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第242回 ABCD包囲網に至る日本とオランダの経緯/日蘭会商

前回の記事 では、ABCD包囲網に至る日本とオランダとの関係性について、欧州にて第二次世界大戦が勃発する直前までの様子を検証してみました。

欧州にて第二次世界大戦が勃発するのは1939年9月のことになるのですが、この時日本は既に中国との間で「日中戦争」が開戦した状態にありました。

日中戦争の開戦は1938年8月のことですから、日本は中国との間で2年以上にわたり戦闘行為を繰り広げる状況にありました。
この間、国際連盟においては蒋介石の捏造データに基づく日本への非難決議が採択され、日本に対する経済制裁の正当性がすでに認められる状況にもありました。

ですが、この期間も日本とオランダとの間では、オランダ領東インドを通じて正常な貿易が行われる状況にあり、日中戦争の開戦に伴って蘭印から日本への輸出量が減少する状況においては、むしろオランダ側から日本に対して、「もっと輸入してくれよ」と抗議があるような、このような状況にありました。

仏印に対して進駐を行った主目的は飽くまでフランスから蒋介石軍に対して行われていた支援を中断させることがその目的にあったのであり、蒋介石軍に対する支援を行ってなどいなかったオランダに対して仏領と同様の施策を施す必要性など元々ありませんでした。


では、この様に元々良好であったはずの日蘭関係が、「ABCD包囲網」という呼称を用いて日本が直接オランダを非難するまでに至った経緯は、一体どのようにして形成されたのでしょうか。

オランダ領東インド

改めまして、こちらがオランダ領東インドです。
ドイツがポーランドに侵攻し、欧州で第二次世界大戦が勃発します。

オランダはドイツがポーランド侵攻を行う直前に「中立宣言」をしており、枢軸国側にも、連合国側にも与しないスタンスを取っていました。

ですが、日本とすればドイツがオランダにまで侵攻してしまいこの情勢によって、オランダ領東インドまでもが影響を受け、蘭印と自由に交易ができなくなってしまうことだけは避けたいわけです。

この事から、日本は欧州戦が開戦した時点で、オランダに対して、仮にオランダがドイツによって侵攻され、ドイツの占領下に置かれたとしても、日本はオランダ領東インドに対して侵攻したりすることなく、オランダの領土として承認し続けることをオランダとの間で「条約」として取り交わすことを提案します。(この時点ではまだ日独伊三国同盟は締結されていません)

ですが、オランダとしては既に「中立国」としての立場を明言していますから、どこかの国に与するような態度を示すことを良しとせず、条約の締結を希望しない、とする旨を日本側に回答します。

この時の欧州の地理的な情勢を掲載します。

ポーランド侵攻

こちらはポーランド侵攻を解説する際にも用いた地図です。
青いエリアが所謂枢軸国側の領土。緑がソ連、赤が連合国側です。

赤いエリアと青いエリアに挟まれた白いエリアがあります。
オランダ
こちらは現在の世界地図ですが、濃い緑色の部分がオランダです。
先ほどの地図の白いエリアの内、北側。イギリスの右下のエリアがオランダです。

オランダの真下にベルギーがあり、ベルギーも白色で表されています。

個人的には、オランダって改めて考えると、こんなにちっちゃな国だったんだな・・・というのが正直な印象です。

ちなみに、
ノルウェー
こちらがノルウェー。

デンマーク
こちらがデンマークです。


話を本筋に戻します。
昭和15(1940)年4月9日、ドイツがこのノルウェーとデンマークにも侵攻します。

オランダとベルギーが風前の灯火・・・となった時点で、当時の日本の有田外相は、

 「欧州戦争ノ激化ニ伴ヒ蘭印ノ現状ニ何等カノ変更ヲ来スガ如キ事態ノ発生ニ就イテハ深甚ナル関心ヲ有スル」

という声明を発表します。要は、

「ヨーロッパ戦線の情勢が激しくなり、その影響がオランダ領東インドにまで及んで、蘭印にまでなにがしかの影響が及ぶようになんじゃないかと、私はとても心配しています」

といったような意味合いです。ただ、「深甚ナル関心ヲ有スル」という表現は、読み方によっては

 「蘭印の現状になにがしかの変化が起きるんじゃないかということに、日本はとても深い関心を抱いている」

とも読み取れるわけで、米国のマスコミは、この声明について、

 「日本が蘭印を支配する意図を婉曲に述べたもの」

との報道を行います。
勿論これは有田外相の意図するものではなく、堀田米国大使はは米国のコーデル・ハル国務長官に対して、

 「ハルは日本の新聞の一部には蘭印に対する経済上の独占的利益を主張しているとの印象を持つが,そのような主張は黙認できない」

との抗議を行います。

再記しますが、仏印については元々日本がフランスに対して蒋介石に対する支援をやめるよう再三申し入れていたにも拘わらず、フランスが支援を行い続けていたことにそもそもの問題があったのであって、フランスと交渉し、日本軍を駐留させることができる関係を作ることにそもそものメリットが存在しました。

ですが、オランダと日本は元々良好な関係性が築けており、相手の弱みに付け込んで、態々蘭印に兵力を割くことに、日本とするとなんのメリットもないわけです。ただ、前提条件としてあくまでもオランダがこれまでの通り日本と中立の立場で交易を行い続けてくれるのならば、ですが。

ですから、当時の米国報道のような印象操作を行われることは、日本にとって望むべくものではありませんでした。
一方で日本側としては、逆に欧州情況の変化を受け、蘭印との交易が断たれるような事態になる事は絶対に避けたいわけです。

5月10日、ついにドイツ軍はオランダとベルギーに侵攻します。有田外相は翌11日,蘭独英仏の各国政府に対し蘭印の現状維持に関する日本の意向を通報しました

日本側としては、オランダが占領下におかれ主権を失ってしまう前に、なんとしても蘭印における資源の対日供給を継続してもらえるよう、その確約を取り付ける必要がありました。

ですが、戦乱の為、オランダ政府との間で確約を取り付けることが確認できない状況にありましたので、日本はパブスト蘭公使との間で石油・ゴム・錫等13品目の蘭印産重要物資の一定量の対日供給を確約する書面を取り付けました。


さて。この一連の日本とオランダとのやり取りについて、例えばWikipediaでは、以下のような掲載がされていました。
日中戦争の拡大、日米通商航海条約の破棄宣言(1939年7月26日、1940年1月26日失効)、ナチスドイツによるオランダ本国侵攻(1940年5月10日)などを受けて蘭印との経済関係の維持・確保に迫られた米内内閣は、5月11日に蘭印の現状維持を宣言するが、同月20日は蘭印に対して見返りとして重要物資13品目の輸出拡大を要請した。

特に石油・ゴム・錫などの軍需物資の確保は日本にとって至上命令であった。

確かに最終行、「特に石油・ゴム・錫などの軍需物資の確保は日本にとって至上命令であった」という記述についてはその通りだと思います。

ですが、「5月11日に蘭印の現状維持を宣言するが、同月20日は蘭印に対して見返りとして重要物資13品目の輸出拡大を要請した」という表記についてはいかがなものでしょう。

まるで

 「日本はオランダがドイツに占領された後も蘭印の現状維持を認めてやる。その代り、見返りとして重要物資13品目の輸出拡大を確約しろ」

とでも脅して決定したかのような印象がありますが、当時の現状としては、逆にオランダ側が欧州の情勢の変化に伴って日本との取引を中止するのではないか、ということを日本側が危惧していた様子が受けて取れます。

ですので、実際には

 「たとえドイツに占領されたとしてもオランダさん、態度を変えたりするようなことはせず、今まで通り日本と貿易を続けてくださいね」

と日本側から懇願している様な印象を受けます。その確約として、「輸出拡大」というより、重要物資13品目を今で通り継続して輸出しますよ、という約束を取り付けたというのが本当のところなのではないでしょうか。


さて。ここまでは良し。時期は1940年6月6日です。
1940年5月17日の時点で、オランダはドイツの占領下にあり、日本はイギリスにあるオランダの亡命政府との間で交渉を続けました。

この様な情勢を受けて、「日本国内では,蘭印における日本の経済的・政治的な優越地位を確立するため,蘭印に特使を派遣して交渉すべしとの意見」が強まります。

ここまでの段階で日本側のトップは米内内閣総理大臣。
好戦的に、日独伊三国同盟の締結へと突き進む陸軍主導内閣を憂慮し、昭和天皇が名指しで推挙し、総理大臣となった人物です。

米内内閣では、オランダとの再交渉へ向け、人員の選定が行われました。

ところが、畑陸軍大臣の辞任に伴い、米内内閣は総辞職に追い込まれ、結果誕生したのが近衛内閣。(第240回記事 参照)

この後、世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱 が決定され、日本は仏印進駐をスタートします。

オランダとの交渉が行われる中で、9月27日、日本はついに日独伊三国同盟を締結します。
オランダと日本との関係性がぎくしゃくし始めるのはどうもこのころからですね。

次回記事では、この後、オランダと日本との間の交渉の進展を追い、「ABCD包囲網」の完成までの経緯を検証してみたいと思います。


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第241回 「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」の経緯/仏印進駐の経過から

そもそもの観点で考えますと、日中戦争(日華事変)の位置づけとして、日本は現地に居住する邦人と法人企業を保護することを目的とした「自国防衛のための手段」として戦争を継続していたわけですが、アメリカはこれを「侵略行為」、特に自国がアジア大陸に保有する権益に対する「侵略」としてとらえていました。

日本が守ろうとしていたのは自国民の「命」と「財産」であったのに対して、米国が守ろうとしたのは自国政府の現地における「権益」でした。

この違いは大きいと思います。英国は、当初こそ日本に対する非難決議案に同意したわけですが、特にチェンバレン首相の時代、天津英租界封鎖事件を通じて日本側と交渉を行い、有田・クレーギー会談において日本に歩み寄る姿勢を見せています。

日本の一貫したスタンスは、

「私たちは欧米各国の権益を脅かすつもりなどこれっぽっちもない。だけど、これ以上蒋介石軍を支援し続けるつもりなら、相応の対応はさせてもらう」

というスタンスだったわけです。

ところが、米国は一貫して蒋介石軍に対する資金援助を行い続け、状況が日本に対して有利になるたびに経済制裁を課し続けました。

一方イギリスは、1940年6月、やはり有田・クレーギーの間で行われた交渉において、援蒋ルートの3か月間の停止を約束するわけですが、その3カ月後。日本の北部仏印進駐完了、および日独伊三国同盟締結を受けて援蒋ルートの停止を中止し、再び蒋介石軍に対する支援をスタートさせます。

この部分について、私、チェンバレンの後を引き継いだチャーチル首相のことを調べていたのですが、少し注目したい側面が出てきましたので、この部分については後日記事にしたいと思います。

日本が蒋介石軍を殲滅させようとした最大の理由は、蒋介石軍の赤化、つまり共産化にあったわけで、中国を日本の統治下に置き、ここで日本流の教育を施さない限り、日本は常に対岸に「共産主義」という脅威を抱え続けることになります。

これを放置すれば、いずれ日本は日本本土においてこの共産主義=ソ連と対峙せざるを得なくなるわけで、このことは図らずも第二次世界大戦後のアジアにおいて証明されることとなりました。

当時のアメリカやイギリス、そしてフランスが支援し続けていた中国とは、それほどの危険性を保有する勢力であったということを忘れてはならないと思います。これにたった一国で立ち向かった日本は、考えてみれば本当にすごかったんだと思います。

単独でこれらの国々に立ち向かうリスクを回避すべく、ドイツやイタリアと同盟を結んだことも、必然といえば必然だったのかもしれません。


さて。それではこれまでまったく姿を見せていない、もう一つの国、「オランダ」。
後に「ABCD包囲網」の一角として名を連ねるこの国ですが、では日本による仏印進駐が問題となった頃、オランダと日本は一体どのような関係にあったのでしょうか。


オランダ領東インド

【オランダ領東インド】
オランダ領東インド

今回の舞台となるのはこの「オランダ領東インド」。
有名な「東インド会社」が設立されたのもこのオランダ領東インド=現在のインドネシアになります。

こうやって地図を見ながら地図を作っていると、このあたりの事情が分かってきますね。
恥ずかしながら、「東インド会社」が作られたのは私、現在のインドの東部あたりだとばかり思っていました。

オーストラリアは正しく「対岸」になるんですね。
改めて地図を使ってこのあたりの関係性をおさらいしてみたいと思います。

蒋介石政権の拠点である重慶がここ。
重慶

フランスがハイフォンから重慶に支援物資を送っていた雲南省がここ。
雲南省

そのハイフォンのあるフランス領インドシナがここ。
フランス領インドシナ

日本が進駐した北部仏印がこのあたり。
北部仏印

そのフランス領インドシナと戦争したタイがここ。
タイ

そして今回舞台となるオランダ領東インドがここです。
オランダ領東インド

マレーシア、フィリピンを挟んで仏印の真向いということになりますね。
この地がなぜ問題になるのかというと、このオランダ領東インド。この当時のアジアでは最大の石油産出量を誇っていたんですね。

日中戦争がスタートし、アメリカからの経済制裁が加速する一方で蒋介石軍には米英仏から続々と支援物資が届けられる中、日本軍はこのアジア最大の産出量を誇るオランダ領東インドの存在に目を付け、オランダとの間で交渉により石油資源の獲得を目指すようになりました。


日蘭会商

この、オランダ領東インドにおける日本とオランダの関係性を探るには、時代を世界恐慌直後。欧州各国によるブロック経済政策が行われた時代 にまでさかのぼる必要があるようです。

第147回の記事 にも記しています通り、高橋是清の経済政策によって日本は世界のどの国よりも早く世界恐慌の影響から脱却していました。

この事から、この当時のオランダ領東インドでは、日本から蘭印に向けての輸出が大幅に増加する様になり、日本からの輸入量が輸入額全体の1/3を占めるまでになりました。

この事を憂慮したオランダは、日本から蘭印への一部輸出品目に対して輸入制限をかけます。
この事態に対して日本がオランダとの間で交渉をスタートしたことが蘭印における日蘭交渉(日蘭会商)の始まりです。(1933年12月~1934年12月)

輸出制限をかけたいオランダに対して、日本は逆に「輸出拡大」を要求するなどしたため、交渉は一時決裂するものの、1936年6月8日に『日蘭海運協定(海運会社の間で積荷に関する合意)』が成立し、1937年4月9日には石沢・ハルト協定が成立します。

【石沢・ハルト協定】
一、本邦側は蘭印砂糖を可及的多量に買付ける

二、蘭印側は本邦品の蘭印輸入を昭和八年度の実績を基準として輸入割当を行い、従来の輸入制限令を可及的に撤回乃至緩和する

三、邦商取扱い比率は最高二割五分の現制度を存続し、二、三の商品に対しては最高三割を許与する

四、神戸在住の蘭人輸出商は日本側輸出組合に加入するよう両国政府は側面的に援助する

五、協定期限は昭和十三年(1938年)末まで

ところが、1937年に日中戦争が勃発したことにより、蘭印から日本への輸出が減少し、オランダがこれに対する抗議をを行います。(1938年4月)

日本に対して、もっと蘭印の物資を輸入しろ、と言ってくるんですね。
オランダ公使より「蘭印物産の輸入制限緩和」の要求が、同年12月には「蘭印物産14品目の輸入斡旋」の要求がなされます。

これに対して日本は、1939年3月、「石沢・ハルト覚書の精神に従って対応する」との方針を示します。


この様な状況を見ると、どうも他の米英仏と比較して、日本とオランダとの関係は非常に友好的なものがあったことが分かります。

一つの国と国として、日本はオランダとの間で信頼関係を築き、日中戦争が勃発した後もその信頼関係は損なわれていません。
問題になるのはその後、欧州にて第二次世界大戦が勃発して後のことになるようです。

記事が少し長くなりますので、一旦記事を分けます。


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第240回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」②

時代が「現代」に近づけば近づくほど、私たちが入手できる情報の量も増え、どの情報が本当に正しいことを言っているのか。登場人物も、その所属するグループも数が増え、またより具体性を増します。

またここには計算式で簡単にはじき出すことのできない「感情」の問題もあるので、日本が米英と開戦するに至った経緯が果たして本当はどうであったのか。これを知ることは本当に難しい作業だと感じています。

整理しますと、

1.日中戦争は蒋介石軍が民間人の居住する日本の上海租界を3万の軍で包囲、逃走経路を封鎖した上で銃撃を行ったことにより始まった。(1937年8月12日)

2.蒋介石が上海日米欧共同租界・フランス租界を空爆(1937年8月15日)し、この様子を撮影した映像を「日本の仕業である」として国際連盟に提出したことで日本が欧米から経済制裁を受けることが正当化されてしまった。(1938年10月)

3.日本軍が蒋介石軍との戦闘を繰り広げる中で、英・仏・米は蒋介石軍によって数多くの民間人を虐殺された日本ではなく、戦争を仕掛けた側の蒋介石軍に対する支援を行い続けた。

4.一方、日本は同じ時期に北方にてソ連とも紛争を繰り広げる関係にあった。

5.「対共産」という共通の目的の下、日本はドイツと同盟関係にあったが、ポーランド侵攻をめぐってドイツはソ連と不可侵条約を締結。「アメリカ」という脅威に対抗するため、日独伊蘇の4カ国による同盟を締結する実現性がにわかに現実味を帯び始めた。(1939年8月23日)

6.そんな中、欧州にて第一次世界大戦が勃発。フランスがドイツに敗北(1940年6月17日)したことにより、フランスがフランス領インドシナから蒋介石軍への支援を停止することを約束し、また日本が北部仏印に進駐することに対して承諾を得ることができた。(6月19日)

7.日本が北部仏印進駐を完了させる(1940年9月23日)とほぼ同時期に、日本はドイツ・イタリアとの間で「日独伊三国同盟」を締結する。(1940年9月27日)

8.日本はソ連との間で日ソ中立条約を締結。(1941年4月13日)

9.日本の外相である松岡は、「日独伊蘇」による四国同盟を締結することを想定していたが、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始し、松岡の構想はもろくも崩れ去ることになる。(1941年6月22日)

10.御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される。(1941年7月2日)

とここまでが前回までの記事において私が記事に掲載した内容をまとめたものになります。

今回の記事では、このうち7番。日本が北部仏印進駐を完了させた後のフランス領インドシナでの動きから記事にしてみたいと思います。


タイ・フランス領インドシナ紛争

タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発したのは1940年11月23日。

前提条件として、タイは1893年に勃発した仏泰戦争により、

 「仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオス」
 「フランス保護領カンボジア(英語版)のバッタンバン・シエムリアプ両州」

という二つの地域をフランスに割譲させられていた、ということ。ここから話はスタートします。

日本はフランスとの間で話し合いによりフランス領インドシナへの進駐を完了しましたが、フランスは元々武力によってフランス領インドシナを制圧し、統治下に納めていました。

話し合いによってフランスに進駐した日本のことを米英は「侵攻」であると非難しましたが、武力によってこの地域を占領したフランスに対しては何も非難しないという・・・。だったら自分たちが武力によって占領したすべての地域を返還してから言えっていう話です。

話を元に戻します。

フランスがドイツに敗れ、ドイツの傀儡ともいえるヴィシー政権が誕生し、一方で日本が北部仏印進駐を完了した事を受け、前記した通り、1893年に勃発した仏泰戦争によって自国領土を分割させられていたタイは、フランスヴィシー政権に対して、改めて自国領土を返還するよう要求します。

ヴィシー政権はこれを拒否し、タイと仏印との国境付近で小競り合いが頻発するようになります。

タイ
↑こちらが現在のタイです。外務省HPから画像を引っ張ってきました。

タイ仏印紛争
↑こちらはタイと仏印の間で領土問題が発生したエリア。タイ・フランス領インドシナ紛争の後、タイが取り戻す領土です。
色のついているエリアの下側、白い部分が現在のカンボジア。

北部仏印
↑こちらは日本が進駐を行った北部フランス領インドシナ。画像は 世界史カレンダー様サイト より拝借しました。

日本が進駐したエリアはラオスの上2/3辺りまでですから、今回争いが発生したのは「南部フランス領インドシナ」ということになりますね。

1940年11月23日、タイが仏印に対して空爆を行ったことから開戦となります。
両国の紛争を終結させたのが日本。

この時点で、アジア地域で「独立国」と呼べるのはタイと日本の2カ国のみ。一方フランスとは仏印問題に絡んでお互いに協定を結び、少なくとも表面上は「友好国」と呼べる存在でした。

この両国がいつまでも争いを続けることを懸念した日本が停戦を斡旋し、二見甚郷駐タイ公使がタイから公式に受け取った調停依頼文書をフランスに渡し、フランスがこの内容を受諾したことで1941年1月21日、双方は停戦と相成ります。

結果、上地図にある領土を日本はフランスからタイに返還させました。(第二次世界大戦後、ラオスとカンボジアが独立し、この領土はラオス・カンボジア領土となります)


日本とアメリカの関係

では、ここで改めて米国が ルーズベルトの隔離演説 以降、日本に対して行ってきた経済制裁について、順を追ってみてみたいと思います。

1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」

1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告

1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。

1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効

1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制

1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)

1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立

1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制

1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸

1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制

1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制

1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令

1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

経過を見てみますと、1939年7月に行われた米国からの日米通商航海条約破棄の通告は、同年6月より日本と英国との間で、有田・クレーギーによる外交交渉が行われている最中。次第に日本に譲歩するイギリスに対する牽制の意味合いも込められたものでした。

名目は「日本の中国侵略への抗議」でしたが、既に何度も述べていますように、そもそも日本に対して戦争を仕掛けてきたのは中国ですし、特にこの「抗議」を正当化する国際連盟での決議は蒋介石の提出した捏造資料を基に行われた日本に対する非難決議がベースとなっていました。

何より日中戦争は中国内に潜む共産主義勢力からの度重なる残虐な行為と挑発に業を煮やしてのもの。とても「侵略」と呼称できるようなものではありませんでした。

何より本当に「侵略」を行ってきたのは、中国と国境を接してさえいない欧米各国の方であり、自国の存亡を脅かす程の身の危険を感じる状況にないにも関わらず中国やインド、東南アジア等々を支配下に置いてきた自分たちの侵略行為は棚に上げて行われた「抗議」であったことを忘れてはならないと思います。

野村吉三郎外務大臣の度重なる交渉努力にも関わらず、1940年(昭和15年)1月26日、同条約は失効。この結果、日本は自国資源をほぼ全面的にアメリカに対して依存しているにも関わらず、米国との間でその取り決めが何一つない、「無条約状態」となってしまいます。


日本占領下における北支の状況

盧溝橋事件以降、広安門事件に於ける第29軍からの攻撃 を受け、北京への総攻撃を決定、陥落させた日本軍(1937年7月29日)は、1937年12月14日、北京に於いて湯爾和を首相とする「中華民国臨時政府」を設立させます。既に日本と友好関係にあった「冀東防共自治政府」もここに吸収されます。

1940年3月30日、南京に汪兆銘による南京国民政府が設立され、中華民国臨時政府はここに吸収されるわけですが、汪兆銘政権は日本の後ろ盾によって成立した政権であり、米国は汪兆銘政権を非難し、呼応して蒋介石軍に対して2000万ドルの借款供与を行います。

考えてみればこの時点で、日本軍の支援する汪兆銘政権V.S.米英の支援する蒋介石政権という対立構造が出来上がっていたんですね。

フランスがドイツに敗北し、日本と仏印の間で仏印進駐に対する交渉がまとまったのが6月19日。
これを受けて米国は特殊工作機械等の対日輸出を許可制にする、という制裁措置を講じます。

これが実際に公布されるのが7月2日で、このことで日本は

 兵器、弾薬、軍用器具、主要原料26種、化学製品11種、工作機械等

の輸入を「許可制」とされてしまいます。このことによって、日本はこれらの資材を米国から自由に輸入することができなくなってしまいます。

また、「基本国策要綱」が閣議決定(1940年7月26日)され、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」が大本営決定 されるのが7月27日。

これを受けて航空用燃料や屑鉄等が許可制項目に加えられます。
ここまでくると、資源を完全に米国に依存している日本としては、手足を縛られた状態で胸倉を突き上げられたに等しい状態ですね。

同年9月、日本の北部仏印進駐の完了、および日独伊三国同盟締結を受けて屑鉄の輸出全面停止、となります。
実はこの屑鉄の全面輸出停止、タイと戦争状態にあったフランス領インドシナに対しても同様の制裁が加えられています。

様々なサイト等での記述を読んでいて、「実際に日本が石油の輸出を全面的に停止されたのは日本が南部仏印進駐を行った後だ」という記載を多く見かけましたから、日本があそこまで強硬に南部仏印進駐を行った事に違和感も覚えたのですが、ここまでの制裁の経緯を振り返ると、確かに南部仏印進駐が選択肢に入ったことは理解できなくもありませんね。


次回記事では、ABCD包囲網のもう一つの国、「D=オランダ」についても調査を進めてみたいと思います。


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第239回 日独伊三国同盟の締結と「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」①

日独伊三国同盟

第238回の記事では、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定されるに至った経緯について、まずはタイ・フランス領インドシナ紛争から記事にすることを考えていたのですが、それよりも先に、まずは日独伊三国同盟から記事にしてみたいと思います。

というのも、この「日独伊三国同盟」が締結されたのは1940年9月27日。

日本の北部仏印進駐とほぼ同時期であることがその理由です。

アメリカが日本に対して態度を硬化させた理由の一つはこの日独伊三国同盟の締結にあり、日本が「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を決定した理由の一つとして、このことはなにがしかの影響を与えているのではないか、と考えたわけです。

背景として、日本国内では1936年2月に勃発した2.26事件を受けて、陸軍(統制派)の発言力が高まる状況にあったこと。

また、同じ1936年11月、日本はドイツとの間で「日独防共協定」を締結しており、「対ソ」という共通の敵国をめぐって、お互いに協力しあえる関係にありました。

翌1937年8月に第2次上海事変が勃発し、日中が全面衝突するわけですが、日本は、実は満州事変依頼、ソ連とも満蒙国境付近において度々紛争を繰り返していました。

考えてみれば、日本が中国を自国の影響下に収めようとした最大の理由はソ連の南下を阻止することにありましたから、当然と言えば当然かもしれません。何度か紛争が繰り返される中で、最も規模が大きかったとされるのが「ノモンハン事件」と呼ばれる国境紛争です。

ドイツと日本は、「日独防共協定」を結んでおり、同盟関係にあったはずなのですが、1939年8月23日、なんとそのドイツがソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結してしまいます。

具体的な詳細はここでは追及しませんが、その目的の中の一つに、「ポーランド侵攻」の問題がありました。

【第二次世界大戦勃発時のポーランド】
ポーランド侵攻

青がドイツ、緑がソ連。
薄い青色の部分と薄い緑色の部分がポーランドです。

第二次世界大戦は、ドイツとソ連がこのポーランドという国に攻め込んだところからスタートしました。

独ソ不可侵条約を双方が締結した時、密約として、双方はポーランド分割統治に合意していたんですね。
ただ、結果としてソ連は日本とポーランドを両方相手にするのは得策ではない、として日本からの停戦合意内容に応じ、日本とソ連は1941年4月、「日ソ中立条約」を締結することとなります。

このことで、ソ連から中国への援蒋ルートは途絶えることとなりました。

停戦協議は1940年6月9日には大筋合意が行われており、世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱 において、日本の外交政策として、

 「先づ対独伊蘇施策を重点とし、特に速に独伊との政治的結束を強化し、対蘇国交の飛躍的調整を図る」

とあるのは、日本・ドイツ・ソ連・イタリアの4カ国が同盟関係を結ぶことによって、アメリカの脅威に対抗しようとしたんですね。
1940年9月27日、日独伊三国同盟を結成させた後、日本はさらにソビエトとも同盟関係を築くことにより、「ユーラシア枢軸」を形成し、アメリカを第二次世界大戦に参戦させないことを目的としていました。

ドイツの外相であるヨアヒム・フォン・リッベントロップも同じ考え方を持っていたのですが、ナチスドイツの総統であるアドルフ=ヒットラーは逆にドイツの勢力拡大の為、ソ連攻略は欠かせないと考えており、1941年6月22日、突如としてソ連侵攻を開始し、松岡の構想はものの見事に砕け散ってしまいます。

ドイツはポーランドを挟んでソ連と対峙していたわけです。
ポーランド侵攻

ソ連と共同でポーランドを攻略してしまえば、「ポーランド」という壁がなくなり、ソビエトへの侵攻もやりやすくなります。
おまけにソ連は油断していますから、より有利に戦えるという算段・・・。

ドイツとソ連の関係が悪化した理由の一つとして、ソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出した、という状況もあったようです。

結果的にドイツと連携したことはアメリカの反感を買っただけで、アメリカとの開戦が俄かに日本軍の視野へと入ってくることになりました。

ちなみに松岡に対して三国同盟を締結させるよう煽ったのは日本陸軍。
その結果定められることとなったのが「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」です。


ドイツがソ連に進行をスタートするまでの間、松岡の頭の中には、アメリカが主導する「アメリカブロック」、ナチスドイツが主導する「西欧ブロック」、ソ連が主導する「ソ連ブロック」、そして日本が主導する「東亜ブロック」の4つのブロックに世界を分けて分割して統治することで「世界国家」を形成することができると、そう考えていたようです。

実際どのような状況になるかはさておき、ドイツの裏切りさえなければ、半ば近しい状況が形成されていたことは必ずしも否定できるものではありません。

この時点で日本は、中国戦において莫大な軍事費を割いており、北に再びソ連を見据えた戦略形成を余儀なくされたことで、俄かに「資源」の問題が急速に大きな意味合いを持ち始めました。

この時、外相である松岡は、たとえ中立条約を破棄してでも同盟国であるドイツを支援する名目でソ連に進行する「北進論」を主張したのですが、政府や陸軍側は、昭和天皇まで含めて松岡のこの「北進論」に反対し、代わりにフランス領インドシナ南部への進駐、所謂「南進論」を主張したとのこと。

この後日本は英米からの反発を買い、石油輸出の全面ストップという制裁を受け、日米・日英開戦へと突き進んでいくわけです。

しかし、ここまでくると私にもわからなくなってきました。
勿論、日本が中国との「日中戦争」を開戦するに至った経緯は十分に理解できます。

蒋介石がねつ造した情報を真に受け、日本に対する制裁を正当化した国際連盟。これを下に日本に対して経済制裁を課してきた米国。

ドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦がスタートした時、日本の首相は米内光政(よない みつまさ)という人物でした。
彼は昭和天皇が直接指名し、総理大臣へと推薦した人物です。

昭和天皇は日独伊三国同盟の締結に反対しており、このために米内を首相として推挙しました。
過去に例を見ない出来事だったのだそうです。

ですが、元々三国同盟を推す意見の多かった陸軍は、ドイツがフランスを降伏に追い込んだことを受け、俄かに三国同盟締結への動きが活発化してきます。

「バスに乗り遅れるな」との言葉が生れたのはこの時なのだそうです。
陸軍の総意として陸軍大臣は辞任。米内首相は後任の大臣を出すよう陸軍に要請しますが、陸軍はこれ固辞。

このことでついに米内は総辞職へと追い込まれます。彼の後を継いで首相となったのが近衛文麿。
反対する松岡を止めさせるため、近衛は内閣を解散し、第三次近衛内閣を成立させ、松岡を外相の座から外したうえで南部進駐を決行しました。

このあたりのやりかたは、2.26事件で是清らが暗殺された後の経緯 とよく似ていますね。

ただ、一番違和感を覚えるのは、少なくともここまでの記載を受けて、客観的に考えれば、南部仏印への進駐を行えば、一体どのような結果を生むのかということは何となくわかりそうなものです。

にも拘らず、このことによって米国より課せられた「制裁」を、近衛を含め、日本国政府は「予期していなかった」との記載が多くみられるのはいったいなぜなんでしょう。

次回記事では、改めてフランス領インドシナ現地まで戻って、日本国政府が「南部仏印進駐」へと突き進んでいく経過について検証してみたいと思います。


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第238回 北部仏印進駐が行われるに至った経緯と北部進駐の経緯①

前回の記事までの内容で、フランスと交渉に入った日本軍が、フランス領インドシナに進駐するの過程において、少なくとも北部仏印進駐までの経緯については、非常に平和裏に進められていたことは確認できました。

勿論、進駐が行われる直前に富永恭次という人物の暴走行為があり、現地フランス軍との軍事衝突があったことは事実なのですが、進駐そのものは、非常に粛々と、平和裏におこなわれていました。

ここから検証したいのはもう一つ、翌昭和16年(1941年)7月2日に第2次近衛内閣御前会議にて決定された、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱決定」。これが決定までの経緯についてです。

まずはその内容を掲載しておきます。

【情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱決定】
情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱

第一 方針

 1.帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す

 2.帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す

 3.帝国は右目的達成の為如何なる障害をも之を排除す

第二 要綱

 1.蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す情勢の推移に対し適時重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける敵性租界を接収す

 2.帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす

 3.独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対処す此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う独「ソ」戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す 

 4.前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ 

 5.米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三国条約に基き行動す但し武力行使の時機及方法は自主的に之を定む

 6.速に国内戦争時体制の徹底的強化に移行す特に国土防衛の強化に勉む

 7.具体的処置に関しては別に之を定む

近衛文麿
【近衛文麿】

前回の 「基本国策要綱」 や 「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」 とはいくつか大きな変化がございまして、例えば 基本国策要綱 では 「日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」 とされていたものが、はっきりと 「大東亜共栄圏を建設」 と言い換えられています。

また、ここに至る過程においても、 その特徴的な文言として、「帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす」という、一歩進んだ文言が加えられており、その根幹として「支那事変処理」が中心に据えられてはいるものの、これまで「南方問題」と記されていた内容が、「自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め」と、言い換えられています。

また、「南方問題」に加え、新たに「北方問題」という文言が加えらえています。

また、スタンスの変化として最も大きい部分は、第二条第2項。

 2.帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす

内容はWikiから引っ張ってきたんですが、少し読みにくいですね。
いくつかの文章で構成されている様ですので、文章を分けてみます。

 ・帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し其の他各般の施策を促進す
 ・之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の態勢を強化す
 ・帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす

そう。つまり日本軍は、仏印南部進駐を時点において、既に「対英米戦」を具体的に覚悟していたということになります。

日本がフランスとの協議の上、お互いの納得の下紅河(ソンコイ)北側を中心に中軍したのが1940年9月。
「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定したのが翌年1941年7月2日。

この間、日本と諸外国との間で、一体どのような情勢の変化があったのでしょうか。

記事としては少し短めですが、日独伊三国同盟の締結については少しボリュームが大きくなりそうですので、ここでいったん記事を区切りたいと思います。


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第237回 仏印進駐の目的と理由/世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱

さて。前回の記事では、日本がフランス領インドシナに監視団を派遣し、北部進駐を行う前、日本とフランス総督の中で行われた交渉が妥結し、援蒋ルートの停止、及び監視団の派遣承諾が行われた後に閣議決定された「基本国策要綱」および「大本営政府連絡会議決定」が行われた「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」について検証しました。

大筋をまとめてみますと、フランスがドイツに敗北し、仏印交渉において日本に対して全面的に折れてきたことは、当時の日本政府としてはフランス領インドシナおよびその西側のビルマルートについての問題を解決する上で、「絶好の機会である」と、このようにとらえられたことがそもそもの前提として存在します。

日本の目的はそもそも支那事変(日中戦争)を終結させることにあり、蒋介石軍を重慶に追い込んだ現状として、蒋介石軍殲滅まであと一歩の状況に来ていました。

ところが、ここにフランスやインドが物資の支援を、米国が金銭的な支援を行っていたため、蒋介石軍は粘り強く抵抗を続ける状況にあり、自体は収束しないまま、無駄に長引いていました。

広州(広東省)を占領したことでイギリスから香港を通じての支援ルートは遮断することに成功し、また南寧(広西省)を占領したことでフランスから南寧を通じての支援ルートを遮断することにも成功しました。

残るはフランス領インドシナの内、現在のベトナム、ハイフォンから昆明(雲南省)を通じて支援するフランスルートと、ビルマから支援するイギリスルートの2ルートとなっていました。(ソ連からの支援ルートは考えないこととします)

イギリスルートに関しては有田外相・クレーギー駐日大使のでの話し合いで6月より3か月間は支援を停止することが決められていましたから、残るは仏印昆明ルートのみとなっていたところでフランスがドイツに敗戦し、仏印現地総督が日本との交渉に応じたのが1940年(昭和15年)6月下旬。

ところが、日本と交渉を行った現地総督ジョルジュ・カトルーが6月22日に成立したフランスヴィシー政権によって解任され、代わりにジャン・ドクーが新たに新総督として任命されるのが6月25日。

解任されたのは当然日本と勝手に交渉し、交渉をまとめてしまったことを咎められたから。
ただ、総督の交代が行われた後も、ヴィシー政権は結局カトルーがまとめた日本との交渉内容を撤回することなく、この受諾内容をもとに後の交渉も行われることになります。

日本が「基本国策要綱」や「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」をまとめたのはこの時期ですね。
新政権も交渉に応じてくれるわけですから、日本とするとまさに「絶好の機会」であったわけですね。

正式にフランス政府とどのような交渉を行うのか。
その結果発生する弊害(特にイギリスの反発)を想定してまとめたものがこれらの要綱であったものと考えられます。

「フランスのドイツに対する敗北に便乗した」という様な記述をネット上で見かけることもありますが、便乗云々以前に、フランスがここから蒋介石軍を支援さえしなければそもそも交渉する必要性すらないわけです。

フランスがドイツに敗北したことによって、この援蒋ルートを停止する絶好の機会が訪れたわけですから、これを利用するのは外交交渉としては至極当たり前の対応であったように私は思います。

日中戦争にしても、そもそも中国の共産勢力が国民党軍を侵食し、日本の民間人に対して度重なる残虐な行為さえ繰り返さなければこのような戦争関係に陥ることはなかったわけです。

中国と戦争するための資源を確保するため、結果的に日本が統治下においた北華、満州地域を利用することを非難する人も多くいますが、そもそも中国とここまでの戦争関係に陥らなければ、戦争をするための資源を確保しなければならない状況も生まれませんでした。

この前提条件をそもそも頭において今後の情勢は見ていくべきだと思います。


前置きが長くなりました。
具体的な日程まで調べきれていないのですが、7月には日本からの軍事顧問団として、西原一策少将率いる西原機関がハノイに派遣されます。

その後、松岡外相とアンリ―駐日大使との間で日本とフランスの間で築かれる協力関係について、その基本的なガイドラインをまとめた「松岡・アンリ―協定」が結ばれます。

内容は、

 (1)政治軍事協定(日本軍隊の仏印通過と仏印領内飛行場の使用を仏国が認め,日本は仏印の領土保全を尊重する)

 (2)経済協定(仏印での通商につき仏国人と同等の待遇を認める)

の二つ。1940年8月30日に締結されました。

ただ、外務省ホームページによると、 この後9月2日に、「5日以降に松岡・アンリー協定に基づき、仏印に進駐を行うとの一方的な通告が日本側から行われた」 との記載が見られます。

表現の問題かもしれませんが、このあたり、いささか強引な様にも見えます。
ただ、この内容に基づく話し合いが4日夜に西原とマルタン軍司令官の間で行われた、とも記されており、本当に一方的に行われたわけではないようです。

結局4日の交渉では、基礎的な内容しか決めることができず、具体的な日程や輸送・補給方法については後日に交渉が継続されたようです。

また更に西原少将は9月19日、「23日零時に進駐を開始する」との通告を相手側におこない、結果22日夕方に詳細な内容が決まったのですが、この時点でもまだ具体的な事務手続きについての取り決めについて未決定の部分があり、西原は23日零時の進駐を中止するよう軍に命じるのですが、どうもこの時暴走してしまった部隊がいた様です。

富永恭次という人物なのですが、この時富永は自身の部隊を引き連れてドンダンという要塞に軍をすすめ、ここでフィジー政権の決定に未だ従わない一部のフランス軍と武力衝突。双方に数百名の死者を出してしまいます。

西原は富永を停職処分とし、この時陸軍次官宛に 「統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ」 という電文を送っています。

一つに、この富永という人物の暴走を挙げず、ただ一方的に「フィジー政権の決定に納得しない一部のフランス軍と北部進駐にあたった日本の軍隊との間で戦闘行為が行われただけであり、日本はフランスとの取り決めに従って平和的に進駐しただけである」とする意見を見ることがあります。

ですが、この経過を見ると、この時はまだ日本は「北部進駐」をスタートしておらず、西原の指示に従わなかった富永の部隊が単独で暴走し、フィジー政権の決定に納得のいかないフランス部隊と衝突しただけであり、これを「フランスからの通達が行き届いていなかった」かのようにして言及するのは間違っていますね。

一方で、この富永という人物の存在のみを上げ、「日本は仏印において平和進駐を行ったわけではない。武力によって制圧したのだ」という意見を見ることもありますが、これも間違っています。

少なくとも富永が進軍したタイミングでは、まだ正式に西原から仏印進駐の命令は下っておらず、彼の行為は「北部進駐」ではなかったということ。西原は彼を職務停止処分にしており、陸軍次官宛に送った文章からも推察される通り、西原はこの北部進駐を、リアルな意味で「平和裏に」進めようとしていたことが分かります。

フランス軍に対しては仏印総督のジャン・ドクーからも停戦命令が出され、9月25日に停戦します。
西原とマルタンの間では、この間も交渉が続けられており、24日午後には未決部分の合意が成立し,最終的取極めが完成します。

紅河

その後、西原はフランスとの合意の上でハノイを中心とした紅河(フンコイ)北側の主要地点に軍を駐屯させることとなります。


西原は、おそらく交渉のやり方として、一旦期限を切った上で、この期限内に交渉をまとめ、決まっていない部分に関しては時期をずらして再交渉する。この際も再度期限を切って交渉を進め、更に期限までに纏めて形にする。

できていない部分は再度期限を切って交渉・・・というやり方なんでしょうね。
この意図が富永には理解することができず、二回目の期限を真に受けて進軍してしまった・・・というのが本当のところなんじゃないかと思います。

色々な方の投稿を見ていると、富永の元々の性格にも問題は大いにあったようですが。

今回の協定(松岡・アンリー協定)で一番大切にされたのは、日本とフランスが、極東におけるお互いの利益を尊重し合うということ。
日本がフランスに対してフランス領インドシナにおける主権の尊重を認めたのに対して、フランスは日本に対して、「極東」における日本の地位的な覇権を明確に認めることになります。この場合、中国のことを意図しているものと思われます。

さて。時を同じくして、このタイミングでフランス領インドシナは、お隣タイと国境付近において戦争を行います。
次回記事では、この「タイ・インドシナ戦争」から記事をスタートしてみたいと思います。

日本が北部仏印だけでなく、南部仏印にまで手を広げた理由と、情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱が取り決められるに至った理由のとっかかりまで進められればと思っています。

とはいえ、まだ「タイ・インドシナ戦争」についても、「南部仏印進駐」についても、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」についても、まだ全く私の頭の中にはデータが入っていないんですけどね。

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第236回 南部仏印進駐の目的と理由/日本軍による侵略だったのか?②

前回までの記事のタイトルを「南部仏印進駐の目的と理由」としていたのですが、どうもこの「南部」というフレーズはまだタイトルとしてふさわしいものではなかったようですね。

次回以降で検証していきたい内容ですが、今回はまず「北部進駐」の目的と理由について記事にしてみます。

前回の記事 でもお示ししましたように、第二次世界大戦ヨーロッパ戦においてフランスがナチスドイツに敗れ、政治的な空白期間が生れる中で、仏印現地総督であるジョルジュ・カトルーとの間で交渉が行われ、ハイフォンより重慶への支援物資輸送の停止、およびこれを確認するための日本軍監視団の受け入れが決定されます。

その後、ヴィシー政権が誕生し、松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリー大使の間で「松岡・アンリ―協定」が締結されるまでの間に日本国内において、制定された「基本国策要綱」、および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という二つの要綱について。

本日の記事は、この二つの要綱の内容を検証する形で、当時の日本国政府の姿勢の変化についてまとめてみたいと思います。


基本国策要綱

これは、丁度原文がWikiにも掲載されていましたので、まずはここから引っ張ってきてみます。

【基本国策要綱】
昭和15年7月26日 閣議決定
 世界は今や歴史的一大転機に際会し数個の国家群の生成発展を基調とする新なる政治経済文化の創成を見んとし、皇国亦有史以来の大試錬に直面す、この秋に当り真に肇国の大精神に基く皇国の国是を完遂せんとせば右世界史的発展の必然的動向を把握して庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ万難を排して国防国家体制の完成に邁進することを以て刻下喫緊の要務とす、依って基本国策の大綱を策定すること左の如し

基本国策要綱

一、根本方針
 皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き世界平和の確立を招来することを以て根本とし先づ皇国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り之が為皇国自ら速に新事態に即応する不抜の国家態勢を確立し国家の総力を挙げて右国是の具現に邁進す

二、国防及外交
 皇国内外の新情勢に鑑み国家総力発揮の国防国家体制を基底とし国是遂行に遺憾なき軍備を充実す皇国現下の外交は大東亜の新秩序建設を根幹とし先づ其の重心を支那事変の完遂に置き国際的大変局を達観し建設的にして且つ弾力性に富む施策を講じ以て皇国国運の進展を期す

三、国内態勢の刷新
 我国内政の急務は国体の本義に基き諸政を一新し国防国家体制の基礎を確立するに在り之が為左記諸件の実現を期す
 1.国体の本義に透徹する教学の刷新と相侯ち自我功利の思想を排し国家奉仕の観念を第一義とする国民道徳を確立す尚科学的精神の振興を期す

 2.強力なる新政治体制を確立し国政の総合的統一を図る
  1.官民協力一致各々其の職域に応じ国家に奉公することを基調とする新国民組織の確立
  2.新政治体制に即応し得べき議会制度の改革
  3.行政の運用に根本的刷新を加へ其の統一と敏活とを目標とする官場新態勢の確立

 3.皇国を中心とする日満支三国経済の自主的建設を基調とし国防経済の根基を確立す
  1.日満支を一環とし大東亜を包容する皇国の自給自足経済政策の確立
  2.官民協力による計画経済の遂行特に主要物資の生産、配給、消費を貫く一元的統制機構の整備
  3.総合経済力の発展を目標とする財政計画の確立並に金融統制の強化
  4.世界新情勢に対応する貿易政策の刷新
  5.国民生活必需物資特に主要食糧の自給方策の確立
  6.重要産業特に重化学工業及機械工業の画期的発展
  7.科学に画期的振興並に生産の合理化
  8.内外の新情勢に対応する交通運輸施設の整備拡充
  9.日満支を通ずる総合国力の発展を目標とする国土開発計画の確立

 4.国是遂行の原動力たる国民の資質、体力の向上並に人口増加に関する恒久的方策特に農業及農家の安定発展に関する根本方策を樹立す
 5.国策の遂行に伴う国民犠牲の不均衡の是正を断行し厚生的諸施策の徹底を期すると共に国民生活を刷新し真に忍苦十年時難克服に適応する質実剛健なる国民生活の水準を確保す

文語体で、古い表現方法なので、すこしわかりにくいですね。

「皇国」というのは天皇陛下の国、すなわち「日本」のことですね。「大東亜」という言葉については、天津英租界封鎖事件についての記事 の中で、日本が英国に要求した内容として、

「英国の援蒋政策に猛省を求め,日本と協調して東亜新秩序建設に協力するまで矛を納めない」

という言葉があります。
私、前回の記事ではこの文言が「大東亜共栄圏」をイメージしたものなのかと思っていたのですが、記事を最後まで作ってみて、どうもこの時点ではまだそこまでは想定に入れていなかった様です。

飽くまでこの時点で日本が考えていたのは、既に自国の影響下にある「日本」「満州」「支那(中国)」の結束、および連携を「大東亜の新秩序建設」と考えていたんですね。

で、これを閣議決定したものが今回の基本国策要綱。

「八紘一宇」という言葉が登場します。Wikiから引用しますと、

【八紘一宇】
八紘一宇(はっこういちう)とは、『日本書紀』巻第三神武天皇の条に書かれた「掩八紘而爲宇」の文言を戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語。八紘為宇ともいう。

大意は「天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと」という意味である


自民党三原じゅん子議員が、麻生さんに対する予算委員会質疑の中でも用いられた言葉としてご記憶の方も多いかと思います。

共産主義の原点である、「国境もない、管理者も必要のない世界」という理想ととてもよく似ている様に感じますが、日本はこれを建国以来の精神として持ち続けていたんですね。

ちなみに神武天皇によって日本が建国されたとする日は西暦紀元前660年2月11日。
この日が「皇紀元年」とされています。

共産主義ではこの主体が「個人」となっているのに対して、八紘一宇の精神では「家族」となっているところが最大の違いでしょうか。

この様な社会を実現した上で、日本がどのような社会の設立を理想としていたのかは日本の統治下において設立された中華民国臨時政府の様子 を振り返って見るとよくわかります。

さて。問題となるのは、この「基本国策要綱」に基づいて閣議決定された、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という要綱です。

こちらはWikiソースでは掲載されていなかったので、1945年の道 というサイト様より、原文のみ引用させていただこうと思います。

【世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱】
世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱
                                                        昭和一五・七・ニ七
                                                        大本営政府連絡会議決定

方 針

帝国は世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善し速に支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し対南方問題を解決す
支那事変の処理未だ終らざる場合に於て対南方施策を重点とする態勢転換に関しては内外諸般の情勢を考慮し之を定む
右ニ項に対処する各般の準備は極力之を促進す

要 領

第1条 支那事変処理に関しては、政戦両略の総合力を之に集中し、特に第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して速に重慶政権の屈服を策す

対南方施策に関しては、情勢の変転を利用し好機を捕捉し、之が推進に努む

第2条 対外施策に関しては、支那事変処理を推進すると共に、対南方問題の解決を目処とし、概ね左記に依る

 一、先づ対独伊蘇施策を重点とし、特に速に独伊との政治的結束を強化し、対蘇国交の飛躍的調整を図る
 ニ、米国に対しては公正なる主張と厳然たる態度を持し、帝国の必要とする施策遂行に伴ふ巳むを得ざる自然的悪化は敢て之を辞せざるも、常に其動向に留意し、我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くる如く施策す
 三、仏印および香港等に対しては左記に依る

 (イ)仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の徹底を期すると共に、速に我軍の補給担任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめ、かつ帝国の必要なる資源の獲得に努む
情況により武力を行使することあり
 (ロ)香港に対しては「ビルマ」に於ける援蒋「ルート」の徹底的遮断と相俟ち、先づ速に敵性を芟除する如く強力に諸工作を推進す
 (ハ)租界に対しては、先づ敵性の芟除および交戦国軍隊の撤退を図ると共に、逐次支那側をして之を回収せしむる如く誘導す
 (ニ)前ニ項の施策に当り武力を行使するは第三条に依る

 四、蘭印に対しては、暫く外交的措置に依りその重要資源確保に努む
 五、太平洋上に於ける旧独領および仏領島嶼は、国防上の重大性に鑑み、為し得れば外交的措置に依り我領有に帰する如く処理す
 六、南方に於ける其他の諸邦に対しては、努めて友好的措置により我工作に同調せしむる如く施策す

第3条 対南方武力行使に関しては左記に準拠す
 一、支那事変処理概ね終了せる場合に於ては、対南方問題解決の為、内外諸般の情勢之を許す限り好機を捕捉し武力を行使す
 ニ、支那事変の処理未だ終らざる場合に於ては、第三国と開戦に至らざる限度に於て施策するも、内外諸般の情勢特に有利に進展するに至らば、対南方問題解決の為武力を行使することあり
 三、前ニ項武力行使の時期、範囲、方法等に関しては、情勢に応じ之を決定す
 四、武力行使に当りては戦争対手を極力英国のみに局限するに努む
但し此の場合に於ても、対米開戦は之を避け得ざることなるべきを以て、之が準備に遺憾なきを期す

第4条 国内指導に関しては、以上の諸施策を実行するに必要なる如く諸般の態勢を誘導整備しつつ、新世界情勢に基く国防国家の完成を促進す
之が為、特に左の諸件の実現を期す

 一、強力政治の実行
 ニ、総動員法の広汎なる発動
 三、戦時経済態勢の確立
 四、戦争資材の集積および船腹の拡充
(繰上輸入および特別輸入最大限実施ならびに消費規正)
 五、生産拡充および軍備充実の調整
 六、国民精神の昂揚および国内世論の統一

こちらも古い言い回しが多く、読みにくい内容となってますね。

幾つか気にかかる言い回しとして、まず、

「内外の情勢を改善し速に支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し対南方問題を解決す」

という内容について。
ここで「南方問題」が何を意味しているのかということですが、この時点ではまだ日本の対戦相手は蒋介石軍ですから、南方より蒋介石軍に対して支援を行う「フランス」、そして「イギリス」の存在を意図したものと考えられます。

宣戦布告を行っている相手は中国ですが、支援を行っているフランスとイギリスが駐留しているのは第三国であるフランス領インドシナ。

これまでは外交交渉により両国から蒋介石軍への支援をやめる様通達を行うことしかできませんでしたが、ヨーロッパ戦におけるフランスの敗北により、俄かに交渉が進展する機運を帯びてきたわけです。

パリが陥落し、事実上の無政府状態で直接仏印総督と交渉を行い、見事交渉が妥結。
これを受けて制作されたのがこの「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」なるものだと思われます。

仏印ルート、およびビルマルートの遮断が南方問題の最終的な帰着地点だということですね。

また、この要綱において対象とされている「南方」とは、「フランス領インドシナ」のみで、ビルマについては

 ・香港に対しては「ビルマ」に於ける援蒋「ルート」の徹底的遮断と相俟ち、先づ速に敵性を芟除する如く強力に諸工作を推進す

と言及するにとどめられています。
ビルマルートについては、第233回の記事 でも触れた通り、同年(1940年)6月24日に有田外相とクレーギー大使との間で3か月間の輸送停止が約束されている、その真っ只中にありましたね?

「香港」についても1938年に日本軍が広東省を占領してしまいましたから、「香港ルート」としては遮断されていました。
記されている内容は、極力イギリスと敵対しない様、工作を施していきましょうねと、そのような内容が記されています。

「工作」というと少しネガティブな印象を覚えますけどね。

また、
 (イ)仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の徹底を期すると共に、速に我軍の補給担任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめ、かつ帝国の必要なる資源の獲得に努む
情況により武力を行使することあり


という表記もあります。これは日本軍による北部進駐が行われた際、実際に行われた内容ですね。

これを日本軍は武力ではなく「交渉」によって達成しました。一部、フランス政府よりの通達が徹底されていなかった部隊に対して武力も用いられましたが、これは「情況により」ということですから、この要綱を作成した段階で、ここまで想定していたということでしょうか。

「我軍の補給担任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめ、かつ帝国の必要なる資源の獲得に努む」

という項目についても、これはフランスとの交渉によって獲得したものですから、これを「侵略」であるかのように表現することはできないと思います。

(ハ)租界に対しては、先づ敵性の芟除および交戦国軍隊の撤退を図ると共に、逐次支那側をして之を回収せしむる如く誘導す

という表記について。ここでいう「租界」とは、すなわち日本軍が封鎖した天津英租界のことを言及したものと考えられます。
次に、

 (ニ)前ニ項の施策に当り武力を行使するは第三条に依る
と記されており、つまり、(イ)、(ハ)のケースで武力を行使する場合は、第三条の内容に従ってくださいね、と書かれているわけです。

そこで、第三条を見てみますと、

 一、支那事変処理概ね終了せる場合に於ては、対南方問題解決の為、内外諸般の情勢之を許す限り好機を捕捉し武力を行使す
 ニ、支那事変の処理未だ終らざる場合に於ては、第三国と開戦に至らざる限度に於て施策するも、内外諸般の情勢特に有利に進展するに至らば、対南方問題解決の為武力を行使することあり


とあります。
「対南方問題解決のため」とありますから、これは前記した香港と租界に限定したものではありません。
ですが、

 四、武力行使に当りては戦争対手を極力英国のみに局限するに努む ともあり、対蒋介石戦に決着がつきそうな折、いらぬちょっかいを出してくるのはイギリスであろう、とする予測がこの時点で建てられていたということでしょうか。

フランスとは直接協定を結ぶ予定ですから、南方問題で障害となるのは「ビルマルート」の問題であり、これを行っているのはイギリスですから、これを想定に入れていたのでしょうね。

そして最後に一言、

「但し此の場合に於ても、対米開戦は之を避け得ざることなるべきを以て、之が準備に遺憾なきを期す」

とあります。これは、やむを得ず米国と開戦状態に至ることをありうると、そう覚悟をしていたことを暗示しています。
ですが、第2条条文には、

 ニ、米国に対しては公正なる主張と厳然たる態度を持し、帝国の必要とする施策遂行に伴ふ巳むを得ざる自然的悪化は敢て之を辞せざるも、常に其動向に留意し、我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くる如く施策す

ともあり、日本軍は極力米国と交戦状態に至ることは避けたかったのだということが分かります。


前情報だけに基づいて考えていた折は、あたかも日本が米英に対して、日本から突っかけて戦争を起こすことを想定していたのかと思っていたのですが、読み込んでいくとどうやらそうでもないようです。

まあ、考えてみれば米英仏が中国を支援していたのはそもそも蒋介石のデマを真に受けていたからであり、これらの国々が蒋介石軍に対して支援行為さえ行っていなければそもそも日本が「南方問題」を抱えることはなかったわけですから、当然のことといえば当然のことかもしれません。

蒋介石を支援さえしていなければ、フランスやイギリス、果てはオランダが日本から自国植民地領土を脅かされる状況に追い込まれることはなかった、ということをそもそも忘れてはいけませんね。

実はこの後、もう一つ「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」という要綱が出されることとなります。
この内容が、結構強硬な内容になっていて、それこそ「大東共栄圏」や「対英米戦準備を整え」といった言葉まで登場します。

仏印北進が完了して以降、いったい日本に何があったんだろう・・・というようなイメージを抱かされる内容です。
勿論、私はまだ具に目を通しているわけではありませんし、その背景まで調査しているわけではありません。

次回記事では、まず「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」に記された内容に基づいて行われた「北部進駐」について、その経緯を記事にしたいと思います。

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第235回 南部仏印進駐の目的と理由/日本軍による侵略だったのか?

では、改めまして本題、「仏印進駐は日本軍による侵略だったのか」という話題について記事にしたいと思います。


おさらい

前回の記事 で、本来の話題から少しそれた内容を記事にしたのは、今回の仏印進駐も、「見方によっては『侵略』と言えないことはない」内容になるからです。

調べていて見えてきたのは、日本がフランスとの合意に基づいて日本の軍事顧問団を派遣し、フランスがこれを受け入れたところと、その後日本軍が南進を行い、インドシナ全体に軍隊を進駐させた経緯で、北部・南部進駐を行った時点で、既に日本軍が米英との戦争になることを想定に入れていたということ。

ひょっとすると私がこれまで記してきた「日本が太平洋戦争に至った経緯」について少し方向性の変わる内容となるかもしれません。(記している現時点(2016年12月22日8時41分)ではまだはっきりとはわかりません)

これまでの内容としては、太平洋戦争に日本が巻き込まれた理由として、

 1.そもそも第二次上海事変において、蒋介石軍が自国領土である上海の共同・フランス租界地域に空爆を行い、1740名死亡させた様子を撮影し、この様子を「日本軍の仕業である」と偽って国際連盟に提出した。

 2.蒋介石が提出した映像を下に日本に対する非難決議がなされた。

 3.蒋介石が提出した映像を下に行われた日本に対する非難決議を下に日本に対する経済制裁行為が国際的に政党かされ、これに基づいて米英蘭の日本に対する経済制裁が行われた。

 4.日本が戦争する相手は中国であり、理由は中国領土を占領し、日本の統治下におき、日本流の教育を施さなければ現地に住む日本の民間人・企業の安全を保障することが非常に難しい状況にあったことにある。

 5.尚、中国の共産化を放置していれば、やがてソ連の南下を許すこととなり、日本本土の平和すら脅かされることとなる。

以上の理由により日本は中国と戦争したのだということをこれまでの記事で掲載してきました。


勿論日本はいきなり中国に戦争を吹っ掛けたわけでもなんでもなく、これまで中国の共産勢力、国民党左翼による現地邦人が虐殺(悲惨な殺害のされ方という意味)を含むあまりにも悲惨な行為を受ける中で尚、たびたび交渉の機会を探っていました。

にも関わらず、国民党軍は日本軍に対して挑発し続け、通州事件という日本人・朝鮮人200名以上が虐殺される、余りにも悲惨な、「大虐殺事件」の結果、戦闘行為が上海にまで飛び火したのが「第二次上海事変」であったわけです。

また、この第二次上海事変においても、そもそも日本軍と蒋介石軍との間にはあまりにも大きな戦力の差がありましたから、日本軍の蒋介石軍に対する反撃は極力最小限にとどめられていました。

上海共同租界地域における日本人区域を3万の中国兵が取り囲み、これに対する日本人兵力はたった4000人しかいませんでした。尚、この時日本軍と蒋介石軍は停戦交渉の真っ只中であったにもかかわらず、です。

そして、共同租界地域からの脱出路をすべて封鎖した上で、中国軍から日本軍に対する機銃掃射が行われました。

そもそものスタートはここです。勿論この時点ですでに現地日本軍から政府に対して増援要請が行われていましたが、蒋介石軍から更に日本海軍に対しての総攻撃がスタートした時点で、蒋介石軍20万に対して、日本軍はたったの5000人しかいませんでした。(第154回記事 参照)


この時に中国軍は日欧共同租界地域、およびフランス租界地域に対して空爆を行い、これを国際連盟に対して「日本軍の仕業である」として映像を提出したのです。

その後起きたのが蒋介石軍政府である南京への空爆、および入城。(「南京大虐殺」の名称で知れ渡った事件です:第154回記事 参照)

日本軍は南京を統治下においた後、逃走した蒋介石軍を追って武漢、広東省等々の地域を制圧。
中国北部を軒並み統治下に納め、「中華民国臨時政府」を設立し、重慶に遷都した蒋介石軍との戦争を繰り広げるに至りました。


さて。この重慶に遷都した蒋介石軍に対して支援物資を送り続けていたのが「フランス」「イギリス」そして「ソ連」の3国でした。(アメリカも莫大な資金援助を行っていました)

逆に言えばこれらの国々が中国に対する援助を行ってさえいなければ日中戦争が大東亜(太平洋)戦争にまで拡大し、あそこまで泥沼化することはなかったわけです。

これらの国々が中国を支援していた支援ルートのことを「援蒋ルート」と言い、特にフランスとイギリスに対してこれらの支援をやめるよう外交ルートを通じて申し入れていたわけですね。

イギリスが支援を行っていたルートは「香港ルート」と「ビルマルート」の二つ。
香港ルートは日本が1938年10月に広東省を占領したことにより遮断。

その翌月、「ビルマルート」が完成するのですが、天津英租界封鎖事件を経て行われた有田外相とクレーギー大使との交渉により、1940年7月より3か月の間支援が停止されることが約束されます。

そして現在問題にしているのは残るフランスによる支援ルート、「仏印ルート」についての問題です。


仏印進駐は日本軍による侵略だったのか?


フランス領インドシナ

さて。仏印ルートにも2種類あり、南寧省を通じて移送するルートについては日本が1939年11月、同省を陥落したため封鎖されます。

残る雲南省を通じてのルートについて、フランスが交渉に応じないため、まずは同年12月、日本軍は雲南鉄道を空爆。
翌1940年2月、再び日仏間の交渉がスタートするものの、交渉は決裂し、同年4月、日本軍は再び雲南鉄道への空爆を再開します。

しかし、翌5月、第二次世界大戦ヨーロッパ戦においてナチスドイツによるフランス侵攻がスタート、翌6月14日にパリが陥落したことを受けてフランスは日本に対して全面的に折れ、仏印より蒋介石軍への支援停止を約束し、日本軍監視団の受け入れも受諾します。(6月19日)

この決断が行われたのはパリが陥落した直後。新首相であるフィリップ=ペタンが首相の座に就くのが6月17日、独仏の間で停戦協定が結ばれたのは6月22日ですから、これは非常にフランス情勢が非常に混迷した中で行われた交渉であったことが分かります。交渉を行ったのはフランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルーという人物でした。

7月1日にフランスは首都をヴィターに移し、改めてペタンを首相とした「ヴィター政権」が誕生します。
このヴィター政権はカトルーの行った交渉を認めず、ジャン・ドクーという人物を新総督に任じます。

しかし、結局カトルーとの間で行われた交渉内容は撤回されることなく、新たに松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリー大使の間で締結される協定についての交渉が行われることとなります。

松岡洋右(ようすけ)。そう。第139回の記事 でも登場しました、満州事変の戦後処理において、日本の国際連盟からの脱退を決断した人物です。

この後、フランスとの間で松岡・アンリー協定が締結され、更に現地軍司令である西原一策・アンリ・マルタンの間で「西原・マルタン協定」が締結され、協定内容に従って日本は「北部仏印進駐」を平和的に行った・・・というのがまあ、日本の仏印進駐は「侵略を目的としたものではなかった」とする側の意見として見られます。

ちなみに「松岡・アンリー協定」が結ばれたのは8月末、西原・マルタン協定が結ばれたのは9月22日です。

私がなぜ『日本の仏印進駐は「侵略を目的としたものではなかった」とする側の意見』という表現を用いたのかというと、勿論「奏ではない、仏印進駐は侵略を目的としたものだ」とする意見もあるからです。

で、気にかかっているのは日本が仏印総督との間で交渉を行い、日本軍監視団の受け入れを受諾させた6月19日から、松岡・アンリー協定が締結される8月末までの間に、日本国内において閣議決定が行われている「基本国策要綱」、および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」なるものの存在です。

ここまでの時点で、飽くまで日本は「中国」を相手として戦争を行っており、ここに所謂「侵略」の意図は見られません。
ですが、この「基本国策要綱」という文書から登場するのが「大東亜共栄圏」という発想です。

私、現時点ではまだ前記した「基本国策要綱」および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という両文章原文について、具には目を通せていません。

ですから、ここからどのような結果が読み取れるのか、まだそのことを理解できていない状況です。


さて。では次回記事では、「基本国策要綱」および「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」という両文章の内容を中心に記事を作成してみたいと思います。

その時歴史が動いた・・・というシーンを見ている様で、実は少しワクワクしています。

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第233回 ABCD包囲網/援蒋支援ルートをめぐる日英仏の駆け引き①

タイトルを番号で継承したいのですが、本質から少しそれていますので、あえてこの様なタイトルとしてみました。

このシリーズ では、当初より主に15年戦争勃発~日中戦争に至る経緯について、「中国」の動向を中心に、日本が中国の歴史に介在する様になった経緯を追いかけてきました。

私のスタンスとしては「日本は侵略戦争を行っていない」という前提に立っています。
ですが、それにしては私は日本が中国と戦争するに至った経緯についてあまりにも無知ですし、

 「ひょっとすると私が侵略戦争を行っていないと思い込んでいるだけであって、本当は日本は侵略戦争を行っているのでは?」

という仮説を立てて記事を作成しています。

 「もし私が日本は侵略戦争を行っていない、とする人に対して反論するとしたらどこで反論できるだろうか」

という考え方です。
その代表的な事例が、日本における「右翼共産主義者」=「国家社会主義者」の存在。

その中には「皇道派」と「統制派」がいたこと。
エリートである統制派に比べて皇道派は元々学識のない人たちが多く、当時の日本の「公務員」である軍人となることで生計を立てていた人たちであること。

彼らが中心となったのが「関東軍」であり、彼らが起こしたのが「張作霖爆殺事件」や「満州事変」であったこと。

2.26事件の後、軍隊から皇道派が一掃され、その後軍人である統制派が政治に介入するようになり、軍人が政治を支配するようになったこと。その裏にはあまりにも情けなさすぎる当時の政治家たちの為体があったこと。

そして、戦後共産主義者たちが批判する「右翼」とは、そんな国家社会主義者たちによって支配された日本の政治であったこと。

等々、日本にも決して中国を一方的に批判するべきではない事情があったことを私は知りました。


ですが、更に検証を重ねていくことで、そんな関東軍の行動にも、きちんとした意味がありました。

それが北方から迫る「ソビエト=共産主義」の脅威です。
そして、その思想が内部を侵食し、支配されてしまった「中国」。ひときわその「残虐性」が際立つ共産主義を中国国内から駆逐することこそ、今回記事にする「南部仏印進駐」が日本軍により行われた当時の目的でした。


日本の統治下における中国の状況

日本統治下の中国(華北)



日本が占領し、日本による統治下で設立された「中華民国臨時政府」。

この臨時政府の様子を記したPDFを発見したので、少しご紹介しておきます。

日本占領下華北における在留邦人の対中国認識 菊地 俊介

一貫して記されているのは、日本占領下の中国における日本人は、「自分たちがアジアの盟主であって、中国人を指導していく立場にある」というような優越感と中国人に対する差別意識があり、また在留邦人たちは「自分たちが日本人である」という国家観が欠落していて、まともに仕事をせず、学問やスポーツなどに興じる傾向があった、などという内容です。

資料は様々な知識人が記した書籍を編纂したものであるわけですが、要はこのような資料の中で、現地日本人はディスられていたと・・・。

ただ、一方で占領下地域における中国人からの日本に対する評価として、以下のような文章が掲載されています。

【日本軍統治下の中国の様子(中国人小学生の作文より)】
更に見られるのは,「皇軍」,即ち日本軍に対する感謝である。「皇軍」の「宣撫」のおかげで,また「皇軍」が勇敢に戦って日本人は守られていると称えている。

尋常小学校の男子は,「支那人が日本人の子供 2 人を鉄棒で殺しました。其の時の様子,あのむごたらしさは,今でも忘れる事が出来ません。

僕等の町は満洲の国境に近い方だから,殆んど支那兵が攻めて来る事はありませんでした。でも 3 千人以上も居る苦力が騒いで日本人に悪口を言ったり,町に出ると皆が変な目をして僕等を見るし,時には四五人で僕等の家を指して何か言いながら恐い顔をしてにらんで行きます。

お父さん達は大丈夫だとはおっしゃいますが,それでもやっぱり心配そうな様子です。其の頃は,日本の兵隊さんが早く来てくれる事だけを,毎日毎日祈って居ました」

と,ここでも中国人に対する恐怖や憎悪の感情を表現し,その上で 2 年後に「治安」を取り戻した後のことを,

「町の中国人の商店さえも見違える程立派になり,中国人達さえも,匪賊等が居なくなったので,とても喜んで居る様です。是も皆日本の兵隊さん達のお蔭です。僕等は心から兵隊さん達に感謝して居ます」

と書いている。

要は、日本軍が中国の「匪賊」を一掃したおかげで、日本政府統治下の中国は非常に安定しており、日本人が中国人を見下す傾向こそあるものの、日本人にとっても、中国人にとっても非常に平和な社会あった・・・と、そのような内容が記されています。

そう。日本政府は、中国を支配下に置いた後も、その「差別意識」こそあれ、統治される側である中国人の「人権」を尊重し、お互いに信頼関係が結ばれるような状況にあったのです。まあ、要は「教育」の問題です。日本政府は、支配下にあったはずの中国人に対して、日本式の「教育」を施したんですね。

なぜならば、同じ支配下にある中国人でも、教育を施さず存外に扱ったのでは、またいつ「共産思想」が入り込み、かつての中国の様に残虐非道な行為を行う輩が現れるとも限らないから。

在留邦人を守るためにも、現地の中国人たちに対して、日本人と同等の教育を施し、日本人と同等に扱う必要があったのです。

例えば、日本が本当に中国を「侵略」することを目的としていたのかどうかということに対する答えがここにあるのではないでしょうか。


では、「フランス政府との合意の下、北部仏印に進駐し、その後南部仏印へも進駐を行った」日本軍。

この行為を米国ウェルズ国務次官はこのように表現しました。

 「日本の仏印に対する要求は侵略と言うほかなく,過去三年以上にわたる日米間の諸問題の最高潮に達したるもの」

では、この様な日本の行為は、本当に「侵略というほかなかった」のでしょうか。
少し記事が長くなりましたので記事を分け、次回記事で改めてこの「仏印進駐」について記事を掲載していきます。


この記事のカテゴリー >>GDPの見方


実は9日に作成し、公開直前まで出来上がっていたのですが、公開寸前でなんとブラウザがクラッシュ。
文章がすべて消えてしまいました。非常にショックでしたが、気を取り直して再度記事作成に取り掛かります。

今回の記事は、2016年度四半期別GDP 第2四半期 二次速報についての記事になります。

内閣府

私は一次速報について記事にすることはよくありますが、今回の様に二次速報を記事にすることはおそらく初めてではないでしょうか。今回の二次速報は、実はそれほどに大きな意味のあるものです。

第192回 内閣府、GDP算出方法の改定/2016年第二四半期二次速報より①
第193回 内閣府、GDP算出方法の改定/2016年第二四半期二次速報より②
第194回 「財政投融資債」とは何か?/「一般会計」と「財政投融資会計」の違い
第197回 内閣府、GDP算出方法の改定/2016年第二四半期二次速報より③
第198回 内閣府、GDP算出方法の改定/2016年第二四半期二次速報より④

上記5回のシリーズにてご案内しましたように、今回の第二四半期二次速報より、GDPの算出方法が見直され、その見直し結果に基づいた統計データが公表されています。


今回の一次速報と二次速報の違い


GDP算出方法の改定の詳細は上記リンク先をご覧いただければと思います。
この中でも、今回のGDP公表データー(支出側GDP)に大きな影響を与えているのは以下の2記事です。
(※支出側GDPについての考え方は第164回の記事 をご参照ください)

1.産業関連表の見直し
2.研究開発費を「資産」として計上

第192回の記事 でもご説明したのですが、「産業関連表」とは、「商品」が私たちの手元に届くまでにたどった「流通経路」をその加工される前の段階にまでさかのぼって集計した、その「分配率」を計算するための元データのことです。

詳細はリンク先記事をご覧ください。
今回見直された「産業関連表」は、「2011年」の流通経路を参考に算出されています。2011年。今から5年前の流通経路です。

5年前というだけでも非常に古い様に感じるのですが、1次速報までの段階で用いられていた産業関連表は、なんと2005年。今から11年も前のデータを用いて算出されていました。

また2点目。「研究開発費の資産計上」に関しましては、第193回の記事 にてご説明しています。

この項目は主に「民間企業設備投資」という項目に影響を与えます。これまで「経費」として、「支出側」ではなく一部「生産側」GDPに計上されていたデータが、「研究開発費」として「支出側」に掲載されることになりました。

研究開発費については、計上する場所が変わっただけですので、ちょっとしたトリックのようなイメージがありますが、「産業関連表の見直し」は話が違います。

これまで、誤ったデータに基づいて算出されていたGDPが、より正確なものに近づくことになります。今回の記事では、特にこの「産業関連表の見直し」に関連した内容を記事にしてみます。


【名目GDPと実質GDP】

まずは、最大の基礎データである「GDP(総合)」から見てみます。

【名目GDP(原系列/前年同月比)】

 1次速報 123兆4619億円(0.8%)
 2次速報 130兆9934億円(0.9%)

【実質GDP(原系列/前年同月比)】

 1次速報 132兆8753億円(0.9%)
 2次速報 129兆5584億円(1.1%)
 
実質GDPがガクッと下落している様に感じるのは、基準年の見直しが行われたことによるものです。
産業関連表と同じく2005年から2011年へと変更されています。

前年同月比ベースで考えますと、共に名目GDPより実質GDPの成長率の方が大きくなっており、2016年度第二四半期は2015年度第二四半期よりも物価が下落していることが分かります。これをGDPデフレーターで見ますと、

【GDPデフレーター(指数/前年同月比)】

 1次速報 92.9(-0.1%)
 2次速報 101.1(-0.2%)

2次速報の方がマイナス幅が大きくなっていますので、二次速報の方が「物価下落率」が大きくなっていることになります。
(GDPデフレーターの見方は、第218回の記事 をご参照ください)

「物価」で考えた場合、GDPは全てのマクロ指標を包括したデータになりますから、その最大の原因と考えられるのはやはり「原油価格」の存在です。

そこで、「原油価格」の影響が反映されている「輸入額」についてみてみます。

【輸入額(名目原系列)/前年同月比)】

 1次速報 19兆2429億円(-18.5%)
 2次速報 19兆4399億円(-18.4%)

このあたりは、「算出方法の改定」とはあまり関係のない分野ですが、18%を超えるマイナス(金額にして役3.5兆円)のマイナスは大きいですね。


【「研究開発費」の影響】

次に、「研究開発費」の影響を考えてみます。

分野とすると「民間企業設備」という項目になります。

【名目民間企業設備(原系列)/前年同月比)】

 1次速報 17兆1636億円(-1.3%)
 2次速報 19兆8888億円(-0.5%)

勿論、この中には「産業関連表」の見直しに伴う変化も含まれているわけですが、合計で約2.7兆の違いが生れています。
では一方で、「産業関連表」のみの影響を受けて変動していると考えられる、「家計最終消費支出」についてみてみましょう。


【産業関連表の見直しに伴う変化】

【名目家計最終消費支出(原系列)/前年同月比)】

 1次速報 70兆8315億円(-0.9%)
 2次速報 72兆9116億円(-0.4%)

約2.08兆円の違いです。二次速報に占める割合で考えると、約2.8%の「誤差」です。
民間企業設備の「誤差」が約13.7%。約11%違うわけですが、この違いが「研究開発費の資産計上」による影響を受けたものと考えられます。


【年度ベースでの比較】

さて、ではこれを「年度ベース」で見るとどうでしょうか。

勿論2016年度はまだデータが出ていませんから、2015年度と、安倍内閣がスタートする前の2012年度の数字を比較してみます。

【名目GDP2012年度/2015年度比較(原系列/前年同月比)】

 2012年度
  1次速報 474兆4037億円
  2次速報 494兆6744億円       
  1次速報-2次速報=20兆2707億円 

 2015年度
  1次速報 500兆6213億円
  2次速報 532兆1914億円       
  1次速報-2次速報=31兆5701億円 

いかがでしょう。この様なデータを示すと、「そもそも統計方法が違っているんだから、データが違うのは当たり前だろ!」

という意見が出るかもしれません。ですが、私が見てほしいのは、統計方法の改定により「いくらGDPが増えたのか」などという単純な話ではありません。

一番着目していただきたいのは、1次速報と2次速報の「誤差」です。
2012年度の誤差は20.27兆円であったものが、2015年度には31.57兆円に広がっています。

その差は約11.3兆円にも上ります。

例えば、「研究開発費」がデータとして加えられましたので、これを「研究開発費の伸びしろが影響している」と考える人もいるかもしれません。ですが・・・

【名目民間企業設備年度/2015年度比較(原系列/前年同月比)】

 2012年度
  1次速報 64兆7979億円
  2次速報 71兆8342億円       
  1次速報-2次速報=7兆0363億円 

 2015年度
  1次速報 70兆995億円
  2次速報 81兆2078億円       
  1次速報-2次速報=11兆1083億円 

民間企業設備の「2012年度の誤差」と「2015年度の誤差」の開きは4兆0720億円と確かに大きいのですが、

【名目家計最終消費支出2012年度/2015年度比較(原系列/前年同月比)】

 2012年度
  1次速報 281兆1680億円
  2次速報 283兆9824億円       
  1次速報-2次速報=2兆8144億円 

 2015年度
  1次速報 284兆7216億円
  2次速報 292兆3669億円       
  1次速報-2次速報=7兆4530億円 

民間家計最終消費支出の「2012年度の誤差」と「2015年度の誤差」の開きは4兆6386億円と、こちらも「民間企業設備」に負けず大きな開きとなっています。

2014年に消費増税もおこなれていますから、ここを問題にする人もいそうですが、では「消費増税後」の「2014年」と「2015年」を比較した場合はどうなのでしょうか。

【名目家計最終消費支出2014年度/2015年度比較(原系列/前年同月比)】

 2014年度
  1次速報 286兆1262億円
  2次速報 291兆5161億円      
  1次速報-2次速報=5兆3899億円 

 2015年度
  1次速報 284兆7216億円
  2次速報 292兆3669億円       
  1次速報-2次速報=7兆6453億円 

いかがでしょう。何度も言いますが、今回の二次速報より改定された改定内容は、「支出側GDP」で考えれば、「産業連関表の見直し」と「研究開発費の資産計上」の2点です。

この他、

A.「雇用者報酬の見直し」
B.「財政投融資債の計上方法の見直し」
C.「輸出入項目内訳の見直し」

が行われているわけですが、Aは生産(分配)側GDPの問題ですし、Bは政府の会計方法が見直されるだけで、金額そのものが変わるわけではありません。Cは名前の通り輸出入の問題ですから、今回主に掲載した「家計最終消費支出」や「民間企業設備」には関係がありません。

そして「研究開発費の資産計上」は「民間企業設備」にかかわる分野であり、「家計最終消費支出」がこの影響を受けることはありません。

つまり、「産業関連表」=「流通経路の見直し」が行われただけで、2015年度の「家計最終消費支出(名目)」は、2014年度と比較して、2005年度の古い産業関連表を用いて計算した計算結果では「1兆4046億円のマイナス」であったはずなのに、2011年度ベースの少し新しくなった産業関連表を用いただけで、8530億円のプラス成長に変わってしまったのです。

これは、私がこのブログを通じて、特に消費増税関連の問題で「消費増税が消費を減退させた」という論調に対して、「その評価は現状を正確に評価できていない」という考え方に基づいて、散々記事を記してきたことが証明されたに等しい内容です。

第53回 実質GDPへの疑惑
↑こちらの記事は、タイトルにある通り、「実質GDPの疑惑」について掲載したものです。

このころはまだ不勉強な部分もあったわけですが、記事中に掲載している「加重平均」やその結果算出された「ウェイト」については、実質GDPだけでなく、名目GDPや消費者物価指数を算出する済にも同じように用いられていますので、その後の記事で、私は「名目GDP」についても「消費者物価指数」についても、これが「当てにならない」ことを散々掲載してきました。

2015年度のGDPは、「速報ベース」ではなく、「確報ベース」の値です。
これが、「産業関連表の見直し」によって大幅に覆された結果となったのです。

「合成の誤謬」とはよく言ったものです。

この記事の作成方法として、私は実は今回の二次速報データを予め検証することをせず、私の頭の中にある予測を記事として書き記し、私の予測の中にある数字が出てくるかどうか、非常にワクワクしながら記事を作成しました。

その結果、内閣府統計データに記されていた数字が悉く私の予測通りの数字であったことは、非常にうれしく感じています。

来年中にはおそらくビッグデータを活用した、新たなる統計方法に基づいたGDPデータ が登場するはずです。

日本国内の経済の実態が、どの程度まで正確に反映された統計データが登場するのか、今からとても楽しみです。


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