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<継承する記事>第507回 ベルリン進軍を決行するのは誰か?カール政府のドタバタ劇

さて。ミュンヘン一揆に至る経緯はようやく総括できるレベルになりましたね。

前回の記事で私、「ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります」と記したのですが、よくよく考えると一揆が勃発する場所はベルリンではなく「ミュンヘン」。ミュンヘンはドイツではなく、「バイエルン」の州政府がある場所です。

で、私前回記事の最後であたかもベルリン進軍が決行されるかのような書き方をしています。そして「カール政府はバイエルン州民や他の指導者らの信頼を失った」理由にはっきり触れることなく話題を終結させているのですが・・・。

カール政権が民衆の信頼を失った理由は彼らが「ベルリン進軍計画の延期を決めた」事。

1923年11月6日、カールは「ナチスを除く国家主義団体の指導者」を招集するのですが、その場で「体制が整った後にベルリン進軍を行う事」が決議され、計画そのものは延期された形になったんですね。

これに業を煮やしたヒットラーをはじめとするドイツ闘争連盟が「クーデター決行を志す」こととなるわけです。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯まとめ

簡単にミュンヘン一揆勃発までの経緯をおさらいします。

1.シュトレーゼマンにより、(ルール占領に対する)受動的抵抗政策の中止が表明される。

2.これを受けミュンヘンに「ベルリン政府打倒」に向けた機運が高まる。

3.機運を受け、ヒットラーを中心として「ドイツ闘争連盟」が結成される

4.カールがバイエルン州総督に任じられる

5.ナチス機関紙の記事を巡り、ベルリン政府とカール政府との間でドタバタ劇が繰り広げられる

6.カールらがベルリン進軍延期を決議したことを受け、ドイツ闘争連盟は「ミュンヘン政府に対する」武装蜂起を計画する

という流れですね。

ただ、ここでドイツ闘争連盟の内部では、自分たちが引き起こすクーデター(未遂)に対し、二つの案が出されています。

一つが、ナチスの幹部であったショイブナー=リヒターという人物の提案した、武力による州政府制圧という所謂「武装蜂起」。

もう一つはヒットラー自身の案で、カールが演説をする予定のビアホールに突入し、ここでカール、ロッソウ、サウザーの3巨頭を説得し、ドイツ闘争連盟への支持を求める、というもの。

これに対する現時点での私の感想としては、「実に穏やかな武装蜂起だな・・・」という印象です。

これ、印象としてはロシアでレーニンらが起こした10月革命と非常によく似ていて、10月革命のときは当時のケレンスキー内閣の拠点を次々と制圧し、最後に冬宮を占拠することでクーデターが成功するのですが、内部の人間と革命を起こす側との連携が取れていて、革命としてはほぼ血を流すことなく、たった2日で終結しています。

この時ももっと凄惨な革命が起きるものとばかり思っていたので、非常に肩透かしを食らったような印象を受けたのですが、今回のヒットラー案もこれに負けず劣らず、クーデターの内容としては実におとなしい内容ですよね。

という事で、改めてこの計画が実行に移った経緯を深めてみます。


ミュンヘン一揆勃発

ここからは、時系列的にミュンヘン一揆の推移をただ追いかける記事になります。

なるべく読みやすくしようとは思うのですが、私が「ミュンヘン一揆」を理解するために作成する部分なので、しばしお付き合いいただければと思います。


決行前、早朝までの様子

まず、発生したのは11月8日の事。実行犯はドイツ闘争連盟。ヒットラーが中心となって作った組織です。

内容としては、ヒットラーが提案した策が採用されているのですが、これよりも前に、ショイブナー=リヒターより武装蜂起案が起草されており、実はこれはヒットラー案が採用される前に一度方針として決定しています。

リヒター案としては1923年11月11日に武装蜂起を決行し、バイエルン州政府を制圧するというもの。先んじて11月7日、政府の主要機関を制圧するという案が作成されたんですが、これにヒットラーが異を唱えた形ですね。

11月6日夜の事ですが、翌7日、ナチスの軍組織である突撃隊がミュンヘンのキャバレー「ボンボニエール」というところに殴り込み、風刺レビューの作曲家ペーター・クライダーを撲殺したのだそうです。

なぜこのタイミングでこんなことが起きているのかという事、ペーター・クライダーという人物がどういう人物であり、どのような「風刺レビュー」を作曲しているのかという事もちょっと理解できていないのですが、少しだけこの「突撃隊」メンバーの暴力的な側面がうかがえますね。

ヒットラーの提案内容としては、まず前提として、ミュンヘン最大のビアホールである「ビュルガーブロイケラー」というところでカール総督が演説を行う予定があったという事。

更にここに三頭政治を担っている「ロッソウ(軍)」と「ザイサー(警察)」も参加するため、この3名に対し、闘争連盟の支持を求めるための説得を行う・・・というのがその内容です。

決行されたのが8日の午後8時半なのですが、この話し合いは同日午前3時まで続いた、とのことで、要は直前まで話し合いを行っていたってことですね。


ビュルガーブロイケラーへの突入

突撃隊に対しては待機命令が出されるのですが、直前まで話し合いが行われていたこともあり、突撃隊全体にこの計画が周知されていたわけではなかったようです。その結果、参加できなかった隊員も多数いたようです。

会場(ビュルガーブロイケラー)は125名の警官によって警備が行われていたのですが、武装した突撃隊の登場に、ほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく立ち去っています。ヒットラーが現場に到着したのは午後8時。ヒットラーは事前にビアホールに入って仲間と共にビールを飲みながら待機していました。

やがてカールによる演説が始まるわけですが、その演説の最中。午後8時30分に隊長ゲーリング率いる突撃隊がビアホール(ビュルガーブロイケラー)になだれ込みます。

これを受け、ビアホール内で待機していたヒットラーはカールが演説をする壇上へと上がろうとし、現場は大混乱。

そして、この時ヒットラーは拳銃を頭上に向けて発砲。

「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」

と叫んだのだそうです。


ヒットラーの要求

ヒットラーはカール、ロッソウ、ザイサーの命の安全を保障した上で、次のような要求を3人に対して行います。

1.ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限の委譲
2.ベルリン進撃への協力

更に、ヒットラー自身が政府を組織し、ドイツ闘争連盟側よりペーナー(エルンスト・ペーナー?)という人物を首相に、エーリヒ・ルーデンドルフを国民軍司令官に。

カールには「州摂政」、ロッソウには「国防大臣」、ザイサーには「警察大臣」というポストをそれぞれ提示しました。

「ルーデンドルフ」とは、第一次世界大戦の名称で、バーデンバーデンの密約を交わした岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機 にも影響を与えた人物ですね。

ドイツ闘争連盟には「名誉総裁」として就任していました。

しかし、さすがにカールらも「はいそうですか」とこれを受け付けるわけもありません。これを受け、ヒットラーは同席していたリヒターにルーデンドルフを呼びに行かせました。

リヒターから事情を聴かされた時、実はルーデンドルフ、このヒットラー案に基づく武装蜂起の計画を聞かされていなかった側の人間で、最初は激怒していたのだそうですが、彼はそれより武装蜂起そのものを成功させることの方が大切である、と考得たのだそうです。

ルーデンドルフが到着する前のホールでは突撃隊と群衆との間で小競り合いが続いていたのだそうですが、やがてヒットラーの演説が始まると群衆は彼を支持するようになっていたのだそうです。

こう聞くと、ヒットラーってかなりすごいですね。突然ホールに武装してなだれ込んだ上、徐に演説を始めて現場にいた群衆をここまで惹きつけたわけですから。

カールらはルーデンドルフによって説得され、ヒットラーに協力することを明言します。

ここからがすごい・・・というか、個人的に・・・いや、多くは言いますまい。

ヒットラーと共にカール、ロッソウ、ザイサーが演壇に立つと、群衆はドイツ国家の大合唱。この後集会に参加していたクリニング首相ら閣僚は逮捕、軟禁されたのだそうです。


カールらの裏切り

と、このサブタイトルでわかりますように、要はカールらは本当にヒットラーの申し出に従ったわけでありませんでした。

ミュンヘン市内では突撃隊を今度はレームが率いて市役所や国防軍司令部を占拠し、バリケードを築きました。

ところが、この時、彼は通信施設を占拠しなかったため、ここから反一揆派に連絡がなされてしまいます。

ルーデンドルフは自身の説得がうまくいったと思っていたのですが、カールらは逆に恥をかかされていますから、この事を恨みに思っていました。

一方で一揆が勃発する直前、ベルリン政府の国防軍総司令であるゼークトからはヒットラーらを排除することを要請する親書が送られていたりしました。


カール、ロッソウ、ザイサーの脱走

近くで起きた小競り合いを収めるため、ヒットラーが席を外した時、現場に残されたルーデンドルフに対し、ロッソウ、カール、ザイサーが「持ち場に帰りたい」という申し出を行います。

普通はこれを止めなければならないと思うのですが、ルーデンドルフはなんと「ドイツ軍将校は決して誓いを破らない」という理由でこれを容認してしまいます。

この時点で、実は既にバイエルン国防軍は一揆に反対する姿勢を固めていて、カールがバイエルン政府庁舎に戻ってきた時、彼はバイエルン王太子より「いかなる犠牲を払っても反乱を鎮圧せよ。必要とあらば軍隊を使え」という通信んを受け取ります。

ロッソウもまたゼークトより反乱鎮圧の命令を受領しています。

ヒットラーたちはこの後バイエルン政庁の占領を目指す(8日午後11時)のですが、この時点でカール、ロッソウ、ザイサーの3名はヒットラーを裏切っており、鎮圧部隊と化していますから、この後、反乱軍は次々と国防軍、州警察によってとらえられることとなります。

ヒットラーらがカールたちの裏切りに気づくのは翌日午前5時。軍司令部をドイツ闘争連盟のレームが拠点としていたのですが、10時の時点で国防軍によって包囲されていました。


ミュンヘン一揆の結末

これに対し、ヒットラーらがとった対応策は、なんとレームの立てこもる軍司令部への「デモ行進」。ルーデンドルフの発案だったらしいのですが、その根拠として、英雄であったルーデンドルフを全面に立てておけば軍も警察も手出しはできないはずだ、という理由です。

更にこのデモ隊は殆んど丸腰で、武装しているものに対しても実弾を抜き取る様命令が出ていたのだとか。軍や州警察に反撃して取り返しのつかないことになることを避けるためでしょうか。

フェルトヘルンハレ
Thomas Wolf, www.foto-tw.de - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

12時30分頃、デモ隊がフェルトヘルンハレという、ミュンヘン市内の広場(オデオン広場)にある建築物(日本語では将軍廟、などと訳されるカテゴリーの建築物)の前を通りかかったとき、警察隊がデモ部隊に向け、一斉射撃。

この射撃でショイブナー=リヒターが即死。ルーデンドルフは行進を止めようとせず、銃撃にさらされる中、警官隊の隊列まで突き進み、逮捕。

ゲーリングは足を負傷(後にオーストリアに亡命)、レームは潜伏していた軍総司令部で降伏。3名の警官を含み、総数で19名の死者が出たのだそうです。

ヒットラー自身は党員であるウルリヒ・グラーフという人物が身を挺して守ってくれたため、銃弾にさらされることはなく、後にナチスに入党し、幹部となるエルンスト・ハンフシュテングルという人物の別荘に逃亡しました。

その二日後、警察がここに到着したことを受け、ヒットラーは拳銃による自殺を図ろうとしました。しかし、これをハンフシュテングルの妻であるエルナに引き留められ、この時エレナに、ナチス幹部の今後の指導を託す内容を記したメモを渡します。

で、ヒットラーは警察に逮捕されるのですが、この時政府や役人に対する批判を叫んでいたという事なのですが、どうなのでしょう。この時の叫びは普段から彼が感じていた不満を言葉にしたものなのでしょうか。それとも自身が案を練り、その上でカールらに裏切られたその屈辱から漏れた言葉なのでしょうか。

デモ部隊の内、逮捕されたのは指導者たちのみ、と記されており、軍司令部を占拠していた部隊については武装解除後に撤退を許可された、とあるのですが、行進を行っていたメンバーについてはどうなのでしょうか。

恐らくは占拠部隊同様、逮捕されることなく撤退をすることとなったのではないかと思われます。


ミュンヘン一揆の決着

ミュンヘン一揆の「決着」という意味では、その後の裁判の経過こそが重要性を持つものかと思います。

ここには編者の個人的な感想と思われる内容も記されていますので、あくまで事実のみを抽出した後、参考としてその内容を掲載しておきます。

決着としては、ヒットラーに5年間の「城塞禁固刑」が課せられることとなりました。ただし、この時の待遇は非常に良かったらしく、独房の環境も、食事も満足のいくもの。

更に面会も自由で、ナチスの党員が彼の身の回りの世話をしました。

そして何より着目すべきは、この時にヒットラーは後述により、あの「我が闘争」を執筆することとなった事。

我が闘争

ヒットラー自身は5年の禁固刑を言い渡されていたものの、実際には半年後、保護観察処分に減刑され、12月20日、仮出獄することとなります。


裏切者、カールらの評価

カールらの行動は、個人的には突然ヒットラーたちに演説会場に殴り込みをかけられ、自分たちの演説を台無しにされた挙句、「自分たちに政権を渡せ!」と言われた後、突然ルーデンドルフがやってきて説得をされる・・・という滅茶苦茶な状況ですので、口で「今日から仲間だ」と言ったとしても、そんなのは口先だけ・・・というのも心情として理解できなくはありません。

いや、寧ろ普通そうだろうと。

しかし、この時のカールらの行動はバイエルンの民衆たちには決して良い評価を受けておらず、民衆からは「一揆が失敗しそうになると、突然態度を豹変させた」というように映った様です。

裁判においても自分たちに不利な発言が出ないように圧力がかけられていたようで、取り締まった側ですから当然一揆の犯人とされるようなことはないわけですが、民衆からの評価は急降下することとなりました。

で、民衆からの評価が下落したことは、おそらく事実そうだったのだろうと思います。ただ、編者による先入観がある可能性は否定できない部分かな、とは思います。

また、カールらはそれでも第一次世界大戦の名将であるルーデンドルフを有罪にする事も躊躇していたようで、一方のルーデンドルフもまた、「一貫して責任を回避し続けた」とあります。

ただ、これに関しては続いて「時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった」との記述もあり、「責任を回避した」わけではなく、「自らの正当性を毅然として訴えた」とする表現の方が近いのではないでしょうか?

で、彼の言葉の中におそらくはヒットラーを礼賛するような表現があり、この事が一揆の中心人物として「英雄ヒットラー」の民衆に対する人気を急上昇させることとなったようです。

この辺り、ヒットラーの人気が本当にこの事をきっかけとして急上昇させることとなったのかどうか、私としては現時点で裏付けるデータを保持していませんので、現時点では「なるほど、そういう事があったんだな」という程度で受け止めておくこととします。

今後の記事の中で、これを裏付けることができないかどうかという事にもチャレンジできればと思っております。


まとめ

ポイントとしては、ミュンヘン一揆が失敗に終わった時点で「我が闘争」が牢獄の中で執筆されたという事。

また更に、ルーデンドルフの助力もあり、バイエルンにおけるヒットラーの評価が急上昇するきっかけとなったという事。

この2点を抑えて、「ヒットラー」と「ナチス」という存在について、今後の記事に委ねることとします。




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<継承する記事>第506回 ミュンヘン一揆の主犯、「ドイツ闘争連盟」結成に至るまで

纏め方の難しい内容ですが、前回の記事のポイントをまずはまとめてみます。

前回の記事では、ミュンヘン一揆の「主犯」となるドイツ闘争同盟にスポットを当て、これが結成される経緯について記事にしてみました。

ポイントとなるのは、まず「ドイツ闘争連盟」の中心となる「突撃隊」。その結成に寄与したのが元エアハルト海兵旅団のメンバーであった「エルンスト・レーム」であり、彼が突撃隊に元エアハルト海兵旅団のメンバーを次々に送り込んだこと。

そして彼の説得で突撃隊が政府軍である第7軍管区司令部の指揮下、「祖国的闘争同盟共働団」に配属されたこと。更にヒットラー自身が突撃隊への指揮権をそのまま軍に持っていかれることを危惧し、体調をレーム推薦のハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへ挿げ替えた事。

ゲーリングの力で突撃隊のメンバーから元エアハルト海兵旅団が一層され、ヒットラーに忠誠を誓う隊員が集められたこと。

このタイミングで首相シュトレーゼマンによるルール地方の「受動的抵抗政策の中止の発表」がなされた事。

ミュンヘンにいよいよ「ベルリン政府打倒」への機運が高まったことを受け、ヒットラーは「ドイツ闘争連盟」を結成します。

そしてさらに、私からすると自身の功績をないがしろにされた、とも感じられない状況にレームは切れるんじゃないかと思ったのですが、逆にレームは軍じ除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じることとなりました。

なんか、こうしてみるとヒットラーってずいぶん人望のある人物だったんだな、と現時点ではとても感じさせられますね。

前回のポイントをまとめるとはこのような内容になるでしょうか。

この当時のバイエルンでは、「11月革命という屈辱の精算」というスローガンが叫ばれるいました。

「11月革命」。つまり、レーテ蜂起によってヴィルヘルム2世が亡命、退位し、ドイツが帝政から共和制へと移り変わったあの「ドイツ革命」の事です。

この後のドイツに発令されたのが「非常事態宣言」であり、オイゲン・フォン・クニリングバイエルン州首相より前首相であるグスタフ・フォン・カールが「バイエルン州総督」として任じられ、彼に独裁的権限が与えられることとなりました。

カールはバイエルン州の独立を志しており、カール政府とベルリン政府の関係は緊迫した状況にありました。

一方、ヒットラー率いるナチスはベルリン政府そのものを打倒してドイツ全土の政権を担う事を志していましたので、バイエルン州の独立を志すカールはナチスとも緊迫した関係にありました。

前々回の記事 ではここまで抑えていましたね。

という事で、今回はこの続きから記事を纏めてみます。


ナチス機関紙「フェルキッシャー・ベオバハター」を巡って

少しだけ時系列を整理します。

ドイツ闘争連盟が結成されたのが9月2日。

カールが州総督に命じられたのが1923年9月20日。この時カールはバイエルン駐在の第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサーの3名で「三頭政治体勢」を取っています。

シュトレーゼマンによる受動的抵抗政策の中止が発表されたのが26日。

レームが辞表を提出し、改めてヒットラーの下、ドイツ闘争連盟に参加したのが27日の直後。

レームはこの時「帝国戦闘旗団」なるものを結成していますね。この時、社会民主党党員らで構成される軍事組織、「国旗団」がドイツ闘争連盟を離脱しており、更に「レーム一派が分裂した」とありますので、これはおそらくレームがこの時「国旗団」に所属していて、ここから分裂して「帝国戦闘旗団」を結成したという事なのだろうと思います。

で、レームが闘争連盟に再加入する直前、9月27日、ナチス機関紙である「フェルキッシャー・ベオバハター」に、受動的抵抗政策を中止したシュトレーゼマンと、軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトを批判する記事を掲載しました。

これに対し、カールと共に三頭政治の一端を担っている第7師団司令官オットー・フォン・ロッソウに、ベルリン政府国防相より「フェルキッシャー・ベオバハターの発刊中止」が命じられます。

ロッソウはこれをカールに相談したところ、カールはナチスを敵に回すことを恐れてこれを拒否し、ロッソウはこれに従います。

ところが一方でカールはナチスに対し、同日に行われる予定であった集会の禁止を通告します。

このいきさつについて、10月1日、カールは記者会見にて、

「フェルキッシャー・ベオバハターの批判記事と反ベルリン姿勢には賛同できないものの、ドイツ闘争連盟の協力を求め、発禁措置を行わない」

との発表を行います。


ここでこの時点で私が感じた「感想」を少し挟みます。私、この時点ではカールが「バイエルン州の独立」を志して「反ベルリン」の意思を貫いている・・・にしては少し弱腰だ感じました。

まあ、「政治」っていうのは表面に見えることだけじゃなく、その裏側でうごめいていることについても目を向ける必要があると思いますので、額面通りに受け取るのは正しくない、とも思うのですが。

と、ここで「この時点での私の感想」を挟んだのは、この後のカールの姿勢が180度転換するからです。

サブテーマとしてはやはり「ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハター」を巡る経緯から派生するのですが、10月4日、同機関紙が「蜂起の切迫を示す告示」を掲載したところ、カールはこれに対し「10日間の発禁処分」を行います。

こうしてみると、「ひょっとしてカールはベルリン政府よりなんじゃないか」と勘繰りたくなるほどです。

ところが、この事をロッソウが軍総司令であるゼークトに報告したところ、ゼークトは寧ろ10月1日にカールが「発禁措置は行わない」と発表したことの方を重要視しており、ロッソウに対し、「政府の命令を拒否した」として辞職を要求する手紙を送り付けます。(10月9日)

これに対し、ロッソウはミュンヘンの国民主義団体、ドイツ闘争連盟、州武装警察の幹部を集め、自分たちへの支持を求めています。これに対し、彼らは

「ベルリン進軍のためのロッソウとカール政府の支持」

を明らかにしています。Wikiを参考にしているのですが、文章が回りくどく、事実が見えてきづらいですね。

これに対し、中央政府がロッソウに対して罷免通告を下しているのですが、これを「カールが拒否した」とあります。

ここまででわかるのがロッソウが集めた幹部らとのやり取りの中で「ベルリン進軍」に言及しており、これが参加者らの間で話として纏まっている事。

更にベルリン政府は彼らが「ベルリン進軍を画策している」という前提の下、ロッソウに対して罷免通告を出しており、これを理解した上でカールがベルリン政府からの通告を拒否しているという事ですね。

更に、これに加え、カールを州総督に命じたクニリング首相がロッソウを「バイエルン地方国防軍司令官」に任命しています。

ここまでくるとドイツ闘争連盟、カール政府の垣根など全く関係なく、バイエルン州の実力者たちの間で既にベルリン進軍という考え方でまとまっているという事実に疑いの余地などありません。

人物名を挙げると、首相であるクリニング、総督であるカール、地方国防軍に任命された第7師団司令官ロッソウ、州警察長官ザイサー、そしてドイツ闘争連盟の指導者であるヒットラー他、です。

あと、私はあまりイタリアの歴史については突っ込んで記事にしたことはないのですが、1922年の時点でイタリアではムッソリーニが「ローマ進軍」を行っており、これが「クーデター」と認定されていますので、つまり政権の奪取に成功しているという事。

深く追求しませんが、この革命により、イタリアに「ファシズム」という理念を掲げる政党「ファシスト党」が政権をになる新政権が誕生していたんですね。(1922年10月)

外伝的にまとめる可能性はありますが、現時点でこの話題の追及はしません。ただ、この時バイエルン州政府一派はこのムッソリーニによる「ローマ進軍」を念頭に「ベルリン進軍」構想を描いていたようですね。


カール政府のドタバタ劇

グスタフ・フォン・カール
Bundesarchiv, Bild 183-R41120 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

よもや、カール政府とドイツ闘争連盟がここまで纏まってしまう、という展開は私、予想していませんでしたが、この後も想定を上回るドタバタ劇が展開されていきます。

ゼークトはこれを受け、三頭政治を担う指導者3名と、ヒットラーを含むドイツ闘争連盟やその他この計画に加担する軍事組織の指導者たちに対し、武力を用いることを通達しました。(10月20日)

一方、「バイエルン地方国防軍司令官ロッソウ」は24日、国防軍、武装警察、民間武装団体の指導者を集めた上で、今後取りうるべき方策として、以下の3つの選択肢を示します。

 ・ベルリン進軍による独裁政権の樹立

 ・現状を維持して妥協を図る

 ・バイエルン州の独立

この内、ロッソウは一つ目の選択肢を取ることを示したのですが、なんとこの集会にナチス関係者(つまりヒットラーも)は招待されていなかった、とのこと。これはさすがに肩透かしを食らいましたね。

この後、クリニング、カール、ロッソウ、ザイサーらを中心に中央政府との間でドタバタ劇が演じられることになるのですが、結局最終的にカール政府はバイエルン州民や他の指導者らからの信頼を失うこととなります。

一貫してナチス抜きでのベルリン進軍が画策されていたわけですが、ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります。


どこを端折り、まとめるべきか苦心しましたが、漸くミュンヘン一揆本番直前まで歴史を進めることができました。

という事で、次回はいよいお「ミュンヘン一揆」本番へと記事を進めてみたいと思います。






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<継承する記事>第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯

前回の記事では、第一次世界大戦後のドイツの近代史の中で、ルール占領に関連した記事の中で触れることのなかった話題。首相であるヨーゼフ・ヴィルトがソ連と結んだラパッロ条約やこれに関連したラーテナウ外相の暗殺、そして「共和国防衛法。

また、ヒットラーが歴史の表舞台に登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」。これについて話題にしました。

ただ、「ミュンヘン一揆」についてはこれが勃発するまでの経緯が複雑で、またこれまで私が作成してきた記事の中では登場しなかったような人物や組織の名前が立て続けに登場するので、整理するのが非常に難しいと感じました。

そこで、前回の記事ではこの内ミュンヘン一揆を引き起こす主犯となる「ドイツ闘争連盟」。この組織の登場までを話題にし、それ以降の内容は今回以降の記事に委ねる形で終結させました。

この時点で既にヒットラーが党首を務めた「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチス」は既に組織として登場しています。

「ドイツ闘争連盟」とは、ヒットラーが政治的指導者を、「ヘルマン・クリーベル」という人物が軍事的指導者を務める組織です。ヒットラーはナチスの軍事組織である「突撃隊」をこのドイツ闘争連盟に参加させました。

今回の記事では、まずこの「ドイツ闘争連盟」について深堀したうえで、ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか。この辺りを記事としてまとめたいと思います。


「ドイツ闘争連盟」とは何か。

既に「『ドイツ闘争連盟』とは何か」という命題についてはいくつか答えを示してはいるのですが、これを深堀する意味でこのようなサブタイトルにしてみました。

「ドイツ闘争連盟」とは、「祖国的闘争同盟共働団」から派生した組織出ることをお伝えしました。また、ここに「ナチスの軍事組織である突撃隊」が参加していることもお伝えしましたね?

この当時のドイツでは、政党が集会を行うとき、必ずと言っていいほど敵対する政党が殴り込みをかけ、集会を滅茶苦茶にする傾向が常態化していたようで、ヒットラー率いる「突撃隊」とは、ナチスの前身である「ドイツ労働者党」が1919年11月に集会を行った際、組織された警備隊がその原型となっています。

この組織は1920年2月、ドイツ労働者党が「国家社会主義ドイツ労働者党」へと名称が変更された後、「整理隊」へと組織改編されます。

この時、整理隊の隊長を任されたのがエミール・モーリスという人物。彼は後にヒットラーの弁舌を纏め、「我が闘争」を執筆した人物でもあります。「我が闘争」はヒットラーがしゃべった内容を、そのまま彼が筆記したものなんですね。

ヒットラーはさらに1921年7月29日、ナチスの党首となると、整理隊はさらに「体育スポーツ局」へと組織改編されます。

ヒットラーが党首になることを支援した人物がエルンスト・レーム。彼はベルリンからミュンヘンに派遣されている政府軍、「第7軍管区司令部」の軍人で、義勇軍設立のエキスパート。

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


彼はヒットラーに対し、元エアハルト海兵旅団の隊員であり、現コンスル(右翼テロリスト集団)のメンバーであるハンス・ウルリヒ・クリンチュを「体育スポーツ局」の隊長として推薦します。(同8/3)

タイミング的に、ベルリンにおいてカップ一揆が失敗に終わった後で、ヴェルサイユ条約を順守する目的で、ベルリン政府より当時のカール政府に対し義勇軍や郷土軍の解散命令が出されていました。

当初はこれを拒んでいたカール首相も、最終的にはこれを拒否することができず、6月28日、これに同意することになります。カール首相もまた、レームによる支援を受けていました。

レームとしては、何とか義勇軍を維持したい気持ちを強く持っていましたので、自身の影響力のある元軍人を送り込むことで、彼の組織した義勇軍を維持しようと考えていたんですね。


突撃隊の結成

同年9月10日、ヒットラーは「体育スポーツ局」の名称を突撃隊へと更に改変することを発表します。

11月4日、ドイツ社会民主党の党員数百名がナチスの集会を襲撃した際、体育スポーツ局のわずか50名足らずのメンバーがこれを撃退したことを受け、「体育スポーツ局」に「突撃隊」としての名称が正式に与えられます。

「突撃隊」の結成ですね。

突撃隊には、レームが送り込んだエアハルト海兵旅団の下隊員たちが多数所属していて、解散を命じられたエアハルト海兵旅団としては、その組織を維持するのに都合がよかったですし、ヒットラーとしてはその名声を利用することができました。

レームとしても自身が作り上げた義勇軍が解散を命じられていて、突撃隊はそういった義勇軍の構成員たちの受け皿にもなっていましたので、それぞれにとってのメリットがありました。

ですが、ヒットラーにとってみれば、せっかくナチスの軍事部門として「突撃隊」を設立したのに、そこにいるメンバーは大半がレームの息のかかった元エアハルト海兵旅団の隊員で軍人としては実力者ばかり。

ナチスの党首として、ヒットラーの影響が及びにくい状況にあり、この事をヒットラーは危惧していました。


突撃隊、「祖国的闘争同盟共働団」への配属

翌年1月には、フランスによるルール占領が決行され、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト大将の命令で、突撃隊にも国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められます。

ヒットラーは最初嫌がっていたのですが、これも軍に所属するレームに説得され、渋々これに従うこととなります。

ただ、突撃隊としては正式に軍の訓練を受けることになるわけですから、ナチス軍部の組織としては強化されることとなったのではないでしょうか。

この時突撃隊が所属した組織が即ち、「祖国的闘争同盟共働団」ですね。

突撃隊への指揮権そのものが軍に持っていかれることを危惧したヒットラーは共同団に配属された直後、1923年3月に突撃隊の隊長をハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへと挿げ替えています。

ゲーリングはレームが推薦して突撃隊に配属された元エアハルト海兵旅団の隊員たちを一掃し、ヒットラーに忠誠を誓う隊員たちのみで部隊編成を行います。

実際に突撃隊が軍の訓練を受け始めるのは同じ3月からですから、新しく編成された隊員たちが軍の訓練を受けたことになりますね。

ただ、これにはさすがにレームが切れるんじゃないかと思ったのですが、同年8月13日、シュトレーゼマン内閣が設立されると彼から「受動的抵抗」政策の中止が表明されます。

これを受け、いよいよミュンヘンでも、ベルリン政府打倒に向けた機運が高まることになります。

ヒットラーはこの機運に乗じて9月2日、いよいよ「ドイツ闘争連盟」を結成します。ドイツ闘争連盟はヒットラーによって組織されたものだったんですね。

このドイツ闘争連盟の政治的指導者をヒットラーが、軍事的指導者を「祖国的闘争同盟共働団」の指導者であったヘルマン・クリーベルが務めました。

この時、9月26日、レームは軍に除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じています。

という事は、レームはヒットラーの行動に対して不快感を抱いたりするようなことはせず、まっすぐに受け止めていたという事ですね。


ヘルマン・ゲーリングがナチスに入党した理由

ヘルマン・ゲーリング
Bundesarchiv, Bild 102-13805 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


さて。ここで一つポイントとなるのは、突撃隊が「祖国的闘争同盟共働団」に参加した後、突撃隊の隊長となった人物、ヘルマン・ゲーリング。彼がナチスに入党することとなったその理由です。

彼は、1922年11月、ミュンヘン・国王広場で開催されたナチスの政治集会で初めて演説を行うヒットラーの姿を見ることになるのですが、ヒットラーの演説の後、彼はヒットラーと個別に面会する機会を得ることになります。

ゲーリングはその場でヒットラーから

「ドイツが敗戦国にされたのは、戦いに負けたからではなく、ユダヤ人と共産主義者の裏切りのせい」

であるとする所謂「背後の一突き説」を熱心に語るヒットラーに感銘を受け、翌月12月にナチスへと入党しています。

ですが、そもそも「背後の一突き説」とは、「第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ」という考え方を言うのであって、そもそもここにユダヤ人は関係ありません。

ですが、ヒットラーはこの時点で既に共産主義者とユダヤ人とをある意味同一視していたんだという事がわかります。

彼自身は シオンの議定書 に記されている内容を真に受けており、所謂「ユダヤ陰謀説」に振り回されていることはわかります。

ただ、彼自身としては(彼の説によれば、ですが)、例えば彼が嫌っている左翼系の新聞の編集者や歴史上の優秀な芸術家たちが作り上げた絵画をけなすかのような作品を作り上げる者たちが軒並み「ユダヤ人」であることを突き止めており、この事が彼にユダヤ人を嫌悪させる所以ともなっています。

また、この当時のドイツ人の共通認識として、例えばロシアはドイツに降伏しており、一方のフランス戦においてはその戦場はドイツではなくフランス。ドイツそのものは殆んど傷ついていないのです。

このような事情から、ドイツ人としては明らかに勝利に向かって突き進んでいたのに、突然政府が敗北宣言をした。そんな風にドイツの敗戦は映っていたのだと思います。

当然納得がいかず、(事実そうですが)「共産主義者の裏切り」によって自滅した。そういう印象が非常に強いのだと思います。

ヒットラーからしてみれば、これを裏側から主導していたのはユダヤ人であり、国内から社会主義者やユダヤ人を一掃する事こそまさにドイツの国益につながると、この時点で既にそのように思っていたのではないか・・・という推察を行う事ができます。

この時点ではまだ「推察」に過ぎませんし、そのことによってヒットラーがどのような行動に出るのか。これもまだ予測はできません。


記事としては、ここから更に「ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか」というところまで描きたかったのですが、「ドイツ闘争連盟」に関する内容だけである程度まとまってしまいましたので、結成後のドイツ闘争連盟の動きに関しては改めて次回記事に委ねたいと思います。






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<継承する記事>第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのか

前回の記事では、第一世界大戦後、「ハイパーインフレーション」という経済状況に陥ったドイツが、その絶望的な経済状況から一体どのようにして立ち直ることができたのか。この事にポイントを絞って記事を作成してみました。

とはいうものの、実際に記事をまとめている際、私が追求したかったことをそのまま、非常に整然とまとめていた動画を発見してしまいましたので、内容とするとそちらに完全に振った感じになりました。

動画を見ていても、私が今更まとめたところでとてもこの動画の内容にはかなわないな、と感じたのが最大の理由です。

ただ、完全に投げっぱなしにすることはせず、いつか「外伝」的な内容で私の記事なりにまとめることができればと思っております。

その上で追加して、第一次世界大戦後のドイツ史として、「ルール占領の終息」をまとめる上で必要な要素のみ抽出して記事にしました。

この流れの中で、まずはレンテンマルクの導入によって「首相」という立場からはドイツのハイパーインフレという状況を終息させることに成功したシュトレーゼマン、そしてルール占領を強行し、ドイツのハイパーインフレをより深刻なものとさせたフランスのポアンカレ首相はそれぞれルール占領が収束するまでに「首相」の座を降りることとなりました。

ここまでを第一次世界大戦後のドイツの「戦後処理」に係る歴史的経緯としてこの部分について一旦終結させます。

本日の記事では、前述した「戦後処理」の問題の内、話題として触れながら深堀しなかった二つのテーマについて記事にします。


ヨーゼフ・ヴィルトの「密約」と「共和国防衛法」

一つ目が、この「ヨーゼフ・ヴィルト」がソ連との間で締結していた「密約」、そしてヴィルトが退陣する理由の一つともなった「共和国防衛法」です。

で、この「密約」が「ラパッロ条約」と呼ばれるもので、これは1922年4月10日から5月19日にかけて、イタリアの「ジェノア」という都市で開催された、国際会議「ジェノア会議」が開催された際、共に会議に参加していたドイツとロシア(ソビエト・ロシア)が同じくイタリアのラパッロというところで締結した条約がこの「ラパッロ条約」です。

ラパッロ条約

内容としてはドイツとロシアが共に第一次世界大戦によって発生した領土や賠償に関する請求を放棄した条約です。これによって両国の国交が正常化することになりました。

ドイツは「ブレスト=リトフスク条約」によってロシアから得た請求権を、ロシアはヴェルサイユ条約後、得ることができると考えられる請求権をそれぞれ放棄した感じです。

当時はソビエト政権が統治する「ロシア」という国をどの国も国家として承認していませんしたので、ドイツは世界で初めてソビエト政権を国家として承認した国・・・ということになります。1922年4月16日の事です。

また更に、この条約は11月5日、ベルリンにおいて捕捉条約が結ばれ、この捕捉条約において、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース連邦(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)、極東の各ソビエト共和国をドイツは承認。12月、ソビエト・ロシアはこれらの国々と共に「ソビエト連邦」を結成します。

第一次世界大戦はドイツとロシアとの対立に始まり、両国が社会主義革命の勃発によって共に自滅したことによって終結した戦争です。

戦後、両国は連合国からのけ者にされ、のけ者にされた国同士で締結したのが「ラパッロ条約」。

恐ろしいなと思うのは、後の世界を絶望の渦に巻き込んでいく「共産党」という勢力によって形成された「ソビエト政権」を認めたのが、ドイツでも「保守」政党によって支持された首相、「ヴィルヘルム・クーノ」だったという事。

また更に、ドイツは後のソビエト連邦を形成する国々の「ソビエト政権」を認めたのと引き換えに、ソビエト国内での軍事訓練等を行うことを認めさせています。ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備縮小を約束させられていますので、これは「ヴェルサイユ条約」に違反する条約でもあります。

両国の関係は、その後ヒットラー政権が誕生するまで継続したのだとか。


ラパッロ条約がドイツ国内に齎したもの

ラパッロ条約の締結は、まずドイツ国内で「右派」の反発をもたらします。

典型的な事例として、ラパッロ条約をソ連との間で締結したヴァルター・ラーテナウ外相が、「コンスル」というテロリスト集団に暗殺されます。

「コンスル」については、第484回の記事 で話題にしましたね。

第483回の記事 でご紹介した「バイエルン・レーテ共和国」。これを滅亡させる上で活躍した「エアハルト旅団」。

エアハルト旅団はヴェルサイユ条約によって軍縮を求められたドイツ政府、グスタフ・ノスケ国防相によって解散を求められるのですが、これに反発して「カップ一揆」を引き起こしました。

民衆からの反抗でカップ政権が崩壊した後、エアハルト旅団は再び解散を命じられるのですが、このエアハルト旅団の残党によって結成されたのがテロリスト集団「コンスル」。

彼らによってラーテナウ外相は暗殺されました。(1922年6月24日)

これを受け、7月18日の議決を経て21日~23日にかけて施行されたのが「共和国防衛法」です。

「共和国防衛法」に関しては、詳細な情報を見ることができるサイトがほぼ皆無。唯一Wikiのドイツ語版でその詳細をうかがえる程度ですので、掘り下げることは現状難しいのですが、数少ない情報からすれば暗殺は「極右」である「コンスル」によって行われたものですが、対象は「極右と極左」両方がその対象となっていたようです。

また、この法律そのものは憲法に照らせば違憲なものだったのですが、「国会の2/3の賛同」を得て成立しているようです。更にこの法律は1929年に改正されており、第二次法としては違憲な状態がない形に修正されていた、とのこと。

そして、この法律の扱いがまたヴィルト首相はヘルメス財務相との対立を招く一因となり、戦後賠償問題と共に紛糾し、同年11月に退陣することとなりました。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯

そしてこちらが二つ目のテーマ。

戦後処理をめぐり、ドイツ国の首相は

 コンスタンティン・フェーレンバッハ
→ヨーゼフ・ヴィルト
→ヴィルヘルム・クーノ
→グスタフ・シュトレーゼマン

へと代替わりするのですが、ミュンヘン一揆がおきたのは1923年11月の事。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任した直後の出来事です。

シュトレーゼマンは先代ヴィルヘルム・クーノの政策である「受動的抵抗」政策を中止し、通貨を「パピエルマルク」から「レンテンマルク」へと交換し、見事ハイパーインフレを終息させた人物です。(実際に収束させたのは通貨委員であるヒャルマル・シャハトですが)

前回の記事 でバイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングがバイエルン州に「非常事態宣言」を発令した上で、グスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命したことを記事にしました。

よくよく考えるとバイエルンは同じドイツの中でもビスマルクが統合した際「自由都市」として自治を認めた南ドイツの州であり、そのせいでこのような所業が可能になるわけですね。

カールは元々カップ一揆の余波で「バイエルン州首相」の座に就いた(第484回記事参照)ものの、バイエルン州独立を目指そうとしたカール首相はベルリン政府より首相の座を追われることとなりました。

それでもバイエルン州独立の機運が収まることはなく、バイエルン州内での「右翼」と「左翼」が正面衝突しかねない状況となったことから発令されたのが「非常事態宣言」。これが前回の記事でお示しした内容です。

州総督となったカールには「独裁的権限」が与えられました。

この時点で既にナチス、つまり「国家社会主義ドイツ労働者党」は結成されていて、カール政権はこのナチスからも支持されることになりました。「独裁を行わないこと」が条件とされました。

支持する、とはいうものの、この時点ではまだ「静観」する姿勢だったようですね。

カールの取った政治姿勢はベルリン政府と対立する様相を得示していて、カール政権とベルリン政府との関係は緊迫した状況であった、との事です。


主犯・「ドイツ闘争連盟」

ミュンヘン一揆を実行したのは「ドイツ闘争連盟」というグループで、ここにはアドルフヒットラーをはじめとするナチスの党員も参加していました。

「ドイツ闘争連盟」の母体となったのは、ベルリン政府がルール地方を占領するフランス軍に対抗するために組織しようとしていた「ドイツ義勇軍」の一部で、バイエルン州の民間軍事組織を連携させるために結成(1923年2月)した「祖国的闘争同盟共働団」です。

「祖国的闘争同盟共働団」にはヒットラーが代表者であるナチスも参加していたのですが、ヒットラーは主導的な立場にはありませんでした。

同年8月、ルール闘争の失敗やハイパーインフレを引き起こした責任を取り、ヴィルヘルム・クーノが首相を辞任。シュトレーゼマンが首相となります。

バイエルン州には彼がとった「受動的抵抗の中止」という政策に反対する声が多くありました。

ちなみにこの時点でヒットラーを代表とするナチスは自身が「ドイツ人」であると考える「大ドイツ派」。一方、後に州総督となる前バイエルン州首相グスタフ・フォン・カールは自身がバイエルン人であると考える「バイエルン分離独立派」。

「受動的抵抗の中止」に反抗してヒットラーは9月1日~2日にかけて行われた「ドイツの日」のイベントを通じてナチスはバイエルン州右派よりの支持を集める様になったのですが、同時にバイエルン分離独立派との関係は悪化したのだそうです。

で、そんなナチスがカール政府誕生後、カールを「支持する」姿勢を表明したという事ですね。

「ドイツの日」の直後に「祖国的闘争同盟共働団」の「極右派」が、指導者であるヘルマン・クリーベルを議長とした「ドイツ闘争連盟」を組織し、この団体を通じてヒットラーもついに「政治指導者」としてその頭角を現すこととなりました

カール政府が誕生したのはこの後のことです。


記事が長くなりそうなので、「ミュンヘン一揆」に関する記事はさらに別の回に分けて製作しようと思います。




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<継承する記事>第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響

前回の記事では、ヴィルヘルム・クーノがドイツ国首相となった後、前首相であるヴィルトの政策を引き継いだことからフランスのポアンカレ首相より「生産的担保」、つまり「ルール地方の鉱山管理権」を要求された事。

その後、フランスとベルギーによりドイツのルール地方が占領され、既に対外貨幣ベースでは極端な「通貨安」状態に陥っていたドイツがルール占領への対抗策としてルール地方の国民に対し「ストライキ」を呼びかけ、賃金を「通貨発行」によって賄った事。

結果対ドル相場でなんと2億3606万倍で貨幣の価値が下落してしまった、つまり「ハイパーインフレーション」を引き起こしてしまったことを記事にしました。

後半で現在の国内で話題となっている貨幣政策への批判を織り交ぜてしまいましたので、記事としてはそこまで終了させたのですが、今回はそこから更に、ドイツ国内でこの「ハイパーインフレーション」という経済状況に対してどのような政策が実行されたのかという内容を中心に記事を進めていきます。


グスタフ・シュトレーゼマンの政策

情勢に変化のない時期を追ってもあまり意味がないと思いますので、「ハイパーインフレーション」まで含むドイツ国内の情勢に大きな変化があった出来事にポイントを絞って記事を進めていきます。

ヴィルヘルム・クーノの就任後、ドイツは連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求め、これにイギリスとイタリアは賛同する意思を示すものの、フランスとベルギーによって拒否。

イギリスのジョージ・カーゾン外相より両国の占領がヴェルサイユ条約に違反することをフランスに通告、アメリカの仲介による中立的な査定期間の設立を提案するものの、これもフランスによって拒否。

結局クーノはハイパーインフレーションを引き起こしただけで何一つまともな政策を打ち出すことができず、1923年8月11日、社会民主党より不信任を突き付けられ、退陣へと追い込まれます。

彼の後を引き継ぎ、首相になった人物がグスタフ・シュトレーゼマン。

グスタフ・シュトレーゼマン

彼が首相となった後、11月に「ミュンヘン一揆」が起きます。この一揆を主導したのが「ドイツ闘争連盟」。そのメンバーの一人として、「アドルフ・ヒトラー」の名前が登場します。

かなり中心的な立場となって彼は活動しているのですが、このテーマは次回記事でポイントを絞って記事にする予定です。


では、改めてグスタフ・シュトレーゼマンについて。

シュトレーゼマン内閣で財務相を務めたルドルフ・ヒルファーディングの試算によれば、シュトレーゼマンが首相に就任した時点で既に「ルール闘争支援」のための費用は限界を迎えており、シュトレーゼマン自身も冬が始まるまで今の「消極的抵抗」政策を続けることは不可能であると考えていました。

この事から、シュトレーゼマンは9月26日、「受動的(消極的)抵抗の中止声明」を行います。

これに対して反対したのが「ドイツ共産党」と「ドイツ国家人民党」。

またこれに対抗し、バイエルンでは9月20日の時点でなんとバイエルン州政府に「非常事態宣言」を行い、バイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングはグスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命しました。

グスタフ・フォン・カール

グスタフ・フォン・カールはクリニングの前の首相でもあります。

第484回の記事、及び 第490回の記事 でも名前が登場しましたね。

第484回の記事

バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

という内容を掲載しました。

第490回の記事 で掲載したように、首相に就任したカールはバイエルンの「分離主義者」たちに支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、これに危機感を覚えたベルリン政府によって首相の座を追われることになりました。

それでも州内の独立の機運が収束することはなく、そこに「受動的(消極的)抵抗の中止声明」が重なりました。

「非常事態宣言」が発令されたのは、今ことが理由でバイエルン州内での「右翼」と「左翼」とが前面衝突しかねない状況が生まれたから、なのだそうです。

カールはシュトレーゼマンの政策を批判し、ベルリンtのの対決姿勢が強まりました。

ここから先はミュンヘン一揆の記事に委ねます。


シュトレーゼマンの声明の影響はドイツ国全体にも衝撃を与え、エーベルト大統領もまた、「戒厳令」を発令。指揮権を国防相に与えました。


シュトレーゼマンの「デノミネーション」政策

ドイツで「ハイパーインフレーション」が問題になったのは、その影響で物やサービスの値段が安定せず、「昨日の買えていた値段で明日パンを買う事ができない」というような事態が発生したから。

例え「ハイパーインフレーション」が起きて通貨の価値が急速に下落しようが、政府がお金を発行してばらまいてくれるわけですから、一定の下落幅で安定し安心して買い物を行う事ができれば不満が大きくなることはありません。

最大の問題は通貨の価値が下落し続け、つまりは「物価が高騰『し続ける』」から問題になるのです。

と・・・情報を検索していると、私が今回記事にしたかった内容を実に鮮やかにまとめた動画を発見してしまったので、その動画を紹介します。



そう。サブタイトルを「シュトレーゼマンの『デノミネーション』政策」としたのですが、実質的にこのデノミネーション政策を実行したのは「ライヒ通貨委員」となったヒャルマル・シャハト。

彼は「ドイツレンテ銀行」を設立し、国内の「地代請求権」を担保とした「レンテマルク」という通貨を発行し、「パピアマルク」と交換しました。

レンテンマルクは「土地の価格」と紐づけられていますので、日々・・・というよりも時間単位で通貨の価値が下落する「パピアマルク」と比較すると価値が安定しており、国民は我先にとパピアマルクをレンテマルクへと交換したのだそうです。

「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているようで、この事がドイツの通貨の価値を安定させ、ドイツの「ハイパーインフレーション」を急速に鎮静化しました。

1:1兆のレートで交換されましたので、実質的には通貨の単位が1兆マルクから1マルクに切り下げられた形となり、このような通貨政策の事を「デノミネーション」と呼びます。

ドイツのは場合は通貨の種類そのものが変わっていますので、疑似的なデノミネーションなんですけどね。

「レンテンマルクの奇跡」、そしてヒャルマル・シャハトという人物の名称は、その後のナチスドイツの政策にも関わってくるようですので、改めて後日的を絞って記事にしたいと思います。

本日ご紹介した動画の内容を参考にして作成すると思いますので、良ければ先に動画に目を通してみてください。私が改めて記事を作成する必要がないほどに、わかりやすいです・・・💦

私とすると打ちのめされた感満載です。


ルール占領の終息

さて。レンテンマルク政策によって見事にインフレを鎮静化させたシュトレーゼマンですが、彼の内閣もまた、バイエルン州問題への対応などをきっかけとして社会民主党が連立を離脱し、総辞職することとなります。(11/23)

彼が総辞職する1か月前、10月23日、米国が賠償員会に加わり、フランスの反対を押し切って賠償策定プロセスにドイツを参加させる方針を決定させました。

これまでは「イギリス」「イタリア」「フランス」「ベルギー」そして「チェコスロバキア」が賠償委員会に参加しており、評決に参加することができたのはチェコを除く4カ国でしたから、どうしてもドイツに対して直接利害関係を有するフランスとベルギーの発言力が高まっていました。

ですが、ここに米国が参加したことで、この構造が変化しましたね。

フランスのポアンカレ首相はそれでもルール占領の正当性を主張していたのですが、シュトレーゼマン退陣後、米国の賠償委員会への評決への関与を受諾する事となりました。

この決定は米国より賠償委員会に加わったチャールズ・ドーズの名称を取り、「ドーズ案」と呼ばれるのだそうです。

内容としては、まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

フランス、ポアンカレ内閣は翌年(1924年)6月に総選挙で敗北し、退陣。

8月16日、独仏双方が折り合い、フランス軍・ベルギー軍は同年10月より撤退を開始することとなりました。


さて。次回記事は「ミュンヘン一揆」へとスポットを当て、それ以降はいよいよヒットラーにスポットを当て、記事を進めていきたいと思います。

シリーズのテーマとしては「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」という名称になっていますが、目的としてはヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の真相までたどり着ければ、と思っています。

シリーズとしてはその時点での終了を目指します。

一応、次期シリーズの事も私の構想にはあり、それは「モンゴル」について。「ソ連」という国の大部分がかつてはモンゴルであった事。一方で中国人の持つ「残虐性」に実はモンゴル人が関係があるのではないか、という私の仮説を裏付ける作業を行っていきたいと思っています。




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<継承する記事>第502回 ジョン・メイナード・ケインズの警告とルール占領までの経緯

前回の記事では、ヴェルサイユ条約以降、ドイツと連合国との間で行われた賠償額の決定に向けた経緯を特にジョン・メイナード・ケインズの視点を通して、更にその後のドイツの対応と関連国、特にフランスの反応について記事にしました。

なんとか「ルール占領」が実行される伏線までは到達できたかと思います。

復習として、

・コンスタンティン・フェーレンバッハ首相は連合国側からの無茶な賠償金額を受け入れることができず、退陣。

・続いて就任したヨーゼフ・ヴィルト首相は、とりあえず無茶な要求を受け入れて「払えない」ことを実証する作戦に出た。

・ジョン・メイナード・ケインズはドイツが受け入れた賠償額を「支払いが著しく困難である」ことを警告。

・ケインズの警告通り、ドイツは償還が困難となる。

・ヴィルトはこの賠償問題及び「共和国防衛法」をめぐって財務大臣と対立し、退陣。

・ヴィルトは退陣と共に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出。

・続いて就任したヴィルヘルム・クーノはヴィルトの見解を継承する。

・フランスの首相ポアンカレはドイツに「生産的担保」を求める。

ドイツ首相の交代劇を中心に、ザっとまとめましたが、こんな感じです。

で、この「生産的担保」がルール地方の事だ、ってところで話題を今回に委ねました。


フランスとベルギーによるルール占領

という事で、今回は改めてフランスとベルギーによって実行された「ルール占領」の具体的な経過と、その収束についてまず記事にします。

改めて、この時点でのドイツ国首相は「ヴィルヘルム・クーノ」です。ちなみにこの当時のドイツの国名は「ドイツ国」が正式名称ですが、後の歴史では「ワイマール共和国」としても認識されています。

前首相であるヴィルトの下でドイツは連合国側に対して資金調達が困難になったことを理由に「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を提出しました。

クーノはこの認識を引き継ぎ、また連合国側でもイギリスはこの要求に一部応じるのですが、フランスはこれに反対し、「生産的担保」として「ルール地方の鉱山管理権」をドイツに要求しました。

この後のドイツについてWikiでは

「その後、ドイツの賠償支払いは遅れ、石炭引き渡し額が200万トン足りないなど、現物支払いを履行しなかった」

と記されています。この「現物払いの遅れ」がドイツによる故意のものであるのか、あるいは本当に不足し、履行することができなかったのかといった内容についての記載はないのですが、これに対し、「12月26日、賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とあります。

賠償委員会の構成国はアメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・ベルギー・ユーゴスラビアの7カ国。この当時のユーゴスラビアはユーゴスラビアとい名前ではなく、「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」という名称だったのだそうです。

この内、評決に加わることができたのはアメリカ・イギリス・フランス・イタリアの4カ国。日本は日本に直接関係する問題について、ベルギーはそれ以外の問題について評決に加わることができたのだそうです。

ところが、実際にはこの内アメリカは前提となるヴェルサイユ条約に批准しておりませんので、賠償委員会そのものには参加していません。

ユーゴスラビアに関しては委員会に参加することはできるけど、評決にかかわることはできなかったという事でしょうか。

この内容から考えると、欧州の問題に関連して実際にドイツの賠償に関与することができたのは「イギリス・フランス・イタリア・ベルギー」の4カ国だけですね。

で、フランスとベルギーは直接被害を受けており、イギリスは両国に請求権を持っています。

「賠償委員会はイギリスの反対を押し切ってドイツの賠償不履行認定を宣言した」とありますが、これはつまりフランス・ベルギーの両国がイギリスの反対を押し切ってドイツの「賠償不履行認定を宣言した」という事に他なりません。

この時点、つまり1922年12月26日の時点でも既に連合国側によってドイツはデュースブルクをはじめとする3つの都市を占領されています。

これに加えて1923年1月4日フランスの首相ポアンカレはついにルール地方の占領を宣言。ベルギーととともに1月4日よりルール地方の占領を開始します。

ここからは私のブログでも何度も記事にしていますが、この両国のルール占領に対し、ドイツ国首相ヴィルヘルム・クーノは「消極的(または受動的)抵抗を行います。

即ち、ルール地方の労働者に対するストライキの呼びかけ。ストライキ中の労働者に対する賃金は政府が保証しましたが、これは財源がなかったために「紙幣増刷」で補っています。

本日は令和2年6月21日ですが、この時のドイツ国政府の対応、どことなく今回の日本の「コロナ対策」を彷彿させますよね?

政府が国民に対して「自粛」を呼びかけ、で国民からは「保証の要求」が行われ、これに応じる形で全国民に10万円が支給された、あの様子です。

今回は事情が非常に特殊でした。というのは、「自粛」を要求されていたのは日本だけでなく全国的に同様であったこと。かつ他国から日本への移動が制限されていました。

このおかげで仮に日本国内でお金をばらまいてもこれを狙って国外の企業が日本にたかるようなことはありませんし、また仮に同様の政策を今後継続し、日本国内で「生産活動」そのものが休止に追い込まれたとしても、代替品として海外の生産物が選択されるような状況にはありませんでした。

ですから日本国内で「物・サービスの値段」が高騰するようなことはありませんでしたが、長期的に見ると、あるいは日本国内だけがこのような状況に追い込まれていたとすると、安易に国債発行・・・というよりも「通貨発行」に頼った政策をとると、それは日本国民の生活を破綻に追い込みかねない政策であるってことを私たちははっきり認識しておく必要があると思います。


話題が逸れました。ドイツ政府とすると、フランスの武力による占領に対し、武力で抵抗する方法ももちろんありました。ですが、実際は占領政策によってドイツ軍は縮小、及び廃止を余儀なくされていますし、敗北し、ドイツ全土が占領されてもおかしくない状況だったかと思います。

この事から、当時の軍総司令であるハンス・フォン・ゼークトは義勇軍の拡充や鵜は独立政権の樹立まで計画していたのだそうです。

フランスのこのような行動は、イギリスやフランス国内の左派政党などからも批判を受けていましたが、フランス国内の右派、及び新聞機関等がさらに強硬な姿勢をとる様煽っているような状況にありました。

この時の状況を再びWikiから引用して掲載してみます。

5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した。

5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した。

抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした

この他、既に連合国の占領下にあったラインラントなどでは占領軍に対するテロも発生するようになっていたそうで、客観的に見てフランス・ベルギーの行動は「侵略」の様相を呈していたんですよね。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」です。


「ハイパーインフレーション」の影響

改めてハイパーインフレーションの影響にさらされたドイツの様子を見ていて、ハイパー・・・というより「インフレ」という言葉の本当の意味を認識させられた思いがしました。

なので、少しそのお話をしてみます。

前回の記事 でドイツの通貨価値について、ヴィルヘルム・クーノが就任した直後、1922年12月の時点で「マルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していた」ことを記事にしました。

1807倍ですと、日本で考えますと、1919年には500円くらいで買えていた米国産の牛肉が90万円以上出さないと買えなくなるレベルの話ですから、これだけでも半端ないです。

ここから更に、「生産をストップし、賃金だけばらまく」ことを実行しましたので、ドイツの通貨は1923年1月と比較して11月には対ドル相場でなんと2億3606万倍にまで跳ね上がりました。

感覚がわかりにくいかもしれませんが、例えばドイツが通貨を発行してばらまくわけですから、別に1月の時点で1マルクで買えていたものが11月に2億3606万マルクださなければ買えなくなっていたとしても、これをドイツ政府がきちんと支給してくれれば問題はないのです。

ですが、それが問題になってくるのは、例えば11月1日の時点で1000マルクを政府から受け取って、11月1日に500マルクで販売されていたものを11月3日に買おうとすると5000マルク出さなければ買えなくなっていた・・・というのでは話にならないってことです。

売れなくなれば値段は下がるんじゃないかと考える人もいるでしょうが、購入対象が命や生活そのものを左右するような品物で、在庫が入荷する見通しが全く立たず・・・っていう話になると、たとえそれにどのような値段がついていたとしても販売した瞬間に売り切れる。これは、実は私たち日本人もかなり最近体験しています。

そう。「マスク」や「トイレットペーパー」というものを通じて。

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結果、「高いマスクしか買えなくなった」と実感されませんでしたか?

あれが数日ペースで、更に何百、何千倍というペースで進んでいくと考えてみてください。

パンを買いに行っても陳列されていない。陳列されていても高値で一瞬で売り切れてしまう。今日用意した金額ではとても足りない。

足りない分を次の日に政府から受け取ったとしても、買いに行くとない。陳列されているものは昨日の10倍くらいになってる。そんな状況が続いていたわけです。当時のドイツでは。

「インフレーション」の言葉の意味は、「物価が継続して上昇し続ける」ことを言います。

で、同じ「物価の高騰」でも、販売数そのものが増えることによって起きる「物価の高騰」と、販売数が一定で、値段のみが吊り上がっていくことによる「物価の高騰」の2種類があります。

前者ですと、仮に商品単価が下落したとしても「物価」事態は上昇することがあります。全社ですと「商品単価」事態は上昇したとしても「物価」は下落する事もあります。

ですが、数量そのものが限られている状況で単価が高騰すると、それはおのずと「物価の高騰」へとつながっていきます。

限られた経済圏に対して通貨のみを無条件給付した場合、その消費力を受け止めるだけの生産力がその経済圏になければおのずと物価は高騰します。物資が不足すれば、おのずとその経済圏の外にその生産力を求めるしか方法がなくなります。

勿論、その経済圏の内側の生産力を高めることが最良の手段ですが、それはそう早急にできることではありません。不足した「マスク」の供給が需要に追い付かず、必要とする場所に最良の生産物を届けるため、政府が海外から調達した生産物を全戸配布しましたよね?

あれにはそういう意味があります。

更に、海外の生産力のみに頼るようになれば、海外で何かあったときに、当然国内では急激な「供給不足」が起きてしまいます。通貨を供給する仕組みのみに着目し、日本国内の「生産力」を置き去りにした思想。これが「MMT(現代貨幣理論)」という考え方です。

例えば、MMTの考え方の中に「貨幣の信用・価値は、国家の徴税権によって保証されている」という考え方があるようですが、これは大きな誤りです。通貨の信用や価値は、その国内の「生産力」。日本人であればその「勤勉さ」によって保障されています。

これを忘れて通貨の供給のみに着目した思想に私は全く賛同することができません。

少しコロナの問題に関連させ「ハイパーインフレーション」のテーマを掘り下げてすぎてしまいました。

改めまして、次回記事ではこの後ドイツがどのようにして「ハイパーインフレーション」という状況から脱却することができたのか。ハイパーインフレーション下のドイツで起きたことと絡めまして、次回はこのテーマで記事を進めてみます。




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<継承する記事>第490回 第一次世界大戦後のドイツはどのようにして「右傾化」したか

しばらくコロナウイルス関連の記事を続けたのですが、改めてシリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」に路線を戻します。

シリーズ前回の記事 の文末でご案内した通り、今回はドイツに「ハイパーインフレ」を招く直因となった「ルール占領」について、ハイパーインフレが起きた経緯ではなく、ルール占領が行われた経緯にポイントを絞って記事にしたいと思います。

その後、ハイパーインフレに対して当時のドイツがどのような対応を行ったのか。こちらにポイントを移していきます。


ヴェルサイユ条約後、ドイツの賠償が決定する経緯

ヴェルサイユ条約後、ドイツに対する賠償が決定していく経緯について、もう少し深く掘り下げてみます。

ヴェルサイユ条約でドイツが連合国(主にフランスとベルギー)に賠償を行う事が決定するのですが、実際には1920年4月以降、合計12回に渡って開催された会議においてその正式な賠償額が決定します。

この時の首相はコンスタンティン・フェーレンバッハ。第484回の記事 で話題にした「ルール蜂起」。

この後、初めて行われた国会選挙において誕生した内閣です。

前回の記事 でもお伝えしましたね。

フランス・イギリス・イタリア・ベルギー・日本・ポルトガルなど複数の国々によってその賠償額が話し合われ、その総額は1920年6月の時点で総額2690億金マルクとされました。

また、同年11月にはドイツがその賠償請求に応じない場合には連合国によって、ルール地方、またはドイツ全土を占領することが決められています。

1921年2月~3月にかけて開催されたロンドン会議ではドイツ側より総額を500億金マルクとする対案が出されたのですが、連合国側により却下された上、連合国はルール地方にある「デュッセルドルフ」などの3つの都市を占領します。(~1925年8月25日。これは所謂ルール占領とは異なります)

1921年4月27日、その最終的な金額は1320金マルクと決定します。

ドイツははこの額が国力を超え、実行不可能であると反論しますが受け入れられず、フェーレンバッハついに退陣に追い込まれます。

一方で新首相となった「中央党左派」、ヨーゼフ・ヴィルトは、とりあえず連合国側の要求を受け入れ、実際に賠償金を支払った上で、その履行が不可能であることを実証する、「履行政策」を取りました。

ヴィルト


ちなみこの時政権が右派政権から左派政権に代わってますね。彼がとったこの「履行政策」は、ヴェルサイユ条約の見直しを主張する「右翼民族主義者」たちから攻撃の的とされます。

後のドイツの国際関係を検証する上で、この時に首相を務めたヨーゼフ・ヴィルトという人物は、中々重要な立ち回りを演じていますので、この話題は後日深めてみます。

ともあれ、ヴィルトが「履行政策」を取ったことから結果的にドイツの賠償額は総額1320金マルクを30年払いという形で決着がつきました。(1921年5月5日)

既に過去の記事で話題としていますが、更にこの賠償金は外貨建てでの返済を要求されていましたので、ドイツが賠償金を支払えば支払うほど外貨高となり、これが所謂「ハイパーインフレ」を引き起こす一つの要因ともなりましたね。

この後、ドイツはフランスに再三賠償金の支払いについて交渉を行うのですが、悉くフランスに拒否されており(実際に協定の締結まで進んだものも、フランス産業界等の批判により中止にされるなど)、ドイツには厳しい状況が続きます。


ジョン・メイナード・ケインズの警告

以外なのは、ドイツへの賠償を確定させるうえで、イギリスの責任者としてあの「ジョン・メイナード・ケインズ」が就任していたという事。

「ケインズ経済学」の下となる理論をまとめたあの、ケインズです。

ケインズ


彼は元々ドイツの支払い能力として「高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」とする報告書を策定していました。

これを、当時の首相であるロイド・ジョージ氏は受け入れず、「ドイツの限界まで賠償を支払わせる必要がある」として240億ポンドという額での賠償をドイツに求めていました。(1918年12月)

翌年1月に開催されたパリ講和会議。これとは別に開催されていた賠償委員会にケインズは出席することができず、代わりに出席した「イギリス代表」はケインズとは異なり、ジョージ首相同様ドイツに限界「以上」の賠償をさせようとする「強硬派」でした。

例えばアメリカがドイツの賠償額を各国が受けた「損害の範囲内」の補償に留めようとする提案を行ったのに対し、イギリス代表は「戦費」までその補償に含めるべきだと主張しました。

1919年3月からはイギリス代表としてケインズが参加するようになったのですが、イギリスの強硬派たちの抵抗は強く、結果的に同講和会議での賠償額の決定は見送られることとなりました。

また更に英仏は賠償額に対し、更に軍人恩給まで含めることを米国に要求し、米国を屈服させました。イギリス代表であったはずのケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国しています。

この結果、締結されたのが「ヴェルサイユ条約」です。ちなみに同条約116条において、「ロシアの賠償請求権」は保留されることとなっています。ロシア革命後のソビエト政府が正式に成立した後、協議されることとなりました。


ケインズは、この時のイギリス政府の姿勢を「平和の経済的帰結」という書籍において批判し、更に1922年、「条約の改正」という書籍において、賠償に批准したドイツの賠償支払いが著しく困難であることを警告しています。

ここはそのままWikiから引用します。

1922年の「条約の改正」では予算問題とトランスファー問題によってドイツの賠償支払いが著しく困難なものであると警告している。

予算問題とはドイツ政府が賠償を支払うためには、政府財政で毎年黒字を計上せねばならない。黒字達成のためには増税や支出削減が必要であるが、賠償額が大きくなればなるほど国民生活を圧迫し、これが続けば労働意欲や生産力も低下するというものである。

トランスファー問題とは、ドイツが賠償支払いを外貨で行わねばならないことから生じる問題で、ドイツが自国の財政黒字を外貨に両替するためには経常収支が黒字であることが必要であるが、現実的にはその達成が困難だと指摘したものである。

ケインズはこれらの理論により、イギリスとアメリカに対連合国債権をすべて放棄させた上で、ドイツに賠償額を30年賦で12億6000万金マルクずつ支払わせるのが妥当と算定した。

ドイツ政府の賠償金調達はケインズの警告通り、19922年5月の時点で困難となり、ドイツはフランスに対し支払いの延期を求めますが、フランスはこれに応じず、おそらくこの時ドイツは通貨の発行によってこれを賄ったのだと思います。

結果、マルクは「一ポンド=5575マルクまで下落した」とあります。この金額が当時の通貨単位でどの程度の下落であったのかは記されていませんが、ケインズの警告をなぞるような下落幅だったのだと想像します。


フランス・ベルギーのルール占領に至る経緯


1922年1月には一時的に支払いの猶予が認められていたのですが、これに賛成した当時のフランスの首相であったアリスティード・ブリアンは、強硬派の反対を受け、辞任に追い込まれています。

その後もドイツマルクは暴落を続け、ドイツ政府は7月12日、連合国に対し「6ヶ月の賠償支払い停止」を求めた上、「1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言」します。この時点でドイツの対ドルレートとして1919年比で117.5倍まで増加していたのだそうです。

これに対し、アメリカは譲歩の姿勢を見せるのですが、その他の国々はこれに反対します。

ここで一つの構造が見えたんですが、アメリカ以外の欧州の国々は、「アメリカに対する債務」があったんですね。

逆に言えば、アメリカがこれらの国々に対する債務を減額するなりしていれば、他の国々もドイツの要請に応じることもできていたという事になります。

ただ、フランスやベルギー、特にフランスはドイツに対する特定の負の感情を抱いていますから、より強硬な姿勢を示したのだと思います。

またフランスはドイツと国境を接しており、帝国時代のドイツの強烈な印象は拭いされていないでしょうから、二度と立ち直れないほどに国力を低下させたかったという本音もあったのではないでしょうか。

連合国側は1922年後半分に関しては事実上ドイツ側の要請に応じるのですが、ドイツ首相であったヴィルトはこの賠償問題、及び「共和国防衛法」の扱いをめぐって財務大臣と対立することとなり、同年11月に退陣しています。

続いてドイツ国首相となったのがヴィルヘルム・クーノ。

ヴィルヘルム・クーノ

フランス・ベルギーによるルール占領は彼の時代に勃発します。中央党、ドイツ人民党、バイエルン人民党の連立政権ですから、右左でいえば右側の保守政権です。彼は大統領であるエーベルトの指名を受けて首相となります。

ちなみに彼が首相に就任した直後、12月の時点でマルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していたんだそうですよ。

ヴィルトは辞任とともに「「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出しており、クーノはこの見解を継承しました。

これに対し、フランスの首相であるポアンカレは、ドイツに対し、「生産的担保」を求めます。「生産的担保」。つまり、「ルール地方」の事です。(1922年12月19日)

フランスも対英米債務に苦しんでいたんですね。


次回記事では、改めて「ルール占領」そのものに着目し、その上でドイツが「ハイパーインフレ」から脱却するまでの経緯を追いかけてみます。




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<継承する記事>第489回 ヒットラーはなぜ左翼とユダヤ人を嫌ったのか?

複数和、ヒットラー本人の検証とヒットラーが登場するまでのドイツ(及び日本)を復習する目的の記事を作成しましたので、置き去りにしている話題がいくつかございます。

そこで、今回からは再び 第484回の記事 まで遡りまして、その後のドイツ近代史を追いかけていきます。

ちなみに、第483回の記事 におきまして、スパルタクス団蜂起後、ドイツがヴェルサイユ条約を受け入れ、更にフランス・ベルギーによるルール占領が行われるまでの年表を掲載しています。

フランス・ベルギーによるルール占領が行われたことがドイツにおいてハイパーインフレが起きた原因なのですが、時系列的にまだこの年代にも行き着いていませんので、順にこのテーマにも触れ、ドイツにおけるハイパーインフレが終息した理由にまで追って記事にできればと思っています。

また、
この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

とも記していますので、このことに話題についても回収できる記事を後日作成する予定です。


ヴェルサイユ条約後のドイツ

まず最初に、ドイツが大戦に敗北する前後の地図を見比べてみます。

ヴェルサイユ条約後のドイツ

こちらの地図はWikiから拝借しています。

グレーで行事されている部分以外がすべて「ドイツ」で、赤枠、緑枠で囲まれているエリアが敗戦後、他国に割譲された地域です。

プロイセンは完全に飛び地になってしまっていますね。北側のエリアは「 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」でデンマークと争った領土で、デンマークに割譲されていますね。

南西のエリアは普仏戦争後に獲得したアルザス=ロレーヌ地方ですね。フランスに渡されています。その上部で緑枠となっているのはエストニア。そこから更に飛んで北側の赤枠がベルギーにそれぞれ譲渡されています。

飛び地となったプロイセンに挟まれた領土はポーランドが、ポーランドエリアの南側の小さな領土はチェコ、ポーランドエリア上部の緑枠は自由都市ダンツィヒ。緑枠は独立したエリアですね。

更に飛び地になったプロイセンの北東のエリアがリトアニアです。

ポーランドはロシアとドイツによって分割されていた領土が、両国の崩壊により独立を回復したんですね。この「ポーランド」は第二次世界大戦でドイツとソ連の対立の舞台ともなる場所です。

削られた領土も思ったほど多くないな・・・という印象ですね。現在のドイツと比較しても領土が広いですよね。

一応、この地図を頭に入れて記事を進めてみます。


ドイツ共和国政府の右傾化

フランスがドイツに派兵後、ドイツ共和国軍がルール地方から軍を引き上げたのが1920年5月17日の事ですので、この時点から記事を進めてみます。

ドイツ共和国が派兵する原因となったルール一揆に対し、フランスが派兵したわけですが、まずこれに対してイギリスが激怒し、両国の関係が最悪の状態となった、との記述がありますので、ここは備忘録的に記しておきます。

ルール蜂起後、共和国政府(社会民主党政府)は支持を失い、フランス軍撤退後、6月6日に行われた共和国政府樹立後初の国会選挙では、総議席数459中、ドイツ社会民主党は議席数を61議席減らし102議席になります。

一方、議席数を伸ばしたのが極左ドイツ独立社会民主党(+62議席→84議席に)、右派であるドイツ国家人民党(+27議席→71議席に)、同じく右派であるドイツ人民党(+46議席→65議席に)などtなっています。

さて、この中に「バイエルン人民党」の名称がありますね。

カップ一揆後、バイエルン州において新しく首相となったのがこの「バイエルン人民党」の政治家(グスタフ・フォン・カール)です。バイエルンの「分離主義者」に支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、バイエルン州分離主義者の過激活動に危機感を覚えた中央政府によって首相の座を追われることとなります。

つまり、この「バイエルン人民党」もまた、バイエルンの「分離主義者」、つまり民族主義者たちに支えられた「右派」であり、これだけを見てもルール蜂起後のドイツ共和国政府が「右傾化」したことがとてもよくわかりますね。

これ以外にカトリック政党である「中央党」や「ドイツ民主党」といった正当が存在しました。

しかし、それでも最大政党である社会民主党ですが、右派政党との協力を拒否し、「中央党」「ドイツ民主党」「ドイツ人民党」の三党が連携した「コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣」が誕生します。


ドイツ独立社会民主党の分裂

一方で「極左」であるドイツ独立社会民主党は、後に共産党を結成するスパルタクス団が離党した後も同党内での右派と左派との対立問題を抱えています。

同党が1920年7月に参加した「コミンテルン第2回世界大会」において、コミンテルン(第三インターナショナル)より「コミンテルン参加の条件として21か条」を突き付けられ、この中で「改良主義者ならびに日和見的中立主義者」の追放を要求されます。

日和見主義については、ちょうどロシアのシリーズの中で触れたことがありますね。(第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

コミンテルンからは具体的な党員の名前まで示されたんだそうですよ。

10月には独立社会民主党大会が開かれます。ここには、既にコミンテルンからの多数派工作が仕掛けられていた、とのことで、独立社会民主党と共産党は合同することとなります。

しかし、これに反発した独立社会民主党右派は独立社会民主党にとどまることとなり、結局独立社会民主党は分裂することとなりました。

左派の中にもコミンテルンの強硬的な手法に反発するものがおり、実際に独立社会民主党から共産党へ移った党員は80万人中30万人にとどまったのだそうです。

とはいえ、極左であるはずの独立社会民主党が分裂したという事実に変わりはありません。確かに「左派」にも同党に残留した党員はいたわけですが、全体的に「右傾化」したことも否めない事実です。1922年9月、独立社会民主党は社会民主党と合流することとなりました。

面白いのは、確かに「独立社会民主党」は「右傾化」したわけですが、この勢力が社会民主党と合流すると、その社会民主党の中では「最左派」であり、これが社会民主党が左傾化する原因となったのだそうです。

この状況から見ても、この時点で「コミンテルン」のドイツ共産党に対する影響力が大きいという事はわかりますね。

ただし、第486回の記事 を参考にしますと、この時点(独立社会民主党が分裂した時点)ではまだスターリンは書記局長の座にはついていません。

レーニンが糾弾に倒れた後とは言え、まだレーニン自身は健在で、スターリンの影響力はそこまで大きくない時代のことです。


フランス・ベルギーによるルール占領

さて。ドイツのフランスやベルギーに対する賠償金の金額や返済方法が決められたのは選挙が行われた翌年。1921年3月のことです。(ロンドン会議)

金額は毎年1320億金マルク。とドイツの輸出額の26%を30年間という内容。

フェーレンバッハは受諾が不可能だとし、辞職するのですが、引き継いで首相となったヨーゼフ・ヴィルトがこれを受諾しました。

ここから

第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

の記事内容へと続くことになります。「ハイパーインフレ」へとつながるんですね。

次回記事では、ではそのハイパーインフレが起きる直因となったフランス・ベルギーによる「ルール占領」が一体どのような経緯で行われたのか。またその終結について、第471回の記事 の内容と極力バッティングしないように注意しながら記事を作成してみたいと思います。




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<継承する記事>第488回 「アドルフ・ヒトラー」と「アーリア人至上主義」

という事で、ここからはシリーズの本丸の一つともいえます、ヒットラーの「ユダヤ人差別」。ここにポイントを絞って記事を作成してみます。


ヒットラーと反ユダヤ主義

さて。多くの皆様の印象の中には、「ヒットラー」と言えば、そのまま「ユダヤ人虐殺」をイメージする方がほとんどかと思います。

現状として私はまだヒットラーが本当にユダヤ人を虐殺したとすることを裏付ける明確な根拠にまで到達していませんので、表現として「ユダヤ人虐殺」なる表現は現時点では控えたいと思います。

その上で、少なくとも「ユダヤ人を差別していた」とする印象をお持ちの方はやはり多いと思います。

「我が闘争(上巻)」を読み進めていて、ヒットラーが「反ユダヤ主義」と出会うこととなったきっかけとして、「ドイッチェ・フォルクスブラット」という新聞であったことが記されています。

彼が両親と死別し、オーストリアの文化の中心地である「ウィーン」に移り住み、彼の生涯としては最も底辺にあるような生活を営んでいた時期のことです。

私、第471回の記事 の中で、ヒットラーが行っているユダヤ人批判の「ユダヤ人」の文字を「韓国人」という言葉に置き換えてみると、「まるで現在の日本について語っているのではないかと錯覚するような内容」だと記しましたが、これは本当に、まさにその通りだと思います。

もちろん、そのすべてをそのまま当てはまるというつもりはありませんが、いくつか引用して事例を挙げてみます。
どんな形式のものであれ、まず第一に文化生活の形式において不正な事や、破廉恥なことが行われたならば、少なくともそれにユダヤ人が関係していないことがあったであろうか?

こういうはれものを注意深く切開するやいなや、人々は腐っていく死体の中のウジの様に、突如差し込んだ光によってまぶしく目の見えないユダヤ人を、しばしば発見したのである。

新聞、芸術、文学、演劇における活動を私が知ったとき、私の目に映ったのは、ユダヤ人が持っている重荷であった。飾り立てられたすべての格言も、ほとんど無用であるか、全く無意味である。広告塔の一つを見て、そこでほめそやされている映画や演劇のぞっとする駄作の精神的創作者の名前を調べ、しばらく動かずにいるだけで十分である。

当時わたしは公の芸術生活のこの不潔な作品の創作者の名前を全部、注意深く調べ始めた。結果は、ユダヤ人にたいして私が今まで取っていた態度にとって、一層悪いものであった。そこではなお感情が千倍も反対しても、理由がその結論を引き出さねばならなかった。

全ての文学的な汚物、芸術上の際物、演劇上のバカ騒ぎの九割が国内の全人口の百分の一にも達していない民族の債務勘定に帰するという事実は、簡単に否定されなかった。事実その通りだった。

またわたしはそこで、わが愛する「世界的新聞」をこのような観点から調べ始めた。ここでも測探機を深く入れれば入れるほど、ますますわたしのかつての驚きの対象が少なくなった。

文体はいよいよ耐え難いものになる。私は内容を、内心浅薄で平板なものとして拒否せねばならなかった。叙述の客観性が、今や私にはりっぱな真理としてよりもむしろ嘘に見えた。ところが編集者は「ユダヤ人」だった。

この新聞の自由主義的な思考を、いまや違った光の中で見た。攻撃に対する回答の上品な調子もその黙殺も私には今や、怜悧なトリックと見えてきた。

その輝かしく書かれた劇評は、いつもユダヤ人作家に関しており、そしてかれらの不評はドイツ人以外のものには向けられなかった。

頑なにもヴィルヘルム二世を軽くあてこすることもなく、フランスの文化や文明を称賛するのと同様に手段だとわかってきた。

小説の際物的内容はいまやわいせつなものとなり、私はそのことばに異民族の声を聞いた。

淫売制度と更に少女売春に対するユダヤ人の関係さえも、人々はおそらく南フランスの町を除けば、ウィーンでその他のどの西ヨーロッパの都市よりも、よく研究することができた。

夕方、レオポルトシュタットの通りや小路を除けば、一歩するごとに欲すると否とにかかわらず、大戦前まで大部分のユダヤ民族に隠されていた光景が見られた。<中略>

ユダヤ人が、大都市の廃物たるこのにくむべき淫売業の、氷の様に冷たく、また厚顔無恥な仕事をしているっ支配人であることをそういう方法で初めて見たとき、背筋がかすかにゾッとするのを覚えた。

途中、「わが愛する世界的新聞」という表現が出てきますが、これはもちろん皮肉で、当時のドイツの大衆新聞を批判したものです。

記されている内容は、現在の日本のマスメディアで考えれば、例えばとあるマスメディアの社長(もしくは社を取り仕切っている人)が韓国人で、作品は所謂韓流のものばかりを取り上げて絶賛し、逆に日本国内の、特に日本を賞賛すするような作品についてはこれを蔑んだ内容で記事を作成し、当然のような顔をして大衆向けに放送しているようなイメージです。

もしくは日本を蔑むような作品が日本国内で大流行し、よくよく見てみるとその作品の制作者が韓国人(またはそのシンパ)であった・・・というような。愛知トリエンナーレなどはその代表劇なものでしょ?

現実の日本で普通に行われていますよね?

また、売春業についても批判をしていて、その取り仕切りがユダヤ人だった、という表現もありますが、基本的に今の日本でもそういった物を取り仕切っている裏稼業にはヤクザの姿があり、当然対岸の半島からやってきた人の姿もそこにありますよね?

ヒットラーは元々「反ユダヤ」という考え方に否定的で、もしくは同調する部分こそあれ、これが声高に訴えられることに対しては違和感を覚えていたことも書籍中には記されています。

そんな人物が、様々な情報に触れるうちに「反ユダヤ」へとその主張を変化させていきます。


ヒットラーと反マルクス主義

ヒットラーは、また同じように「マルクス主義(つまり社会主義や共産主義)」に対しても否定的な考え方を抱いていくようになります。

彼は、更に深く調べていくうち、ドイツ国内で「マルクス主義」的な考え方を指導しているのはユダヤ人だったのだそうです。

ドイツの社会民主党のパンフレットの編集者、社会民主党の指導者、労組の指導者、議長、該当の扇動者等々・・・。その大部分が「ユダヤ人」だったのだそうですよ。

もちろん、これはヒットラーの思いこみによる部分も大きいのではないかと思いますが、少なくとも当時の彼はそれほどに社会主義化していくドイツに、「ユダヤ人」の影響が大きくなっていると、そう考えたんですね。

私は、少数民族であるユダヤ人と、産業革命の勃発により「市民」の中に「資産家」と「労働者」がいることに気づいたマルクスの「マルクス主義」とが非常に親和性の高いものだったんじゃないかと今現時点では思っています。

これは、おそらく戦後日本における所謂「在日」中・韓・朝鮮の人たちにとっても同じことが言えたのではないかと思います。

世の中を見れば「資産家」の数よりも「労働者」の数が当然多いですから、少数民族が裏側から社会を牛耳る手段としてもうまくいきやすかったのではないか、とも思います。労働者には無学な人も多いですから、「煽動」されやすい人も多かったのでしょう。

そして、あのビスマルクでさえ、そんな「社会主義」の危険性に気づき、そして公布されたのが「社会主義者鎮圧法」でした。

実際、そんな「社会主義」に対し、どの程度「ユダヤ人」が影響力を持っていたのか。それは私にはわかりません。

ただ、どうでしょう。今の日本において、例えばマスコミに対岸の半島や大陸にすむ人が大きな影響力を持っていたり、芸能人の中に日本人のふりを紛れ込んでいたりする現状を見て、皆さんはどのように感じるでしょうか?

ヒットラーが批判する「ユダヤ人社会」と非常によく似ているように感じるのは私だけではないはずです。で、同じように日本の中に紛れ込む異国の人もまた、「社会主義者」の仮面をかぶっていますよね?


自称社会主義者たちの「詭弁」

社会主義にかぶれた人たちと話をしていると、私自身、段々声が大きくなってしまう・・・そんな瞬間に巡り合う事があります。

それと非常によく似た状況をヒットラーも体験していたようで、訳者は「ユダヤ人の詭弁」とする項目名をつけて訳書に記してあります。
労働者というものが、より立派な知識やより優れた説明に屈しないほど頑迷ではないという確信を売るためには、私の一年のウィーン滞在でもう十分だった。

私は次第に彼らの独自の教説の通りになった。そしてそれを私の内心の革新のために闘うときの武器として振り向けた。ほとんどいつも私の方が勝った。

しかしユダヤ人は決して彼らの意見を変えようとはしなかった。

当時のわたしはまだ子供の様だったから、彼らの常軌を逸しているような教説をハッキリさせてやろうとして、私の狭い交際範囲で舌をかみ、のどをからして演説し、彼らが狂ったようなマルクシズムの有害さを確信することができるに違いないと思っていた。

だが私はまさに反対のものに到達したのだった。ちょうど社会民主党の理論とその現実の破壊的作用についての洞察が深くなることだけが、彼らの決心の強化に奉仕するかのように思われたのだ。

彼らと争えば争うほど、ますます彼らの詭弁がわかってきた。

最初彼らは相手の愚鈍さを考慮に入れる。だがもはや逃げ道が見つからないとなると、簡単に自分をバカに見せるのだ。

何をやっても役位立たないと、彼らは正確に理解することができないとか、あるいは即座に他の領域に飛躍したり、放棄したり、わかりきったことをいい、しかしそれが受け入れられるやいなや、再び本質的に違った材料を引き入れ、さて再び捕まえられると回避して、そして詳しいことは何も知らないという。

そういう使徒を攻撃しても、いつもクラゲのような粘着で手をつかみ、クラゲのような粘液が指の間を滑り抜けると、次の瞬間に再び合流して結合する。

しかし彼らが周囲から観察されると同意せざるを得なくなり、そして少なくとも一歩自分の意見に近づかせたと思うと、次の日はかえって逆になって驚きが大きい、というような実際無駄なことにぶつかる。

ユダヤ人は昨日のことは何も知らず、あたかも何事も起こらなかったとし、しなかったかのように彼らの古い不法なことを幾度も話し続ける。

そしてそれに憤慨して論駁すると、驚いたふりをして彼の主張が正しかったことは前日に既に証明されているということ以外全く何も思い出すことができないのだ

これって、私がSNS辺りで様々な人と議論する中で、実は何度も経験してきたことです。

もちろん私自身の説が間違っていればそれを認め、修正する必要が当然出てくるのですが、逆にこういうタイプの人はこちらが「一部の」誤りを認めると、あたかも私の話のすべてが間違っていたかのようにふるまい、こちらに対して攻撃を行ってきます。

彼は「ユダヤ人」と述べていますが、私の感覚では、「陰謀論者」に多く見られる傾向だと思います。後は何かの依り代を宗教的に信奉している人。


実はヒットラーも「陰謀論者」。

で、矛盾したような内容を記しますが、ヒットラーのこのユダヤ人に対する嫌悪感は、彼自身の体験に基づくもの、そして彼が信頼する新聞や書籍に基づくもの・・・もあるのですが、彼がその「論拠」としている書籍の一つに、私が ロシアに関するシリーズ で話題にした、とある書籍の名称が出てきます。

それが、こちら。

シオンの議定書

「シオンの議定書」です。

関連した部分を我が闘争から引用します。
この民族の全存在が、どれほど間断のない嘘に基づいているかという事は、ユダヤ人から徹底的に嫌がられている「シオンの議定書」によって非常によく示されるのだ。

それは偽作であるに違いない、と繰り返いし「フランクルター・ツァイトゥング」は世界に向かってうめいているが、これこそそれがほんものであるという事の最も良い証明である。

多くのユダヤ人が無意識的に行うかもしれぬことが、ここでは意識的に説明されている。そして、その点が問題であるのだ。

この秘密の打ち明けがどのユダヤ人の頭から出ているかは全くどうでも言ことである。だが、それがまさにぞっとするほどの確実さでもってユダヤ民族の本質と活動を打ち明けており、それらの内面的関連と最後の究極目標を明らかにしている、という事が決定的である。

けれども、議定書に対する最上の批判は現実がやってくれる。この書の観点から最近の二百年間の歴史的発展を再吟味するものは、ユダヤ新聞のあの叫びもすぐに理解するだろう。

何しろこの書が一度でもある民族に知れ渡ってしまうの時は、ユダヤ人の危機は既に摘み取られたと考えてもよいからである。


ヒットラーは思いっきり信じ込んでしまっていますが、第343回の記事 にも記した通り、この書物は、元々『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という名称の書物で、マキャベリ という政治思想家とナポレオン三世の「地獄対話」を収録したもの。

この書物の内、「ナポレオン三世」と記されている部分をすべて「ユダヤ人」という言葉に書き換えて大幅修正されたもの。元々帝政時代のロシアで「帝政ロシアに対する不満をユダヤ人に向けさせる」ことを目的としてニコライ二世に献上される予定だったもの。

これが、ロシア第一革命当時に

『諸悪の根源——ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』

とのタイトルで世間に出回り、現在世界中でまことしやかにささやかれている「ユダヤ人陰謀論」の大本となりました。

ヒットラーはこの書物を読み、自分自身の体験とも合致したものだから、「ユダヤ人を滅ぼさなければならない」という発想に行き当たったんでしょうね。あくまでここは私の憶測ですが。

また、もう一つ。彼は優秀な血筋こそ後世に残さなければならない、とも考えていて、それは「ユダヤ人種」ではなく「アーリア人種」であるとも考えていました。

この考え方は障がい者に対しても当てはめられていて、障がい者を虐殺までしたのかどうかは現時点ではわかりませんが、障がい者(遺伝的な障害)を持っている人が婚姻関係を結べないようにする事までは法律などで規制しようとしていた様です。


ビスマルクは、「社会主義者」こそが社会秩序を乱す根源であると考え、社会主義者鎮圧法により、ドイツ国内で社会主義活動ができないようにしようとしました。

ですが、ヒットラーはここから更に「ユダヤ人」と社会主義者を結び付けました。

また更に、芸術文化の破壊。例えば、現在よく見かけるコラージュ画像(名作を切り貼りして別の作品に作り替える手法)などに非常に危機感を覚えており、これもまたユダヤ人の仕業だと考えていました。(彼の書物によれば、実際にユダヤ人の作品であるケースが多かった。)

性産業に関してもユダヤ人が関わっており、特に彼が述べているのは「梅毒」という性病の原因となっているという考え方を強く訴えています。

また一方で、ユダヤ人に対し、「ユダヤ人」とはあくまでも人種であり、「宗教」ではないことにも言及しています。これは、そうだなと思いました。ユダヤ人は、ユダヤ人が一つにまとまるために「ユダヤ教」を信仰しているわけですが、今ことが世情を不安定にしていることも事実です。

ユダヤ戦争の原因となったのも、当時多神教であったローマに対し一神教であるユダヤ教徒に対するローマへの反感感情が高まったことにあります。

ヒットラー自身、少年時代にユダヤ教徒であった友人と会話をする中で、その主張に対して嫌悪感を覚えた、とも記しています。

ビスマルクが社会主義者を排除しようとしたことと同様に、当時のユダヤ人とその風習になにがしかの問題がなかったと言い切ることもできないのではないか・・・と考えることも決して間違いではないと思います。

まあ、だから罪もないユダヤ人を虐殺しても構わないってことにはなりませんけどね。


さて。「我が闘争(上巻)」を題材とした記事としては締めくくりにするのですが、一つだけ記しておきたいことがあります。

ヒットラーが仮に「ユダヤ人虐殺」を本当に行ったのだとすれば、それは「シオンの議定書」に基づいた「ユダヤ陰謀論」がその根拠となっています。これは今回の記事を読んでいただければわかりますね?

では、今の日本を振り返ってみたとき、そういった「陰謀論」に基づいて活動している人たちがいませんか?

そう。安倍首相が「アメリカの言いなりになっている」との説を振りかざしている人たちです。

この説も、大元にはアメリカがユダヤ人の国であり、日本がユダヤ人(国際金融)に操られているとする「ユダヤ陰謀論」が論拠になっています。

そして、そういう人たちに限って安倍さんをヒットラーに例えて批判したりしていますが、そもそも「ユダヤ人を虐殺した」としている人はどのような人でしたか?

ユダヤ陰謀論を信じ込んだ人物ではありませんでしたか?

その理屈で考えるのならば、本来ヒットラーに例えられるべきは安倍さんではなく、あなた方なのではないですか?

ヒットラーがユダヤ人を迫害していたことは盛んに話題とするのに、ヒットラーが「マルクス主義者」批判を行っていたことが話題にならないのはなぜですか?

私、ネット上議論をしているとき、「陰謀論」を訴える人と議論をしていると、その相手は九分九厘「小沢一郎支持者」であることを暴露します。そして、そんな「陰謀論者」は現在「山本太郎支持者」へと姿を変えています。

山本太郎を支持する人の多くは、安倍首相がアメリカに操られているという陰謀論を論拠として安倍内閣批判を行っています。

彼らにとって正しいことであるからこそ、財務官僚が資料を改ざんせざるを得ない状況に追い込んだ挙句、自殺に追い込んでも平気な顔をしていられるんですよ。自分たちが正しいと思うことを実行するためなら、自分たちが罪を犯しても全く問題がないと思っているのがあの界隈の人たちです。

データを多く用いて話をしていると、あたかも正しいことを言っているように思いこんでしまうかもしれません。

ですが、9割の真実に1割の嘘を混ぜて話をするのが詐欺師のやり方です。

そして信者の多くが騙されていることにすら気づいていません。

政権を転覆させるための嘘や誇大宣伝、印象操作に騙されることなく、多くの国民がきちんと自らの頭で考え、判断できる世の中になってほしいと切に願ってやみません。




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<継承する記事>第487回 「我が闘争上巻」より見るアドルフ・ヒットラーという人物像

前回の記事では、「アドルフ・ヒットラーという人物像」というタイトルの下、アドルフヒットラーという人物の幼少期。生い立ちについて簡単に記事にしてみました。

「我が闘争上巻」全体を見ていると、このヒットラーという人物が、非常に熱心な勉強家であり、本人が書籍中で「大好きな科目」として挙げている歴史以外にも、所謂素粒子物理学の事や遺伝の事なども、比較的俯瞰的に見る方法として学んでいることがわかります。

ただ・・・例えば遺伝の話であれば近親者同士が関係を持つと遺伝子的に異常がある子供が生まれたりするわけですが、そういった発想がないなとか、そういうツッコミどころも多分にある人物だとも思います。


アーリア人至上主義とは?

彼が批判される要素として登場するのが、この「アーリア人至上主義」という言葉。

私も このシリーズ を作成し始めた当初に出会った言葉なのですが、シリーズをスタートするとき、まずはドイツ人の中でも「プロイセン人」と「バイエルン人」という二つの民族に着目し、両民族の違いから記事を進めていきました。

前回の記事にも記した通り、ヒットラーは自身を「バイエルン人」だと考えており、またヒットラーが総統を務めた「ナチス」もバイエルンから登場しています。

で、この「プロイセン人」と「バイエルン人」に着目する最初の動機となったのがこのサブタイトルである「アーリア人至上主義」に含まれる、「アーリア人」という言葉が原因です。


「アーリア人」って何?

「アーリア人」という言葉は、実は私、ドイツ人の事を調べる以前から知っていまして、以前に作成していたブログで「インド」のことを調べていた時に初めて出会いました。

「アーリア人」とは元々現在のアフガニスタン辺りに住んでいた民族で、これが南下してパキスタン辺りに到着し、ここで宗教的な考え方の違いから分裂し、東に進んだのが「インド・アーリア人」。西に進んだのが「イラン・アーリア人」です。

インド・アーリア人たちが信仰していた宗教がバラモン教。イラン・アーリア人たちが信仰していたのがゾロアスター教です。

バラモン教は後にインド土着の民族であるドラヴィタとの融合を図り、例えば「シヴァ神」などはドラヴィタの土着の神様なのですが、バラモン教はこれを主神に据えたりしています。

で、バラモン教には「デーヴァ神族」という善の神族と「アスラ神族」という悪の神族がいるわけですが、「デーヴァ」はゾロアスター教では「ダエーワ」という悪魔となり、逆に「アスラ」は「アフラ=マズダ」というゾロアスター教の最高神となります。

この辺りでもインドとイランに別れたアーリア人が、なぜ別れることとなったのか。何となく想像がつきますよね。「ダエーワ」はヨーロッパまで渡ると更に「デビル」と名称を変えます。

ちなみに「イラン人」とは「ペルシャ人」の事。

アケメネス朝ペルシャ

こちらの地図は「世界の地図マップ」様サイトより拝借いたしました。

当時のペルシャの最大領土はここまで拡大したんですね。

ヒットラーは、現在の「インド・ヨーロッパ語族」のルーツがこのアーリア人にあると考えており、また更に、その中でも他の地域との混血が少ない地域=ドイツ(ゲルマン)人こそがそのアーリア人の血統をより濃く引き継いでいる、と考えていたのだと思われます。

では、ヒットラーはそもそもなんでそんなややこしいことにこだわったのか。ここに登場するのは「ユダヤ人」という存在です。


「ユダヤ人」って何?

現在のアフガニスタン辺りから南下し、「インド・アーリア人」と別れて西側を目指したのがヒットラーの考える「アーリア人」なのですが、では一方、「ユダヤ人」とはどのような人種なのでしょうか?

シュメール

こちらの地図も、「世界の地図マップ」様サイトより拝借しています。

ユダヤ人っていうのは、元々「チグリス=ユーフラテス川」の河口付近の「シュメール」という地域に住んでいた人たち。もともと、この地域にはユダヤ人とは別の民族がすんでいたのですが、ある時この地域が大洪水襲われ、元々シュメールの地に住んでいた人たちがいなくなってしまいます。

この、誰も住む人がいなくなった地域に、「どこからともなく」やってきたのが現在「シュメール人」と呼ばれている人たち。のちの「ユダヤ人」です。二番目の地図が、その「シュメール」の地図です。

シュメール人・・・っていう民族って、

1.同族間で争いを繰り広げる
2.負けた方がその地を追われ、別の地に移住する
3.移住した先でまた同族間で争いを起こし、負けた方が移住する
4.移住した先でまた同族間の争いを起こす

この歴史を繰り返します。

で、最終的にたどり着いたのがこちら。

イスラエル

そう。現在の「イスラエル」です。

ここでもシュメール人は「北イスラエル王国」と「南ユダ王国」に別れて争い、北イスラエルは南ユダ王国に敗れ、北イスラエルの住民は歴史から忽然と姿を消すこととなります。「失われた10支族」なんていわれたりします。

勝利した「ユダ王国」の名称が後の「ユダヤ人」という名称のルーツになるわけですが、ユダ王国もバビロニアによって滅ぼされその後、バビロニア→ペルシャ→エジプト→シリアからの支配を受けた後、一時的に自治を取り戻すのですが、再びローマからの支配を受けることとなり、ローマとの間で「ユダヤ戦争」が勃発。

ローマに敗北したユダヤ人は、その後散り散りになり、ヨーロッパ各地へと分散していくこととなります。


「アーリア人至上主義」

さて。ではいよいよの本題、「アーリア人至上主義」ですが、つまりヒットラーはヨーロッパに居住する民族を「アーリア人」と「ユダヤ人」に分けて考え、過去の歴史から考えても、文化を発展させてきたのはアーリア人であり、アーリア人の優秀な血筋こそ残していくべきだと考えました。

その中でもユダヤ人との間の混血が進んでおらず、より純粋性が保たれている民族こそゲルマン人=ドイツ人である、と考えたんですね。実は、ヒットラーはイギリス人に対しても同じ評価をしています。

イギリス人も純潔なアーリア人だと考えていたんですね。「ユダヤ人に対する差別だ」と言われればそれまでなんですが、ではヒットラーは一体なぜ、そこまでにユダヤ人とアーリア人を「区別」する必要性がある、と考えるに至ったのでしょうか?

前回記事から引っ張っている感じになってますが、次回記事ではそこにスポットを当ててみたいと思います。




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<継承する記事>第486回 日本が日独伊三国同盟を締結するまでの中国

このテーマに入るまでの前振りが非常に長くなりました。また、前回の記事を作成してから早数か月経過しました事、お詫び申し上げます。お仕事の関係で、今後も同じような更新ペースとなることもあるかと思いますが、ついてきてくださるとうれしく思います。

さて。今シリーズ を私が作成している目的は、「大日本帝国軍はなぜドイツと同盟関係を締結したのか」。この一点を追求することを目的としています。

これを追求する目的として、そもそも「ドイツ」とは何か。これを命題としてシリーズをスタートさせました。結果、本当にいろいろなことが見えてきました。

ブログ全体を通じても探求してきた「右翼」と「左翼」の違いも非常に明確になりました。「共産主義」と「社会主義」の違いも。この2点についてまとめたのが 第485回の記事

一方で日本側からの視点として、日本が対米戦争をスタートさせるに至ったことには正当な理由があったという事。シリーズを作成するに至った真の目的、日本は一体なぜドイツと同盟関係を結ぶに至ったのかという事を、「中国」と「ソ連」側からの視点も合わせて総括したのが第486回の記事 です。

今回の記事では、更にピンポイントで、「アドルフ・ヒトラー」という人物に焦点を絞って記事を作成したいと思います。


アドルフ・ヒトラーとは何者なのか?

アドルフ・ヒトラーとは何者なのか。このテーマにすぐ答えることができる人って、あまりいないのではないでしょうか?

ドイツ第三帝国の総統だったとか、ユダヤ人を虐殺したとか、そういったイメージがアドルフ・ヒトラーの主たるイメージかと思います。

じゃあ、なんで彼のような人物がドイツの総統になるにいたったのかとか、なんでユダヤ人を虐殺したのかとか、ドイツ国民は一体なぜ彼のような人物を総統に選んだのか・・・とか。

彼の人物像を考察することをせず、ただ単に「ユダヤ人を虐殺した極悪人」という認識しか持っていない人も多いのではないでしょうか。

私は、しかし思います。彼の人物像を考察せず、また彼が表舞台に登場するまでのドイツの歴史を把握せず、単にイメージだけで彼を批判するのは間違っている、と。

彼が登場するまでのドイツの歴史については当シリーズ にて散々検証しましたから、今回はもう一つの対象である、アドルフ・ヒトラーの「人物像」について記事にしたいと思います。



現時点ではまだ私、上巻しか読破できていませんので、ベースは上巻の情報となります。

また、書かれている内容はドイツ語がベースとなっており、これを直訳したような感じで、非常に読みにくい内容ともなっていましたから、本当にきちんと理解した上で記事を作成できているのか・・・と聞かれますと、自信を以て「理解している」とは言いづらいですが、現時点で理解している範囲の中で記事を進めていきたいと思います。


ヒットラーはどこからやってきたのか

ヒットラーが誕生したのは、ドイツとオーストリアの国境を流れる「イン川」の河畔にある、「ブラウナウ」という町。

ブラウナウ郡

ブラウナウ

ドイツなのか、オーストリアなのかと申しますと、オーストリアです。

ですが、ヒットラーはオーストリアを「オーストリアという一つの国」ではなく、「ドイツという国の一部」と考えているようです。というよりも、本来そうあるべきだ、と。

著書では、ヒットラーの両親の血統はバイエルン人であるとされていて、ヒットラー自身もそれを信じて疑っていなかったのではないか伺う事ができます。

オーストリアにはドイツ人とチェコ人が住んでいて、オーストリアの統治者であるハプスブルク家が、段々チェコ化していく様子を、ヒットラーは非常に歯がゆく思っていたようです。ヒットラーはチェコ人よりもドイツ人の方が優秀だと考えていたんですね。

と同時に、オーストリアはハプスブルク皇帝が納める国であって、ドイツ人が納める国ではないとも思っていたようです。

日本では「国家主義」と「民族主義」が一致する・・・と記事にしたことがありますが、ヒットラーが生まれた頃のオーストリアは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」であり、オーストリア皇帝は(ヒットラーの著書によれば)オーストリアの「チェコ化」を目指していた、とのこと。

つまり、「ドイツ民族の国」ではなく、「ハプスブルク皇帝の国」。オーストリアの「国家主義」とドイツ民族の「民族主義」は全く一致していません。

そして、そのことがオーストリアの弱体化を招いた、と考えていたわけですね。実際、1848年ウィーン革命はハンガリー人やチェコ人がハプスブルク家に対して起こした民族革命ですし、だからオーストリアはドイツ関税同盟をめぐる駆け引きの中でビスマルクによってその構想から外され、普墺戦争によってプロイセンに敗れることとなったわけですから。

そして、そんなヒットラーが初めてオーストリアの政治の在り方に疑問を持ったのが彼が夢中になって読んだ戦記に記されていた、「普仏戦争」の話題でした。

普仏戦争が勃発した時点で、既にオーストリアは普墺戦争に敗北し、統一ドイツ構想から完全に外されていましたし、そもそも普仏戦争そのものがビスマルクの仕掛けた「南北ドイツを統一するための戦争」でした。

ビスマルクの策略によりナポレオン三世がプロイセンに戦争を仕掛けてきたことから、外形上フランスがプロイセンに対して起こした戦争であり、これを他の北ドイツ連邦都市国家や南ドイツの都市国家の「ナショナリズム(民族主義)」が一体となりナポレオン三世が指揮するフランスを打ち破るわけですが、この時点でオーストリアは完全に蚊帳の外。

これを、ヒットラーは「オーストリアもこの戦争に『ドイツ民族として』参戦すべきだった」と考えたのです。

なのになぜオーストリアは参戦しなかったのだろう・・・と。同じドイツ人でも、ドイツのドイツ人とオーストリアのドイツ人は違うんだ、という認識をこの時おぼろげながら有するに至ったんですね。

この事が彼に「歴史」に対する興味を抱かせ、まずはオーストリアの歴史を、続いてドイツの歴史を、それぞれ具に調べる様になったわけです。

そして彼は気づきます。「オーストリア」という国が、ドイツ人の国ではなく、「多民族国家」であったことに。

彼は、ビスマルクが築いた「ドイツ」という国の事を心底誇りに思い、またドイツ人であることそのものにも心底誇りを持っていました。

だからこそ、ハプスブルグ皇帝によってオーストリアがどんどん「チェコ化」されていくことが許せなかったんですね。


ウィーンに渡ったヒットラー

ヒットラーは、13の時に父親を、18の時に母親を亡くします。

元々、美術に対する関心が非常に高かったヒットラーですが、今でいう公務員であった父親は、彼が美術の道に進むことを許さず、公務員としての道を歩むことを強要しようとしていましたので、父親が亡くなったことは、彼にとっては実はそう悲観することではなかったようです。

一方で母親は根負けしてヒットラーが美術の道を志すことを認めてくれたのですが、ヒットラーは美術学校の試験に落第。試験管より、ヒットラーは美術の道よりも建築の道の方が向いている、とのアドバイスをもらいました。

母親の死後、彼は建築の道を志すためにウィーンへと移住することとなりました。

さて。彼がここで出会う事となるのが「マルクス主義者」と「ユダヤ主義者」です。

彼がマルクス主義者やユダヤ主義者(ユダヤ人)に対する嫌悪感を抱くようになるのはこの時のことでした。


もう少し話題を進めておきたいところなのですが。

時間が必要以上にかかってしまうことも想定されるため、今回はここで終了したします。

次回は、ヒットラーがマルクス主義者やユダヤ人に対する嫌悪感を抱くようになった理由について記事をまとめてみたいと思います。



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<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




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<継承する記事>第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)

前回の記事では、スパルタクス団蜂起以後、ドイツ(ベルリン=プロイセン)が右傾化していく様子を記事にしようと試みたのですが、どうもグダグダした形で終わってしまいました。

少しだけまとめてみますと、

・スパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが更にバイエルン・レーテ共和国を滅亡させる

・両クーデターを鎮圧する上で主戦力として活躍したエアハルト旅団がヴェルサイユ条約の発効に伴い解散を命じられる

・事実上エアハルト旅団を統括していたベルリン国防司令官リュトヴィッツがドイツ祖国とカップとともにこれに反発し、撤回を要求

・リュトヴィッツは国防司令を解任され、カップには逮捕が命じられる

・リュトヴィッツはエアハルト旅団にベルリン進撃を命じ、ベルリンを占領、カップ新政府の樹立を宣言する

・グスタフ・ノスケはワイマール政府軍に治安出動を命じるも参謀本部長(兵務局長)ゼークトはこれを拒否

・ワイマール政府エーベルト大統領はベルリンを脱出しシュトゥットガルトに大統領府を移転

・これに対し、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟(所謂左翼政党)がストライキを呼び掛けることでこれに対抗

・ルール地方ではこれに触発された労働者たち(ルール赤軍)が反乱を起こし、カップ政権は退陣

・これを鎮圧するため、ワイマール政府はルール地方に派兵を行い、ルール赤軍は壊滅

・フランスはこれをヴェルサイユ条約違反だとし、ドイツに派兵し5つの都市を占領する(1920年5月17日まで)

・再び解散を命じられたエアハルト旅団は「コンスル」というテロ組織と化す

・グスタフ・ノスケは国防相を辞任し、総帥部長官ラインハルトも退陣

・ラインハルトに代わってゼークトが総帥部長官に就任(ワイマール政府軍は政府からの独立色が強まる)

・バイエルン州でも右翼陣営より現州政権打倒の動きが強まり、バイエルン州ホフマン首相は退陣

・後継としてグスタフ・フォン・カールが新首相となる(王党派・右派)

・バイエルンでは反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるも、連合国からの圧力により解散

・バイエルンのワイマール政府に対する反発心が高まることとなり、バイエルンには数多くの右派組織が結成される

こんな感じですね。これでもまだややこしく感じますけど。

傾向として、ベルリンではカップ一揆後のルール蜂起を受け、バイエルンではカップ一揆そのものの影響を受け、共に右傾化色が強まっていっていることがわかると思います。

キーポイントとなるのが前回のタイトルにも記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方です。


当時のドイツにおける「右翼」と「左翼」


個人的に「右翼」だ「左翼」だと区別するのはあまり好きじゃないんですが、そこにこだわりすぎるとここから先の記事が非常に回りくどくなってしまうことが想定されますので、敢えてここでドイツのこの時点に於ける二つの言葉について、それぞれ定義づけておきます。

ドイツにおける「右翼」とは、ドイツ皇帝であったホーエンツォレルン家(この時点ではヴィルヘルム二世)の下まとめられた誇り高き「ドイツ帝国」の封建主義的な在り方を理想とする考え方。

「左翼」とは逆にこの封建主義的な国家の在り方を否定し、「主権」がドイツ国民の下にあり、国民の手によって国家が運営されるべきだとする考え方。その最も極端な位置づけにあるのが「共産主義」です。

マルクスを中心にドイツの社会主義を追いかける中で気づいたことですが、そもそも「産業革命」が勃発するまでの欧州では、同じ「市民階級」の中に「ブルジョワ」と「プロレタリア」という区別は存在せず、マルクスがこれに気づいてしまったために突如として衆目を集めることとなったのがプロレタリアによる市民革命=共産主義という考え方です。


「共産主義」と「社会主義」

ですが、そもそも「共産主義」とは国境も管理者もいない社会を理想とする考え方であり、そしてそんな社会を実現することはまず不可能です。

当然当時の国家の中に「共産主義に近い社会」があったとしても、それは共産主義社会ではありません。

産業革命が起きるまでは「帝政・王政・貴族政」という社会しかありませんでしたから、これを倒すことが市民革命の主たる目的でした。

ですが、「皇帝」や「王」、「貴族」が権力の座から引きずり降ろされた後、そこには尚「資産家(ブルジョワ)」という権力が存在していたことに気づいたのがマルクスたちです。

そして、ブルジョワによる権力社会こそ彼らが考える「資本主義社会」ですから、共産主義者たちはこの「資本主義社会」を暴力によって打ち倒そうと試みているわけです。

ちなみに、同じ共産主義社会の実現を暴力を用いずに実現しようと考えている連中の事を「無政府主義者(アナーキスト)」と呼びます。

ですが、彼らがいくら共産主義社会を実現しようとしても当然それが実現するわけがありません。では、「共産主義社会」でも「帝政・王政・貴族政」でもなく、「資本主義社会」でもない社会の事をなんと呼ぶのか。

それが「社会主義社会」です。

ビスマルクと5度対談し、自らの理想を彼に語ったフェルディナンド=ラッサールは国家と市民が協力してこの「社会主義社会」を作り上げようとしましたし、ビスマルクはラッサールの目指した福祉社会の実現を国家が自ら実現しようとし、そんな社会の在り方を「国家社会主義」と呼びました。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

「匕首(ひしゅ)伝説」そのものについては前回の記事でも話題にしました。

当時のドイツ国民の中にはやはり左翼的な考え方よりもビスマルクによって形作られた「ドイツ帝国」の国民として、皇帝ヴィルヘルム1世の臣下としての誇りの方が大きかったのではないかと思います。

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争でデンマークを、普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを立て続けに破り、あのマルクスですらその快進撃に快哉を叫んだほどでしたから。


ヴィルヘルム二世によって破壊されたビスマルク体制

ですが、私のブログでさんざんお伝えしている通り、ヴィルヘルム一世の後を継いだ(正確には一世の息子であるフリードリヒ三世の後を継いだ)ヴィルヘルム二世はそんなビスマルクの功績を悉く破壊していきました。

ビスマルクの目的は、プロイセン内やその周辺で革命を起こさせないこと。国家を安定させ、国民が安心して生活を送ることのできる社会を作ることにありました。

ビスマルクが統一するまでのドイツでは、お隣、フランスの影響を受け、プロイセンをはじめとする北ドイツではブルジョワたちが「民族性」ではなく、「経済的な自由」を求めて「自由主義革命」を起こそうとする動きが、逆に南ドイツ最大の大国であったオーストリアでは、自国内に抱え込んだマジャール人やスラブ人が「民族主義革命」を起こそうとする動きがありました。

ビスマルクは、プロイセンをそんな革命運動に巻き込みたくなかったんですね。

結果としてデンマーク、オーストリア、フランスを相手にそれぞれ戦争を起こし、これを北ドイツとドイツ全体の統一に利用し、ドイツ諸国をプロイセンと同じ法制度の下で管理しようとしたわけです。

ドイツ統一後は当然、争いの場を広げるだけにしかなりませんから、植民地政策はとろうとしませんでしたし、ドイツ統一のために自分自身がフランスを利用したことを自覚しているからフランスが他国と同盟関係を結ぶことをできない状況を作ることにこだわり続けました。

「フランス孤立化政策」が所謂ビスマルク体制の根幹だったはずなのです。

ところが、ヴィルヘルム二世は誇りあるドイツの領土が他国に比べて狭いことを不満に感じており、「世界政策」の名の下、世界一の領土を目指し、一気に植民地政策に打って出ました。(北清事変の元となった山東省の植民地化はその象徴です)

また更に、元々仲の悪かったロシアとオーストリアの内、同じ民族であるオーストリアを大事にし、ロシアとの同盟関係を解消。ビスマルクが恐れた通り、ロシアはフランスと同盟関係を結びました。(ドイツは西をフランス、東をロシアに挟まれる位置にあります)


社会主義者の危険性を無視したヴィルヘルム二世

ビスマルクは、普仏戦争末期、ドイツ統一の目的を果たし、普仏戦争を終結させようとしていました。

ビスマルクは普仏戦争を利用して、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国のナショナリズムを煽り、統一ドイツ=ドイツ帝国を誕生させたわけですが、一方のフランスでは、新政府がクーデターを起こし、帝政ナポレオン三世政府を崩壊させ、「国防政府」が出来上がっていました。

ところが、共産主義者たちにとってこの革命は所謂「ブルジョワ革命」にすぎません。彼らが次に目指すのは当然「プロレタリア革命」。

フランスではドイツとは真逆の動きが巻き起こりました。

敗戦同然のフランスでフランスのプロレタリアによるプロレタリア革命、「パリコミューン革命」が勃発。国防政府はヴェルサイユから逃亡し、「パリコミューン政府」が誕生しました。パリコミューン政府は国防政府軍によって崩壊し、革命を起こしたパリ市民は大虐殺されることとなるわけですが、パリコミューン政府の樹立はにわかにドイツ帝国内の社会主義者たちを活気づけることとなります。

普仏戦争を利用し、ドイツを統一することでせっかくプロイセンに安定がもたらされることとなったのに、「自由主義者」よりも「民族主義者」よりも危険な「社会主義者」がその姿を現したのです。

この事から、ビスマルクは「民族主義者」の象徴ともいえるドイツ中央党と和解してまでも社会主義者の鎮圧に乗り出しました。

ところが、ヴィルヘルム二世は権力欲に取りつかれた取り巻きの自由主義者たちにそそのかされ、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止。ビスマルクを政治の表舞台から追い出してしまいます。


ナポレオン三世政府の崩壊とヴィルヘルム二世政府の崩壊

いかがでしょうか?

このようにしてみてみると、普仏戦争によって帝政ナポレオン三世政府が崩壊した様子と第一次世界大戦によって帝政ヴィルヘルム二世政府が崩壊する様子は非常によく似ているように思えませんか?

戦争そのもの趨勢はともかく、結果的に社会主義者たちのクーデターによって帝政政府が崩壊し、更にプロレタリア革命が勃発することでその新政府もまた、短期間とはいえ崩壊し、プロレタリア独裁政府の樹立を許しています。

また更に、プロレタリア独裁政府によって政権の座を追われたブルジョワ政府が再び軍を起こしてプロレタリア独裁政府を壊滅させ、関わったものを虐殺するところまで酷似しています。

ドイツではそのあとさらに右翼陣営によるクーデターと左翼によるクーデターが連続して起こり、国家全体が「右翼化」していくこととなります。


「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方

では、このように遡って考えてみますと、第一次世界大戦でドイツはなぜ敗北したのか。

何となくその理由が見えてきそうですね。

ヴィルヘルム二世がもし「世界政策」なる妄想に取りつかれず、ビスマルク体制を維持していれば、ドイツが対露開戦に追い込まれるようなことはなかったかもしれません。

その根源となった「バルカン問題」ですら表面化させることなく鎮静化させ続けていたかもしれません。

それ以上にもしヴィルヘルム二世が「社会主義者鎮圧法」を廃止せず、維持し続けていたとしたら、最終的にクーデターによってヴィルヘルム二世政府が崩壊させられるところまでいかなかったかもしれないですよね。

そもそも社会主義的な考え方がドイツ国内に蔓延することを事前に防ぐこともできていたかもしれないですね。

私は、もしビスマルク後のドイツの指導者がヴィルヘルム二世でなければ、第一次世界大戦はおろか、後の第二次世界大戦すら発生しなかったのではないかと思っています。

しかし、第一次世界大戦敗戦後のドイツ国民は、そんなヴィルヘルム二世の事を批判することをせず、第一次世界大戦にドイツが負けたのは「左翼のせいである」と考えたのです。

あいつらが革命さえ起こさなければ、ドイツがフランスに負けることはなかった、と。

ですが、一つだけ確実なことがあります。それは、ビスマルクの政策をすべて排除したドイツには、結果的にビスマルクが危惧した通りの社会。つまり、「普仏戦争末期のフランスがたどった通りの社会」が訪れたのだという事です。


「アドルフ・ヒトラー」の考え方の根底にあるもの

さて、私、ようやく「我が闘争」の上巻を辛うじて「読破」することができました。今下巻に目を通していますが、下巻を読破するにはまだまだ時間が必要ですね。

アドルフ・ヒトラー


ヒットラーは、私が本日記した「匕首(ひしゅ)伝説」という考え方をそのまま彼自身の政策に反映していくことになります。

私が本日の記事で、「匕首(ひしゅ)伝説」を、私の過去の記事にまでさかのぼって深めてみたのは、そこへの伏線だと思っていただければと思います。

次回記事では、そんな「我が闘争」の上巻を読んだ後、私が私なりに読み解いた「アドルフ・ヒトラー」という人物の人物像に迫っていきたいと思います。





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<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



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<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

私自身の多忙さと年金の話題を挟みましたので、少し和数が飛びましたが、改めて ドイツ近代史のシリーズ を再開してみたいと思います。

時系列的には 第468回の記事 でスパルタクス団蜂起について記した上で、当時のドイツの共産主義の象徴であったカール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルクが処刑されたことを、第471回の記事 で戦後ドイツでハイパーインフレーションをもたらす直因となった「ヴェルサイユ条約」について、第475回の記事 で「ナチス政権を誕生させることなった」ワイマール憲法について記事にしました。

時系列的に記しますと、

1919年1月5日 スパルタクス団蜂起
1919年1月15日 リープクネヒトとルクセンブルク、処刑
1919年6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1919年8月11日 ワイマール憲法制定
1919年8月14日 ワイマール憲法公布・施行
1920年1月10日 ヴェルサイユ条約発効
1923年1月 フランス・ベルギーによるルール占領

このような流れになります。スパルタクス団はその残党により、3月にも暴動を起こすのですが、1月の蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケにより鎮圧。

グスタフは更に1919年4月6日にバイエルンで樹立した「バイエルン・レーテ共和国」も打倒します。(1919年5月3日)


バイエルン・レーテ共和国とアドルフ・ヒトラー

バイエルン・レーテ共和国の面白いところは、非常に短期間の間に「ブルジョワによる革命」→「プロレタリアによる革命」という経緯をたどっているという事。

一応、皆様ご存じだとは思いますが、ドイツにおけるバイエルンの位置はこちらです。

バイエルン州


バイエルン共和国の誕生

バイエルンにおける革命は三度発生しているようで、まずは1918年11月7日夜半。「バイエルン王国」であった時代に、独立社会民主党の指導者であるクルト・アイスナーがバイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ王家の廃止とバイエルン共和国の樹立を宣言。

ベルリンでフィリップ・シャイデマンがドイツ共和国樹立を宣言したのが1918年11月9日ですから、それに先駆けてバイエルン共和国が誕生したことになります。

アイスナーの特徴的だったのは、ベルリン政府(プロイセン)に対して反発的な姿勢を見せた事。

バイエルンは、普仏戦争によってビスマルクがドイツを統一 した後も、法制度的にはプロイセンには合流せず、「自由都市」としての立場を貫きましたね?

第426回の記事 で、元々南ドイツには北ドイツとの統合に否定的な「分離主義者」が多かったことを記しました。

ビスマルク自身もそれを認識していて、南ドイツで主に信仰されていたカトリック。その信者によって構成されていた「ドイツ中央党」の動きを抑えることを目的としてカトリックを弾圧していました。(文化闘争)

しかし、1873年恐慌の勃発を受け、自由貿易から保護貿易への転換が必要であると直感したビスマルクは、中央党を味方に引き入れるため、中央党との和解を図ることとなりました。

このような経緯から見てもご理解いただけると思いますが、バイエルン人の中には元々プロイセンに対する反発心が内在していたんですね。自分たちは「ドイツ人」ではなく「バイエルン人」である、と。

ですから、第一次世界大戦に対しても、「プロイセン王(ヴィルヘルム二世)が勝手に起こした戦争」であり、バイエルンがこれに巻き込まれたという意識を持っていた人も少なくはなかったわけです。

ただ、アイスナー自身も確かに独立社会民主党の党員であったものの、共産主義者たちが目指す「プロレタリア独裁政府の誕生」とは距離を取っていて、このようなアイスナーのあいまいな姿勢は社会主義者たちからも反発を買うことになりました。

アイスナーを支持した社会主義者たちは彼の下から離反し、代わりに1919年1月の選挙では、カトリックによって構成される保守的な「バイエルン人民党」が第一党となり、独立社会民主党はわずか3議席しか取れずに敗北。アイスナー自身は右派の青年将校によって暗殺されてしまいます。

しかし、この暗殺事件がかえって独立社会民主党と社会民主党の結束を深め、政権を維持することとなりました。


バイエルン=レーテ共和国の誕生

独立社会民主党と社会民主党が結束を深め、政権を維持することとなったわけですが、アイスナーから離反し、共産党を結成した面々や、その他の左派連中からはこの事が好ましくは思われませんでした。

そして1919年4月6日、独立社会民主党のエルンスト・トラーと無政府主義者(アナキスト)のグスタフ・ランダウアーが中心となって革命が勃発。首相であった社会民主党ヨハネス・ホフマンはミュンヘンを追われ、バイエルン・レーテ共和国が誕生しました。

ですが、更にその1週間後、今度はこの事に不満を持った共産党が、ロシア出身のオイゲン・レヴィーネを中心としてエルンスト・トラーらが作ったレーテ共和国を打倒。改めてバイエルン・レーテ共和国の樹立が宣言されました。

共産主義者の理想は

1.ブルジョワ革命による貴族政権の打倒
→2.プロレタリア革命によるブルジョワ政権の打倒
→3.プロレタリアによる独裁政権の樹立

にあるわけですから、これほど理想的な共産主義政権の誕生の仕方はありません。

当時はロシアでレーニンらによるソビエト政権が誕生した直後で、第三インターナショナル(コミンテルン)が樹立され、世界中で共産主義革命を起こすこと(世界革命)が目論まれていましたから、レーニンらにとってみればこれは快哉を叫ぶ思いだったかと思います。


政治家、アドルフ・ヒトラーの登場

さて、このようにロシア共産党(コミンテルン)に指導される形で、「ドイツ共産党」の主導で誕生した「バイエルン・レーテ共和国」。

当然その運営は「レーテ(評議会)」によって行われます。

バイエルン・レーテ共和国が誕生したのは1919年4月13日。その2日後、4月15日に、ミュンヘンのレーテ予備大隊評議員の選挙が行われました。

この時、当選者の一人として名前があったのがあの「アドルフ・ヒトラー」です。

アドルフ・ヒトラー

ヒットラーが初めて政治の場に姿を現した瞬間でもありました。


バイエルン・レーテ共和国の滅亡

さて。このようにして誕生した「バイエルン・レーテ共和国」ですが、冒頭にも記しました通り、ドイツ国中央政府のグスタフ・ノスケ国防相率いるワイマール共和国軍他、ドイツ義勇軍によって1919年5月1日~5月3日の3日間にかけてあっという間に占領されてしまいます。

崩壊する寸前、共産党は人質としてとらえた人々を虐殺。その後、レーテ共和国は滅亡します。

その後、政権は再び共産党によってミュンヘンから追い出されたはずのヨハネス・ホフマンの下へと戻ることになるのですが、政権は事実上、中央政府軍の下に置かれることとなります。

で、その占領軍による「レーテ共和国にかかわったもの似たいする」「残虐行為」が多発したのだとか・・・。

ロシアからやってきたオイゲン・レヴィーネは7月5日に処刑。エルンスト・トラーは1925年まで投獄されることとなりました。

一方、この時ヒットラーは占領軍により「革命調査委員会」の委員として任命されます。革命調査委員会に、クーデターの最中に政治活動をしていた人物に共産主義の傾向があるかどうかを調べる役割が与えられていました。

ヒットラーは、この時の働きが認められて「帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊」に配属されることとなりました。


この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

次回記事では、第351回の記事 と多少話題が重なるのですが、この後、ベルリンで起きる「カップ一揆」以降の話題を深めていきたいと思います。


次回備忘録 ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ

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<継承する記事>第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

第468回の記事 では、敗戦後のドイツ社会主義について、第351回の記事 及び 第354回の記事 で話題にしたことを理由に、これ以上追いかけることはしない、と記したのですが、ベーベルとリープクネヒトが処刑された後のドイツ。

「右傾化」が進んでいくわけですが、社会主義ではなく、「右傾化」について、その様子を改めてドイツのシリーズでも記事にしていきたいと思います。

その中でも、今回は「ワイマール憲法」にポイントを絞って記事にしたいと思います。


ワイマール憲法の成立

ワイマール憲法

個人的に、いつ成立したんだろう・・・と思っていたこのワイマール憲法。成立はスパルタクス団蜂起の結果ベーベルとリープクネヒトが処刑された1919年と同じ年の7月末。公布されたのが8月11日でした。

第468回の記事 で少し話題にしましたが、元々独立社会民主党がレーテによる独裁を目的として結成した「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」。

この評議会を中心として開催されたはずの「大レーテ大会(ドイツ全土の「レーテ」が集まって開催された大会)」において、独立社会民主党ではなく、「社会民主党」が多数派を占める「レーテ大会」が全権力を掌握することとなり、また更に同大会において1919年1月19日、「国民議会選挙」が開催されることが決定されました。

その後、「スパルタクス団蜂起」が勃発するわけですが、右派義勇軍(フライコール)が結成され、全権を委任された国防大臣「グスタフ・ノスケ」の下、同蜂起は鎮圧。

大レーテ大会にて決定した通り、1月19日の「国民議会選挙」は予定通り開催されました。

同選挙において政権第一党となったのは社会民主党(得票率37.9%)、第二党が中央党(同19.7%)、第三党がドイツ民主党(同18.6%)で、この3党が連立政府を形成しました。

この時の投票率は82.7%だったんだそうですよ。すごいですね。

ちなみに第4党がドイツ国家人民党、第5党が独立社会民主党、第6党がドイツ人民党。共産党は選挙そのものをボイコットしたのだそうです。

この選挙ではドイツで初めて比例代表制が採用されたほか、女性の参政権も求められたのだそうです。

選挙権年齢も25歳から20歳に引き下げられ、議席も人口が集中している地域に多く配分されるようになったのだそうです。現在の日本の選挙制度ととてもよく似ていますね。

2月11日には元々社会民主党党首であり、選挙前の共和制政府の首相であったエーベルトが大統領として選出されました。

エーベルトはドイツ革命時、勝手に共和制政府の樹立を宣言したシャイデマンを首相として指名しました。

その結果、採択されたのが「ワイマール憲法」です。

ワイマール憲法の事。私は一度記事にしたいとずっと考えていました。ですが、私自身がワイマール憲法について論じるほどの十分な知識を有していませんでしたし、ワイマール憲法成立に至った流れを十分に把握するも至っていませんでした。

その背景も知りませんでしたし、だからこそ私自身がこの話題を記事にすることはありませんでした。

「この話題」何のことを言っているのか、ページタイトルからご推察いただけると思います。そう。以下の動画で麻生さんがおっしゃった、「ワイマール憲法」と「あの手口」に関する話題です。




一番最初に申し上げたように、うわぁっとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で、決めてほしくない。

ちょっと皆さんよく、落ち着いて。我々を取り巻く環境は何なんだと、この状況をよく見てくださいと、いう世論というものの上に憲法改正というものは成し遂げられるべきなんだと。そうしないと間違ったものになりかねないということを思うわけです。

最後に、僕は今、3分の2っていう話がよく出てきますけど、じゃあ伺いますが、ドイツは、ヒトラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。

ヒトラーっていったらいかにも軍事力でとったような形、全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違えんでくださいよこれ。

そして、彼はきちんとワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきたんだから。だから常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。

ここはよくよく頭に入れておかないといけないんあって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから。

私どもは、周りに置かれている状況は、極めて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は、今回の世論調査でも、20代、30代の方が、極めて前向き。一番足りないのは50代、60代。ここに一番多いけど。

ここが一番問題なんです。私らから言ったら。なんとなくいい思いをした世代。バブルの時代でいい思いをした世代が、ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。

この人たちの方が、よほどしゃべっていて現実的。50代、60代、一番頼りないと思う。しゃべっていて。おれたちの世代になると、戦前、戦後の不況を知っているから、結構しゃべる。しかし、そうじゃない。

しつこく言いますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください。どこが問題なのか。きちっと、書いて、おれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて、作り上げた。そういった思いが、我々にある。

そのときに喧々諤々、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。

『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。

ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

靖国神社の話にしても、静かに参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わない方がおかしい。静かに、きちっとお参りすればいい。

何も、戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日だってある。8月15日だけに限っていくから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって。といったおかげで、えらい物議をかもしたこともありますが。

僕は4月28日、忘れもしません、4月28日、昭和27年、その日から、今日は日本が独立した日だからと、言って、月曜日だったかなぁ。靖国神社に連れて行かれましたよ。それが私が初めて靖国神社に参拝した記憶です。

それから今日まで、結構年食ってからも毎年1回、必ず行っていると思いますけれども、そういったようなもんで行ったときに、わーわー、わーわー騒ぎになったのは、いつからですか、これは。

昔はみんな静かに行っておられましたよ。各総理もみんな行っておられたんですよ、これは。いつから騒ぎにしたんです。マスコミですよ。違いますかね?(大きな拍手)

いつのときからか、騒ぎになった。と、私は思う。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。いうんで、憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。

もうちょっと、わーわー騒がないで。

本当に、みんないい憲法と、いや言って、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。だから、ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんし、しかし、私どもはこういった物は重ねて言いますが、喧噪の中で決めないでほしい。

「ヒットラー」という人物について私が論じるのは、第471回の記事 でもお伝えしましたように、彼自身の著書である「我が闘争」。

この上下巻を読破してからにしようと思っています。

現時点ではまだ上巻の3/4程度までしか読めていません。ですが、ヒットラーという人物の為人についてはおぼろげながら把握しつつある、という状況だと現時点では思っています。

「ワイマール憲法」が成立した後の経緯についてもこれから学んでいこうとは思っているのですが、その上で、前記した麻生さんの発言について、本日は話題にしていきたいと思います。



麻生発言のポイント

多くの人が勘違いしていて、マスコミや野党陣営が必死に印象操作に利用した部分が麻生さんの発言の内

 憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね

という部分だと思います。

麻生さんの発言の内、着目していただきたい部分は、実は二つありまして、一つ目が次の部分。

 ①ここはよくよく頭に入れておかないといけないんあって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから。

という部分です。この言葉がどういった表現に続いて登場しているのかと申しますと、以下の通り。

 ②ドイツは、ヒトラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。

ヒトラーっていったらいかにも軍事力でとったような形、全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違えんでくださいよこれ。

そして、彼はきちんとワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきたんだから。だから常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。


麻生さんはこのスピーチを、どちらかというと麻生さんを支持する層。そして、憲法を改正すべきだと考える人たちに向けて行っています。

ですから、①についても、②についても、それは憲法を改正すべきだと考える人たちに向けて発信しているメッセージだということがわかります。


「ワイマール憲法」はどのようにして「ナチス憲法」へと変化していったのか

ワイマール憲法の中身にまで詳細に触れることはしませんが、麻生さん自身も言っているように、「ワイマール憲法」とは、「当時は世界で最も民主的な憲法とされ」ていて、第1条において「国民主権」が規定されていたり、その他「114、115、117、118、123、124、153」の条文では「基本的人権」が規定されていたりします。

ですが、この憲法で問題があったのは

「公安に著しい障害が生じ或いはその虞がある時は、大統領は障害回復のために必要な措置を取り、また武力介入が出来る。このために大統領は基本的人権を一時的に停止出来る」

との条文が含まれていたり、体制として大統領制がとられていて、大統領には「憲法停止の非常大権などの強大な権限」が与えられていたこと。

そして、大統領は、「国家宰相(首相)の任免を行う」ことができました。

大統領制をとっていましたが、大統領にはかつての「皇帝」のような役割が充てられていたんですね。

と言っても、このような制度は現在の米国などにも存在しますよね?

これに対し、麻生さんは

『私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けてきてますけど、その上で、これをどう運営していくかは、かかって皆さん方が選ぶ、投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持であったり、そういったようなものが最終的に決めていくんだから』

と言及しているわけです。つまり、同じ「憲法」でも、それはこれを運営する側によっていかようにでも変化していくことを指摘しているんです。

当時世界一民主的だと言われたワイマール憲法でさえ、これを運用する側の判断によって、最終的には「ナチス憲法」へと姿を変えてしまったわけですから。

「ナチス憲法」に姿を変える経緯としては、

1.世界恐慌の勃発による、社会民主党内閣の辞任
2.ヒンデンブルク大統領の「大統領緊急命令権」の発動。議会内少数派の首相就任(議院内閣制の停止:1930年)
3.1933年1月、ヒットラー内閣の誕生(ヒンデンブルク大統領の任命による)
4.国会議事堂放火事件の勃発(ヒットラーはこれを共産党員の仕業であると断定)
5.大統領により「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」の発令(対共産党員:基本的人権の停止)
6.社会民主党議員の議会からの追放、及び弾圧
7.全権委任法の成立

という流れです。詳細は後日記事にします。

5~7は事実上ヒットラーによって行われたものですが、やり方としますと、ビスマルクによって「社会主義者鎮圧法」が実行された経緯 と非常によく似ていますね?

まだ途中ではありますが、「我が闘争」に記されている内容を見てみますと、ヒットラーの目指した「社会」とは、ビスマルク体制下、ヴィルヘルム1世の時代のドイツ帝国を復活させることにあったのではないか、と思われる節が多々見られます。

今回は麻生さんのスピーチを分析することを目的としていますので、この事について多く言及することは控えますが、多分、ビスマルクが行った「社会主義者鎮圧法」を批判する人は、そう多くはないのではないかと思います。

ではヒットラーの取った行為はどうでしょうか? ビスマルクの時は何も批判しなかったのに、ヒットラーの仕業になると急に批判に転じている人はいませんか?

そういった視点で、例えばネット上の記述なども見てみると少し違った見方ができるのではないかと考えています。


話が逸れましたが、ワイマール憲法が「ナチス憲法」へと変質していく過程が、「うわぁっとなった中で、狂騒の中で、狂乱の中で、騒々しい中で」進んでいっているように見えませんか?

また、このようなやり方を積極的に推し進めたのがあたかもヒットラーであるかのように見えてしまいますが、実はヒットラーが権力の座に就く以前より、大統領となったヒンデンブルクは「大統領緊急命令」を多用することで政権を運営していました。

そして、何よりドイツ国民は既に「議会制民主主義」に対して失望しており、大衆はヒンデンブルクのこのような権威主義的な政権運営を支持していました。

ここを一つ、押さえておきたいと思います。


改憲論者への忠告とマスコミ批判

もう一つ、着目していただきたいの以下のフレーズです。

 ③本当に、みんないい憲法と、いや言って、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。だから、ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんし、しかし、私どもはこういった物は重ねて言いますが、喧噪の中で決めないでほしい。

このフレーズを、「ナチス憲法が、みんないい憲法だと納得して成立したんだ」と勘違いしている人も多いのではないでしょうか?

ですが、ここでいう「憲法」とは、「ナチス憲法」のことではなく、「ワイマール憲法」のことです。

そして「変わった」というのは「全権委任法」がワイマール憲法下で国会審議を通過したということ。憲法に賛成した政党は、

「国家社会主義ドイツ労働者党(所謂ナチス)」、「ドイツ国家人民党」、「中央党」、「バイエルン人民党」、「ドイツ国家党」、「キリスト教社会人民運動」、「ドイツ人民党」、「ドイツ農民党」、「ドイツ農民連盟」の合計9つの政党で、合計441の投票数。

唯一反対したのがドイツ社会民主党でしたが、その票数は94票。

441票対94票で「全権委任法」は成立し、「ワイマール憲法」は「ナチス憲法」へと姿を変えたのです。

ここは私の推測ですが、この時ドイツの「マスコミ」、即ち新聞社は大騒ぎしていたんじゃないでしょうか?

いつのときからか、騒ぎになった。と、私は思う。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。

だから、静かにやろうやと。いうんで、憲法は、ある日気づいたら、ドイツもさっき話しましたけれども、ワイマール憲法がいつの間にか変わってて、ナチス憲法に変わっていたんですよ。

だれも気がづかないで変わったんだ。あの手口学んだらどうかね。

「全権委任法」が成立したとき、ドイツの憲法の名前は、「ワイマール憲法」という名称でした。

「ナチス憲法」などという名称ではありません。

ですが、「ワイマール憲法」を成立させたのは「全権委任法」の成立に反対したはずの社会民主党を中心とした政党です。

「ワイマール憲法」は気が付いた時には、いつの間にか「ナチス憲法」へと姿を変えていたわけです。


 あの手口に学んだらどうかね

という麻生さんの言葉は、ほかでもありません。靖国参拝を「わーわー、わーわー」と「騒ぎ」にしてしまった、マスコミに向けて放たれた言葉です。マスコミと、おそらく「野党陣営」に対しても。

麻生さんは、きっとこういったドイツの歴史を非常によくご存じなのでしょう。ですが、このようなドイツの歴史を全く理解していない連中が、浅はかな知識で麻生さんの歴史解釈を批判し、「イデオロギーの攻撃」のために利用する。

無知なのはどちらかと、私は本当に訴えたい!


 我々を取り巻く環境は何なんだと、この状況をよく見てくださいと、いう世論というものの上に憲法改正というものは成し遂げられるべきなんだと。そうしないと間違ったものになりかねないということを思うわけです。

という麻生さんの言葉って本当に重いと思います。

現時点で、安倍さんは憲法9条に対して、第3条を書き加える、「加憲」という方法で妥協せざるを得なくなっています。

なぜでしょう? 真剣に議論して、自民党は自民党として、良し悪しは別として、きちんとした「改憲案」を持っているにも関わらずです。

「わーわー、わーわー」と騒ぎ立てる人たちがいるからですよ。

マスコミはまた、同じ歴史を繰り返したいんでしょうか?


この批判は、私がこれから記していく記事の中でも多々、登場することとなると思います。

ハッキリ言えば、「第二次世界大戦」という大惨事を引き起こした最大の理由は、敢えてこの言葉を用いますが、「左翼」と「マスコミ」の存在があったからです。

もちろん、人間にも、社会にも、国家にも様々な失敗を経て、成長する必要がありますから、そういう時代もまた必要だったのだと思います。

ですが、であればその失敗を糧に、人間は成長する必要があるのではないでしょうか?

ですが、あれほどの大惨事を引き起こしたにもかかわらず、未だに成長せず、前時代的な思考のまま固まっているのが「マスコミ」と「左翼」です。これはつくづく思います。

今更何を言っているんだと思う方もたくさんいらっしゃると思いますが、このシリーズのクライマックスに向けて、これから作成していく記事の中で、徐々にその理由をご理解いただけるようになると思います。

次回記事では、更に第一次世界大戦後ドイツの「右傾化」について記事を進めていければと思っています。



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<継承する記事>第468回 ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトの処刑~スパルタクス団蜂起とその結末

第456回 までの記事で、ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由を外交的な見地から、前回 までの記事で第一次世界大戦について「ドイツ国内の社会主義」という見地からそれぞれ記事にしてみました。

ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? というシリーズタイトルの話題に対して、

 1.「ドイツ」とは何か
 2.「オーストリア」の誕生
 3.ライン同盟結成までの「ドイツ」
 4.フランス二月革命とウィーン二月革命
 5.ウィーン体制と「ドイツ連邦」
 6.ドイツ関税同盟から見る「ドイツ」(大ドイツ主義と小ドイツ主義)
 7.ビスマルクの登場後のドイツ(シューレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争→普墺戦争→普仏戦争)
 8.ビスマルクとドイツ帝国
 9.ドイツ国内における社会主義
 10.ビスマルクの失脚とその後のドイツ

といった流れで私のブログ風に言えば「解析」を行った後、前記した「外交的な見地から見るドイツが第一次世界大戦に参戦した理由」、そして「ドイツ国内の社会主義から見る第一次世界大戦」についてそれぞれ「解析」を行った感じになると思います。

わからないなりに調査し、裏付けを行い続けることでここまで深めていったシリーズですが、結果論からすると、これは非常に理にかなった方法であったと自負しています。

これは、現在私が書籍を購入して読んでいる、アドルフ・ヒットラーの「我が闘争」。これを読んでみた実感です。



念のために言っておきますが、もちろん私は無批判にヒットラーのことを礼賛することを目的としてこの記事やブログを作成しているわけではありません。あくまでも「客観的な」資料として用いるためにこの話題を記しています。

もし今すぐこの本を読みたいという方向けには、国立国会図書館デジタルコレクション のページからも読むことができます。

ただし、旧仮名遣いになっていますし、1ページ1ページクリックしてみていく必要がありますので、まあまあ読みにくいです。

私は上巻の前半までネット上で読んだのですが、特にiPhoneですとあまりに読みにくく、したがってPC上で読む必要があったため、中々読むための時間が作りにくかったことから、敢えて書籍を購入いたしました。

シリーズの最終目的であるこの「ヒットラー」という人物を記事にするには、まずこの人物のパーソナリティや考え方を理解する必要がある、と考えたがこの書籍を読むに至った理由です。そうしないとわからないと思ったんですよね。

現在はまだ上巻の後半部分を読み始めたばかりですので、まだその全体を把握しているわけではありませんが、上巻の前半部分を読んでみてまず感じた気持ちは、この本を読破するには、とある「前提条件」がいるということ。

そう。先ほど私が記したドイツの「近代にいたるまでの歴史」。これをハッキリと頭の中に入れた上でなくてはこれはまず読めないなと思いました。

内容に関する共感まで含めた「批判」は今後の記事で随時行っていくこととして、中世~近代までのドイツの歴史を先に学んでいなければ、言葉として理解できない、つまり解釈することが不可能であったり、誤った判断や受け止め方をしてしまうのではないかと感じる部分が大量にあるということ。

で、その内容でヒットラーを自分のそれまでの知識を前提に批判してしまい、疲れて全文を読まぬままに終わってしまいそうな、そんな感覚を非常に覚える内容です。

特に新聞やテレビ報道といった媒体に偏った情報収集を行っている皆さんにとってはそうだと思います。

この文章の中で彼はユダヤ人批判を行っているわけですが、この「ユダヤ人」という文字を、(批判を恐れずに言いますと)「韓国人」という言葉に変えて読むと、まるで現在の日本について語っているのではないかと錯覚するような内容です。

これ以上記すとあまりに差別的な内容になってしまいそうなので、「この話題」についてはこの場所でしか触れないつもりでいます。が・・・ひょっとすると後日触れることもあるかもしれません。(多分、触れます。)

ということで前置きはここまで。本題に入ります。


「ヴェルサイユ条約」に触れたいと思った理由

ヴェルサイユ条約って、その後の日本の歴史にも関わっていく実は大きな「ターニングポイント」であったりします。

日本のサイドから言えば、この「ヴェルサイユ条約」に中華民国側の意見が取り入れられなかったため、中華民国は条約に反発し、これに批准することはありませんでした。

詳しくは、

第124回 五四運動以降の中国(北洋政府)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~ をご参照ください。

ざっくりとした概要としては、第一次世界大戦において日本は対独参戦をする折、ドイツが植民地化している中国の山東省を解放することを大義名分としており、実際にドイツ軍を撃破し、この地をドイツから奪還し、一時的に領有することとなりました。

この時中国の大統領であった袁世凱は「ドイツとの約束でこの土地をドイツ以外の国は領有することができないことになっている」事を理由に、日本に対して領有をすぐさま中止し、中華民国に返還することを要求するのですが、日本はドイツ相手に戦争をしているのであり、講和条約が締結され、日本が正式にドイツから山東省を取得するまで待ってほしい、と伝えます。

ですが、袁世凱はこれを聞き入れようとせず、賠償問題にまで発展しかねない状況が生まれたため、日本は当時孫文と話し合っていた内容を基に袁世凱に対して、所謂 対華21か条の要求 を行い特に山東省に対しては

・ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること

・山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと

・芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと

・山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること

という「要求」を行い、最終的にこれを認めさせます。

これに対して中華民国は講和条約において、日本が中華民国に山東省を返還することを盛り込むよう要求するのですが、当然完全無視されます。ヴェルサイユ条約は戦勝国から戦敗国に対する「講和条約」で、日本は「戦勝国」。

大戦において日本が戦っていた相手はドイツであり中華民国ではありませんから、当然の結果です。

で、同条約ではイギリスやフランス、アメリカからすればドイツの扱い方をどうするのかということを問題にしていますから、はっきり言って中華民国「ごとき」の片田舎の事なんぞどうでもよいわけです。後は日本との間で勝手にやってくれ、とこうなります。

ただ、実際にはこの後日本とアメリカを中心に締結された「九カ国条約」において日本から中華民国に山東省は正式に返還されることとなるわけですが。


「ヴェルサイユ条約」と「ハイパーインフレーション」

ですが。今回の記事のメインターゲットはこちら。

皆さんは、「ハイパーインフレーション」という言葉を時々耳にすることがあると思います。

私のブログでも、 第28回の記事 などで時々話題にしていますね。

経済学者のフィリップ・ケーガン氏の説によれば、「1ヵ月に50%を超える物価上昇をハイパーインフレの始まりとし、月間物価上昇率がそれを下回る期間が1年以上」続くことを「ハイパーインフレ」と呼ぶのだそうです。

私もずっとこの立場をとってきたのですが、国際会計基準の定めによりますと、「3年間で累積100%以上の物価上昇」をハイパーインフレと定義づけているのだそうです。

Wikiベースですが、日本の戦後で見ますと、「日本銀行の調査によれば、1934-1936年の消費者物価指数を1とした場合、1954年は301.8となった」(大東亜戦争の終結が1945年)とありますが、これも18年間での話ですから、さすがに「ハイパーインフレ」とは言えないかと思います。

さて。そんな滅多に起きることのない「ハイパーインフレ」。事例としてよく挙げられるのが 第28回の記事 でも話題にしました、「ジンバブエ」の事例ともう一つ、今回話題にするドイツの話題です。

ヴェルサイユ条約は基本的にアメリカが中心となって成立させたもので、この条約により「国際連盟」も誕生しました。

で、この内今回のテーマで問題となるのはドイツの「賠償責任」について定めた部分、同条約231条です。

231条
 連合国政府は、ドイツとその同盟国による侵略により強いられた戦争の結果として連合国政府、及びその国民が被ったあらゆる損失と損害を引き起こしたことに対し、ドイツとその同盟国に責任があることを確認し、ドイツはそれを承諾する。

232条
 連合国は本条約の他の条項によってもたらされる恒久的な資産の減少を考慮すると、そのような損失と損害を埋め合わせるのは 十分な資産をドイツは持ち合わせていないことを認識している。
 しかしながら連合国は、各国が連合国の一員としてドイツと交戦していた期間に、陸海空からのドイツの侵略によって連合国の民間人とその財産に対して与えられたあらゆる損害、及び本条項の付属書Ⅰに定められているすべての損害に対する賠償を要求し、ドイツはそれを承諾する。

まとめますと、

1.ドイツとその同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・オスマントルコ)は戦争を起こして対戦相手国の国民に対してたくさんの損害を与えたことをドイツは認めます。

2.連合国側も、ドイツが将来にわたって発生する損害まで賠償するだけの資産を持っていないことは理解しています。
  けれども、戦争中に対戦相手国国民に対して与えたあらゆる損害を賠償しなければならないことをドイツは認めます。

という内容ですね。

個人的な感想ですが、第一次世界大戦に関しては、はっきり言ってドイツが悪いと思います。ロシアに対して戦争を起こすことについては同盟国であるオーストリアを支援するという立派な大義名分があると思います。

ですが、そのために、つまりはロシアに勝利するためという理由で無関係なフランスに攻め込み、更にその進行方向にあるベルギーにまでも攻め込んだわけです。

更に事前の調査不足でロシアの戦力に対する見通しも甘すぎました。はっきり言えば自業自得です。

で、今回損害賠償を要求される相手となったのはそのフランスとベルギーです。特にベルギーは無関係すぎますよね。

ロシアと同盟関係にあったのはフランスでベルギーじゃありませんから。通り道にあって邪魔だから攻め込みますよ、と一方的に攻め込まれたのがベルギーです。で、この事でイギリスにまで宣戦布告するための口実を与えてしまったのです。

その元凶はヴィルヘルム二世。

冒頭に取り上げたヒットラーは「我が闘争」において、

「せめて日本がロシアに対して日露戦争を起こしたときにイギリスと協力してロシアに攻め込んでいたら、まず世界大戦になることはなかったよね」

とも言及しています。ヴィルヘルム二世はヒットラーの発想とは真逆で、日露戦争が勃発する前に中華民国山東省のキリスト教宣教師殺害事件に言いがかりをつけて山東省に攻め込み、山東省を植民地化しています。中華民国ではこれが理由で義和団事件から北清事変まで発展しているわけです。

北清事変中にロシアは勝手に満州を占領し、ここから撤退しなかったことが原因で日露戦争が勃発しました。

北清事変の時の芝五郎という人物の活躍に感動したイギリスは日本と同盟関係を結び、日露戦争の時は直接ではないものの、間接的に日本の勝利に貢献しています。

ビスマルクであればまず山東省を植民地化したりはしていないでしょうが、それでも植民地化してしまったことを前提として考えるのであれば、ひょっとしたらヒットラーと同じ発想をしていたかもしれません。

どこまで遡っても元凶はヴィルヘルム二世以外に存在しません。それでなくてもフランスは普仏戦争でビスマルクにぼろ負けして腹が煮えくり返るような思いをしてましたし、更に国内の人材が枯渇。味方はオーストリアしかいませんでしたし。

我が闘争を読んでみますと、ドイツ国内で社会主義者たちがのさばっていく理由も、特にイギリスによる「宣伝工作」の影響が大きかった様です。

ということで元凶はヴィルヘルム二世にあり、フランスやベルギーは「巻き込まれた」だけですから、両国に賠償しなければならないのは当然の話でしょう。

と、ここまでは私の感情を込めてみました。だってどう考えたってそうでしょう、と。


ドイツが課せられた「賠償責任」

ヴェルサイユ条約が締結されたのは、1919年6月の事。ですが、ドイツが支払うべき賠償金額が決まったのはそれから2年後、1921年の事でした。

金額が1320億金マルクで、これを30年払いで支払うことが決まったのだそうです。

66億ドルに相当するのだそうですが、現在の価値に直して一体どのくらいなのか、全くイメージができません。第一次世界大戦前のドイツの年間国民総所得の2.5倍の金額に相当するのだそうですよ。

で、敗戦後のドイツにそもそもこの金額を支払う能力があったのかどうか。更にドイツはその賠償金を外貨で支払うことが求められたため、自国通貨であるマルクを外貨に換えて支払う必要があります。言い換えればマルクを大量に売りさばく必要がありますから、当然急激な「マルク安」に襲われることになります。

賠償金を支払えば支払うほどドイツの債務はどんどん膨らんでいく・・・という鬼のような仕組みです。

ただでさえ戦前のドイツの国民総所得の2.5倍という莫大な金額であるうえ、ドイツ自身も戦争によって莫大な損害を受けているわけです。これに加えて為替変動でドイツの債務が雪だるま式に膨らんでいく状況ですから、ドイツとしてもついにその支払いを行うことができなくなります。

これに対し、特にフランスが強硬に反対する姿勢を見せ、ドイツにとってはその経済の中心地であるラインラントにある「ルール地方」。フランスは、ここの鉱山管理権を抵当に入れることを要求してきます。

ルール地方はドイツの炭鉱の中心地で、ウィーン体制の下でプロイセンに併合された後、ドイツ屈指の重工業地帯へと発展しました。その分人口も「爆発的に増加」したのだそうです。大戦当時のルール地方は、ドイツ最大の工業地域となっていたんですね。

一応フランスを擁護しておきますと、特にこのフランス側国境において戦場となったのはドイツではなくフランスやベルギー。両国とも炭鉱地帯に大きな損害を受けていました。

一方のドイツは敗戦国であるにも関わらず、その生産拠点であるルール地方は無傷。ですから、フランスがドイツに対してルール地方の鉱山管理権を・・・という件について、フランスの心情も理解出来なくはありません。実際フランスもアメリカやイギリスに対する債務を背負っていましたから。

ですが、ドイツからしてみれば国家が破綻しかねないほどに莫大な賠償金を毎年支払わされているのに、その生産の拠点であるルール地方を取られてしまってはそれこそ賠償の見通しがつかなくなってしまいます。

フランスは、最終的に1923年1月4日、ベルギー軍とともにルール地方占領を宣言、11日から占領を開始します。

ルール占領

これに対しドイツ政府。当時はワイマール共和政政府で、首相はヴィルヘルム・クーノ。ドイツ人民党という「右派政権」の首相だったのですが、彼がとった方法は「鉱工業従事者にストライキやサボタージュを呼びかける『消極的抵抗』」。更に国民の生活費をドイツ帝国銀行による「紙幣増刷」で対応しようとしました。

ええ。生産ラインが完全にストップした状態で、しかも国民が働くことを中止した状態で、紙幣増刷なんて馬鹿な真似をすればどうなるのか。結果は見え見えです。当然のようにして勃発したのが「ハイパーインフレーション」でした。

ただでさえ外国の支払いをマルクを外貨に換えることで賄っていた状況下での振る舞いです。

現在のわが国にも、「ハイパーインフレ」が起きるのではないかと盛んにあおり吹聴する人がいますが、実際に「ハイパーインフレ」が起きる状況が、いかに特殊な状況下であるのかということが非常によくわかる事例です。

「ハイパーインフレの起こし方」の非常にわかりやすいマニュアルですね、これは。


次回へ

さて。ドイツで勃発した「ハイパーインフレ」について、今回は概略とその結論のみを記事にしましたが、次回はもう少し掘り下げて、そもそも「ルール占領」が起きるまでのドイツ国内の動きと、ハイパーインフレがどのようにして収束したのか、そういった情報を記事にできればと思います。

例えば、敗戦直後は社会民主党の代表が首相になっていましたが、いつの間にか首相が「右派」に代わっていますね? どのような経緯でそうなったのかということについても記事にしてみます。

この他、ドイツ敗戦後のヨーロッパ地図なども追いかけてみる予定です。




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<継承する記事>第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~

それにしてもややこしい・・・。

多分、「歴史」を一番複雑にしているのはこういったいわゆる「左翼」の存在なんじゃないかと思います。

ドイツにとっての第一次世界大戦に終結をもたらしたのは、図らずもドイツ国内で起きたキール軍港における水平たちの武装蜂起にあったわけですが、これをきっかけにドイツ全土でいわゆる「レーテ」による武装蜂起が立て続けに起こり、各都市がレーテの支配下に入ります。

スパルタクス団の指導者であるリープクネヒトが実行しようとしていた社会主義政府の樹立を阻止するため、社会民主党の一党員にすぎないシャイデマンが共和制政府の樹立を宣言。

社会民主党と独立社会民主党は連合し、「人民委員評議会」を樹立。ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡しました。

ここは前回の記事でもさらった部分です。


独立社会民主党の政権離脱

わかりにくすぎるので、まずは一つずつまとめていくのが最善の策かと思いまして、わからないなりに、少しずつまとめていきます。

まずはサブタイトルに記した通り、「人民委員評議会」に加わった独立社会民主党がこの評議会を離脱した経緯から記事にしていきます。

おさらいとして、前回の記事 で話題にした「レーテの衰退」について。

社民党と独立社民党において「人民委員評議会」が樹立したわけですが、帝政ドイツ崩壊の中心的役割を果たしたベルリンの「レーテ」は、これとは別に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出。ここに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」しました。

ここには独立社民党極左の「革命的オプロイテ」が半数以上含まれていました。ベルリンの「レーテ」は、つまり社民党ではなく、独立社民党の、しかも極左にその権力を与えようとしたわけですね。

ですが、その「レーテ」によってドイツ全土で開催された「大レーテ大会」では逆にその半数以上を社民党系の評議員が占めていたことから、ものの見事に独立社民党の目論見は骨抜きにされ、更に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」ではなく、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められました。

詳しくは前回の記事を読んでいただければと思うのですが、この結果ドイツの権力は「独立社会民主党」ではなく、「社会民主党」が掌握することとなったわけです。

独立社会民主党は、「人民委員評議会」に加わることの条件として、「全権をレーテが握ること」を要求し、結果これが実現したわけですが、その主力は独立社会民主党ではなく社会民主党系であった・・・と、そういうことですね。


少し時間をさかのぼります。サブタイトルにもある通り、ドイツ独立社会民主党は評議会を離脱するわけですが、そのきっかけとして、「人民海兵団」という言葉が登場します。

この「人民海兵団」。その誕生は1918年11月。人民委員評議会政府が樹立した直後の話です。

革命は水兵の反乱によって勃発しましたので、海軍はその信頼を失い、混乱したままの状態にありました。

そして、首都(ベルリン)の治安を守るために「クックスハーフェン」というドイツの北端の都市から呼び寄せられた水兵とベルリンの水兵との間で結成されたのが「人民海兵団」です。

クックスハーフェン

ですが、ここに独立社民党の極左である革命的オプロイテが浸透し、海兵団そのものが左傾化していくこととなりました。


帝政ドイツ崩壊後、ドイツの首相となったのは社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。

全体的な流れから見て、どうもエーベルトは革命後のドイツが共産化してしまうことを何とか防ごうとしていたような、そんな印象を受けます。

独立社民党と連合して樹立した「人民代表評議会」では、首相であるエーベルトが議長を務めていたことから、どうも独立社民党の中では不満が鬱積していた様子。

一方で12月16日に行われた「大レーテ大会」では、革命的オプロイテやスパルタクス団ら、所謂「急進派」がドイツ帝国軍の解体と国民軍の創設を要求するのですが、エーベルトはこれを無視し、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定します。

ドイツ独立社会民主党の政権離脱のきっかけとなったのは「人民海兵団」の武装蜂起にあるわけですが、おそらくこれもこのような流れの延長線上にあったものと思われます。

「人民海兵団」は極左、革命的オプロイテによって、事実上革命派の一組織と化していたようで、12月23日までに人民海兵団はベルリンの王宮を占拠してしまいます。

これに対し、エーベルト政府は占拠をやめるよう指示を出すわけですが、海兵案はこれを拒否。翌24日には政府軍が海兵団の宿舎を砲撃し、市街地戦がスタートします。

しかしこれもやけにあっさりと終結しているようで・・・。で、独立社会民主党はこの状況を、「政府が帝国軍とつながっている証拠だ」と主張し、臨時政府から離脱してしまいます。

政府なんですから、軍を統括しているのは別におかしいことではないと思うんですが。特にあの時代、政府が軍を統括していなければ、一体どうやって治安を保つというのでしょうね?

兎にも角にも、このような経緯を経てドイツ独立社会民主党は政権から離脱することとなりました。


スパルタクス団蜂起

さて。前回の記事 でも触れましたが、「人民海兵団」に絡む事件が勃発した頃、もう一方の「急進左派」、「スパルタクス団」は、更にもう一つの左派集団である「ブレーメン派」が結成した「ドイツ国際共産主義」と合同し、翌1919年1月1日、「ドイツ共産党・スパルタクス団」を創設しました。

彼らによって引き起こされたのが「スパルタクス団蜂起」です。

スパルタクス団蜂起


この話題は、以下の記事を参考にさせていただこうと思います。

1章 ドイツ革命・3スパルタクス団の蜂起

経緯がきちんと記されているので、この記事を信頼して進めていきます。

そもそも、この「スパルタクス団蜂起」が勃発したのは、「独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたこと」にあるのだそうです。(1919年1月5日)

しかし、このアイヒホルンは政府による解任を拒否し、独立社会民主党のベルリン支部に支援を求めました。

このことを受け、独立社会民主党と同党左派である「革命的オプロイテ」、そして1日に発足したばかりの「共産党」は解任に反対する抗議デモを行うよう、「市民」に呼びかけます。

第354回の記事

にも記しましたが、「スパルタクス団蜂起」を起こしたのは、実は共産党を結成したスパルタクス団ではなく、呼びかけられて集まった「大衆」でした。集まったのは総勢50万にも上る群衆で、中には革命派を敵視する記事を発行していた新聞社を占拠したグループもいました。

ですが、デモを呼び掛けた「左派」の面々は、ここまでの事態をそもそも想定しておらず、集まった群衆をどのように煽動してよいのかが全く分からず、「革命委員会」を結成しこそすれ、この委員会は全く機能しませんでした。

このように、集められた群衆がどう動いてよいかわからず、右往左往している間に、社民党政府は、大戦時の退役軍人を中心に志願兵を募って、義勇軍を結成し、国防大臣グスタフ・ノスケの下、義勇軍は労働者が占拠していた新聞社街の通りや大手新聞社の建物を奪還しました。

武力の差は圧倒的で、共産党の中心的な指導者であったリープクネヒトとローザ=ルクセンブルクはとらえられ、殺害されました。

この時の両名の処刑のされ方を、「虐殺」と記している記述も多く見かけますので、その殺害方法はよほどの内容だったのだと思います。

義勇軍として参加した退役軍人たちも、どうも革命後の市民社会に対して「違和感」を覚えていたのだそうです。ドイツ人たちの中には、確かに「ビスマルク」時代のドイツがはっきりとその脳裏に刻まれていたのではないでしょうか。

だからこそ「誇り」も持っていたでしょうし、姑息なマルクス主義者たちが目指した社会は、きっとドイツ国民にはなじまなかったのではないかと推測されます。

さて。この後の「社会主義」に関しては、第351回の記事、及び 第354回の記事 にて一通りまとめていますので、これ以上はあえて追いかけることはせず、いよいよ今シリーズの本丸、「ナチス」に視点を合わせてみたいと思います。

ただ、その前に一記事だけ、「ヴェルサイユ条約」に関連した記事を作成できればと思っております。




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<継承する記事>第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義

ドイツ社会主義の復習

ものすごくややこしいので、まずは最初に第一次世界大戦前~開戦直後のドイツ国内の「社会主義」を一度整理してみます。

ドイツの社会主義はまず「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働党」という二つのグループからスタートします。

全ドイツ労働者協会ができたのが1863年、ドイツ社会民主労働党ができたのが1869年ですから、全ドイツ労働者協会の方が先です。

全ドイツ労働者協会はいわゆる「社会主義者」であるラッサールが中心となり、一方のドイツ社会民主労働党は「共産主義者」ベーベルやヴィルヘルム=リープクネヒトが中心となって誕生しました。

両グループの違いは議会との話し合いによって社会主義社会を築いていくのか、それともプロレタリアートの暴力革命によってそれを成し遂げるのかという違いです。

ラッサール自身は1864年に決闘により絶命していますので、ドイツ社会民主労働党が誕生したときの全ドイツ労働者協会のリーダーはラッサールではありません。この時の全ドイツ労働者協会の会長は「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物。

彼はラッサールの路線を継承していましたので、ドイツ社会民主労働党とは対立する構造にあったのですが、議会での敗北を受け、シュヴァイツァーが会長を辞任した後、ウィルヘルム・ハーゼンクレーヴァーが会長となってからは、少しずつ全ドイツ労働者協会からはラッサール色が褪せる様になります。

それどころか、両陣営ともビスマルクが成立させた社会主義者鎮圧法によって排除される立場となったことから、両陣営の結束は高まることとなり、1875年5月、両陣営は合同して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生します。

ビスマルクがヴィルヘルム2世より排除され「社会主義者鎮圧法」が廃止されると、「ドイツ社会主義労働者党」は「ドイツ社会民主党」と党名を変更します。(1890年)

改名とほぼ同時に誕生した、「ドイツ労働組合総委員会」を中心に、ドイツの労働組合が終結し、「自由労働組合」を結成します。

この「自由労働組合」はドイツ民主党の最大の支持母体となるわけですが、グループが大きくなるにつれ、次第に自由労働組合はラッサール的な「修正主義」へとその主義を変化させていきます。

ドイツ民主党へと改名した折、党の方針として「エルフルト綱領」が制定されたわけですが、二つの部分からなるこの綱領の内、「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、1895年、マルクスとともにドイツの社会主義をけん引したエンゲルスが死去した後、「修正主義に繋がる内容の論文」を発表するようになりました。

この頃には既に自由労働組合の間で「修正主義」が蔓延していましたから、ベルンシュタインの論文は広く組合員たちに受け入れられるようになります。

また更に、自由都市である南ドイツでは、北ドイツに先んじて普通選挙が実施されるようになっており、所謂「地方議員」として、ドイツ社会民主党でも「修正主義者」である議員が多く誕生していました。そして彼らは自由主義者たちと連携するようになっていたのです。

修正主義の中心地となった南ドイツを中心に、ドイツ社会民主党の「世代交代」も進み、やがて「修正主義者」たちがドイツ社会民主党の中心となっていくようになりました。

ですが、当然のようにして党内の「共産主義者(マルクス主義者)」と「修正主義者」たちは対立しました。

マルクス主義者である「急進左派」と「修正主義者」、そして修正主義者たちへの歩みよりを見せる党指導部の面々、「中央派」。この3つの派閥が社会民主党の中に誕生しました。

このことが大きく問題となるのは、1914年7月28日に勃発した「第一次世界大戦」。ロシアに宣戦布告するのが8月3日。翌日戦費を戦時公債によって賄われることが議会の「全会一致」で議決したとあります。もちろん「ドイツ社会民主党」も含めて。

ですが、この中でただ一人この議決に反対したのが、「カール・リープクネヒト」でした。ドイツ社会民主労働党を結成したヴィルヘルム=リープクネヒトの息子です。


「スパルタクス団」

もう一つややこしいのが、この「スパルタクス団」です。

前回までの記事と違う内容になると申し訳ないのですが、「新しい記事の方が、より洗練された情報である」と受け止めていただけるとありがたいです。

ですので、今回記す記述は、現時点で私が最も「正確だ」と考えている情報です。

まず第一に、ドイツ帝国議会が戦時公債の発行を議決した後、「ドイツ社会民主党」の中で、「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」ら、「急進左派」の面々は、党内に戦時公債に対する「反対派」を結成します。

反対派は、1915年7月、党指導部宛に抗議書簡を送っているのですが、この後、反対派は「労働共同体」と「グルッペ・インターナツィオナーレ」 に分裂します。

中心人物として名前を挙げた「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」の4名は共にスパルタクス団の結成メンバーとして名を連ねています。

で、おそらく「労働共同体」というグループは、前回の記事 に掲載しました、「社会民主協働団」の前身なのではないかと思います。議員団を除名された後、彼らは「社会民主協働団」の名称を用い始めたものと思われます。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」のメンバーは1916年1月1日、リープクネヒト宅で「全国協議会」を開催し、それ以降「スパルタクス団」の名称で知られることとなった、とあります。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」が結成されたのは既に記しています通り、戦時公債が発行された翌1914年8月5日の事です。

「社会民主協働団」を結成するメンバーが議員団を除名されるのは1916年3月24日の事ですが、Wikiベースでリープクネヒトのページを読んでみますと、リープクネヒトは「社会民主党を脱党して1916年からローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した」とありますので、リープクネヒトが離党したのは1915年の事だということでしょうか。

この辺りははっきりしません。

「社会民主協働団」の面々は、結局1917年1月には党組織そのものから除名されることとなります。そして、同年4月8日に彼らは結党し、その名称を「ドイツ独立社会民主党」と定めています。アメリカがドイツに宣戦布告を行う翌々日のことです。

この時、スパルタクス団は、結成されたドイツ独立社会民主党に合流しています。


ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒト

スパルタクス団の結成において、中心的な役割を果たしたのは間違いなくこの両名なのですが、実はこの両者、1916年4月にリープクネヒトが、1916年7月に逮捕されており、禁固2年半を宣告されています。

つまり、両者がスパルタクス団を指導したのは、獄中から。逮捕されていたのは両名だけでなく、スパルタクス団の指導者たちは軒並み逮捕されていましたので、事実上スパルタクス団は「停滞」していたんですね。

「ドイツ革命」が起こり、ヴィルヘルム2世が廃位されるわけですが、革命を起こしたのは結局「ドイツ独立社会民主党」でもなく「スパルタクス団」でもなく、キール軍港の水兵たちでした。

ヴィルヘルム2世が廃位されたことを受け、ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは釈放されます。

ローザ・ルクセンブルク
カール=リープクネヒト


ドイツ革命とそのあとの流れ

ドイツ革命前後の流れを時系列で整理しますと、

・1918年11月4日 キール軍港の水兵たちの蜂起
・1918年11月5日 リューベック、ブルンスビュッテルコークがレーテ(ロシアでいう「ソビエト」)の支配下に
・1918年11月6日 ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェンがレーテの支配下に
・1918年11月6日 ハノーファー、オルデンブルク、ケルンがレーテの支配下に
・1918年11月7日 バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位(バイエルン革命)、バイエルンがレーテの支配下に
・1918年11月8日 西部ドイツすべての都市がレーテの支配下に
・1918年11月9日 ベルリンでストライキが勃発、バーデン公マクシミリアンによる皇帝の退位の宣言、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンによる共和政樹立の宣言(ドイツ共和国の成立)
・1918年11月10日 多数派社会民主党と独立社会民主党の連合が成立(仮政府「人民委員評議会」の樹立)。ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。

と、こんな感じです。ちなみに一党員にすぎないシャイデマンが慌てて共和政樹立を宣言したのは、釈放されたリープクネヒトが社会主義政府の樹立を宣言しようとしていたから。

社会民主党は既に「自由主義色」を帯びていましたから、ロシア革命の象徴である「ソビエト」と同等の意味を持つ「レーテ」政府はそもそも受け入れ難いものです。ですが、党首であるフリードリヒ・エーベルトは、政権を維持することを求めて本来対立する構造にあった独立社会民主党との連合という選択を行いました。

ですが、そんな「独立社会民主党」の中には、より左派色の強い「革命的オプロイテ」というグループを抱えこんでいました。

社民党と独立社民党は連合し、「人民委員評議会」を樹立しますが、労兵(労働者と兵士)で構成されるベルリンの「レーテ」はこれに対し、「革命的オプロイテ」が半数以上含まれる「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出し、これに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」します。


「レーテ」の衰退

さて。そんな「レーテ」なのですが、執行評議会より、郡県市町村ごとに再編成することが指令されます。12月16日には「大レーテ大会」が開催されるのですが、大会を構成していたのは全国から489人の代表評議員。

そして、この代表評議員の半数以上(291名)は社会民主党系の評議員でした。

内心では「レーテ」による支配に反対している社会民主党と、レーテによる支配を確実なものにしようとする独立社会民主党でしたが、大会の結果、独立社会民主党の目論見はものの見事に「骨抜き」とされてしまいます。

大会では、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められます。

1919年1月19日に「国民議会選挙」が行われることが決定したのですが、議会が決定するまでの間、その「権力」が臨時政府に委ねられ、その監督を新設された「共和国中央評議会」が行うことになります。

ですが、その「共和国中央評議会」の監督権限はあってないようなもの。この事から、独立社会民主党は評議会への参加を見送り、そのすべてが社民党の評議員で構成されることとなりました。

もちろん、これは「社会民主党」の主張によって実現したものです。この時点で、まだ「スパルタクス団」は「独立社会民主党」の内部に存在します。


「ドイツ共産党」の結成

さて。ではこのような状況を、スパルタクス団の面々が「潔し」とするでしょうか?

もちろんそんなわけはありません。1918年12月24日、彼らは「ドイツ国際共産主義」と合同誌、1919年1月1日、ついに「ドイツ共産党・スパルタクス団」を正式に創設します。

この後、1919年1月5日、スパルタクス団による武装蜂起が行われるのですが・・・。

続きは次回記事に委ねます。


少し話題がそれるのですが、この回の記事を作成していて少し見えてきたことがあります。

それは、一連の「ドイツ革命」を主導した指導者たちが、軒並み「ユダヤ人」であったこと。ドイツの「民族主義者」たちは、自分たちが敗戦した原因は共産主義者やユダヤ人たちから、「背中から撃たれた」ことにあると考えるようになります。

そして、革命後の「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」では、「反ユダヤ主義」が高まることとなったのだそうです。

本シリーズ のテーマである、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」という疑問に対する答えが、少しだけ見えてきたように思いますね。



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<継承する記事>第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~
ドイツ社会民主党内部において、修正主義に対する歩み寄りを見せたベーベルやカウツキーら党指導部(中央派)と、これに迎合することができなかった「急進左派」の面々との対立が顕在化したのは1908~1910年にかけてのことなのだそうです。

第324回 等の記事で、私は「第二インターナショナル」のことを記事にしました。

この、「第二インターナショナル」が誕生したのは1889年7月のこと。ビスマルクが失脚したのが1890年3月のことですから、ビスマルクが失脚する、その前年のことになります。

マルクスら共産主義者が実際に参加してその設立にかかわった第一インターナショナルに比べると、第二インターナショナルはよりブルジョワ的で、「共産主義」というよりは、「社会主義」的な素養を備えています。つまり、ラッサール的な要素ですね。

第324回の記事は後に革命後のロシアのリーダーとなる「レーニン」が、当初目指していた第二インターナショナルの在り方として、「非暴力、反戦の姿勢」を記しています。

戦争に対する姿勢として、第二インターナショナルでは、1907年の「シュトゥットガルト大会」において、以下のように決議しています。
1 社会主義者は議会で軍備縮小と常備軍撤廃のために努力すべきである

2 関係諸国の労働階級は、戦争勃発を阻止するよう全力を注ぐべきである

3 戦争が勃発したならば、労働者階級は戦争の速やかな終結をめざして干渉するとともに、戦争によって引き起こされた危機を利用して、資本主義の廃絶を促進すべく全力をつくして戦うべきである

1912年に行われたバーゼル大会でも同様の宣言が行われ、特に3番の内容は、第一次世界大戦勃発後、スイスに亡命していたレーニンの「革命的祖国敗北主義」という考え方にも影響を与えています。

そして、対戦勃発当時、この第二インターナショナルを導く立場にあったのがドイツ社会民主党。ですが、このドイツ社会民主党が自国の帝国議会において戦争を支持し、政府に協力する方針を示しします。

これに仏、墺の社会主義者が続き、第二インターナショナルそのものが分裂することになりました。

つまり、第二インターナショナルが分裂したのはドイツの社会主義者たちのせいだったわけです。レーニンも批判していた部分です。

では、第一次世界大戦勃発を受け、ドイツ国内で社会主義者たちはどのような姿勢を示したのでしょうか?


第一次世界大戦勃発時のドイツ

前回の記事 でお伝えしましたように、この当時のドイツ社会民主党は、特に南ドイツにおいて同党の議員たちが自由主義者たちと連携するようになったことを通じ、ここで「修正社会主義」が醸造されるようになっていました。

世代交代が進み、かつてマルクス主義者たちがリーダーとして率いていたドイツ社会民主党は、「修正主義者」たちによって率いられるようになっていました。

かつてビスマルクによって「ナショナリズム」を煽られ、フランスに打ち勝った「自由主義者」たちです。第一次世界大戦勃発前夜の自由主義者たちの中には、あの時と同じような「ナショナリズム」が高ぶっていました。

ドイツ社会民主党は、この様な自由主義者たちと友好的な立場をとる政党へと姿を変えていました。


マルクスたちの幻影

マルクスやエンゲルスらは、ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」と定義づけていました。(根拠を調べる方法を現時点では保有していませんので、Wikiベースで記事を進めていきます。)

開戦時、皇帝であるヴィルヘルム2世は議会において、「余は党派なるものをもはや知らない。ただドイツ人あるのみだ」という演説を行いました。後に「城内平和演説」と呼ばれるようになった演説です。

「城内平和」とは、元々は中世のドイツで、「城壁内での私闘」を禁止する意味を持つ言葉だったのだそうです。

ドイツ社民党は、この言葉を受け、帝国政府の開戦を支持し、他党との抗争を停止しました。この事はドイツ国内のみならず、世界を驚かせたのだそうです。

Wikiには、社民党にこの姿勢をもたらせた理由として、前述したマルクスやエンゲルスらの「定義」があったのではないか、と記されています。


開戦後のドイツ社会民主党

社会民主党の前進の一つで、「マルクス派」であった「社会民主労働者党」。

この政党を結成したのは「ベーベル」と「リープクネヒト」であったわけですが、第一次世界大戦開戦の段階で、「ベーベル」は中央派、リープクネヒトは「急進左派」に位置していました。
※失礼しました。等を結成したのは「ヴィルヘルム=リープクネヒト」、急進左派に位置していたのは「カール=リープクネヒト」であり、両者は親子関係にあります。誤った記述、失礼いたしました。

私、第456回の記事 におきまして、開戦当初のドイツの「戦略」を記事にしました。

で、その「戦略」がいかにお粗末なものであったのかということも記事にしました。

ビスマルクがフランスに普仏戦争を吹っ掛けた時は、非常に綿密な戦略が練られていて、事前準備もかなり周到に行われていた事も記事にしました。そして、そんなビスマルク軍の快進撃に、あのマルクスさえナショナリズムに煽られて昂揚していたのだということも記事にしたと思います。

ヴィルヘルム2世がロシアに宣戦布告をした時の社会主義者たちの心境は、きっとあの普仏戦争当時と同じような心境だったのだと思います。

ですが、この時の大将はヴィルヘルム2世。参謀は小モルトケ。普仏戦争の時とは大違いです。

社会主義者たちは、対ロ、対仏戦争が普仏戦争の時のようにドイツの快進撃で終結するとでも思っていたのでしょうか?

ですが、現実は違いました。彼らはドイツ軍の「圧勝」を期待してヴィルヘルム2世の開戦の意思を支持したわけですが、いざ蓋を開けてみると、現実は全く違っていたわけです。

最初はヴィルヘルム2世を支持していたくせに、どうも雲行きが怪しいと感じると、彼らは手のひらを返すように議会と対立し、「場内平和」を批判し、党の指導者として「中央派」を構成し、修正主義者たちと和合しようとしていたカウツキーだけでなく、「修正主義」を訴えて自由主義者たちと連携する姿勢を示していたいたはずのベルシュタインまでもが党内の方針に対する「反対派」へと加勢するようになりました。

ですが、この段階でもまだ「反対派」は少数派で、多数派であった党の指導者たちは、この「反対派」たちに対する締め付けを強化し、「反対派」の急先鋒であった「フーゴー・ハーゼ」らは1916年3月24日、戦争のための予算の成立に反対したことを受け、社民党から除名されることになります。

ハーゼ

リープクネヒトも1916年に社会民主党を離脱したとありますので、おそらくこの時に離脱したのではないかと思われます。


スパルタクス団の結成

後に「ドイツ共産党」へと姿を変えるスパルタクス団ができるのはこの頃です。

ややこしいのですが、第一次世界大戦開戦後のドイツ社会主義者として、様々な人物の名前が登場するのですが、そのほとんどが「ドイツ社会民主党」の「党員」です。

ですが、必ずしも「議員」であるとは限りません。そんな「社会民主党党員」の一人が「ローザ・ルクセンブルク」です。

ローザ・ルクセンブルク

彼女は元々ロシアの属国であった「ポーランド立憲王国」の出身。1898年、彼女はドイツ人と「偽装結婚」することによってドイツ市民権を取得し、ドイツに移住してきます。

ここで彼女はドイツ社会民主党に入党し、前述した「急進左派」の筆頭として活動することとなります。彼女の行動を見ていると、根っからの「マルクス主義者」であることがよくわかります。

彼女は修正主義者であるベルシュタインと対立したときも、「プロレタリアートによる独裁」が必要だと訴えていますし、ベルシュタインらと歩み寄りを見せた指導者であるカウツキーとも対立します。


少し国家をまたぎます。彼女がドイツへと移住してきたのは1898年の事。その6年後、ロシアでは「ロシア第一革命」が勃発します。

レーニンらが姿を見せ始めるのもこの頃で、1907年、彼女はレーニンと初対面することになります。ちなみに、前半でお示しした「シュトゥットガルト大会」における決議の決議案を考えたのはローザ・ルクセンブルクとレーニンです。

決議案は、反戦を訴える内容であり、彼女はその後も、戦争の危機が近づいていることへの確信を深めており、等に対して「ゼネスト(ゼネラルストライキ)」を組織するよう要求するのですが、これを党指導部に拒否されます。

「ゼネスト」を全国的に組織することで、政府の方針に対していわゆる「職務放棄」を行う労働者を組織的に拡大しようと考えていたんですね。

私の個人的な意見ですが、途中、マルクスやエンゲルスらが、

『ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」』

だと定義づけたことをお話ししました。ですが、おそらくそれはビスマルクがまだ健在であった時代のことだったのではないでしょうか? 実際、マルクスが死亡したのは1883年3月14日、エンゲルスは1895年8月5日ですから、第一次世界大戦が勃発した時点で、両名は既に他界しています。

「ロシア帝国のツァーリズム」といいますが、その当時、ドイツも「帝国主義」という形態をとっていました。第一次世界大戦開戦時と異なるのは、その当時のドイツには「ビスマルク」がいたということ。

ビスマルクが健在であれば、おそらく彼は「第一次世界大戦」などという愚かな戦争を引き起こすことはなかったはずです。

ヴィルヘルム2世の「世界政策」こそまさに「帝国主義」そのものであり、マルクスやエンゲルスらが批判した「ロシア帝国主義」と全く同じ性格を持っていたのではないかと思います。

私は社会主義者ではありませんし、マルクスやエンゲルスらの考え方を肯定するわけではありませんが、少なくとも「社会主義者」の立場に立って考えるとするならば、マルクスやエンゲルスらの「定義」がまるで「思想」のようにして自由主義者と連携した社会主義者たちに「開戦」の決議を支持させたのだとすれば、それは非常に愚かなことだったのではないか、と思います。

そのくせ、ドイツにとって形成が不利になったと見るや否や、手のひらを反して反戦を訴え始める。あまりにも身勝手すぎるのではないでしょうか。

そういった意味で、ローザ・ルクセンブルクの姿勢は一貫していて、マルクス主義的な「暴力革命」を起こすことを意図さえしていなければ、決して非難されることでもないように思います。


「グルッペ・インターナツィオナーレ」の結成

英語的に表現すれば、「グループ・インターナショナル」ということでしょうか。「スパルタクス団」のことです。

ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトら、社会民主党左派は、第一次世界大戦開戦直後、この「グルッペ・インターナツィオナーレ」を結成します。

このグループが、どういった性格を持っているのかということは、何となく想像できるかと思います。

ローザ・ルクセンブルクはたびたび投獄されるのですが、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は、彼女が獄中で起草した方針に従い、非合法の冊子を刊行することを決定しました。

その冊子の名前が「スパルタクス書簡」。「スパルタクス」とはグルッペ・インターナツィオナーレメンバー共有のペンネームで、「共和政ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士」の名前です。

この事から、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「グルッペ・インターナツィオナーレ」という名前ではなく、「スパルタクス団」という名前で知れ渡るようになりました。


「ドイツ独立社会民主党」の結成

一方、プロレタリアートによる独裁を訴えるスパルタクス団の面々とは別に、フーゴー・ハーゼら社会民主党を除名された面々は、「社会民主協働団」という、新たなる議員団を結成しました。彼らは、「急進左派」とも対立する構造にあり、中央派の中でも「平和主義的中央派」という位置づけにあったようです。

文面から読み解くに、ハーゼらは「社会民主党議員団」からは除名されたものの、「社会民主党党員」としての党籍は保有していたということでしょうか。そのうえで、同じ「社会民主党の議員」でありながら、新たに「社会民主協働団」という議員団を結成したと、そういうことだと思います。

1917年1月7日にも、今度はカウツキーらが「反対派」として除名されており、この時彼らは、新たに「ドイツ独立社会民主党」という政党を結成しています。

先に除名されたフーゴー・ハーゼのページを見てみますと、「ドイツ独立社会民主党」を結成したのは彼で、彼が党首に就任したことになっていますので、「社会民主協働団」がカウツキーらを吸収した形になるのでしょうか。

ハーゼ自身は、開戦直後に戦争に反対する声明を発表していたようで、彼が戦時予算への賛成票を投じたのは、「党議拘束に従った」と記されていますね。


まとめ


大戦中、「スパルタクス団」と「ドイツ独立社会民主党」という二つの「社会主義勢力」が誕生したわけですが、実際に革命につながる「レーテ蜂起」を起こしたのは彼らではなく、キール軍港の軍人たちでした。

ドイツの社会主義運動って、意外と「拍子抜け」する部分が多いですね。

次回記事では、第一次世界大戦の終戦~終戦後の社会主義の動向を見ていきたいと思います。




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