十五年戦争(日中戦争)の原因と結果など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<前回の記事 第71回 「パナマ文書」流出〜何が問題なのか〜

今回はこのテーマで話を進めてみたいと思います。
まずみなさんに見ていただきたい動画がございます。それが、下記の動画になります。



最後まで見ていただくとよくわかるのですが、この動画では、私たちが住んでいるこの「日本」という国が、かつてどのような経緯であの悲惨な大戦へと突き進んでいったのか。そのことがとてもよくわかる内容となっています。

この動画に出会って、私自身すでに4年~5年以上たっているとは思うのですが、この動画を見たときは衝撃的でした。
麻生内閣当時だったか、民主党に変わった後だったか・・・。私自身が、世の中にありあふれている『情報の異常さ』に気づき、太平洋戦争についても勉強してみたい、と考え始めた時期ではありました。

「そういうことか」というのが当時の正直な感想です。
ただ・・・その後、この情報をベースとして、様々な情報と比較していくうち、どうもこの見方は『一つの側面』に過ぎないのではないか、という疑問が起きるようになりました。

決してこの動画で言っていることが「間違い」と言っているわけではありません。
ですが、どうも肝心な部分がごっそり抜けているように感じるようになったのです。

その理由の一つが、第68回の記事でも掲載した、「2.26事件」のことです。

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<前回の記事 第72回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか①

今回のシリーズは、前シリーズである「『右翼』と『左翼』」の中で、日本における「右翼」を追いかけていく中で生じた疑問。日本は本当に「やむを得ず」戦争に巻き込まれたのか。このことに対して沸き起こった疑問。これを解消するために作成することとしました。

とはいえ、前回お示しした動画における「きれいごと」をそもそも理解していない方にとっては、「何のこと?」との疑問が浮かんでも不思議ではない内容なので、



こちらの動画で述べられていることをまず、簡単にまとめてみたいと思います。
予定ではいったんこのシリーズを終えた後、締めくくりとしてこの動画の解説を再度行う予定ですので、今回はさらっとまとめておきます。

・日本はなぜ「大東亜戦争」を起こしたのか。

1.世界恐慌の中で、全世界が大不況に追い込まれる中、日本だけが是清の「金輸出禁止」「日本銀行による国債の直接引き受け」という二つの方法でいち早く不況から脱出することができた。

2.日本には資源がないため、原油を購入するための「外貨」を獲得するため、紡績をはじめとする工業製品を輸出した。

3.欧米列強は自国経済を守るため、自国と自国植民地以外の地域からの輸入品に莫大な関税を課す「ブロック経済」政策を行った。

4.アメリカは、当時東アジアにおいて主導権を握ろうとする日本を脅威に感じた日本に対して、あらゆる資源の輸入を禁止する経済封鎖を「イギリス」「中国」「オランダ」と共に実施した。(ABCD包囲網)

5.それでも日本は戦争を回避するため、外交努力を続けたが、コーデル・ハル国務長官より突きつけられた「ハルノート」により、「植民地になるか、滅ぼされるか、どちらかを選べ」と突きつけられ、やむを得ず第二次世界大戦へと突き進んだ・・・

これが、いわゆる「ウォーギルト・インフォメーション・プログラム」の呪縛から解かれ、正しい日本の歴史に目覚めた・・・とされる人たちが主に主張する「正しい日本の歴史」です。

だけど、これは本当にそうなのか。
「歴史の見方」の一側面に過ぎないのではないか。是清が果たした役割は1番だけ。
この後、是清は暗殺され、「誰も国債の発行による軍事費の獲得」を止める人がいなくなったから日本は「彼の大戦」へと突き進んでいくわけです。
後段では、この疑問について、日本と中国との間で繰り広げられた、「十五年戦争」というキーワードに着目して記事を進めてみます。

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<前回の記事 第73回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか②

前回に引き続き、今回のテーマは

「前シリーズである「『右翼』と『左翼』」の中で、日本における「右翼」を追いかけていく中で生じた疑問。日本は本当に「やむを得ず」戦争に巻き込まれたのか。このことに対して沸き起こった疑問。」

これを解消することが目的です。

「大東亜戦争」の発端は米英との開戦(真珠湾攻撃)がその発端である、とはされているものの、それは米英との開戦がそうだっただけであり、この時すでに日本は中国(当時の『中華民国』)と戦争状態にあり、米英との開戦時の内閣である東条英機内閣は、「日中戦争も含めて大東亜戦争である」と閣議にて決定しているわけです。

日本が米英との開戦に至った経緯は「ブロック経済」→「ABCD包囲網」→「ハルノート」の経緯で説明できるかもしれません。
では、「中国」は? 例えば上記開戦に至った流れの中にある「ABCD包囲網」。ここには「C」、つまり「China(支那=中華民国)」が含まれているのです。

Aはアメリカ、Bはイギリス、Dはオランダ。1941年(昭和16年)12月8日、「米國(国)及英國(国)ニ對(対)スル宣戰(戦)ノ詔書(つまりは米英に対する宣戦布告)」によって対米英戦争が勃発した後、12日には「支那事変(日中戦争)」も大東亜戦争に含めることに閣議決定。そして翌年1月11日にオランダに対しても正式に宣戦布告が行われ、大東亜戦争とはすなわち「米英蘭蒋(蒋介石)」に対する戦争であることが決まったわけです。
見事、「ABCD包囲網」を構成する国々ですね。

では、そもそもなぜ日本は当時の中華民国と戦争状態に陥ったのか。当時の中華民国と米英、そして蘭はどのような関係性にあったのか。これが今回のシリーズで突き詰めたいと考えている内容です。

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<継承する記事 第74回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~『満州』の歴史~

一つ記事を飛ばしましたが、改めまして、シリーズ第二次世界大戦へと路線を戻します。

第74回の記事では、日露戦争以降の近代史において、たびたびその戦闘の舞台となる「満州」。
日本と中国がなぜ戦争状態に陥ったのか。ここを解明するために、この満州にポイントを絞って調査しました。

まとめますと、

・満州とは、漢人最後の王朝である「明国」を滅ぼし、中国最後の王朝である「清国」を打ち立てた民族、「女真族」が、健在で会った当時の明国より統治を任されていた地域のことである。
 「女真族」が清国を打ち立てた後、正式に「満州人」と名乗ったことに由来する。

・産業革命により圧倒的な武力を有するイギリスによりアヘン戦争・アロー戦争を仕掛けられ敗北し、不平等条約を結ばされることになる。
 同調して参戦したフランス、ロシアに対しても同様の条約を結ぶこととなり、ロシアに対しては満州北部における権益を認めることになる。

・清国は日清戦争でも敗北し、日本に対する補償を肩代わりしたロシアとの間で「密約」を結ぶことになる。
 この密約の中にがロシアが満州に軍隊を駐留させる根拠ともなっていた。

・ロシアの南下政策に脅威を覚えた日本はロシアに対して日露戦争を仕掛け、勝利。
 ポーツマス条約により、日本はロシアに対して、ロシアが清国から得た一切の権益と財産を日本に譲渡することを認めさせた。

と、ここまでが前回までの流れ。
日露戦争ではこの「満州」という地域が舞台となったわけですが、ではこの間。
自国領土であるはずの「満州」で日本とロシアが戦争を繰り広げている間。肝心の「清国」はいったい何をしていたのでしょうか。

これが、今回のテーマです。

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<前回の記事 第76回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか①~

前回の記事より、特に清国末期に時代をフォーカスし、日清・日露戦争前後の清国が、一体何をしていたのか。
このことについて検証をスタートしました。

前回掲載した年表のうち、アヘン戦争勃発後の年表をもう一度掲載してみます。

1842年 アヘン戦争終結。不平等条約「南京条約」締結
1851年 清国内で結成されたキリスト教集団「太平天国」により、「太平天国の乱」が勃発
1856年 アロー戦争勃発
1858年 ロシアとの間で不平等条約「アイグン条約」締結。ロシアに北満州を譲渡
1858年 英仏連合軍により広州が占領され、更に北上し天津が制圧される。英仏米露との間で「天津条約」が結ばれる。
1860年 アロー戦争終結。英仏との間で不平等条約である「北京条約」締結。清国内でのキリスト教の布教活動が自由化される。
1863年 太平天国の乱収束
1894年 日清戦争勃発
1895年 日清戦争終結。日本との間で(清国にとっての)不平等条約、「下関条約」が締結される。
1904年 日露戦争勃発
1905年 日露戦争終結。日露間で、ロシアにとっての不平等条約、「ポーツマス条約」が締結される。

前回の記事で掲載した「義和団の乱」。これが発生したのは1900年6月。翌年9月まで継続します。
時期的には、日露戦争が勃発する4年前~3年前に起きた事件ですね。

それではこの「義和団の乱(北清事変)」とは、一体いかなる過程の中で勃発したのでしょうか。今回の記事は、この「義和団の乱」にフォーカスして記事を作成したいと思います。

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<前回の記事 第77回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか②~

今回の記事は、前回に引き続き「義和団の乱」についての記事です。

前回の記事では、義和団の乱が発生する前提として、

・日清戦争敗北による賠償金を外債発行により賄ったこと。
・このことにより、清国の様々な地域が事実上植民地化されてしまったこと。
・ドイツが山東省を植民地化する前提として、山東省においてドイツ人宣教師殺害事件、カトリック教会襲撃事件が発生したこと。
・山東省で生まれた「義和団」が、袁世凱により弾圧され、義和団の乱が発生した北京とその周辺地域へと移動したこと。

という4つの前提をお示ししました。
また、第76回の記事でもお示した様に、義和団の乱が発生する前提の中に、キリスト教を布教しようとする欧州人の、地元の風習や慣習を無視した横暴なふるまいもありました。

このような前提の下発生したのが「義和団の乱」です。

ちなみに、清国が日本への賠償を外債で賄った、という話は、第74回の記事でも少し触れていますね。
この時は、ロシアが肩代わりしたと記しましたが、肩代わりした国はロシアだけではなかった、ということですね。

今回の記事は、ロシアが清国と結んだ「露清密約」。この密約が締結されたのは1896年6月なのですが、ロシアが満州に駐留するようになった経緯には、さらにその事後談があったようですので、ここにも触れておきたいと思います。


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<前回の記事 第78回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか③~

今回も引き続き「義和団の乱」について触れながら、義和団の乱後の社会情勢の変化にまで話題を進めていければと思います。

改めて、今回のシリーズの位置づけについて振り返っておきたいのですが、今回の記事は、第73回の記事においてお示しした、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)を起こした理由が、実は「きれいごとに過ぎないのではないか」という疑問。
これを解消するために作成しているシリーズです。

大東亜戦争において、日本が米英と戦争状態に突入する以前に、既に日本は中国(中華民国)との間で戦争状態にありました。
また、日本国内では、1936年に勃発した「2.26事件」の影響を受け、軍部が政治に介入する状態にあり、状況としては異常な状態でした。

このような異常な状態にあった日本国政府が引き起こした「大東亜戦争」は、本当に「やむを得ず起こした戦争」であったのか。
米英と開戦する前、なぜ日本は中国と戦争状態に陥ったのか。この二つの疑問を解消するため、まずは「日本と中国はなぜ戦争状態に陥ったのか」ということを解析することとしました。

次に「日本と中国はなぜ戦争状態に陥ったのか」という問題を解析する上において、頻繁にその舞台となる「満州」。では、そもそも「満州」とは何なのか。なぜこの地域で日中にロシアを交えた形での衝突が頻繁に起きるのか。このことを解析することにしました。

スタートした当初は大東亜戦争が発生する直前の満州について調査しようとしたのですが、どうもそれほど甘い話題ではないことに気づかされ、改めて「満州」そのものの歴史を調べることからスタートすることとしました。

詳細はカテゴリーをさかのぼっていただければと思うのですが、中国近代史への「キリスト教」の介入に原因の一つがあるのではないか、との仮説にたどり着き、その一つとして「義和団の乱」の経緯を調べているのが現段階です。

前回の記事では、義和団の乱の勃発~終結まで、その具体的な内容をお示ししました。
今回はさらに、その内容を検証し、深めていくことを目的としています。

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<継承する記事 第79回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか④~

今回は、いよいよ「辛亥革命」へとテーマを進めてみたいと思います。
辛亥革命についてまとめる前に、「義和団の乱」についても少しだけまとめてみたい思います。

第78回の記事で義和団の乱の主戦場となった「北京」の陥落までを、第79回の記事北清事変後に調印された北京議定書について触れたのですが、その間。北京が陥落してから北京議定書が調印されるまでの間のいきさつについて保管しておきます。

北京が陥落する直前、清の実権を握っていた西太后は、農民に扮して北京を逃げ出しています。
この時、幽閉していたはずの甥の光緒帝も連れ出し、西安にまで逃げ出しました。

逃走中、西太后はこれまでの姿勢を急転換し、義和団を「反乱軍」と認定し、これまでの義和団を支援する形から、突如弾圧する姿勢へと転換します。支持を受けたのが李鴻章という人物。

一方で「中華の物力を量りて、與国の歓心を結べ」という支持も出します。
私の地位を保証さえしてくれるのなら、金に糸目を付けず、連合国との和議を図れ、と。

このことで義和団は清国をも敵に回すことになります。
一方でドイツからは更に数万にも上る援軍が派遣され、義和団は一掃されることとなります。

この時に見せた西太后の裏切りは、清国の民衆に対して大きな失望感をもたらしました。
一方で北京議定書によって課せられた多額の賠償金の負担を清国民衆に対して強いることとなり、合わせて民衆の清朝に対する不信感は極限にまで増大します。そんな中、にわかに民衆より注目を浴びるようになったのが、革命家「孫文」でした。

彼は1894年、ハワイにて清朝打倒を目指す革命団体「興中会」を結成した後、たびたび武装蜂起を起こすのですが、これはことごとく失敗。ただ、彼のこのような活動が当時の中国国内にて「革命の機運」を醸造していくこととなります。

後段では、改めて辛亥革命までの経緯を復習し、少しだけ日本と欧州との関係についても触れておきたいと思います。
その後、辛亥革命の経緯について掲載します。

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<継承するの記事 第84回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか⑤~

消費増税に関連した記事を挟みましたので、シリーズ第二次世界大戦に関する記事はずいぶん久しぶりになります。

改めて、シリーズ第二次世界大戦を掲載している目的は、第73回の記事においてお示しした、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)を起こした理由が、実は「きれいごとに過ぎないのではないか」という疑問。
これを解消するためです。

第73回の記事においてお示しした内容で、日米・日英開戦については説明できるかもしれませんが、このときすでに日本と中国は戦争状態にあり、第73回の記事内容で、日中戦争のスタートまで、「美談」で語ることはできないんじゃないか、という理由です。

そこで、開戦前の近代史における日本と中国との関わり合いの中で、度々登場する「満州」という地域の歴史。これを追いかけて継承する記事の内容にまでたどり着きました。

5回に渡る記事で、「満州人」が興した「清国」。この国が崩壊するまでの過程を追いかけました。
前回の記事では、中国の「武昌」という地域で、兵士たちによって引き起こされた武装蜂起によって占領された武漢市武昌区。
ここで設立宣言がなされた「中華民国軍政府鄂軍都督府」。

この武装ほう起をきっかけに、中国18省中15省が清朝からの独立を宣言したこと。

そして武昌蜂起の鎮圧に向かった「袁世凱」が清朝を裏切り、裏で革命政府と交渉し、清朝と革命政府が停戦。
亡命生活から戻ってきた孫文が中華民国の初代臨時大統領として就任し、「中華民国」の設立を宣言。

袁世凱は裏から手を回し、清朝のラストエンペラー宣統帝を退位させ、この時点で清朝は滅亡。
孫文は大統領の座を袁世凱に譲ります。ここに、2000年もの間続いた中国の「帝政」は終焉をむかえたと、ここまでお伝えしました。

今回の記事では、辛亥革命の後、大統領の座に就いた「袁世凱」。彼の動向に着目して記事を作成したいと思います。

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<継承する記事 第95回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~辛亥革命後の中国~

このシリーズを続けている目的は、第二次世界大戦が勃発する以前に、なぜ日本と中国は戦争状態に至ったのか。
これを解明することが一つの目的です。

中国の日本に対する「反日感情」。
ですが、袁世凱が設立した「中華帝国」が生み出されるまでの過程において、比較的日本と中国の関係は良好で、特に中国からは様々な要人たちが亡命先として日本を選んだり、中国人と日本人が協力して団体を立ち上げたり、日本人が中国人に対して勉強を教えたりと、どうも対立する様子が見当たらないように感じます。

日清戦争や義和団の乱などで、確かに時折対立する構図も時々見かけはするものの、中国は日本に対して、「学ぶ」という姿勢を貫いているように見えます。ですが、そんな中国において、初めて「反日感情」なる文言を目にしたのが、タイトルにもある「対華21ヶ条要求」です。

【加藤高明外務大臣:Wikiより】
加藤高明

第95回の記事では、「対華21か条の要求」について、以下のように掲載しています。
1914年7月に発生したのが第一次世界大戦。大戦に参戦した日本は、中国国内、膠州湾岸のドイツ領を占拠。

袁世凱はこのタイミングで日本に対して日本が占領したドイツ領膠州湾岸を返還するよう求めるのですが、受け入れられず、逆に日本から「対華21か条要求」を突きつけられます。(このあたりは後日記事にて深めたいと思います)
袁世凱は拒否することができず、「対華21か条要求」は成立。

このように記すと、あたかも日本が強硬的に中国に対して要求を突き付け、ドイツ領膠州湾岸の返還を拒絶したかのように受け止められるかもしれませんが、実際には、日本がこれを拒否し、代わりに「対華21か条要求」を中国に突きつけるに至ったのにには、相応の理由があります。

【本日のテーマ】
本日は、日本が中国に対して「対華21か条」を突きつけるに至った経緯と、その過程において生まれた、日本と中国との間における「軋轢」について記事にしてみたいと思います。

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<前回の記事 第106回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~日本と中華民国との軋轢(対華21ヶ条要求)~

前回の記事では、辛亥革命後の中国において建国された「中華民国」で、二代目の大統領となった袁世凱が仕立て上げた自作自演劇、「対華21か条要求」についてご説明いたしました。

まとめますと、
・日本はイギリスからの要請に応じ、第一次世界大戦に参戦した。

・宣戦布告を行った相手はドイツであり、ドイツが占領していた膠州湾岸(青島)を中国に返還することを前提条件として日本に引き渡すよう要求した。

・中国は一方的に戦地を限定してきたが、日本もドイツも中国が指定していない地域で戦闘行為を行ったため、これを理由として、日本がドイツから取り返した領土を中国に返還するよう要求してきた。

・第一次世界大戦はまだ集結しておらず、日本はイギリスからの要請に応じてドイツに宣戦布告した以上、第一次大戦が終結し、講和条約が締結されるまで返還を待つよう中国に伝えた。

・中国(袁世凱)はドイツと結んだ条約で、膠州湾岸は中国以外の国には譲渡しないことを約束していたことを理由に、膠州湾岸を日本の管理下には置かず、速やかに中国に返還するよう迫ってきた。

・中国(袁世凱)の言いなりになって中国に膠州湾岸を返還すると、中国から賠償請求をされる危険性が生まれたため、当時の大隈重信内閣は中国に「14か条の要求」と「7か条の希望」を提示し、中国を交渉のテーブルに上げようとした。

・ところが、中国(袁世凱)は日本を信頼していないアメリカとドイツの二カ国を巻き込んで国内、国外の世論の反日感情を煽った。

・袁世凱は、最終的に日本から「最後通牒」を突きつけるよう依頼し、日本からの要求を「しぶしぶ承諾した」様に演出した。

・対華21か条要求が締結された直に、袁世凱は「日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処す」という内容の「懲弁国賊条例」という法律を公布し、締結した直後に対華21か条要求を破った。

と、こんな流れです。

ちなみに、日本が対華21か条要求の最終通告が行われた日は1915年5月7日、袁世凱がこれを受け入れた日が5月9日です。
袁世凱は、この時、中国の内外に対して日本の横暴である、と喧伝し、中国国民の団結を訴えました。
そして、中国国民は中国が対華21か条要求を飲んだ5月9日を「国恥記念日」と呼んだのだそうですよ。

記念日・・・ですか。まあ、何も言いますまい。

【本日のテーマ】

【五四運動(天安門広場にて:Wikiより)】
五四運動

さて。この「対華21か条要求」によって高められた反日感情。今回の記事では、この「反日感情」が元となって中国で巻き起こった「五四運動」に着目して記事を進めてみたいと思います。

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<継承する記事 第107回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~五四運動(中国人の反日感情)~

第107回の記事では、中国人の中に芽生えた「反日感情」に着目し、権力欲に取りつかれた袁世凱が、自作自演の「対華21か条要求」を締結するまでの流れの中で、「虚偽」と「偏向」情報により、中国国内と日本のことを快くは思っていなかったアメリカとドイツの「国内世論」を利用して反日感情を煽りまくり、彼の死後に結ばれた第一次世界大戦後の講和条約、「ヴェルサイユ条約」。

ここに中国側の要望が一切認められなかった・・・ということで中国国民の「反日感情」が爆発した、ここまでの経緯をご説明しました。
ただ・・・誤解なきように。当時の世情から考えて、日本が何か特別妙なことをしたとか、そういうわけではありません。
袁世凱が「帝位」という権力欲に取りつかれ、ドイツを巻き込んで日米関係をかき乱した結果、ねつ造された中国国内の「世論」が暴発しただけのことにすぎません。(詳細は第107回記事をご参照ください)

【軍閥政治時代の中国】
軍閥政治時代の中国
「軍閥政治」とは、袁世凱の没後1916年~1925年にかけて、中国国内で繰り広げられた、北の北洋軍閥中心の北京政府南の孫文の革命派との間の長期にわたる内戦時代のことを言うのだそうです。

【今回のテーマ】
今回の記事では、第107回の記事を補完する形で、袁世凱の死後、中国(中華民国)が突入した「軍閥政治」。
では、どのような経緯で中国がこの「軍閥政治」に突入したのか。軍閥政治~五四運動勃発までの流れを記事にしたいと思います。

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<前回の記事 第118回 公的年金収支状況の推移~厚生年金・国民年金の収支状況を検証します~
<継承する記事 第113回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~袁世凱没後の中国(軍閥政治~第一次世界大戦参戦までの流れ)

とびとびになっておりますが、シリーズ第二次世界大戦の続きです。

前回の記事では、中国の「反日感情」の現況を生み出した袁世凱。彼の死後、中国の第一次世界大戦参戦までの流れを記事にしました。

国務総理段祺瑞と大統領である黎元洪との対立。
第一次世界大戦への参戦をめぐる流れの中で、なんと「清朝」が一瞬とはいえ復活していたという衝撃の事実。

この事件の責任を取る形で黎元洪は大統領座から失脚。
続いて大統領となったのが段祺瑞と同じ軍閥出身者である馮国璋。段と黎との対立の元凶ともなった、当時の中華民国の「憲法」にも相当する「約法」。

黎が採用した孫文の制定した臨時約法を廃止し、国会を解散したうえで新政府を樹立した段と馮。
ここに至ってついに姿を現したのが「孫文」であるというところまで前回の記事ではお示ししました。

【今回の記事】

段きすい
【段祺瑞:Wikiより】

今回の記事では、孫文が馮&段の新政府に対抗して組織した「広東軍政府」。
これへの対応をめぐって新たに勃発した馮と段の対立。

北洋政府と広東軍政府の対立、そしてその終結までの流れを記事にしたいと思います。

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<継承する記事 第119回 北洋政府V.S.広東軍政府(国民政府):護法戦争~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

第119回の記事の続きです。第119回の記事では、中国国民に「反日感情」の現況を植え付けた袁世凱亡き後の中国が突入した「軍閥時代」。

北洋政府と広東軍政府との争い(護法戦争)において、特に「北洋政府」側から見た護法戦争の経緯を、またさらに北洋政府内部で勃発した段祺瑞と馮国璋との争いに焦点を置いて記事を作成しました。

【北京政府の国旗:Wikiより】
北京政府国旗

【本日のテーマ】

本日は、護法戦争の経緯を、今度は広東軍政府側から、特に「孫文」という人物にフォーカスし、護法戦争から五四運動にかかる流れ、中国共産党の設立・孫文の中国国民党との連携にまで至る流れを記事にしたいと思います。

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<前回の記事 第121回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~中国近代史における孫文の役割-中国共産党の誕生~

前回の記事では、孫文の設立した「広東軍政府」。第119回の記事では、袁世凱没後の中国政府を、正式に継承した北洋政府側から見てみましたが、前回の記事では、同じ時代の中国を、孫文の設立した「広東軍政府」側から見てみました。

【中華民国の地図:Wikiより】
中華民国の地図

【今回の記事のテーマ】
前回の記事では、今回の記事において五四運動後の北洋政府や中国共産党設立に至る経緯等をお伝えすることをお約束していましたが、実際私も一連の経緯を整理しきれていない部分も
ございますので、改めて、辛亥革命から五四運動勃発までの経緯を、「年表」でまとめてみたいと思います。

年表を参考に、気になる部分を改めて振り返るつもりでシリーズ第二次世界大戦 記事をご参照いただければ、幸いです。

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<継承する記事>第122回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~辛亥革命後の中国の近代史年表~

袁世凱亡き後の中国(中華民国)は、中央の統制が失われた、「軍閥時代」と呼ばれる時代に突入する・・・。

ただでさえややこしい中国の歴史が、特にこの時代、本当にややこしい状況に陥りましたね。

まとめますと、袁世凱亡き後の中国を「大統領」として引き継いだのは「黎元江」という人物だったわけですが、同じ時代、副大統領を務めたのが「馮国璋」。国務総理を務めたのが「段祺瑞」。

軍閥時代はまず、黎元江と段祺瑞の対立からスタートします。
中華民国の「憲法」に相当する「約法」の取り扱い方と第一次世界大戦への参戦をめぐって両者は対立し、最終的には黎元江の辞任によって二人の対立は幕を閉じます。

この後、大統領の座を引き継いだのが馮国璋。段祺瑞は「国務総理」の立場で再び国政を担います。
馮政権下の段祺瑞内閣の誕生に反発して孫文が広州市に「広東軍政府」を設立。

「北洋政府」V.S.「広東軍政府」という構造が出来上がります。
ところが、同じ北洋政府内でも広東軍政府へ対処方法をめぐり、「馮国璋」V.S.「段祺瑞」という対立構造が出来上がります。
一方、広東軍政府の中でも広東軍政府を設立した孫文自身が、自分を信頼して広東軍政府の設立に協力したはずの「広西省」の派閥に対してクーデターを起こします。

広東軍政府が北洋政府に敗北した後、孫文は広東軍政府を去り、北洋政府内部でも段祺瑞が様々な策略を巡らせたあと、段・馮がともに失脚。

北洋政府は徐世昌が、広東軍政府は陳烔明がそれぞれ政権をにないます。
この時点で馮率いる直隷派と、段率いる安徽派の対立が決定的になります。(1918年10月)

下野した段祺瑞は、徐樹錚(じょじゅそう)という人物を通じて政権内に影響力を発揮し続け、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」についても締結するように画策するのですが、結局政府はヴェルサイユ条約の締結を拒否(1919年6月)。

段・徐ら安徽派はこのことで完全に信頼を失い、これまで安徽派と協力してきた「張作霖」率いる「奉天派」は安徽派と袂を分かちます。

【前回までの振り返り】
第121回の記事では、この後、1920年8月、陳烔明が事態を平定した広東軍政府に孫文が帰還し、「中華民国の正式な政府は北洋政府ではなく、自分たち広東軍政府である。広東軍政府こそが、正式な中華民国政府である」ということを非常国会にて勝手に決議し、自身が大統領として選出されたことをお伝えしました。

その後、勢い、北洋政府に向けて攻め上がる(北伐)のですが、孫文が戻ってくるまで広東軍政府で実権を担っていた陳烔明はこのことを快く思わず、孫文に対して下野することを進言。

孫文はこれを「離反」だとして広州に帰還するのですが、陳烔明から返り討ちに会い、広州を脱出。
その後、「雲南派」「新広西派」の協力を得て陳勢力を撃破。

コミンテルンの協力を得て、広州に帰還。「広州軍政府大元帥」として返り咲きます。

翌年(1924年)、中国共産党と北洋政府に対して共同戦線を張ることを約束しするのですが、更にその翌年、彼はガンに侵され、病没。前回の記事では、ここまでお伝えしました。

晩年の孫文
【晩年の孫文:Wikiより】

【本日のテーマ】
本日は、同じ時期、今度は「北洋政府」にスポットを当て、五四運動後の北洋政府の動向、そして「中国共産党」誕生に至る流れまで記事にできればと思います。

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<前回の記事>
第124回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~五四運動以降の中国(北洋政府)~

【前回までの振り返り】
清朝を滅ぼし、2000年以上にわたる中国の「帝政」に終止符を打った辛亥革命

辛亥革命後の中国(中華民国)で政権の中心に座ったのが袁世凱なのですが、彼は第一次世界大戦における日本への対応をめぐって、中国国民の中に「反日感情」を植え付けた挙句、自身の政権運営が中国国民の反発を買い、政権の座から脱落します。

袁世凱の後をついで「黎元江」が中華民国の大統領となります。
黎元江政権の下で副大統領となったのが「馮国璋」、国務総理となったのが「段祺瑞」なのですが、中華民国の「憲法」に当たる「約法」の取り扱い方、第一次世界大戦への参戦を巡って黎元江と段祺瑞が対立

最終的にクーデータを起こした張勲の「張勲復辟」の鎮圧をめぐって黎元江は下野。
変わって馮国璋が大統領となります。(段祺瑞はそのまま国務総理の座に残ります。)

これに待ったをかけたのが孫文。彼は自身が考えた「中華民国臨時約法」の扱い方を巡って反発し、段と馮に国会の座を追われた議員と共に「広東軍政府」を設立。段&馮の北京政府に向かって戦争(護法戦争)を仕掛けます。

ところが、孫文は自身で広東軍政府を設立しておきながら、同時に広東軍政府に対してクーデターを起こします。
また、広東軍より戦争を仕掛けられた北洋政府内でも広東軍への対応をめぐって段と馮の間で対立が起こります。

護法戦争の終結後、孫文は広東軍政府を追われ、段と馮は下野。
第一次世界大戦が終結し、大戦の講和条約をめぐって、中国国民の不満が噴出し、「五四運動」が勃発。

五四運動以降の中国の動きを、第121回の記事では広東軍政府(孫文)側から、第124回の記事では北洋政府側から検証し、記事にしました。

【本日のテーマ】

五四事件

今回の記事では、この様な北洋政府と広東軍政府の対立の陰で動き始めていた民衆たちの「マルクス主義」への傾倒。ロシア革命の勃発による衝撃から中国国内に、醸造されつつあった『世論』。

袁世凱が醸造した『反日感情』に突き動かされるように、知識人や学生たちが中心となって設立した「中国共産党」。
その設立に至る過程を中心に記事を作成したいと思います。

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<継承する記事>
第125回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~中国共産党の結成~

第121回の記事では広東軍政府(孫文)側から見た五四運動後の中国を、第124回の記事では北洋政府側から見た五四運動の後の中国を、第125回の記事では、「中国共産党」の成立を、振り返ってみました。

袁世凱亡き後の中国において、長らく続いた「軍閥時代」も、馮玉祥の起こしたクーデター「北京政変」と、孫文の北京入城、そして死去に伴い、少しずつ落ち着きを取り戻しつつありました。
この後、馮玉祥が張作霖を相手に再びクーデターを起こし、北洋政府の人員が大量に命を失っていく中で、ソビエト共産党の支援を受け、着々とその体制を整え、軍備を拡張していた人物が「蒋介石」。本日の記事の中心となる人物です。

【本日の記事】
蒋介石
【蒋介石:Wikiより】

今回の記事では、孫文亡き後の中国において中心となっていく一人の人物、「蒋介石」にスポットを当て、清朝末期に誕生した彼が、どのようにして孫文と出会い、後の中国社会の中心となって活躍することになるのか。

時代をさかのぼって、清朝末期より振り返りながら蒋介石のエピソードをご紹介できればと思います。

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事>
第127回 蒋介石という人物(前編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

前回の記事では、時代を清朝末期まで振り返り、孫文亡き後の中国で、時代の中心人物となる一人の人物「蒋介石(しょうかいせき)」にスポットを当て、蒋介石の人生に大きな影響を与える人物、「陳其美(ちんきび)」との出会いとその後の活動を追いかけながら、ただ実直に、自分が尊敬し、信頼する人のために行動した「蒋介石」が、本人の意向に関わらず、次第に政治の中心へその身を置いていくことになる様子を、「前編」としてご紹介しました。

蒋介石-2
【蒋介石:Wikiより】

【本日のテーマ】
本日の記事では、第127回記事 の続編として、再び中国へと戻った蒋介石のトピックスと義兄弟陳其美の死。

その後孫文からの絶対の信頼を手にした蒋介石のエピソードを、改めて孫文について記した第121回記事 と対比させる形で記していきたいと思います。

この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果

北伐蒋介石孫文広東軍政府中国国民党中国共産党
<継承する記事>
第130回 蒋介石という人物(後編)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~

それにしても、袁世凱没後の中国って本当にややこしいですね。

前回の記事では、特に第121回の記事と対比させる形で、清朝崩壊後の中国を第121回の記事では孫文の視点から、前回の記事では蒋介石の視点から追いかけてみました。

孫文の視点から見ただけではわからなかった部分が、蒋介石の視点も交えて見ることで、少しずつ風通しがよくなってきた気がします。

また、第124回の記事では、同じ時代とりわけ五四運動以降の中国を、北京政府(北洋政府)側の視点から、追いかけ、最終的に孫文の歴史と北洋政府の歴史が繋がる場面まで掲載しました。

また、第125回の記事では、五四運動がきっかけとなり中国に誕生した中国共産党について掲載しました。

まるでパラレルワールドの様にして展開してきたこれらの歴史が、いよいよ一つにつながる場面まで到達しました。

【国民革命軍を率いる蒋介石:Wikiより】
国民革命軍を率いる蒋介石

【本日のテーマ】
ソ連による影響力がとても大きくなる状況の中で開催された『中国国民党第1回全国代表大会(党大会)』。

「革命」という思想に憑りつかれて中々冷静な判断ができない孫文に対して、時に反発し、政治や軍事の場面から頻繁にフェイドアウトする蒋介石ですが、共産党の勢力が浸透しつつある中国国民党の中で、彼は『黄埔軍官学校』の校長として就任し、その生徒たちとも絶対の信頼関係を築くことになります。

ですが、孫文からどれほどの信頼を得ているとは言っても、彼の立場はまだまだ政治の舞台の中心として活躍できるほどの地位にはありませんでした。

特に孫文亡き後の中国において、一体蒋介石がどのようにして政権の中心にまでのぼりつめ、果ては中国統一を成し遂げるほどの実力者となりえたのか。
今回の記事では、そんな蒋介石のたどった軌跡を追いかけてみます。

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