、彼の在任期間は1928年6月28日~1930年3月27日で、これは第一次世界大戦敗戦後のドイツとしてはこれまでで最長の就任期間なのだそうです。

ヤング案が成立したのは彼の就任期間。ですが、この事が原因で世界恐慌が勃発することとなり、ドイツでも失業者が増大。

結果的にミュラーは退陣へと追い込まれることとなります。

ちなみにこの「ヤング案」ですが、この話し合いがもたれることとなったきっかけは、ドーズ案ではドイツが仏白に対する債務を米英からお金を借りて仏白に返済するだけですので、結局ドイツの債務は減らない・・・。

この事が理由です。

で、この話し合いを持ち掛けたのがはっきり言ってドイツ側からだったのか、アメリカ側からだったのかは私の中でははっきりとした資料が見つかっていません。

ですから、ヤング案を成立させたことによって世界恐慌が勃発し、辞任に追い込まれたミュラーを「無能だった」という表現をすることは適切ではないと思うのですが、彼の目立った「功績」はこのくらいですね。

もう少しだけ進めます。


ハインリヒ・ブリューニング内閣

ミュラーの後を受け、なんと44歳という若さで、世界恐慌の真っ只中、首相へと就任したのがハインリヒ・ブリューニング。彼の就任期間は1930年3月30日~1932年5月30日の2年間。
ハインリヒ・ブリューニング
Bundesarchiv, Bild 183-1989-0630-504 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この後ヒットラーが首相へと就任していますので、ブリューニングがナチス政権直前、最後の内閣ということになるでしょうか。

彼が所属していたのは中央党という、これは ビスマルクの文化闘争に関する記事 のところでお名前が一度登場していますね。

社会主義者の危険性にビスマルクが気づく直前。ビスマルクが社会主義者よりも南ドイツの「孤立主義者」に影響を大きく与えていたカトリックの危険性の方を重要視していた時期。

そのカトリック政党の代表的な存在が「ドイツ中央党」でした。

ミュラー退陣後、大統領であるパウル・フォン・ヒンデンブルクは彼の存在に着目していて、次期首相として彼を指名。組閣を命じました。

ブリューニングは前首相であるミュラーが所属していたドイツ社会民主党ではなく、同党と対立するドイツ人民党と連携する選択をします。ちなみに私がこの記事で高評価しているシュトレーゼマンはドイツ人民党に所属していました。ですが、ブリューニングが首相に就任する直前に脳卒中で他界しています。

で、この内閣でブリューニングはドイツ社会民主党だけでなく、共産党や国家社会主義ドイツ労働者党、つまり「ナチス」とも対立します。

ドイツ国家人民党は一部が政権に参加した、とあるのですが、国家人民党党首であるアルフレート・フーゲンベルクは政権に強硬的に反対する立場をとっており、国家人民党前党首を中心とする一部議員が党を割って外に出ていますので、おそらく政権に参加したのは後者ではないかと思います。

一方で、フーゲンベルク率いる国家人民党は国家社会主義ドイツ労働者党へと近づいていきます。

一方でドイツ社会民主党は国家社会主義ドイツ労働者党や共産党と対立する構造にあり、やがてブリューニングに歩み寄った姿勢を見せる様になります。

ブリューニングの取った政策は、「緊急法規」による議会の審議に縛られない方法を用いたやり方で、「緊縮財政政策」で、デフレを目的としたもの。

何度も言いますが、この状況下のドイツは「ハイパーインフレーション」から回復途上にあり、通貨が安定しておらず、このような状況下では決して誤った政策ではないと思います。

で、この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

また、日本の主導による「ローザンヌ会議」が開かれたのも彼の時代。

彼は世界恐慌の真っ只中でオーストリアと関税同盟を結ぼうとしてフランスの反発を買い、フランス国内からのドイツ・オーストリアの資金受け入れを禁止。一方で政府声明として「ドイツにはもはや賠償金を支払う能力がない」と発表し、外資がドイツから撤退。

傷病兵や失業者に対する保険をカットする緊急法令を発行して共産党組織によるデモが頻発するなど、まさにカオス状態へと陥ります。

シュトレーゼマンが生きていればもう少し異なる政策を打つことができたのかもしれないですね。

これを受けて当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーが「フーバーモラトリアム」を発令し、ドイツへの賠償金支払い猶予を再建各国に提案、これが受け入れられます。

しかしそれでもドイツからの資金引き上げは収まらず、このような状態で開催されたのが「ローザンヌ会議」です。


ナチスの台頭

さて。この後、いよいよ「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」が政権の中心へと躍り出ることになります。

次回記事では、本日の記事に今度は「ヒットラーサイド」から改めて着目し、記事を進めていきたいと思います。




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<継承する記事>第509回 ヒットラーの代理人ローゼンベルク~反ユダヤ主義の根源とは~

長らくドイツ関連のシリーズ以外の記事を作成していましたが、改めまして、再開します。

シリーズ、ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか を作成するに至った最大の理由としましては、そもそも親シリーズであるなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか を作成していく中で、日本が第二次世界大戦にどのようにして巻き込まれていったのか。

この事に関しては私の中で得心のいく答えに巡り合うことはできたのですが、次に日本はなぜの地の世でこれほどに残虐性を強調されるようになったナチスドイツと同盟関係を締結するにいたったのか。この事を突き止めることが必要だと感じる様になったからです。

同盟関係を締結するに至った理由そのものは現在では私の中に一つの答えはあるわけですが、この理由を説明しようとする際に、ナチスドイツの残虐性を完全ではないにしても否定することができれば。もしくは正当性を主張することができれば、よりその答えに説得力を持たすことができるのではないかと感じたからです。

ナチスドイツ、つまり「ヒットラー」の残虐性は主にユダヤ人に向けられているわけですが、彼がなぜユダヤ人を迫害したのか。その理由を突き止めることが最大の目的だったのですが、前回の記事 で漸くその理由の片鱗に触れることができました。

私の中にある現時点でのその最大の理由は、第一次世界大戦に敗戦した後のドイツでは、もしくは第一次世界大戦中、その以前より「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」という考え方が蔓延しており、ヒットラー自身も自分自身の体験からユダヤ人に対する嫌悪感を感じていたという事。

彼がそう感じている中で、まるでそれを裏付けるかのようにしてローゼンベルクやエッカートらから所謂「ユダヤ陰謀論」のような考え方を教えられたのだという事。ヒットラー自身も、目から鱗が落ちたような気分になったことでしょう。

また、当時は現在の様にネットが発展しているわけではありませんから、所謂「裏どり」は非常に難しかったはず。

だとすると、余計に彼自身のリアル社会での感覚との一致性がよりその「裏付け」としての意味合いを強く持っていたはずです。

そしてそんな中、ミュンヘン一揆に失敗して投獄される中で記したのが「我が闘争」。実際には彼自身が記したわけではなく、獄中でエミール・モーリスやルドルフ・ヘスに対して「口述」したものですが、これが後のナチスの行動の指標ともなるわけです。

ただ、現時点の印象としてはまだ、ヒットラーがいくらユダヤ人に対してネガティブな印象を持っているからといって、現在世界中で多くの人が思っているような、ユダヤ人だけをターゲットにし、大量に虐殺するような、そこまでの印象は受けていません。

では、どのような事情があってヒットラーがそこまで豹変してしまうのか。またはしないのか。これをここからの記事では検証してみたいと思います。

本日の記事では、牢獄より釈放された後のヒットラーについて追いかけてみたいと思います。


ヒットラーの釈放

ヒットラーが収監されたのは1924年1月。受けた判決は禁錮5年。だったはずなのですが、実際には収監された1924年9月に仮釈放、12月には釈放されています。

ヒットラーが収監されている間、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は解散を命じられていて、ナチスの勢力を守ろうとした「元ナチス」の党員たちの中には数多くの派閥が生まれ、派閥間での抗争も生まれていました。

ですが、ヒットラーが釈放された後、国家社会ドイツ労働者党が再建されると、ヒットラーの下、ミュンヘンの派閥は再び結束し、ヒットラーの手によってまとめ上げられました。

元ナチスの党員の中にあった社会主義色の強い派閥は衰退した・・・とありますので、ナチス全体としては保守色の強いグループとして纏まった、という事でしょうか。ちなみにこの段階で突撃隊を率いた元エアハルト海兵旅団のメンバー、エルンスト・レームはミュンヘン一揆の責任を取る形で引退させられています。

また、元々オーストリア人であったヒットラーは釈放後、オーストリア市民権抹消手続きを取り、1932年2月25日、ブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となったヒットラーは、公務員となることで自動的にドイツ国籍を取得することとなりました。


ルール占領後の経済について(復習)

少し、時系列を整理します。

第503回の記事 、及び第504回の記事 にて、この当時のドイツで起きていた「ルール占領」、及び「ハイパーインフレーション」ついて記事にしています。

ルール占領が行われたのが1923年1月4日の事。直前の1922年12月にはドイツの物価は1919年比で1807.8倍にまで達していました。問題なのは、この貨幣価値の下落が、非常に短期間で、非常に急速な下落率で進行していくこと。

「物価」は逆にもすごい上昇率で高騰します。

これが、ルール占領後、ヴィルヘルム・クーノが取ったルール地方の「受動的(消極的)抵抗」政策、要はストライキの呼びかけと通貨発行による給与の直接分配によって「ハイパーインフレ」が勃発。マルクの価値はドルに対して1/2億3606万倍にまで下落。

クーノはこれに対して何もまともな対策を打つことができずに失脚。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任します。

シュトレーゼマンが就任したのが1923年8月13日。彼がルール占領に対するストライキ政策を中止したのが9月26日。これに対してバイエルン州知事であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングが非常事態宣言を発令。グスタフ・フォン・カールをバイエルン州総督として任命します。

そう。バイエルン州における「カール政権」の誕生です。そしてこの後、同年11月に勃発したのが「ミュンヘン一揆」です。

改めて考えますと、ヒットラーが表舞台へと登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」がドイツの歴史の中でそのような位置づけにあるものあったのか、という事を思い知らされますね。

で、シュトレーゼマン内閣において登場したのがヒャルマル・シャハト。価値が下落し続けるパピアマルクではなく、地代に価値が紐づけられたレンテンマルクを新たに発行し、これをパピアマルクと交換。(デノミ政策)

パピアマルクに比べて価値が下落しにくいレンテンマルクの登場によってドイツにおけるハイパーインフレーションは急速に鎮静化することとなります。

シュトレーゼマンの辞任はピンポイントでバイエルン州騒動が原因となるのですが、その1カ月前、第一次世界大戦の賠償委員会に米国が参加し、賠償策定のプロセスにドイツが参加することとなりました。

第504回の記事 から引用します。
まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

上記内容が、米国賠償委員会に参加し、シュトレーゼマン退陣後にフランスやベルギーが受諾することとなった「ドーズ案」。

ヒャルマル・シャハトの政策はドイツ国内における政策なのですが、この内容は戦後賠償委員会の国際的な取り決め。

ドーズ案によって発行されることとなった「ライヒスマルク」はドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換され、ドイツは晴れて金本位制に復帰。マルク相場も落ち着きを取り戻すこととなりました。


ドーズ案後の経済~世界恐慌


ヒットラーの登場と第一次世界大戦敗戦後のドイツの歴史がようやくリンクしましたね。

ドーズ案では、ドーズ債を発行していますので、ドイツはイギリスとアメリカからお金を借りていることになります。

で、それまではドイツとフランス・ベルギー間の賠償交渉だったのですが、両国に対しては米英からお金を借りることで返済の見通しが立ちましたので、今度は米英とドイツとの交渉が中心となってきます。

1928年頃のアメリカの経済は過熱しており、ドイツへの資金流入が激減していたのだそうです。そうすると当然ドイツとしても資金不足に陥りますので、米国に対して賠償金支払い額の減額を求める交渉へと入っていました。

これに対し、オーウェン・D・ヤングという人物を中心としてドイツだけでなく日本も参加する形で新たな委員会が設置されることが決まります。

オーウェン・D・ヤング
Bundesarchiv, Bild 102-00260 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

なぜ日本が・・・とい疑問が現時点で私の中には存在しているのですが、記事を進める中、どこかで答えが出てくるだろうと信じ、記事はそのまま進めます。

ヤング案について、Wikiからその内容を引用しておきます。
ヤング案においては賠償の残額を358億1400万ライヒスマルクと定めた。ドイツは1988年までの59年間、年賦の形で支払う。毎年ドイツは、利子とドーズ債の元本支払を含めた平均20億5千万ライヒスマルク相当を外貨によって支払う。1930年は17億ライヒスマルクで、その後21億ライヒスマルクとなり、1966年以降は16.5億ライヒスマルクとなる。実際の支払は遅滞した。ローザンヌ会議で賠償債務は減額された。

日本は賠償支払を受ける国の一つであり、ベルギーを舞台にしたスパ会議(1920年7月)の決定により賠償支払のうち0.75%を受け取っていた。ヤング案においても初年度には1250万ライヒスマルクの支払を受ける権利を持っていたが、サンフランシスコ平和条約第8条C項により対独賠償請求を放棄している。なお、スパ会議で決まった各国の分配率は、フランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、ユーゴスラビア5%であった。

賠償の分配機関として国際決済銀行を創設しており、日本銀行は賠償債権国であることを理由に株主と認められた。しかし、このことが後の金解禁へ向けた見えない圧力となった。出資金は日本興業銀行をはじめとして、三井・三菱・安田・住友という旧財閥系の銀行をふくむ14行がほぼ均等に国債を引受けることで調達された。

日本の名称が出てきましたね。

この時点での日本の国際的な地位をうかがい知ることができます。ヤング案っていうのは、要はドイツが戦勝国に対して支払わなければならない金額を減額し、返済期間を緩和するための取り決めだったんですね。総額は1320億金マルクから358億金マルクにまで減額されたのだそうです。

ドーズ案が成立した後、ルール地方からフランス・ベルギー軍が、ヤング案が成立した後ラインラント全体からの占領地から撤退します。

ヤング案そのものは1929年6月に承認され、翌1930年1月に調印、3月にドイツが批准することとなりました。

ただ、このヤング案の成立はどうも世界恐慌勃発のきっかけとなったらしく、また更に、恐慌の勃発が原因でドイツは賠償額を1/4~1/3にまで減額されたにも関わらず、その賠償金が支払えなくってしまいます。

上記引用では、「ローザンヌ会議で賠償債務は減額された」とありますが、実際には30億マルクにまで減額することで合意はされたものの、実際には英仏伊白の4カ国が批准する代わりに米国の戦債を帳消しにするよう申し合わせたたものの、米国はこれを拒否したため、協定が批准されることはありませんでした。

また、ドイツでは1932年、ついにヒットラーが首相として就任し、賠償金の支払いそのものを拒否。ヤング協定はなし崩し的に崩壊することとなりました。


次回記事では、改めてこの一連の流れをヒットラー側の側面から見て、記事にしてみます。





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<継承する記事>第508回 ミュンヘン一揆とは何か? カール政権VSドイツ党闘争連盟

この問題、いい意味でも悪い意味でもヒットラーという人物に先入観を持たず、極力客観的に記していきたいと思います。

だからこそ、表現が難しい。ただ、彼にカリスマ性や統率力があったことは事実だと思います。ここまでの時点ではまだ世間で言われているような彼の暴力的な側面は見えていません。

現時点では彼に最もイメージの近い人物はロシア革命時のトロツキーですね。

暴力的な手段を用いつつも暴力そのものには頼らず、平和裏にすべてを解決しようとする姿勢。またここまでの段階でヒットラー自身が非常に色んな人から信頼されており、かつ慕われていたという事実を私自身は感じています。

私の主観と言われればそれは否定しませんが、それでも「客観的な情報に基づく主観」だと思っています。


裁判に臨むヒットラー

投獄する直前、逮捕する前に拳銃で自殺しようとまでしたヒットラーですが、一方で彼が裁判中に行った弁論は、彼を裁くはずの司法側の人間をも引き込み、例えばこの時主任検事は

「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」

と、その起訴状において読み上げるほど。何となくその異常性すら感じてしまうわけですが、この疑問に対する答えは、裁判において彼が受けた、その判決文においてうかがい知ることができます。ヒットラーはオーストリア国籍を保有していたため、国外に追放される恐れがあったものの、判決においては

「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」

として、彼は国外追放を免れることができました。

彼は、裁判中のその弁論において、まず、自身の行ったことを決して人のせいにしようとはせず、ただ一貫して彼の主張の正当性を毅然として訴え続けています。前回の記事でお示しした、ルーデンドルフの弁論における主張と非常によく似ています。

前後の文脈から察するに、彼はただひたすら、「ドイツ人としての誇り」。つまり、ゲルマン魂を弁論において訴え続けたのではないでしょうか。第一次世界大戦、その敗戦によってドイツ人が失った物。物質的なものではなくその精神面で失った物。

これを取り戻すことの大切さをひたすらに訴えていたのではないかという事。そして、それはヒットラーだけでなく、裁判所の検事たちを含め、ドイツ人が須らく保有していた、共通の理念だったのではないかと思うのです。

みんなが心の底で思っていることをそのまま言葉にして発言するものですから、「そうだ、その通り!」と聞く者の心を打つのでしょう。そう。ヒットラーの言っていることは、実はみんなが声高にして叫びたいこと。敗戦後、中々言葉に出せずにいたことを、ヒットラーが代弁してくれていたのではないでしょうか。

ですから、彼は投獄中も非常に厚遇されています。


投獄中のヒットラーと代理人、ローゼンベルク

ヒットラーの投獄中、彼はまずアルフレート・ローゼンベルクという人物に、自身に代わって党を再建することを命じるのですが、この時点でナチス自体は解散させられていますから、党として「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」の名前を名乗ることはできません。

そこでローゼンベルクは元ナチス党員たちを纏めて「大ドイツ民族共同体」という政党を組織するのですが、この政党がナチスの偽装政党である、との指摘を受けないよう、ローゼンベルク自身は代表とはならず、無名の活動家をその代表として据えています。

初めて登場した「ローゼンベルク」という名前なのですが、ヒットラーという人物について検証する意味では、非常に面白そうなので、少し深堀してみます。

アルフレート・ローゼンベルク
Bundesarchiv, Bild 183-1985-0723-500 / Bauer, Friedrich Franz / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

どの部分を面白いと感じたのかと申しますと、この人物、私が抱いているヒットラーに対する疑問の「答え」とも言えるような経歴の持ち主です。もう一人、「ディートリヒ・エッカート」という人物も登場しますので、今回の記事はこの両名にポイントを絞って記事を作成してみます。


ローゼンベルクとエッカート

ローゼンベルクとヒットラーとの間柄ですが、いうなれば、彼はヒットラーの「教師」の様な存在。もう一名、「ディートリヒ・エッカート」は、ヒットラーが参入した「ドイツ労働者党」の結成にかかわった人物の一人です。彼らが設立した後のドイツ労働者党にヒットラーは参加します。

で、ローゼンベルクとエッカートは、共に強烈な「反ユダヤ主義者」。ヒットラーは、まずエッカートの記した書物の影響を受け、「反ユダヤ主義」へと傾倒する事になったのではないか、と考えられます。

そして、ローゼンベルクをヒットラーに紹介した人物がエッカート。エッカート自身はミュンヘン一揆にも参加していて、刑務所に収監されたのですが、彼自身はモルヒネ中毒で、病気を理由として釈放されています。

ミュンヘン一揆が勃発したのは1923年11月9日ですが、エッカートはその翌月、12月26日にモルヒネ中毒を原因とした心臓発作で命を落としています。

エッカートは第一次世界大戦が勃発する以前。1912年の段階で反ユダヤ主義・民族主義を題材とした演劇の脚本を記していますので、大戦後の「匕首伝説」には関係なく、元々反ユダヤの人物。

この記事そのものとして、「反ユダヤ主義はなぜ起こったのか」ということを検証する記事であれば、両者、エッカートとローゼンベルクについてもっと深く追求していくのですが、記事としての対象は「ヒットラー」であり、シリーズを作成している目的として、実は「なぜ日本はナチスドイツと同盟関係を築いたのか」について検証することを目的としています。

その根底にあるのはナチスドイツがユダヤ人を迫害し、あるいは虐殺したとするその「悪者」としての側面を検証することにあるわけです。

仮に、もしナチスドイツが世間で思われているような「悪」でなかったとしたら、日本がナチスと同盟関係を結んだことについて何ら批判されるいわれもなくなりますし、あるいは真実であったとしてもこれに相応の理由があったとすれば、これもまた見方が変わってくるのではないか、という私の仮説に基づいたものです。

故に、本来目を向けるべきは「ヒットラーがなぜ反ユダヤ主義に傾倒したのか」という事にあり、「ヒットラーが影響を受けたローゼンベルクやエッカートがなぜ反ユダヤ主義に傾倒したのか」という事ではありません。

ですので、記事としては「エッカート」や「ローゼンベルク」の「反ユダヤ主義とのかかわり方」については深めてみようと思うのですが、反ユダヤ主義そのものについては今回の記事ではあえて深めることはしません。


ディートリヒ・エッカート

エッカート自身がいつ、どのようにして反ユダヤ主義に傾倒したのかという事は現時点では(私の中では)不明です。ただ、これを追求しようとすると本旨から逸れてしまいますので、敢えて無視をします。

エッカート

「反ユダヤ主義」と関連してくるのは彼の経歴である「脚本家」としての側面。彼が名声を得ることとなった作品が、「ヘンリック・イプセン」という人物の手掛けた「ペール・ギュント」という作品。この作品の脚本を務めた際、そこに「民族主義」や「反ユダヤ主義」という要素を多分に盛り込んでおり、この作品で彼は名声を得ることとなりました。

この脚本を作成したのが1912年の事。恐らく「ペール・ギュント」という作品そのものは反ユダヤ主義を反映したものではないのだと思いますが、エッカートはそこにユダヤ人を批判する要素を盛り込んで脚本化した、とそういう事だと思います。

考え方として、その方が世間受けをするからそうしたのだと考える事もできますし、この時点で彼自身がユダヤ人に対して批判的な考え方を持っていて、正義感からこれを作品に反映したのだと考えることもできると思います。どちらかは現時点では不明です。

で、そんなエッカートが参加していた団体に、「トゥーレ協会」なるものが存在します。これは、1918年にミュンヘンで結成された「秘密結社」なのですが・・・。調べれば調べるほど、この辺りがどうもナチスの「思想」的な部分に大きな影響を与えているんじゃないか、とそんな匂いがしてたまりません。

「トゥーレ協会」そのものは「秘密結社」だけあって記されている情報が伝聞、推測の様な形式でしか殆んど記されていませんので、この団体の元となった右翼政治結社「ゲルマン騎士団」の側から調べてみますと、ナチスドイツの象徴ともいえる「鍵十字(ハーケンクロイツ)」。これはゲルマン騎士団もトゥーレ協会も共にシンボルマークとして使用していますね。

鍵十字そのものには「アーリア人」の象徴としての意味があるそうで、理由としてはトロイの木馬を発見したシュリーマンが、同じ遺跡の中で発見したのがこの鍵十字で、これを「古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボル」とみなしたから、なのだとか。

ちなみに、ゲルマン騎士団そのものも「秘密結社」ですね。結成されたのが1912年。トゥーレ協会はそんなゲルマン騎士団が分派した際、カモフラージュとして使っていたもの。で、共通して出てくるのは「アーリア主義」という言葉と「反ユダヤ主義」という言葉。

ちょっとカルトチックな内容なので、不必要な情報とは関連付けずに進めます。要は、そのような団体にエッカートは所属しており、ヒットラー自身がそのエッカートの影響を受けていたという事。ヒットラー自身は教会には入会していません。

一つだけはっきりしたのは、「アーリア人」とはインド・ヨーロッパ語族全体を指すものであり、ドイツ人そのものではない、という私自身の定義が誤りではなかったという事ですね。


アルフレート・ローゼンベルク

この人物は元々ロシア帝国領エストニア生まれ。

彼については「反ユダヤ主義」に傾倒するきっかけが明確に存在したようですね。

彼は幼少期に両親を亡くしています。

彼が「反ユダヤ主義」に傾倒するきっかけを作ったのは、彼が出会ったドイツ人宣教師。直接反ユダヤ主義を吹き込まれたわけではありませんが、彼との出会いが彼に書物への関心を生み、そんな中、彼が17歳の時に読んだ「十九世紀の基礎」という書籍が、彼が「反ユダヤ主義」、そして「ゲルマン民族至上主義」に傾倒するきっかけとなった、とあります。

で、どうやらヒットラーはローゼンベルクの影響を受けて、この「十九世紀の基礎」という本の影響も受けているようですね。

作者はヒューストン・ステュアート・チェンバレンというイングランド人。後にドイツ人として帰化しています。

書籍を記したのは1899年。Wikiから抜粋します。

この本の中で、西洋文明はチュートン人(ドイツ系諸民族)によって多大な影響を受けていると主張し、論争を呼んだ。

チェンバレンは、ヨーロッパの全民族(ケルト、ゲルマン、スラヴ、ギリシア、ラテンなど)をアーリア人種と呼んだ。

即ち、原インド=ヨーロッパ文化の担い手である。そして彼によると、アーリア人種の指導者はチュートン人とノルド人であった。チェンバレンの目的は、ドイツ人種の復権を図ることにあった。そのために彼はチュートン人のみならず北欧起源の全部族をドイツ人種に分類した。彼によればケルトもゲルマンもスラヴもドイツ人の血統であった。

チェンバレンによれば、ドイツ人はビザンティン帝国やローマ帝国の後継者であった。ユダヤ人を始めとする非ヨーロッパ民族に支配されていたローマ帝国を崩壊に追い込んだのがドイツの諸部族であり、したがってドイツ人こそが西洋文明をユダヤ人の手から救ったのだと彼は説いた。

これらの思想には、アーリア人種の優越性を説き、セム語系統のユダヤ人を非白人と見なして貶めたゴビノーの影響を見て取れるが、チェンバレンにとってアーリア人とは単に民族や言語によって定義された概念ではなく、人種的エリートを示す抽象理念でもあった。

アーリア人(語義は本来「高貴な者」の意)は進化における適者生存のプロセスの中で劣った者(ユダヤ人)を押しのけ、文明の創造を担う優越人種であると彼は述べた。

チェンバレンはまた、イエス・キリストは宗教的にユダヤ教徒だったことはあるかもしれないが、人種的にはユダヤ人ではないと主張した。

文中で「アーリア人」の呼称について、これが「高貴な」という意味を指すと記していますが、これはサンスクリット語(古代のインド語)で、古代のアーリア人自身が自分たちの事を「アーリア人」と呼称していたことに由来します。

アーリア人、つまりアフガニスタンから移住したインド人とイラン人の事ですね。で、おそらくはチェンバレン自身もこの事を知っていたんじゃないでしょうか。

また、文章中に「ゴビノー」という人物の名前も登場しますが、ヒットラーやナチスもまたこのゴビノーとう人物の影響を受けていますね。

象徴的な文章として
ゴビノーによると、人種こそは文明の淵源であった。黒・白・黄の三人種間の様々な差異は自然が設けた障壁であり、混血によってその障壁が破られることで文明が退化し、カオスに戻ると彼は考えた。

とあります。

この考え方そのままヒットラーの「我が闘争」にも登場しています。「黒・白・黄の三人種間の様々な差異」という表現は用いていませんが、ヒットラー自身が純潔を重視し、混血によって文化が衰退した、という表現を多用しています。

ゴビノー自身は「白人至上主義」の立場ですが、そもそも「アーリア人」は黄色人種ですから、白人と黄色人種を分けてしまえば、「アーリア人至上主義」という考えがそもそも根底から崩れることになります。

黄色人種より白人は劣る、と認めてしまうようなものですからね。これは、おそらくチェンバレンもわかっていたのではないでしょうか。肌の色に関する記述は登場しません。

逆に、ゴビノーの主張にはアーリア人をユダヤ人と差別化するようなことはしていない、とのことですので、チェンバレンにとっては肌の色で区別するより、「ユダヤ人」をアーリア人のアンチテーゼとした方が都合がよかった、という事ではないかと思います。


大きく脱線しましたが、ローゼンベルクはそんなチェンバレンの「九世紀の基礎」という書籍に強く影響を受けており、これが「反ユダヤ主義やゲルマン民族至上主義」に傾倒するきっかけとなっています。まあ、17歳の頃ですから、わからなくはないですね。

で、そんなローゼンベルクは「ロシア革命」の真っただ中にロシアにいたものですから、ロシア革命そのものを目の当たりにしたわけです。Wikiベースですが、これに関して以下のような記述があります。
彼は革命期のアナキズムに強い嫌悪感を持ち、また共産主義革命を「ユダヤ人の陰謀」ととらえ、これらに強く反感を持つようになった

これ自体は、「井代彬雄」という人物の記した「ヴァイマル共和制初期のナチス党におけるアルフレッド・ローゼンベルクについて--ナチス官僚体制研究の一前提として」という研究書籍からの抜粋ということですので、著者の主観が入っている可能性は否定できません。

ただ、ここで一つ確認できるのは、ローゼンベルクは「革命期のアナキズム」に強い嫌悪感を持った、との記述です。アナキズムとは無政府主義の事で、「共産主義」の一形態を示したもの(というより共産主義は本来アナキズム)ですから、ローゼンベルク評ではレーニンたちの革命は「無政府主義」を目指すものだった、という事なのでしょうね。

またこの時点で彼の中では共産主義とユダヤ人が同一視されていたという事。で、その影響をヒットラーは受けていたということですね。

その後、ローゼンベルクは独露の休戦後、ベルリンへと旅立っています。彼もまた、「ドイツ人になりたかった人物」だという事がわかります。

時系列的に記すと、その後、1919年初頭、職を得るためにミュンヘンに渡り、ここで「政治運動家」であるエッカートに出会います。

彼はエッカート「エッカートが主催する」トゥーレ協会にも参加したのだそうです。なるほど。トゥーレ協会を主宰していたのはエッカートだったんですね。

ドイツ労働者党を設立したのはエッカートですが、彼の紹介でローゼンベルクはヒットラーと出会い、ドイツ労働者党の党員となります。で、そんなローゼンベルクはロシアの出身で、ヒットラー自身が知らないこともたくさん知っていました。これはユダヤ人の話題とは関係なく、です。

ヒットラー自身、ローゼンベルクに師事することは、とても勉強になったのでしょう。後にヒットラーの伝記を記すこととなった「コンラート・ハイデン」という人物は、この事を
エッカートとローゼンベルクはヒトラーの教師だった。ヒトラーは数年の間、彼らの口真似をしているに過ぎなかった。

と記しているのだそうです。

まあ、これは「コンラート・ハイデン」という人物の印象に過ぎませんから、そのまま鵜のみにはしませんが、少なくともそのような印象をハイデン氏に与えた、という事は事実かと思います。

私も、誰かから何かを学んだ時、これを自分自身のものにしたいと考えるのなら、やはりそれをあたかも自分自身の言葉であるかのように他者に方り、いずれ自分自身の中に落とそうとするでしょう。これと同じ作業をヒットラーはやっていたのではないでしょうか。

その後、投獄中のヒットラーよりローゼンベルクは党の指導を一任され、「大ドイツ民族共同体」を立ち上げることとなるのですが・・・。

ここからはまた、次回記事に委ねたいと思います。




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<継承する記事>第507回 ベルリン進軍を決行するのは誰か?カール政府のドタバタ劇

さて。ミュンヘン一揆に至る経緯はようやく総括できるレベルになりましたね。

前回の記事で私、「ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります」と記したのですが、よくよく考えると一揆が勃発する場所はベルリンではなく「ミュンヘン」。ミュンヘンはドイツではなく、「バイエルン」の州政府がある場所です。

で、私前回記事の最後であたかもベルリン進軍が決行されるかのような書き方をしています。そして「カール政府はバイエルン州民や他の指導者らの信頼を失った」理由にはっきり触れることなく話題を終結させているのですが・・・。

カール政権が民衆の信頼を失った理由は彼らが「ベルリン進軍計画の延期を決めた」事。

1923年11月6日、カールは「ナチスを除く国家主義団体の指導者」を招集するのですが、その場で「体制が整った後にベルリン進軍を行う事」が決議され、計画そのものは延期された形になったんですね。

これに業を煮やしたヒットラーをはじめとするドイツ闘争連盟が「クーデター決行を志す」こととなるわけです。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯まとめ

簡単にミュンヘン一揆勃発までの経緯をおさらいします。

1.シュトレーゼマンにより、(ルール占領に対する)受動的抵抗政策の中止が表明される。

2.これを受けミュンヘンに「ベルリン政府打倒」に向けた機運が高まる。

3.機運を受け、ヒットラーを中心として「ドイツ闘争連盟」が結成される

4.カールがバイエルン州総督に任じられる

5.ナチス機関紙の記事を巡り、ベルリン政府とカール政府との間でドタバタ劇が繰り広げられる

6.カールらがベルリン進軍延期を決議したことを受け、ドイツ闘争連盟は「ミュンヘン政府に対する」武装蜂起を計画する

という流れですね。

ただ、ここでドイツ闘争連盟の内部では、自分たちが引き起こすクーデター(未遂)に対し、二つの案が出されています。

一つが、ナチスの幹部であったショイブナー=リヒターという人物の提案した、武力による州政府制圧という所謂「武装蜂起」。

もう一つはヒットラー自身の案で、カールが演説をする予定のビアホールに突入し、ここでカール、ロッソウ、サウザーの3巨頭を説得し、ドイツ闘争連盟への支持を求める、というもの。

これに対する現時点での私の感想としては、「実に穏やかな武装蜂起だな・・・」という印象です。

これ、印象としてはロシアでレーニンらが起こした10月革命と非常によく似ていて、10月革命のときは当時のケレンスキー内閣の拠点を次々と制圧し、最後に冬宮を占拠することでクーデターが成功するのですが、内部の人間と革命を起こす側との連携が取れていて、革命としてはほぼ血を流すことなく、たった2日で終結しています。

この時ももっと凄惨な革命が起きるものとばかり思っていたので、非常に肩透かしを食らったような印象を受けたのですが、今回のヒットラー案もこれに負けず劣らず、クーデターの内容としては実におとなしい内容ですよね。

という事で、改めてこの計画が実行に移った経緯を深めてみます。


ミュンヘン一揆勃発

ここからは、時系列的にミュンヘン一揆の推移をただ追いかける記事になります。

なるべく読みやすくしようとは思うのですが、私が「ミュンヘン一揆」を理解するために作成する部分なので、しばしお付き合いいただければと思います。


決行前、早朝までの様子

まず、発生したのは11月8日の事。実行犯はドイツ闘争連盟。ヒットラーが中心となって作った組織です。

内容としては、ヒットラーが提案した策が採用されているのですが、これよりも前に、ショイブナー=リヒターより武装蜂起案が起草されており、実はこれはヒットラー案が採用される前に一度方針として決定しています。

リヒター案としては1923年11月11日に武装蜂起を決行し、バイエルン州政府を制圧するというもの。先んじて11月7日、政府の主要機関を制圧するという案が作成されたんですが、これにヒットラーが異を唱えた形ですね。

11月6日夜の事ですが、翌7日、ナチスの軍組織である突撃隊がミュンヘンのキャバレー「ボンボニエール」というところに殴り込み、風刺レビューの作曲家ペーター・クライダーを撲殺したのだそうです。

なぜこのタイミングでこんなことが起きているのかという事、ペーター・クライダーという人物がどういう人物であり、どのような「風刺レビュー」を作曲しているのかという事もちょっと理解できていないのですが、少しだけこの「突撃隊」メンバーの暴力的な側面がうかがえますね。

ヒットラーの提案内容としては、まず前提として、ミュンヘン最大のビアホールである「ビュルガーブロイケラー」というところでカール総督が演説を行う予定があったという事。

更にここに三頭政治を担っている「ロッソウ(軍)」と「ザイサー(警察)」も参加するため、この3名に対し、闘争連盟の支持を求めるための説得を行う・・・というのがその内容です。

決行されたのが8日の午後8時半なのですが、この話し合いは同日午前3時まで続いた、とのことで、要は直前まで話し合いを行っていたってことですね。


ビュルガーブロイケラーへの突入

突撃隊に対しては待機命令が出されるのですが、直前まで話し合いが行われていたこともあり、突撃隊全体にこの計画が周知されていたわけではなかったようです。その結果、参加できなかった隊員も多数いたようです。

会場(ビュルガーブロイケラー)は125名の警官によって警備が行われていたのですが、武装した突撃隊の登場に、ほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく立ち去っています。ヒットラーが現場に到着したのは午後8時。ヒットラーは事前にビアホールに入って仲間と共にビールを飲みながら待機していました。

やがてカールによる演説が始まるわけですが、その演説の最中。午後8時30分に隊長ゲーリング率いる突撃隊がビアホール(ビュルガーブロイケラー)になだれ込みます。

これを受け、ビアホール内で待機していたヒットラーはカールが演説をする壇上へと上がろうとし、現場は大混乱。

そして、この時ヒットラーは拳銃を頭上に向けて発砲。

「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」

と叫んだのだそうです。


ヒットラーの要求

ヒットラーはカール、ロッソウ、ザイサーの命の安全を保障した上で、次のような要求を3人に対して行います。

1.ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限の委譲
2.ベルリン進撃への協力

更に、ヒットラー自身が政府を組織し、ドイツ闘争連盟側よりペーナー(エルンスト・ペーナー?)という人物を首相に、エーリヒ・ルーデンドルフを国民軍司令官に。

カールには「州摂政」、ロッソウには「国防大臣」、ザイサーには「警察大臣」というポストをそれぞれ提示しました。

「ルーデンドルフ」とは、第一次世界大戦の名称で、バーデンバーデンの密約を交わした岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機 にも影響を与えた人物ですね。

ドイツ闘争連盟には「名誉総裁」として就任していました。

しかし、さすがにカールらも「はいそうですか」とこれを受け付けるわけもありません。これを受け、ヒットラーは同席していたリヒターにルーデンドルフを呼びに行かせました。

リヒターから事情を聴かされた時、実はルーデンドルフ、このヒットラー案に基づく武装蜂起の計画を聞かされていなかった側の人間で、最初は激怒していたのだそうですが、彼はそれより武装蜂起そのものを成功させることの方が大切である、と考得たのだそうです。

ルーデンドルフが到着する前のホールでは突撃隊と群衆との間で小競り合いが続いていたのだそうですが、やがてヒットラーの演説が始まると群衆は彼を支持するようになっていたのだそうです。

こう聞くと、ヒットラーってかなりすごいですね。突然ホールに武装してなだれ込んだ上、徐に演説を始めて現場にいた群衆をここまで惹きつけたわけですから。

カールらはルーデンドルフによって説得され、ヒットラーに協力することを明言します。

ここからがすごい・・・というか、個人的に・・・いや、多くは言いますまい。

ヒットラーと共にカール、ロッソウ、ザイサーが演壇に立つと、群衆はドイツ国家の大合唱。この後集会に参加していたクリニング首相ら閣僚は逮捕、軟禁されたのだそうです。


カールらの裏切り

と、このサブタイトルでわかりますように、要はカールらは本当にヒットラーの申し出に従ったわけでありませんでした。

ミュンヘン市内では突撃隊を今度はレームが率いて市役所や国防軍司令部を占拠し、バリケードを築きました。

ところが、この時、彼は通信施設を占拠しなかったため、ここから反一揆派に連絡がなされてしまいます。

ルーデンドルフは自身の説得がうまくいったと思っていたのですが、カールらは逆に恥をかかされていますから、この事を恨みに思っていました。

一方で一揆が勃発する直前、ベルリン政府の国防軍総司令であるゼークトからはヒットラーらを排除することを要請する親書が送られていたりしました。


カール、ロッソウ、ザイサーの脱走

近くで起きた小競り合いを収めるため、ヒットラーが席を外した時、現場に残されたルーデンドルフに対し、ロッソウ、カール、ザイサーが「持ち場に帰りたい」という申し出を行います。

普通はこれを止めなければならないと思うのですが、ルーデンドルフはなんと「ドイツ軍将校は決して誓いを破らない」という理由でこれを容認してしまいます。

この時点で、実は既にバイエルン国防軍は一揆に反対する姿勢を固めていて、カールがバイエルン政府庁舎に戻ってきた時、彼はバイエルン王太子より「いかなる犠牲を払っても反乱を鎮圧せよ。必要とあらば軍隊を使え」という通信んを受け取ります。

ロッソウもまたゼークトより反乱鎮圧の命令を受領しています。

ヒットラーたちはこの後バイエルン政庁の占領を目指す(8日午後11時)のですが、この時点でカール、ロッソウ、ザイサーの3名はヒットラーを裏切っており、鎮圧部隊と化していますから、この後、反乱軍は次々と国防軍、州警察によってとらえられることとなります。

ヒットラーらがカールたちの裏切りに気づくのは翌日午前5時。軍司令部をドイツ闘争連盟のレームが拠点としていたのですが、10時の時点で国防軍によって包囲されていました。


ミュンヘン一揆の結末

これに対し、ヒットラーらがとった対応策は、なんとレームの立てこもる軍司令部への「デモ行進」。ルーデンドルフの発案だったらしいのですが、その根拠として、英雄であったルーデンドルフを全面に立てておけば軍も警察も手出しはできないはずだ、という理由です。

更にこのデモ隊は殆んど丸腰で、武装しているものに対しても実弾を抜き取る様命令が出ていたのだとか。軍や州警察に反撃して取り返しのつかないことになることを避けるためでしょうか。

フェルトヘルンハレ
Thomas Wolf, www.foto-tw.de - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

12時30分頃、デモ隊がフェルトヘルンハレという、ミュンヘン市内の広場(オデオン広場)にある建築物(日本語では将軍廟、などと訳されるカテゴリーの建築物)の前を通りかかったとき、警察隊がデモ部隊に向け、一斉射撃。

この射撃でショイブナー=リヒターが即死。ルーデンドルフは行進を止めようとせず、銃撃にさらされる中、警官隊の隊列まで突き進み、逮捕。

ゲーリングは足を負傷(後にオーストリアに亡命)、レームは潜伏していた軍総司令部で降伏。3名の警官を含み、総数で19名の死者が出たのだそうです。

ヒットラー自身は党員であるウルリヒ・グラーフという人物が身を挺して守ってくれたため、銃弾にさらされることはなく、後にナチスに入党し、幹部となるエルンスト・ハンフシュテングルという人物の別荘に逃亡しました。

その二日後、警察がここに到着したことを受け、ヒットラーは拳銃による自殺を図ろうとしました。しかし、これをハンフシュテングルの妻であるエルナに引き留められ、この時エレナに、ナチス幹部の今後の指導を託す内容を記したメモを渡します。

で、ヒットラーは警察に逮捕されるのですが、この時政府や役人に対する批判を叫んでいたという事なのですが、どうなのでしょう。この時の叫びは普段から彼が感じていた不満を言葉にしたものなのでしょうか。それとも自身が案を練り、その上でカールらに裏切られたその屈辱から漏れた言葉なのでしょうか。

デモ部隊の内、逮捕されたのは指導者たちのみ、と記されており、軍司令部を占拠していた部隊については武装解除後に撤退を許可された、とあるのですが、行進を行っていたメンバーについてはどうなのでしょうか。

恐らくは占拠部隊同様、逮捕されることなく撤退をすることとなったのではないかと思われます。


ミュンヘン一揆の決着

ミュンヘン一揆の「決着」という意味では、その後の裁判の経過こそが重要性を持つものかと思います。

ここには編者の個人的な感想と思われる内容も記されていますので、あくまで事実のみを抽出した後、参考としてその内容を掲載しておきます。

決着としては、ヒットラーに5年間の「城塞禁固刑」が課せられることとなりました。ただし、この時の待遇は非常に良かったらしく、独房の環境も、食事も満足のいくもの。

更に面会も自由で、ナチスの党員が彼の身の回りの世話をしました。

そして何より着目すべきは、この時にヒットラーは後述により、あの「我が闘争」を執筆することとなった事。

我が闘争

ヒットラー自身は5年の禁固刑を言い渡されていたものの、実際には半年後、保護観察処分に減刑され、12月20日、仮出獄することとなります。


裏切者、カールらの評価

カールらの行動は、個人的には突然ヒットラーたちに演説会場に殴り込みをかけられ、自分たちの演説を台無しにされた挙句、「自分たちに政権を渡せ!」と言われた後、突然ルーデンドルフがやってきて説得をされる・・・という滅茶苦茶な状況ですので、口で「今日から仲間だ」と言ったとしても、そんなのは口先だけ・・・というのも心情として理解できなくはありません。

いや、寧ろ普通そうだろうと。

しかし、この時のカールらの行動はバイエルンの民衆たちには決して良い評価を受けておらず、民衆からは「一揆が失敗しそうになると、突然態度を豹変させた」というように映った様です。

裁判においても自分たちに不利な発言が出ないように圧力がかけられていたようで、取り締まった側ですから当然一揆の犯人とされるようなことはないわけですが、民衆からの評価は急降下することとなりました。

で、民衆からの評価が下落したことは、おそらく事実そうだったのだろうと思います。ただ、編者による先入観がある可能性は否定できない部分かな、とは思います。

また、カールらはそれでも第一次世界大戦の名将であるルーデンドルフを有罪にする事も躊躇していたようで、一方のルーデンドルフもまた、「一貫して責任を回避し続けた」とあります。

ただ、これに関しては続いて「時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった」との記述もあり、「責任を回避した」わけではなく、「自らの正当性を毅然として訴えた」とする表現の方が近いのではないでしょうか?

で、彼の言葉の中におそらくはヒットラーを礼賛するような表現があり、この事が一揆の中心人物として「英雄ヒットラー」の民衆に対する人気を急上昇させることとなったようです。

この辺り、ヒットラーの人気が本当にこの事をきっかけとして急上昇させることとなったのかどうか、私としては現時点で裏付けるデータを保持していませんので、現時点では「なるほど、そういう事があったんだな」という程度で受け止めておくこととします。

今後の記事の中で、これを裏付けることができないかどうかという事にもチャレンジできればと思っております。


まとめ

ポイントとしては、ミュンヘン一揆が失敗に終わった時点で「我が闘争」が牢獄の中で執筆されたという事。

また更に、ルーデンドルフの助力もあり、バイエルンにおけるヒットラーの評価が急上昇するきっかけとなったという事。

この2点を抑えて、「ヒットラー」と「ナチス」という存在について、今後の記事に委ねることとします。




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<継承する記事>第506回 ミュンヘン一揆の主犯、「ドイツ闘争連盟」結成に至るまで

纏め方の難しい内容ですが、前回の記事のポイントをまずはまとめてみます。

前回の記事では、ミュンヘン一揆の「主犯」となるドイツ闘争同盟にスポットを当て、これが結成される経緯について記事にしてみました。

ポイントとなるのは、まず「ドイツ闘争連盟」の中心となる「突撃隊」。その結成に寄与したのが元エアハルト海兵旅団のメンバーであった「エルンスト・レーム」であり、彼が突撃隊に元エアハルト海兵旅団のメンバーを次々に送り込んだこと。

そして彼の説得で突撃隊が政府軍である第7軍管区司令部の指揮下、「祖国的闘争同盟共働団」に配属されたこと。更にヒットラー自身が突撃隊への指揮権をそのまま軍に持っていかれることを危惧し、体調をレーム推薦のハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへ挿げ替えた事。

ゲーリングの力で突撃隊のメンバーから元エアハルト海兵旅団が一層され、ヒットラーに忠誠を誓う隊員が集められたこと。

このタイミングで首相シュトレーゼマンによるルール地方の「受動的抵抗政策の中止の発表」がなされた事。

ミュンヘンにいよいよ「ベルリン政府打倒」への機運が高まったことを受け、ヒットラーは「ドイツ闘争連盟」を結成します。

そしてさらに、私からすると自身の功績をないがしろにされた、とも感じられない状況にレームは切れるんじゃないかと思ったのですが、逆にレームは軍じ除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じることとなりました。

なんか、こうしてみるとヒットラーってずいぶん人望のある人物だったんだな、と現時点ではとても感じさせられますね。

前回のポイントをまとめるとはこのような内容になるでしょうか。

この当時のバイエルンでは、「11月革命という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれるいました。

「11月革命」。つまり、レーテ蜂起によってヴィルヘルム2世が亡命、退位し、ドイツが帝政から共和制へと移り変わったあの「ドイツ革命」の事です。

この後のドイツに発令されたのが「非常事態宣言」であり、オイゲン・フォン・クニリングバイエルン州首相より前首相であるグスタフ・フォン・カールが「バイエルン州総督」として任じられ、彼に独裁的権限が与えられることとなりました。

カールはバイエルン州の独立を志しており、カール政府とベルリン政府の関係は緊迫した状況にありました。

一方、ヒットラー率いるナチスはベルリン政府そのものを打倒してドイツ全土の政権を担う事を志していましたので、バイエルン州の独立を志すカールはナチスとも緊迫した関係にありました。

前々回の記事 ではここまで抑えていましたね。

という事で、今回はこの続きから記事を纏めてみます。


ナチス機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」を巡って

少しだけ時系列を整理します。

ドイツ闘争連盟が結成されたのが9月2日。

カールが州総督に命じられたのが1923年9月20日。この時カールはバイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサーの3名で「三頭政治体勢」を取っています。

シュトレーゼマンによる受動的抵抗政策の中止が発表されたのが26日。

レームが辞表を提出し、改めてヒットラーの下、ドイツ闘争連盟に参加したのが27日の直後。

レームはこの時「帝国戦闘旗団」なるものを結成していますね。この時、社会民主党党員らで構成される軍事組織、「国旗団」がドイツ闘争連盟を離脱しており、更に「レーム一派が分裂した」とありますので、これはおそらくレームがこの時「国旗団」に所属していて、ここから分裂して「帝国戦闘旗団」を結成したという事なのだろうと思います。

で、レームが闘争連盟に再加入する直前、9月27日、ナチス機関紙である「フェルキッシャー・ベオバハター」に、受動的抵抗政策を中止したシュトレーゼマンと、軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトを批判する記事を掲載しました。

これに対し、カールと共に三頭政治の一端を担っている第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウに、ベルリン政府国防相より「フェルキッシャー・ベオバハターの発刊中止」が命じられます。

ロッソウはこれをカールに相談したところ、カールはナチスを敵に回すことを恐れてこれを拒否し、ロッソウはこれに従います。

ところが一方でカールはナチスに対し、同日に行われる予定であった集会の禁止を通告します。

このいきさつについて、10月1日、カールは記者会見にて、

「フェルキッシャー・ベオバハターの批判記事と反ベルリン姿勢には賛同できないものの、ドイツ闘争連盟の協力を求め、発禁措置を行わない」

との発表を行います。


ここでこの時点で私が感じた「感想」を少し挟みます。私、この時点ではカールが「バイエルン州の独立」を志して「反ベルリン」の意思を貫いている・・・にしては少し弱腰だ感じました。

まあ、「政治」っていうのは表面に見えることだけじゃなく、その裏側でうごめいていることについても目を向ける必要があると思いますので、額面通りに受け取るのは正しくない、とも思うのですが。

と、ここで「この時点での私の感想」を挟んだのは、この後のカールの姿勢が180度転換するからです。

サブテーマとしてはやはり「ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハター」を巡る経緯から派生するのですが、10月4日、同機関紙が「蜂起の切迫を示す告示」を掲載したところ、カールはこれに対し「10日間の発禁処分」を行います。

こうしてみると、「ひょっとしてカールはベルリン政府よりなんじゃないか」と勘繰りたくなるほどです。

ところが、この事をロッソウが軍総司令であるゼークトに報告したところ、ゼークトは寧ろ10月1日にカールが「発禁措置は行わない」と発表したことの方を重要視しており、ロッソウに対し、「政府の命令を拒否した」として辞職を要求する手紙を送り付けます。(10月9日)

これに対し、ロッソウはミュンヘンの国民主義団体、ドイツ闘争連盟、州武装警察の幹部を集め、自分たちへの支持を求めています。これに対し、彼らは

「ベルリン進軍のためのロッソウとカール政府の支持」

を明らかにしています。Wikiを参考にしているのですが、文章が回りくどく、事実が見えてきづらいですね。

これに対し、中央政府がロッソウに対して罷免通告を下しているのですが、これを「カールが拒否した」とあります。

ここまででわかるのがロッソウが集めた幹部らとのやり取りの中で「ベルリン進軍」に言及しており、これが参加者らの間で話として纏まっている事。

更にベルリン政府は彼らが「ベルリン進軍を画策している」という前提の下、ロッソウに対して罷免通告を出しており、これを理解した上でカールがベルリン政府からの通告を拒否しているという事ですね。

更に、これに加え、カールを州総督に命じたクニリング首相がロッソウを「バイエルン地方国防軍司令官」に任命しています。

ここまでくるとドイツ闘争連盟、カール政府の垣根など全く関係なく、バイエルン州の実力者たちの間で既にベルリン進軍という考え方でまとまっているという事実に疑いの余地などありません。

人物名を挙げると、首相であるクリニング、総督であるカール、地方国防軍に任命された第7師団司令官ロッソウ、州警察長官ザイサー、そしてドイツ闘争連盟の指導者であるヒットラー他、です。

あと、私はあまりイタリアの歴史については突っ込んで記事にしたことはないのですが、1922年の時点でイタリアではムッソリーニが「ローマ進軍」を行っており、これが「クーデター」と認定されていますので、つまり政権の奪取に成功しているという事。

深く追求しませんが、この革命により、イタリアに「ファシズム」という理念を掲げる政党「ファシスト党」が政権をになる新政権が誕生していたんですね。(1922年10月)

外伝的にまとめる可能性はありますが、現時点でこの話題の追及はしません。ただ、この時バイエルン州政府一派はこのムッソリーニによる「ローマ進軍」を念頭に「ベルリン進軍」構想を描いていたようですね。


カール政府のドタバタ劇

グスタフ・フォン・カール
Bundesarchiv, Bild 183-R41120 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

よもや、カール政府とドイツ闘争連盟がここまで纏まってしまう、という展開は私、予想していませんでしたが、この後も想定を上回るドタバタ劇が展開されていきます。

ゼークトはこれを受け、三頭政治を担う指導者3名と、ヒットラーを含むドイツ闘争連盟やその他この計画に加担する軍事組織の指導者たちに対し、武力を用いることを通達しました。(10月20日)

一方、「バイエルン地方国防軍司令官ロッソウ」は24日、国防軍、武装警察、民間武装団体の指導者を集めた上で、今後取りうるべき方策として、以下の3つの選択肢を示します。

 ・ベルリン進軍による独裁政権の樹立

 ・現状を維持して妥協を図る

 ・バイエルン州の独立

この内、ロッソウは一つ目の選択肢を取ることを示したのですが、なんとこの集会にナチス関係者(つまりヒットラーも)は招待されていなかった、とのこと。これはさすがに肩透かしを食らいましたね。

この後、クリニング、カール、ロッソウ、ザイサーらを中心に中央政府との間でドタバタ劇が演じられることになるのですが、結局最終的にカール政府はバイエルン州民や他の指導者らからの信頼を失うこととなります。

一貫してナチス抜きでのベルリン進軍が画策されていたわけですが、ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります。


どこを端折り、まとめるべきか苦心しましたが、漸くミュンヘン一揆本番直前まで歴史を進めることができました。

という事で、次回はいよいお「ミュンヘン一揆」本番へと記事を進めてみたいと思います。






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<継承する記事>第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯

前回の記事では、第一次世界大戦後のドイツの近代史の中で、ルール占領に関連した記事の中で触れることのなかった話題。首相であるヨーゼフ・ヴィルトがソ連と結んだラパッロ条約やこれに関連したラーテナウ外相の暗殺、そして「共和国防衛法。

また、ヒットラーが歴史の表舞台に登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」。これについて話題にしました。

ただ、「ミュンヘン一揆」についてはこれが勃発するまでの経緯が複雑で、またこれまで私が作成してきた記事の中では登場しなかったような人物や組織の名前が立て続けに登場するので、整理するのが非常に難しいと感じました。

そこで、前回の記事ではこの内ミュンヘン一揆を引き起こす主犯となる「ドイツ闘争連盟」。この組織の登場までを話題にし、それ以降の内容は今回以降の記事に委ねる形で終結させました。

この時点で既にヒットラーが党首を務めた「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチス」は既に組織として登場しています。

「ドイツ闘争連盟」とは、ヒットラーが政治的指導者を、「ヘルマン・クリーベル」という人物が軍事的指導者を務める組織です。ヒットラーはナチスの軍事組織である「突撃隊」をこのドイツ闘争連盟に参加させました。

今回の記事では、まずこの「ドイツ闘争連盟」について深堀したうえで、ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか。この辺りを記事としてまとめたいと思います。


「ドイツ闘争連盟」とは何か。

既に「『ドイツ闘争連盟』とは何か」という命題についてはいくつか答えを示してはいるのですが、これを深堀する意味でこのようなサブタイトルにしてみました。

「ドイツ闘争連盟」とは、「祖国的闘争同盟共働団」から派生した組織出ることをお伝えしました。また、ここに「ナチスの軍事組織である突撃隊」が参加していることもお伝えしましたね?

この当時のドイツでは、政党が集会を行うとき、必ずと言っていいほど敵対する政党が殴り込みをかけ、集会を滅茶苦茶にする傾向が常態化していたようで、ヒットラー率いる「突撃隊」とは、ナチスの前身である「ドイツ労働者党」が1919年11月に集会を行った際、組織された警備隊がその原型となっています。

この組織は1920年2月、ドイツ労働者党が「国家社会主義ドイツ労働者党」へと名称が変更された後、「整理隊」へと組織改編されます。

この時、整理隊の隊長を任されたのがエミール・モーリスという人物。彼は後にヒットラーの弁舌を纏め、「我が闘争」を執筆した人物でもあります。「我が闘争」はヒットラーがしゃべった内容を、そのまま彼が筆記したものなんですね。

ヒットラーはさらに1921年7月29日、ナチスの党首となると、整理隊はさらに「体育スポーツ局」へと組織改編されます。

ヒットラーが党首になることを支援した人物がエルンスト・レーム。彼はベルリンからミュンヘンに派遣されている政府軍、「第7軍管区司令部」の軍人で、義勇軍設立のエキスパート。

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


彼はヒットラーに対し、元エアハルト海兵旅団の隊員であり、現コンスル(右翼テロリスト集団)のメンバーであるハンス・ウルリヒ・クリンチュを「体育スポーツ局」の隊長として推薦します。(同8/3)

タイミング的に、ベルリンにおいてカップ一揆が失敗に終わった後で、ヴェルサイユ条約を順守する目的で、ベルリン政府より当時のカール政府に対し義勇軍や郷土軍の解散命令が出されていました。

当初はこれを拒んでいたカール首相も、最終的にはこれを拒否することができず、6月28日、これに同意することになります。カール首相もまた、レームによる支援を受けていました。

レームとしては、何とか義勇軍を維持したい気持ちを強く持っていましたので、自身の影響力のある元軍人を送り込むことで、彼の組織した義勇軍を維持しようと考えていたんですね。


突撃隊の結成

同年9月10日、ヒットラーは「体育スポーツ局」の名称を突撃隊へと更に改変することを発表します。

11月4日、ドイツ社会民主党の党員数百名がナチスの集会を襲撃した際、体育スポーツ局のわずか50名足らずのメンバーがこれを撃退したことを受け、「体育スポーツ局」に「突撃隊」としての名称が正式に与えられます。

「突撃隊」の結成ですね。

突撃隊には、レームが送り込んだエアハルト海兵旅団の下隊員たちが多数所属していて、解散を命じられたエアハルト海兵旅団としては、その組織を維持するのに都合がよかったですし、ヒットラーとしてはその名声を利用することができました。

レームとしても自身が作り上げた義勇軍が解散を命じられていて、突撃隊はそういった義勇軍の構成員たちの受け皿にもなっていましたので、それぞれにとってのメリットがありました。

ですが、ヒットラーにとってみれば、せっかくナチスの軍事部門として「突撃隊」を設立したのに、そこにいるメンバーは大半がレームの息のかかった元エアハルト海兵旅団の隊員で軍人としては実力者ばかり。

ナチスの党首として、ヒットラーの影響が及びにくい状況にあり、この事をヒットラーは危惧していました。


突撃隊、「祖国的闘争同盟共働団」への配属

翌年1月には、フランスによるルール占領が決行され、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト大将の命令で、突撃隊にも国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められます。

ヒットラーは最初嫌がっていたのですが、これも軍に所属するレームに説得され、渋々これに従うこととなります。

ただ、突撃隊としては正式に軍の訓練を受けることになるわけですから、ナチス軍部の組織としては強化されることとなったのではないでしょうか。

この時突撃隊が所属した組織が即ち、「祖国的闘争同盟共働団」ですね。

突撃隊への指揮権そのものが軍に持っていかれることを危惧したヒットラーは共同団に配属された直後、1923年3月に突撃隊の隊長をハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへと挿げ替えています。

ゲーリングはレームが推薦して突撃隊に配属された元エアハルト海兵旅団の隊員たちを一掃し、ヒットラーに忠誠を誓う隊員たちのみで部隊編成を行います。

実際に突撃隊が軍の訓練を受け始めるのは同じ3月からですから、新しく編成された隊員たちが軍の訓練を受けたことになりますね。

ただ、これにはさすがにレームが切れるんじゃないかと思ったのですが、同年8月13日、シュトレーゼマン内閣が設立されると彼から「受動的抵抗」政策の中止が表明されます。

これを受け、いよいよミュンヘンでも、ベルリン政府打倒に向けた機運が高まることになります。

ヒットラーはこの機運に乗じて9月2日、いよいよ「ドイツ闘争連盟」を結成します。ドイツ闘争連盟はヒットラーによって組織されたものだったんですね。

このドイツ闘争連盟の政治的指導者をヒットラーが、軍事的指導者を「祖国的闘争同盟共働団」の指導者であったヘルマン・クリーベルが務めました。

この時、9月26日、レームは軍に除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じています。

という事は、レームはヒットラーの行動に対して不快感を抱いたりするようなことはせず、まっすぐに受け止めていたという事ですね。


ヘルマン・ゲーリングがナチスに入党した理由

ヘルマン・ゲーリング
Bundesarchiv, Bild 102-13805 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


さて。ここで一つポイントとなるのは、突撃隊が「祖国的闘争同盟共働団」に参加した後、突撃隊の隊長となった人物、ヘルマン・ゲーリング。彼がナチスに入党することとなったその理由です。

彼は、1922年11月、ミュンヘン・国王広場で開催されたナチスの政治集会で初めて演説を行うヒットラーの姿を見ることになるのですが、ヒットラーの演説の後、彼はヒットラーと個別に面会する機会を得ることになります。

ゲーリングはその場でヒットラーから

「ドイツが敗戦国にされたのは、戦いに負けたからではなく、ユダヤ人と共産主義者の裏切りのせい」

であるとする所謂「背後の一突き説」を熱心に語るヒットラーに感銘を受け、翌月12月にナチスへと入党しています。

ですが、そもそも「背後の一突き説」とは、「第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ」という考え方を言うのであって、そもそもここにユダヤ人は関係ありません。

ですが、ヒットラーはこの時点で既に共産主義者とユダヤ人とをある意味同一視していたんだという事がわかります。

彼自身は シオンの議定書 に記されている内容を真に受けており、所謂「ユダヤ陰謀説」に振り回されていることはわかります。

ただ、彼自身としては(彼の説によれば、ですが)、例えば彼が嫌っている左翼系の新聞の編集者や歴史上の優秀な芸術家たちが作り上げた絵画をけなすかのような作品を作り上げる者たちが軒並み「ユダヤ人」であることを突き止めており、この事が彼にユダヤ人を嫌悪させる所以ともなっています。

また、この当時のドイツ人の共通認識として、例えばロシアはドイツに降伏しており、一方のフランス戦においてはその戦場はドイツではなくフランス。ドイツそのものは殆んど傷ついていないのです。

このような事情から、ドイツ人としては明らかに勝利に向かって突き進んでいたのに、突然政府が敗北宣言をした。そんな風にドイツの敗戦は映っていたのだと思います。

当然納得がいかず、(事実そうですが)「共産主義者の裏切り」によって自滅した。そういう印象が非常に強いのだと思います。

ヒットラーからしてみれば、これを裏側から主導していたのはユダヤ人であり、国内から社会主義者やユダヤ人を一掃する事こそまさにドイツの国益につながると、この時点で既にそのように思っていたのではないか・・・という推察を行う事ができます。

この時点ではまだ「推察」に過ぎませんし、そのことによってヒットラーがどのような行動に出るのか。これもまだ予測はできません。


記事としては、ここから更に「ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか」というところまで描きたかったのですが、「ドイツ闘争連盟」に関する内容だけである程度まとまってしまいましたので、結成後のドイツ闘争連盟の動きに関しては改めて次回記事に委ねたいと思います。






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<継承する記事>第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのか

前回の記事では、第一世界大戦後、「ハイパーインフレーション」という経済状況に陥ったドイツが、その絶望的な経済状況から一体どのようにして立ち直ることができたのか。この事にポイントを絞って記事を作成してみました。

とはいうものの、実際に記事をまとめている際、私が追求したかったことをそのまま、非常に整然とまとめていた動画を発見してしまいましたので、内容とするとそちらに完全に振った感じになりました。

動画を見ていても、私が今更まとめたところでとてもこの動画の内容にはかなわないな、と感じたのが最大の理由です。

ただ、完全に投げっぱなしにすることはせず、いつか「外伝」的な内容で私の記事なりにまとめることができればと思っております。

その上で追加して、第一次世界大戦後のドイツ史として、「ルール占領の終息」をまとめる上で必要な要素のみ抽出して記事にしました。

この流れの中で、まずはレンテンマルクの導入によって「首相」という立場からはドイツのハイパーインフレという状況を終息させることに成功したシュトレーゼマン、そしてルール占領を強行し、ドイツのハイパーインフレをより深刻なものとさせたフランスのポアンカレ首相はそれぞれルール占領が収束するまでに「首相」の座を降りることとなりました。

ここまでを第一次世界大戦後のドイツの「戦後処理」に係る歴史的経緯としてこの部分について一旦終結させます。

本日の記事では、前述した「戦後処理」の問題の内、話題として触れながら深堀しなかった二つのテーマについて記事にします。


ヨーゼフ・ヴィルトの「密約」と「共和国防衛法」

一つ目が、この「ヨーゼフ・ヴィルト」がソ連との間で締結していた「密約」、そしてヴィルトが退陣する理由の一つともなった「共和国防衛法」です。

で、この「密約」が「ラパッロ条約」と呼ばれるもので、これは1922年4月10日から5月19日にかけて、イタリアの「ジェノア」という都市で開催された、国際会議「ジェノア会議」が開催された際、共に会議に参加していたドイツとロシア(ソビエト・ロシア)が同じくイタリアのラパッロというところで締結した条約がこの「ラパッロ条約」です。

ラパッロ条約

内容としてはドイツとロシアが共に第一次世界大戦によって発生した領土や賠償に関する請求を放棄した条約です。これによって両国の国交が正常化することになりました。

ドイツは「ブレスト=リトフスク条約」によってロシアから得た請求権を、ロシアはヴェルサイユ条約後、得ることができると考えられる請求権をそれぞれ放棄した感じです。

当時はソビエト政権が統治する「ロシア」という国をどの国も国家として承認していませんしたので、ドイツは世界で初めてソビエト政権を国家として承認した国・・・ということになります。1922年4月16日の事です。

また更に、この条約は11月5日、ベルリンにおいて捕捉条約が結ばれ、この捕捉条約において、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース連邦(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)、極東の各ソビエト共和国をドイツは承認。12月、ソビエト・ロシアはこれらの国々と共に「ソビエト連邦」を結成します。

第一次世界大戦はドイツとロシアとの対立に始まり、両国が社会主義革命の勃発によって共に自滅したことによって終結した戦争です。

戦後、両国は連合国からのけ者にされ、のけ者にされた国同士で締結したのが「ラパッロ条約」。

恐ろしいなと思うのは、後の世界を絶望の渦に巻き込んでいく「共産党」という勢力によって形成された「ソビエト政権」を認めたのが、ドイツでも「保守」政党によって支持された首相、「ヴィルヘルム・クーノ」だったという事。

また更に、ドイツは後のソビエト連邦を形成する国々の「ソビエト政権」を認めたのと引き換えに、ソビエト国内での軍事訓練等を行うことを認めさせています。ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備縮小を約束させられていますので、これは「ヴェルサイユ条約」に違反する条約でもあります。

両国の関係は、その後ヒットラー政権が誕生するまで継続したのだとか。


ラパッロ条約がドイツ国内に齎したもの

ラパッロ条約の締結は、まずドイツ国内で「右派」の反発をもたらします。

典型的な事例として、ラパッロ条約をソ連との間で締結したヴァルター・ラーテナウ外相が、「コンスル」というテロリスト集団に暗殺されます。

「コンスル」については、第484回の記事 で話題にしましたね。

第483回の記事 でご紹介した「バイエルン・レーテ共和国」。これを滅亡させる上で活躍した「エアハルト旅団」。

エアハルト旅団はヴェルサイユ条約によって軍縮を求められたドイツ政府、グスタフ・ノスケ国防相によって解散を求められるのですが、これに反発して「カップ一揆」を引き起こしました。

民衆からの反抗でカップ政権が崩壊した後、エアハルト旅団は再び解散を命じられるのですが、このエアハルト旅団の残党によって結成されたのがテロリスト集団「コンスル」。

彼らによってラーテナウ外相は暗殺されました。(1922年6月24日)

これを受け、7月18日の議決を経て21日~23日にかけて施行されたのが「共和国防衛法」です。

「共和国防衛法」に関しては、詳細な情報を見ることができるサイトがほぼ皆無。唯一Wikiのドイツ語版でその詳細をうかがえる程度ですので、掘り下げることは現状難しいのですが、数少ない情報からすれば暗殺は「極右」である「コンスル」によって行われたものですが、対象は「極右と極左」両方がその対象となっていたようです。

また、この法律そのものは憲法に照らせば違憲なものだったのですが、「国会の2/3の賛同」を得て成立しているようです。更にこの法律は1929年に改正されており、第二次法としては違憲な状態がない形に修正されていた、とのこと。

そして、この法律の扱いがまたヴィルト首相はヘルメス財務相との対立を招く一因となり、戦後賠償問題と共に紛糾し、同年11月に退陣することとなりました。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯

そしてこちらが二つ目のテーマ。

戦後処理をめぐり、ドイツ国の首相は

 コンスタンティン・フェーレンバッハ
→ヨーゼフ・ヴィルト
→ヴィルヘルム・クーノ
→グスタフ・シュトレーゼマン

へと代替わりするのですが、ミュンヘン一揆がおきたのは1923年11月の事。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任した直後の出来事です。

シュトレーゼマンは先代ヴィルヘルム・クーノの政策である「受動的抵抗」政策を中止し、通貨を「パピエルマルク」から「レンテンマルク」へと交換し、見事ハイパーインフレを終息させた人物です。(実際に収束させたのは通貨委員であるヒャルマル・シャハトですが)

前回の記事 でバイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングがバイエルン州に「非常事態宣言」を発令した上で、グスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命したことを記事にしました。

よくよく考えるとバイエルンは同じドイツの中でもビスマルクが統合した際「自由都市」として自治を認めた南ドイツの州であり、そのせいでこのような所業が可能になるわけですね。

カールは元々カップ一揆の余波で「バイエルン州首相」の座に就いた(第484回記事参照)ものの、バイエルン州独立を目指そうとしたカール首相はベルリン政府より首相の座を追われることとなりました。

それでもバイエルン州独立の機運が収まることはなく、バイエルン州内での「右翼」と「左翼」が正面衝突しかねない状況となったことから発令されたのが「非常事態宣言」。これが前回の記事でお示しした内容です。

州総督となったカールには「独裁的権限」が与えられました。

この時点で既にナチス、つまり「国家社会主義ドイツ労働者党」は結成されていて、カール政権はこのナチスからも支持されることになりました。「独裁を行わないこと」が条件とされました。

支持する、とはいうものの、この時点ではまだ「静観」する姿勢だったようですね。

カールの取った政治姿勢はベルリン政府と対立する様相を得示していて、カール政権とベルリン政府との関係は緊迫した状況であった、との事です。


主犯・「ドイツ闘争連盟」

ミュンヘン一揆を実行したのは「ドイツ闘争連盟」というグループで、ここにはアドルフヒットラーをはじめとするナチスの党員も参加していました。

「ドイツ闘争連盟」の母体となったのは、ベルリン政府がルール地方を占領するフランス軍に対抗するために組織しようとしていた「ドイツ義勇軍」の一部で、バイエルン州の民間軍事組織を連携させるために結成(1923年2月)した「祖国的闘争同盟共働団」です。

「祖国的闘争同盟共働団」にはヒットラーが代表者であるナチスも参加していたのですが、ヒットラーは主導的な立場にはありませんでした。

同年8月、ルール闘争の失敗やハイパーインフレを引き起こした責任を取り、ヴィルヘルム・クーノが首相を辞任。シュトレーゼマンが首相となります。

バイエルン州には彼がとった「受動的抵抗の中止」という政策に反対する声が多くありました。

ちなみにこの時点でヒットラーを代表とするナチスは自身が「ドイツ人」であると考える「大ドイツ派」。一方、後に州総督となる前バイエルン州首相グスタフ・フォン・カールは自身がバイエルン人であると考える「バイエルン分離独立派」。

「受動的抵抗の中止」に反抗してヒットラーは9月1日~2日にかけて行われた「ドイツの日」のイベントを通じてナチスはバイエルン州右派よりの支持を集める様になったのですが、同時にバイエルン分離独立派との関係は悪化したのだそうです。

で、そんなナチスがカール政府誕生後、カールを「支持する」姿勢を表明したという事ですね。

「ドイツの日」の直後に「祖国的闘争同盟共働団」の「極右派」が、指導者であるヘルマン・クリーベルを議長とした「ドイツ闘争連盟」を組織し、この団体を通じてヒットラーもついに「政治指導者」としてその頭角を現すこととなりました

カール政府が誕生したのはこの後のことです。


記事が長くなりそうなので、「ミュンヘン一揆」に関する記事はさらに別の回に分けて製作しようと思います。




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<継承する記事>第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響

前回の記事では、ヴィルヘルム・クーノがドイツ国首相となった後、前首相であるヴィルトの政策を引き継いだことからフランスのポアンカレ首相より「生産的担保」、つまり「ルール地方の鉱山管理権」を要求された事。

その後、フランスとベルギーによりドイツのルール地方が占領され、既に対外貨幣ベースでは極端な「通貨安」状態に陥っていたドイツがルール占領への対抗策としてルール地方の国民に対し「ストライキ」を呼びかけ、賃金を「通貨発行」によって賄った事。

結果対ドル相場でなんと2億3606万倍で貨幣の価値が下落してしまった、つまり「ハイパーインフレーション」を引き起こしてしまったことを記事にしました。

後半で現在の国内で話題となっている貨幣政策への批判を織り交ぜてしまいましたので、記事としてはそこまで終了させたのですが、今回はそこから更に、ドイツ国内でこの「ハイパーインフレーション」という経済状況に対してどのような政策が実行されたのかという内容を中心に記事を進めていきます。


グスタフ・シュトレーゼマンの政策

情勢に変化のない時期を追ってもあまり意味がないと思いますので、「ハイパーインフレーション」まで含むドイツ国内の情勢に大きな変化があった出来事にポイントを絞って記事を進めていきます。

ヴィルヘルム・クーノの就任後、ドイツは連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求め、これにイギリスとイタリアは賛同する意思を示すものの、フランスとベルギーによって拒否。

イギリスのジョージ・カーゾン外相より両国の占領がヴェルサイユ条約に違反することをフランスに通告、アメリカの仲介による中立的な査定期間の設立を提案するものの、これもフランスによって拒否。

結局クーノはハイパーインフレーションを引き起こしただけで何一つまともな政策を打ち出すことができず、1923年8月11日、社会民主党より不信任を突き付けられ、退陣へと追い込まれます。

彼の後を引き継ぎ、首相になった人物がグスタフ・シュトレーゼマン。

グスタフ・シュトレーゼマン

彼が首相となった後、11月に「ミュンヘン一揆」が起きます。この一揆を主導したのが「ドイツ闘争連盟」。そのメンバーの一人として、「アドルフ・ヒトラー」の名前が登場します。

かなり中心的な立場となって彼は活動しているのですが、このテーマは次回記事でポイントを絞って記事にする予定です。


では、改めてグスタフ・シュトレーゼマンについて。

シュトレーゼマン内閣で財務相を務めたルドルフ・ヒルファーディングの試算によれば、シュトレーゼマンが首相に就任した時点で既に「ルール闘争支援」のための費用は限界を迎えており、シュトレーゼマン自身も冬が始まるまで今の「消極的抵抗」政策を続けることは不可能であると考えていました。

この事から、シュトレーゼマンは9月26日、「受動的(消極的)抵抗の中止声明」を行います。

これに対して反対したのが「ドイツ共産党」と「ドイツ国家人民党」。

またこれに対抗し、バイエルンでは9月20日の時点でなんとバイエルン州政府に「非常事態宣言」を行い、バイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングはグスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命しました。

グスタフ・フォン・カール

グスタフ・フォン・カールはクリニングの前の首相でもあります。

第484回の記事、及び 第490回の記事 でも名前が登場しましたね。

第484回の記事

バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

という内容を掲載しました。

第490回の記事 で掲載したように、首相に就任したカールはバイエルンの「分離主義者」たちに支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、これに危機感を覚えたベルリン政府によって首相の座を追われることになりました。

それでも州内の独立の機運が収束することはなく、そこに「受動的(消極的)抵抗の中止声明」が重なりました。

「非常事態宣言」が発令されたのは、今ことが理由でバイエルン州内での「右翼」と「左翼」とが前面衝突しかねない状況が生まれたから、なのだそうです。

カールはシュトレーゼマンの政策を批判し、ベルリンtのの対決姿勢が強まりました。

ここから先はミュンヘン一揆の記事に委ねます。


シュトレーゼマンの声明の影響はドイツ国全体にも衝撃を与え、エーベルト大統領もまた、「戒厳令」を発令。指揮権を国防相に与えました。


シュトレーゼマンの「デノミネーション」政策

ドイツで「ハイパーインフレーション」が問題になったのは、その影響で物やサービスの値段が安定せず、「昨日の買えていた値段で明日パンを買う事ができない」というような事態が発生したから。

例え「ハイパーインフレーション」が起きて通貨の価値が急速に下落しようが、政府がお金を発行してばらまいてくれるわけですから、一定の下落幅で安定し安心して買い物を行う事ができれば不満が大きくなることはありません。

最大の問題は通貨の価値が下落し続け、つまりは「物価が高騰『し続ける』」から問題になるのです。

と・・・情報を検索していると、私が今回記事にしたかった内容を実に鮮やかにまとめた動画を発見してしまったので、その動画を紹介します。



そう。サブタイトルを「シュトレーゼマンの『デノミネーション』政策」としたのですが、実質的にこのデノミネーション政策を実行したのは「ライヒ通貨委員」となったヒャルマル・シャハト。

彼は「ドイツレンテ銀行」を設立し、国内の「地代請求権」を担保とした「レンテマルク」という通貨を発行し、「パピアマルク」と交換しました。

レンテンマルクは「土地の価格」と紐づけられていますので、日々・・・というよりも時間単位で通貨の価値が下落する「パピアマルク」と比較すると価値が安定しており、国民は我先にとパピアマルクをレンテマルクへと交換したのだそうです。

「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているようで、この事がドイツの通貨の価値を安定させ、ドイツの「ハイパーインフレーション」を急速に鎮静化しました。

1:1兆のレートで交換されましたので、実質的には通貨の単位が1兆マルクから1マルクに切り下げられた形となり、このような通貨政策の事を「デノミネーション」と呼びます。

ドイツのは場合は通貨の種類そのものが変わっていますので、疑似的なデノミネーションなんですけどね。

「レンテンマルクの奇跡」、そしてヒャルマル・シャハトという人物の名称は、その後のナチスドイツの政策にも関わってくるようですので、改めて後日的を絞って記事にしたいと思います。

本日ご紹介した動画の内容を参考にして作成すると思いますので、良ければ先に動画に目を通してみてください。私が改めて記事を作成する必要がないほどに、わかりやすいです・・・💦

私とすると打ちのめされた感満載です。


ルール占領の終息

さて。レンテンマルク政策によって見事にインフレを鎮静化させたシュトレーゼマンですが、彼の内閣もまた、バイエルン州問題への対応などをきっかけとして社会民主党が連立を離脱し、総辞職することとなります。(11/23)

彼が総辞職する1か月前、10月23日、米国が賠償員会に加わり、フランスの反対を押し切って賠償策定プロセスにドイツを参加させる方針を決定させました。

これまでは「イギリス」「イタリア」「フランス」「ベルギー」そして「チェコスロバキア」が賠償委員会に参加しており、評決に参加することができたのはチェコを除く4カ国でしたから、どうしてもドイツに対して直接利害関係を有するフランスとベルギーの発言力が高まっていました。

ですが、ここに米国が参加したことで、この構造が変化しましたね。

フランスのポアンカレ首相はそれでもルール占領の正当性を主張していたのですが、シュトレーゼマン退陣後、米国の賠償委員会への評決への関与を受諾する事となりました。

この決定は米国より賠償委員会に加わったチャールズ・ドーズの名称を取り、「ドーズ案」と呼ばれるのだそうです。

内容としては、まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

フランス、ポアンカレ内閣は翌年(1924年)6月に総選挙で敗北し、退陣。

8月16日、独仏双方が折り合い、フランス軍・ベルギー軍は同年10月より撤退を開始することとなりました。


さて。次回記事は「ミュンヘン一揆」へとスポットを当て、それ以降はいよいよヒットラーにスポットを当て、記事を進めていきたいと思います。

シリーズのテーマとしては「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」という名称になっていますが、目的としてはヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の真相までたどり着ければ、と思っています。

シリーズとしてはその時点での終了を目指します。

一応、次期シリーズの事も私の構想にはあり、それは「モンゴル」について。「ソ連」という国の大部分がかつてはモンゴルであった事。一方で中国人の持つ「残虐性」に実はモンゴル人が関係があるのではないか、という私の仮説を裏付ける作業を行っていきたいと思っています。




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<継承する記事>第502回 ジョン・メイナード・ケインズの警告とルール占領までの経緯

前回の記事では、ヴェルサイユ条約以降、ドイツと連合国との間で行われた賠償額の決定に向けた経緯を特にジョン・メイナード・ケインズの視点を通して、更にその後のドイツの対応と関連国、特にフランスの反応について記事にしました。

なんとか「ルール占領」が実行される伏線までは到達できたかと思います。

復習として、

・コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は連合国側からの無茶な賠償金額を受け入れることができず、退陣。

・続いて就任したヨーゼフ・ヴィルト首相は、とりあえず無茶な要求を受け入れて「払えない」ことを実証する作戦に出た。

・ジョン・メイナード・ケインズはドイツが受け入れた賠償額を「支払いが著しく困難である」ことを警告。

・ケインズの警告通り、ドイツは償還が困難となる。

・ヴィルトはこの賠償問題及び「共和国防衛法」をめぐって財務大臣と対立し、退陣。

・ヴィルトは退陣と共に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出。

・続いて就任したヴィルヘルム・クーノはヴィルトの見解を継承する。

・フランスの首相ポアンカレはドイツに「生産的担保」を求める。

ドイツ首相の交代劇を中心に、ザっとまとめましたが、こんな感じです。

で、この「生産的担保」がルール地方の事だ、ってところで話題を今回に委ねました。


フランスとベルギーによるルール占領

という事で、今回は改めてフランスとベルギーによって実行された「ルール占領」の具体的な経過と、その収束についてまず記事にします。

改めて、この時点でのドイツ国首相は「ヴィルヘルム・クーノ」です。ちなみにこの当時のドイツの国名は「ドイツ国」が正式名称ですが、後の歴史では「ワイマール共和国」としても認識されています。

前首相であるヴィルトの下でドイツは連合国側に対して資金調達が困難になったことを理由に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を提出しました。

クーノはこの認識を引き継ぎ、また連合国側でもイギリスはこの要求に一部応じるのですが、フランスはこれに反対し、「生産的担保」として「ルール地方の鉱山管理権」をドイツに要求しました。

この後のドイツについてWikiでは

「その後、ドイツの賠償支払いは遅れ、石炭引き渡し額が200万トン足りないなど、現物支払いを履行しなかった」

と記されています。この「現物払いの遅れ」がドイツによる故意のものであるのか、あるいは本当に不足し、履行することができなかったのかといった内容についての記載はないのですが、これに対し、「12月26日、賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とあります。

賠償委員会の構成国はアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・ベルギー・ユーゴスラビアの7カ国。この当時のユーゴスラビアはユーゴスラビアとい名前ではなく、「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」という名称だったのだそうです。

この内、評決に加わることができたのはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの4カ国。日本は日本に直接関係する問題について、ベルギーはそれ以外の問題について評決に加わることができたのだそうです。

ところが、実際にはこの内アメリカは前提となるヴェルサイユ条約に批准しておりませんので、賠償委員会そのものには参加していません。

ユーゴスラビアに関しては委員会に参加することはできるけど、評決にかかわることはできなかったという事でしょうか。

この内容から考えると、欧州の問題に関連して実際にドイツの賠償に関与することができたのは「イギリス・フランス・イタリア・ベルギー」の4カ国だけですね。

で、フランスとベルギーは直接被害を受けており、イギリスは両国に請求権を持っています。

「賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とありますが、これはつまりフランス・ベルギーの両国がイギリスの反対を押し切ってドイツの「賠償不履行認定を宣言した」という事に他なりません。

この時点、つまり1922年12月26日の時点でも既に連合国側によってドイツはデュースブルクをはじめとする3つの都市を占領されています。

これに加えて1923年1月4日フランスの首相ポアンカレはついにルール地方の占領を宣言。ベルギーととともに1月4日よりルール地方の占領を開始します。

ここからは私のブログでも何度も記事にしていますが、この両国のルール占領に対し、ドイツ国首相ヴィルヘルム・クーノは「消極的(または受動的)抵抗を行います。

即ち、ルール地方の労働者に対するストライキの呼びかけ。ストライキ中の労働者に対する賃金は政府が保証しましたが、これは財源がなかったために「紙幣増刷」で補っています。

本日は令和2年6月21日ですが、この時のドイツ国政府の対応、どことなく今回の日本の「コロナ対策」を彷彿させますよね?

政府が国民に対して「自粛」を呼びかけ、で国民からは「保証の要求」が行われ、これに応じる形で全国民に10万円が支給された、あの様子です。

今回は事情が非常に特殊でした。というのは、「自粛」を要求されていたのは日本だけでなく全国的に同様であったこと。かつ他国から日本への移動が制限されていました。

このおかげで仮に日本国内でお金をばらまいてもこれを狙って国外の企業が日本にたかるようなことはありませんし、また仮に同様の政策を今後継続し、日本国内で「生産活動」そのものが休止に追い込まれたとしても、代替品として海外の生産物が選択されるような状況にはありませんでした。

ですから日本国内で「物・サービスの値段」が高騰するようなことはありませんでしたが、長期的に見ると、あるいは日本国内だけがこのような状況に追い込まれていたとすると、安易に国債発行・・・というよりも「通貨発行」に頼った政策をとると、それは日本国民の生活を破綻に追い込みかねない政策であるってことを私たちははっきり認識しておく必要があると思います。


話題が逸れました。ドイツ政府とすると、フランスの武力による占領に対し、武力で抵抗する方法ももちろんありました。ですが、実際は占領政策によってドイツ軍は縮小、及び廃止を余儀なくされていますし、敗北し、ドイツ全土が占領されてもおかしくない状況だったかと思います。

この事から、当時の軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトは義勇軍の拡充や鵜は独立政権の樹立まで計画していたのだそうです。

フランスのこのような行動は、イギリスやフランス国内の左派政党などからも批判を受けていましたが、フランス国内の右派、及び新聞機関等がさらに強硬な姿勢をとる様煽っているような状況にありました。

この時の状況を再びWikiから引用して掲載してみます。

5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した。

5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した。

抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした

この他、既に連合国の占領下にあったラインラントなどでは占領軍に対するテロも発生するようになっていたそうで、客観的に見てフランス・ベルギーの行動は「侵略」の様相を呈していたんですよね。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。


「ハイパーインフレーション」の影響

改めてハイパーインフレーションの影響にさらされたドイツの様子を見ていて、ハイパー・・・というより「インフレ」という言葉の本当の意味を認識させられた思いがしました。

なので、少しそのお話をしてみます。

前回の記事 でドイツの通貨価値について、ヴィルヘルム・クーノが就任した直後、1922年12月の時点で「マルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していた」ことを記事にしました。

1807倍ですと、日本で考えますと、1919年には500円くらいで買えていた米国産の牛肉が90万円以上出さないと買えなくなるレベルの話ですから、これだけでも半端ないです。

ここから更に、「生産をストップし、賃金だけばらまく」ことを実行しましたので、ドイツの通貨は1923年1月と比較して11月には対ドル相場でなんと2億3606万倍にまで跳ね上がりました。

感覚がわかりにくいかもしれませんが、例えばドイツが通貨を発行してばらまくわけですから、別に1月の時点で1マルクで買えていたものが11月に2億3606万マルクださなければ買えなくなっていたとしても、これをドイツ政府がきちんと支給してくれれば問題はないのです。

ですが、それが問題になってくるのは、例えば11月1日の時点で1000マルクを政府から受け取って、11月1日に500マルクで販売されていたものを11月3日に買おうとすると5000マルク出さなければ買えなくなっていた・・・というのでは話にならないってことです。

売れなくなれば値段は下がるんじゃないかと考える人もいるでしょうが、購入対象が命や生活そのものを左右するような品物で、在庫が入荷する見通しが全く立たず・・・っていう話になると、たとえそれにどのような値段がついていたとしても販売した瞬間に売り切れる。これは、実は私たち日本人もかなり最近体験しています。

そう。「マスク」や「トイレットペーパー」というものを通じて。

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結果、「高いマスクしか買えなくなった」と実感されませんでしたか?

あれが数日ペースで、更に何百、何千倍というペースで進んでいくと考えてみてください。

パンを買いに行っても陳列されていない。陳列されていても高値で一瞬で売り切れてしまう。今日用意した金額ではとても足りない。

足りない分を次の日に政府から受け取ったとしても、買いに行くとない。陳列されているものは昨日の10倍くらいになってる。そんな状況が続いていたわけです。当時のドイツでは。

「インフレーション」の言葉の意味は、「物価が継続して上昇し続ける」ことを言います。

で、同じ「物価の高騰」でも、販売数そのものが増えることによって起きる「物価の高騰」と、販売数が一定で、値段のみが吊り上がっていくことによる「物価の高騰」の2種類があります。

前者ですと、仮に商品単価が下落したとしても「物価」事態は上昇することがあります。全社ですと「商品単価」事態は上昇したとしても「物価」は下落する事もあります。

ですが、数量そのものが限られている状況で単価が高騰すると、それはおのずと「物価の高騰」へとつながっていきます。

限られた経済圏に対して通貨のみを無条件給付した場合、その消費力を受け止めるだけの生産力がその経済圏になければおのずと物価は高騰します。物資が不足すれば、おのずとその経済圏の外にその生産力を求めるしか方法がなくなります。

勿論、その経済圏の内側の生産力を高めることが最良の手段ですが、それはそう早急にできることではありません。不足した「マスク」の供給が需要に追い付かず、必要とする場所に最良の生産物を届けるため、政府が海外から調達した生産物を全戸配布しましたよね?

あれにはそういう意味があります。

更に、海外の生産力のみに頼るようになれば、海外で何かあったときに、当然国内では急激な「供給不足」が起きてしまいます。通貨を供給する仕組みのみに着目し、日本国内の「生産力」を置き去りにした思想。これが「MMT(現代貨幣理論)」という考え方です。

例えば、MMTの考え方の中に「貨幣の信用・価値は、国家の徴税権によって保証されている」という考え方があるようですが、これは大きな誤りです。通貨の信用や価値は、その国内の「生産力」。日本人であればその「勤勉さ」によって保障されています。

これを忘れて通貨の供給のみに着目した思想に私は全く賛同することができません。

少しコロナの問題に関連させ「ハイパーインフレーション」のテーマを掘り下げてすぎてしまいました。

改めまして、次回記事ではこの後ドイツがどのようにして「ハイパーインフレーション」という状況から脱却することができたのか。ハイパーインフレーション下のドイツで起きたことと絡めまして、次回はこのテーマで記事を進めてみます。




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<継承する記事>第490回 第一次世界大戦後のドイツはどのようにして「右傾化」したか

しばらくコロナウイルス関連の記事を続けたのですが、改めてシリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」に路線を戻します。

シリーズ前回の記事 の文末でご案内した通り、今回はドイツに「ハイパーインフレ」を招く直因となった「ルール占領」について、ハイパーインフレが起きた経緯ではなく、ルール占領が行われた経緯にポイントを絞って記事にしたいと思います。

その後、ハイパーインフレに対して当時のドイツがどのような対応を行ったのか。こちらにポイントを移していきます。


ヴェルサイユ条約後、ドイツの賠償が決定する経緯

ヴェルサイユ条約後、ドイツに対する賠償が決定していく経緯について、もう少し深く掘り下げてみます。

ヴェルサイユ条約でドイツが連合国(主にフランスとベルギー)に賠償を行う事が決定するのですが、実際には1920年4月以降、合計12回に渡って開催された会議においてその正式な賠償額が決定します。

この時の首相はコンスタンティン・フェーレンバッハ。第484回の記事 で話題にした「ルール蜂起」。

この後、初めて行われた国会選挙において誕生した内閣です。

前回の記事 でもお伝えしましたね。

フランス・イギリス・イタリア・ベルギー・日本・ポルトガルなど複数の国々によってその賠償額が話し合われ、その総額は1920年6月の時点で総額2690億金マルクとされました。

また、同年11月にはドイツがその賠償請求に応じない場合には連合国によって、ルール地方、またはドイツ全土を占領することが決められています。

1921年2月~3月にかけて開催されたロンドン会議ではドイツ側より総額を500億金マルクとする対案が出されたのですが、連合国側により却下された上、連合国はルール地方にある「デュッセルドルフ」などの3つの都市を占領します。(~1925年8月25日。これは所謂ルール占領とは異なります)

1921年4月27日、その最終的な金額は1320金マルクと決定します。

ドイツははこの額が国力を超え、実行不可能であると反論しますが受け入れられず、フェーレンバッハついに退陣に追い込まれます。

一方で新首相となった「中央党左派」、ヨーゼフ・ヴィルトは、とりあえず連合国側の要求を受け入れ、実際に賠償金を支払った上で、その履行が不可能であることを実証する、「履行政策」を取りました。

ヴィルト


ちなみこの時政権が右派政権から左派政権に代わってますね。彼がとったこの「履行政策」は、ヴェルサイユ条約の見直しを主張する「右翼民族主義者」たちから攻撃の的とされます。

後のドイツの国際関係を検証する上で、この時に首相を務めたヨーゼフ・ヴィルトという人物は、中々重要な立ち回りを演じていますので、この話題は後日深めてみます。

ともあれ、ヴィルトが「履行政策」を取ったことから結果的にドイツの賠償額は総額1320金マルクを30年払いという形で決着がつきました。(1921年5月5日)

既に過去の記事で話題としていますが、更にこの賠償金は外貨建てでの返済を要求されていましたので、ドイツが賠償金を支払えば支払うほど外貨高となり、これが所謂「ハイパーインフレ」を引き起こす一つの要因ともなりましたね。

この後、ドイツはフランスに再三賠償金の支払いについて交渉を行うのですが、悉くフランスに拒否されており(実際に協定の締結まで進んだものも、フランス産業界等の批判により中止にされるなど)、ドイツには厳しい状況が続きます。


ジョン・メイナード・ケインズの警告

以外なのは、ドイツへの賠償を確定させるうえで、イギリスの責任者としてあの「ジョン・メイナード・ケインズ」が就任していたという事。

「ケインズ経済学」の下となる理論をまとめたあの、ケインズです。

ケインズ


彼は元々ドイツの支払い能力として「高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」とする報告書を策定していました。

これを、当時の首相であるロイド・ジョージ氏は受け入れず、「ドイツの限界まで賠償を支払わせる必要がある」として240億ポンドという額での賠償をドイツに求めていました。(1918年12月)

翌年1月に開催されたパリ講和会議。これとは別に開催されていた賠償委員会にケインズは出席することができず、代わりに出席した「イギリス代表」はケインズとは異なり、ジョージ首相同様ドイツに限界「以上」の賠償をさせようとする「強硬派」でした。

例えばアメリカがドイツの賠償額を各国が受けた「損害の範囲内」の補償に留めようとする提案を行ったのに対し、イギリス代表は「戦費」までその補償に含めるべきだと主張しました。

1919年3月からはイギリス代表としてケインズが参加するようになったのですが、イギリスの強硬派たちの抵抗は強く、結果的に同講和会議での賠償額の決定は見送られることとなりました。

また更に英仏は賠償額に対し、更に軍人恩給まで含めることを米国に要求し、米国を屈服させました。イギリス代表であったはずのケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国しています。

この結果、締結されたのが「ヴェルサイユ条約」です。ちなみに同条約116条において、「ロシアの賠償請求権」は保留されることとなっています。ロシア革命後のソビエト政府が正式に成立した後、協議されることとなりました。


ケインズは、この時のイギリス政府の姿勢を「平和の経済的帰結」という書籍において批判し、更に1922年、「条約の改正」という書籍において、賠償に批准したドイツの賠償支払いが著しく困難であることを警告しています。

ここはそのままWikiから引用します。

1922年の「条約の改正」では予算問題とトランスファー問題によってドイツの賠償支払いが著しく困難なものであると警告している。

予算問題とはドイツ政府が賠償を支払うためには、政府財政で毎年黒字を計上せねばならない。黒字達成のためには増税や支出削減が必要であるが、賠償額が大きくなればなるほど国民生活を圧迫し、これが続けば労働意欲や生産力も低下するというものである。

トランスファー問題とは、ドイツが賠償支払いを外貨で行わねばならないことから生じる問題で、ドイツが自国の財政黒字を外貨に両替するためには経常収支が黒字であることが必要であるが、現実的にはその達成が困難だと指摘したものである。

ケインズはこれらの理論により、イギリスとアメリカに対連合国債権をすべて放棄させた上で、ドイツに賠償額を30年賦で12億6000万金マルクずつ支払わせるのが妥当と算定した。

ドイツ政府の賠償金調達はケインズの警告通り、19922年5月の時点で困難となり、ドイツはフランスに対し支払いの延期を求めますが、フランスはこれに応じず、おそらくこの時ドイツは通貨の発行によってこれを賄ったのだと思います。

結果、マルクは「一ポンド=5575マルクまで下落した」とあります。この金額が当時の通貨単位でどの程度の下落であったのかは記されていませんが、ケインズの警告をなぞるような下落幅だったのだと想像します。


フランス・ベルギーのルール占領に至る経緯


1922年1月には一時的に支払いの猶予が認められていたのですが、これに賛成した当時のフランスの首相であったアリスティード・ブリアンは、強硬派の反対を受け、辞任に追い込まれています。

その後もドイツマルクは暴落を続け、ドイツ政府は7月12日、連合国に対し「6ヶ月の賠償支払い停止」を求めた上、「1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言」します。この時点でドイツの対ドルレートとして1919年比で117.5倍まで増加していたのだそうです。

これに対し、アメリカは譲歩の姿勢を見せるのですが、その他の国々はこれに反対します。

ここで一つの構造が見えたんですが、アメリカ以外の欧州の国々は、「アメリカに対する債務」があったんですね。

逆に言えば、アメリカがこれらの国々に対する債務を減額するなりしていれば、他の国々もドイツの要請に応じることもできていたという事になります。

ただ、フランスやベルギー、特にフランスはドイツに対する特定の負の感情を抱いていますから、より強硬な姿勢を示したのだと思います。

またフランスはドイツと国境を接しており、帝国時代のドイツの強烈な印象は拭いされていないでしょうから、二度と立ち直れないほどに国力を低下させたかったという本音もあったのではないでしょうか。

連合国側は1922年後半分に関しては事実上ドイツ側の要請に応じるのですが、ドイツ首相であったヴィルトはこの賠償問題、及び「共和国防衛法」の扱いをめぐって財務大臣と対立することとなり、同年11月に退陣しています。

続いてドイツ国首相となったのがヴィルヘルム・クーノ。

ヴィルヘルム・クーノ

フランス・ベルギーによるルール占領は彼の時代に勃発します。中央党、ドイツ人民党、バイエルン人民党の連立政権ですから、右左でいえば右側の保守政権です。彼は大統領であるエーベルトの指名を受けて首相となります。

ちなみに彼が首相に就任した直後、12月の時点でマルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していたんだそうですよ。

ヴィルトは辞任とともに「「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出しており、クーノはこの見解を継承しました。

これに対し、フランスの首相であるポアンカレは、ドイツに対し、「生産的担保」を求めます。「生産的担保」。つまり、「ルール地方」の事です。(1922年12月19日)

フランスも対英米債務に苦しんでいたんですね。


次回記事では、改めて「ルール占領」そのものに着目し、その上でドイツが「ハイパーインフレ」から脱却するまでの経緯を追いかけてみます。




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<継承する記事>第489回 ヒットラーはなぜ左翼とユダヤ人を嫌ったのか?

複数和、ヒットラー本人の検証とヒットラーが登場するまでのドイツ(及び日本)を復習する目的の記事を作成しましたので、置き去りにしている話題がいくつかございます。

そこで、今回からは再び 第484回の記事 まで遡りまして、その後のドイツ近代史を追いかけていきます。

ちなみに、第483回の記事 におきまして、スパルタクス団蜂起後、ドイツがヴェルサイユ条約を受け入れ、更にフランス・ベルギーによるルール占領が行われるまでの年表を掲載しています。

フランス・ベルギーによるルール占領が行われたことがドイツにおいてハイパーインフレが起きた原因なのですが、時系列的にまだこの年代にも行き着いていませんので、順にこのテーマにも触れ、ドイツにおけるハイパーインフレが終息した理由にまで追って記事にできればと思っています。

また、
この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

とも記していますので、このことに話題についても回収できる記事を後日作成する予定です。


ヴェルサイユ条約後のドイツ

まず最初に、ドイツが大戦に敗北する前後の地図を見比べてみます。

ヴェルサイユ条約後のドイツ

こちらの地図はWikiから拝借しています。

グレーで行事されている部分以外がすべて「ドイツ」で、赤枠、緑枠で囲まれているエリアが敗戦後、他国に割譲された地域です。

プロイセンは完全に飛び地になってしまっていますね。北側のエリアは「 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」でデンマークと争った領土で、デンマークに割譲されていますね。

南西のエリアは普仏戦争後に獲得したアルザス=ロレーヌ地方ですね。フランスに渡されています。その上部で緑枠となっているのはエストニア。そこから更に飛んで北側の赤枠がベルギーにそれぞれ譲渡されています。

飛び地となったプロイセンに挟まれた領土はポーランドが、ポーランドエリアの南側の小さな領土はチェコ、ポーランドエリア上部の緑枠は自由都市ダンツィヒ。緑枠は独立したエリアですね。

更に飛び地になったプロイセンの北東のエリアがリトアニアです。

ポーランドはロシアとドイツによって分割されていた領土が、両国の崩壊により独立を回復したんですね。この「ポーランド」は第二次世界大戦でドイツとソ連の対立の舞台ともなる場所です。

削られた領土も思ったほど多くないな・・・という印象ですね。現在のドイツと比較しても領土が広いですよね。

一応、この地図を頭に入れて記事を進めてみます。


ドイツ共和国政府の右傾化

フランスがドイツに派兵後、ドイツ共和国軍がルール地方から軍を引き上げたのが1920年5月17日の事ですので、この時点から記事を進めてみます。

ドイツ共和国が派兵する原因となったルール一揆に対し、フランスが派兵したわけですが、まずこれに対してイギリスが激怒し、両国の関係が最悪の状態となった、との記述がありますので、ここは備忘録的に記しておきます。

ルール蜂起後、共和国政府(社会民主党政府)は支持を失い、フランス軍撤退後、6月6日に行われた共和国政府樹立後初の国会選挙では、総議席数459中、ドイツ社会民主党は議席数を61議席減らし102議席になります。

一方、議席数を伸ばしたのが極左ドイツ独立社会民主党(+62議席→84議席に)、右派であるドイツ国家人民党(+27議席→71議席に)、同じく右派であるドイツ人民党(+46議席→65議席に)などtなっています。

さて、この中に「バイエルン人民党」の名称がありますね。

カップ一揆後、バイエルン州において新しく首相となったのがこの「バイエルン人民党」の政治家(グスタフ・フォン・カール)です。バイエルンの「分離主義者」に支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、バイエルン州分離主義者の過激活動に危機感を覚えた中央政府によって首相の座を追われることとなります。

つまり、この「バイエルン人民党」もまた、バイエルンの「分離主義者」、つまり民族主義者たちに支えられた「右派」であり、これだけを見てもルール蜂起後のドイツ共和国政府が「右傾化」したことがとてもよくわかりますね。

これ以外にカトリック政党である「中央党」や「ドイツ民主党」といった正当が存在しました。

しかし、それでも最大政党である社会民主党ですが、右派政党との協力を拒否し、「中央党」「ドイツ民主党」「ドイツ人民党」の三党が連携した「コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣」が誕生します。


ドイツ独立社会民主党の分裂

一方で「極左」であるドイツ独立社会民主党は、後に共産党を結成するスパルタクス団が離党した後も同党内での右派と左派との対立問題を抱えています。

同党が1920年7月に参加した「コミンテルン第2回世界大会」において、コミンテルン(第三インターナショナル)より「コミンテルン参加の条件として21か条」を突き付けられ、この中で「改良主義者ならびに日和見的中立主義者」の追放を要求されます。

日和見主義については、ちょうどロシアのシリーズの中で触れたことがありますね。(第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

コミンテルンからは具体的な党員の名前まで示されたんだそうですよ。

10月には独立社会民主党大会が開かれます。ここには、既にコミンテルンからの多数派工作が仕掛けられていた、とのことで、独立社会民主党と共産党は合同することとなります。

しかし、これに反発した独立社会民主党右派は独立社会民主党にとどまることとなり、結局独立社会民主党は分裂することとなりました。

左派の中にもコミンテルンの強硬的な手法に反発するものがおり、実際に独立社会民主党から共産党へ移った党員は80万人中30万人にとどまったのだそうです。

とはいえ、極左であるはずの独立社会民主党が分裂したという事実に変わりはありません。確かに「左派」にも同党に残留した党員はいたわけですが、全体的に「右傾化」したことも否めない事実です。1922年9月、独立社会民主党は社会民主党と合流することとなりました。

面白いのは、確かに「独立社会民主党」は「右傾化」したわけですが、この勢力が社会民主党と合流すると、その社会民主党の中では「最左派」であり、これが社会民主党が左傾化する原因となったのだそうです。

この状況から見ても、この時点で「コミンテルン」のドイツ共産党に対する影響力が大きいという事はわかりますね。

ただし、第486回の記事 を参考にしますと、この時点(独立社会民主党が分裂した時点)ではまだスターリンは書記局長の座にはついていません。

レーニンが糾弾に倒れた後とは言え、まだレーニン自身は健在で、スターリンの影響力はそこまで大きくない時代のことです。


フランス・ベルギーによるルール占領

さて。ドイツのフランスやベルギーに対する賠償金の金額や返済方法が決められたのは選挙が行われた翌年。1921年3月のことです。(ロンドン会議)

金額は毎年1320億金マルク。とドイツの輸出額の26%を30年間という内容。

フェーレンバッハは受諾が不可能だとし、辞職するのですが、引き継いで首相となったヨーゼフ・ヴィルトがこれを受諾しました。

ここから

第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

の記事内容へと続くことになります。「ハイパーインフレ」へとつながるんですね。

次回記事では、ではそのハイパーインフレが起きる直因となったフランス・ベルギーによる「ルール占領」が一体どのような経緯で行われたのか。またその終結について、第471回の記事 の内容と極力バッティングしないように注意しながら記事を作成してみたいと思います。




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<継承する記事>第488回 「アドルフ・ヒトラー」と「アーリア人至上主義」

という事で、ここからはシリーズの本丸の一つともいえます、ヒットラーの「ユダヤ人差別」。ここにポイントを絞って記事を作成してみます。


ヒットラーと反ユダヤ主義

さて。多くの皆様の印象の中には、「ヒットラー」と言えば、そのまま「ユダヤ人虐殺」をイメージする方がほとんどかと思います。

現状として私はまだヒットラーが本当にユダヤ人を虐殺したとすることを裏付ける明確な根拠にまで到達していませんので、表現として「ユダヤ人虐殺」なる表現は現時点では控えたいと思います。

その上で、少なくとも「ユダヤ人を差別していた」とする印象をお持ちの方はやはり多いと思います。

「我が闘争(上巻)」を読み進めていて、ヒットラーが「反ユダヤ主義」と出会うこととなったきっかけとして、「ドイッチェ・フォルクスブラット」という新聞であったことが記されています。

彼が両親と死別し、オーストリアの文化の中心地である「ウィーン」に移り住み、彼の生涯としては最も底辺にあるような生活を営んでいた時期のことです。

私、第471回の記事 の中で、ヒットラーが行っているユダヤ人批判の「ユダヤ人」の文字を「韓国人」という言葉に置き換えてみると、「まるで現在の日本について語っているのではないかと錯覚するような内容」だと記しましたが、これは本当に、まさにその通りだと思います。

もちろん、そのすべてをそのまま当てはまるというつもりはありませんが、いくつか引用して事例を挙げてみます。
どんな形式のものであれ、まず第一に文化生活の形式において不正な事や、破廉恥なことが行われたならば、少なくともそれにユダヤ人が関係していないことがあったであろうか?

こういうはれものを注意深く切開するやいなや、人々は腐っていく死体の中のウジの様に、突如差し込んだ光によってまぶしく目の見えないユダヤ人を、しばしば発見したのである。

新聞、芸術、文学、演劇における活動を私が知ったとき、私の目に映ったのは、ユダヤ人が持っている重荷であった。飾り立てられたすべての格言も、ほとんど無用であるか、全く無意味である。広告塔の一つを見て、そこでほめそやされている映画や演劇のぞっとする駄作の精神的創作者の名前を調べ、しばらく動かずにいるだけで十分である。

当時わたしは公の芸術生活のこの不潔な作品の創作者の名前を全部、注意深く調べ始めた。結果は、ユダヤ人にたいして私が今まで取っていた態度にとって、一層悪いものであった。そこではなお感情が千倍も反対しても、理由がその結論を引き出さねばならなかった。

全ての文学的な汚物、芸術上の際物、演劇上のバカ騒ぎの九割が国内の全人口の百分の一にも達していない民族の債務勘定に帰するという事実は、簡単に否定されなかった。事実その通りだった。

またわたしはそこで、わが愛する「世界的新聞」をこのような観点から調べ始めた。ここでも測探機を深く入れれば入れるほど、ますますわたしのかつての驚きの対象が少なくなった。

文体はいよいよ耐え難いものになる。私は内容を、内心浅薄で平板なものとして拒否せねばならなかった。叙述の客観性が、今や私にはりっぱな真理としてよりもむしろ嘘に見えた。ところが編集者は「ユダヤ人」だった。

この新聞の自由主義的な思考を、いまや違った光の中で見た。攻撃に対する回答の上品な調子もその黙殺も私には今や、怜悧なトリックと見えてきた。

その輝かしく書かれた劇評は、いつもユダヤ人作家に関しており、そしてかれらの不評はドイツ人以外のものには向けられなかった。

頑なにもヴィルヘルム二世を軽くあてこすることもなく、フランスの文化や文明を称賛するのと同様に手段だとわかってきた。

小説の際物的内容はいまやわいせつなものとなり、私はそのことばに異民族の声を聞いた。

淫売制度と更に少女売春に対するユダヤ人の関係さえも、人々はおそらく南フランスの町を除けば、ウィーンでその他のどの西ヨーロッパの都市よりも、よく研究することができた。

夕方、レオポルトシュタットの通りや小路を除けば、一歩するごとに欲すると否とにかかわらず、大戦前まで大部分のユダヤ民族に隠されていた光景が見られた。<中略>

ユダヤ人が、大都市の廃物たるこのにくむべき淫売業の、氷の様に冷たく、また厚顔無恥な仕事をしているっ支配人であることをそういう方法で初めて見たとき、背筋がかすかにゾッとするのを覚えた。

途中、「わが愛する世界的新聞」という表現が出てきますが、これはもちろん皮肉で、当時のドイツの大衆新聞を批判したものです。

記されている内容は、現在の日本のマスメディアで考えれば、例えばとあるマスメディアの社長(もしくは社を取り仕切っている人)が韓国人で、作品は所謂韓流のものばかりを取り上げて絶賛し、逆に日本国内の、特に日本を賞賛すするような作品についてはこれを蔑んだ内容で記事を作成し、当然のような顔をして大衆向けに放送しているようなイメージです。

もしくは日本を蔑むような作品が日本国内で大流行し、よくよく見てみるとその作品の制作者が韓国人(またはそのシンパ)であった・・・というような。愛知トリエンナーレなどはその代表劇なものでしょ?

現実の日本で普通に行われていますよね?

また、売春業についても批判をしていて、その取り仕切りがユダヤ人だった、という表現もありますが、基本的に今の日本でもそういった物を取り仕切っている裏稼業にはヤクザの姿があり、当然対岸の半島からやってきた人の姿もそこにありますよね?

ヒットラーは元々「反ユダヤ」という考え方に否定的で、もしくは同調する部分こそあれ、これが声高に訴えられることに対しては違和感を覚えていたことも書籍中には記されています。

そんな人物が、様々な情報に触れるうちに「反ユダヤ」へとその主張を変化させていきます。


ヒットラーと反マルクス主義

ヒットラーは、また同じように「マルクス主義(つまり社会主義や共産主義)」に対しても否定的な考え方を抱いていくようになります。

彼は、更に深く調べていくうち、ドイツ国内で「マルクス主義」的な考え方を指導しているのはユダヤ人だったのだそうです。

ドイツの社会民主党のパンフレットの編集者、社会民主党の指導者、労組の指導者、議長、該当の扇動者等々・・・。その大部分が「ユダヤ人」だったのだそうですよ。

もちろん、これはヒットラーの思いこみによる部分も大きいのではないかと思いますが、少なくとも当時の彼はそれほどに社会主義化していくドイツに、「ユダヤ人」の影響が大きくなっていると、そう考えたんですね。

私は、少数民族であるユダヤ人と、産業革命の勃発により「市民」の中に「資産家」と「労働者」がいることに気づいたマルクスの「マルクス主義」とが非常に親和性の高いものだったんじゃないかと今現時点では思っています。

これは、おそらく戦後日本における所謂「在日」中・韓・朝鮮の人たちにとっても同じことが言えたのではないかと思います。

世の中を見れば「資産家」の数よりも「労働者」の数が当然多いですから、少数民族が裏側から社会を牛耳る手段としてもうまくいきやすかったのではないか、とも思います。労働者には無学な人も多いですから、「煽動」されやすい人も多かったのでしょう。

そして、あのビスマルクでさえ、そんな「社会主義」の危険性に気づき、そして公布されたのが「社会主義者鎮圧法」でした。

実際、そんな「社会主義」に対し、どの程度「ユダヤ人」が影響力を持っていたのか。それは私にはわかりません。

ただ、どうでしょう。今の日本において、例えばマスコミに対岸の半島や大陸にすむ人が大きな影響力を持っていたり、芸能人の中に日本人のふりを紛れ込んでいたりする現状を見て、皆さんはどのように感じるでしょうか?

ヒットラーが批判する「ユダヤ人社会」と非常によく似ているように感じるのは私だけではないはずです。で、同じように日本の中に紛れ込む異国の人もまた、「社会主義者」の仮面をかぶっていますよね?


自称社会主義者たちの「詭弁」

社会主義にかぶれた人たちと話をしていると、私自身、段々声が大きくなってしまう・・・そんな瞬間に巡り合う事があります。

それと非常によく似た状況をヒットラーも体験していたようで、訳者は「ユダヤ人の詭弁」とする項目名をつけて訳書に記してあります。
労働者というものが、より立派な知識やより優れた説明に屈しないほど頑迷ではないという確信を売るためには、私の一年のウィーン滞在でもう十分だった。

私は次第に彼らの独自の教説の通りになった。そしてそれを私の内心の革新のために闘うときの武器として振り向けた。ほとんどいつも私の方が勝った。

しかしユダヤ人は決して彼らの意見を変えようとはしなかった。

当時のわたしはまだ子供の様だったから、彼らの常軌を逸しているような教説をハッキリさせてやろうとして、私の狭い交際範囲で舌をかみ、のどをからして演説し、彼らが狂ったようなマルクシズムの有害さを確信することができるに違いないと思っていた。

だが私はまさに反対のものに到達したのだった。ちょうど社会民主党の理論とその現実の破壊的作用についての洞察が深くなることだけが、彼らの決心の強化に奉仕するかのように思われたのだ。

彼らと争えば争うほど、ますます彼らの詭弁がわかってきた。

最初彼らは相手の愚鈍さを考慮に入れる。だがもはや逃げ道が見つからないとなると、簡単に自分をバカに見せるのだ。

何をやっても役位立たないと、彼らは正確に理解することができないとか、あるいは即座に他の領域に飛躍したり、放棄したり、わかりきったことをいい、しかしそれが受け入れられるやいなや、再び本質的に違った材料を引き入れ、さて再び捕まえられると回避して、そして詳しいことは何も知らないという。

そういう使徒を攻撃しても、いつもクラゲのような粘着で手をつかみ、クラゲのような粘液が指の間を滑り抜けると、次の瞬間に再び合流して結合する。

しかし彼らが周囲から観察されると同意せざるを得なくなり、そして少なくとも一歩自分の意見に近づかせたと思うと、次の日はかえって逆になって驚きが大きい、というような実際無駄なことにぶつかる。

ユダヤ人は昨日のことは何も知らず、あたかも何事も起こらなかったとし、しなかったかのように彼らの古い不法なことを幾度も話し続ける。

そしてそれに憤慨して論駁すると、驚いたふりをして彼の主張が正しかったことは前日に既に証明されているということ以外全く何も思い出すことができないのだ

これって、私がSNS辺りで様々な人と議論する中で、実は何度も経験してきたことです。

もちろん私自身の説が間違っていればそれを認め、修正する必要が当然出てくるのですが、逆にこういうタイプの人はこちらが「一部の」誤りを認めると、あたかも私の話のすべてが間違っていたかのようにふるまい、こちらに対して攻撃を行ってきます。

彼は「ユダヤ人」と述べていますが、私の感覚では、「陰謀論者」に多く見られる傾向だと思います。後は何かの依り代を宗教的に信奉している人。


実はヒットラーも「陰謀論者」。

で、矛盾したような内容を記しますが、ヒットラーのこのユダヤ人に対する嫌悪感は、彼自身の体験に基づくもの、そして彼が信頼する新聞や書籍に基づくもの・・・もあるのですが、彼がその「論拠」としている書籍の一つに、私が ロシアに関するシリーズ で話題にした、とある書籍の名称が出てきます。

それが、こちら。

シオンの議定書

「シオンの議定書」です。

関連した部分を我が闘争から引用します。
この民族の全存在が、どれほど間断のない嘘に基づいているかという事は、ユダヤ人から徹底的に嫌がられている「シオンの議定書」によって非常によく示されるのだ。

それは偽作であるに違いない、と繰り返いし「フランクルター・ツァイトゥング」は世界に向かってうめいているが、これこそそれがほんものであるという事の最も良い証明である。

多くのユダヤ人が無意識的に行うかもしれぬことが、ここでは意識的に説明されている。そして、その点が問題であるのだ。

この秘密の打ち明けがどのユダヤ人の頭から出ているかは全くどうでも言ことである。だが、それがまさにぞっとするほどの確実さでもってユダヤ民族の本質と活動を打ち明けており、それらの内面的関連と最後の究極目標を明らかにしている、という事が決定的である。

けれども、議定書に対する最上の批判は現実がやってくれる。この書の観点から最近の二百年間の歴史的発展を再吟味するものは、ユダヤ新聞のあの叫びもすぐに理解するだろう。

何しろこの書が一度でもある民族に知れ渡ってしまうの時は、ユダヤ人の危機は既に摘み取られたと考えてもよいからである。


ヒットラーは思いっきり信じ込んでしまっていますが、第343回の記事 にも記した通り、この書物は、元々『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という名称の書物で、マキャベリ という政治思想家とナポレオン三世の「地獄対話」を収録したもの。

この書物の内、「ナポレオン三世」と記されている部分をすべて「ユダヤ人」という言葉に書き換えて大幅修正されたもの。元々帝政時代のロシアで「帝政ロシアに対する不満をユダヤ人に向けさせる」ことを目的としてニコライ二世に献上される予定だったもの。

これが、ロシア第一革命当時に

『諸悪の根源——ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』

とのタイトルで世間に出回り、現在世界中でまことしやかにささやかれている「ユダヤ人陰謀論」の大本となりました。

ヒットラーはこの書物を読み、自分自身の体験とも合致したものだから、「ユダヤ人を滅ぼさなければならない」という発想に行き当たったんでしょうね。あくまでここは私の憶測ですが。

また、もう一つ。彼は優秀な血筋こそ後世に残さなければならない、とも考えていて、それは「ユダヤ人種」ではなく「アーリア人種」であるとも考えていました。

この考え方は障がい者に対しても当てはめられていて、障がい者を虐殺までしたのかどうかは現時点ではわかりませんが、障がい者(遺伝的な障害)を持っている人が婚姻関係を結べないようにする事までは法律などで規制しようとしていた様です。


ビスマルクは、「社会主義者」こそが社会秩序を乱す根源であると考え、社会主義者鎮圧法により、ドイツ国内で社会主義活動ができないようにしようとしました。

ですが、ヒットラーはここから更に「ユダヤ人」と社会主義者を結び付けました。

また更に、芸術文化の破壊。例えば、現在よく見かけるコラージュ画像(名作を切り貼りして別の作品に作り替える手法)などに非常に危機感を覚えており、これもまたユダヤ人の仕業だと考えていました。(彼の書物によれば、実際にユダヤ人の作品であるケースが多かった。)

性産業に関してもユダヤ人が関わっており、特に彼が述べているのは「梅毒」という性病の原因となっているという考え方を強く訴えています。

また一方で、ユダヤ人に対し、「ユダヤ人」とはあくまでも人種であり、「宗教」ではないことにも言及しています。これは、そうだなと思いました。ユダヤ人は、ユダヤ人が一つにまとまるために「ユダヤ教」を信仰しているわけですが、今ことが世情を不安定にしていることも事実です。

ユダヤ戦争の原因となったのも、当時多神教であったローマに対し一神教であるユダヤ教徒に対するローマへの反感感情が高まったことにあります。

ヒットラー自身、少年時代にユダヤ教徒であった友人と会話をする中で、その主張に対して嫌悪感を覚えた、とも記しています。

ビスマルクが社会主義者を排除しようとしたことと同様に、当時のユダヤ人とその風習になにがしかの問題がなかったと言い切ることもできないのではないか・・・と考えることも決して間違いではないと思います。

まあ、だから罪もないユダヤ人を虐殺しても構わないってことにはなりませんけどね。


さて。「我が闘争(上巻)」を題材とした記事としては締めくくりにするのですが、一つだけ記しておきたいことがあります。

ヒットラーが仮に「ユダヤ人虐殺」を本当に行ったのだとすれば、それは「シオンの議定書」に基づいた「ユダヤ陰謀論」がその根拠となっています。これは今回の記事を読んでいただければわかりますね?

では、今の日本を振り返ってみたとき、そういった「陰謀論」に基づいて活動している人たちがいませんか?

そう。安倍首相が「アメリカの言いなりになっている」との説を振りかざしている人たちです。

この説も、大元にはアメリカがユダヤ人の国であり、日本がユダヤ人(国際金融)に操られているとする「ユダヤ陰謀論」が論拠になっています。

そして、そういう人たちに限って安倍さんをヒットラーに例えて批判したりしていますが、そもそも「ユダヤ人を虐殺した」としている人はどのような人でしたか?

ユダヤ陰謀論を信じ込んだ人物ではありませんでしたか?

その理屈で考えるのならば、本来ヒットラーに例えられるべきは安倍さんではなく、あなた方なのではないですか?

ヒットラーがユダヤ人を迫害していたことは盛んに話題とするのに、ヒットラーが「マルクス主義者」批判を行っていたことが話題にならないのはなぜですか?

私、ネット上議論をしているとき、「陰謀論」を訴える人と議論をしていると、その相手は九分九厘「小沢一郎支持者」であることを暴露します。そして、そんな「陰謀論者」は現在「山本太郎支持者」へと姿を変えています。

山本太郎を支持する人の多くは、安倍首相がアメリカに操られているという陰謀論を論拠として安倍内閣批判を行っています。

彼らにとって正しいことであるからこそ、財務官僚が資料を改ざんせざるを得ない状況に追い込んだ挙句、自殺に追い込んでも平気な顔をしていられるんですよ。自分たちが正しいと思うことを実行するためなら、自分たちが罪を犯しても全く問題がないと思っているのがあの界隈の人たちです。

データを多く用いて話をしていると、あたかも正しいことを言っているように思いこんでしまうかもしれません。

ですが、9割の真実に1割の嘘を混ぜて話をするのが詐欺師のやり方です。

そして信者の多くが騙されていることにすら気づいていません。

政権を転覆させるための嘘や誇大宣伝、印象操作に騙されることなく、多くの国民がきちんと自らの頭で考え、判断できる世の中になってほしいと切に願ってやみません。




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<継承する記事>第487回 「我が闘争上巻」より見るアドルフ・ヒットラーという人物像

前回の記事では、「アドルフ・ヒットラーという人物像」というタイトルの下、アドルフヒットラーという人物の幼少期。生い立ちについて簡単に記事にしてみました。

「我が闘争上巻」全体を見ていると、このヒットラーという人物が、非常に熱心な勉強家であり、本人が書籍中で「大好きな科目」として挙げている歴史以外にも、所謂素粒子物理学の事や遺伝の事なども、比較的俯瞰的に見る方法として学んでいることがわかります。

ただ・・・例えば遺伝の話であれば近親者同士が関係を持つと遺伝子的に異常がある子供が生まれたりするわけですが、そういった発想がないなとか、そういうツッコミどころも多分にある人物だとも思います。


アーリア人至上主義とは?

彼が批判される要素として登場するのが、この「アーリア人至上主義」という言葉。

私も このシリーズ を作成し始めた当初に出会った言葉なのですが、シリーズをスタートするとき、まずはドイツ人の中でも「プロイセン人」と「バイエルン人」という二つの民族に着目し、両民族の違いから記事を進めていきました。

前回の記事にも記した通り、ヒットラーは自身を「バイエルン人」だと考えており、またヒットラーが総統を務めた「ナチス」もバイエルンから登場しています。

で、この「プロイセン人」と「バイエルン人」に着目する最初の動機となったのがこのサブタイトルである「アーリア人至上主義」に含まれる、「アーリア人」という言葉が原因です。


「アーリア人」って何?

「アーリア人」という言葉は、実は私、ドイツ人の事を調べる以前から知っていまして、以前に作成していたブログで「インド」のことを調べていた時に初めて出会いました。

「アーリア人」とは元々現在のアフガニスタン辺りに住んでいた民族で、これが南下してパキスタン辺りに到着し、ここで宗教的な考え方の違いから分裂し、東に進んだのが「インド・アーリア人」。西に進んだのが「イラン・アーリア人」です。

インド・アーリア人たちが信仰していた宗教がバラモン教。イラン・アーリア人たちが信仰していたのがゾロアスター教です。

バラモン教は後にインド土着の民族であるドラヴィタとの融合を図り、例えば「シヴァ神」などはドラヴィタの土着の神様なのですが、バラモン教はこれを主神に据えたりしています。

で、バラモン教には「デーヴァ神族」という善の神族と「アスラ神族」という悪の神族がいるわけですが、「デーヴァ」はゾロアスター教では「ダエーワ」という悪魔となり、逆に「アスラ」は「アフラ=マズダ」というゾロアスター教の最高神となります。

この辺りでもインドとイランに別れたアーリア人が、なぜ別れることとなったのか。何となく想像がつきますよね。「ダエーワ」はヨーロッパまで渡ると更に「デビル」と名称を変えます。

ちなみに「イラン人」とは「ペルシャ人」の事。

アケメネス朝ペルシャ

こちらの地図は「世界の地図マップ」様サイトより拝借いたしました。

当時のペルシャの最大領土はここまで拡大したんですね。

ヒットラーは、現在の「インド・ヨーロッパ語族」のルーツがこのアーリア人にあると考えており、また更に、その中でも他の地域との混血が少ない地域=ドイツ(ゲルマン)人こそがそのアーリア人の血統をより濃く引き継いでいる、と考えていたのだと思われます。

では、ヒットラーはそもそもなんでそんなややこしいことにこだわったのか。ここに登場するのは「ユダヤ人」という存在です。


「ユダヤ人」って何?

現在のアフガニスタン辺りから南下し、「インド・アーリア人」と別れて西側を目指したのがヒットラーの考える「アーリア人」なのですが、では一方、「ユダヤ人」とはどのような人種なのでしょうか?

シュメール

こちらの地図も、「世界の地図マップ」様サイトより拝借しています。

ユダヤ人っていうのは、元々「チグリス=ユーフラテス川」の河口付近の「シュメール」という地域に住んでいた人たち。もともと、この地域にはユダヤ人とは別の民族がすんでいたのですが、ある時この地域が大洪水襲われ、元々シュメールの地に住んでいた人たちがいなくなってしまいます。

この、誰も住む人がいなくなった地域に、「どこからともなく」やってきたのが現在「シュメール人」と呼ばれている人たち。のちの「ユダヤ人」です。二番目の地図が、その「シュメール」の地図です。

シュメール人・・・っていう民族って、

1.同族間で争いを繰り広げる
2.負けた方がその地を追われ、別の地に移住する
3.移住した先でまた同族間で争いを起こし、負けた方が移住する
4.移住した先でまた同族間の争いを起こす

この歴史を繰り返します。

で、最終的にたどり着いたのがこちら。

イスラエル

そう。現在の「イスラエル」です。

ここでもシュメール人は「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に別れて争い、北イスラエルは南ユダ王国に敗れ、北イスラエルの住民は歴史から忽然と姿を消すこととなります。「失われた10支族」なんていわれたりします。

勝利した「ユダ王国」の名称が後の「ユダヤ人」という名称のルーツになるわけですが、ユダ王国もバビロニアによって滅ぼされその後、バビロニア→ペルシャ→エジプト→シリアからの支配を受けた後、一時的に自治を取り戻すのですが、再びローマからの支配を受けることとなり、ローマとの間で「ユダヤ戦争」が勃発。

ローマに敗北したユダヤ人は、その後散り散りになり、ヨーロッパ各地へと分散していくこととなります。


「アーリア人至上主義」

さて。ではいよいよの本題、「アーリア人至上主義」ですが、つまりヒットラーはヨーロッパに居住する民族を「アーリア人」と「ユダヤ人」に分けて考え、過去の歴史から考えても、文化を発展させてきたのはアーリア人であり、アーリア人の優秀な血筋こそ残していくべきだと考えました。

その中でもユダヤ人との間の混血が進んでおらず、より純粋性が保たれている民族こそゲルマン人=ドイツ人である、と考えたんですね。実は、ヒットラーはイギリス人に対しても同じ評価をしています。

イギリス人も純潔なアーリア人だと考えていたんですね。「ユダヤ人に対する差別だ」と言われればそれまでなんですが、ではヒットラーは一体なぜ、そこまでにユダヤ人とアーリア人を「区別」する必要性がある、と考えるに至ったのでしょうか?

前回記事から引っ張っている感じになってますが、次回記事ではそこにスポットを当ててみたいと思います。




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<継承する記事>第486回 日本が日独伊三国同盟を締結するまでの中国

このテーマに入るまでの前振りが非常に長くなりました。また、前回の記事を作成してから早数か月経過しました事、お詫び申し上げます。お仕事の関係で、今後も同じような更新ペースとなることもあるかと思いますが、ついてきてくださるとうれしく思います。

さて。今シリーズ を私が作成している目的は、「大日本帝国軍はなぜドイツと同盟関係を締結したのか」。この一点を追求することを目的としています。

これを追求する目的として、そもそも「ドイツ」とは何か。これを命題としてシリーズをスタートさせました。結果、本当にいろいろなことが見えてきました。

ブログ全体を通じても探求してきた「右翼」と「左翼」の違いも非常に明確になりました。「共産主義」と「社会主義」の違いも。この2点についてまとめたのが 第485回の記事

一方で日本側からの視点として、日本が対米戦争をスタートさせるに至ったことには正当な理由があったという事。シリーズを作成するに至った真の目的、日本は一体なぜドイツと同盟関係を結ぶに至ったのかという事を、「中国」と「ソ連」側からの視点も合わせて総括したのが第486回の記事 です。

今回の記事では、更にピンポイントで、「アドルフ・ヒトラー」という人物に焦点を絞って記事を作成したいと思います。


アドルフ・ヒトラーとは何者なのか?

アドルフ・ヒトラーとは何者なのか。このテーマにすぐ答えることができる人って、あまりいないのではないでしょうか?

ドイツ第三帝国の総統だったとか、ユダヤ人を虐殺したとか、そういったイメージがアドルフ・ヒトラーの主たるイメージかと思います。

じゃあ、なんで彼のような人物がドイツの総統になるにいたったのかとか、なんでユダヤ人を虐殺したのかとか、ドイツ国民は一体なぜ彼のような人物を総統に選んだのか・・・とか。

彼の人物像を考察することをせず、ただ単に「ユダヤ人を虐殺した極悪人」という認識しか持っていない人も多いのではないでしょうか。

私は、しかし思います。彼の人物像を考察せず、また彼が表舞台に登場するまでのドイツの歴史を把握せず、単にイメージだけで彼を批判するのは間違っている、と。

彼が登場するまでのドイツの歴史については当シリーズ にて散々検証しましたから、今回はもう一つの対象である、アドルフ・ヒトラーの「人物像」について記事にしたいと思います。



現時点ではまだ私、上巻しか読破できていませんので、ベースは上巻の情報となります。

また、書かれている内容はドイツ語がベースとなっており、これを直訳したような感じで、非常に読みにくい内容ともなっていましたから、本当にきちんと理解した上で記事を作成できているのか・・・と聞かれますと、自信を以て「理解している」とは言いづらいですが、現時点で理解している範囲の中で記事を進めていきたいと思います。


ヒットラーはどこからやってきたのか

ヒットラーが誕生したのは、ドイツとオーストリアの国境を流れる「イン川」の河畔にある、「ブラウナウ」という町。

ブラウナウ郡

ブラウナウ

ドイツなのか、オーストリアなのかと申しますと、オーストリアです。

ですが、ヒットラーはオーストリアを「オーストリアという一つの国」ではなく、「ドイツという国の一部」と考えているようです。というよりも、本来そうあるべきだ、と。

著書では、ヒットラーの両親の血統はバイエルン人であるとされていて、ヒットラー自身もそれを信じて疑っていなかったのではないか伺う事ができます。

オーストリアにはドイツ人とチェコ人が住んでいて、オーストリアの統治者であるハプスブルク家が、段々チェコ化していく様子を、ヒットラーは非常に歯がゆく思っていたようです。ヒットラーはチェコ人よりもドイツ人の方が優秀だと考えていたんですね。

と同時に、オーストリアはハプスブルク皇帝が納める国であって、ドイツ人が納める国ではないとも思っていたようです。

日本では「国家主義」と「民族主義」が一致する・・・と記事にしたことがありますが、ヒットラーが生まれた頃のオーストリアは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」であり、オーストリア皇帝は(ヒットラーの著書によれば)オーストリアの「チェコ化」を目指していた、とのこと。

つまり、「ドイツ民族の国」ではなく、「ハプスブルク皇帝の国」。オーストリアの「国家主義」とドイツ民族の「民族主義」は全く一致していません。

そして、そのことがオーストリアの弱体化を招いた、と考えていたわけですね。実際、1848年ウィーン革命はハンガリー人やチェコ人がハプスブルク家に対して起こした民族革命ですし、だからオーストリアはドイツ関税同盟をめぐる駆け引きの中でビスマルクによってその構想から外され、普墺戦争によってプロイセンに敗れることとなったわけですから。

そして、そんなヒットラーが初めてオーストリアの政治の在り方に疑問を持ったのが彼が夢中になって読んだ戦記に記されていた、「普仏戦争」の話題でした。

普仏戦争が勃発した時点で、既にオーストリアは普墺戦争に敗北し、統一ドイツ構想から完全に外されていましたし、そもそも普仏戦争そのものがビスマルクの仕掛けた「南北ドイツを統一するための戦争」でした。

ビスマルクの策略によりナポレオン三世がプロイセンに戦争を仕掛けてきたことから、外形上フランスがプロイセンに対して起こした戦争であり、これを他の北ドイツ連邦都市国家や南ドイツの都市国家の「ナショナリズム(民族主義)」が一体となりナポレオン三世が指揮するフランスを打ち破るわけですが、この時点でオーストリアは完全に蚊帳の外。

これを、ヒットラーは「オーストリアもこの戦争に『ドイツ民族として』参戦すべきだった」と考えたのです。

なのになぜオーストリアは参戦しなかったのだろう・・・と。同じドイツ人でも、ドイツのドイツ人とオーストリアのドイツ人は違うんだ、という認識をこの時おぼろげながら有するに至ったんですね。

この事が彼に「歴史」に対する興味を抱かせ、まずはオーストリアの歴史を、続いてドイツの歴史を、それぞれ具に調べる様になったわけです。

そして彼は気づきます。「オーストリア」という国が、ドイツ人の国ではなく、「多民族国家」であったことに。

彼は、ビスマルクが築いた「ドイツ」という国の事を心底誇りに思い、またドイツ人であることそのものにも心底誇りを持っていました。

だからこそ、ハプスブルグ皇帝によってオーストリアがどんどん「チェコ化」されていくことが許せなかったんですね。


ウィーンに渡ったヒットラー

ヒットラーは、13の時に父親を、18の時に母親を亡くします。

元々、美術に対する関心が非常に高かったヒットラーですが、今でいう公務員であった父親は、彼が美術の道に進むことを許さず、公務員としての道を歩むことを強要しようとしていましたので、父親が亡くなったことは、彼にとっては実はそう悲観することではなかったようです。

一方で母親は根負けしてヒットラーが美術の道を志すことを認めてくれたのですが、ヒットラーは美術学校の試験に落第。試験管より、ヒットラーは美術の道よりも建築の道の方が向いている、とのアドバイスをもらいました。

母親の死後、彼は建築の道を志すためにウィーンへと移住することとなりました。

さて。彼がここで出会う事となるのが「マルクス主義者」と「ユダヤ主義者」です。

彼がマルクス主義者やユダヤ主義者(ユダヤ人)に対する嫌悪感を抱くようになるのはこの時のことでした。


もう少し話題を進めておきたいところなのですが。

時間が必要以上にかかってしまうことも想定されるため、今回はここで終了したします。

次回は、ヒットラーがマルクス主義者やユダヤ人に対する嫌悪感を抱くようになった理由について記事をまとめてみたいと思います。



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<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




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<継承する記事>第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)

前回の記事では、スパルタクス団蜂起以後、ドイツ(ベルリン=プロイセン)が右傾化していく様子を記事にしようと試みたのですが、どうもグダグダした形で終わってしまいました。

少しだけまとめてみますと、

・スパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが更にバイエルン・レーテ共和国を滅亡させる

・両クーデターを鎮圧する上で主戦力として活躍したエアハルト旅団がヴェルサイユ条約の発効に伴い解散を命じられる

・事実上エアハルト旅団を統括していたベルリン国防司令官リュトヴィッツがドイツ祖国とカップとともにこれに反発し、撤回を要求

・リュトヴィッツは国防司令を解任され、カップには逮捕が命じられる

・リュトヴィッツはエアハルト旅団にベルリン進撃を命じ、ベルリンを占領、カップ新政府の樹立を宣言する

・グスタフ・ノスケはワイマール政府軍に治安出動を命じるも参謀本部長(兵務局長)ゼークトはこれを拒否

・ワイマール政府エーベルト大統領はベルリンを脱出しシュトゥットガルトに大統領府を移転

・これに対し、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟(所謂左翼政党)がストライキを呼び掛けることでこれに対抗

・ルール地方ではこれに触発された労働者たち(ルール赤軍)が反乱を起こし、カップ政権は退陣

・これを鎮圧するため、ワイマール政府はルール地方に派兵を行い、ルール赤軍は壊滅

・フランスはこれをヴェルサイユ条約違反だとし、ドイツに派兵し5つの都市を占領する(1920年5月17日まで)

・再び解散を命じられたエアハルト旅団は「コンスル」というテロ組織と化す

・グスタフ・ノスケは国防相を辞任し、総帥部長官ラインハルトも退陣

・ラインハルトに代わってゼークトが総帥部長官に就任(ワイマール政府軍は政府からの独立色が強まる)

・バイエルン州でも右翼陣営より現州政権打倒の動きが強まり、バイエルン州ホフマン首相は退陣

・後継としてグスタフ・フォン・カールが新首相となる(王党派・右派)

・バイエルンでは反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるも、連合国からの圧力により解散

・バイエルンのワイマール政府に対する反発心が高まることとなり、バイエルンには数多くの右派組織が結成される

こんな感じですね。これでもまだややこしく感じますけど。

傾向として、ベルリンではカップ一揆後のルール蜂起を受け、バイエルンではカップ一揆そのものの影響を受け、共に右傾化色が強まっていっていることがわかると思います。

キーポイントとなるのが前回のタイトルにも記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方です。


当時のドイツにおける「右翼」と「左翼」


個人的に「右翼」だ「左翼」だと区別するのはあまり好きじゃないんですが、そこにこだわりすぎるとここから先の記事が非常に回りくどくなってしまうことが想定されますので、敢えてここでドイツのこの時点に於ける二つの言葉について、それぞれ定義づけておきます。

ドイツにおける「右翼」とは、ドイツ皇帝であったホーエンツォレルン家(この時点ではヴィルヘルム二世)の下まとめられた誇り高き「ドイツ帝国」の封建主義的な在り方を理想とする考え方。

「左翼」とは逆にこの封建主義的な国家の在り方を否定し、「主権」がドイツ国民の下にあり、国民の手によって国家が運営されるべきだとする考え方。その最も極端な位置づけにあるのが「共産主義」です。

マルクスを中心にドイツの社会主義を追いかける中で気づいたことですが、そもそも「産業革命」が勃発するまでの欧州では、同じ「市民階級」の中に「ブルジョワ」と「プロレタリア」という区別は存在せず、マルクスがこれに気づいてしまったために突如として衆目を集めることとなったのがプロレタリアによる市民革命=共産主義という考え方です。


「共産主義」と「社会主義」

ですが、そもそも「共産主義」とは国境も管理者もいない社会を理想とする考え方であり、そしてそんな社会を実現することはまず不可能です。

当然当時の国家の中に「共産主義に近い社会」があったとしても、それは共産主義社会ではありません。

産業革命が起きるまでは「帝政・王政・貴族政」という社会しかありませんでしたから、これを倒すことが市民革命の主たる目的でした。

ですが、「皇帝」や「王」、「貴族」が権力の座から引きずり降ろされた後、そこには尚「資産家(ブルジョワ)」という権力が存在していたことに気づいたのがマルクスたちです。

そして、ブルジョワによる権力社会こそ彼らが考える「資本主義社会」ですから、共産主義者たちはこの「資本主義社会」を暴力によって打ち倒そうと試みているわけです。

ちなみに、同じ共産主義社会の実現を暴力を用いずに実現しようと考えている連中の事を「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びます。

ですが、彼らがいくら共産主義社会を実現しようとしても当然それが実現するわけがありません。では、「共産主義社会」でも「帝政・王政・貴族政」でもなく、「資本主義社会」でもない社会の事をなんと呼ぶのか。

それが「社会主義社会」です。

ビスマルクと5度対談し、自らの理想を彼に語ったフェルディナンド=ラッサールは国家と市民が協力してこの「社会主義社会」を作り上げようとしましたし、ビスマルクはラッサールの目指した福祉社会の実現を国家が自ら実現しようとし、そんな社会の在り方を「国家社会主義」と呼びました。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

「匕首(ひしゅ)伝説」そのものについては前回の記事でも話題にしました。

当時のドイツ国民の中にはやはり左翼的な考え方よりもビスマルクによって形作られた「ドイツ帝国」の国民として、皇帝ヴィルヘルム1世の臣下としての誇りの方が大きかったのではないかと思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークを、普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを立て続けに破り、あのマルクスですらその快進撃に快哉を叫んだほどでしたから。


ヴィルヘルム二世によって破壊されたビスマルク体制

ですが、私のブログでさんざんお伝えしている通り、ヴィルヘルム一世の後を継いだ(正確には一世の息子であるフリードリヒ三世の後を継いだ)ヴィルヘルム二世はそんなビスマルクの功績を悉く破壊していきました。

ビスマルクの目的は、プロイセン内やその周辺で革命を起こさせないこと。国家を安定させ、国民が安心して生活を送ることのできる社会を作ることにありました。

ビスマルクが統一するまでのドイツでは、お隣、フランスの影響を受け、プロイセンをはじめとする北ドイツではブルジョワたちが「民族性」ではなく、「経済的な自由」を求めて「自由主義革命」を起こそうとする動きが、逆に南ドイツ最大の大国であったオーストリアでは、自国内に抱え込んだマジャール人やスラブ人が「民族主義革命」を起こそうとする動きがありました。

ビスマルクは、プロイセンをそんな革命運動に巻き込みたくなかったんですね。

結果としてデンマーク、オーストリア、フランスを相手にそれぞれ戦争を起こし、これを北ドイツとドイツ全体の統一に利用し、ドイツ諸国をプロイセンと同じ法制度の下で管理しようとしたわけです。

ドイツ統一後は当然、争いの場を広げるだけにしかなりませんから、植民地政策はとろうとしませんでしたし、ドイツ統一のために自分自身がフランスを利用したことを自覚しているからフランスが他国と同盟関係を結ぶことをできない状況を作ることにこだわり続けました。

「フランス孤立化政策」が所謂ビスマルク体制の根幹だったはずなのです。

ところが、ヴィルヘルム二世は誇りあるドイツの領土が他国に比べて狭いことを不満に感じており、「世界政策」の名の下、世界一の領土を目指し、一気に植民地政策に打って出ました。(北清事変の元となった山東省の植民地化はその象徴です)

また更に、元々仲の悪かったロシアとオーストリアの内、同じ民族であるオーストリアを大事にし、ロシアとの同盟関係を解消。ビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスと同盟関係を結びました。(ドイツは西をフランス、東をロシアに挟まれる位置にあります)


社会主義者の危険性を無視したヴィルヘルム二世

ビスマルクは、普仏戦争末期、ドイツ統一の目的を果たし、普仏戦争を終結させようとしていました。

ビスマルクは普仏戦争を利用して、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国のナショナリズムを煽り、統一ドイツ=ドイツ帝国を誕生させたわけですが、一方のフランスでは、新政府がクーデターを起こし、帝政ナポレオン三世政府を崩壊させ、「国防政府」が出来上がっていました。

ところが、共産主義者たちにとってこの革命は所謂「ブルジョワ革命」にすぎません。彼らが次に目指すのは当然「プロレタリア革命」。

フランスではドイツとは真逆の動きが巻き起こりました。

敗戦同然のフランスでフランスのプロレタリアによるプロレタリア革命、「パリコミューン革命」が勃発。国防政府はヴェルサイユから逃亡し、「パリコミューン政府」が誕生しました。パリコミューン政府は国防政府軍によって崩壊し、革命を起こしたパリ市民は大虐殺されることとなるわけですが、パリコミューン政府の樹立はにわかにドイツ帝国内の社会主義者たちを活気づけることとなります。

普仏戦争を利用し、ドイツを統一することでせっかくプロイセンに安定がもたらされることとなったのに、「自由主義者」よりも「民族主義者」よりも危険な「社会主義者」がその姿を現したのです。

この事から、ビスマルクは「民族主義者」の象徴ともいえるドイツ中央党と和解してまでも社会主義者の鎮圧に乗り出しました。

ところが、ヴィルヘルム二世は権力欲に取りつかれた取り巻きの自由主義者たちにそそのかされ、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止。ビスマルクを政治の表舞台から追い出してしまいます。


ナポレオン三世政府の崩壊とヴィルヘルム二世政府の崩壊

いかがでしょうか?

このようにしてみてみると、普仏戦争によって帝政ナポレオン三世政府が崩壊した様子と第一次世界大戦によって帝政ヴィルヘルム二世政府が崩壊する様子は非常によく似ているように思えませんか?

戦争そのもの趨勢はともかく、結果的に社会主義者たちのクーデターによって帝政政府が崩壊し、更にプロレタリア革命が勃発することでその新政府もまた、短期間とはいえ崩壊し、プロレタリア独裁政府の樹立を許しています。

また更に、プロレタリア独裁政府によって政権の座を追われたブルジョワ政府が再び軍を起こしてプロレタリア独裁政府を壊滅させ、関わったものを虐殺するところまで酷似しています。

ドイツではそのあとさらに右翼陣営によるクーデターと左翼によるクーデターが連続して起こり、国家全体が「右翼化」していくこととなります。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

では、このように遡って考えてみますと、第一次世界大戦でドイツはなぜ敗北したのか。

何となくその理由が見えてきそうですね。

ヴィルヘルム二世がもし「世界政策」なる妄想に取りつかれず、ビスマルク体制を維持していれば、ドイツが対露開戦に追い込まれるようなことはなかったかもしれません。

その根源となった「バルカン問題」ですら表面化させることなく鎮静化させ続けていたかもしれません。

それ以上にもしヴィルヘルム二世が「社会主義者鎮圧法」を廃止せず、維持し続けていたとしたら、最終的にクーデターによってヴィルヘルム二世政府が崩壊させられるところまでいかなかったかもしれないですよね。

そもそも社会主義的な考え方がドイツ国内に蔓延することを事前に防ぐこともできていたかもしれないですね。

私は、もしビスマルク後のドイツの指導者がヴィルヘルム二世でなければ、第一次世界大戦はおろか、後の第二次世界大戦すら発生しなかったのではないかと思っています。

しかし、第一次世界大戦敗戦後のドイツ国民は、そんなヴィルヘルム二世の事を批判することをせず、第一次世界大戦にドイツが負けたのは「左翼のせいである」と考えたのです。

あいつらが革命さえ起こさなければ、ドイツがフランスに負けることはなかった、と。

ですが、一つだけ確実なことがあります。それは、ビスマルクの政策をすべて排除したドイツには、結果的にビスマルクが危惧した通りの社会。つまり、「普仏戦争末期のフランスがたどった通りの社会」が訪れたのだという事です。


「アドルフ・ヒトラー」の考え方の根底にあるもの

さて、私、ようやく「我が闘争」の上巻を辛うじて「読破」することができました。今下巻に目を通していますが、下巻を読破するにはまだまだ時間が必要ですね。

アドルフ・ヒトラー


ヒットラーは、私が本日記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方をそのまま彼自身の政策に反映していくことになります。

私が本日の記事で、「匕首(ひしゅ)伝説」を、私の過去の記事にまでさかのぼって深めてみたのは、そこへの伏線だと思っていただければと思います。

次回記事では、そんな「我が闘争」の上巻を読んだ後、私が私なりに読み解いた「アドルフ・ヒトラー」という人物の人物像に迫っていきたいと思います。





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<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



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<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

私自身の多忙さと年金の話題を挟みましたので、少し和数が飛びましたが、改めて ドイツ近代史のシリーズ を再開してみたいと思います。

時系列的には 第468回の記事 でスパルタクス団蜂起について記した上で、当時のドイツの共産主義の象徴であったカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクが処刑されたことを、第471回の記事 で戦後ドイツでハイパーインフレーションをもたらす直因となった「ヴェルサイユ条約」について、第475回の記事 で「ナチス政権を誕生させることなった」ワイマール憲法について記事にしました。

時系列的に記しますと、

1919年1月5日 スパルタクス団蜂起
1919年1月15日 リープクネヒトとルクセンブルク、処刑
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1919年8月11日 ワイマール憲法制定
1919年8月14日 ワイマール憲法公布・施行
1920年1月10日 ヴェルサイユ条約発効
1923年1月 フランス・ベルギーによるルール占領

このような流れになります。スパルタクス団はその残党により、3月にも暴動を起こすのですが、1月の蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケにより鎮圧。

グスタフは更に1919年4月6日にバイエルンで樹立した「バイエルン・レーテ共和国」も打倒します。(1919年5月3日)


バイエルン・レーテ共和国とアドルフ・ヒトラー

バイエルン・レーテ共和国の面白いところは、非常に短期間の間に「ブルジョワによる革命」→「プロレタリアによる革命」という経緯をたどっているという事。

一応、皆様ご存じだとは思いますが、ドイツにおけるバイエルンの位置はこちらです。

バイエルン州


バイエルン共和国の誕生

バイエルンにおける革命は三度発生しているようで、まずは1918年11月7日夜半。「バイエルン王国」であった時代に、独立社会民主党の指導者であるクルト・アイスナーがバイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ王家の廃止とバイエルン共和国の樹立を宣言。

ベルリンでフィリップ・シャイデマンがドイツ共和国樹立を宣言したのが1918年11月9日ですから、それに先駆けてバイエルン共和国が誕生したことになります。

アイスナーの特徴的だったのは、ベルリン政府(プロイセン)に対して反発的な姿勢を見せた事。

バイエルンは、普仏戦争によってビスマルクがドイツを統一 した後も、法制度的にはプロイセンには合流せず、「自由都市」としての立場を貫きましたね?

第426回の記事 で、元々南ドイツには北ドイツとの統合に否定的な「分離主義者」が多かったことを記しました。

ビスマルク自身もそれを認識していて、南ドイツで主に信仰されていたカトリック。その信者によって構成されていた「ドイツ中央党」の動きを抑えることを目的としてカトリックを弾圧していました。(文化闘争)

しかし、1873年恐慌の勃発を受け、自由貿易から保護貿易への転換が必要であると直感したビスマルクは、中央党を味方に引き入れるため、中央党との和解を図ることとなりました。

このような経緯から見てもご理解いただけると思いますが、バイエルン人の中には元々プロイセンに対する反発心が内在していたんですね。自分たちは「ドイツ人」ではなく「バイエルン人」である、と。

ですから、第一次世界大戦に対しても、「プロイセン王(ヴィルヘルム二世)が勝手に起こした戦争」であり、バイエルンがこれに巻き込まれたという意識を持っていた人も少なくはなかったわけです。

ただ、アイスナー自身も確かに独立社会民主党の党員であったものの、共産主義者たちが目指す「プロレタリア独裁政府の誕生」とは距離を取っていて、このようなアイスナーのあいまいな姿勢は社会主義者たちからも反発を買うことになりました。

アイスナーを支持した社会主義者たちは彼の下から離反し、代わりに1919年1月の選挙では、カトリックによって構成される保守的な「バイエルン人民党」が第一党となり、独立社会民主党はわずか3議席しか取れずに敗北。アイスナー自身は右派の青年将校によって暗殺されてしまいます。

しかし、この暗殺事件がかえって独立社会民主党と社会民主党の結束を深め、政権を維持することとなりました。


バイエルン=レーテ共和国の誕生

独立社会民主党と社会民主党が結束を深め、政権を維持することとなったわけですが、アイスナーから離反し、共産党を結成した面々や、その他の左派連中からはこの事が好ましくは思われませんでした。

そして1919年4月6日、独立社会民主党のエルンスト・トラーと無政府主義者(アナキスト)のグスタフ・ランダウアーが中心となって革命が勃発。首相であった社会民主党ヨハネス・ホフマンはミュンヘンを追われ、バイエルン・レーテ共和国が誕生しました。

ですが、更にその1週間後、今度はこの事に不満を持った共産党が、ロシア出身のオイゲン・レヴィーネを中心としてエルンスト・トラーらが作ったレーテ共和国を打倒。改めてバイエルン・レーテ共和国の樹立が宣言されました。

共産主義者の理想は

1.ブルジョワ革命による貴族政権の打倒
→2.プロレタリア革命によるブルジョワ政権の打倒
→3.プロレタリアによる独裁政権の樹立

にあるわけですから、これほど理想的な共産主義政権の誕生の仕方はありません。

当時はロシアでレーニンらによるソビエト政権が誕生した直後で、第三インターナショナル(コミンテルン)が樹立され、世界中で共産主義革命を起こすこと(世界革命)が目論まれていましたから、レーニンらにとってみればこれは快哉を叫ぶ思いだったかと思います。


政治家、アドルフ・ヒトラーの登場

さて、このようにロシア共産党(コミンテルン)に指導される形で、「ドイツ共産党」の主導で誕生した「バイエルン・レーテ共和国」。

当然その運営は「レーテ(評議会)」によって行われます。

バイエルン・レーテ共和国が誕生したのは1919年4月13日。その2日後、4月15日に、ミュンヘンのレーテ予備大隊評議員の選挙が行われました。

この時、当選者の一人として名前があったのがあの「アドルフ・ヒトラー」です。

アドルフ・ヒトラー

ヒットラーが初めて政治の場に姿を現した瞬間でもありました。


バイエルン・レーテ共和国の滅亡

さて。このようにして誕生した「バイエルン・レーテ共和国」ですが、冒頭にも記しました通り、ドイツ国中央政府のグスタフ・ノスケ国防相率いるワイマール共和国軍他、ドイツ義勇軍によって1919年5月1日~5月3日の3日間にかけてあっという間に占領されてしまいます。

崩壊する寸前、共産党は人質としてとらえた人々を虐殺。その後、レーテ共和国は滅亡します。

その後、政権は再び共産党によってミュンヘンから追い出されたはずのヨハネス・ホフマンの下へと戻ることになるのですが、政権は事実上、中央政府軍の下に置かれることとなります。

で、その占領軍による「レーテ共和国にかかわったもの似たいする」「残虐行為」が多発したのだとか・・・。

ロシアからやってきたオイゲン・レヴィーネは7月5日に処刑。エルンスト・トラーは1925年まで投獄されることとなりました。

一方、この時ヒットラーは占領軍により「革命調査委員会」の委員として任命されます。革命調査委員会に、クーデターの最中に政治活動をしていた人物に共産主義の傾向があるかどうかを調べる役割が与えられていました。

ヒットラーは、この時の働きが認められて「帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊」に配属されることとなりました。


この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

次回記事では、第351回の記事 と多少話題が重なるのですが、この後、ベルリンで起きる「カップ一揆」以降の話題を深めていきたいと思います。


次回備忘録 ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ

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