FC2ブログ
ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)

前回の記事では、スパルタクス団蜂起以後、ドイツ(ベルリン=プロイセン)が右傾化していく様子を記事にしようと試みたのですが、どうもグダグダした形で終わってしまいました。

少しだけまとめてみますと、

・スパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが更にバイエルン・レーテ共和国を滅亡させる

・両クーデターを鎮圧する上で主戦力として活躍したエアハルト旅団がヴェルサイユ条約の発効に伴い解散を命じられる

・事実上エアハルト旅団を統括していたベルリン国防司令官リュトヴィッツがドイツ祖国とカップとともにこれに反発し、撤回を要求

・リュトヴィッツは国防司令を解任され、カップには逮捕が命じられる

・リュトヴィッツはエアハルト旅団にベルリン進撃を命じ、ベルリンを占領、カップ新政府の樹立を宣言する

・グスタフ・ノスケはワイマール政府軍に治安出動を命じるも参謀本部長(兵務局長)ゼークトはこれを拒否

・ワイマール政府エーベルト大統領はベルリンを脱出しシュトゥットガルトに大統領府を移転

・これに対し、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟(所謂左翼政党)がストライキを呼び掛けることでこれに対抗

・ルール地方ではこれに触発された労働者たち(ルール赤軍)が反乱を起こし、カップ政権は退陣

・これを鎮圧するため、ワイマール政府はルール地方に派兵を行い、ルール赤軍は壊滅

・フランスはこれをヴェルサイユ条約違反だとし、ドイツに派兵し5つの都市を占領する(1920年5月17日まで)

・再び解散を命じられたエアハルト旅団は「コンスル」というテロ組織と化す

・グスタフ・ノスケは国防相を辞任し、総帥部長官ラインハルトも退陣

・ラインハルトに代わってゼークトが総帥部長官に就任(ワイマール政府軍は政府からの独立色が強まる)

・バイエルン州でも右翼陣営より現州政権打倒の動きが強まり、バイエルン州ホフマン首相は退陣

・後継としてグスタフ・フォン・カールが新首相となる(王党派・右派)

・バイエルンでは反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるも、連合国からの圧力により解散

・バイエルンのワイマール政府に対する反発心が高まることとなり、バイエルンには数多くの右派組織が結成される

こんな感じですね。これでもまだややこしく感じますけど。

傾向として、ベルリンではカップ一揆後のルール蜂起を受け、バイエルンではカップ一揆そのものの影響を受け、共に右傾化色が強まっていっていることがわかると思います。

キーポイントとなるのが前回のタイトルにも記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方です。


当時のドイツにおける「右翼」と「左翼」


個人的に「右翼」だ「左翼」だと区別するのはあまり好きじゃないんですが、そこにこだわりすぎるとここから先の記事が非常に回りくどくなってしまうことが想定されますので、敢えてここでドイツのこの時点に於ける二つの言葉について、それぞれ定義づけておきます。

ドイツにおける「右翼」とは、ドイツ皇帝であったホーエンツォレルン家(この時点ではヴィルヘルム二世)の下まとめられた誇り高き「ドイツ帝国」の封建主義的な在り方を理想とする考え方。

「左翼」とは逆にこの封建主義的な国家の在り方を否定し、「主権」がドイツ国民の下にあり、国民の手によって国家が運営されるべきだとする考え方。その最も極端な位置づけにあるのが「共産主義」です。

マルクスを中心にドイツの社会主義を追いかける中で気づいたことですが、そもそも「産業革命」が勃発するまでの欧州では、同じ「市民階級」の中に「ブルジョワ」と「プロレタリア」という区別は存在せず、マルクスがこれに気づいてしまったために突如として衆目を集めることとなったのがプロレタリアによる市民革命=共産主義という考え方です。


「共産主義」と「社会主義」

ですが、そもそも「共産主義」とは国境も管理者もいない社会を理想とする考え方であり、そしてそんな社会を実現することはまず不可能です。

当然当時の国家の中に「共産主義に近い社会」があったとしても、それは共産主義社会ではありません。

産業革命が起きるまでは「帝政・王政・貴族政」という社会しかありませんでしたから、これを倒すことが市民革命の主たる目的でした。

ですが、「皇帝」や「王」、「貴族」が権力の座から引きずり降ろされた後、そこには尚「資産家(ブルジョワ)」という権力が存在していたことに気づいたのがマルクスたちです。

そして、ブルジョワによる権力社会こそ彼らが考える「資本主義社会」ですから、共産主義者たちはこの「資本主義社会」を暴力によって打ち倒そうと試みているわけです。

ちなみに、同じ共産主義社会の実現を暴力を用いずに実現しようと考えている連中の事を「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びます。

ですが、彼らがいくら共産主義社会を実現しようとしても当然それが実現するわけがありません。では、「共産主義社会」でも「帝政・王政・貴族政」でもなく、「資本主義社会」でもない社会の事をなんと呼ぶのか。

それが「社会主義社会」です。

ビスマルクと5度対談し、自らの理想を彼に語ったフェルディナンド=ラッサールは国家と市民が協力してこの「社会主義社会」を作り上げようとしましたし、ビスマルクはラッサールの目指した福祉社会の実現を国家が自ら実現しようとし、そんな社会の在り方を「国家社会主義」と呼びました。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

「匕首(ひしゅ)伝説」そのものについては前回の記事でも話題にしました。

当時のドイツ国民の中にはやはり左翼的な考え方よりもビスマルクによって形作られた「ドイツ帝国」の国民として、皇帝ヴィルヘルム1世の臣下としての誇りの方が大きかったのではないかと思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークを、普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを立て続けに破り、あのマルクスですらその快進撃に快哉を叫んだほどでしたから。


ヴィルヘルム二世によって破壊されたビスマルク体制

ですが、私のブログでさんざんお伝えしている通り、ヴィルヘルム一世の後を継いだ(正確には一世の息子であるフリードリヒ三世の後を継いだ)ヴィルヘルム二世はそんなビスマルクの功績を悉く破壊していきました。

ビスマルクの目的は、プロイセン内やその周辺で革命を起こさせないこと。国家を安定させ、国民が安心して生活を送ることのできる社会を作ることにありました。

ビスマルクが統一するまでのドイツでは、お隣、フランスの影響を受け、プロイセンをはじめとする北ドイツではブルジョワたちが「民族性」ではなく、「経済的な自由」を求めて「自由主義革命」を起こそうとする動きが、逆に南ドイツ最大の大国であったオーストリアでは、自国内に抱え込んだマジャール人やスラブ人が「民族主義革命」を起こそうとする動きがありました。

ビスマルクは、プロイセンをそんな革命運動に巻き込みたくなかったんですね。

結果としてデンマーク、オーストリア、フランスを相手にそれぞれ戦争を起こし、これを北ドイツとドイツ全体の統一に利用し、ドイツ諸国をプロイセンと同じ法制度の下で管理しようとしたわけです。

ドイツ統一後は当然、争いの場を広げるだけにしかなりませんから、植民地政策はとろうとしませんでしたし、ドイツ統一のために自分自身がフランスを利用したことを自覚しているからフランスが他国と同盟関係を結ぶことをできない状況を作ることにこだわり続けました。

「フランス孤立化政策」が所謂ビスマルク体制の根幹だったはずなのです。

ところが、ヴィルヘルム二世は誇りあるドイツの領土が他国に比べて狭いことを不満に感じており、「世界政策」の名の下、世界一の領土を目指し、一気に植民地政策に打って出ました。(北清事変の元となった山東省の植民地化はその象徴です)

また更に、元々仲の悪かったロシアとオーストリアの内、同じ民族であるオーストリアを大事にし、ロシアとの同盟関係を解消。ビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスと同盟関係を結びました。(ドイツは西をフランス、東をロシアに挟まれる位置にあります)


社会主義者の危険性を無視したヴィルヘルム二世

ビスマルクは、普仏戦争末期、ドイツ統一の目的を果たし、普仏戦争を終結させようとしていました。

ビスマルクは普仏戦争を利用して、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国のナショナリズムを煽り、統一ドイツ=ドイツ帝国を誕生させたわけですが、一方のフランスでは、新政府がクーデターを起こし、帝政ナポレオン三世政府を崩壊させ、「国防政府」が出来上がっていました。

ところが、共産主義者たちにとってこの革命は所謂「ブルジョワ革命」にすぎません。彼らが次に目指すのは当然「プロレタリア革命」。

フランスではドイツとは真逆の動きが巻き起こりました。

敗戦同然のフランスでフランスのプロレタリアによるプロレタリア革命、「パリコミューン革命」が勃発。国防政府はヴェルサイユから逃亡し、「パリコミューン政府」が誕生しました。パリコミューン政府は国防政府軍によって崩壊し、革命を起こしたパリ市民は大虐殺されることとなるわけですが、パリコミューン政府の樹立はにわかにドイツ帝国内の社会主義者たちを活気づけることとなります。

普仏戦争を利用し、ドイツを統一することでせっかくプロイセンに安定がもたらされることとなったのに、「自由主義者」よりも「民族主義者」よりも危険な「社会主義者」がその姿を現したのです。

この事から、ビスマルクは「民族主義者」の象徴ともいえるドイツ中央党と和解してまでも社会主義者の鎮圧に乗り出しました。

ところが、ヴィルヘルム二世は権力欲に取りつかれた取り巻きの自由主義者たちにそそのかされ、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止。ビスマルクを政治の表舞台から追い出してしまいます。


ナポレオン三世政府の崩壊とヴィルヘルム二世政府の崩壊

いかがでしょうか?

このようにしてみてみると、普仏戦争によって帝政ナポレオン三世政府が崩壊した様子と第一次世界大戦によって帝政ヴィルヘルム二世政府が崩壊する様子は非常によく似ているように思えませんか?

戦争そのもの趨勢はともかく、結果的に社会主義者たちのクーデターによって帝政政府が崩壊し、更にプロレタリア革命が勃発することでその新政府もまた、短期間とはいえ崩壊し、プロレタリア独裁政府の樹立を許しています。

また更に、プロレタリア独裁政府によって政権の座を追われたブルジョワ政府が再び軍を起こしてプロレタリア独裁政府を壊滅させ、関わったものを虐殺するところまで酷似しています。

ドイツではそのあとさらに右翼陣営によるクーデターと左翼によるクーデターが連続して起こり、国家全体が「右翼化」していくこととなります。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

では、このように遡って考えてみますと、第一次世界大戦でドイツはなぜ敗北したのか。

何となくその理由が見えてきそうですね。

ヴィルヘルム二世がもし「世界政策」なる妄想に取りつかれず、ビスマルク体制を維持していれば、ドイツが対露開戦に追い込まれるようなことはなかったかもしれません。

その根源となった「バルカン問題」ですら表面化させることなく鎮静化させ続けていたかもしれません。

それ以上にもしヴィルヘルム二世が「社会主義者鎮圧法」を廃止せず、維持し続けていたとしたら、最終的にクーデターによってヴィルヘルム二世政府が崩壊させられるところまでいかなかったかもしれないですよね。

そもそも社会主義的な考え方がドイツ国内に蔓延することを事前に防ぐこともできていたかもしれないですね。

私は、もしビスマルク後のドイツの指導者がヴィルヘルム二世でなければ、第一次世界大戦はおろか、後の第二次世界大戦すら発生しなかったのではないかと思っています。

しかし、第一次世界大戦敗戦後のドイツ国民は、そんなヴィルヘルム二世の事を批判することをせず、第一次世界大戦にドイツが負けたのは「左翼のせいである」と考えたのです。

あいつらが革命さえ起こさなければ、ドイツがフランスに負けることはなかった、と。

ですが、一つだけ確実なことがあります。それは、ビスマルクの政策をすべて排除したドイツには、結果的にビスマルクが危惧した通りの社会。つまり、「普仏戦争末期のフランスがたどった通りの社会」が訪れたのだという事です。


「アドルフ・ヒトラー」の考え方の根底にあるもの

さて、私、ようやく「我が闘争」の上巻を辛うじて「読破」することができました。今下巻に目を通していますが、下巻を読破するにはまだまだ時間が必要ですね。

アドルフ・ヒトラー


ヒットラーは、私が本日記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方をそのまま彼自身の政策に反映していくことになります。

私が本日の記事で、「匕首(ひしゅ)伝説」を、私の過去の記事にまでさかのぼって深めてみたのは、そこへの伏線だと思っていただければと思います。

次回記事では、そんな「我が闘争」の上巻を読んだ後、私が私なりに読み解いた「アドルフ・ヒトラー」という人物の人物像に迫っていきたいと思います。





このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

私自身の多忙さと年金の話題を挟みましたので、少し和数が飛びましたが、改めて ドイツ近代史のシリーズ を再開してみたいと思います。

時系列的には 第468回の記事 でスパルタクス団蜂起について記した上で、当時のドイツの共産主義の象徴であったカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクが処刑されたことを、第471回の記事 で戦後ドイツでハイパーインフレーションをもたらす直因となった「ヴェルサイユ条約」について、第475回の記事 で「ナチス政権を誕生させることなった」ワイマール憲法について記事にしました。

時系列的に記しますと、

1919年1月5日 スパルタクス団蜂起
1919年1月15日 リープクネヒトとルクセンブルク、処刑
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1919年8月11日 ワイマール憲法制定
1919年8月14日 ワイマール憲法公布・施行
1920年1月10日 ヴェルサイユ条約発効
1923年1月 フランス・ベルギーによるルール占領

このような流れになります。スパルタクス団はその残党により、3月にも暴動を起こすのですが、1月の蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケにより鎮圧。

グスタフは更に1919年4月6日にバイエルンで樹立した「バイエルン・レーテ共和国」も打倒します。(1919年5月3日)


バイエルン・レーテ共和国とアドルフ・ヒトラー

バイエルン・レーテ共和国の面白いところは、非常に短期間の間に「ブルジョワによる革命」→「プロレタリアによる革命」という経緯をたどっているという事。

一応、皆様ご存じだとは思いますが、ドイツにおけるバイエルンの位置はこちらです。

バイエルン州


バイエルン共和国の誕生

バイエルンにおける革命は三度発生しているようで、まずは1918年11月7日夜半。「バイエルン王国」であった時代に、独立社会民主党の指導者であるクルト・アイスナーがバイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ王家の廃止とバイエルン共和国の樹立を宣言。

ベルリンでフィリップ・シャイデマンがドイツ共和国樹立を宣言したのが1918年11月9日ですから、それに先駆けてバイエルン共和国が誕生したことになります。

アイスナーの特徴的だったのは、ベルリン政府(プロイセン)に対して反発的な姿勢を見せた事。

バイエルンは、普仏戦争によってビスマルクがドイツを統一 した後も、法制度的にはプロイセンには合流せず、「自由都市」としての立場を貫きましたね?

第426回の記事 で、元々南ドイツには北ドイツとの統合に否定的な「分離主義者」が多かったことを記しました。

ビスマルク自身もそれを認識していて、南ドイツで主に信仰されていたカトリック。その信者によって構成されていた「ドイツ中央党」の動きを抑えることを目的としてカトリックを弾圧していました。(文化闘争)

しかし、1873年恐慌の勃発を受け、自由貿易から保護貿易への転換が必要であると直感したビスマルクは、中央党を味方に引き入れるため、中央党との和解を図ることとなりました。

このような経緯から見てもご理解いただけると思いますが、バイエルン人の中には元々プロイセンに対する反発心が内在していたんですね。自分たちは「ドイツ人」ではなく「バイエルン人」である、と。

ですから、第一次世界大戦に対しても、「プロイセン王(ヴィルヘルム二世)が勝手に起こした戦争」であり、バイエルンがこれに巻き込まれたという意識を持っていた人も少なくはなかったわけです。

ただ、アイスナー自身も確かに独立社会民主党の党員であったものの、共産主義者たちが目指す「プロレタリア独裁政府の誕生」とは距離を取っていて、このようなアイスナーのあいまいな姿勢は社会主義者たちからも反発を買うことになりました。

アイスナーを支持した社会主義者たちは彼の下から離反し、代わりに1919年1月の選挙では、カトリックによって構成される保守的な「バイエルン人民党」が第一党となり、独立社会民主党はわずか3議席しか取れずに敗北。アイスナー自身は右派の青年将校によって暗殺されてしまいます。

しかし、この暗殺事件がかえって独立社会民主党と社会民主党の結束を深め、政権を維持することとなりました。


バイエルン=レーテ共和国の誕生

独立社会民主党と社会民主党が結束を深め、政権を維持することとなったわけですが、アイスナーから離反し、共産党を結成した面々や、その他の左派連中からはこの事が好ましくは思われませんでした。

そして1919年4月6日、独立社会民主党のエルンスト・トラーと無政府主義者(アナキスト)のグスタフ・ランダウアーが中心となって革命が勃発。首相であった社会民主党ヨハネス・ホフマンはミュンヘンを追われ、バイエルン・レーテ共和国が誕生しました。

ですが、更にその1週間後、今度はこの事に不満を持った共産党が、ロシア出身のオイゲン・レヴィーネを中心としてエルンスト・トラーらが作ったレーテ共和国を打倒。改めてバイエルン・レーテ共和国の樹立が宣言されました。

共産主義者の理想は

1.ブルジョワ革命による貴族政権の打倒
→2.プロレタリア革命によるブルジョワ政権の打倒
→3.プロレタリアによる独裁政権の樹立

にあるわけですから、これほど理想的な共産主義政権の誕生の仕方はありません。

当時はロシアでレーニンらによるソビエト政権が誕生した直後で、第三インターナショナル(コミンテルン)が樹立され、世界中で共産主義革命を起こすこと(世界革命)が目論まれていましたから、レーニンらにとってみればこれは快哉を叫ぶ思いだったかと思います。


政治家、アドルフ・ヒトラーの登場

さて、このようにロシア共産党(コミンテルン)に指導される形で、「ドイツ共産党」の主導で誕生した「バイエルン・レーテ共和国」。

当然その運営は「レーテ(評議会)」によって行われます。

バイエルン・レーテ共和国が誕生したのは1919年4月13日。その2日後、4月15日に、ミュンヘンのレーテ予備大隊評議員の選挙が行われました。

この時、当選者の一人として名前があったのがあの「アドルフ・ヒトラー」です。

アドルフ・ヒトラー

ヒットラーが初めて政治の場に姿を現した瞬間でもありました。


バイエルン・レーテ共和国の滅亡

さて。このようにして誕生した「バイエルン・レーテ共和国」ですが、冒頭にも記しました通り、ドイツ国中央政府のグスタフ・ノスケ国防相率いるワイマール共和国軍他、ドイツ義勇軍によって1919年5月1日~5月3日の3日間にかけてあっという間に占領されてしまいます。

崩壊する寸前、共産党は人質としてとらえた人々を虐殺。その後、レーテ共和国は滅亡します。

その後、政権は再び共産党によってミュンヘンから追い出されたはずのヨハネス・ホフマンの下へと戻ることになるのですが、政権は事実上、中央政府軍の下に置かれることとなります。

で、その占領軍による「レーテ共和国にかかわったもの似たいする」「残虐行為」が多発したのだとか・・・。

ロシアからやってきたオイゲン・レヴィーネは7月5日に処刑。エルンスト・トラーは1925年まで投獄されることとなりました。

一方、この時ヒットラーは占領軍により「革命調査委員会」の委員として任命されます。革命調査委員会に、クーデターの最中に政治活動をしていた人物に共産主義の傾向があるかどうかを調べる役割が与えられていました。

ヒットラーは、この時の働きが認められて「帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊」に配属されることとなりました。


この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

次回記事では、第351回の記事 と多少話題が重なるのですが、この後、ベルリンで起きる「カップ一揆」以降の話題を深めていきたいと思います。


次回備忘録 ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ

このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

第468回の記事 では、敗戦後のドイツ社会主義について、第351回の記事 及び 第354回の記事 で話題にしたことを理由に、これ以上追いかけることはしない、と記したのですが、ベーベルとリープクネヒトが処刑された後のドイツ。

「右傾化」が進んでいくわけですが、社会主義ではなく、「右傾化」について、その様子を改めてドイツのシリーズでも記事にしていきたいと思います。

その中でも、今回は「ワイマール憲法」にポイントを絞って記事にしたいと思います。


ワイマール憲法の成立

ワイマール憲法

個人的に、いつ成立したんだろう・・・と思っていたこのワイマール憲法。成立はスパルタクス団蜂起の結果ベーベルとリープクネヒトが処刑された1919年と同じ年の7月末。公布されたのが8月11日でした。

第468回の記事 で少し話題にしましたが、元々独立社会民主党がレーテによる独裁を目的として結成した「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」。

この評議会を中心として開催されたはずの「大レーテ大会(ドイツ全土の「レーテ」が集まって開催された大会)」において、独立社会民主党ではなく、「社会民主党」が多数派を占める「レーテ大会」が全権力を掌握することとなり、また更に同大会において1919年1月19日、「国民議会選挙」が開催されることが決定されました。

その後、「スパルタクス団蜂起」が勃発するわけですが、右派義勇軍(フライコール)が結成され、全権を委任された国防大臣「グスタフ・ノスケ」の下、同蜂起は鎮圧。

大レーテ大会にて決定した通り、1月19日の「国民議会選挙」は予定通り開催されました。

同選挙において政権第一党となったのは社会民主党(得票率37.9%)、第二党が中央党(同19.7%)、第三党がドイツ民主党(同18.6%)で、この3党が連立政府を形成しました。

この時の投票率は82.7%だったんだそうですよ。すごいですね。

ちなみに第4党がドイツ国家人民党、第5党が独立社会民主党、第6党がドイツ人民党。共産党は選挙そのものをボイコットしたのだそうです。

この選挙ではドイツで初めて比例代表制が採用されたほか、女性の参政権も求められたのだそうです。

選挙権年齢も25歳から20歳に引き下げられ、議席も人口が集中している地域に多く配分されるようになったのだそうです。現在の日本の選挙制度ととてもよく似ていますね。

2月11日には元々社会民主党党首であり、選挙前の共和制政府の首相であったエーベルトが大統領として選出されました。

エーベルトはドイツ革命時、勝手に共和制政府の樹立を宣言したシャイデマンを首相として指名しました。

その結果、採択されたのが「ワイマール憲法」です。

ワイマール憲法の事。私は一度記事にしたいとずっと考えていました。ですが、私自身がワイマール憲法について論じるほどの十分な知識を有していませんでしたし、ワイマール憲法成立に至った流れを十分に把握するも至っていませんでした。

その背景も知りませんでしたし、だからこそ私自身がこの話題を記事にすることはありませんでした。

「この話題」何のことを言っているのか、ページタイトルからご推察いただけると思います。そう。以下の動画で麻生さんがおっしゃった、「ワイマール憲法」と「あの手口」に関する話題です。




一番最初に申し上げたように、うわぁっとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で、決めてほしくない。

ちょっと皆さんよく、落ち着いて。我々を取り巻く環境は何なんだと、この状況をよく見てくださいと、いう世論というものの上に憲法改正というものは成し遂げられるべきなんだと。そうしないと間違ったものになりかねないということを思うわけです。

最後に、僕は今、3分の2っていう話がよく出てきますけど、じゃあ伺いますが、ドイツは、ヒトラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。

ヒトラーっていったらいかにも軍事力でとったような形、全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違えんでくださいよこれ。

そして、彼はきちんとワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきたんだから。だから常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。

ここはよくよく頭に入れておかないといけないんあって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから。

私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。

ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。

この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。

しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。

そのときに喧々諤々、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。

『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。

ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。

何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

僕は4月28日、忘れもしません、4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、言って、月曜日だったかなぁ。靖国神社に連れて行かれましたよ。それが私が初めて靖国神社に参拝した記憶です。

それから今日まで、結構年食ってからも毎年1回、必ず行っていると思いますけれども、そういったようなもんで行ったときに、わーわー、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか、これは。

昔はみんな静かに行っておられましたよ。各総理もみんな行っておられたんですよ、これは。いつから騒ぎにしたんです。マスコミですよ。違いますかね?(大きな拍手)

いつのときからか、騒ぎになった。と、私は思う。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。いうんで、憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。

もうちょっと、わーわー騒がないで。

本当に、みんないい憲法と、いや言って、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。だから、ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんし、しかし、私どもはこういった物は重ねて言いますが、喧噪の中で決めないでほしい。

「ヒットラー」という人物について私が論じるのは、第471回の記事 でもお伝えしましたように、彼自身の著書である「我が闘争」。

この上下巻を読破してからにしようと思っています。

現時点ではまだ上巻の3/4程度までしか読めていません。ですが、ヒットラーという人物の為人についてはおぼろげながら把握しつつある、という状況だと現時点では思っています。

「ワイマール憲法」が成立した後の経緯についてもこれから学んでいこうとは思っているのですが、その上で、前記した麻生さんの発言について、本日は話題にしていきたいと思います。



麻生発言のポイント

多くの人が勘違いしていて、マスコミや野党陣営が必死に印象操作に利用した部分が麻生さんの発言の内

 憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね

という部分だと思います。

麻生さんの発言の内、着目していただきたい部分は、実は二つありまして、一つ目が次の部分。

 ①ここはよくよく頭に入れておかないといけないんあって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから。

という部分です。この言葉がどういった表現に続いて登場しているのかと申しますと、以下の通り。

 ②ドイツは、ヒトラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。

ヒトラーっていったらいかにも軍事力でとったような形、全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違えんでくださいよこれ。

そして、彼はきちんとワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきたんだから。だから常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。


麻生さんはこのスピーチを、どちらかというと麻生さんを支持する層。そして、憲法を改正すべきだと考える人たちに向けて行っています。

ですから、①についても、②についても、それは憲法を改正すべきだと考える人たちに向けて発信しているメッセージだということがわかります。


「ワイマール憲法」はどのようにして「ナチス憲法」へと変化していったのか

ワイマール憲法の中身にまで詳細に触れることはしませんが、麻生さん自身も言っているように、「ワイマール憲法」とは、「当時は世界で最も民主的な憲法とされ」ていて、第1条において「国民主権」が規定されていたり、その他「114、115、117、118、123、124、153」の条文では「基本的人権」が規定されていたりします。

ですが、この憲法で問題があったのは

「公安に著しい障害が生じ或いはその虞がある時は、大統領は障害回復のために必要な措置を取り、また武力介入が出来る。このために大統領は基本的人権を一時的に停止出来る」

との条文が含まれていたり、体制として大統領制がとられていて、大統領には「憲法停止の非常大権などの強大な権限」が与えられていたこと。

そして、大統領は、「国家宰相(首相)の任免を行う」ことができました。

大統領制をとっていましたが、大統領にはかつての「皇帝」のような役割が充てられていたんですね。

と言っても、このような制度は現在の米国などにも存在しますよね?

これに対し、麻生さんは

『私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから』

と言及しているわけです。つまり、同じ「憲法」でも、それはこれを運営する側によっていかようにでも変化していくことを指摘しているんです。

当時世界一民主的だと言われたワイマール憲法でさえ、これを運用する側の判断によって、最終的には「ナチス憲法」へと姿を変えてしまったわけですから。

「ナチス憲法」に姿を変える経緯としては、

1.世界恐慌の勃発による、社会民主党内閣の辞任
2.ヒンデンブルク大統領の「大統領緊急命令権」の発動。議会内少数派の首相就任(議院内閣制の停止:1930年)
3.1933年1月、ヒットラー内閣の誕生(ヒンデンブルク大統領の任命による)
4.国会議事堂放火事件の勃発(ヒットラーはこれを共産党員の仕業であると断定)
5.大統領により「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」の発令(対共産党員:基本的人権の停止)
6.社会民主党議員の議会からの追放、及び弾圧
7.全権委任法の成立

という流れです。詳細は後日記事にします。

5~7は事実上ヒットラーによって行われたものですが、やり方としますと、ビスマルクによって「社会主義者鎮圧法」が実行された経緯 と非常によく似ていますね?

まだ途中ではありますが、「我が闘争」に記されている内容を見てみますと、ヒットラーの目指した「社会」とは、ビスマルク体制下、ヴィルヘルム1世の時代のドイツ帝国を復活させることにあったのではないか、と思われる節が多々見られます。

今回は麻生さんのスピーチを分析することを目的としていますので、この事について多く言及することは控えますが、多分、ビスマルクが行った「社会主義者鎮圧法」を批判する人は、そう多くはないのではないかと思います。

ではヒットラーの取った行為はどうでしょうか? ビスマルクの時は何も批判しなかったのに、ヒットラーの仕業になると急に批判に転じている人はいませんか?

そういった視点で、例えばネット上の記述なども見てみると少し違った見方ができるのではないかと考えています。


話が逸れましたが、ワイマール憲法が「ナチス憲法」へと変質していく過程が、「うわぁっとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で」進んでいっているように見えませんか?

また、このようなやり方を積極的に推し進めたのがあたかもヒットラーであるかのように見えてしまいますが、実はヒットラーが権力の座に就く以前より、大統領となったヒンデンブルクは「大統領緊急命令」を多用することで政権を運営していました。

そして、何よりドイツ国民は既に「議会制民主主義」に対して失望しており、大衆はヒンデンブルクのこのような権威主義的な政権運営を支持していました。

ここを一つ、押さえておきたいと思います。


改憲論者への忠告とマスコミ批判

もう一つ、着目していただきたいの以下のフレーズです。

 ③本当に、みんないい憲法と、いや言って、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。だから、ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんし、しかし、私どもはこういった物は重ねて言いますが、喧噪の中で決めないでほしい。

このフレーズを、「ナチス憲法が、みんないい憲法だと納得して成立したんだ」と勘違いしている人も多いのではないでしょうか?

ですが、ここでいう「憲法」とは、「ナチス憲法」のことではなく、「ワイマール憲法」のことです。

そして「変わった」というのは「全権委任法」がワイマール憲法下で国会審議を通過したということ。憲法に賛成した政党は、

「国家社会主義ドイツ労働者党(所謂ナチス)」、「ドイツ国家人民党」、「中央党」、「バイエルン人民党」、「ドイツ国家党」、「キリスト教社会人民運動」、「ドイツ人民党」、「ドイツ農民党」、「ドイツ農民連盟」の合計9つの政党で、合計441の投票数。

唯一反対したのがドイツ社会民主党でしたが、その票数は94票。

441票対94票で「全権委任法」は成立し、「ワイマール憲法」は「ナチス憲法」へと姿を変えたのです。

ここは私の推測ですが、この時ドイツの「マスコミ」、即ち新聞社は大騒ぎしていたんじゃないでしょうか?

いつのときからか、騒ぎになった。と、私は思う。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。

だから、静かにやろうやと。いうんで、憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。

だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。

「全権委任法」が成立したとき、ドイツの憲法の名前は、「ワイマール憲法」という名称でした。

「ナチス憲法」などという名称ではありません。

ですが、「ワイマール憲法」を成立させたのは「全権委任法」の成立に反対したはずの社会民主党を中心とした政党です。

「ワイマール憲法」は気が付いた時には、いつの間にか「ナチス憲法」へと姿を変えていたわけです。


 あの手口に学んだらどうかね

という麻生さんの言葉は、ほかでもありません。靖国参拝を「わーわー、わーわー」と「騒ぎ」にしてしまった、マスコミに向けて放たれた言葉です。マスコミと、おそらく「野党陣営」に対しても。

麻生さんは、きっとこういったドイツの歴史を非常によくご存じなのでしょう。ですが、このようなドイツの歴史を全く理解していない連中が、浅はかな知識で麻生さんの歴史解釈を批判し、「イデオロギーの攻撃」のために利用する。

無知なのはどちらかと、私は本当に訴えたい!


 我々を取り巻く環境は何なんだと、この状況をよく見てくださいと、いう世論というものの上に憲法改正というものは成し遂げられるべきなんだと。そうしないと間違ったものになりかねないということを思うわけです。

という麻生さんの言葉って本当に重いと思います。

現時点で、安倍さんは憲法9条に対して、第3条を書き加える、「加憲」という方法で妥協せざるを得なくなっています。

なぜでしょう? 真剣に議論して、自民党は自民党として、良し悪しは別として、きちんとした「改憲案」を持っているにも関わらずです。

「わーわー、わーわー」と騒ぎ立てる人たちがいるからですよ。

マスコミはまた、同じ歴史を繰り返したいんでしょうか?


この批判は、私がこれから記していく記事の中でも多々、登場することとなると思います。

ハッキリ言えば、「第二次世界大戦」という大惨事を引き起こした最大の理由は、敢えてこの言葉を用いますが、「左翼」と「マスコミ」の存在があったからです。

もちろん、人間にも、社会にも、国家にも様々な失敗を経て、成長する必要がありますから、そういう時代もまた必要だったのだと思います。

ですが、であればその失敗を糧に、人間は成長する必要があるのではないでしょうか?

ですが、あれほどの大惨事を引き起こしたにもかかわらず、未だに成長せず、前時代的な思考のまま固まっているのが「マスコミ」と「左翼」です。これはつくづく思います。

今更何を言っているんだと思う方もたくさんいらっしゃると思いますが、このシリーズのクライマックスに向けて、これから作成していく記事の中で、徐々にその理由をご理解いただけるようになると思います。

次回記事では、更に第一次世界大戦後ドイツの「右傾化」について記事を進めていければと思っています。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第468回 ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトの処刑~スパルタクス団蜂起とその結末

第456回 までの記事で、ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由を外交的な見地から、前回 までの記事で第一次世界大戦について「ドイツ国内の社会主義」という見地からそれぞれ記事にしてみました。

ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? というシリーズタイトルの話題に対して、

 1.「ドイツ」とは何か
 2.「オーストリア」の誕生
 3.ライン同盟結成までの「ドイツ」
 4.フランス二月革命とウィーン二月革命
 5.ウィーン体制と「ドイツ連邦」
 6.ドイツ関税同盟から見る「ドイツ」(大ドイツ主義と小ドイツ主義)
 7.ビスマルクの登場後のドイツ(シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争→普墺戦争→普仏戦争)
 8.ビスマルクとドイツ帝国
 9.ドイツ国内における社会主義
 10.ビスマルクの失脚とその後のドイツ

といった流れで私のブログ風に言えば「解析」を行った後、前記した「外交的な見地から見るドイツが第一次世界大戦に参戦した理由」、そして「ドイツ国内の社会主義から見る第一次世界大戦」についてそれぞれ「解析」を行った感じになると思います。

わからないなりに調査し、裏付けを行い続けることでここまで深めていったシリーズですが、結果論からすると、これは非常に理にかなった方法であったと自負しています。

これは、現在私が書籍を購入して読んでいる、アドルフ・ヒットラーの「我が闘争」。これを読んでみた実感です。



念のために言っておきますが、もちろん私は無批判にヒットラーのことを礼賛することを目的としてこの記事やブログを作成しているわけではありません。あくまでも「客観的な」資料として用いるためにこの話題を記しています。

もし今すぐこの本を読みたいという方向けには、国立国会図書館デジタルコレクション のページからも読むことができます。

ただし、旧仮名遣いになっていますし、1ページ1ページクリックしてみていく必要がありますので、まあまあ読みにくいです。

私は上巻の前半までネット上で読んだのですが、特にiPhoneですとあまりに読みにくく、したがってPC上で読む必要があったため、中々読むための時間が作りにくかったことから、敢えて書籍を購入いたしました。

シリーズの最終目的であるこの「ヒットラー」という人物を記事にするには、まずこの人物のパーソナリティや考え方を理解する必要がある、と考えたがこの書籍を読むに至った理由です。そうしないとわからないと思ったんですよね。

現在はまだ上巻の後半部分を読み始めたばかりですので、まだその全体を把握しているわけではありませんが、上巻の前半部分を読んでみてまず感じた気持ちは、この本を読破するには、とある「前提条件」がいるということ。

そう。先ほど私が記したドイツの「近代にいたるまでの歴史」。これをハッキリと頭の中に入れた上でなくてはこれはまず読めないなと思いました。

内容に関する共感まで含めた「批判」は今後の記事で随時行っていくこととして、中世~近代までのドイツの歴史を先に学んでいなければ、言葉として理解できない、つまり解釈することが不可能であったり、誤った判断や受け止め方をしてしまうのではないかと感じる部分が大量にあるということ。

で、その内容でヒットラーを自分のそれまでの知識を前提に批判してしまい、疲れて全文を読まぬままに終わってしまいそうな、そんな感覚を非常に覚える内容です。

特に新聞やテレビ報道といった媒体に偏った情報収集を行っている皆さんにとってはそうだと思います。

この文章の中で彼はユダヤ人批判を行っているわけですが、この「ユダヤ人」という文字を、(批判を恐れずに言いますと)「韓国人」という言葉に変えて読むと、まるで現在の日本について語っているのではないかと錯覚するような内容です。

これ以上記すとあまりに差別的な内容になってしまいそうなので、「この話題」についてはこの場所でしか触れないつもりでいます。が・・・ひょっとすると後日触れることもあるかもしれません。(多分、触れます。)

ということで前置きはここまで。本題に入ります。


「ヴェルサイユ条約」に触れたいと思った理由

ヴェルサイユ条約って、その後の日本の歴史にも関わっていく実は大きな「ターニングポイント」であったりします。

日本のサイドから言えば、この「ヴェルサイユ条約」に中華民国側の意見が取り入れられなかったため、中華民国は条約に反発し、これに批准することはありませんでした。

詳しくは、

第124回 五四運動以降の中国(北洋政府)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~ をご参照ください。

ざっくりとした概要としては、第一次世界大戦において日本は対独参戦をする折、ドイツが植民地化している中国の山東省を解放することを大義名分としており、実際にドイツ軍を撃破し、この地をドイツから奪還し、一時的に領有することとなりました。

この時中国の大統領であった袁世凱は「ドイツとの約束でこの土地をドイツ以外の国は領有することができないことになっている」事を理由に、日本に対して領有をすぐさま中止し、中華民国に返還することを要求するのですが、日本はドイツ相手に戦争をしているのであり、講和条約が締結され、日本が正式にドイツから山東省を取得するまで待ってほしい、と伝えます。

ですが、袁世凱はこれを聞き入れようとせず、賠償問題にまで発展しかねない状況が生まれたため、日本は当時孫文と話し合っていた内容を基に袁世凱に対して、所謂 対華21か条の要求 を行い特に山東省に対しては

・ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること

・山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと

・芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと

・山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること

という「要求」を行い、最終的にこれを認めさせます。

これに対して中華民国は講和条約において、日本が中華民国に山東省を返還することを盛り込むよう要求するのですが、当然完全無視されます。ヴェルサイユ条約は戦勝国から戦敗国に対する「講和条約」で、日本は「戦勝国」。

大戦において日本が戦っていた相手はドイツであり中華民国ではありませんから、当然の結果です。

で、同条約ではイギリスやフランス、アメリカからすればドイツの扱い方をどうするのかということを問題にしていますから、はっきり言って中華民国「ごとき」の片田舎の事なんぞどうでもよいわけです。後は日本との間で勝手にやってくれ、とこうなります。

ただ、実際にはこの後日本とアメリカを中心に締結された「九カ国条約」において日本から中華民国に山東省は正式に返還されることとなるわけですが。


「ヴェルサイユ条約」と「ハイパーインフレーション」

ですが。今回の記事のメインターゲットはこちら。

皆さんは、「ハイパーインフレーション」という言葉を時々耳にすることがあると思います。

私のブログでも、 第28回の記事 などで時々話題にしていますね。

経済学者のフィリップ・ケーガン氏の説によれば、「1ヵ月に50%を超える物価上昇をハイパーインフレの始まりとし、月間物価上昇率がそれを下回る期間が1年以上」続くことを「ハイパーインフレ」と呼ぶのだそうです。

私もずっとこの立場をとってきたのですが、国際会計基準の定めによりますと、「3年間で累積100%以上の物価上昇」をハイパーインフレと定義づけているのだそうです。

Wikiベースですが、日本の戦後で見ますと、「日本銀行の調査によれば、1934-1936年の消費者物価指数を1とした場合、1954年は301.8となった」(大東亜戦争の終結が1945年)とありますが、これも18年間での話ですから、さすがに「ハイパーインフレ」とは言えないかと思います。

さて。そんな滅多に起きることのない「ハイパーインフレ」。事例としてよく挙げられるのが 第28回の記事 でも話題にしました、「ジンバブエ」の事例ともう一つ、今回話題にするドイツの話題です。

ヴェルサイユ条約は基本的にアメリカが中心となって成立させたもので、この条約により「国際連盟」も誕生しました。

で、この内今回のテーマで問題となるのはドイツの「賠償責任」について定めた部分、同条約231条です。

231条
 連合国政府は、ドイツとその同盟国による侵略により強いられた戦争の結果として連合国政府、及びその国民が被ったあらゆる損失と損害を引き起こしたことに対し、ドイツとその同盟国に責任があることを確認し、ドイツはそれを承諾する。

232条
 連合国は本条約の他の条項によってもたらされる恒久的な資産の減少を考慮すると、そのような損失と損害を埋め合わせるのは 十分な資産をドイツは持ち合わせていないことを認識している。
 しかしながら連合国は、各国が連合国の一員としてドイツと交戦していた期間に、陸海空からのドイツの侵略によって連合国の民間人とその財産に対して与えられたあらゆる損害、及び本条項の付属書Ⅰに定められているすべての損害に対する賠償を要求し、ドイツはそれを承諾する。

まとめますと、

1.ドイツとその同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマントルコ)は戦争を起こして対戦相手国の国民に対してたくさんの損害を与えたことをドイツは認めます。

2.連合国側も、ドイツが将来にわたって発生する損害まで賠償するだけの資産を持っていないことは理解しています。
  けれども、戦争中に対戦相手国国民に対して与えたあらゆる損害を賠償しなければならないことをドイツは認めます。

という内容ですね。

個人的な感想ですが、第一次世界大戦に関しては、はっきり言ってドイツが悪いと思います。ロシアに対して戦争を起こすことについては同盟国であるオーストリアを支援するという立派な大義名分があると思います。

ですが、そのために、つまりはロシアに勝利するためという理由で無関係なフランスに攻め込み、更にその進行方向にあるベルギーにまでも攻め込んだわけです。

更に事前の調査不足でロシアの戦力に対する見通しも甘すぎました。はっきり言えば自業自得です。

で、今回損害賠償を要求される相手となったのはそのフランスとベルギーです。特にベルギーは無関係すぎますよね。

ロシアと同盟関係にあったのはフランスでベルギーじゃありませんから。通り道にあって邪魔だから攻め込みますよ、と一方的に攻め込まれたのがベルギーです。で、この事でイギリスにまで宣戦布告するための口実を与えてしまったのです。

その元凶はヴィルヘルム二世。

冒頭に取り上げたヒットラーは「我が闘争」において、

「せめて日本がロシアに対して日露戦争を起こしたときにイギリスと協力してロシアに攻め込んでいたら、まず世界大戦になることはなかったよね」

とも言及しています。ヴィルヘルム二世はヒットラーの発想とは真逆で、日露戦争が勃発する前に中華民国山東省のキリスト教宣教師殺害事件に言いがかりをつけて山東省に攻め込み、山東省を植民地化しています。中華民国ではこれが理由で義和団事件から北清事変まで発展しているわけです。

北清事変中にロシアは勝手に満州を占領し、ここから撤退しなかったことが原因で日露戦争が勃発しました。

北清事変の時の芝五郎という人物の活躍に感動したイギリスは日本と同盟関係を結び、日露戦争の時は直接ではないものの、間接的に日本の勝利に貢献しています。

ビスマルクであればまず山東省を植民地化したりはしていないでしょうが、それでも植民地化してしまったことを前提として考えるのであれば、ひょっとしたらヒットラーと同じ発想をしていたかもしれません。

どこまで遡っても元凶はヴィルヘルム二世以外に存在しません。それでなくてもフランスは普仏戦争でビスマルクにぼろ負けして腹が煮えくり返るような思いをしてましたし、更に国内の人材が枯渇。味方はオーストリアしかいませんでしたし。

我が闘争を読んでみますと、ドイツ国内で社会主義者たちがのさばっていく理由も、特にイギリスによる「宣伝工作」の影響が大きかった様です。

ということで元凶はヴィルヘルム二世にあり、フランスやベルギーは「巻き込まれた」だけですから、両国に賠償しなければならないのは当然の話でしょう。

と、ここまでは私の感情を込めてみました。だってどう考えたってそうでしょう、と。


ドイツが課せられた「賠償責任」

ヴェルサイユ条約が締結されたのは、1919年6月の事。ですが、ドイツが支払うべき賠償金額が決まったのはそれから2年後、1921年の事でした。

金額が1320億金マルクで、これを30年払いで支払うことが決まったのだそうです。

66億ドルに相当するのだそうですが、現在の価値に直して一体どのくらいなのか、全くイメージができません。第一次世界大戦前のドイツの年間国民総所得の2.5倍の金額に相当するのだそうですよ。

で、敗戦後のドイツにそもそもこの金額を支払う能力があったのかどうか。更にドイツはその賠償金を外貨で支払うことが求められたため、自国通貨であるマルクを外貨に換えて支払う必要があります。言い換えればマルクを大量に売りさばく必要がありますから、当然急激な「マルク安」に襲われることになります。

賠償金を支払えば支払うほどドイツの債務はどんどん膨らんでいく・・・という鬼のような仕組みです。

ただでさえ戦前のドイツの国民総所得の2.5倍という莫大な金額であるうえ、ドイツ自身も戦争によって莫大な損害を受けているわけです。これに加えて為替変動でドイツの債務が雪だるま式に膨らんでいく状況ですから、ドイツとしてもついにその支払いを行うことができなくなります。

これに対し、特にフランスが強硬に反対する姿勢を見せ、ドイツにとってはその経済の中心地であるラインラントにある「ルール地方」。フランスは、ここの鉱山管理権を抵当に入れることを要求してきます。

ルール地方はドイツの炭鉱の中心地で、ウィーン体制の下でプロイセンに併合された後、ドイツ屈指の重工業地帯へと発展しました。その分人口も「爆発的に増加」したのだそうです。大戦当時のルール地方は、ドイツ最大の工業地域となっていたんですね。

一応フランスを擁護しておきますと、特にこのフランス側国境において戦場となったのはドイツではなくフランスやベルギー。両国とも炭鉱地帯に大きな損害を受けていました。

一方のドイツは敗戦国であるにも関わらず、その生産拠点であるルール地方は無傷。ですから、フランスがドイツに対してルール地方の鉱山管理権を・・・という件について、フランスの心情も理解出来なくはありません。実際フランスもアメリカやイギリスに対する債務を背負っていましたから。

ですが、ドイツからしてみれば国家が破綻しかねないほどに莫大な賠償金を毎年支払わされているのに、その生産の拠点であるルール地方を取られてしまってはそれこそ賠償の見通しがつかなくなってしまいます。

フランスは、最終的に1923年1月4日、ベルギー軍とともにルール地方占領を宣言、11日から占領を開始します。

ルール占領

これに対しドイツ政府。当時はワイマール共和政政府で、首相はヴィルヘルム・クーノ。ドイツ人民党という「右派政権」の首相だったのですが、彼がとった方法は「鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける『消極的抵抗』」。更に国民の生活費をドイツ帝国銀行による「紙幣増刷」で対応しようとしました。

ええ。生産ラインが完全にストップした状態で、しかも国民が働くことを中止した状態で、紙幣増刷なんて馬鹿な真似をすればどうなるのか。結果は見え見えです。当然のようにして勃発したのが「ハイパーインフレーション」でした。

ただでさえ外国の支払いをマルクを外貨に換えることで賄っていた状況下での振る舞いです。

現在のわが国にも、「ハイパーインフレ」が起きるのではないかと盛んにあおり吹聴する人がいますが、実際に「ハイパーインフレ」が起きる状況が、いかに特殊な状況下であるのかということが非常によくわかる事例です。

「ハイパーインフレの起こし方」の非常にわかりやすいマニュアルですね、これは。


次回へ

さて。ドイツで勃発した「ハイパーインフレ」について、今回は概略とその結論のみを記事にしましたが、次回はもう少し掘り下げて、そもそも「ルール占領」が起きるまでのドイツ国内の動きと、ハイパーインフレがどのようにして収束したのか、そういった情報を記事にできればと思います。

例えば、敗戦直後は社会民主党の代表が首相になっていましたが、いつの間にか首相が「右派」に代わっていますね? どのような経緯でそうなったのかということについても記事にしてみます。

この他、ドイツ敗戦後のヨーロッパ地図なども追いかけてみる予定です。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~

それにしてもややこしい・・・。

多分、「歴史」を一番複雑にしているのはこういったいわゆる「左翼」の存在なんじゃないかと思います。

ドイツにとっての第一次世界大戦に終結をもたらしたのは、図らずもドイツ国内で起きたキール軍港における水平たちの武装蜂起にあったわけですが、これをきっかけにドイツ全土でいわゆる「レーテ」による武装蜂起が立て続けに起こり、各都市がレーテの支配下に入ります。

スパルタクス団の指導者であるリープクネヒトが実行しようとしていた社会主義政府の樹立を阻止するため、社会民主党の一党員にすぎないシャイデマンが共和制政府の樹立を宣言。

社会民主党と独立社会民主党は連合し、「人民委員評議会」を樹立。ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡しました。

ここは前回の記事でもさらった部分です。


独立社会民主党の政権離脱

わかりにくすぎるので、まずは一つずつまとめていくのが最善の策かと思いまして、わからないなりに、少しずつまとめていきます。

まずはサブタイトルに記した通り、「人民委員評議会」に加わった独立社会民主党がこの評議会を離脱した経緯から記事にしていきます。

おさらいとして、前回の記事 で話題にした「レーテの衰退」について。

社民党と独立社民党において「人民委員評議会」が樹立したわけですが、帝政ドイツ崩壊の中心的役割を果たしたベルリンの「レーテ」は、これとは別に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出。ここに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」しました。

ここには独立社民党極左の「革命的オプロイテ」が半数以上含まれていました。ベルリンの「レーテ」は、つまり社民党ではなく、独立社民党の、しかも極左にその権力を与えようとしたわけですね。

ですが、その「レーテ」によってドイツ全土で開催された「大レーテ大会」では逆にその半数以上を社民党系の評議員が占めていたことから、ものの見事に独立社民党の目論見は骨抜きにされ、更に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」ではなく、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められました。

詳しくは前回の記事を読んでいただければと思うのですが、この結果ドイツの権力は「独立社会民主党」ではなく、「社会民主党」が掌握することとなったわけです。

独立社会民主党は、「人民委員評議会」に加わることの条件として、「全権をレーテが握ること」を要求し、結果これが実現したわけですが、その主力は独立社会民主党ではなく社会民主党系であった・・・と、そういうことですね。


少し時間をさかのぼります。サブタイトルにもある通り、ドイツ独立社会民主党は評議会を離脱するわけですが、そのきっかけとして、「人民海兵団」という言葉が登場します。

この「人民海兵団」。その誕生は1918年11月。人民委員評議会政府が樹立した直後の話です。

革命は水兵の反乱によって勃発しましたので、海軍はその信頼を失い、混乱したままの状態にありました。

そして、首都(ベルリン)の治安を守るために「クックスハーフェン」というドイツの北端の都市から呼び寄せられた水兵とベルリンの水兵との間で結成されたのが「人民海兵団」です。

クックスハーフェン

ですが、ここに独立社民党の極左である革命的オプロイテが浸透し、海兵団そのものが左傾化していくこととなりました。


帝政ドイツ崩壊後、ドイツの首相となったのは社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。

全体的な流れから見て、どうもエーベルトは革命後のドイツが共産化してしまうことを何とか防ごうとしていたような、そんな印象を受けます。

独立社民党と連合して樹立した「人民代表評議会」では、首相であるエーベルトが議長を務めていたことから、どうも独立社民党の中では不満が鬱積していた様子。

一方で12月16日に行われた「大レーテ大会」では、革命的オプロイテやスパルタクス団ら、所謂「急進派」がドイツ帝国軍の解体と国民軍の創設を要求するのですが、エーベルトはこれを無視し、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定します。

ドイツ独立社会民主党の政権離脱のきっかけとなったのは「人民海兵団」の武装蜂起にあるわけですが、おそらくこれもこのような流れの延長線上にあったものと思われます。

「人民海兵団」は極左、革命的オプロイテによって、事実上革命派の一組織と化していたようで、12月23日までに人民海兵団はベルリンの王宮を占拠してしまいます。

これに対し、エーベルト政府は占拠をやめるよう指示を出すわけですが、海兵案はこれを拒否。翌24日には政府軍が海兵団の宿舎を砲撃し、市街地戦がスタートします。

しかしこれもやけにあっさりと終結しているようで・・・。で、独立社会民主党はこの状況を、「政府が帝国軍とつながっている証拠だ」と主張し、臨時政府から離脱してしまいます。

政府なんですから、軍を統括しているのは別におかしいことではないと思うんですが。特にあの時代、政府が軍を統括していなければ、一体どうやって治安を保つというのでしょうね?

兎にも角にも、このような経緯を経てドイツ独立社会民主党は政権から離脱することとなりました。


スパルタクス団蜂起

さて。前回の記事 でも触れましたが、「人民海兵団」に絡む事件が勃発した頃、もう一方の「急進左派」、「スパルタクス団」は、更にもう一つの左派集団である「ブレーメン派」が結成した「ドイツ国際共産主義」と合同し、翌1919年1月1日、「ドイツ共産党・スパルタクス団」を創設しました。

彼らによって引き起こされたのが「スパルタクス団蜂起」です。

スパルタクス団蜂起


この話題は、以下の記事を参考にさせていただこうと思います。

1章 ドイツ革命・3スパルタクス団の蜂起

経緯がきちんと記されているので、この記事を信頼して進めていきます。

そもそも、この「スパルタクス団蜂起」が勃発したのは、「独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたこと」にあるのだそうです。(1919年1月5日)

しかし、このアイヒホルンは政府による解任を拒否し、独立社会民主党のベルリン支部に支援を求めました。

このことを受け、独立社会民主党と同党左派である「革命的オプロイテ」、そして1日に発足したばかりの「共産党」は解任に反対する抗議デモを行うよう、「市民」に呼びかけます。

第354回の記事

にも記しましたが、「スパルタクス団蜂起」を起こしたのは、実は共産党を結成したスパルタクス団ではなく、呼びかけられて集まった「大衆」でした。集まったのは総勢50万にも上る群衆で、中には革命派を敵視する記事を発行していた新聞社を占拠したグループもいました。

ですが、デモを呼び掛けた「左派」の面々は、ここまでの事態をそもそも想定しておらず、集まった群衆をどのように煽動してよいのかが全く分からず、「革命委員会」を結成しこそすれ、この委員会は全く機能しませんでした。

このように、集められた群衆がどう動いてよいかわからず、右往左往している間に、社民党政府は、大戦時の退役軍人を中心に志願兵を募って、義勇軍を結成し、国防大臣グスタフ・ノスケの下、義勇軍は労働者が占拠していた新聞社街の通りや大手新聞社の建物を奪還しました。

武力の差は圧倒的で、共産党の中心的な指導者であったリープクネヒトとローザ=ルクセンブルクはとらえられ、殺害されました。

この時の両名の処刑のされ方を、「虐殺」と記している記述も多く見かけますので、その殺害方法はよほどの内容だったのだと思います。

義勇軍として参加した退役軍人たちも、どうも革命後の市民社会に対して「違和感」を覚えていたのだそうです。ドイツ人たちの中には、確かに「ビスマルク」時代のドイツがはっきりとその脳裏に刻まれていたのではないでしょうか。

だからこそ「誇り」も持っていたでしょうし、姑息なマルクス主義者たちが目指した社会は、きっとドイツ国民にはなじまなかったのではないかと推測されます。

さて。この後の「社会主義」に関しては、第351回の記事、及び 第354回の記事 にて一通りまとめていますので、これ以上はあえて追いかけることはせず、いよいよ今シリーズの本丸、「ナチス」に視点を合わせてみたいと思います。

ただ、その前に一記事だけ、「ヴェルサイユ条約」に関連した記事を作成できればと思っております。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義

ドイツ社会主義の復習

ものすごくややこしいので、まずは最初に第一次世界大戦前~開戦直後のドイツ国内の「社会主義」を一度整理してみます。

ドイツの社会主義はまず「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働党」という二つのグループからスタートします。

全ドイツ労働者協会ができたのが1863年、ドイツ社会民主労働党ができたのが1869年ですから、全ドイツ労働者協会の方が先です。

全ドイツ労働者協会はいわゆる「社会主義者」であるラッサールが中心となり、一方のドイツ社会民主労働党は「共産主義者」ベーベルやヴィルヘルム=リープクネヒトが中心となって誕生しました。

両グループの違いは議会との話し合いによって社会主義社会を築いていくのか、それともプロレタリアートの暴力革命によってそれを成し遂げるのかという違いです。

ラッサール自身は1864年に決闘により絶命していますので、ドイツ社会民主労働党が誕生したときの全ドイツ労働者協会のリーダーはラッサールではありません。この時の全ドイツ労働者協会の会長は「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物。

彼はラッサールの路線を継承していましたので、ドイツ社会民主労働党とは対立する構造にあったのですが、議会での敗北を受け、シュヴァイツァーが会長を辞任した後、ウィルヘルム・ハーゼンクレーヴァーが会長となってからは、少しずつ全ドイツ労働者協会からはラッサール色が褪せる様になります。

それどころか、両陣営ともビスマルクが成立させた社会主義者鎮圧法によって排除される立場となったことから、両陣営の結束は高まることとなり、1875年5月、両陣営は合同して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生します。

ビスマルクがヴィルヘルム2世より排除され「社会主義者鎮圧法」が廃止されると、「ドイツ社会主義労働者党」は「ドイツ社会民主党」と党名を変更します。(1890年)

改名とほぼ同時に誕生した、「ドイツ労働組合総委員会」を中心に、ドイツの労働組合が終結し、「自由労働組合」を結成します。

この「自由労働組合」はドイツ民主党の最大の支持母体となるわけですが、グループが大きくなるにつれ、次第に自由労働組合はラッサール的な「修正主義」へとその主義を変化させていきます。

ドイツ民主党へと改名した折、党の方針として「エルフルト綱領」が制定されたわけですが、二つの部分からなるこの綱領の内、「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、1895年、マルクスとともにドイツの社会主義をけん引したエンゲルスが死去した後、「修正主義に繋がる内容の論文」を発表するようになりました。

この頃には既に自由労働組合の間で「修正主義」が蔓延していましたから、ベルンシュタインの論文は広く組合員たちに受け入れられるようになります。

また更に、自由都市である南ドイツでは、北ドイツに先んじて普通選挙が実施されるようになっており、所謂「地方議員」として、ドイツ社会民主党でも「修正主義者」である議員が多く誕生していました。そして彼らは自由主義者たちと連携するようになっていたのです。

修正主義の中心地となった南ドイツを中心に、ドイツ社会民主党の「世代交代」も進み、やがて「修正主義者」たちがドイツ社会民主党の中心となっていくようになりました。

ですが、当然のようにして党内の「共産主義者(マルクス主義者)」と「修正主義者」たちは対立しました。

マルクス主義者である「急進左派」と「修正主義者」、そして修正主義者たちへの歩みよりを見せる党指導部の面々、「中央派」。この3つの派閥が社会民主党の中に誕生しました。

このことが大きく問題となるのは、1914年7月28日に勃発した「第一次世界大戦」。ロシアに宣戦布告するのが8月3日。翌日戦費を戦時公債によって賄われることが議会の「全会一致」で議決したとあります。もちろん「ドイツ社会民主党」も含めて。

ですが、この中でただ一人この議決に反対したのが、「カール・リープクネヒト」でした。ドイツ社会民主労働党を結成したヴィルヘルム=リープクネヒトの息子です。


「スパルタクス団」

もう一つややこしいのが、この「スパルタクス団」です。

前回までの記事と違う内容になると申し訳ないのですが、「新しい記事の方が、より洗練された情報である」と受け止めていただけるとありがたいです。

ですので、今回記す記述は、現時点で私が最も「正確だ」と考えている情報です。

まず第一に、ドイツ帝国議会が戦時公債の発行を議決した後、「ドイツ社会民主党」の中で、「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」ら、「急進左派」の面々は、党内に戦時公債に対する「反対派」を結成します。

反対派は、1915年7月、党指導部宛に抗議書簡を送っているのですが、この後、反対派は「労働共同体」と「グルッペ・インターナツィオナーレ」 に分裂します。

中心人物として名前を挙げた「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」の4名は共にスパルタクス団の結成メンバーとして名を連ねています。

で、おそらく「労働共同体」というグループは、前回の記事 に掲載しました、「社会民主協働団」の前身なのではないかと思います。議員団を除名された後、彼らは「社会民主協働団」の名称を用い始めたものと思われます。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」のメンバーは1916年1月1日、リープクネヒト宅で「全国協議会」を開催し、それ以降「スパルタクス団」の名称で知られることとなった、とあります。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」が結成されたのは既に記しています通り、戦時公債が発行された翌1914年8月5日の事です。

「社会民主協働団」を結成するメンバーが議員団を除名されるのは1916年3月24日の事ですが、Wikiベースでリープクネヒトのページを読んでみますと、リープクネヒトは「社会民主党を脱党して1916年からローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した」とありますので、リープクネヒトが離党したのは1915年の事だということでしょうか。

この辺りははっきりしません。

「社会民主協働団」の面々は、結局1917年1月には党組織そのものから除名されることとなります。そして、同年4月8日に彼らは結党し、その名称を「ドイツ独立社会民主党」と定めています。アメリカがドイツに宣戦布告を行う翌々日のことです。

この時、スパルタクス団は、結成されたドイツ独立社会民主党に合流しています。


ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒト

スパルタクス団の結成において、中心的な役割を果たしたのは間違いなくこの両名なのですが、実はこの両者、1916年4月にリープクネヒトが、1916年7月に逮捕されており、禁固2年半を宣告されています。

つまり、両者がスパルタクス団を指導したのは、獄中から。逮捕されていたのは両名だけでなく、スパルタクス団の指導者たちは軒並み逮捕されていましたので、事実上スパルタクス団は「停滞」していたんですね。

「ドイツ革命」が起こり、ヴィルヘルム2世が廃位されるわけですが、革命を起こしたのは結局「ドイツ独立社会民主党」でもなく「スパルタクス団」でもなく、キール軍港の水兵たちでした。

ヴィルヘルム2世が廃位されたことを受け、ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは釈放されます。

ローザ・ルクセンブルク
カール=リープクネヒト


ドイツ革命とそのあとの流れ

ドイツ革命前後の流れを時系列で整理しますと、

・1918年11月4日 キール軍港の水兵たちの蜂起
・1918年11月5日 リューベック、ブルンスビュッテルコークがレーテ(ロシアでいう「ソビエト」)の支配下に
・1918年11月6日 ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェンがレーテの支配下に
・1918年11月6日 ハノーファー、オルデンブルク、ケルンがレーテの支配下に
・1918年11月7日 バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位(バイエルン革命)、バイエルンがレーテの支配下に
・1918年11月8日 西部ドイツすべての都市がレーテの支配下に
・1918年11月9日 ベルリンでストライキが勃発、バーデン公マクシミリアンによる皇帝の退位の宣言、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンによる共和政樹立の宣言(ドイツ共和国の成立)
・1918年11月10日 多数派社会民主党と独立社会民主党の連合が成立(仮政府「人民委員評議会」の樹立)。ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。

と、こんな感じです。ちなみに一党員にすぎないシャイデマンが慌てて共和政樹立を宣言したのは、釈放されたリープクネヒトが社会主義政府の樹立を宣言しようとしていたから。

社会民主党は既に「自由主義色」を帯びていましたから、ロシア革命の象徴である「ソビエト」と同等の意味を持つ「レーテ」政府はそもそも受け入れ難いものです。ですが、党首であるフリードリヒ・エーベルトは、政権を維持することを求めて本来対立する構造にあった独立社会民主党との連合という選択を行いました。

ですが、そんな「独立社会民主党」の中には、より左派色の強い「革命的オプロイテ」というグループを抱えこんでいました。

社民党と独立社民党は連合し、「人民委員評議会」を樹立しますが、労兵(労働者と兵士)で構成されるベルリンの「レーテ」はこれに対し、「革命的オプロイテ」が半数以上含まれる「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出し、これに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」します。


「レーテ」の衰退

さて。そんな「レーテ」なのですが、執行評議会より、郡県市町村ごとに再編成することが指令されます。12月16日には「大レーテ大会」が開催されるのですが、大会を構成していたのは全国から489人の代表評議員。

そして、この代表評議員の半数以上(291名)は社会民主党系の評議員でした。

内心では「レーテ」による支配に反対している社会民主党と、レーテによる支配を確実なものにしようとする独立社会民主党でしたが、大会の結果、独立社会民主党の目論見はものの見事に「骨抜き」とされてしまいます。

大会では、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められます。

1919年1月19日に「国民議会選挙」が行われることが決定したのですが、議会が決定するまでの間、その「権力」が臨時政府に委ねられ、その監督を新設された「共和国中央評議会」が行うことになります。

ですが、その「共和国中央評議会」の監督権限はあってないようなもの。この事から、独立社会民主党は評議会への参加を見送り、そのすべてが社民党の評議員で構成されることとなりました。

もちろん、これは「社会民主党」の主張によって実現したものです。この時点で、まだ「スパルタクス団」は「独立社会民主党」の内部に存在します。


「ドイツ共産党」の結成

さて。ではこのような状況を、スパルタクス団の面々が「潔し」とするでしょうか?

もちろんそんなわけはありません。1918年12月24日、彼らは「ドイツ国際共産主義」と合同誌、1919年1月1日、ついに「ドイツ共産党・スパルタクス団」を正式に創設します。

この後、1919年1月5日、スパルタクス団による武装蜂起が行われるのですが・・・。

続きは次回記事に委ねます。


少し話題がそれるのですが、この回の記事を作成していて少し見えてきたことがあります。

それは、一連の「ドイツ革命」を主導した指導者たちが、軒並み「ユダヤ人」であったこと。ドイツの「民族主義者」たちは、自分たちが敗戦した原因は共産主義者やユダヤ人たちから、「背中から撃たれた」ことにあると考えるようになります。

そして、革命後の「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」では、「反ユダヤ主義」が高まることとなったのだそうです。

本シリーズ のテーマである、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」という疑問に対する答えが、少しだけ見えてきたように思いますね。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~
ドイツ社会民主党内部において、修正主義に対する歩み寄りを見せたベーベルやカウツキーら党指導部(中央派)と、これに迎合することができなかった「急進左派」の面々との対立が顕在化したのは1908~1910年にかけてのことなのだそうです。

第324回 等の記事で、私は「第二インターナショナル」のことを記事にしました。

この、「第二インターナショナル」が誕生したのは1889年7月のこと。ビスマルクが失脚したのが1890年3月のことですから、ビスマルクが失脚する、その前年のことになります。

マルクスら共産主義者が実際に参加してその設立にかかわった第一インターナショナルに比べると、第二インターナショナルはよりブルジョワ的で、「共産主義」というよりは、「社会主義」的な素養を備えています。つまり、ラッサール的な要素ですね。

第324回の記事は後に革命後のロシアのリーダーとなる「レーニン」が、当初目指していた第二インターナショナルの在り方として、「非暴力、反戦の姿勢」を記しています。

戦争に対する姿勢として、第二インターナショナルでは、1907年の「シュトゥットガルト大会」において、以下のように決議しています。
1 社会主義者は議会で軍備縮小と常備軍撤廃のために努力すべきである

2 関係諸国の労働階級は、戦争勃発を阻止するよう全力を注ぐべきである

3 戦争が勃発したならば、労働者階級は戦争の速やかな終結をめざして干渉するとともに、戦争によって引き起こされた危機を利用して、資本主義の廃絶を促進すべく全力をつくして戦うべきである

1912年に行われたバーゼル大会でも同様の宣言が行われ、特に3番の内容は、第一次世界大戦勃発後、スイスに亡命していたレーニンの「革命的祖国敗北主義」という考え方にも影響を与えています。

そして、対戦勃発当時、この第二インターナショナルを導く立場にあったのがドイツ社会民主党。ですが、このドイツ社会民主党が自国の帝国議会において戦争を支持し、政府に協力する方針を示しします。

これに仏、墺の社会主義者が続き、第二インターナショナルそのものが分裂することになりました。

つまり、第二インターナショナルが分裂したのはドイツの社会主義者たちのせいだったわけです。レーニンも批判していた部分です。

では、第一次世界大戦勃発を受け、ドイツ国内で社会主義者たちはどのような姿勢を示したのでしょうか?


第一次世界大戦勃発時のドイツ

前回の記事 でお伝えしましたように、この当時のドイツ社会民主党は、特に南ドイツにおいて同党の議員たちが自由主義者たちと連携するようになったことを通じ、ここで「修正社会主義」が醸造されるようになっていました。

世代交代が進み、かつてマルクス主義者たちがリーダーとして率いていたドイツ社会民主党は、「修正主義者」たちによって率いられるようになっていました。

かつてビスマルクによって「ナショナリズム」を煽られ、フランスに打ち勝った「自由主義者」たちです。第一次世界大戦勃発前夜の自由主義者たちの中には、あの時と同じような「ナショナリズム」が高ぶっていました。

ドイツ社会民主党は、この様な自由主義者たちと友好的な立場をとる政党へと姿を変えていました。


マルクスたちの幻影

マルクスやエンゲルスらは、ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」と定義づけていました。(根拠を調べる方法を現時点では保有していませんので、Wikiベースで記事を進めていきます。)

開戦時、皇帝であるヴィルヘルム2世は議会において、「余は党派なるものをもはや知らない。ただドイツ人あるのみだ」という演説を行いました。後に「城内平和演説」と呼ばれるようになった演説です。

「城内平和」とは、元々は中世のドイツで、「城壁内での私闘」を禁止する意味を持つ言葉だったのだそうです。

ドイツ社民党は、この言葉を受け、帝国政府の開戦を支持し、他党との抗争を停止しました。この事はドイツ国内のみならず、世界を驚かせたのだそうです。

Wikiには、社民党にこの姿勢をもたらせた理由として、前述したマルクスやエンゲルスらの「定義」があったのではないか、と記されています。


開戦後のドイツ社会民主党

社会民主党の前進の一つで、「マルクス派」であった「社会民主労働者党」。

この政党を結成したのは「ベーベル」と「リープクネヒト」であったわけですが、第一次世界大戦開戦の段階で、「ベーベル」は中央派、リープクネヒトは「急進左派」に位置していました。
※失礼しました。等を結成したのは「ヴィルヘルム=リープクネヒト」、急進左派に位置していたのは「カール=リープクネヒト」であり、両者は親子関係にあります。誤った記述、失礼いたしました。

私、第456回の記事 におきまして、開戦当初のドイツの「戦略」を記事にしました。

で、その「戦略」がいかにお粗末なものであったのかということも記事にしました。

ビスマルクがフランスに普仏戦争を吹っ掛けた時は、非常に綿密な戦略が練られていて、事前準備もかなり周到に行われていた事も記事にしました。そして、そんなビスマルク軍の快進撃に、あのマルクスさえナショナリズムに煽られて昂揚していたのだということも記事にしたと思います。

ヴィルヘルム2世がロシアに宣戦布告をした時の社会主義者たちの心境は、きっとあの普仏戦争当時と同じような心境だったのだと思います。

ですが、この時の大将はヴィルヘルム2世。参謀は小モルトケ。普仏戦争の時とは大違いです。

社会主義者たちは、対ロ、対仏戦争が普仏戦争の時のようにドイツの快進撃で終結するとでも思っていたのでしょうか?

ですが、現実は違いました。彼らはドイツ軍の「圧勝」を期待してヴィルヘルム2世の開戦の意思を支持したわけですが、いざ蓋を開けてみると、現実は全く違っていたわけです。

最初はヴィルヘルム2世を支持していたくせに、どうも雲行きが怪しいと感じると、彼らは手のひらを返すように議会と対立し、「場内平和」を批判し、党の指導者として「中央派」を構成し、修正主義者たちと和合しようとしていたカウツキーだけでなく、「修正主義」を訴えて自由主義者たちと連携する姿勢を示していたいたはずのベルシュタインまでもが党内の方針に対する「反対派」へと加勢するようになりました。

ですが、この段階でもまだ「反対派」は少数派で、多数派であった党の指導者たちは、この「反対派」たちに対する締め付けを強化し、「反対派」の急先鋒であった「フーゴー・ハーゼ」らは1916年3月24日、戦争のための予算の成立に反対したことを受け、社民党から除名されることになります。

ハーゼ

リープクネヒトも1916年に社会民主党を離脱したとありますので、おそらくこの時に離脱したのではないかと思われます。


スパルタクス団の結成

後に「ドイツ共産党」へと姿を変えるスパルタクス団ができるのはこの頃です。

ややこしいのですが、第一次世界大戦開戦後のドイツ社会主義者として、様々な人物の名前が登場するのですが、そのほとんどが「ドイツ社会民主党」の「党員」です。

ですが、必ずしも「議員」であるとは限りません。そんな「社会民主党党員」の一人が「ローザ・ルクセンブルク」です。

ローザ・ルクセンブルク

彼女は元々ロシアの属国であった「ポーランド立憲王国」の出身。1898年、彼女はドイツ人と「偽装結婚」することによってドイツ市民権を取得し、ドイツに移住してきます。

ここで彼女はドイツ社会民主党に入党し、前述した「急進左派」の筆頭として活動することとなります。彼女の行動を見ていると、根っからの「マルクス主義者」であることがよくわかります。

彼女は修正主義者であるベルシュタインと対立したときも、「プロレタリアートによる独裁」が必要だと訴えていますし、ベルシュタインらと歩み寄りを見せた指導者であるカウツキーとも対立します。


少し国家をまたぎます。彼女がドイツへと移住してきたのは1898年の事。その6年後、ロシアでは「ロシア第一革命」が勃発します。

レーニンらが姿を見せ始めるのもこの頃で、1907年、彼女はレーニンと初対面することになります。ちなみに、前半でお示しした「シュトゥットガルト大会」における決議の決議案を考えたのはローザ・ルクセンブルクとレーニンです。

決議案は、反戦を訴える内容であり、彼女はその後も、戦争の危機が近づいていることへの確信を深めており、等に対して「ゼネスト(ゼネラルストライキ)」を組織するよう要求するのですが、これを党指導部に拒否されます。

「ゼネスト」を全国的に組織することで、政府の方針に対していわゆる「職務放棄」を行う労働者を組織的に拡大しようと考えていたんですね。

私の個人的な意見ですが、途中、マルクスやエンゲルスらが、

『ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」』

だと定義づけたことをお話ししました。ですが、おそらくそれはビスマルクがまだ健在であった時代のことだったのではないでしょうか? 実際、マルクスが死亡したのは1883年3月14日、エンゲルスは1895年8月5日ですから、第一次世界大戦が勃発した時点で、両名は既に他界しています。

「ロシア帝国のツァーリズム」といいますが、その当時、ドイツも「帝国主義」という形態をとっていました。第一次世界大戦開戦時と異なるのは、その当時のドイツには「ビスマルク」がいたということ。

ビスマルクが健在であれば、おそらく彼は「第一次世界大戦」などという愚かな戦争を引き起こすことはなかったはずです。

ヴィルヘルム2世の「世界政策」こそまさに「帝国主義」そのものであり、マルクスやエンゲルスらが批判した「ロシア帝国主義」と全く同じ性格を持っていたのではないかと思います。

私は社会主義者ではありませんし、マルクスやエンゲルスらの考え方を肯定するわけではありませんが、少なくとも「社会主義者」の立場に立って考えるとするならば、マルクスやエンゲルスらの「定義」がまるで「思想」のようにして自由主義者と連携した社会主義者たちに「開戦」の決議を支持させたのだとすれば、それは非常に愚かなことだったのではないか、と思います。

そのくせ、ドイツにとって形成が不利になったと見るや否や、手のひらを反して反戦を訴え始める。あまりにも身勝手すぎるのではないでしょうか。

そういった意味で、ローザ・ルクセンブルクの姿勢は一貫していて、マルクス主義的な「暴力革命」を起こすことを意図さえしていなければ、決して非難されることでもないように思います。


「グルッペ・インターナツィオナーレ」の結成

英語的に表現すれば、「グループ・インターナショナル」ということでしょうか。「スパルタクス団」のことです。

ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトら、社会民主党左派は、第一次世界大戦開戦直後、この「グルッペ・インターナツィオナーレ」を結成します。

このグループが、どういった性格を持っているのかということは、何となく想像できるかと思います。

ローザ・ルクセンブルクはたびたび投獄されるのですが、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は、彼女が獄中で起草した方針に従い、非合法の冊子を刊行することを決定しました。

その冊子の名前が「スパルタクス書簡」。「スパルタクス」とはグルッペ・インターナツィオナーレメンバー共有のペンネームで、「共和政ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士」の名前です。

この事から、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「グルッペ・インターナツィオナーレ」という名前ではなく、「スパルタクス団」という名前で知れ渡るようになりました。


「ドイツ独立社会民主党」の結成

一方、プロレタリアートによる独裁を訴えるスパルタクス団の面々とは別に、フーゴー・ハーゼら社会民主党を除名された面々は、「社会民主協働団」という、新たなる議員団を結成しました。彼らは、「急進左派」とも対立する構造にあり、中央派の中でも「平和主義的中央派」という位置づけにあったようです。

文面から読み解くに、ハーゼらは「社会民主党議員団」からは除名されたものの、「社会民主党党員」としての党籍は保有していたということでしょうか。そのうえで、同じ「社会民主党の議員」でありながら、新たに「社会民主協働団」という議員団を結成したと、そういうことだと思います。

1917年1月7日にも、今度はカウツキーらが「反対派」として除名されており、この時彼らは、新たに「ドイツ独立社会民主党」という政党を結成しています。

先に除名されたフーゴー・ハーゼのページを見てみますと、「ドイツ独立社会民主党」を結成したのは彼で、彼が党首に就任したことになっていますので、「社会民主協働団」がカウツキーらを吸収した形になるのでしょうか。

ハーゼ自身は、開戦直後に戦争に反対する声明を発表していたようで、彼が戦時予算への賛成票を投じたのは、「党議拘束に従った」と記されていますね。


まとめ


大戦中、「スパルタクス団」と「ドイツ独立社会民主党」という二つの「社会主義勢力」が誕生したわけですが、実際に革命につながる「レーテ蜂起」を起こしたのは彼らではなく、キール軍港の軍人たちでした。

ドイツの社会主義運動って、意外と「拍子抜け」する部分が多いですね。

次回記事では、第一次世界大戦の終戦~終戦後の社会主義の動向を見ていきたいと思います。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第462回 ドイツ革命までの経緯~キール水兵の反乱と一次大戦直前の社会主義~

第462回の記事 の続きです。

前回の記事の文末で、ビスマルクが自身の信念に違って南ドイツに「自由都市」として自治権を認めたことが原因で、これらの都市で「普通選挙制度」が確立したこと。そしてその結果、これらの自由都市には「社会主義者」が議員として当選しやすい状況が生まれていたことを話題にしました。

そして、
このことが南ドイツ自由都市において社会主義者たちと「自由主義者」たちが連携する関係を生み、ドイツ社会民主党の中に、かつてのラッサールの様な考え方をする勢力が生まれるようになっていました

と。


「修正主義」と「社会改良主義」

「ドイツ社会民主党」の前身である「社会民主労働者党」と「全ドイツ労働者協会」。この二つの派閥が合併することで「ドイツ社会民主党」が出来上がったのは既に記事にした通り。

「社会民主労働党」は元々マルクスの考え方を踏襲しており、ラッサールの考え方を踏襲した「全ドイツ労働者協会」とは対立する立場にありました。

ラッサールの後継者となったシュバイツァーは、ラッサール同様、ビスマルクのことを信頼しており、マルクス派のように共産主義を「暴力による革命」によって実現するのではなく、権力者と議論することによって正当性を訴え、「社会主義社会」を現実的に政策に反映させていくことが大切なのだと考えていました。

そしてビスマルク自身がそれを跳ね除けることはせず、むしろ積極的に耳を傾け、受け入れるタイプであったこと。ビスマルクの政策に、かつてラッサールが訴えた「社会保障政策」が取り入れられたことが、その何よりもの証です。

そして、「社会民主労働党」、つまりマルクス派はそんなラッサールらのやり方を「王党的プロイセン政府社会主義」であるとして批判したわけです。

ところが、親ビスマルク路線をとっていたシュバイツァーが、選挙での敗北を受け、代表を辞任した後、「全ドイツ労働者協会」から、徐々に「親ビスマルク」としての性格は失われ、むしろ「全ドイツ労働者協会」は、「社会民主労働党」とともにビスマルクが制定した「社会主義者鎮圧法」によって排除される対象となり、両派閥はやがて目的を一にするようになりました。

両派閥は「ドイツ社会主義者労働党」として合併し、ビスマルク失脚後、「ドイツ社会民主党」とその名称を改めた・・・というのがビスマルクが失脚するまでのドイツの「社会主義」の動向です。


さて。問題となるのは党名を改め、「社会民主党」なった後の話。

南ドイツは北ドイツに先んじて「男子普通選挙制度」を実現し、議員に数多くの「社会主義勢力」を送り込むことに成功したわけですが、その結果、送り込まれたはずの「社会主義勢力」が、「自由主義者」たちと連携するようになり、「かつてのラッサールの様な考え方」をする様になったわけです。

もう一度言いますと、「ドイツ社会民主党」は、「ラッサール派」が、マルクス的な考え方に軌道修正することによって誕生した政党です。

にもかかわらず、南ドイツで議員として政治にかかわるようになると、逆に「ラッサール」的な考え方に軌道修正されてしまいました。

このような「ラッサール的な考え方」をマルクス主義者たちは「修正主義」と呼んだわけですが、ラッサール派が鳴りを潜め、「ドイツ社会民主党」が誕生した後でこの考え方が始めて登場したのは1891年10月の事。社会主義者鎮圧法が廃止されたのが1890年9月のことですから、ちょうど改名した1年後のことになります。

この時、社会民主党の「綱領」、つまり党としての方針を決めるための党大会、「エルフルト党大会」が開催されました。

この時制定されたのが「エルフルト綱領」というものですが、この綱領は大きく分けて2つの内容から構成されていました。

1つが「原則綱領」、もう一つが「行動綱領」と呼ばれるものです。

「原則綱領」を作成したのがカール・カウツキーという人物。「行動綱領」を作成したのがエドゥアルト・ベルンシュタインという人物でした。

問題となったのは「原則綱領」ではなく「行動綱領」。ここに、
国家に対する当面の要求、すなわち普通選挙、比例代表選挙、表現・結社の自由、宗教と教育の分離、男女平等、累進課税強化、間接税廃止、八時間労働制、児童労働・夜間労働禁止、団結権保障を求める

といった内容が記されていました。

「原則綱領」はマルクス主義そのまんまで、要は「革命によって権力を崩壊させ、プロレタリアによる独裁体制を築く」といった系統の内容が掲載されていたわけですが、肝心の行動綱領には「権力との話し合いによって社会主義国家の体制づくりを行いましょう」といった内容が記されていたのです。

そして、この「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、アイゼナハ派(ドイツ社会民主労働党を結成する中心となった派閥。マルクス派)の党員で、ベーベルやリープクネヒトとともに中心となって「ドイツ社会主義労働者党」の結成に尽力した人物です。

彼は、エンゲルスに近しい人物で、所謂「マルクス主義者」であったはずなのですが、1895年にエンゲルスが死去すると、、その後、マルクス主義とは真っ向から対立する、ラッサール的な、所謂「修正主義」に繋がる内容の論文を発表するようになります。

この考え方は、実はベルンシュタイン以前にドイツ社会民主党の支持母体である、「自由労働組合」の間で既に主張・実践されていた考え方で、それそのものが既に大きな「社会勢力」となっていました。

ベルシュタインの論文ははこれを理論的に体系化したもので、当然自由労働組合はこのベルシュタインの考え方を支持しました。

ベルシュタインが論文を発表した時点ではまだドイツ社会民主党党内では社会主義革命や階級闘争を起こす必要がある、とするマルクス主義の「正統派」が多かったため、1903年に行われた党大会でこの「修正主義」は圧倒的多数で否決されます。

ですが、この頃から特に「南ドイツ」において「ドイツ社会民主党」が、地方自治体における「議会」に進出するようになり、前述したように、自由主義者たちと連携するようになった彼らは「かつてのラッサールの様な考え方」、つまり「修正主義」を主張するようになりました。

そして彼らが「自由労働組合」と連合して正統派が中心となっていた党の指導部を抑え(1906年)、修正主義=社会改良主義社たちが党の指導的な役割を担うようになりました(1912年)。この時に世代交代も行われたんですね。

ということで、元々「マルクス主義者」たちによって誕生したはずの「ドイツ社会民主党」は、「ラッサール主義」、つまり「社会改良主義」政党へと方向転換することとなりました。


「ドイツ社会民主党」の中の「火種」

さて。特に「南ドイツ」において醸造された「社会改良主義」は、1906年以降ドイツ社会民主党の「主流」となっていくわけですが、だからといってこれまで主流であった「正統派」が党内から一掃されたわけではありません。

党指導部の面々こそ社会改良主義者たちに歩み寄りを見せ、両派閥の和解を訴え(このことによって指導部を掌握した)ます。彼らは正統派の中で「中央派」と呼ばれる派閥を形成するのですが、当然そう簡単に考え方を変えることができない面々も存在します。

ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンといった人物らが中心となり、彼ら、彼女らは「急進左派」を形成し、中央派と激しく対立するようになります。

ローザ・ルクセンブルク

第351回の記事 の中で、後にドイツ共産党を結成する、「スパルタクス団」のことを話題にしたと思います。

この「スパルタクス団」を結成したのが前記したドイツ社会民主党内の「急進左派」の面々です。

第161回 「共産主義」と「社会主義」の違いをわかりやすく説明します の記事の中で、私は「共産主義」と「社会主義」との違いを以下のように記しました。

1 ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
2 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
3 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

と。

この時点では、私はしかしまだ正確に「共産主義」と「社会主義」の違いが理解できてはいなかったのではないかと思います。

1番、3番はまさしく「マルクス」が訴えた「共産主義」と「社会主義」であり、現在の日本の共産主義者たちもまだその違いを3番のように理解しています。

ですが、この時点ではっきりしたのではないでしょうか。二つの違いはまさしく2番。

 『平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である』

というのが現実に即した「社会主義」と「共産主義」の違いなのではないか、と。

「完全平等主義」という考え方も、本来は共産主義者たちが目指す社会の在り方で、社会主義者たちが目指す社会の在り方ではありませんね。「社会主義者」たちが目指した社会とは、まさしくラッサールが目指したような「社会改良主義」であり、プロレタリアートによる独裁を目指す「共産主義」とは一線を画するものです。

そして、現在の日本もまた、そのような「社会改良主義」の延長線上にあり、所謂「社会主義革命」が行われた後の社会構造です。

現在の日本で、そんな「社会改良主義」の延長線上にあるはずの政権を倒し、実験を握ろうとする連中。必ずしも政党には限らないわけですが、これはあたかもブルジョワによる「社会主義革命」が起きた筈の後の社会であたかも「プロレタリアート革命」を起こし、プロレタリアートによる独裁社会を目指しているように感じませんか?

しかし、ドイツの歴史を見ていれば、そんな「プロレタリアートによる独裁社会」を目指すことが、いかに時代遅れで非現実的な社会であるかということが理解できるはずです。

さて。それではその後、ドイツ社会民主党の中に生まれた「急進左派」勢力は、第一次世界大戦の陰で一体どのような道筋を歩むことになるのでしょうか。

この記事の中で第一次世界大戦中の社会主義に話題を進めようと思ったのですが、分けて記事を作成したほうが理解を深められるのではないか、と思いますので、対戦中のドイツ社会主義は次回記事にゆだねようと思います。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

いくつか記事を挟みましたので、シリーズ としては久しぶりの記事になります。

前回の記事を作成していて見えてきたのは、第一次世界大戦が、ヴィルヘルム2世率いるドイツと、ニコライ2世率いるロシアの間で始められた戦争で、ドイツとロシアが共に「社会主義革命」によって自滅し、終了した戦争であったということ・・・。

前回の記事から継続して目を通していただいている方には唐突に感じられるかもしれませんが、前回の記事の文末でご紹介したこちらの記事↓

第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

に記している内容は、即ちそういうことを意味しています。

第351回の記事 は「ロシア」についてのシリーズで、特にドイツ革命に対する「コミンテルン(第三インターナショナル)」の関わり合いを解明することを目的に記事を作成しています。

で、当然私自身の中に「第一次世界大戦」に関する知識は殆んどといっていいほどありませんでしたから、そもそもドイツ革命の経緯に関して、「第一次世界大戦」が前提となっていません。

歴史の流れの中で、ポンと突然ドイツ革命が起きたかのような記載内容となっています。


ということで、今回の記事では、私自身の中に、きちんと「第一次世界大戦」がどのようなものであったのかという情報が入っていますし、それまでの「ドイツ」という国がどのような国であったのか。

また、ドイツという国における「社会主義」の発展についてもある程度私の中に落ちていますので、第351回の記事 を引用しながら、「ドイツ」を視点に第一次世界大戦と「社会主義革命」の関わりを記事にしていきます。


キール水兵の反乱はなぜ起きたのか?

これは、第351回の記事 より一つ前の記事。第350回の記事 に掲載しています内容です。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

この事をきっかけとしてドイツ革命は本格化し、ヴィルヘルム2世は亡命→退位へと追い込まれていきます。

「キール軍港における水兵の反乱」は、引用部分にも掲載されています通り、サボタージュにより逮捕された水兵たちが、「キール軍港」へと送られ、「キールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めて」起こしたデモに官憲が発砲したことからデモは武装蜂起へと拡大するわけですが。

では、キール軍港に送られた水兵たちは一体なぜ「サボタージュ」を行ったのでしょうか?

キール水平反乱


第一次世界大戦は、ドイツにとって既に「負け戦」であることが確定していた

前回の記事 で掲載した「シュリーフェン・プラン」は完全に失敗し、ドイツは戦術の変更を余儀なくされるのですが、この時ドイツが相手にしていたのは「ロシア」と「フランス」以外にも「ベルギー」「イギリス」、そして遠方から「アメリカ」が近づいていました。

中国やインド洋では日本も対独開戦を行っていたのですが、今回は「欧州決戦」にポイントを絞ります。

ドイツ陣営(中央同盟国軍)は、ドイツ以外にもオーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマントルコが含まれていましたが、ネット上の記述を見る限り、オーストリアはとても主体的にドイツを助けているようには見えません(どちらかといえばドイツがオーストリアを支援している)し、ブルガリアも、トルコもドイツ戦線まで援軍を派遣しているようには見えません。

シュリーフェン・プランで掲載しました通り、ドイツはフランスやベルギーとの戦いを繰り広げる「西部戦線」と、ロシアとの戦いを繰り広げる「東部戦線」の2面戦争を繰り広げていました。

ロシアはロシア国内で勃発したロシア革命により自滅し、最終的に「ブレストリトフスク条約」を締結してトロツキーらと講和条約を締結することに成功したのですが、問題となったのは西部戦線。

ドイツがベルギーに侵攻したことによりイギリスが参戦しましたので、西部戦線ではフランス、ベルギーだけでなく、イギリスまでも相手にすることになっていました。

そして、更にアメリカ軍が到着し、ドイツとしては、もはや劣勢を覆すことは事実上不可能な状態に陥っていました。

ドイツ・オーストリアは各々停戦に向けた協議を各国に向けて打診するのですが、これが拒否され、停戦に向けた「交渉」すら行うことができない状況に陥っていました。

軍部は軒並みこの事を把握しており、この情報が軍部だけでなく、兵士レベルにまで知れ渡ってしまいました。

このような状況の中、ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフという二人の人物率いるドイツ海軍が、「最後の賭け」としてイギリス艦隊に決戦を挑むため、ヴィルヘルムスハーフェン港の大洋艦隊主力に出撃を命じました。

ですが、この時点で兵士たちの耳には、既に敗戦が濃厚であるとの情報が入っていましたので、兵士たちは作戦そのものの有効性に疑問を抱きました。兵士たちは、「そんな戦争に行ったところで、

その結果、彼らは「サボタージュ」を決行したのです。後は前記した枠囲いの内容の通りです。

第一次世界大戦中のドイツ社会主義

キール軍港で武装蜂起が起きるまでの流れを補完できれば、そのまま第351回の記事 へと話題をつなぐことはできるのですが、ヴィルヘルム2世退位後、ドイツ国ワイマール共和政政府の中心となる社会主義陣営。

特にドイツ社会民主党党首であるフリードリヒ・エーベルトは、ドイツ国の初代大統領となるわけですが、彼が党首を務めるドイツ社会民主党をはじめとする社会主義陣営が、第一次世界大戦の戦況下、どのような役割を演じていくのか、この話題を記事にしてみます。


第一次世界大戦までのドイツ社会主義

第439回の記事 でも掲載しましたように、ラッサールの死後、彼が築いた「全ドイツ労働者協会」から、やがてラッサールの精神が失われ、1875年5月、全ドイツ労働者協会は、もう一つの社会主義政党である「ドイツ社会民主労働党」と合流し、「ドイツ社会主義者労働者党」を結成しました。

先のフランスにおける「パリ・コミューン」政府の樹立とともに、危機感を覚えたビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定し、ドイツ国内における社会主義者たちの弾圧へと突き進むわけですが、ヴィルヘルム2世の誕生後、期限を迎えた同法は失効し、これを機にドイツ社会主義者労働者党は「ドイツ社会民主党」へと党名を変更しました。(1890年9月)

この後、ドイツ社会民主党は支持を拡大し、1905年に38万人、大戦を迎える直前の1913年には108万人へと勢力を拡大。

また、ドイツ社会民主党の支持母体である自由労働組合は、組合員を組合員250万人にまで広げていました。


「自由都市」の弊害

第一次世界大戦までの社会主義を、もう一つ視点を変えてみてみます。

第426回の記事 におきまして、ドイツ統一に際し、ビスマルクが行った「大きな譲歩」について記事にしています。

引用してみます。
ビスマルクは、南ドイツ4カ国と交渉し、国名を「ドイツ連邦」とはせず、「ドイツ帝国」とし、その盟主を「皇帝」とするところまで含めて妥結する流れの中で、南ドイツ4カ国に対しては大きな譲歩をしています。

先に記したように、ビスマルクがドイツを統一しようとした最大の目的は、ドイツ領内の各国が、「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定にさせないようにすることにあります。

その手段として所属国を一つのルールの下に統一し、共通のルールで「ドイツ」という国家全体を運用しようとしたわけです。

ところが、ビスマルクは南ドイツを北ドイツに統合し、「ドイツ帝国」を設立した際、北ドイツ各国とは異なり、この4つの国に対しては「自治権」を認めたのです。

これらの国々に対し、「自治権を認める」ということは、即ちビスマルクがもともと排除しようとしていた『「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定』 にさせる要因を、自国の中に有し続けるということです。

ビスマルクは、普仏戦争によってドイツ=ナショナリズムを昂揚させ、南ドイツ諸国とともに見事「ドイツ帝国」結成にまでたどり着くわけですが、誕生と同時に自国内に「南ドイツ」という大きな矛盾を抱え込むことになるんですね。

この記事を記した時点で、ビスマルクにとっての「不安定要素」は「自由主義」であったのですが、ヴィルヘルム2世の時代になって、「社会主義」という姿で「不安定要素」が顕在化することになります。

南ドイツを含まない元「北ドイツ連邦」は各地方ごとに選挙制度が厳格で、あったため、社会主義者たちがなかなか当選しづらい状況にあったのですが、自治権を持つ南ドイツ、「バイエルン」「ヴュルテンベルク」「バーデン」などでは地方にまで男子普通選挙制度が浸透していたため、社会主義者たちが当選しやすい状況が生まれていました。

ただ、少し複雑なのですが、このことが南ドイツ自由都市において社会主義者たちと「自由主義者」たちが連携する関係を生み、ドイツ社会民主党の中に、かつてのラッサールの様な考え方をする勢力が生まれるようになっていました。


少し記事が長くなりそうなので、第一次世界大戦までのドイツ社会主義と、大戦中の社会主義陣営について、改めて記事を分けて作成してます。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由

今回の記事は、前回の記事で触れました通り、ドイツがロシアに宣戦布告を行うと同時に宣戦布告を行った理由である、「シュリーフェン・プラン」について記事にしたいと思います。


プロイセンはなぜ普墺・普仏戦争に勝利できたのか?

ビスマルクがリーダーを務めていた当時のプロイセンが、プロイセンの「不安要素」を取り除くため、「ドイツ統一」に向けて歩みを進めることとなったのは このシリーズ を読んでいただいている方にはご存知の通り。

どちらの戦争も、プロイセンは実に鮮やかな勝利を収めました。

では、ビスマルク軍は一体なぜ両戦争にあそこまで「圧勝」することができたのか。

これは、ひとえに名参謀、「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)」の存在あってこその勝利だったのですが、では彼の一体何がビスマルク軍に圧勝をもたらしたのか。

これをたった一言で述べるとしたら、「事前準備」。これ以上の表現はないと思います。

特に、普墺戦争当時のプロイセンが相手にしたのは単に「オーストリア」だけでなく、同じ「ドイツ連邦」を構成する、数多のドイツ連邦諸国まで含まれていました。オーストリアとフランスの事前密約まであったことを考えると、これは決して有利な戦争ではなかったと思います。

傍から見れば、「なんて無茶なことを」と思われたのではないでしょうか?

ですが、それでも圧勝できた理由は、普墺、普仏ともに相手側との「兵器力」の差。そして短時間で兵力を確保するための「徴兵制度」の実施。通信網や鉄道の整備など、ビスマルク軍はその「事前準備」を綿密に行ったうえでオーストリアやフランスを挑発し、戦争を仕掛けさせたわけです。

もう一つ、ビスマルクが戦争の「引き際」をわきまえていたこともその理由としてあるわけですが、今回は「モルトケの功績」の方に着目します。

特に特徴的なのは、普墺戦争でビスマルク軍が用いた「ドライゼ銃」。(この辺りは第422回の記事 をご参照ください)

その能力に慄いたフランスは、ドライゼ銃を上回る性能を持つ「シャスポー砲」を開発したのですが、普仏戦争が勃発した時点でビスマルク軍はその性能差を埋めて余りある、「クルップC-64野砲」という大砲を完成させていた、というエピソード。

つまり、普墺戦争で圧勝しておきながら、その時の功績に甘んじることなく、普仏戦争の際にはこれを上回る「戦略」を既に計画していたということです。


「シュリーフェン・プラン」という妄想

さて。私がなぜ本題に入る前に、わざわざビスマルク時代のプロイセンの話を再び持ち出したのか。

普墺・普仏戦争においてプロイセン軍が事前の予測を大きく裏切り、オーストリア・フランスに対して圧勝した理由。それは何よりも「事前準備」を綿密に行っていたからです。

ここまで言えばお分かりですね。ビスマルクが失脚し、当時の軍略家、大モルトケもいないドイツにおいて、ドイツを率いたヴィルヘルム2世が用いた軍略=「シュリーフェン・プラン」とは、まるで普仏戦争においてプロイセンを相手にしたフランスを彷彿とさせる軍略。

「妄想」に近いものでした。

「シュリーフェン・プラン」とは、その名前の通り、ビスマルク後のドイツにおいて、一時参謀総長を務めた「シュリーフェン」という人物が考えた軍略です。

アルフレート・フォン・シュリーフェン


この軍略が練られたのは1905年の事。1890年にビスマルクが失脚し、ビスマルクが意固地なほどに徹底した「フランスの孤立政策」を撤回し、ロシアよりもオーストリアとの同盟関係を重要視したヴィルヘルム2世。

この事でビスマルクが危惧した通り、ロシアはフランスとの間で同盟関係を結ぶにいたりました。既に記事にしています通り、ロシアとフランスの位置はドイツをサンドイッチ状態にする位置。

両国が連携してドイツに挟撃を仕掛ければ、一気にドイツの立場は危うくなります。普仏戦争で買った恨みから、フランスと同盟関係を築くことはできませんので、ビスマルクはロシアと同盟関係を築き、フランスと同盟させないことを何よりも大切にしていたのです。

しかし、現実問題としてビスマルクが危惧していた状況に陥ってしまった以上、ドイツにとって最悪の事態、つまりフランスとロシアが同時に軍事行動を起こし、ドイツに迫ってくる事態に備えないわけにはいきません。

そこで、シュリーフェンがこの事態を想定して考えたのが「シュリーフェン・プラン」です。

以下、Wikiより「シュリーフェン・プラン」について引用しておきます。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。

これは、ロシアの未発達な電信網や鉄道事情などから、ロシアが総動員令を発令してから攻勢に出るまでには6週間かかると予測したからである。

こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、東部戦線と西部戦線左翼を犠牲にして、強力な西部戦線右翼で中立国ベルギーとオランダに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。

作戦の所要時間は1か月半とされた。

これは、かなりロシアの事を舐めた視点で計画されていますよね。ただ、この計画が立てられたのは1905年ですから、この時点では的を射た政策だったのかもしれません。

ですが、この「シュリーフェン・プラン」が実際に用いられた第一次世界大戦が起きたのは1914年7月末の事。同計画が練られてから、実に10年近くも年月が経た後のことです。

改めてこちらの地図を。

1900.jpg

仮に対露仏開戦に至った場合、シュリーフェンの計画によれば、ドイツ軍はフランスとの国境やロシアとの国境は一時的に放置して、対露仏戦争とは全く無関係なオランダ・ベルギーを武力によって制圧し、ベルギー側からフランスに侵攻。国境付近でドイツ軍に向けて進軍するフランスを背後からたたき、壊滅させた上で急いでロシアとの国境に向かい、ロシアを叩く・・・と。

シュリーフェンの計画によれば、ロシアが総動員をかけて進軍を開始してからドイツにまで到達するのに6週間かかると想定されていますので、その間にオランダ・ベルギーを侵攻した上で全力でフランス軍に当たって、4.5週間でフランス軍をせん滅し、その足でロシア国境に向かう・・・ということですね。


小モルトケによるシュリーフェン・プランの改良

で、実際にこの計画の実行にあたったのは1906年に参謀総長となった大モルトケの甥、小モルトケ。

Wikiによれば、小モルトケはこの「シュリーフェン・プラン」の相当な改修を行った、とあるのですが、内容を見てみると、

・フランスが真っ先に狙うであろうアルザス・ロレーヌ地方(普仏戦争でビスマルク軍がフランスより獲得した土地)の防衛をオーストリア軍に任せる予定だった→ドイツ軍部隊を新設し、その舞台に防衛に当たらせる。

・フランスの裏をかくためにオランダとベルギーを侵略する予定だった→オランダは侵略せず、代わりにルクセンブルク(ベルギーとフランスとドイツに囲まれた小さな領土)を侵攻する。

といった程度の内容で、どう考えても「相当な改修」には見えません。

ですが、ヴィルヘルム2世軍はこんな稚拙な計画の下、対ロシア戦を開始するのです。


ドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

では、改めまして、なぜドイツはフランスに宣戦布告を行ったのか。

もうお分かりですね。なぜならば、シュリーフェン・プランで最初に攻めこむ計画になっていたのがロシアではなく、フランスだったから。

シュリーフェン・プランでロシアに戦争を挑む以上、ドイツ軍にとっては=「対仏開戦」を意味していたわけです。なぜならば、シュリーフェン・プランによれば、先にフランスを倒さなければ、ロシアと戦争することができないわけですから。

また、更にその進路として迷惑にも「ベルギー・ルクセンブルク」を通過することになっていましたから、当然ベルギーにも戦争を挑むこととなります。


ヴィルヘルム2世軍の「誤算」

「誤算」ねぇ・・・。

まず第一に、シュリーフェン・プランによれば、ベルギーがドイツ軍による進軍をまるで何もせず、素通りさせてくれるかの様に計画されているのですが、当然そんなことはありません。ベルギー軍だって自国に侵略してくる国があれば当然迎撃します。当然のことです。

ということで、ドイツ軍はベルギーを通過する際、当然のようにしてベルギーの反撃を受けることとなりました。

第二に、対ロ仏開戦に当たって、英国は中立の姿勢を示していたのですが、ドイツに対してたった一つだけ約束をしていました。

「ベルギーにだけは攻め込むなよ」と。

英国がなぜベルギーに攻め込まないようドイツに進言したのかを深く調べることは現時点ではしませんが、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが進軍する以上、ドイツはベルギーに攻め込まないわけにはいきません。

ということで、イギリスに対独開戦を行うための口実を与えてしまい、ドイツは当然のごとくしてイギリスも敵に回してしまいます。

また更に、ロシアだって10年前のままの軍事態勢で居続けるわけがありません。10年もあればロシアの軍事技術も当然進歩します。

シュリーフェン・プランによれば、ロシア軍がドイツ国境にたどり着くまでに6週間かかるとされていましたが、ロシア軍は総動員発令より実に2週間半後にはドイツ国境にまでたどり着き、当然ドイツ軍はそちら側にも軍を配備しないわけにはいかなくなり、対フランス戦がスタートした時点で、既にドイツ軍の優位性は吹き飛んでしまっていました・・・というか、最初っから優位性もへったくれもない気がします。

フランスやロシアを見くびりすぎですし、ベルギーを舐めすぎでしょう。

もしこの時の指導者がビスマルクであり、参謀が大モルトケであったとしたら・・・と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもビスマルクや大モルトケはこんな稚拙な計画で露仏両国に戦争を挑むなどというバカな真似はしませんし、そもそもオーストリアとロシアが戦争状態に陥る前に事態を打開していたのではないかと思われます。

普仏戦争においてフランスはまともな準備すらせずにドイツに宣戦布告し、逆に綿密な準備を行っていたドイツに返り討ちにされたわけですが、今回の独仏戦は真逆ですね。

しかも、「シュリーフェン・プラン」は、おそらくドイツ側から宣戦布告を行うことなど想定していなかったんじゃないでしょうか?

ドイツがロシアの宣戦布告を行うため、ドイツ側の勝手な理屈でフランスは宣戦布告をされ、ベルギーはドイツ側の勝手な理屈で攻め込まれてしまうわけです。

元々はセルビアのバックについたロシアとオーストリアとの争いですから、フランスもイギリスもベルギーも全く戦争には無関係ですから。

それもこれも、ヴィルヘルム2世の「世界政策」という、あまりに幼稚な妄想が呼び込んだ「厄災」です。ドイツ国民にとってもいい迷惑だったでしょうね。更にイギリスと同盟関係にあった日本からも宣戦布告され、せっかく極東に手に入れたはずの山東省という植民地まで失ってしまうことになりました。


イタリアの離反

イタリアは、元々オーストリアとの間で領土問題を抱えていました。

第387回 以降の記事でたびたび話題にしてきた「ウィーン三月革命」。

直前に起きたフランス二月革命は、プロレタリアートたちによるいわゆる「プロレタリアート革命」でしたが、ウィーンで起きた「三月革命」は、そんな二月革命に触発された革命ではありますが、性格はオーストリアでハプスブルグ家の支配下にあった民族がオーストリアからの独立を望んで起こした「民族主義」革命。

独立を望んだ「民族」の中に、「チェコ」「ハンガリー」に加えて「北イタリア」が含まれていたことをご記憶でしょうか?

この問題は、ビスマルクによってドイツが統一された後もくすぶり続けていました。

ですが、露土戦争の事実上の講和条約である「ベルリン条約」を経てフランスがイタリアの対岸にまで迫ってきたことを受け、「ドイツ」「オーストリア」との間で同盟関係築きました。(三国同盟)

イタリアは三国同盟の一員として大戦に参加したはずだったのですが、開戦翌年、4月には三国同盟を裏切り、連合軍へと寝返ります。

イギリスより終戦後、オーストリアとの間でくすぶり続けていた領土問題を回収することを約束されたことがその原因とされています。(ロンドン密約)


「独露」の敗北

一国一国詳細に調べることはしませんが、イタリアが離脱したとの独墺に、オスマン帝国、ブルガリア王国がが加わり、「中央同盟国」を形成。

「中央同盟国」は、シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 にて話題にしましたね?

第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

1917年に勃発した二月革命~十月革命、所謂「ロシア革命」の影響でロシアは共産化し、連合軍を離脱。中央同盟国と同盟関係を築いたウクライナとの戦争を経て、中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。

元々セルビアのバックについたロシアと、オーストリアのバックについたドイツとの間で始まったはずの第一次世界大戦ですが、ロシアは早々と(といっても3年は経過していますが)戦線から離脱してしまいます。

そしてその翌年。ドイツもまた、同じような経緯をたどって第一次世界大戦の宣戦から離脱することとなります。この事を受け、第一次世界大戦は終結することとなるのですが・・・。

では一体どのようにしてドイツは第一次世界大戦から離脱することとなったのでしょう? 実は私、既にこの内容を記事にしていたんですね。私自身が作成した記事でありながら、全く気付いていませんでした。

それが、こちらの記事→第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

そう。私が今シリーズ を作成するきっかけとなった記事です。

ということで、次回記事では、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 に引き続き、再び「ドイツ革命」に焦点を当てて記事を作成したいと思います。

記事内容としてはおそらく ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 で作成した記事を引用する形で進めていくことになるとは思いますが、もう少し「ドイツサイド」に切り込んだ視点で記事を作成できればと考えています。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由

前回の記事で、第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたことがある、と言いながら、一つしかその理由を掲載せずに記事を終了させていましたね。

後、「ナチェルターニェ」、日本語で「大セルビア主義」というんですが、これもリンク先を読んでいただければよくわかるんですが、リンクを読め、という表現はいささか強引だったかと。

「ナタルニーチェ」とは、セルビアがオスマン帝国に占領され、滅ぼされる以前に存在した「大セルビア」。オスマントルコから独立して復活を果たしたセルビアが、オスマントルコに滅ぼされる前の状況にセルビアを戻そうとするセルビアの政策の事を言います。

滅ぼされる前のセルビアの領土の中に、「ボスニア」が含まれており、オスマントルコから独立したセルビアは、自国同様自治権を有することとなったボスニアを自国領として再び併合したい、と考えていたわけですね。


あともう一点。私は前回の記事で、

『セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね』

と記したのですが、結果的にやはり「ナチェルターニェ」構想がその原因の一つとなっていたことが前回の記事を進めていく中でわかりました。

ナチェルターニェは1844年に製作されたのですが、露土戦争後、正式にオスマントルコから独立することができたセルビアを率いていたセルビア公は親オーストリアであったため、ナチェルターニェ構想は形骸化していたのですが、セルビアでクーデターが起こり、カラジョルジェヴィチ家が政権の座に就いた後、再び「ナチェルターニェ」に基づく政権運営が復活した、ということですね。

オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間に「火種」を生んだのはセルビアで起きたクーデターであり、セルビアがこれまでの「親墺」から「親露」に転向してしまった事。これまで武器の発注をオーストリアに行っていたのに、これをフランスに切り替えるなどしたため、オーストリアとセルビアとの間で所謂「貿易摩擦」が起きました。

対抗してオーストリアがセルビアの畜産品に莫大な関税をかけて事実上の禁輸措置をとるなどしたため、オーストリアとセルビアの関係は急速に悪化していくこととなります。(豚戦争)

そして、そんな中で行われたのがオーストリアにより「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」という強硬策でした。

ロシアと密約まで結んで実行したはずなのに、結果的にオーストリアはボスニアだけでなくロシアも敵に回してしまうことになります。その後勃発した「第二次バルカン戦争」において、セルビアのバックについたロシアと、ブルガリアのバックについたオーストリアはまるで「代理戦争」の様な形で戦果を交えることとなります。(実際に戦争したのはセルビアとブルガリアです)


ドイツはなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?

前回の記事で、『「いくつか」整理できたことがある』とした内容のうちの一つとして、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」が、セルビアが一方的に事件を仕掛けてきた事件であり、オーストリアが切れて引き起こしたのが「第一次世界大戦」だというような、非常にあいまいな認識でいました。

ですが、「バルカン問題」の事を考えると、サラエボ事件が起きる以前から、セルビアとオーストリアの間では既にいつ戦争状態に陥ってもおかしくはない「火種」があったんだということを知ることができました。

また更に、第一次世界大戦ではオーストリアがセルビアに宣戦布告をおっこなった後、ニコライ二世がロシア軍総動員令を発令し、これに対抗する形でドイツが同じく総動員令を発令。更にドイツがベルギーにまで攻め込んだことを受け、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行う・・・といった形で大戦は泥沼化していくことになります。


この流れは非常に概略的な説明になるのですが、例えば前回の記事でも疑問を呈しました通り、この時点でヴィルヘルム2世とニコライ2世は友好的な関係にあり、この2名がなぜお互いに宣戦布告を行うような状況になったのか。疑問が残りますね。

また、セルビアにオーストリアが宣戦布告を行ったことは理解できるとしても、ではなぜヴィルヘルム2世はそう簡単にオーストリアに対する支持を表明したのか。ここも素直にうなずくことはできない部分です。

現時点で一ついえることは、この時点でドイツの指導者は既にビスマルクではない、ということ。皇帝であるヴィルヘルム2世自身なんですね。また更に、普墺・普仏戦争の際、軍参謀総長として辣腕を振るった「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」もまたもういないということ。

参謀総長の座にあったのは、モルトケ(大モルトケ)の甥である「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」、通称小モルトケであったということ。この2点があげられるかと思います。

そう。『第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたこと』のうち2つ目は、第一次世界大戦の時のドイツ指導者であったヴィルヘルム2世は「世界政策」の名の下に、行き当たりばったりで行動する、彼のビスマルクとは比較にならないほどの無能者であったということです。

ただ、本当に「無能だった」といえるのかというと、それは先代の指導者であったビスマルクが有能すぎただけで、他国の指導者たちと比較すると、これがどうだったのかということには疑問が残るところですね。


ヴィルヘルム2世とニコライ2世

ヴィルヘルム2世とニコライ2世

この両者。実はいとこ同士。これは私としても意外でした。

ただ、いとこと言っても、直接の血のつながりはないそうで、血のつながりがあるのはヴィルヘルム2世とニコライ2世の妻。とはいえ、両者が仲がよかった理由の一つとはいえるかな、と思います。

また、サラエボ事件が起きたときの両者の「皇帝」としての立ち位置を考えますと、ヴィルヘルム2世の場合、第453回の記事 でお伝えしました通り、デイリー・テレグラフ事件を受け、イギリスや日本を敵に回し、更に議会では選挙を経てドイツ社会主義労働者党が姿を変えたドイツ社会民主党が議会第一政党へと躍進。

更にツァーベルン事件を経て社会民主党の支持者を中心として帝国全土からバッシングを受け、議会とは大きな亀裂が発生している状態。これが1913年末の段階です。

一方のニコライ2世は日露戦争勃発後に首都サンクトペテルブルクで丸腰の民衆に発砲し多数の死傷者を発生させる「血の日曜日事件」を起こし、「ロシア第一革命」が勃発。

更に日露戦争には敗北し、民衆に対する威信は著しく低下。国内には各地に「ソビエト」と呼ばれる社会主義者たちの「評議会」が結成される状況にありました。

実際、ロシアでは第一次世界大戦開戦より約3年後に当たる1917年2月23日、後の「10月革命」へとつながる「二月革命」が勃発しており、ロシア国内には「反乱分子」といえる社会主義勢力が虎視眈々と改革の機運を狙っている状況にあったのだと思います。

つまり、「ロシア」も「ドイツ」も、実は国内情勢としては非常に似通った状況にあったということ。ひょっとすると、「戦争」を起こし、これに勝利することで、国内に対する皇帝の「威信」を取り戻したいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。


オーストリアの事前工作

オーストリアによる「セルビアへの宣戦布告」が行われた時、ロシアは即セルビアへの支持を表明し、「ロシア軍総動員令」を発令しました。

これに対し、ドイツもまた同様に「総動員令」を発令したわけですが、実はドイツはそう条件反射的に総動員令を発令したわけではありません。

ロシアが総動員令を発令した時、ヴィルヘルム2世はまず、ニコライ2世に対して「総動員令の取り下げ」を行うよう要請しています。ロシアが総動員令を発令したのが1914年7月30日の事。ドイツが取り下げの要請を行ったのは同日の事であり、ドイツは翌31日まで回答を待っています。

ですが、ロシアがこれを断ってきたためにドイツはロシアに対して動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を条件とする最後通牒を発し、翌8月1日、ロシアがこれを断ってきたためドイツはロシアに対し「宣戦布告」を行っています。

では、ドイツは一体なぜこれほど即座にオーストリアを支持するため、ロシアへの「要請」を行ったのでしょうか?


オーストリアは、サラエボ事件を口実にセルビア人をサラエボから駆逐しようとしていた

今更感満載ですが。

私、どちらかというとオーストリアが切れるのも最もだよな、というような考え方をしていたわけですが、しかし実際はオーストリアもセルビアに対して「反セルビア感情」を抱いていたわけで、自国の皇太子夫妻が暗殺されたことは、オーストリアにとってこれ以上ない対セルビア開戦を行うための「口実」だったんだな、という印象を今は持っています。

ですから、オーストリアは、セルビアに対して宣戦布告を行う前に、サラエボにおいて「反セルビア暴動」を煽動しています。

Wikiから引用しますと、以下の通りです。
サラエボではボスニア系セルビア人2人がボスニア系クロアチア人とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。

セルビア人に対する暴力はサラエボ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「Schutzkorps」も設立され、セルビア人を迫害した

つまり、オーストリア当局は反セルビア暴動をあおっておいて、これに反発して暴動を起こしたセルビア人たちを逮捕、投獄、処刑し、セルビア人に対する迫害まで行っていた、ということですね。

オーストリアがもし皇太子夫妻殺害に対する報復として宣戦布告を行うのなら、このようなことを行わず、即座に宣戦布告を行うのではないか、と私は思うのです。

オーストリアは、それよりもバルカン半島におけるセルビアの脅威を取り除くことを意図しており、もし仮に自国がセルビアに宣戦布告を行ったとすれば、当然にしてセットでついてくる「ロシア」の脅威を事前に取り除いておく必要がある、と考えました。

仮にロシアが参戦したとしても、これに対抗するだけの軍力が必要だと考えたわけですね。

ですので、サラエボで暴動が起きている間に、オーストリアは事前にドイツと交渉を行い、「ロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助する」約束を取り付けていました。

ドイツ、ヴィルヘルム2世がロシアに対し、即座に「ロシアへの要請」を行った理由はここにあります。


ドイツはなぜオーストリアを支持したのか

となると、疑問はここにたどり着きます。

事前交渉でドイツはオーストリアを支持することを表明していたわけですが、オーストリアを支持してセルビアと対立するということは、これはイコールロシアとの対立を意味することは分かっていたはずです。

ヴィルヘルム2世がニコライ2世に行ったような交渉をしたところで、引き下がるようなロシアではないことも。

また更にドイツはロシアに宣戦布告すると同時にフランスに対しても宣戦布告を行っています。これは、、「シュリーフェン・プラン」と呼ばれる、露仏攻略ための古い「戦略」を実行するため。ドイツの計画では「ロシア」に宣戦布告をするということは、同時に対フランス開戦も意味していました。

このあたりは次回記事でまとめたいと思います。

この後更にイギリスまでもがドイツに宣戦布告を行っており、どう考えてもドイツにとっては不利でしかありません。

これをドイツ、ヴィルヘルム2世はオーストリアを支持した段階で予見できたはずです。

結局、これをもたらしたのも、ヴィルヘルム2世がビスマルクの「フランス孤立化政策」から「世界政策」へと大きく舵を切りなおしたことが原因です。

この事は、かえってドイツの孤立化をもたらし、オーストリアから対セルビア開戦に向けた相談が行われた段階で、既にドイツにはオーストリアしか同盟国が存在しませんでした。

実際には「三国同盟」が結ばれていて、ドイツはイタリアとも同盟関係にあったのですが、イタリアは第一次世界大戦中に英仏露の「三国協商」側に寝返って対独参戦しています。

この状態で、もしオーストリアがセルビアに敗れるようなことがあれば、西をフランス、東をロシアに抑えられたドイツの南側に、バックにロシアがついた「セルビア」という脅威が迫ることとなります。

加えて戦争状態に突入することで、ビスマルクがそうしたように、ドイツ国内の「ナショナリズム」を煽動して、自身に反発する社会主義者たちをも巻き込むことを想定したのかもしれません。普仏戦争の時はあのマルクスでさえ「ナショナリズム」に昂揚したわけですから。

どちらにせよ、ヴィルヘルム2世の中に、「焦り」があったことは事実だと思います。


さて。次回記事では、ドイツがどのようにして第一次世界大戦に臨んでいくのか、本日少しだけ話題にした「シュリーフェン・プラン」を中心に記事を進めてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第453回 諸悪の根源? ヴィルヘルム2世がもたらす災厄

前回 までの記事を通じまして、特に「ロシア」と「ドイツ」 の2方面から、第一次世界大戦というものを見ることができたかな、と思います。

とはいえ、当シリーズ における「第一次世界大戦」については、これから記事にする予定なので、少し矛盾する言い回しにはなりますが。

二つの視点から見てきたことで、私の中でいくつか整理できてきたことがあります。


第一次世界大戦とバルカン問題

一つは、「第一次世界大戦の勃発」が、結局「バルカン問題」の延長線上にあったんだな、ということ。

勃発した単調直入な理由は>前回の記事 でも掲載しました通り、ボスニア出身のボスニア系セルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が原因で、1914年6月28日の事。

第303回の記事 におきまして、その背景として、まず暗殺犯であるガヴリロ・プリンツィプに武器を支給したのがセルビア政府であること。

そしてこれを理由にオーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったことを記事にしました。

また更に、その遠因として、オスマントルコの支配下にあったセルビアが、最終的に「セルビア王国」として独立した様子を記事にしました。引用します。

セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。

この引用部分に関しましては、ドイツシリーズにおいて私が掲載しました、

第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

 及び、

第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

両記事を読んでいただいた方には、すっとご理解いただける内容かと思います。

両方の記事を繋げますと、バルカン半島で、1459年6月、「イスラム教国であるオスマントルコ」に支配されていた「キリスト教国であるスラブ人国家セルビア」は、1817年、にオスマントルコ領セルビア公国として復活し、1882年、「セルビア王国」として独立したということ。

ただ、「セルビア」についての説明は、第303回の記事 では少し誤りがあります。

セルビアが、元々セルビア王国領であったボスニアを、オーストリアが併合してしまったために、オーストリアに対する敵愾心を抱くようになったかのように記していると思うのですが、447回の記事 でも訂正していますように、ベルリン条約でオーストリアによるボスニアの自治権が認められた後、セルビアはオーストリアに歩み寄っていて、オーストリアの承認を受けてセルビア公国からセルビア王国へとランクアップしていたりしますので、この記述は正確ではないと、現時点では考えています。

つまり、セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね。


オーストリアとセルビアの対立の理由

オーストリア・ハンガリー帝国

セルビア王国

ということで、オーストリアとセルビアが対立した理由を探ってみたのですが、一番大きいのは、1903年6月11日にセルビアで起きたクーデターにあるようです。

このクーデターで、ベルリン条約後、オーストリアから承認されて王国へと昇格させたセルビアの王家、オブレノヴィッチ家、最後の国王であるアレクサンダル・オブレノヴィッチ5世が陸軍士官らによって暗殺されてしまいます。

セルビアそのものの情報をそこまで深めるつもりはないのですが、さわりだけお伝えしておきますと、この事でセルビアは専制君主制から立憲君主制に移行。新国王は親露政策をとり、更にオーストリアとの間の同盟関係を解消し、英仏、ブルガリアと経済同盟を形成したのだそうです。


「豚戦争」の勃発


この事でセルビアとオーストリアでは、その関係が急速に悪化することとなります。いきさつを、Wikiからそのままコピペしてみます。

1906年、セルビアが兵器の購入先を二重帝国のベーメンの兵器工場からフランスに切り替えると、二重帝国は対抗措置としてセルビアの主要輸出品である畜産品(豚またはその製品)など農産物への禁止関税を施行した。

これに対しセルビアは二重帝国からの輸入を拒否する報復措置をとり、「豚戦争」が始まった。

豚戦争は1910年まで続いたが、その間セルビアは、二重帝国以外のヨーロッパ諸国に市場を求めてオスマン帝国のサロニカ(現在のギリシア・テッサロニキ)の港経由で交易を行い、オスマン帝国のほかエジプト・ロシアに家畜の輸出先を拡げ、さらに皮肉なことに、オーストリア=ハンガリーの有力な同盟国であるドイツに市場を確保することによって二重帝国からの経済的自立を達成した。

つまり、このセルビアによる大きな政策転換が、セルビア・オーストリアの対立を生むきっかけとなり、将来起こる「第一次世界大戦」の遠因となっていたんですね。

余談ですが、セルビア王家の特徴は、オブレノヴィッチ家も、クーデター後に君主となったカラジョルジェヴィッチ家も、ともにセルビア本国の出身者でした。支配民族と被支配民族が同じ、という日本と同じ構造の国だったんですね。


オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合

オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するのは1908年10月6日の事。

この時、カラジョルジェヴィチ家への王位移行を経て、オーストリアとの関係が急速に悪化していたセルビアでは、再び「大セルビア主義」、つまり、「ナチェルターニェ」に基づいた国家戦略が復活していたんですね。

この時点で、セルビアは再び「ボスニア・ヘルツェゴビナ」への進出を志すようになっていましたから、このタイミングでのオーストリアの「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」、オーストリア・セルビア関係に対して、まさに火に油を注ぐような行為であったことは想像に難くありません。

また、この時オーストリアの外相に任じられていた「アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール」は、セルビアがどうという前に、ロシアとの協調関係を維持しながらもバルカン半島に対する影響力を拡大するための外交を推し進めており、その「総仕上げ」でもあったのがボスニア・ヘルツェゴビナの自国への併合でした。

同年(1908年)7月にオスマントルコでは「青年トルコ革命」が勃発し、にわかにバルカン半島情勢が混乱し始めることになります。

これは、エーレンタールにとっても一つの「チャンス」でもありました。逆に革命の影響がバルカン半島を刺激するようになれば、自国が占領しているボスニア・ヘルツェゴビナもまた、不安定化する恐れがありましたから、エーレンタールはすぐさま決断し、ロシア外相とも協議し、両地域の併合をロシアが黙認する「密約」を取り付けます。

これを受け、10月5日、一気の両地域の併合宣言を行いましたが、案の定セルビア(とモンテネグロ)が猛反発し、オーストリアとの間で一生即発の事態を迎えます。更に開戦に乗り気だったのはむしろオーストリアの方で、オーストリアはセルビアとモンテネグロを分割することで、バルカン半島に対する懸念材料を一気に払拭する気満々でした。

ところが、ロシア国民の間でセルビアに対する同情論が高まり、また英仏の反対で密約を結んだロシア側の「権益」がご破算になったこともあり、ロシア政府は国民の圧力に押されてオーストリアに強硬な態度をとることとなり、今度はロシアとの間にまで開戦の危機が生まれてしまいます。

これを受け、オーストリア皇帝は対セルビア開戦を断念。ロシアにはドイツが圧力をかけ、開戦の危機は回避されることとなりました。


この段階で、出来上がってしまっていますね。「オーストリア対セルビア」の対立の構図が。そしてセルビアのバックにはロシアが付き、オーストリアのバックには「ヴィルヘルム2世率いる」ドイツが付くという構図まで。

そもそもの原因を作ったのは、クーデター後に誕生したセルビアの新国王ペータル1世政権。同政権の政策転換さえなければ、ひょっとすると墺露にセルビアを加えた状態でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の話も出来ていたのかもしれません。

第一次世界大戦の当事者であるヴィルヘルム2世とニコライ2世は元々中がよかったはずなので、これがなければ両国が戦争状態に陥ることもなかったのかもしれません。

この後、1912年5月には独立を目指して反乱を起こしたアルバニア人を支援する「バルカン同盟」とトルコとの間で「第一次バルカン戦争」が勃発。

バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャ)の結成はロシアが支援したものです。(参考記事:第307回

バルカン戦争では結局バルカン同盟側が勝利するわけですが、今度はバルカン同盟の同盟国間で争いが勃発(第二次バルカン戦争)。

詳細はリンク記事を参考にしていただきたいのですが、構造は「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」V.S.「ブルガリア」。

ロシアは元々「汎スラブ主義」で盛り上がる国民の声に押されてスラブ人国家を支援していた国ですから、当然「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」を支援。一方でセルビアと対立構造にあるオーストリアはブルガリアを支援します。

ブルガリアに対してはルーマニア、オスマントルコも宣戦布告を行いましたから、ブルガリアを支援したのは唯一オーストリアのみであったことがわかります。

セルビアのオーストリアに対する怨念は、第一次・第二次バルカン戦争でも深められることになりました。詳細は308回記事 をご参照ください。

そんな中で勃発したのが、セルビア政府から武器を渡された 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』が「サラエボ」でオーストリア皇太子を暗殺した「サラエボ事件」。

次回記事では、本題である「第一次世界対戦」そのものへと記事を進めてみたいと思います。

このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第452回 ヴィルヘルム2世の政策~場当たり的な政策が醸し出す未来~

しかし、ヴィルヘルム2世・・・いけてないですね、やっぱり。

前回の記事 で彼の政策を一部記事にしてみたんですが、どうにも気が乗りません。感情移入できないんです。

タイトルにもしたように、一つ一つの政策が場当たり的ですし、先見性のかけらも見受けられません。そして、彼の周りにも彼の政策をきちんとサポートできているような人物が見当たらないんですね。

それを象徴しているのは、彼の政策の象徴ともいえる「世界政策」でしょうか。

例えば、私が高校時代、教科書で習った言葉に「3B政策」という言葉があります。ですが、この言葉を覚える意味が一体どこにあるのか、私には理解できません。

1898年、彼がオスマン帝国を訪問した際、彼はオスマン帝国に対し、「ドイツは全世界3億のイスラム教徒の友である」という演説を行っています。

ですが、これまでの歴史を踏まえ、普通に考えればわかると思うんです。ドイツがオスマン帝国に対して、友好の言葉を述べるということは、即ちドイツとオスマントルコとの間にあるエリア。「バルカン問題」を頭に入れていれば、このバルカン問題において、「ドイツはスラブ民族ではなく、オスマン帝国を支持しますよ」といっているようなもの。ロシアに喧嘩を売っているようなものです。

また更に、スラブ民族のほとんどはキリスト教徒なんですから、当然イギリスやフランスも敵に回すようなものです。

この後、彼はドイツ(プロイセン)の首都、ベルリン、

ベルリン

トルコとバルカン半島の接点であるヴィザンティウム(現在のイスタンブール)、

ビザンティウム

現在のイラクの首都バグダッド。
バグダッド

この3つの地点を鉄道で結ぶ、「バグダッド鉄道」の建設が政策として計画されました。これが、のちに「3B政策」と呼ばれるようになります。これが英仏露の大反発にあい、第一次世界大戦に敗退したことで、頓挫することになります。

まあ、要は3つの大国との間に反発を生んだだけで、ドイツには全く利益をもたらさなかった政策です。これらの国々との対立を極力起こさないように政策を進めたビスマルクの政策とは全く対立する政策ですね。


デイリー・テレグラフ事件

前回の記事で話題にした「黄禍論」もそうですが、ヴィルヘルム2世は、日本に対しても挑発し、反発をあおるような発言をたびたび行っていたようです。

彼が行った政策の一つに、「艦隊法」という法律の制定があります。

この法律は、ドイツ軍に新しく海軍を設立するもので、1898年、「自衛のため」の艦隊建設を目的とした法律が、更に1900年に成立した「第二次艦隊法」は「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を意図したものであったのだとか。

これに対し、ヴィルヘルム2世は言い訳として、

「ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国々に対するものである」

との発言を行っています。Wikiの開設によれば、「特に日本を挑発するような発言」として掲載されています。

この言葉は、「デイリー・テレグラフ事件」といって、ヴィルヘルム2世と対談したイギリス陸軍大佐、ワートリーという人物が、その対談の内容を、「恣意的に要約」して「デイリー・テレグラフ」という新聞社に送り付けたものが発端となってはいるのですが、掲載されたのは1908年10月28日の事。

ですので、「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を目的としたとされる「第二次艦隊法」成立後の話です。日本にとってみれば、三国干渉に引き続き、ということになるでしょうか。

ビスマルクとの面会により、日本人では「ビスマルクのいる」ドイツが大好きな人が増えていたのですが、ヴィルヘルム2世の数々の挑発的な言動を受け、日本では「反独」感情が供促に高まることになります。

「デイリー・テレグラフ紙」ではこれ以外にも、イギリス人を挑発するような発言や、イギリス人たちを見下しているともとられかねないような発言も掲載されており、これはイギリス人だけでなく、ドイツ人からも怒りを買うことになります。

ビスマルクの時代には、皇帝はどちらかというとお飾り的な存在であり、その主導権は完全に首相である「ビスマルク」が握っていました。

ヴィルヘルム2世はこれを快く思っていなかったんですね。ですからビスマルクを事実上罷免してまで自分自身が主導して政治を運用しようとし、宰相はみな、ヴィルヘルム2世の考えを実現するにはどのようにすればよいか、としか考えられない連中がその座に収まる結果となってしまったのです。

「デイリー・テレグラフ事件」を受け、カプリヴィ、ホーエンローエの後を次いで首相となったビューローは首相の座を辞職(1909年7月14日)。議会からも皇帝のあまりにも軽率すぎる振る舞いを批判する声が非常に大きくなりました。

ビューローが辞職する直接の原因となったのは艦隊法による軍艦建設により財政赤字が深刻化したことが原因なのですが、デイリー・テレグラフ事件の結果、皇帝の権力よりも議会の権力の方が強くなり、ヴィルヘルム2世の権力は事実上、大幅に縮小されることとなりました。

後継者として「テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク」が宰相となるのですが、彼が宰相となって初の帝国議会選挙(1912年1月)によって、ついに「ドイツ社会民主党」が議会第一政党へと躍進することとなりました。

「ドイツ社会民主党」。そう。第439回 までの記事でテーマとしたドイツの社会主義政党。「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が合併して出来上がった、「ドイツ社会主義労働者党」を前身とする政党です。

ドイツ社会主義労働者党は、ビスマルクが失脚し、「社会主義者鎮圧法」が失効した事を受け、「ドイツ社会民主党」と党名を変更しました。

すごいですね。ヴィルヘルム2世のあまりにも稚拙すぎる政策のおかげで、ビスマルクが恐れていた「未来」が、国外だけでなく帝国内でも見事に現実のものとなっていくのです。


孤立化するドイツ

海外では1902年に日本とイギリスとの間で日英同盟が。1904年日露戦争を経て1907年日露の間で日露協約が、フランスとの間で日仏協約、イギリスとロシアとの間で「英露協約」、1908年には日米間で「日米協商」と、次々に友好関係が築かれていきます。

逆にドイツと友好関係にあるのは清とオスマントルコのみ。ドイツは孤立化を強いられることとなっていました。

ビスマルク体制とは、真逆ですね。多分、ビスマルクであればこの時点で日本とは友好関係を築いていたでしょうし、日本と協力してロシアの満州進出を阻止しながら、ひょっとすると目的を同じくするイギリスとも同盟関係を築いていたかもしれません。

一方でロシアと敵対関係を作るつもりもないでしょうから、「独露再保障条約」の更新を行って友好関係を築き、同時にオーストリアとの同盟関係を継続しながら、バルカン問題にも取り組んでいくような形になっていたのかもしれません。希望的観測すぎるでしょうか。

とはいえ、ビスマルクは1898年7月30日、老衰に近い形で息を引き取っていますから、遅かれ早かれ同じような状況は生まれていたのかもしれません。「ヴィルヘルム2世」という人物が皇帝になるという事実だけは避けることができなかったでしょうから。


ツァーベルン事件

ドイツ社会民主党が議会第一党として躍進したその翌年(1913年)末、「ツァーベルン」という町で、地元住民とプロイセン軍との間に、一触即発の事態が勃発します。

この町は、普仏戦争によってドイツがフランスより獲得した「アルザス地方」にある町。

ややこしいんですが、アルザス人はもともと「ドイツ民族」。ドイツ語の一種である「アルザス語」を話す民族で、ドイツの前進の一つである「神聖ローマ帝国」の一部でした。

その後、フランスの領土となっていたのですが、普仏戦争によって再びドイツに統合された地域です。

ここに住んでいた「エルザス人(アルゼス人)」は、フランスに支配されている間にドイツ人との間に価値観の「ズレ」が生じており、ドイツ人の中にも、このエルザス人に対する「差別意識」のようなものがあったのだそうです。

そして、この地域に配属されたプロセイン将校がツァーベルンの住民に対して行った「侮辱的発言」が原因で、エルザス人の中から抗議の声が上がります。同発言が新聞報道されたんですね。

報道後、兵舎の周りに集まった群衆が逮捕される、侮辱した張本人であるフォルストナーが、今度は自分自身が侮辱されたことに逆切れして市民を怪我をさせ、拘留される、などの小競り合いが発生。

ツァーベルン議会からは皇帝や宰相に対して、市民が逮捕されたことを講義する電報が送られるなどし、社会民主党の支持者を中心に兵士に対する抗議活動が、帝国全土へと広がります。

その後、フォルストナーによる侮辱行為が音声記録として登場したことにより、フォルストナーは侮辱罪で告訴され、事態は終息へと向かいます。


この事を受け、宰相であるベートマンに対して不信任案が提出され、保守党以外全ての政党によって決議されるのですが、憲法によって宰相の任免権が皇帝にあることが決められており、ヴィルヘルム2世はベートマンの続投を表明。事件に関係した軍人たちが処罰されることもありませんでした。

結果として、ヴィルヘルム2世と議会との間には大きな亀裂が生じることになるんですね。


さて。いよいよ「第一次世界大戦」へと時計の針が近づいてまいりました。

第一次世界大戦の直接の原因となったセルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件が勃発するのは1914年6月28日。

第303回の記事 におきまして、「ロシア側の視点」から「第一次世界大戦」勃発を記事にしました。

次回記事では、「バルカン問題」も絡めながら、今度は「ドイツ側の視点」から第一次世界大戦について記事にすることができればと思っています。

いよいよ、シリーズ、 ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 とリンクしてきましたね。

少しだけ、楽しみになってきました。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第451回 近代日本の礎を築いたビスマルク〜岩倉使節団との邂逅〜

ここからまた難しくなりますね。

ヴィルヘルム2世が行ったことを理解するためには、まずヴィルヘルム2世という人物の人となりを理解する必要があると思うのですが、ざっくりとヴィルヘルム2世がやったことしかまだ私の知識の中にはないので、現時点では困難さを覚えています。

単に彼が執り行ったことをここに列挙し、「この政策がこんな結果を招いた」と批判するだけであれば簡単なのですが、ヴィルヘルム2世はヴィルヘルム2世なりに、各政策を行った理由というのが存在するはずなんです。

現時点で情報としてあるのは、ヴィルヘルム2世は自身の祖父であるヴィルヘルム1世がビスマルクの陰に隠れて、ヴィルヘルム1世の政策ではなく、ビスマルクの政策がプロイセンだけでなくやがて誕生する「ドイツ帝国」まで含めてその方向性を決めていたことに子供ながら疑問を覚えていたということ。


社会主義者鎮圧法の廃止と労働者保護勅令

ビスマルクの考え方も理解していたし、祖父ヴィルヘルム1世を尊敬こそしていたものの、どことなく「なんでおじいちゃんが皇帝なのに、配下であるビスマルクの言うことに従っているんだろう」といった疑問を彼は持ちつ続けていたんじゃないかと思うのです。

そんな彼が皇帝としてまず実現しようとしていたのは「労働者保護勅令」を成立させること。

けれどもビスマルクは、「いや、それをやるんだったら先に社会主義者鎮圧法を無期限で延長させなきゃ」という主張を行っていたわけです。

だからこそビスマルクはヴィルヘルム2世との謁見の中で感じた手ごたえを根拠に「社会主義者鎮圧法の無期限延期」とともに『「労働者保護勅令」が反映された「労働者保護法案」』を提出する方針を示したのです。

ビスマルクは別にヴィルヘルム2世が主張する「労働者保護勅令」を軽んじていたわけでもなんでもなかったのではないか、と私は思うのです。

ですが、この一点で両者は対立し、ビスマルクは首相を辞職し、表舞台から去ってしまうことになります。

誤解なき様に記しておきますと、「社会主義者鎮圧法」においてビスマルクとヴィルヘルム2世が対立していたのは、同条文から「社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項」を削除するかどうかということについてであり同法案を無期限に延長するのかどうかということではありません。

結果的にヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を認めず、同法案は廃止されることとなりました。これが、第449回の記事 で記した内容です。


ヴィルヘルム2世とレオ・フォン・カプリヴィ

ビスマルク失脚後のドイツでは、「レオ・フォン・カプリヴィ」という人物が首相となり、ヴィルヘルム2世の政策を支えることとなります。

Wikiを中心に見ているのですが、現在私の頭の中にはいくつかの疑問が沸き起こっています。

カプリヴィの政策として、どうもビスマルクの政策と対立する政策がとられたかのような記述が目立つのですが、私は決してそうではないような気がするのです。

ヴィルヘルム2世の下、彼が実行した政策の一つとして、「労働者保護政策」が挙げられています。これはヴィルヘルム2世が実行していようとしていた政策と同じもので、

・産業裁判所を設立(労使紛争の調停)

・13歳未満の子供の雇用の禁止

・13歳から18歳の労働時間を1日10時間以内に定める

・日曜日の労働禁止

・最低賃金制度の導入

・女性の労働時間を1日11時間以内とする

といった内容です。ですが、既に私は述べていますように、ビスマルクは「これをやるんだったら「社会主義者鎮圧法の無期限延長を先に行うべきだ」主張していたのであって、この内容そのものに反対していたわけではないと思うのです。

何よりビスマルクは

・「労災保険制度」
・「疾病保険法」
・「障害・老齢保険法案」

という3つの法制度を実現した人物であり、実際にビスマルクも同じ「労働者保護法案」を提出する方針を示しています。

ですから、これを以てカプリヴィがビスマルクの方針を転換したかのように記すのはミスリードなのではないかと私は思います。


また、

「ビスマルク時代に徹底的に分離された教育と教会を再び結びつけようとして、カトリック教会の教育への介入を大幅に認める学校教育法の法案を議会に提出した」

とも掲載されているのですが、ビスマルクが徹底的に教育と教会を分離しようとしていたのは「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が統合して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生し、議会でもその議席数を増やしたことを受け、社会主義者対策の必要性を実感させられるまでのこと。

それ以降はカトリック政党である中央党とも和解することを目指すようになっています。

ですので、ここもまた、ビスマルクと方針を大きく転換したように掲載されており、「ミスリード」であるのではないかと思います。

ただ、これは結果的に議会の自由主義者たちから痛烈な批判の的とされ、またヴィルヘルム2世からも強硬に反対され、カプリヴィは議会から大きく信頼を失ってしまうこととなります。


ヴィルヘルム2世の外交政策

時系列順なので、あくまでこれはビスマルクが失脚した直後に当たる時期の外交政策です。

第450回の記事 で、ヴィルヘルム2世が「世界政策」と呼ばれる外交政策を推進したことを記事にしました。

彼が行った外交政策の中で、最初に目にするのは「独露再保障条約」の更新を行わなかった、という記述です。

独露再保障条約とは、第447回の記事 でも掲載しましたが、1881年に成立した「三帝協定」がバルカン半島をめぐる墺露の対立で三帝同盟に引き続き崩壊した後、ロシアとフランスを接近させないためにビスマルクがロシアとの間で締結したもの。

1887年6月18日のことです。期限が3年とされ、1890年に更新時期を迎えたのですが、ヴィルヘルム2世はこれを更新しませんでした。

ビスマルクは、フランスとロシアを接近させないために同条約を締結したのですが、ヴィルヘルム2世はこれを理解しておらず、条約の更新を拒否します。(ロシアは更新を望んでいました)

その理由としてWikiベースではヴィルヘルム2世がロシアよりもロシアと対立関係にあるオーストリアやイギリスとの関係を重視したからだ、とあるのですが、これを具体的に裏付ける資料は今のところ見つけていません。

ですので、現時点では「ヴィルヘルム2世が独露再保障条約の更新を拒否した」という事実だけご認識いただければと思います。

そしてその結果、ビスマルクが恐れていたようにロシアはフランスと接近し、「露仏同盟」を締結することとなります。

改めてこちらの地図をば。

1900.jpg

ロシアはともかく、フランスはドイツに対して恨みを抱いている国です。そしてそのフランスとロシアが同盟関係となり、完全にドイツは両国に挟まれていますね。

ただ、フランスがドイツと敵対することは理解できるんですが、ロシアがそこまでフランスに執心した理由がいまいちはっきりとしません。

推測するとすれば、ドイツがオーストリアとの結びつきが強いことはビスマルク時代から継続していることですし、ロシアはバルカン問題をめぐって、そんなオーストリアと対立関係にあります。

一方でフランスはドイツと対立関係にありますから、そんなフランスとロシアとの利害関係が一致したということでしょうか。

そんな中ドイツはその主役がビスマルクからヴィルヘルム2世に移行しており、ロシアとの結びつきの裏付けとなっていた再保障条約の更新を拒否されたわけですから、ある意味当然の結果であったといえるのかもしれないですね。

つまり、ロシアはフランスを助けるためにドイツと対立関係に陥り始めていたということでしょうか。

しかし、そんなロシアとフランスがドイツと組んで日本に「三国干渉」を行うわけです。意味が分かりませんね。ちなみにこの時ロシアはフランスやドイツだけでなく、イギリスにも声をかけています。乗ってきたのはフランスとドイツだけだったということですね。


ちなみに、日本とドイツに対立構造が生まれるキーパーソンとなっているのが、マックス・フォン・ブラントという人物。

彼の略歴を掲載しますと、
伯爵の率いるプロイセン王国東アジア使節団に武官として随行。

1861年(文久元年)1月24日の日普修好通商条約調印に立ち会う。

1862年(文久2年)12月、プロイセン王国の初代駐日領事として横浜に着任、北ドイツ連邦総領事

1868年(明治元年)駐日プロイセン王国代理公使

1872年(明治5年)、駐日ドイツ帝国全権公使

1875年(明治8年)、清国大使となり、離日

とあります。日本とも非常に縁の深い人物です。

彼は、プロイセンが「北ドイツ連邦」になった当時、ビスマルクに対し、北海道をドイツの植民地とすることを提案した人物でもあります。しかし、ビスマルクはドイツ統一に必死で、当然のようにしてブラントの提言を突っぱねています。

この事は、実は日本が欧州の事を意識し、近代化する必要性を意識するきっかけともなった事件であったようです。

そして、そんなマックス・フォン・ブラント。彼はヴィルヘルム2世に対して、「黄禍論」という考え方を吹き込みます。

ブラントがヴィルヘルム2世に吹き込んだ考え方ですので、ヴィルヘルム2世に関する記述を引用しますと、ブラントがどのようにヴィルヘルム2世にこの「黄禍論」を吹き込んだのかということが推察できますね。

【ヴィルヘルム2世の主張する『黄禍論』】
かつてのオスマン帝国やモンゴルのヨーロッパ遠征にみられるように、黄色人種の興隆はキリスト教文明ないしヨーロッパ文明の運命にかかわる大問題でああり、この「黄禍」に対して、ヨーロッパ列強は一致して対抗すべきである。

特にロシアは地理的に「黄禍」を阻止する前衛の役割を果すべきであるから、ドイツはそのためにロシアを支援して黄色人種を抑圧する

多分これ、一種の「陰謀論」のようなものだと思うんですよね。
黄禍

Wikiから拝借した画像ですが、説明書きとして以下のような文章が記されています。

右手の田園で燃え盛る炎の中に仏陀がおり、左手の十字架が頭上に輝く高台には、ブリタニア(イギリス)、ゲルマニア(ドイツ)、マリアンヌ(フランス)などヨーロッパ諸国を擬人化した女神たちの前でキリスト教の大天使ミカエルが戦いを呼び掛けている。

中二病か、と。

ヴィルヘルム2世が歴史画家ヘルマン・クナックフースという人物に命じて描かせた「寓意画」なのだそうです。

タイトルは、「ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ」。

ビスマルクなら絶対にしない発想ですね。ちなみに、ビスマルクはユダヤ人に対しても非常に寛容で、能力のある人物は重用していたのだそうです。偏見を持たない人物だったんですね。

一方のヴィルヘルム2世は・・・。簡単にマックス・フォン・ブラントの口車に乗せられ、こんな中二病的な発想の下、三国干渉を行い、山東省への植民地化政策を行っていくのです。


少し暴走しました。

ヴィルヘルム2世は、イギリスとの間では「ヘルゴランド=ザンジバル条約」を締結し、自国領の一部と引き換えにアフリカの南方のある「ザンジバル」という領土を獲得します。

この事をきっかけとして、ビスマルク時代よりドイツがオーストリア、イタリアとの間で締結していた「三国同盟」にイギリスを引き入れようとするのですが、イギリスはこれを拒否。しかしこれ以降ヴィルヘルム2世は「親英反露」政策をとるのだとか。

にもかかわらず、「1894年11月にロシア皇帝に即位したニコライ2世とは親しくしていた」とか、意味が分かりません。

この後、ヴィルヘルム2世はそれこそビスマルク時代とは大きく方針を転換し、「植民地政策」を推進し、その一環として山東省も事実上植民地化することになります。このヴィルヘルム2世の政策を「世界政策」と呼びます。

ビスマルクは、イギリスやフランスの植民地政策を促進させることで、両国の視線がドイツに向かわないように努力していたのですが、ヴィルヘルム2世は逆位両国に肩を並べようとして植民地政策に邁進することで、やがて両国を敵に回すことになるんですね。

ビスマルク政策以降、ドイツに住民が増えていたため、ドイツ住民を植民地に移住させたい、という思いもあったようです。


ビスマルクを退陣させてまで実行した「労働者保護法」ですが、ヴィルヘルム2世が期待したほど労働者からの支持が伸びず、以降逆にヴィルヘルム2世は労働者を弾圧する方向へ方針転換します。

一方でプロイセンの宰相となったボート・ツー・オイレンブルクという人物と組んで「転覆防止法」という、「政府への政治的反対行為の処罰を強化する法律」を提起するのですが、これはドイツ宰相であったカプリヴィが反対し、ヴィルヘルム2世は両者を宰相職から罷免します。1894年10月26日のことです。

なんだか滅茶苦茶ですね。じゃあ一体何のためにビスマルクが主張した社会主義者鎮圧法無期限延長を拒否したのか。

やってることが悉く場当たり的であるように感じます。

カプリヴィに続いてドイツ首相となったクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストの下、「転覆防止法案」が議会に提出されるのですが、否決。

以降、たびたび同種の弾圧法案が議会に提出されるのですが、悉く否決されます。

なんだかこの先が見えてきそうな流れです。ヴィルヘルム2世は、やはり国家を統治する器ではなかったということでしょうか。

グダグダ感漂う今回の記事ですが、長くなってまいりましたので、いったんここで記事を閉じ、次回記事へと続きは委ねることにします。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第449回 新皇帝ヴィルヘルム2世の誕生とビスマルクの失脚

もしもヴィルヘルム2世が誕生しなかったら。

仮に誕生したとしても、ヴィルヘルム1世がそうであったようにビスマルクのことをきちんと信頼し、彼のアドバイスにきちんと耳を傾けていれば・・・。

ひょっとしたら日本は欧州大国との争いの中に巻き込まれることはなかったのではないか・・・と、実は現在そのように感じさせられています。

少し話題がそれるのですが、今から「日本が第二次世界大戦に巻き込まれていく過程」を少し復習してみたいと思います。

復習するのはもちろんシリーズ→「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」です。


日本はどうして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

親シリーズのテーマは、本来このタイトルにすべきだったんですよね。現在のシリーズ、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? も「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」の同じ親シリーズである、「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 の一部です。

過去に既に述べていますが、親シリーズの「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」という文字列は、いかにこのシリーズを作成し始めた当時の私がものを知らなかったのか。日本の近代史を知らなかったのか。これを痛感させられる文字列です。

「大東亜戦争」という言葉に準拠するのならばまだしも、「第二次世界大戦」を起こしたのはそもそも日本ではありません。

ですが、第二次世界大戦と太平洋戦争を同一視している人は決して少なくはないと思います。

太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃(正確にはマレー半島への上陸)から始まり、日本は米英蘭中に対しても宣戦布告を行っていますから、「日本が太平洋戦争を起こした」という表現は間違いではありません。ですが、だからといって日本が第二次世界大戦を起こしたわけではありません。(宣戦布告の時期が前後することはここでは無視させてください)

これを「大東亜戦争」にまで広げると、日本は大東亜戦争の開始時期が「日中戦争(支那事変)」だとしていますから、また話が変わってきます。


「第29軍」の起こした「北支事変」


支那事変そのものは、元々盧溝橋事件に始まる「北支事変」から始まるわけですが、実際に「北支事変」では、通州事件 などの、日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件は起こりましたが、これはあくまでも華北の現地軍との小競り合いの延長のようなもの。

日本軍も、華北の「中華民国政務委員会」も事をそこまで大きくするつもりはありませんでした。

北支事変の真犯人は、蒋介石軍の一部体である「第29軍」。中に共産思想を持つ人間を大量に包括している非常に危険な部隊です。

第29軍とは、元々「馮玉祥」という人物が率いていた部隊。

馮玉祥という人物に関しては、第148回の記事 から引用する形でご紹介しておきます。
馮玉祥とは、第二次奉直戦争において北京政変 を起こし、北洋政府の混乱に一つの区切りをつけた人物。

北京政変の後、自ら北京で張作霖に対するクーデターを仕掛けながら、さっさと敗亡して戦場を逃亡し、ソ連に渡った人物。
その後、「ソ連の支援する、中国共産党と連携した中国国民党」への参入をソ連において宣言。

済南事件 において、事件を中心となって引き起こした二部隊の内の一つが、馮の部下である「方振武」が率いる部隊でした。

そして、上海クーデター 以降蒋介石に「全面的に協力」していたはずの馮玉祥は、蒋介石による北伐が完了すると、突然蒋介石に対して反旗を翻します。

勿論その「経緯」はきちんとありまして、北伐の完了後、自分の中に組み入れていた北洋政府時代の「軍閥」の影響力を縮小するために、「軍縮」を行おうとしたことにその理由はあります。

はっきりといえば、「北伐」によって確かに中国全土の「統一」は形式上なされたように見えたかもしれませんが、決して一枚岩ではなく、それどころかお互いに腹を探り合い、離反しあう性質は全く解消されていなかったということだと思います。

そして、「第29軍」とはそんな性質を代表するような「馮玉祥」が元々率いていた部隊。
そして、その中には少なくともあの済南事件を引き起こした部隊が含まれていたはずです。

つまり、北支事変とは、そもそも「ソ連共産党の息がかかった軍隊」によって引き起こされた小競り合いであり、親分である蒋介石が直接絡んだものであはありません。


真の日中開戦は「第二次上海事変」


その「蒋介石」が関わるのは北支事変が上海にまで飛び火し、北支事変から「支那事変」へと拡大する際。

前述した通り、「通州事件」という日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件を収束させて間もなく、今度は上海の日本人居留区(疎開)が最終的に蒋介石軍(中国国民党軍)、と中国共産党軍総勢20万の軍隊に包囲される事態が発生しました。

この時の日本軍兵士の数は同居留区の中にたったの5000人。この事を受け、日本軍が事実上の「宣戦布告」を行って勃発したのが「第二次上海事変」です。

仮に「支那事変」を大東亜戦争の勃発だとするのであれば、この時点を以て当てるべきだと私は思います。

しかもこの時も先に日本海軍に空爆を行ったのは蒋介石軍であり、更に同軍は帰還時に日欧米の民間人が居住する「共同疎開」へ空爆を行い、1700人を超える民間人が死亡。

そして蒋介石はこの時に撮影した写真や映像を国際連盟に持ち込み、これを日本軍の仕業である、と訴えています。

バカな国際連盟の面々はこれを真に受け、日本への経済制裁は「正当なものである」としてお墨付きを与え、のちの「援蒋ルート」へとつながり、これがのちの「北部仏印進駐」から「南部仏印進駐」へとつながるきっかけとなるのです。

日本の「南部仏印進駐」が米国の「石油輸出禁止」のきっかけになったと日本の事を非難する連中がたくさんいますが、その大元は蒋介石のデマを真に受けて日本への経済制裁に正当性を与えたバカな国際連盟の連中。この事を批判する人が全く存在しないことに私は非常に違和感を覚えます。


盧溝橋事件はなぜ起きたのか?

盧溝橋事件のいきさつは、第153回の記事 に掲載しています。

ですが、そもそもの理由として、中国軍の仕業であったにせよ、日本軍のミスであったにせよ、盧溝橋という場所で「空砲」が鳴りさえしなければ「盧溝橋事件」は起きませんでした。

もっと言えば、そこに「日本軍」がいなければ、事件は起きなかったわけです。

盧溝橋にいた日本軍はもともと「天津」にいた「支那駐屯軍」が、「冀東(きとう)防共自治政府」への「共産軍の侵入をなんとしても阻止したい」と考えていた、「冀察政務委員会」管理者である「宋哲元」の許可を受けて演習を行っていたもの。

冀東自治政府

ややこしいですよね。詳細は第140回の記事 をご覧ください。

では、なぜ「天津」に日本軍がいたのかというと、ここからようやく「ドイツ」へとつながるのです。


「義和団の乱」後の「北清事変」

情報は第140回の記事 から引用します。

なぜこの地域に日本軍が駐留していたのかということですが、これは時代を大きく遡って、「義和団の乱(北清事変)」のことを振り返る必要があります。

そもそものところでいえば、中国が悪いわけじゃなく、この義和団の乱に関係して言えば「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由です。

ですが、この当時の中国(清朝)の政権も非常に不安定な状況にあり、皇帝の叔母であり「西太后」が実権を握る状況の中、「義和団」の反乱に便乗した西太后が無謀にも欧米7カ国+日本に対して宣戦布告を行い、敗戦した結果、宣戦布告をされた8か国と当時の清朝の間で締結されたのが「北京議定書」。

この議定書に基づいて、日本だけでなく欧米8カ国が中国国内に自国軍を駐留させていたのが当時の状況。
盧溝橋で軍事演習を行っていた部隊は日本が、この「北京議定書」に基づいて「天津」という地域に駐留させていた「支那駐屯軍」という部隊です。

勿論「権益」の問題があったことは事実ですが、既に当時の中国、北京市(北平市)周辺には多くの日本人が居住しており、現地法人を守るためにも日本軍は駐屯軍を撤退させるわけにはいきませんでした。

きちんと書いてますね。

『「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由』

である、と。もちろんドイツだけではありません。ですが、清の西太合が「北京に公使館をおく」、日欧米の合計8カ国に対して宣戦布告を行うという暴挙に出る原因を作った「義和団の乱」。

「義和団の乱」が起こった原因について、第78回の記事 から引用しますと、
この「山東省」という地域がどのような地域であったかというと、中国にとっては学問の中心ともいえる「儒教」。この儒教の始祖である「孔子」がの出身地です。

ドイツは中国にキリスト教を布教していく上で、この「山東省」という地域は、戦略的にも重要な地域だと考えていました。
儒教発祥の地にキリスト教を布教することで、ドイツは中国人の精神そのものを支配しようと考えていたのでしょうか。

しかし、これは当然地元の中国人の反発を引き起こします。大刀会という武術集団数人が山東省曹州府にあるカトリック教会を襲撃し、ドイツ人神父2名を殺害。この直前には梅花拳という拳法の流派が約三千名で同じ曹州府にあるカトリック教会を襲撃する事件が発生しました。

共に、教会建設にあたる土地争いが原因で、一般民衆が助けを求めたことが原因なのですが、このことを口実に当時のドイツ帝国は山東省に派兵。膠州湾を占領します。
清朝との間で外交折衝が行われ、ドイツは22万両の賠償金を獲得し、済寧など3ヶ所に教会を建設。

更にドイツと清国の間で独清条約が結ばれ、ドイツは膠州湾を租借。鉄道建設権と鉱山の採掘権を手にします。

この時、ドイツ教会を襲撃した梅花拳の流派は、今回の事件で梅花拳の名声に傷がつくことを避けるため、「義和拳」と改名します。

義和拳には、母体となった梅花拳の流派だけでなく、他の反キリスト教グループも結集し、やがて「義和団」と呼ばれるようになります。

1989年、山東省に赴任したのはあの袁世凱。彼によって山東省の義和団は弾圧されるのですが、弾圧された義和団は山東省以外に流失します。

そして、北京周辺にまで流出した義和団によって引き起こされたのが今回のテーマである「義和団の乱」です。

要は、ドイツが中国を価値観の面から洗脳するため、孔子の出身地である山東省でキリスト教を布教しようとしたところ、現地の拳法家たちが教会を襲撃し、神父が2名殺害された、ということです。

拳法家たちの教会襲撃はこれだけにとどまらず、ついに政府から袁世凱が派遣され、彼らは鎮圧されます。

この事で山東省を追われた義和拳の使い手らは北京と天津の間の地域にまで移動し、北京を包囲。これを受けて北京政府は義和団の鎮圧に乗り出すどころか、逆に北京内に公使館を持つ8カ国に対して宣戦布告を行ったわけです。

ちなみにこの時流出した義和団の行為についてい、Wikiでは以下のように記されています。

外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった

この後、講和条約において日本は天津に軍を駐留することが認められるのですが、他の8カ国も同様の権利を認められています。


ドイツはなぜ山東省で布教活動ができたのか

ドイツが山東省で布教活動を行うことができた理由は、ドイツが山東省に「権益」を有していたから。

ドイツは清国が「日清戦争」において日本に敗北した際、その講和条約で清国が日本から約束させられた「2億テールの賠償金」。

この一部を清国に貸与したんですね。ドイツはその代わり、中国に対し「山東省に対する権益」を認めさせます。


「なんだ、やっぱり日本が原因か」などという声が聞こえてきそうですが、例えドイツが山東省に権益を有したとしても、山東省を支配することを目的として、同省で布教活動など行わなければ「義和団の乱」の勃発は防げたはずです。

元々中国人が持っていた伝統的な習慣や風習を無視し、「キリスト教」的な考え方を押し付けようとしたためにおきた出来事です。

また、「日清戦争」そのものも、もとはといえばイギリスが清国を開国させ、アヘンとキリスト教を輸出するために仕掛けた「アヘン戦争」や「アロー戦争」に対してもともと欧州の大国であるはずのロシアが介入し、講和条約を結ばせ、満州の北半分を清国割譲させた事。

これが日本に「危機感」を抱かせたことが遠因として存在します。

この事を受け、日本は日本とロシアとの間にある朝鮮に自立心を持たせ、ロシアからの防波堤になることを求めました。

ですが、清国はいつまでも朝鮮が清国の属国であるという考え方を捨てようとせず、朝鮮もまた、清国の属国であろうとしました。

日清戦争とは、いわば朝鮮を清国から独立させることを目的として起こした戦争です。「ロシア」の脅威から日本を守るために。

その後もロシアは、実際に北清戦争の混乱に乗じてアムール川沿岸の清国人を皆殺しにし、誰も居住者のいなくなった場所を占領するという、文字通り「鬼畜行為」にまで及んでいます。


ヴィルヘルム2世と「三国干渉」

三国干渉

さて。この「日清戦争」において、日本は清国より「遼東半島」の割譲を約束させるのですが、これに対して日清戦争とは無関係であるにも関わらず、日本に対してちょっかいを出してきた国が3つあります。

一つは、地政学的にリスクを負う「ロシア」。ですが、残る2カ国は遼東半島に対して全く、何一つ関係のない国々です。

その国のうちの一つは、そうです。言うまでもありませんね。「ドイツ」です。そしてもう一カ国がフランスです。

そしてこの時のドイツの皇帝は「ヴィルヘルム2世」。ビスマルクが植民地政策に消極的であったことに比べ、ヴィルヘルム2世は逆に植民地を拡大する外交政策を取りました。権益を有する山東省を植民地化した政策は、その一環だったんですね。

義和団の乱が勃発するのが1900年。その2年前、1898年3月6日にドイツは清国との間で独清条約を締結。山東省をドイツの事実上の植民地にしてしまいます。山東省における神父の殺害事件を、ヴィルヘルム2世はドイツに軍を派遣する口実にしたんですね。


もしビスマルクが未だに首相を続けていたら。もしヴィルヘルム2世がビスマルクの考え方を理解し、これを大切にできるような人物であったとしたら、このようなことは起きなかったのではないでしょうか。

普墺戦争においても、普仏戦争においても、ビスマルクは「引き際」をわきまえていました。両戦争はドイツ国民の「ナショナリズム」を高めるために利用したのであり、そもそも「侵略」することを目的とはしていませんでした。

「国境を接する国」であるということもあるでしょうが、ビスマルクは逆に言えば国境を接することのない国に戦争を仕掛けるようなバカな真似は行いませんでしたね。むしろ自国周辺で戦争を起こさないことを目的として行われたのが「ビスマルク外交」でした。

ヴィルヘルム2世による「三国干渉」が行われたのは1895年4月23日のことですが、実はその12年ほど前、ビスマルクは日本の使節団と直接出会い、私が今回記事にした内容をそのまま文章化したような言葉を口にしています。

次回記事では、そんなビスマルクと日本の使節団との出会いを少し記事にしてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

「ナチスドイツ」、果ては「ヒットラー」なる人物が誕生した理由を探るため、今シリーズ では、長らく「ドイツ」そのものの歴史をずっと追いかけてきました。

ビスマルクが統一するまで、世界の中に「ドイツ」という国が存在した歴史はなく、「ドイツ」と呼ばれた地域には、元々実に様々な「民族」が居住しており、唯一「ゲルマン系の言語を話す」ということのみにその共通点のある人々が暮らしていました。

改めて、シリーズ最初の記事 を振り返ってみますと、そもそものメインテーマである「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)」が誕生したのは「バイエルン」。

ビスマルク退陣後のドイツはその後、「第一次世界大戦」の渦へと巻き込まれていくわけですが、バイエルン人たちの中には、「第一次世界大戦を起こしたのはプロイセンであり、自分たちは関係がない」とする意識があったそうです。自分たちは巻き込まれた側。被害者だ、と。

ビスマルクやビスマルクによるドイツの統一、そしてその経緯を全く知らなった当時としては、同じドイツでありながらなぜ、という疑問が拭えずにいたのですが、今ならその事情がよくわかりますね。

バイエルンとプロイセンは、元々その成り立ちも民族性も全く異なる国であり、特に「南ドイツ」であるバイエルンと北ドイツであるプロイセンとは、その宗教的な側面からも全く別の「国家」だったわけですからね。

ドイツ統一後も、「自由都市」として軍事的な側面以外は独立した法律の下運営されていたのも「バイエルン」です。ドイツ民族としての統合を理想としていた北ドイツと「分離主義者」たちが中心となる南ドイツ。これもまた「宗教性の違い」にもよるものです。

宗派が違うだけで、同じキリスト教なんですけどね。

あと、ヒットラーの著書、「我が闘争」を読んでいますと、彼は冒頭で自分が血筋的にも「バイエルン人」だと言っているのですが、同じ著書を読み込んでいきますと、彼の出身地はバイエルンではなくオーストリア。オーストリアのバイエルン人ということなんでしょうか。

そして「ドイツ人」としての誇りを持とうとしないオーストリアのことが、彼は大嫌い。

まだ前半の半分も読み切れてはいませんが、「我が闘争」に基づく記事もいずれ作成する予定です。


ヴィルヘルム2世の誕生

第433回の記事 でドイツ帝国誕生後、ビスマルクがとった「社会主義者対策」を、第444回の記事 ではそんな「社会主義者対策」とは相反するように、国民に寄り添う形で執り行った「社会保障政策」。そして第445回の記事前回 までの記事では、更にビスマルクがとった「外交政策」をそれぞれ記事にしてきました。

ドイツ帝国誕生後のビスマルクの政策は、まさしくこの三本柱で、「社会主義者鎮圧法」によって社会不安の根源ともいえる「社会主義者」を徹底的に取り締まり、逆に国民に対してはそんな「社会主義」の象徴ともいえる「社会保障政策」を弱者目線で徹底整備。

軍事外交においては「平穏」を維持するため、ドイツ周辺で戦争を勃発させないため、徹底的に「フランスを孤立化」させる外交交渉を貫き、バルカン半島を除くヨーロッパにおいては事実、その「平穏」を維持し続けることに成功しました。

そしてもう一つ、貿易外交においては海外の不況の影響を最小限にとどめることを目的とし、「保護関税法」を実施して保護貿易体制をとりました。

もちろん、すべての同じ政策を現在行え、といえば間違いなく日本でも憲法違反になる部分がありますし、まず無理だとは思います。ですが、法的な裏付け、その前提条件が異なる当時としては、実に「先見の明」のある政策を実行し続けた人物こそオットー・フォン・ビスマルクだったのではないでしょうか。

ですが、そんなビスマルクの政策は、2つの「敵」を作り出します。そのうちの一つが言わずと知れた「社会主義者鎮圧法」によって弾圧された社会主義者たち。もう一つは自分たちの目指す「自由貿易」とは真逆の政策をとられたことで、ビスマルクの経済性悪に反発した「自由主義者」たち。

そして、そんな「自由主義者」の象徴ともいえたのが、1888年3月9日に崩御した皇帝ヴィルヘルム1世の後を継いだ「フリードリヒ3世」。そして、彼の妃であった皇后「ヴィクトリア」。ヴィクトリアが生まれたのはバッキンガム宮殿。彼女はイギリス人だったんですね。

ビスマルクにとっては幸いなことに、フリードリヒ3世はもともと咽頭癌を患っており、またヴィクトリアが信頼する宮廷医と、義理の息子であるフリードリヒ3世のことを心配してヴィクトリアの母親が送り込む医師団との対立でまともな治療を受けることができず、皇帝に即位してわずか99日でこの世を去ることになってしまいました。

そして、そのあとを引き継いだのがヴィルヘルム2世。

ヴィルヘルム2世

そう。第一次世界大戦の当事者であり、のちにドイツの共産主義グループである「レーテ」が引き起こした「レーテ蜂起」により亡命を余儀なくされた人物。あの、「ヴィルヘルム2世」です。

第444回の記事 の中で、1889年10月、ビスマルクが、「期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案」を議会に提出したことを記事にしました。

ですが、多くの人が思うはずです。

 「社会主義者が危険なことは理解したとしても、いくら何でも『無制限』はやりすぎなんじゃないか」

と。


ルール地方における労働者ストライキ

ビスマルクが前記法案を提出したのは1889年10月。この5か月前、ドイツの「ルール地方」、ラインラント付近で、ドイツ産業の中心となる地域の鉱山において、発生したストライキが、一気にドイツ各地に拡大していったのだそうです。

これを受けて、皇帝ヴィルヘルム2世は、経営者たちを批判し、労働者たちの支持を表明するのですが、この時のビスマルクの行動を、Wikiヴェルヘルム2世のページには、以下のように記しています。
ビスマルクは自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった

これは、あのフェルディナンド=ラッサールが「夜警国家」として批判した自由主義者の目指す自由主義国家 そのまんまですね。

これに対してヴィルヘルム2世は一歩踏み込んで、「労働者」たちを救済する方向に乗り出したわけです。この時、合わせて「ドイツ社会主義労働者党の扇動にのって公共の安全を脅かす行為は辞めるよう要求」も行ったようですね。

もともとヴィルヘルム2世はビスマルクのことを尊敬しており、自由主義者であった父フリードリヒ3世とは違って、保守的な思想の持主。ビスマルクもまた、フリードリヒ3世よりヴィルヘルム2世のことを信頼しており、またイギリス出身の自由主義者、ヴィクトリアとヴィルヘルム2世の距離が開くような画策も行っていました。

実際ヴィルヘルム2世は父フリードリヒ3世が崩御した直後に母ヴィクトリアを幽閉するなどしていますので、ヴィクトリアのことをそれほど信頼していたわけでもなかったのでしょう。

ですが、このルール地方を発端としたストライキ事件の前後で、ヴィルヘルム2世とビスマルクとの間に、微妙な関係の変化が生まれることになります。


社会主義者鎮圧法をめぐる駆け引き

ビスマルクは、この事件が起きた後、事実上事件を「放置」したまま、出身地へ里帰りし、翌年1月24日までそこで静養しました。

この間、ヴィルヘルム2世と接触した人物らが、彼に影響を与え、ビスマルクから少し気持ちが離れてしまうことになります。

ヴィルヘルム2世自身、祖父ヴィルヘルム1世がビスマルクを信頼し、ある意味ビスマルクに主導権を握られてしまっている状況に多少なりとも疑問を抱いていたのだと思います。彼は、「自分自身の手で政治を行いたい」と考えていたようですね。

ビスマルクが「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出させたのも、どうやらその静養先から。この事から、ビスマルクもこの時点ではこの改正法案が皇帝から批判され、成立されないとする選択肢を想定に入れていなかったのではないか、とも考えられます。

1月24日、ビスマルクも参加した御前会議において、皇帝は先んじてルール地方に始まる労働者問題を受けた「労働者保護勅令」の計画を発表したのですが、「社会主義者鎮圧法」の成立を優先すべきだとして、その計画は先延ばししてしまいました。

この時、国民自由党より、「社会主義者鎮圧法を無期限に延長するのであれば、『社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項』を外すべきだ」という主張がなされていたのですが、皇帝はビスマルクに対し、この要求を呑むよう(実際には「帝国議会が追放条項の破棄を決議してもそのために法律を流産させることはしない」とする声明を出すよう)求めます。

この提案は保守党からもなされました。

ですが、ビスマルクはこれには応じられないことを示した上で、「もしそのような考え方を陛下がお持ちなのなら、私は宰相としては適任ではない」として、辞職をほのめかします。

私、争点は「無期限に延長するかどうか」ということかと思っていたんですが、そうではなかったんですね。

確かにその後の社会主義者たちの動きを見ていれば、前記した状況を削除してしまえば、同法案はたとえ無期限であったとしても、これが形骸化してしまうことは想像に難くありませんね。

ビスマルクの「社会保障政策」が実現していった経緯を考えますと、おそらくビスマルクはヴィルヘルム2世の「労働者保護勅令」そのものに反対であったわけではないのだと思います。これを実現するのであれば、先に社会主義者鎮圧法を延長すべきだといっていたのでしょうね。

けれども、ビスマルクのその考え方よりも、ヴィルヘルム2世の勅令が弾かれたこと、そして国民自由党や保守党、ヴィルヘルム2世自身が求める社会主義者鎮圧法の修正が行われなかった事という、いわば「ミクロ的な部分」に視点が集まってしまい、この事でヴィルヘルム2世はビスマルクに反発心を抱くようになります。

翌2月には労働者保護勅令の2月勅令が発せられるのですが、ビスマルクはこの勅令への署名を拒否し、同勅令で定められていた「労働者保護国際会議」のベルリンでの開催を妨害します。

妨害した理由は、おそらくその開催が労働者の暴動へとつながり、やがてクーデターへと発展することを恐れたのではないかと思うのです。

その証拠・・・というわけではないのですが、同月25日、ビスマルクは皇帝に対し、「もし労働者の暴動が発生したら断固たる手段を取る決意があるか」と尋ねています。

暴動は、当時のドイツ帝国の崩壊につながりかねないことをビスマルクは知っていたんですね。これに対しヴィルヘルム2世はこう答えます。

 「かかる際には断じてフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の如き態度はとらぬ」

と。

ヴィルヘルム2世とビスマルク

フリードリヒ・ビルヘルム4世とは、1848年のベルリン3月革命の時のプロイセン国王で、軍隊をベルリンから退去させ、民衆(自由主義者)たちの求めるままに憲法の制定を約束した人物です。

フランスやオーストリアではそれぞれ国王が退位し、亡命を余儀なくされましたね。


ヴィルヘルム2世との謁見で、ビスマルクは「皇帝からの信認を得た」との確信を得、翌年3月2日、皇帝の「労働者保護勅令」が反映された「労働者保護法案」とともに、再び「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出する方針を示しました。

この法案には、更に「他人にストライキ参加を強制した者への罰則条項」も加えられていました。

ですが、皇帝は「保守党」「帝国党」「国民自由党」のビスマルクを支持するはずの「カルテル3党」が同法案に反対であることを知り、彼らから散々持ち上げられた挙句、彼はビスマルクの期待を裏切り、ビスマルクに同法案の提出をやめるよう命じました。

これに対して、ビスマルクはあっさりとその取り下げに応じます。


ビスマルクの失脚

1850年、オーストリアとの間で締結せざるを得なかった屈辱の「オルミュッツ協定」の締結をめぐり、軍制改革の必要性に駆られたヴィルヘルム1世のたっての願いを受け、自身が一生付き従う国王であると心に決め、プロイセン首相となった人物。それがビスマルクです。

もはや皇帝に帝国を守るだけの覚悟が存在せず、また皇帝から必要とされなくなってしまった以上、ビスマルクに今の立場にとどまる理由はもはや存在しません。

1890年3月18日、ビスマルクは皇帝に対し、辞表を提出することとなりました。


長らく続きました、「ビスマルク」シリーズですが、ついにその終焉を迎えましたね。

ただ、「社会主義者鎮圧法」や「フランス孤立政策」にビスマルクが一体何を賭けていたのか。ビスマルクが去った後、「親政」をふるい始めるヴィルヘルム2世。

ビスマルクを追い落としてまで「労働者保護勅令」の必要性を訴えたヴィルヘルム2世が、この後ヨーロッパのみならず、アジアにまで及ぼしていくその「影響」を追いかけてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

前回の記事では、ロシアとオスマントルコとの間で行われた戦争、「露土戦争」と、その講和条約として両国間で締結された「サン・ステファノ条約」について記事にしました。

ですが、この「サン・ステファノ条約」。ロシアのバルカン半島への影響力を大きく高めることが懸念されたため、ロシアと同じくバルカン半島に国境を接するオーストリア(・ハンガリー)帝国、及びイギリスから大きく反発を買うこととなります。

そこで、その仲裁役としていよいよわれらがオットー・フォン・ビスマルクが登場します。


ベルリン会議がもたらした三帝同盟の崩壊

ベルリン会議

ただし、ビスマルクに対してはロシアより、もっと早い段階での介入を求める声があったのですが、ビスマルクにとってみれば、ロシアに肩入れすることでオーストリアの不満を買うことが、結果として三帝同盟の崩壊へとつながることを恐れていましたので、どうしても介入に対して慎重にならざるを得ませんでした。

最終的に「露土戦争」に決着がついた時点でビスマルクは「誠実な仲介者」として東方問題に対する「介入」を初めて行いました。

オーストリアの要請を受けてのものです。

ただ、オーストリアとしてはロシアとの間で既に「ライヒシュタット協定」という密約を結んでいる関係にありますから、一時的にロシアとトルコとの間で「サン・ステファノ条約」が結ばれたものの、不自然な形にならないよう、同協定における約束、即ちボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するための画策を行ったのではないか、とも思うのです。

オーストリアは同戦争に対しては「中立」の立場を保っていましたし、それがロシアとの約束でしたから、戦争に参加すらしていないオーストリアが突然領土を拡大したりすれば、どう考えても不自然ですからね。

つまり、オーストリアとロシアとがお互いに対立しているように振る舞い、両国にとって最も中立的な立場であるドイツのビスマルクに仲裁してもらう、という構図です。


ベルリン条約

このベルリン会議に参加したのは、当事者であるロシアとオスマントルコの他、オーストリアとドイツ、そしてイギリス、フランスに加え、イタリアも参加していますね。(その他、ギリシャ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロもオブザーバーとして参加しています)

露土戦争の講和会議としての性格と同時に、今後のヨーロッパの在り方を決定づけるための会議としての意味合いも有していたのでしょうか。

同会議の結果として、「ベルリン条約」が締結されました。

【ベルリン条約】
・セルビア公国、モンテネグロ公国、ルーマニア公国の三公国の正式な独立

・大ブルガリア公国の分割(マケドニア、東ルメリ自治州、ブルガリア公国:「ブルガリアにとっては事実上の独立)

・オーストリア=ハンガリーによるボスニア・ヘルツェゴビナ占領

・キプロスのイギリスへの割譲

セルビア、モンテネグロ、ルーマニアはもともと「自治領」だったものが正式に独立。これはサン・ステファノ条約でも同じ内容が取り決められています。

ブルガリアも元々「自治領」だったわけですが、ここに関しては領土を広大にしすぎるとロシアの影響力が大きくなりますので、「マケドニア」「東ルメリ自治州」「ブルガリア公国」の3つに分割した上で、マケドニアはトルコに返還。東ルメリ自治州も同じく返還されますが、自治権が与えられます。

「ブルガリア」も「自治領」から「自治公国」へと昇格。ただし、その宗主権はオスマントルコに残され、ブルガリアはオスマントルコへの貢納が義務付けられることになります。

大ブルガリア分割

上図で、南辺~東部の茶色の部分がマケドニア、上部のグリーンの部分がブルガリア公国、ブルガリアとマケドニアに挟まれた赤い部分が東ルメリ自治州です。

そして、ボスニア・ヘルツェゴビナはサン・ステファノ条約では「自治領」となることが決められていたのですが、ベルリン条約ではオーストリアが「占領」することとなりました。

第307回の記事 で触れていますが、セルビアは独立した時点で、この「ボスニア・ヘルツェゴビナ」のセルビアへの統合を目指していました。

ただ、第307回の記事 に対する修正が必要かと思われる部分で、ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアの占領下におかれた後も、オーストリアと敵対することなく、むしろオーストリアに歩み寄る姿勢を見せています。

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

と記したのですが、1878年、公国として独立が認められたセルビアは、オーストリアに接近し、1882年、「オーストリア=ハンガリー帝国の承認」の下、「公国」から「王国」へと昇格しています。

セルビアが王国となった後、セルビアの南方、「ブルガリア」ではブルガリアの南方、「東ルメリ自治州」において、ブルガリアへの統合を求めた蜂起が勃発し、これを受けてブルガリア公が東ルメリ自治州の併合を宣言しました。

これに反対するセルビアはブルガリアと戦争状態に陥っています。つまり、この時点でセルビアは「南方」へも関心を持っていることになりますので、記述内容は少し先走った部分があったかもしれません。


話題を「ベルリン条約」に戻します。

ベルリン条約はロシアとトルコとの間で締結された「サン・ステファノ条約」を修正する目的で締結されたものですが、この条約で最も煽りを受けたのはロシア。ブルガリアの件はイギリスとの話し合いで決まったわけですが、それ以外にももともとロシアが獲得するはずであった領土が大幅に削減され、ロシア政府はビスマルクに不満を持つようになります。

この段階で、ドイツ・オーストリア・ロシアの3国間で締結していた「三帝同盟」は事実上解消されることとなりました。


ビスマルクの対ロシア政策

ロシアとの関係が冷え込んでしまったことを受け、ロシアをドイツ側に引き戻すため、ビスマルクはロシアに対し、逆に「孤立化」させるための外交政策をとることになります。

誤解していただきたくないのは、ビスマルクにとって、この時点における最大の懸念事項は、「フランス」がドイツに対して復讐を企てる事。そのためフランスを他の欧州列強と同盟させないようにすることを最大の目的としています。

ですから、ロシアに対する「孤立化政策」を推し進めるのは、あくまでもロシアにドイツ側に戻ってきてもらい、再び同盟関係を築くこと。ロシアに対して散々嫌がらせをした挙句、「やめてほしかったらこっちに戻ってこい」という政策を進めていくことになります。

ドイツはまず、三帝同盟を構成するもう一つの相手であるオーストリアとの間で、「独墺同盟」を結びます。(1879年10月7日)

【独墺同盟】
第1条 調印国の希望と真摯なる要求に反して、ロシアが両帝国の一つに攻撃をかけたならば、調印国は帝国の全力をあげて支援する義務を負う。従って共同のまた相互の同意によらなければ講和に応じない。

第2条 もし調印国が別の一国に攻撃された場合、調印国はその同盟国への侵略者を支持しないことはもちろん、同志の国にたいして少なくとも好意的な中立を保つ。

しかしながら、もし侵略国がロシアの支援を受けているとするならば、それが共同行動によるかまたは被侵略国の脅威となる軍事的手段を伴うものであれば、第1条の相互扶助の趣旨に沿って、調印国はその全力をあげて、共同行動に移る。この場合、共同した和平が達成されるまで調印国の戦争は継続される。

第3条 この条約の期間は批准の日から仮に5年間とする。この条約の満了するに至る1年前から調印国はこの条約の基礎となる条件が継続しているか、それ以上の延長について合意できるか、詳細について修正が必要かの疑問について協議するものとする。この条約の最終年度の始めの月にどちらかの調印国からこれらの交渉について招請状が発せられないとき、条約はその後3年間に限り延長されるものとする。

第4条 この条約の平和的趣旨に鑑みて誤解を避ける目的で調印国により秘密とされる。第3者に公開するときは両者による共同議定書によってのみ行われ、また特別合意に従うものとする。

調印国はアレクサンドロボ会議でロシアのアレクサンドル皇帝により表明された見解についてロシアの軍備は調印国への脅威とならないことを希望する。従って、本件につき連絡をする必要を認めない。しかしながらこの希望が期待に反し誤りだと証明されたならば、調印国はアレクサンドル皇帝に、片方への攻撃は両方への攻撃を意味することを秘密裡に通告することが、忠良なる義務であると理解したい。

第5条 この条約は両国皇帝の認可に有効性の基礎を置く。そしてこの認可がなされたあと14日以内に発効するものとする。

がっつりと条約の内容が掲載されていましたので、転記しておきます。転記元はWikiです。

かなりロシアに対して挑発的な内容ですね。ちなみに、ここに記されている「アレクサンドル皇帝」とは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のことで、イギリスが清国に対して仕掛けたアロー戦争に便乗して参戦し、満州北東部を清国に割譲させた人物です。(参照:第74回の記事

「農奴解放令」を実施した人物として 第297回の記事 でもご紹介しましたね。

後、ここに書いてある「アレクサンドロボ会議」が何を意味するのかは現在の私にはわかりません。

その他、様々な「嫌がらせ」をロシアに対して仕掛けるのですが、一方のロシアでは。

第297回の記事 で少しご紹介したように、「農奴解放令」など、様々な改革を実施したことがかえってロシアやロシア支配下にあるポーランドなどの民族主義者を活気づかせ、ロシアでは武装蜂起やテロ行為が頻発するようになり、ナロードニキ(人民主義者)たちによる皇帝暗殺計画が頻繁に計画されるようになります。

ナロードニキたちはフランスに逃亡するのですが、フランスからはその引き渡しを拒否されるなど、フランスからもロシアは孤立するようになります。フランスは共和制で、ロシアは帝政なので、そのあたりが影響したのでしょうか。

そして、ロシアの外交的孤立が深まる中、1881年3月13日、ついにアレクサンドル2世はナロードニキ(人民主義者)たちの手で暗殺されてしまいます。


ロシア外務大臣ゴルチャコフの失脚とロシア新皇帝アレクサンドル3世

アレクサンドル2世の下で外務大臣を担っていたのがゴルチャコフという人物なのですが、ロシア外交の中で「反ドイツ」「反ビスマルク」の象徴的な存在であったのも彼でした。

アレクサンドル2世の後を引き継いだアレクサンドル3世は、逆にドイツとの関係改善を求めるようになり、ゴルチャコフは外務大臣の座を追われることとなります。

ビスマルクの思惑通り、ついにロシアはドイツに歩み寄ることとなり、再び「新三帝同盟」である「三帝協定」が締結されました。(詳細な月日は不明ですが、1881年の出来事です)


さて。この後ビスマルクはイタリアとの間で「独墺伊三国同盟」を、更にルーマニアとの間では「独墺ルーマニア三国間同盟」を、1887年7月に墺露の関係が悪化し、三帝協定が破綻するとイタリア、イギリスとの間で地中海協定(後にオーストリアも参入)、ロシアとの間では「独露再保障条約」を締結します。

これらの「同盟」や「条約」が一体どのようなものか・・・という解説は非常にややこしいので、今回の記事及びシリーズでは割愛します。

重要なのは、このような外交政策を通じてビスマルクはフランスを孤立化させることに邁進し、確かに「露土戦争」やセルビア・ブルガリア間での紛争など、バルカン半島における戦火こそ上がってはいるものの、この地域を除く欧州一体での「戦争」は一掃されていたということ。

これは、ビスマルクが失脚した後のドイツやその他ヨーロッパ地域をめぐる動向を見ているととてもよくわかると思います。

これは、「社会主義者」に対する動向も同様です。

確かに、ドイツ帝国結成後、特に最後の10年間のビスマルクの動きは必死さを感じさせるほど何かに焦っているように感じさせられる部分もあります。社会主義者対策も同様ですね。

次回記事では、そんな首相末期のビスマルクとその失脚に向けた動きを記事にしていければと思います。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第445回 ビスマルクの外交政策~欧州から戦争を一掃したビスマルク体制~

前回の記事では、「欧州から戦争を一掃したビスマルク体制」と銘打って記事を作成したわけですが、ビスマルクがドイツ帝国となったまさにその直後に起きていますね・・・「露土戦争」。

ロシアとトルコですので、「欧州」というわけではない、ということでしょうか。もちろん同タイトルを銘打ったのはそういう記述を何かで見たからそういうタイトルをつけたわけですが、このあたりも含めて、追いかけていきたいと思います。


露土戦争はなぜ起きたのか~「東方問題」の元凶

露土戦争が起きたのは1877年4月。宣戦布告はロシア帝国側から、1877年4月24日に行われているのですが、実はこの露土戦争。勃発に至った経緯としては 前回の記事 で話題にしたクリミア戦争と同じで、「バルカン半島」という地域が持つ独特の事情。「東方問題」が原因で起きています。

クリミア戦争は、「オスマントルコの事実上の支配下」にある「スラブ人国家モンテネグロ」がオスマントルコと軍事衝突することがきっかけとなって起きています。

一方の露土戦争は、同じくスラブ人国家であるヘルツェゴビナで、「ヘルツェゴヴィナ蜂起」が起きたことが根本的なきっかけとなって起きています。

「ヘルツェゴビナ蜂起」とは、ヘルツェゴビナに居住する「キリスト教徒」によって起こされたものです。この、ヘルツェゴビナのキリスト教徒の動きは「セルビア」や「モンテネグロ」のスラブ人たちに支持され、両国はオスマン帝国に対して宣戦布告を行いました。

私は 今回のシリーズ の中で、たびたび「ナショナリズム(民族主義)」と「愛国心」との違いについて言及していると思います。

日本の場合は、「日本列島」という限られた地域に居住する「大和民族」を、同じ「大和民族」が支配、もしくは管理する状況が現在に至るまで継続して続いています。

ですから、「ナショナリズム」といえばもちろん「大和民族」または「日本人」のことを指していますし、「愛国心」といえば自分たちが住む「日本」という国のことを指しています。

ですが、欧州の場合、日本とは事情が異なります。ヨーロッパでは、そのほとんどの国や地域でその土地に居住している「民族」と、その民族を支配している民族が異なります。ですから、「民族主義(ナショナリズム)」という言葉は、その自分たちを支配する民族、支配層からの「独立」を意味していますので、「愛国」とは対極に位置するものになります。

この様な事情から、ヨーロッパでは「民主主義」と「民族主義」が一致性を見る場合もあるのですが、日本で「民族主義」を掲げると、逆に異民族の排斥を行うようなイメージがもたれてしまいます。

少し話がそれましたが、「バルカン半島」における「スラブ人国家」もまた同じような事情を抱えていました。

しかも同地域に居住するスラブ人のほとんどが「キリスト教徒」でしたが、支配する層は「オスマン帝国」。イスラム教を国境に掲げる国です。

ですから、同地域では「民族」と「宗教」がセットで問題となっていましたから、事態はより複雑です。

そして、「ロシア人」はまたこういったスラブ人国家と同じ「スラブ人」ですから、バルカン半島に居住するスラブ人たちを支援するわけです。ですが、こういったロシアの動きは欧州の他の国家、「イギリス」や「フランス」、そして「オーストリア」からは領土を拡大するための「南下政策」であると受け止められてしまうのです。

ですからクリミア戦争ではイギリスやフランスは異教徒であるはずのオスマン帝国を支援しましたし、友好関係にあったはずのオーストリアもまた、この戦争に対しては「中立」の立場を貫きました。

「東方問題」とは様々な国家や民族の思惑が絡み合っていますから、より複雑なものとなっているんですね。


ブルガリア人虐殺問題とライヒシュタット協定

ただし、今回の「露土戦争」に関しては、唯一「クリミア戦争」とは異なる事情がありました。

これは、同戦争が勃発する前、ヘルツェゴビナ蜂起と時期を同じくして、スラブ人ではなくブルガリア人が起こした「四月蜂起」において、4万人者ブルガリア人キリスト教徒がオスマン帝国によって逆されたという事実。

この事がヨーロッパ諸国の反発を買い、クリミア戦争の時にオスマントルコに見方をしたイギリスやフランスは露土戦争ではオスマントルコを支援しなかったということ。

また更に、三帝同盟を結ぶロシアとオーストリアは、ロシアが宣戦布告を行う前、事前に「ライヒシュタット協定」という協定を結んでいました。この時点ではまだロシアは宣戦布告をオスマン帝国に対して行っておらず、当事者はオスマントルコと「セルビア」「モンテネグロ」の2国ということになります。

ですので、両者の協定は「セルビアとモンテネグロがトルコに勝利した場合」という前提条件で交わされました。

様はその後の領土調整が協定には含まれており、オーストリアが獲得するとされた領土に「ボスニア」と「ヘルツェゴビナ」が含まれていたのです。その代わりとしてロシアはオーストリアが同戦争に対して「中立」を貫くことを確約させます。

これは、セルビア、モンテネグロがトルコに宣戦布告を行ったことでロシア国内の「汎スラブ主義者」たちを抑えることができなくなったロシア(が、ドイツ皇帝であるヴィルヘルム1世に相談した事から起きたことです。既にロシアからは兵器や軍資金が両国に対して援助されていましたし、ロシアが同戦争に介入する可能性は非常に高くなっていました。

ですが、当然オーストリアはこれを快く思わないことが想定されますので、外務大臣であるアレクサンドル・ゴルチャコフは、トルコ分割案を手土産にドイツを訪れた際、ヴィルヘルム1世よりそのことを事前にオーストリア首相であるアンドラーシ・ジュラに相談するよう助言を受けたのです。その結果としての「ライヒシュタット協定」でした。

ちなみに、ここでオーストリアが獲得されるとした「ボスニア」と「ヘルツェゴビナ」ですが、「サラエボ事件」が「第一次世界大戦」へと発展する理由を捕捉するために作成した 第307回の記事 で、1908年にオーストリア(・ハンガリー帝国)が同領土を併合したことを記事にしました。

その伏線ともいえる話題ですね。

この事で、ロシアは両国の戦争に介入する下準備は整ったわけです。


露土戦争の結果とサン・ステファノ条約

こうしてロシアはトルコに対して宣戦布告を行い、トルコとの間での「露土戦争」が勃発します。

露土戦争はロシア、セルビア、モンテネグロ以外にも「ルーマニア」「ブルガリア」が参戦し、結果としてロシア軍の完勝に終わります。

この後、ロシアとオスマントルコとの間で結ばれたのが講和条約である「サン・ステファノ条約」です。

【サン・ステファノ条約】
・アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、およびアナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バヤジト地方のロシアへの割譲

・ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認

・ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大ブルガリア公国が成立)

・ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与

これだとイメージしにくいかもしれませんので、再びこちらの地図を。

1900.jpg

この後「ベルリン会議」が行われ、この地図の領土はベルリン会議の後決定されたものですが、イメージはしていただきやすいと思います。

この地図で言えば、ロシアの支援を受けて(サン・ステファノ条約上)独立したのが「ルーマニア」「ブルガリア」「セルビア」そして「モンテネグロ」。地図には記されていませんが、セルビアとイタリアの間に挟まれた「オーストリア・ハンガリー帝国領」に位置する「ボスニア・ヘルツェゴビナ」。

この領土が一気に広がったわけです。このほかロシアが獲得している領土は地図上でルーマニア・ブルガリアの東側に位置する「黒海」。この西部の一部エリアと東部一部エリア、プラスオスマントルコ領東部です。

オスマントルコ領がイメージしにくいかもしれませんので、現在のトルコを掲載しておきます。

トルコpng

ちょうど地中海の真南に位置しますね。

「ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与」とありますが、この時点ではまだオーストリアとの協定は反映されていない形になりますね。

そして、この状態だと特にロシアの支援を受けて「ルーマニア」「ブルガリア」がそれぞれ事実上「独立」することになりますから、バルカン半島に対するロシアの影響力が一気に拡大することをイギリスなどは恐れました。

ちなみにブルガリア領からオスマントルコ軍は撤退することを条約上約束するわけですが、これを監視する意味合いでロシアからは5万のロシア軍がブルガリアに駐留することになります。

この事は、イギリスだけでなく、「オーストリア」からも反発を買うこととなりました。

そして、ここで要約登場したのが「オットー・フォン・ビスマルク」でした。


次回記事では、「露土戦争」をめぐるビスマルクの動きと、サン・ステファノ条約を修正する形で行われた「ベルリン会議」、そしてその影響について記事にできればと思います。



このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>>

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]